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 二十七 板垣伯の遭難(上)

  私が時事新報の記者となった年、すなわち明治十五(1882)年の四月六日、岐阜で板垣退助伯爵が相原尚けい(注・耿の下に衣)に刺されるという大事件があった。これは当時、全国的なセンセーションを巻き起こし、例の「板垣死すとも自由は死せず」の一言は、わが国の憲政史上に特筆されることになった。この事件についてはなんら関係を持たないが、当時の名古屋病院で二十五歳の青年医師だった後藤新平氏のちに伯爵その負傷の治療にあたったようすをを後年後藤氏から直接きき、おおいに興味を持った。そのときの談話をここに掲載しよう。
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 後藤伯爵が名古屋病院長だった二十五歳のとき、つまり明治十五年、板垣伯爵が関西遊説の途中に相原という刺客により胸部を刺されたので至急来診してほしいと、名古屋の県会議長で自由党員だった内藤魯一から電報があった。とりあえず愛知県衛生課長を通じて知事の意向を問い合わせたところ、当時は板垣といえば共和主義を主張して日本帝国に毒をまき散らしている国賊であるとみなされていたので、知事として中央政府の機嫌を損ねては困ると思ったのか、そのような場所には出張しなくてよい、と言い渡された。それで私はしかたなくそれに従っていたが、その後内藤から三回も催促の電報が届き、医師の務めとして後日どのような罰を受けたとしてもこれを放置しておくわけないはいかないと思い、そのころドイツからはいってきたばかりの消毒装置を携えて助手とともに名古屋から二人挽きの人力車でかけつけたのは、板垣伯爵が負傷してからすでに一夜を経過した翌朝の午前九時ごろだった。
  そのころの岐阜県知事は小崎利準(注・こさきとしなり、おざきりじゅん)だったが、やはりこの人も中央政府の思惑を考えて板垣伯爵に好意的ではなく、岐阜病院から医師を出張させて応急手当をさせただけで、洋服も脱がせないまま籐椅子に横にならせていたが、それは剣による傷が肺に達しているかもしれないからという観測によるものだったらしい。

  私は少しでも早く診察しようと思うのに、いつまでたっても患者のいる場所に案内してもらえないので、内藤魯一に、わざわざ人を呼びつけておきながらなぜこんなに長時間待たせるのかと詰問した。すると、私はそのとき二十五歳で、岐阜病院長は四十歳くらいだったので、板垣伯爵のまわりに集まっていた自由党員が私を見て、あんな若い医者に診察させても無駄だと言ったからだということがわかった。
  しかし私は医師の本分として一刻も無駄にはできないと激しく催促したので、とうとう伯爵の病室に通され、さっそく診断にとりかかった。さて洋服を着たままで手当てをしてあったので、傷口はすでに縫ってあったものの消毒も不十分で、血のかたまりがまだ付着したままで、そのうち化膿してしまうおそれがある。私はまず板垣伯爵にむかって「ご負傷なさって定めてご本望でありましょう」と言ったところ、伯爵はただ微笑をもらされた。それにしても不思議なやつが飛び込んできたものだと思われたことだろう。
  私はすぐに洋服を脱がせるべきだと言った。だが、まわりの人たちが非常にこわごわとしながらやろうとするので、ではこうしようとカバンの中から大きなはさみを取り出し、伯爵の着ていた洋服の胸部をバリバリ切って、こうすれば痛くないだろう言ったので、全員が驚いた顔つきで私のやることを見守っていた。
 負傷箇所を診察してみると、相原が伯爵を刺したとき、背中から突き通せば絶命したはずなのに、うしろから身体を抱えて前から胸部を刺したので、伯爵はその短刀を押しのけようとして左右にもみ合いになったので、短刀をつかんだ右の指の股にかなり深い傷ができていた。だが胸部は七か所の傷があるにもかかわらず、短刀の先端が横むきにはいり、どの傷も肺部に達していなかった。私は伯爵に「この傷は肺部に達していないから一週間以内には大阪に向かってご出立ができます」と言ったところ、伯爵はうなずきながら微笑を洩らし、内心喜ばれたようだった。
  
次に私は、ドイツから日本にはいってきたばかりの新式消毒法を施した。これが、日本でこの消毒を行った最初の例になる。このおかげで、指の股の傷も胸部の傷も一切化膿せずに全治したことは、板垣伯爵にとっての幸運だった。もちろん化膿したから命にかかわるというわけではないが、治るまでの時間が長引けばそれだけ、伯爵にとってはありがたくないことだっただろう。



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