三十七
客来一味(上巻119頁)
明治二十(1887)年、麻布鳥居坂の井上侯爵邸で天覧劇があったときのことである。井上侯爵は自邸に天皇陛下をお招きする光栄に際し各部屋ごとに最高の飾りつけをしたが、なかでも玉座の置かれる書院の床の間に東山御物(注・室町幕府の将軍とくに八代義正が収集した絵画や茶器などの宝物)の牧谿(注・13世紀中国の水墨画家)作「客来一味」の対幅を掛けた。
明治天皇は、とくにこの幅に目を留められ非常にお気に召したご様子なので、井上侯爵はこの二幅のうちの一幅を献上し、一幅は自分の家に置いておきたい旨を奏上すると、さっそく、それでよいということになった。天覧劇が終わり夜もふけたころ、お帰りの際にさきほどの幅を宮中にお持ち帰りになったとのことだった。
さて、この牧谿の手になる「客来一味」というのは、淡い墨で蕪を描いた作品である。貧乏な寺に客が来た時になにもごちそうするものがないので、裏の畑でとれた蕪だけで間に合わせる、というはなしにちなんで名付けられたのである。その図柄に味わい深い趣があるため、日本においても、これにならうものは多く、元信、雪舟、探幽などにも同じ画題のものがある。この牧谿の作は東山御物のなかでも有名なもののひとつだが、維新のあとに、ある大名から売りに出されたときに二幅が分かれて、一幅が井上侯爵の、もう一方は神戸の川崎正蔵氏の所蔵するところとなった。しかし井上侯爵が、もともと二幅の対なのだから、ぜひともその一幅を自分に譲るようにと、川崎氏からほとんど強制(原文「徴発」)的に取り上げた品だったのである。
さて、天覧劇から五、六か月たって、井上侯爵が家に残っているはずの客来一味の幅を取り出そうとしたところ、どこにあるのかわからず、よくよく調べてみると明治天皇がお帰りの際に二幅ともお持ち帰りになったということがわかった。
その後侯爵は、参内のついでにこのことを申し上げ、あの掛物は、一幅を宮中に献上し、もう一幅は自分の家に残すはずでしたので、どちらかの一幅をお渡しいただきたいと願い出た。すると陛下は、なにか思われたようで、声を立てて笑われ、せっかく持ち帰ったので二幅とも手元に置いておこう、と仰せになったため、そのまま宮中にとどまることになった。
さて一方、この話をもれきいた神戸の川崎正蔵翁は、手をたたき鳴らして、おおいに喜び、井上侯が拙者より取り上げたる幅を、今度は宮中に召し上げられたそうだから、これで拙者も大満足なり、と言われたそうだ。
その後、皇后大夫の杉孫七郎子爵が皇后陛下に、そのことをよもやまばなしとしてお話ししたのであるが、杉子爵のことであるから、掛物献上の経緯を、ありのままに、おもしろおかしくお耳にいれたのである。すると皇后陛下はこれを興味深くおききになり非常に気の毒がられ、さいわい手元に弘法大師筆の不動尊の一軸があるので、これを井上にやってください、と仰せられたので、杉子爵はありがたくお受けしさっそく井上侯爵に伝えた。
この不動尊は弘法大師の直筆で、承和二年年於清涼殿画之という落款がある。(注・承和二年は西暦835年)。幅が一尺(注・一尺は約30センチ)、長さが三尺ほどの小ぶりな幅ではあるが、長く醍醐寺に伝わったものが宮中に献納されたものだったので、侯爵は皇后陛下の厚いご慈悲に感激し、その喜びもただごとではなかった。そしてこの不動尊を掛けるたびに、かならずこの経緯を物語られたので、井上侯爵と親しく交際した人のなかで、この話を一度二度聞かなかった人はいなかったであろう。
鳥差瓢箪(上巻121頁)
井上侯爵の茶道具の話のついでに、もうひとつのエピソードを話しておこう。侯爵は生まれながらの道具好きとみえ、明治二(1869)年に長崎判事として九州に赴いたとき、福岡で、祥瑞沓形向付五人前をわずか数円で手に入れたのをはじめとして、名品を見つけるたびに買い集めたので、やがて蔵品豊富な大収集家になられたのである。
明治十四(1881)年ごろ、侯爵は外務大臣として、外務省の権大書記官公信局長だった中上川彦次郎氏をともない関西に出張した。大阪の旅館に一泊し、地元の道具屋(注・古美術商)が持ってきた染付鳥差瓢箪という形物香合を侯爵が喜んで買い取っているのを中上川氏が横でながめながら、そんなものに大金を投じて、なんとなさる思し召しか、私ならば糊入れ壺にでもするほかありません、と言われたので、井上侯爵は大声で笑い、君のような書生坊にかかっては、名器も三文の値打ちもない、といって、ちょうど訪問した藤田伝三郎氏にこのことを語り、「縁なき衆生は度し難いね(注・仏の慈悲があっても仏縁のないものは救えないことから、忠告に耳を貸さない者はしょうがない、の意)」と、その話をして笑ったとのことだ。
しかし中上川氏は晩年、腎臓病にかかり、引きこもりがちになったとき、僕もすこし骨董いじりを覚えていたら、これほど無聊(注・退屈)を感ずることもなかったろうにと、時々口にされることがあったので、私はいつもこの例を出して、友人に趣味を持つようにと勧めることもあったのである。
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