三十四 明治十年代の新橋(下)(上巻109頁)
明治十年代の新橋は芸妓の数も非常に少なかったし待合の料理も粗末なもので、今日とはくらべものにならない。東京の料理屋といえば、昔のなごりで山谷の八百善、浜町の常盤屋などの名前が挙がり、新橋方面にはこれと肩を並べるものはなかったが、客層はだいたいが知識階級で、その遊蕩ぶりにもなんとなく雅趣があり後日の語り草になるようなことも多かった。
そのような噂のタネになるのは、まず朝吹君で、そのころお里というかわいい子(原文「婀娜者」)にぞっこん入れ込んでいたのに、そのお里が、いつのまにか別の愛人のもとに走ったという事件が発生した。そのとき、萩の本の阿仁丸君は失望落胆のあまり、
おさと【お砂糖】なくてお萩【あだ名】やい【焼い】て悔い【食い】
と吐き出したが、当時、これはうまいと評判になった。(注・「お萩」、「阿仁丸」というあだ名については、25を参照のこと)
もともと阿仁丸君は世話ずきで非常に親切だったので、廓の金には困っても親しい友人に対してはいつでも助け船の船頭役をつとめる性分だった。なかでもいちばんおもしろかったのは、長崎出身の秀才で美青年の笠野吉次郎氏が、阿仁丸君とは反対に美男なるがゆえに、ちょくちょく女難の祟りをうけ、夫婦の契りからも間もない阿久里という美人を振って、朝蝶という新愛人を作ったときのことだった。阿久里は激怒し、とうとう別れ話になった。そのときに、阿仁丸、犬養の両人が仲裁役になり、手切れ金の話し合いになった。笠野からは二百円を出させ、阿久里には半分の百円を渡した。残りの百円は小さなブリキ製の金庫にいれて、笠野がいないときに阿仁丸みずから笠野夫人に面会し、「この金庫には、僕と犬養とご主人の三人の身の上にかかわる秘密書類がはいっていて、僕らの家に置いておけず、げんをかついでご主人にも知らせずに、奥さんにお預けする次第なので、どうか秘密を守って保管してほしい、しかし後日、ご主人の身の上に何か困ったことがおきたとき、このなかの書類が物を言うから、そのときはじめてご主人に打ち明けて、この玉手箱を開けるように」と言い置き立ち去った。さてその後ほどなく、遊蕩の報いがめぐりめぐって笠野が困り果てていたときに、夫人がこのことを思い出して、朝吹さんから預かった秘密箱は、まさかのときに開けるように言われていたので今あけてみましょう、と言って箱をあけてみると、なんと当時では大金だった百円札が目の前に現れたので、夫婦は喜びに喜び深い友情に感涙を流したという悲劇とも喜劇ともつかぬ話である。
このころの新橋花月楼は平岡広高が経営者で、年が若いうえに自分自身も道楽者でいつも貧乏神にとりつかれていたから、妻のお蝶にも新橋で二度の勤めをさせるということがあった。しかし、女房がいなくては茶屋の営業も成り立たないだろうと阿仁丸君が同情し、それに馬越、犬養も同調して、とうとうお蝶をもとの花月楼に返らせたことがあった。その日、店先から大声で、「お蝶はおるか、モロ高はおるか」と呼びつつ飛び込んできたのが阿仁丸君だった。これは例のそそっかしやで、平岡の名の広高を、モロ高と間違えていたのである。それが悪友のあいだで大評判になり、このときから花月楼主人は、ヒロ高【拾ったか】モロ高【貰うたか】(注・貰ったか)と呼ぶようになったというおかしな話もある。
また阿仁丸君が自分の貧乏もかえりみず道楽仲間を援助するので、悪徳新聞記者がそれにつけこみ、朝吹は、貿易商会(注・25を参照のこと)の多額の金を隠匿しているのだろうと恐喝し、口止め金を出せと言って押しかけてきたとき、商会の荒川新十郎氏が憤慨して抗弁しようとしたところ、阿仁丸君はそれを制止し、君らは考えがまだ青臭い、僕が金をかくしていると言われれば、人も安心して金を貸してくれるから、ここは黙って逆に宣伝してもらったほうがいい、と平然として、いっこうに取り合わなかったそうだ。
そのころは今日とは違い、花柳社会に出入りする者のなかには脱線者も多かったので数々の奇談が残っているが、そういうことを思い出すとなんとなく昔が恋しくなるような心地もする。
「箒のあと」34 明治十年代の新橋(下)
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