三十五
壮時の伊藤公(上巻112頁)
私が時事新報に勤務していた明治十八(1885)年ごろ同僚の津田興二氏と連れ立って、当時イギリス帰りの新知識人(原文「新人」)だった末松謙澄氏を、同氏が滞在していた伊藤博文伯爵【のち公爵】の官邸に訪問した。
われわれが末松氏と時事問題について議論しているとき伊藤伯爵が隣室からひょっこり現れて、俺も仲間に入れてくれ、と言われた。ちょうど私たちが末松氏と論争中だった、日本に公侯伯子男の階級を設けるのは時代錯誤ではないか、という問題について伊藤伯爵は、日本の皇室を守護するためには、どうしても爵位の必要があると力説した。戦国時代であれば、その功労者に一国一城を与えるなどの論功行賞があったが、今はそういう時代ではないので、なおのこと爵位が重要なのであると、年下でまだ駆け出しの新聞記者をつかまえて激しく論駁されたのである。
そのときには伊藤巳代治氏【のち伯爵】も議論に加わったのでますます賑やかになり、伊藤伯爵は酒もはいって上機嫌になり、もっと別の難題はないのか、などとさかんに雄弁をふるいたいようすを見せた。そこで私たちも礼儀をわきまえない野人ぶりを発揮して、さらに露骨に議論をふっかけた。末松氏が、なにか失言でもしないかとはらはらしているようだったので、私たちもこのあたりでやめにしようと退出したのだった。当時の伊藤伯爵はこのように元気はつらつで、
豪気堂々横大空 日東誰使帝威隆
高楼傾尽三杯酒 天下英雄在眼中
という傑作のなかにある抱負が、実際の言論にも現れていた。後年私が出会った日本の政論家のなかには、当時の伯爵ほどきびきびした雄弁家を見かけないように思う。
著書の出版(上巻113頁)
私は明治十七(1884)年から十九年にかけて、「日本人種改良論」と「拝金宗」正続編とを刊行した。「日本人種改良論」を執筆した動機は、井上外務卿が条約改正に先立ち、しきりに欧化主義を訴えた時勢に感化されたからだった。日本人が一気に欧米人と肩を並べるためには、まず日本人の小柄な体格を改良すること、もっと進んで、日本人は欧米人と結婚して根本的に人種を改良すべきだ、という突拍子もない論説だった。
また「拝金宗」は、明治十七(1884)年ごろから福澤先生が実業論をさかんに唱え、士族根性を実業主義に転換させよう、という論説を唱え私が代筆したので、自分でも一冊の書物として出版することにしたのである。
金宗というのは、アメリカ人のいう「オールマイティ・ダラー(注・原文ではドルラル。全能のドルという意味)」という言葉を、私が翻訳したものだ。この本では、河鍋暁斎という北斎風の絵を上手に描く画家に表紙の挿画を依頼し、釈迦と孔子とキリストを十字架の上に縛りつけた一方で、後光の射す金貨をひとびとが拝むという漫画で、内容もとても挑発的で奇抜なアイデアだったので、この本は上下二冊で数千部の発行部数となった。のちに司法大臣になった横田千之助氏なども少年時代に郷里でこれを読んでおおいに発奮したと、私に直接話してくれたものだ。
ところで「日本人種改良論」に対しては、当時の帝国大学総長だった加藤弘之博士が、ある雑誌で堂々と反論されたので、私は時事新報紙上でこれに対抗したが、そのとき福澤先生は、相手がおもしろいから、きちんとやるがいい、なんでも議論というものは最後まで対陣して、最後に自分のほうで書いて終わらせなければならない、と応援してくれたものだった。福澤先生の論争はいつもこのやり方だったようで、かならず相手を降参させなければ気が済まないというようすだった。
河鍋暁斎(上巻114頁)
河鍋暁斎の話が出たから、ついでに、彼のことを記しておく。私が彼に出会ったのは明治十七(1884)年ごろで、そのころ日本橋本町で岐阜出身の原亮三郎という教科書出版業者が、金港堂という、当時、第一級の書店を開いていた。私はある日、市外龍泉寺村にある彼の別荘に招かれたことがあった。そのときの余興に、河鍋暁斎が席画(注・即席で客の注文の絵を描く芸)をやったのだが、彼は六十前後で、でっぷりと太って頑丈そうな骨格の持ち主で、職人風の粗野なところがあり、すさまじい酒豪だった。そして席画の上手なのには驚かされるばかりだった。私たちに紙になにかひと筆、墨でかかせ、それを花にしたり、ねずみにしたり、鳥にしたりと描いていくうまさは並ではなく、一同手をたたき、やんやと喝采する声はやまなかった。彼は、鍾馗だとか鬼の念仏だとかの人物画がいちばん得意で、だいたい北斎の流れをくんでいる。芸は達者だが、下品なかんじ(原文「悪達者の風」)で、気品が高いとはいえなかった。
こうして席画がひとめぐり終わると、これから私の本芸をお見せします、と言って、能狂言の末廣狩を舞った。野太い声で、傘を持ちながら「傘を差すなら春日山」と座敷中を狂い舞ったのをいまでも印象深く覚えている。ちなみにこれが、私が能狂言というものをはじめて目にしたときであった。
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