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二十八  板垣伯の遭難(下)(上巻90頁)
板垣伯の遭難(上)からのつづき)

  板垣伯爵が岐阜で相原に胸部を刺されたという電報が東京に届くと、生死もはっきりしないなかで事件は事実よりもより大げさに言いふらされた。伯爵の友人たちが激しくいきり立ち、中でも後藤象二郎(原文「象次郎」)伯爵は政府に対して強硬な詰問をしたので、政府としても見過ごすわけにいかなくなり、ついに勅使を派遣することになった。後藤伯爵(注・話し手は後藤新平伯爵)によるとそのときの状況は次のようであった。
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  このとき東京では、後藤象二郎伯爵が、文部大臣福岡孝悌子爵のところに押しかけ、政府は刺客を岐阜に送って板垣を暗殺しようとしたのか、とつめよった。政府としてはこれをそのままにしておくわけにもいかず、ついには勅使を派遣するという電報が届いた。誰であったかこの電報を板垣伯爵の枕元に持っていったとき、自由党員が四、五人立ちふさがり、政府のやり方は非常にきたないので、こんなものは断ってしまったほうがよいと騒ぎ立てた。それを静かに目をつぶってきいていた伯爵が、急にむくむくと起き上がり、「勅使が来るということは天皇のご決定であろう、『皇恩及臣退助之身』」と言われてぽろぽろと涙をこぼしたので、今まで騒いでいた連中は居場所を失い、ひとり去り、ふたり去りして私だけがその場に残った。それはまるで芝居でも見ているような光景だったが、これなどを見ても、当時の人がどのように思っていたかを察することができるだろう。
  こうして、勅使が来るという噂が広まってくると、いままでは冷淡きわまりなかった県知事や県庁の役人たちが急に浮足だち、岐阜病院長を付き添いにさせましょうなどと申し出てきた。そのやり方が、あまりに手のひらを返したような現金なものだったので、伯爵はそのとき、そのようなことは無用であると激しい調子で叱責されたという。
  さて私はそれまで名古屋の知事の許可を得ずに断で岐阜まで飛び出してきていたのだから、助手を残してその日の晩に二人挽きの人力車で名古屋に帰った。そしてすぐに知事の官舎に駆けつけた。すると、勅使が出るという知らせを受けて急に考えが変わったものとみえ、しきりに板垣伯爵の容態などについて質問し、よくぞ行ってくれたと言わんばかりの非常なる上機嫌だった。このときの衛生課長が、そのような状況を知らずに部屋に入ってきた。私に対して注意を与えるつもりでやってきたのに、知事があまりに機嫌がよいので一瞬とまどい、うやむやのままに引き上げてしまった。これなども、当時の人の態度を知ることができる喜劇の一幕であろう。
  世のひとびとは、板垣伯爵が相原に刺されたときに「板垣死すとも自由は死せず」と言われたのを永遠の名言のように思っているが、「皇恩及臣退助之身」のひとことについては伝えようとする者がいない。しかし当時の板垣伯爵を誤解していた自由党員たちが伯爵のこのひとことに驚き、おおいに態度を改めたということからもわかるように、伯爵は一方では自由を唱えながらも、国体については尽忠報国(注・真心を尽くして国恩に報いること)の人であったことは、この一瞬の言動からもはっきりとわかるのである。これは私がごく間近に見たことであり、単に板垣伯爵のためだけではなく、日本臣民の心得として長く世に伝えたいと思うことである。
 その後私は、このことを直接板垣伯爵に話したことがあったが、伯爵はすっかり忘れていて、私の話でそれを思い出し、なるほどそんなことがありましたね、と昔を思い出して感慨にふける表情をされた。
 とかく大人物の人格は、大事があったときはじめて顕れるものだ。伯爵の災難のときの言動に、若かった私は脳の芯まで大きな感動を味わったので、伯爵に対して私はいつも大きな敬意を払っているのである。
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 以上、後藤新平伯爵の板垣伯爵遭難の談話は、大正七(1918)年十二月十三日に、内田信也氏が水戸高等学校設立のために百万円を寄付された美徳を称賛し、またこの寄付を勧誘して実現させた後藤伯爵の尽力に感謝するために、徳川圀順(注・くにゆき)公爵が、旧水戸藩主としてふたりを向島の徳川邸に招待された席上において話されたものである。板垣伯爵遭難史としては、もっとも正確で、かつ興味深いものである。伯爵が自分でこれを記録したか、あるいはほかの場所で発表されたかどうかについて私は知らないが、万一この事実談が埋もれかえりみられなくなっては惜しいので、ここに記録し伝えておく。
 


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