二十四
福澤先生の思想(上巻77頁)
福沢先生は少年時代に漢学を修め、その後長崎に出て蘭学を学び、ついで大阪の緒方塾に行って緒方洪庵先生の指導を受けた。二十五歳のときには、すでに江戸に出て幕府の翻訳方に出仕した。また、渡米、渡欧の外国旅行もしているので、若いころに腰をおちつけて勉学する時間が少なかったのではないかと思うのだが、それにもかかわらず、誰もが言い出したこともなかったような新しい考えを発表されることが多かったのは、生まれながらにして学問的な思考力にすぐれていたからだろう。どんなことについても、いいかげんに見過ごすことをせず、根本的に疑問の眼をむけて研究していくという態度を持っておられた。
伊東茂右衛門(原文「伊藤」)氏の話である。「先生が明治三年に中津に帰られたとき、父親の墓参りをして、つくづく考えこみ、父は死んで、この土の下にはただ物質的な遺骨がうまっているだけだ、その墓にお詣りするというのは、どうかんがえても意味がないのではないかと自問自答されていたが、その後、この問題についての先生の結論をきくにはいたらなかった」とのことである。
また、井上角五郎氏の話はこうだ。「わたしは福澤先生からの依頼で、お子様がたの家庭教師をしていたが、あるとき三八さんがまだ三歳くらいのいたずら盛りのときに、先生が食事をなさっているそばで、ごはんのはいったおひつからシャモジを取り出して、おもちゃにしているのを見て先生はこう言った。『人間に長幼の序(注・年長者と年少者のあいだには守るべき秩序がある、の意)があるというのは、こういうことを言うのだ。三八が成長しても、子供のときに、こんなことがあったと、あなたが話してくれれば、そういうことに関して、あなたには自然と頭があがらないようになるのが人間の常というものだ。どんな豪傑であっても、年少の者は、年長者にたいして敬意を表さなくてはならない。これが人間の世の約束である。』 このように、先生は、なにごとにおいても軽々しくものごとを見逃すことをしない思想家である」と言われたのだった。
また明治十七、八(1884,5)年ころのことだったか、先生は、正月そうそうの、理学博士の安永義章という人との談話の中でこのようなことを言われた。「日本の和歌や俳句は、かな四十七文字の数学的な順列組み合わせによって、すべて割り出しうるものだ、その組み合わせは膨大な数になることは言うまでもないけれども、和歌の三十一文字、俳句の十七文字に、占いの八卦のように、かなをすべて順番に載せていくことで、とにかく、どのような名歌や名句も、この組み合わせの中には含まれていることになるはずではないか、安永さんは数学者だから、この説をよく数学的に研究してみてほしい」。
その結果を見るにはいたらなかったが、この考えだけは、論説として時事新報に発表なさったのだった。このほかのことでも、先生はなにごとにおいても思案にすぐれており、私たちがなにかの新説を考えて先生に話すと、先生は、さらにこれを引きのばしたり改造したりして、かえって先生のほうからその考えをきかされることが少なくなかった。
先師の家庭(上巻79頁)
福澤先生が、わが国の学者にとって従来禁物とされた音曲(注・音楽)と舞踏を家庭内にもちこみ一家だんらんの手本として示されたことは、非常にすぐれた見識であったと思う。私は、音曲や舞踏といったものには絶対に没交渉をつらぬく水戸士族の家に生まれたので、三味線の音をきくと、習慣的に、なんとなく悪魔の声でもきくような恥ずかしいような罪を犯しているような気持ちになったものだった。だが、福澤先生が長女のお里さんに清元や長唄を習わせ、おしゅんさんや、おみつさんにも、それぞれ皆に音曲を習わせて、おりにふれて自宅でおさらい会を開いたりされた。
明治三十(1897)年前後に、イギリスの詩人で「ライト・オブ・アジア【亜細亜の光】」の著者であるエドウィン・アーノルド(原文では「ウヰドウヰン・アルノルド」。慶應義塾の客員講師になる)氏が福澤家の客となられたとき、令嬢たちに楽器を弾かせ踊りを踊らせ、一晩の饗応とされたこともあった。
また亡くなった堀越角次郎氏が、令嬢ふたりに踊りをしこんだことが大の自慢だったときに、そういうことならといって慶應義塾の講堂広間を貸して、その舞踏披露会を開かせたことがあった。当時堀越の娘さんは、長女のほうが十二、三歳で道成寺を踊られたが、私たち観客は、夜がふけるにつれ、こそこそと逃げ出そうとするので、先生が広間の入り口に立ちはだかり、見物人の退席を監視しておられた姿が目に浮かんでくる。
ともあれ、日本の家庭に音楽がないことは、一家団らんに楽しみが欠けていることを意味する。家庭の悲劇の多くが、このような欠陥から生まれてくることを、するどく見越し、音楽というものを家庭の中に誰に恥じることなく大胆に導入した先生は、私たちをおおいに感化したのである。私などが音楽に興味を持つようになったのは、まったくのところ、先生からの影響なのである。
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