三十三 明治十年代の新橋(上)(上巻106頁)
吉原の全盛時代が、王政復古の明治維新とともに夢のように去ると、東京の花柳界はしだいに南のほうに移動した。
私が上京した明治十四(1881)年ごろは、いまでいうなら神楽坂か道玄坂くらいの位置づけだった新橋がめきめきとランクを上げ、柳橋を越えるか越えないかという勢いを示しているときだった。これは主に政府の高官や中流以上の役人、あるいは地方の長官クラスの人たちが、地理的に便利だというので新橋に足を向けるようになったからである。
しかし茶屋や待合の設備はいたって粗末なもので、当時、料理屋としては売茶亭、花月楼くらいしかなく、待合は船宿の名残りで、三十間堀に大村屋、兵庫屋のほかに二軒あるのみ。新しく開いた待合は、出雲橋ぎわの長谷川すずが女将をやっていた長谷川の一軒だけで、あとは烏森に濱野屋という料理屋があるだけだった。
この濱野屋の女将だったお濱は、明治はじめに井上世外侯爵(注・井上馨)がひいきにしていたころに、その後亭主にした隠密の親分とのあいだにおもしろいエピソードを残した人だ。彼女には一種の侠気(注・おとこぎ)があったので、頭山満翁なども上京したころには、この女将をひいきにして常宿にしていたものだった。私も貧乏書生の新聞記者で、遊蕩の世界に足を踏み入れたばかりの遊蕩学校一年生だったのに、どうやらこの女将のお眼鏡にかなったようでいつも上客として扱ってもらい、まんまとこの学校を卒業させてもらうことができた。私にとっても、この女将はいくらお礼を言っても言い切れないほどの恩人である。
さて、このころ濱野屋に出入りしていた婀娜者(注・あだもの。色っぽい女)のなかでは、有名な「洗い髪のお妻」の人気がダントツだった。このころ、まだ十五歳で雛妓【おしゃく】となった。
木挽町「田川」の女将である石原半女は七十二歳の現在もなお、元気はつらつで現役として活躍しているが、最近できあがった五階建ての近代的なビルである新橋検番ビルの開会式にあたり、昔を思い出して感無量の面持ちで、そのおしゃく時代の新橋物語を語るのをきけば、彼女と同時代の同世代には、玉八、幸吉、小徳、お里、おしんなどがいて、芸妓の送迎は最初は女中などが勤めていたが、当時なんとかどんという気楽な男がいて、その男に三味線の箱を運ばせたのが、いわゆる揚げ箱のはじまりなのだそうだ。この揚げ箱が発展して検番になり、その検番がいまや五層の大ビルディングになったとは新橋五十年の発展は夢のようであるとのことで、いかにもそのとおりだと思う。
この揺籃期の新橋で、その名のとおりに光り輝いていたのが玉八で、色白の美人で頭もよかったから、一時、全盛をきわめていた。あるとき伊藤(注・伊東)茂右衛門氏が、玉八の手にほくろ(注・原文ではホソビ。北関東の方言でほくろのこと)があるのを見つけて、
白魚の目は玉ちゃんの手のほそび
と駄句(注・あそびの軽い句)を作ったところ、当時、名吟であるとして友人のあいだに伝わったとのことだ。
そのころの花月楼の主人は平岡広高といった。まだ年若い道楽者で、朝吹英二、犬養毅、岡本貞烋、笠野吉次郎などという連中が、ここをねぐらとして気安く出入りしていた。岡本は達筆なのを表の芸とし、二上り新内(注・江戸時代の俗曲。明治時代に再流行した)を隠し芸としており、一杯のんで上機嫌なときにはその美声を張り上げるのを常としたが、仲間はほとんど芸のない猿同然で、ただそれを拝聴する側にまわった。岡本のいちばん得意としていた二上り新内は、
「私が風邪ひいて寝ていたら、枕のそばにそっと来て、飯【まま】を食べぬか薬でもと、そのやさしさに引きかえて、今の邪見はエエ何事ぞいな」
というのであった。
西園寺陶庵公爵が、パリ帰りの「ヤング・デューク」として粋人ぶりを発揮されていたのもそのころで、その作詩だと言い伝えられている小唄に、
「風にうらみは待合の、軒端にそよぐしのび草、そよとの音も人さんに、心をおくの四畳半。」
とあるのは、当時「警八風」といって風俗係の見まわりが、ときどき待合を夜襲することがあった世相をうたったものだろう。
このころからだんだん名古屋出身の芸妓が新橋にもやってくるようになり、最初のうちは、この「そうきゃも連」は江戸っ子芸妓に蹴落とされていたが、芸道の力がまさっているのでだんだん幅をきかすようになった。
なかでも須磨子、若吉のふたりは、長唄の三味線が抜群にうまいので、新橋でなにかの演芸会があると、ふたりであの長唄「筑摩川」の大薩摩節を弾きまくったものだ。
その芸の高さを別にすると、全体としては今日の芸妓と比べて、諸芸ともに、いたって幼稚なレベルで、常磐津にしろ清元にしろ、今は昔とでは雲泥の差があるだろうと思う。
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