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 二十三 福澤先生の雑話

  私は、明治十五(1882)年から二十(1887)年まで時事新報の記者としての仕事がら、毎日のように福澤先生のそばにおり、またはじめてお目にかかってからの二十年間には、いろいろな機会先生からおききしたことも多い。印象に残ることも数え切れないのであるが、そのうちの二、三を書いておきたい。

  「大村益次郎のこと」
緒方
(注・緒方洪庵)の塾生のなかにはのちの世に名をあげた人物は少なくないが、長州の大村益次郎などは、その中でも一風かわった男だった。ちょっとしたことにも意地悪で陰湿で、塾生たちがときどき生意気な女中をこらしめる(原文「征伐」)という名目で、ふとんでぐるぐる巻きにしていじめるようなときにも、自分で言い出しておきながら知らん顔をするような、蔭にまわって、殴らずにひねるというような男だった。そんな具合だから
人に憎まれたのだろうか、京都で暗殺されてしまい、とうとう非業の最後をとげてしまった。

  「緒方洪庵のこと」
緒方先生は学者風で、俗世間のことには無
頓着で、塾生の世話は一切を夫人に任せ、もっぱら講義や翻訳にかかりきっておられた。先生の翻訳はじつに大胆というのか不敵というのか、はじめに原文の意味をかみくだいて十分に消化したところで、その言わんとするところをはっきりさせるために流暢な表現に置き換えるので、原文と比べてみると言葉がまったく違っているようだが、その元の意味をわからせるという点では
いたれりつくせりで、私などもその翻訳法にはとても感心して、のちのちまでこの方法をまねることが多かったのである。

  「高野長英のこと」
福澤先生は、蘭学者の先輩諸氏が体験した苦労と
自分自身の境遇を比べ、先輩に非常に深く同情されていた。あるとき三田演説館で蘭学の先輩諸氏の伝記の連続公演をされたことがあった。そのなかで高野長英のことを述べられたときには、感無量でほとんど涙を流さんばかりの表情で、「長英が脱獄後、先輩名前は忘れたの家を訪れたとき、主人はそれを察し、取次の者に、高野長英などという者がこのあたりにいるはずはない、さっさと立ち去れ、と大声で叱りつけさせたあと、台所のほうにまわらせて、カミソリ一挺(注・一本)となにがしかの金を与えられたそうだ。私などはおそく生まれ、緒方の塾を出たころには蘭学に対する禁制もゆるんでいたから長英のような苦労もしなかったが、もしも私が長英の時代に生まれていたら、もしかしたら脱獄や人殺しもしたかもしれないと思うので、先輩が学問の道のために苦心したことを思うとまったく同情を禁じ得ない」と述べられた。この講話は二、三回にわたったもので、原稿もあったはずなのに、その後どうしたものか
新聞などにも発表されなかったようである。

  「尺振八のこと」
福澤先生が二度目に幕府使節に従って渡米したときのことである。(注・これは、慶應三(
1867)年の幕府の軍艦引き取り交渉のときに渡米したときのこと。福澤の一度目の渡米は、1860年、万延遣米使節の従者として。またそれら二回の渡米のあいだに、文久元(1863)年遣欧使節の通訳としてヨーロッパにも行っている)。そのときの話として先生は、「この航海中、ひどく激しい暴風に遭い、長い航海にはもともと慣れない日本人のなかには、いまにも船が転覆するのではないかとうろたえる者もあった。そのなかに尺振八(注・原本にはしゃく」とルビがふってあるが、「せきしんぱち」が正しいようだ)という男がいた。その男がなにを思ったか、急に身の周りの品をまとめて今にも駆け出すようなそぶりを見せたので、私は酒を飲みながら『尺さん、あなたはそんなようすをして、どこへ逃げていくつもりですか』と言うと、尺もそのときはじめて船の中にいることに気がついて、なるほどと観念して、あとで大笑いしたことがあった」と語られた。尺振八は帰国後に英語塾を開き(注・明治三年に設立された共立学舎)、明治初期の洋学者として知られた人物である。

 


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