【箒のあと(全) 目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二十五 道楽者の親玉(上巻81頁)

 
  私は時事新報記者となった明治十五(1882)年の十一月、同社の先輩記者で、福澤先生の秘書と交詢社の幹事を兼務していた岡本貞烋氏に連れられて初めて横浜に出かけ、貿易商会」の朝吹英二氏を訪問した。
  そのころより以前の日本の生糸輸出貿易は横浜居留の外国人に独占され、日本人には取り扱いの機関がないため、外国商人は日本人を見下し、取引のうえでも非常に横暴をきわめていた。そのことを憤慨するひとびとが、ここに商権回復運動という運動を始め、大隈大蔵卿を説きふせ、まず国庫から二十万円を借り受けた。そして岩崎弥太郎氏も八万円を出資し、朝吹氏を会長とする貿易商会が成立することになった。
  しかしながら外国商人らは連合して商会の取引をできる限り妨害しようとしたし、商会のほうも全員経験のない者(原文「無経験の書生」)ばかりだったうえ、当時ドル相場の変動が激しく、営業するのには非常な困難がともなった。またそうしたことに加えて明治十四(1881)年に大隈大蔵卿が辞任したため、商会の営業はほとんど完全に行き詰まってしまった。

  商会では、そのときまでに政府からの借金がすでに数十万円にのぼっていたが、当時はまだ商法発布以前で商会にも、有限会社とかそうした区分もなかった時代でもあり、その経営を朝吹氏が一身に引き受けることになった。

  そのため氏は当時首も回らぬ借金の時代だったのだが、私たちを横浜にある千歳楼に招待し、おおぜいの芸者を呼んでの大尽遊びの一幕を展開した。
  このとき氏はまだ三十四歳の血気盛りで、おおいに粋人ぶりを発揮し、だみ声を張り上げ、お得意の新内節「蘭蝶」の蘭蝶物狂いの、「ソリャ誰ゆゑぞへこなさんゆゑ」の一節を唸るのだった。もともとこうしたことに不慣れだった私は、なんと不思議な光景だろうと目をみはったものだが、今思えばこれが朝吹氏生涯中いちばん貧乏でいちばん豪快な時代だったのではないだろうか。
  横浜の貿易商会時代に借金王、兼、道楽王とうたわれた朝吹英二氏であったが、氏はまた一方で「お萩」と呼ばれていた。それは氏の顔面があばたでおおわれており、花がるたの萩の絵に似ているからということでついたあだ名だろう。それで、本人もまた俳名を「萩の本の阿仁丸」と名乗ったのは、その花札の萩の絵の下のほうに猪がいるのを「柿の本の人丸(注・原文通り)」にかけてつくった呼び名だった。
  当時は花札が大流行していて、花を引かなくては紳商(注・流の商人)のあいだの交際ができない時代だった。器用で根気強い朝吹氏は、たちまち花札の腕前も上達した。それまでの花札は二組とも裏が黒かったのを、片方を黒に、もう片方を赤にして、ふたつがまじってしまうのを防ぐことにしたのは、実は阿仁丸先生の大発明なのである。
  このようなありさまだったので、当時の朝吹氏の道楽ぶりは新聞の三面記事をにぎわした。なかでもいちばんふるっているのは、中上川彦次郎氏の令妹である澄子夫人と男女ふたりの子供を自宅に放りっぱなしにして茶屋待合(注・芸妓をよんで遊行する座敷)にいりびたっていたので、ときには三、四か月も帰宅しないことがあり、令嬢の福子さんが父親の顔を忘れて、たまに帰宅したときに顔を見て泣き出した、というものだった。
  またあるとき、玄関から、奥さんはうちにいるかと大声で呼びながら座敷にはいってきた朝吹氏を見た女中がびっくりして、「奥様奥様たいへんですよ、変な男が案内もなしにあがってきましたよ」と叫んだので、なにごとかと夫人が駆けつけると、ほかでもない、久しぶりに帰宅した主人だったので、夫人は怒るかわりに笑い出してしまったというエピソードもある。
  またそのころ、浅草観音の裏手に、釣堀という待合があり、吉原通いの朝吹氏がときどき泊まることがあった。ある晩、吉原の芸妓でおちゃらという名の、これまた朝吹氏と同様のあばた面だった人と朝吹氏が釣堀に同宿したときのことだ。当時「警八風(けいはちかぜ)」といって、待合茶屋を吹き荒らしていた風俗とりしまりの係がいたのだが、それが襲来したという警報があった。そのとき朝吹氏は、窮余の一策でとうとう風呂場に飛び込み真っ裸になって雑巾がけをしているところに警官が現れた。貴様は何者だ、と警官に尋ねられ、「私はこの家の権助(注・下働きの下男のこと)であります」と答えた氏の顔をつくづくと見た警官は、なるほどと納得して、氏はピンチをきりぬけたそうである。これは、わがあばた面のおかげなり、という朝吹氏ご自慢のひとつばなし(注・何度も同じ話を人にきかせること)だった。
 朝吹氏がかつて三菱会社に奉公していたころ、岩崎弥之助氏のちに男爵いちばんの懇意だったので、弥之助氏は、朝吹氏のあまりの道楽ぶりを耳にし、親切にも、すこし差し控えたほうがいいだろうと忠告した。朝吹氏も、以後かならず慎みます、と返事をしたのだが、その同じ日の晩に、弥之助氏がある料理屋に出かけると、廊下でばったり出会ったのがほかならぬ朝吹氏だったものだから、忠告したほうもきまりが悪く、忠告されたほうも恐縮して、やあやあ、と言い合っただけで黙りこくってしまったという一幕もあったそうだ。これなどは、当時の廊下鳶(注・ろうかとんび。妓楼などで廊下をうろうろする客のこと)のあいだでは有名な話であった。
  朝吹氏の道楽については、ほかにもたくさんおもしろい逸話があるが、私はこの天真爛漫、愛嬌たっぷりの道楽ぶりを見て、もしこの人にありあまる金を持たせたら、さぞおもしろいことをするだろうと思ったものだ。だが後年朝吹氏が相当の資産家となってみれば、それが思ったほどでもなかったので、人間というものは、年が若くて貧乏でそれで道楽するときがいちばんおもしろいものだと知ったのであった。


 


【箒のあと(全)・
目次へ】【箒のあと・次ページへ