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 三十一
福澤先生の感情(上巻100頁)

 明治十七、八(18845)ごろ、時事新報は南鍋町二丁目のかどにあり北側の裏手が交詢社とつながっていた。時事新報社がどうにも手狭なものだから、福澤先生は交詢社の赤煉瓦の二階の一室を編集所と定め毎日そこに行って論説の執筆をなさっていた。
 さてこの部屋が当時「鶴仙」という寄席背中合わせになっており、しかもその舞台が交詢社がわにあったので、落語や音楽などの音が全部筒抜けになって交詢社に聞こえてくるのだった。
 当時は竹本摂津大掾(注・せっつだいじょう。義太夫の太夫)が、まだ越路太夫といっていた時代で、はじめて東京にやってきたか二回目くらいのときだったので、すごい人気だった。そのころの寄席の木戸銭(注・入場料)は三、四銭だったのに越路が出れば十銭取るというので、そのころは驚きの的だった。
 この越路が鶴仙の寄席に出演し阿波の鳴門を語ったちょうどそのとき福澤先生は編集所にいた。越路が美声を張り上げ十兵衛がおつるを殺して金を奪おうとする場面にいたったとき、先生は感激のあまり、「悪い奴だ…悪い奴だ」と繰り返してひとりごとを言った。これは越路の芸がすぐれていたので先生を感動させたということもあろうが、悪事に対する先生の憤りの気持ちが知らず知らずのうちに盛り上がったせいでもあろう。
 私は隣りの部屋にいたので盗み聞きしてしまい、あまりにおかしかったのでクスクスと噴き出してしまったが、考えてみるとこんなことからも先生の純粋な気持ちが見えてくるというもので、かえって非常に尊敬したのだった。

 

宇都宮の警語(上巻101頁)

 宇都宮三郎氏は福澤先生の友人で、先生がいつも敬い意見を重んじ学者だった。氏は世俗にまみれず飄々として禅僧のような風貌だった。南鍋町の自宅だった煉瓦の建物を交詢社に寄付し、自分は別のみすぼらしい家に引っ越した。肺疾患を持ち医師から死を宣告されたので自分で棺桶を作ったが、その後病気から快復するとそれを本棚に代用したというような奇談の持ち主だった。
 毎日のように交詢社にやってきては福澤先生と一緒に談話の中心になっていた。あるとき宇都宮先生は次のような話をされた。イエス・キリスト(原文「耶蘇」)が自分を神だと信じたのは無理もないことだ、生まれながらにして預言者などから「君は前世の約束でこの世に生まれたたったひとりの救世主だ」と宣告され成長するまで周囲のひとびとからも同じように生神扱いされたら、どうも自分は神らしいぞと信じるようになるのは当然だ、しかし最後に十字架にかけられ脇腹に槍を突きさされたときに神ならこんなに痛いはずはないと気がついて、はじめて人間だったことに気づいただろう。そう言って大笑いしていた。先生はやせぎすで、火薬の実験中に顔にやけどを負われたので、一見、異様な風貌であったが、座談がうまくとてもおもしろい科学者であった。


新聞の広告(上巻102頁)

 新聞の広告は新聞社の収入の大きな細目であると同時に広告の依頼者にとっても宣伝効果の高い媒体であるので、今日では双方ともにその利益を知り尽くしているが、時事新報の創立された明治十五(1882)年ごろは新聞というものは論説の内容のよさで売るものだとされていおり、広告などに着目する人は少なかった。
 そういうときに、発刊当時から福澤先生の片腕となり表面的には社長として時事新報を経営していた中上川彦次郎氏は、イギリス留学中に研究してきたらしく新聞の経営には広告を取るのが一番必要だということでいろいろな新しい工夫を生み出した。
 明治十六、七(18834)ごろに時事新報が一時日本橋三丁目のかどに移ったとき、中上川氏はその二階の窓から、風船に「広告するなら日本一の時事新報に広告するに限る」という宣伝ビラを結びつけて大空に放ったことがあった。これがかなり遠くまでまき散らされ、それからというもの東京の新聞のなかでは時事新報の広告が一番多かった。
 その後ほかの新聞もこれにならって広告取りを熱心にやるようになったが、中上川氏がこれに着眼したということは、氏がのちに実業方面で大きな足跡を残したことの第一歩であったといってもよいであろう。


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