二十九 相馬事件初回の顛末
明治十六(1883)年から二十七(1894)年までの十年間にわたり、おおいに世間を賑わせた相馬事件というものがある。前後の二期にわかれており、はじめは明治十六年からで、二回目は二十五年から再発したのだが、このはじめのほうの一部始終について私が後年後藤新平伯爵からくわしくきいたことがあるので、その談話をここに記すことにする。
※
相馬事件は実に小説よりも奇なるできごとだった。余【後藤伯爵】が、名古屋病院長であったとき、お雇いドイツ人(注・当時官費で外国から招聘された大学教授を「お雇い」といった)がときどき医学の講義をすることがあったが、あるとき彼が裁判医学の講義中にこの病院の職員だったある男が講義をきいて、「そんなことがあるなら、かつての私の主人の命を救うことができるだろうに」と言って、ワーッと声をあげて泣き出した。私は非常に不思議に思い、あとでその男を呼んでたずねてみた。すると彼はもと相馬家の家来で、当主である相馬誠胤(注・ともたね)子爵が、志賀、青田などという家職(注・旧華族の家で事務をとりしきる執事)によって顛狂人(注・てんきょうにん。精神異常をきたした人。癲狂人)として鉄格子の窓のついた部屋に監禁されるという悲劇的境遇にあることについて語った。このことについては現在東京に住んでいる元藩臣の錦織剛清【にしごりごうせい】という者がくわしく知っているので、機会があればきいてほしい、とのことだった。
これが明治十六(1883)年のことだったが、私がそのあとすぐに衛生第一局部長となって東京に転勤すると、錦織はそのことを知ったらしく、ある日私に会いにやってきた。そして、相馬家の悪者たちが主人のことを狂人扱いし、それだけでなく、もともと体の不自由だった女性を配偶者として選んだことは言語道断であると語った。
その話のなかに、宮内省の侍医である岩佐純が診察もせずに相馬誠胤を狂人患者であると診断したということや、戸塚文海が相馬家の依頼で誠胤夫人を診察したということがあったので、私はある日戸塚文海に会いに行きその真偽をたしかめた。
すると彼は非常に驚き、実際に幽閉状態になっているという不具合があるのは本当だが、わけあって今は極秘にしているのだという。それで私はこのことを白日のもとにさらす必要があると思った。
そのころ警視庁の探偵方の役職にあり子分が百人もいたという任侠の親分だった長谷川という男が、錦織剛清の悲憤談をきいて心を動かし、まずはその子分の一人を、そのとき相馬誠胤が監禁されていた巣鴨癲狂院に狂人患者としてもぐりこませ、誠胤の監禁部屋のそばに近づかせて様子を探らせた。
すると、看護のために相馬家から派遣されて付き添っている二人の人間は、ふだんは賭け碁などで遊んでいるが、誠胤が退屈して自分にも碁をやらせてほしいというと、その横っ面をなぐるなど、その横暴はすさまじいという報告が来た。もう猶予している場合ではないと準備を進め、相馬家の看護人が賭け碁にふけっている最中に三十人ほどの手勢を連れて誠胤の監禁室に押し入り、本人を人力車に乗せ、途中で二回乗り換えて、まず九段坂にある写真師の鈴木真一の家に連れていった。そこでさらに馬車に乗り換えさせて、麻布にある私の家まで誰にも気づかれずに連れてきたのである。
いっぽう相馬家では誠胤が癲狂院を脱出したというので大騒ぎになり、警視庁では非常線を張って捜索を開始した。
さて誠胤のようすを見ると、癇癖(注・神経過敏)のために話の途中で目をしばたたかせる癖はあるが、言っていることはふつうの人と変わらなかった。そして夫人について、ほんとうに体が不自由(原文「不具」)なのかと質問すると、それを公言するのは危険なので絶対に話すことはできないということだった。
私は、今の世の中になんという不思議なことがあるものだと思い、誠胤を警視総監に面会させて、自らの口から自由の身になりたいという意思を話させようとしたのだが、総監がちょうど熱海に出張で不在であるときき、総監の次席だった今村秀栄に会いに行った。そして、警視庁では相馬誠胤の行方を捜査中だそうだが、誠胤は実は私の家にいる、もしこの誠胤が自分の意思に反して自由を束縛されていると私に証言したら、警視庁としては監禁を許すのかどうか、と質問した。今村は困り果てた顔で、それはほとんど無理だろうと言ったが、彼も一見識を持った人であったとみえて、その後二日間ほど、私の家に警察を差し向けなかったので、私はその間に、誠胤を熱海にいる警視総監のところに送って面会させようとしたのであるが、不運にも小田原で行違ってしまった。
そこで今度は、そのとき京都にいた伊藤博文公爵のところに駆け込ませて保護を求めようとしたのだが、伊豆の山越えをして静岡まで行ったところで警察に追いつかれてしまったのは残念なことだった。
しかし誠胤はその後医師の診断をへて監禁をとかれ、妾腹に庶子が誕生して、まずは初回の相馬事件はおさまった。この初回の事件のときに私にはなんの災難もなく、警察に拘引されることさえなかったのは、われながら不思議なことだったと思う。
(注・箒のあと62に、のちの相馬事件の項がある。)
「箒のあと」29 相馬事件初回の顛末
【箒のあと(全) 目次ページへ】【現代文になおすときの方針】
コメント