三十二 明治十年代東京の景物(上巻103頁)
西南戦争のあった明治十(1877)年から、二十年ごろまでは、まだ維新からの日も浅く世の中が非常に単純で、今日に比べて明るい気分になることが多かった。
私がはじめて上京した十四(1881)年か十五年の春であっただろうか、当時は三田にあった薩摩屋敷が空き地になっていて、ここが薩摩原と呼ばれ競馬などが行われていた。
あるとき明治天皇がこの競馬場に御臨幸になったことがあった。馬見所はかんたんな仮小屋で、私たちは、十間(注・一間は約180センチ)か十五間離れた場所から陛下がテーブルを前にして椅子に座られているお姿を仰ぎ見ることができた。当時満三十歳くらいで、色白のお顔の鼻の下に真っ黒な八の字のひげをたくわえ、非常にお元気なようすでシガーをくゆらせながら、お伴の大臣たちとご談笑なさりつつ競馬を御覧になっていた。
今日から見るならば、警護などもほとんど信じられないほどに簡単なものであった。そんなことからも当時の世相がどんなであったかをうかがうことができるだろう。
また明治十五、六(1882~3)年は人力車全盛の時代だった。銀座に秋葉大助という大きな人力車製造店があり、東京はもちろんのこと地方にもその車の販売を広げている時期だった。そのなかに一割くらいの割合で二人乗りのものがあった。その背の部分には鯉の滝登りだとか、熊と金時だとかの色のついた絵が描かれていた。
明治十六、七年ごろだっただろうか、時事新報社が、日本橋三丁目のかどにあったときだったが、鶴のようにやせて馬のように顔が長い陸奥宗光氏【のちに伯爵】が、その二人乗りの人力車に年若い夫人と一緒に乗り、福澤先生を訪問されたことがあった。このときは五年間の禁獄から釈放されて、いろいろなところにあいさつ回りをされているときだったのであろうが、日本橋通りを夫人と相乗りで乗り回すなどというのは、なんだか人を食ったような行動だと思ったことだった。しかし、今さらのように考えてみると、入牢中の長期間ひとりで家を守っていた夫人に対しその慰労の意味もあったのかもしれない。それでもやはり、そのときはずいぶん異様な光景だったと思われたものである。
維新後に東京に移住した政府の高官たちは、田舎武士でないなら貧乏公卿にちがいないと言われたほどに、その邸宅はもちろんのこと室内装飾にいたってもかなり趣味が悪い場合が多かった。というのも彼らの家は、維新の前に彼らが集まって天下転覆の画策をめぐらした茶屋や待合の座敷がその見本だったのだからしかたがない。床の間には文人画の花鳥風水の軸を掛け、その前には真新しい花瓶を置き、部屋の隅には紫檀の机を飾るという具合だったのだ。
明治十年代になってもこの状況が続いていた。大隈重信侯爵の雉子橋邸は、当時もっとも豪壮な邸宅として知られていたが、明治十四(1881)年に侯爵が政府を追われて下野したとき、政府を擁護する御用新聞が侯爵の贅沢を攻撃し、座敷の壁に珊瑚珠を塗りこむなどというのは思い上がりもはなはだしいなどと批判したものだった。しかしその邸宅は、その後フランス公使館に譲渡され、私なども一、二度出入りしたことがあるが、二階建ての木造の洋館で、坪数はかなりあったが今日から見れば贅沢というほどの部分はなく、ここからも、個人住宅のその後の五十年の発展がいかにめざましかったかを知るのである。
維新後の文化の発展は政府関係の方面で一番早く、それに比べると民間の組織の改良などは非常に遅い歩みで、小売店なども番頭や小僧が店頭で客の注文を受け、それをいちいち倉庫に取りに行くという具合だった。
そんななか「勧工場」といって、ひとつの大きな店舗のなかに各種の雑貨を陳列し、客が自由に品物を選べるようにした小売り形態が生まれた。これはのちの百貨店の前段階と見るべきだろう。けれどもその陳列品を見ると、中流以下の生活者の需要にこたえることを目的としており、俗に「勧工場品」といえば粗悪品の代名詞だった。それでも当時においては小売り方法の先端をいくやり方だったのである。
これを見ても、町人階級の知識が、役人階級の知識よりも一段低かったことや、そのころしきりに西洋から輸入されていた文化的施設にしても、政府に比べて民間では遅れがちになっていたことがわかるのである。
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