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三十六 井上邸の天覧劇(上巻115頁)

  私は、明治十八(1885)年から、なにかのきっかけで演劇改良論を唱えるようになり、このときちょうどイギリス帰りの末松謙澄氏【のち子爵も同じ意見を持っていたので、私が以前から懇意にしていた先代の守田勘彌を通じて、そのことを市川団十郎(注・九代目)や、そのほかの俳優に伝えることになった。また芝居を改良するにはまず役者の地位を向上させなければならないということを末松氏が伊藤博文公爵に吹き込んだので、政府の高官のなかでとくに十郎をひいきにしておられた井上馨侯爵がこの機運を察して、明治二十(1887)年四月二十六日、鳥居坂の井上新邸に、明治天皇、皇后(注・のちの昭憲皇太后)、皇太后(注・英照皇太后)の三陛下の行幸を願いたてまつり、天覧劇を開催する運びとなったのである。私は一新聞記者であるから、もちろんこれに関与したわけではないが、当時のこのさなかに人一倍内情を聞き知る機会があったので、のちのちの参考にその大要だけを記しておこうと思う。
 井上伯爵が三陛下の臨幸をあおぎ、演劇(注・当時演劇といえば歌舞伎のこと)を天覧に供することが決まると、庭前の芝生に杉の皮葺きで間口七間(注・一間は約180センチ)、花道三間の舞台を作り、舞台から白洲をへだてて五、六間のところに青竹の手すりで囲んだ玉座を設け、背後には金屏風をたてまわした。

 天覧芝居は芝居の世界では前代未聞のことで、まことに畏れ多いことなので、末松氏は、まず出し物の脚本を選び、その中の文言を検閲し、勧進帳からは「御名を聖武天皇と申し奉る」という一節を削除したり、「固より勧進帳のあらばこそ」の語格が違うというので「あらばこそ」を「あらざれば」と修正したり、芳村伊十郎が勧進帳を語る時に「平家蟹」のような顔つきをして唄っては失礼になるから気をつけるようにせよ、などと猛烈な注意(原文「小言」)を連発して一同をふるえあがらせた。
  その日の時間は、午後三時から五時までで、番組、主役はのとおりである。

第一、勧進帳…≪富樫≫左団次【先代】 (注・初代市川左団次、団菊左の)
      ≪太刀持≫ぼたん【今の左団次】
      ≪義経≫】福助【今の歌右衛門】(注・5代目中村歌右衛門、戦後の名女形6代目の父)
      ≪四天王≫【亀井】金太郎【今の幸四郎】(注・7代目松本幸四郎)
      ≪弁慶≫
十郎【九代目】  
(注・9代目市川団十郎、団菊左の)

第二、高時…≪高時≫団十郎     
      ≪城之助入道≫左団次
      ≪長崎高貞≫松助【故人】  (注・4代目尾上松助)
      ≪大佛陸奥守≫菊五郎【先代】(注・5代目尾上菊五郎、団菊左の)
      ≪衣笠≫福助       (注・中村福助、のち2代目中村梅玉)

第三、操三番叟…≪翁≫芝翫【故人】 (注・4代目中村芝翫)
      ≪千歳≫家橘【今の羽左衛門の父】(注・14代市村羽左衛門、初代坂東家橘)
      ≪三番叟≫菊五郎
      ≪後見≫鶴蔵【故人】 (注・中村つるぞう?)
 

第四、漁師月見…≪漁師浪七≫十郎
       ≪こち≫升蔵【故人】 (注・市川升蔵)
       ≪ふぐ≫小団次【故人】(注・5代目市川小団次)

第五、元禄踊…≪立髪の侍≫家橘
      ≪投頭巾男≫小団次
      ≪頭巾冠職人≫松助
      ≪墨衣鉦叩坊主≫鶴蔵
      ≪茶筅売≫門蔵【故人】(注・不詳)
      ≪元禄娘島田≫福助
      ≪同≫金太郎
      ≪武家の妻≫秀調【先代】 (注・2代目坂東しゅうちょう)


このほかに、長唄連中がいた。

 さて天皇陛下は午後一時半ごろ鳥居坂臨幸になり、二十分に最初の勧進帳が始まった。ところが左団次の富樫が、ふだんの名調子とは似つかずなんとなく震えているようなので、番卒たちまでが緊張で動けなくなってしまい、守田勘彌みずからが燕尾服姿で揚幕を開けたというようなかなり滑稽な場面もあった。
 さて玉座の左右には、各宮殿下をはじめ伊藤、松方、山県、大山、榎本などの各大臣が大礼服を着て居並び、庭前の新緑と向き合って荘厳な雰囲気になっていた。

 この日は十郎でさえもがぶるぶると震えて、弁慶の大見得を切るときもなんとなく打ち沈んで見えたということだ。

 このとき二十三歳で義経の役をつとめた今の歌右衛門(注・五代目中村歌右衛門)に当時の模様を尋ねてみたところ、次のように語ってくれた。
 「私は第一の勧進帳で義経をつとめ、第二の高時で衣笠をつとめましたが、聖上陛下には、始終ご熱心に覧遊ばされ、最後の元禄踊が終わって、晩餐の際、『近頃珍しいものを見た』とのお言葉があったと洩れ承って、楽屋一同雀躍してよろこびましたが、団十郎のごときは、感極まってうれし泣きに泣いておりました。それから晩餐後、お好みとあって、山姥と曽我を叡覧(注・天子がご覧になること)にいれましたが、山姥は十郎、曽我は十郎を菊五郎、五郎を左団次、虎御前を私というような役回りで、終演後、俳優一同舞台に起立して、最敬礼を行いましたとき、陛下にはかしこくも挙手の礼を賜りました。それより二十七日は、皇后陛下の行啓があって、第一、寺子屋、第二、伊勢三郎、第三土蜘蛛(原文「土蜘」)を出、番外お好みとして元禄踊と、団十郎の忠信に、私の静で吉野山を上演いたしました。二十八日は各国大公使、内外の大官貴顕紳士方であり、二十九日は英照皇太后陛下の行啓があって、これは第一、勧進帳、第二、靱猿、第三、忠臣蔵三段目、第四、同四段目、第五、吉野落、第六、六歌仙という数々の番組を上演しましたが、この天覧劇に出演の光栄を得ましたのは、私の一世一代の光栄と思っております、云々

 以上のように、芝居の天覧というのはこれがまったく初めてのことで、その後も今日にいたるまで再び行われるにいたっていないのである。
 英照皇太后陛下は能楽がお好きであらせられたので、十郎が演じた勧進帳をご覧になったとき、その問答が喧嘩のようだと仰せられたそうである。能の安宅に比べてごらんになったとすれば、そのようにお感じになったかもしれない。
 とにかく、このことがあってから俳優の地位が一段向上したのであり、これは明治帝の御代における盛大な催しであったといえるだろう。


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