二十六 粗忽者の隊長(上巻84頁)
朝吹英二の粗忽(注・おっちょこちょい)ぶりは、私が初めて出会った明治十五(1882)年にもすでに見えていたが、のちのちまでやわらぐことはなく、いつも逸話の種をまきちらしていた。なかでも横浜の貿易商会時代に、道楽者の両雄だった馬越恭平氏を日本橋茅場町の三井物産会社に訪問した時の話がおもしろい。二階の座敷でしばらく座っているとき、なんとなく尻のあたりが痛いと言い出して振り返ってみると、それがなんと下駄をはいたまま座っていたという。いくら懇意の仲とはいえ、これには朝吹氏も赤面して言葉が出なかったそうだ。
また貿易商会にいたころのことだったが、眼鏡をなくしたといって、給仕(注・雑用係)に探させ、いつまでたっても見つからないので激しく叱りつけたとたん、給仕が「お眼鏡は、貴方のお手に持っていらっしゃいます」と気づいて言ったので、「それなら、なぜ早くそれを知らせぬか」と叱りつけたというおかしな話もある。
またあるときは、東京帝大の舎監(注・寄宿舎の監督者)をしていた清水彦五郎氏を小石川の私邸に訪問したとき、取次の女中にきくと、主人はただいま留守だが、もうすぐ帰宅するはずだというので、ではごめん、と座敷に上がり、真夏だったので丸裸になり、うちわや氷水を持ってこいと横柄に注文するので、女中は、主人とはさぞかし親しい仲に違いないと思い、煙に巻かれたような気持ちで言われるままにもてなしていたのだそうだ。ところが朝吹氏が裸のままで大の字になっているところへ、この家の夫人が出てきてばかにていねいに挨拶をする。その様子がどうもおかしいと思い、朝吹氏が、こちらは清水さんのお宅ですね、と尋ねると、夫人は微笑しながら「いや清水さんならばここから五軒目のお宅です」と言われたので、氏は脱ぎ捨てた着物をかかえて一目散に表に飛び出したという曾我廼家(注・曾我廼家五郎などの喜劇役者)はだしの珍談もあるらしい。
またもっともふるっているのは次の話だ。朝吹氏の留守中に、氏のある友人が、その転居先を知らせにきて、牛込の何番地と書いた名刺を置いていった。その後二、三日して、朝吹氏がその友人を訪ねようと朝早く人力車に乗り、牛込だぞ、と言い渡した。車夫は牛込に着くと、大きな門構えの屋敷にはいり玄関前で梶棒をおろした。朝吹氏は取次の女中に名刺を渡し、かねてからの親しいあいだがらなので遠慮もせずに応接室に上がり込んでいた。そこへ、寝ているところを起こされたその家の主人が、顔も洗っていないままの様子で出てきて、片手に持った名刺と朝吹氏の顔を交互に眺めながら、「やあ君は朝吹君じゃないか、いつのまにこんな名前になったのか」と尋ねる。氏はなんのことかわからず「いや僕は改名した覚えはない、なぜ君はそんなことを言うか」と聞き返す。「でも君の名刺はこれだよ」と差し出された名刺を見ると、今朝訪問しようとしていた友人が自分の留守中に置いていった名刺だ。さすがの朝吹氏も非常に困り、照れ隠しに「ところで奥さんは、ちかごろ、ごきげんいかがですか」とその場を取り繕ったところ、主人は微苦笑して「先日、愚妻の葬式に、君はわざわざ会葬してくれたではないか」と言われたので、重ね重ねの失敗に、あいさつもそこそこに玄関へ飛んでいき、人力車に乗るなり車夫に向かって「ばかものめ、行先を間違えるやつがあるか」と怒鳴りつけた。ところがまだ半町もいかないうちに「こら待て、忘れ物をしたから後戻りせよ」と命じ、再びもとの玄関に引き返す。女中たちが、さっきのそそっかしい珍客の話でまだ盛り上がっているのに見向きもせず、いきなり玄関に飛び上がって置き忘れた帽子をかぶるなり、さっさっと人力車に飛び乗りながら「おい、今度は間違わぬようにせよ」と号令をかけたそうだ。これが「朝吹さんの門違い」といって、当時大評判になった珍談である。
このように朝吹氏は、当時ダントツの粗忽隊長だったが、その後、私たちと三井に勤めていたころにも、またその後隠退して茶事の風流に親しんでいたころにも、さまざまな奇談珍談を残した。そのことについては、またのちに述べることにしよう。
「箒のあと」26 粗忽者の隊長
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