二十二 論説の執筆(上巻71頁)
私は明治十五(1882)年四月に渡邊治とともに慶應義塾を卒業し、五月にすぐさま時事新報社に入社した。時事新報は、その年の三月一日に初号を発行したばかりの創立から日の浅い新聞だった。私たちはここで最終的には論説記者になる予定だったが、当分は見習いの身分で、なにか適当な題材があったときに執筆したものを福澤先生に見てもらうということになった。私は時事新報に自分の書いた記事が掲載される栄光を夢みて、またしても渡邊との競争が始まった。
ところがそのころは新聞が論説だけで売れる時代で、とくに時事新報は福澤先生の論説で名高いのだから、学校を出たばかりの駆け出しの書いた論説が堂々と紙面を飾るということは簡単なことではなかった。だがその十月に、私の執筆した「米国の義声天下に振ふ」という一文が福澤先生からとてもほめられ、渡邊よりひと足先に、時事の社説欄に私の記事が載った(原文「我が文旗を翻へす事を得た」)ので、鬼の首でも取ったようにうれしかったものだ。
この論説は、当時、中国が朝鮮を属国のように扱っているのを日本をはじめとする諸外国がただ指をくわえて見ていたときに、アメリカがフード将軍(注・Lucius Harwood Foote、フートが正しい発音か)を駐剳使節(注・ちゅうさつ、駐在の任官のこと)として朝鮮に送りその独立を認めるという、あざやかな措置をとったことを称賛する記事だった。先生はこの記事を読んでとてもほめてくださり、その晩には夕飯をごちそうしてくださった。日本のお膳のうえに西洋料理を並べ、そばでおしゃくをしてくださっていた奥さんに「今日は高橋さんが名文を書いたので、明日は新聞の社説に載るのだが、実によくできたよ」と、いかにもうれしそうに話されたので、私はおおいに面目をほどこし、人生でこれほどうれしかったことはない。
この時から先生は、私を社説記者とみなし、しばしば呼ばれて論説の代筆を命じられた。私は一心不乱に先生の言うことを書き取り、それを筆記して提出した。ときによっては、はじめから黒々と墨で訂正され、先生が自分で書かれるよりもよっぽど手間がかかって申し訳なかったこともあるが、ときによっては少しばかりの加筆ですむこともあった。そういうときの先生の喜び方はふつうではなく、とくにその文中になにかおもしろいところがあるときなどは、読み返してそれをほめられるので、私たちにとってはそれが大きな励みになるのだった。
さて十五年も暮れて十六(1883)年だっただろうか、私は、西洋諸国が、当時、東洋において勢力を増してきた中国に媚びるような視線(原文「秋波」)を送り、一方、ややもすると委縮がちだった日本には愛想をつかすような形勢があることについて警告を発する記事を書いた。そのなかに、「秋風起って紈扇寵を失ひ、春心動いて美人恩を蒙る(注・男がひとりの女から別の女に心を移していくたとえ。紈扇=がんせんとは、白い絹の扇。)」という一句があるのを見て先生は激賞され、そのときにも晩餐のごほうびをいただいた。だが、時事新報に対してしきりに神経をとがらせていた政府は、なにをうろたえたのか、この記事が掲載された新聞に一週間の発行停止を命じたので、私としては、一方ではとても申し訳ない気持ちではあったものの、もう一方では非常に誇らしくもあったのである。
その後私は、「わが日本は北海に国することを忘るべからず」という論説を書いた。これは、日本は国際競争が激しい欧州諸国からかけ離れた極東に位置しているために、悠々安閑として日々を送ることができるが、日本が、イギリスやドイツに近接する北海の島国であると仮定したならば、はたして今のようにのんびりしていられるだろうか、という論旨だった。末尾に「古語にいわく、志士は常にその元【こうべ】(注・首のこと)を失うことを忘れずと、わが日本国もまた常に北海に国することを忘るべからずなり」とうたい上げ、これも先生のおほめにあずかった。
そのころ内務省衛生局長で、先生と緒方塾(注・適塾のこと)で同窓の長与専斎氏が福澤先生に話されたところによると、井上毅がある人に向かって、「近頃、時事新報の社説は、論旨といい、文章といい、その傑作にいたっては、決して韓柳欧蘇(注・唐代の韓愈・柳宗元、宋代の欧陽脩・蘇軾。一流の名文家のこと)の下にあらず」と評価されていたとのことで、福澤先生は、井上がこんなことを言っていたそうだと満足気だったのだが、この時先生は五十二、三歳で、もっとも文章に脂がのっていたときではあったが、これをきいた波多野承五郎氏が、近頃の時事新報に活気があるのは、先生の論説だけではない、高橋、渡邊のような若者パワー(原文「若手の血気」)がまじっているからだと言ってくれたので、私たちもいささか、「驥尾(注・きび)について千里を走る(注・ハエが駿馬の尾について千里はなれたところにいく。すぐれた人のあとについてそのおかげをこうむること)」ことができたという感じがしたものだ。
このようにして私は、明治十五(1882)年から、二十年に時事新報を去るまでの六年間、渡邊治とともに福澤先生のそばにつかえて、ほとんど毎日、手取り足取り論説の書き方を教えてもらい、力及ばずといえども少しばかりは先生の文章を書き方を身につけることができたことは望外のしあわせだった。門下生は多いが、私たちのように先生から直接の指導を受けた者の数はかなり少ないだろうと、いまさらながらにその幸運を喜んでいる次第である。
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