三十
福澤先生の喜怒(上巻97頁)
福澤先生は、思ったことをすぐに行動に移す直情径行型の人である。もちろん高い理性があるうえに学問の力で自分を節制することができる人だったから軽率な行動に走るようなことは決してなかったけれども、うれしいときには顔をくしゃくしゃにして喜び怒る時には大声をあげて叱責するということが少なくない。いわゆる天空快闊の気質で、感情を押さえて無理に喜怒哀楽を隠すようなことはなかった。
明治十七(1884)年ごろ、慶應義塾の東側の崖にあった長屋に住み塾内の管理の仕事を行っていた中津出身者の東條軍平という人がいた。この人が、前々から先生が不当であると主張していた塾内家屋への課税を、なんともなしにうかうか承諾してしまったものだから先生の立腹ははなはだしかった。先生は東條の長屋の前に立ちふさがり、俺があれほど言いつけておいたのに自分で勝手に承知してしまうとはとんでもないことだと、火の出るような勢いで叱りつけていたのは、私が先生の激昂ぶりを目撃したただ一度の機会だった。
しかしあるとき先生は私に向かい、自分は若いころからどんなに腹が立っても手を出して人を殴りつけたことはないと話されたこともあり、上にあげた例の場合は、相手が相手だったので遠慮なくその怒りをぶちまけたのであろう。そのようなときにも、雷のあとにすぐ晴天がやってくるような感があったのは、先生に邪気がなく胸中にはなんのわだかまりもないことを示しているのだろうと思う。
福澤先生の雅量(上巻98頁)
明治十八、九(1885~6)年のころだったろうか。井上伯爵【のち侯爵】が外務大臣で条約改正という仕事があり、政略上、外国人に日本の文化を知ってもらうために鹿鳴館を作り、高官たちを集めて仮装パーティを開いたことがあった。山県有朋伯爵【のち公爵】などはそのとき、陣羽織を着て、騎兵隊長、山県狂介のいでたちで出席した。
このとき、誰の悪ふざけかは知らないが、伊藤博文伯爵【のち公爵】が、ある伯爵夫人に対して失礼な振る舞いをし、その夫人が夜更けの鹿鳴館から自宅まで逃げ帰ったなどという噂を流したのである。時事新報は、そのころイギリスの人気政治家であった、チャールズ・ディルク(注・原文「チャーレス・ヂルク」)が姦通問題にかかわり大攻撃を受けロンドンの新聞にその一部始終が報道されていたものを、その肖像写真と一緒にそれとなく転載した。すると末松謙澄【のち子爵】氏が大きなステッキを手に南鍋町の交詢社の二階に突然福澤先生に面会に訪れ、やってくるなり真っ赤な顔をして次のようなことを言った。「時事新報は先生のやっている新聞だから先生は記事に関する全責任を負っているのだろう、伊藤伯爵に対して嘘のスキャンダルを流そうというやつがいるというときに、まるでこれを裏書きするようにディルク事件を掲載したということは、先生もこのスキャンダルを事実と認められたということなのか、その返事のよっては、わたしのほうにも、いささかの決心があります。」
その形相がふつうではないことに先生も驚き、時事新報の記事については自分がもちろん責任を負うが、あの記事は編集者がたまたま掲載したのであり、現在世間で噂されている伊藤伯爵のはなしに引き比べようとしたわけではない、だから明日の新聞紙上で弁明するすることにしよう、と言って、この一件はおだやかに落着し、翌日の時事新報でディルク事件と鹿鳴館パーティでの噂にはなんら関係がないことを弁明した。同時に次のような論説も掲載した。日本の高官たちは、維新当時、生きるか死ぬかの瀬戸際にいることが少なくなかったので、品行のよしあしなどにかまっている場合ではなかったが、それが習慣になり今日でも続いて、ややもすると、大きなことをするときは小さな間違いは問題にしなくてもよいなどと豪語する傾向があることは、おおいに改めるべきことである。
しかしながら先生は、末松氏が帰ったあと、私たちに向かい、末松は実に感心な男だ、知人のために自分が動いて真剣に弁護するというその心意気には見上げたものがある、と語られた。今にもステッキを振り上げてかかってきそうな権幕だった末松氏に対して、先生がこうした感嘆の言葉を惜しまず寛容な態度を見せたことに、私をおおいに感激したものである。
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