二十一
福澤先生の使者(上巻68頁)
明治十八(1885)年の秋、明治天皇陛下が横浜から日本郵船の横浜丸に乗船せられ、まず長州(注・現在の山口県)の三田尻に御上陸、そこをふりだしに山陽道を通って京都まで巡行されたとき、私は時事日報の通信記者として出張を命じられた。
その出発の前、福澤先生は、私が帰りに大阪に立ち寄ることになるため、私に緒方洪庵先生の未亡人に手紙と金一封をお渡しすることを命じられた。先生はつねひごろから緒方未亡人のことを、「大阪に居る神様」と呼ぶほど実母同様に敬愛され、おりおりの文通はもちろんのこと、小遣い用の金を贈ることもあった。
私はそのことを前々から知っていたため、この機会を利用し先生の適塾在学中のエピソードをききだそうと思い、明治天皇が神戸に無事到着されるとすぐに大阪をめざし、今橋の緒方未亡人宅を訪問し、先生から預かった品々を未亡人に手渡した。
未亡人は、年のころ六十歳を超えていると見受けられたが、小づくりで、丸顔で、目がことに大きく、元気な声で弁舌さわやかに、まず福澤先生の近況をたずねられたあと、私の質問に対して先生在塾当時の様子を語ってくださった。
未亡人は先生が適塾出身であることをこのうえない誇りとされているようで、また先生が未亡人を母のように大切にしてくれることに大きな喜びを感じているようだった。そして以下のように語られた。
「福澤さんは、私を大阪にいる生神だと申しておらるるそうで、昔を忘れず親切に種々気をつけてくれます。福澤さんが塾におられたころは、ずいぶん豪傑ぞろいで、大村益次郎、大鳥圭介、佐野常民、長与専斎など、後年出世した人がたくさんいましたが、故人(注・緒方洪庵のこと)は塾生の世話を一切私にまかせていましたから、私がまかない(注・食事の支度)から洗濯物まで引き受けて、塾生は家族のようなありさまでした。
福澤さんは酒が好きであったが、挙動はいたっておとなしく、一度も私たちに世話を焼かせたことはありません」
そして最後には政治の話にまでなり、非常に弁が立つので、かねてより福澤先生からきいていたとおり、この婦人は非常に行動力のある人(原文「遣り手」)だったに違いないと感服した。
ここで昼食をごちそうになり、未亡人から福澤先生への返書をもらい、そのころようやく大津まで通じたばかりの鉄道に乗り、大津で三井寺や唐崎の松などを見て回り、さらに京都で一泊してから、神戸からの汽船で東京に戻った。
帰京後すぐに福澤先生に報告したところ、夫人がお元気そうだったことを、ことこまかにお聞ききになってとても満足されたようであった。
演劇改良の発端(上巻70頁)
明治十八(1885)年ころだったと思う。どういうきっかけだったか、私は盛んに演劇改良論(注・歌舞伎の近代化論)を唱え、時事新報にも論述したことがあった。紙上で、英語で書かれた時代物、世話物などの脚本をいくつか紹介し、外国の演劇とはこのようなものだという例をしめし、その後「梨園の曙」という題名で出版した。
そのころちょうど、のちに子爵になった末松謙澄がイギリスから帰国し、この人もまた演劇改良を主張していた。依田百川(注・依田学海)もそうした文章を書き、これまた多少の西洋思想を知っていた川尻宝岑という漢学の先生が、それらの主張に共鳴して「弁内侍」という戯曲を書いた。
その披露をかねて、誰の主催だったかは知らぬが、築地河岸の大椿楼という茶屋で脚本の読み会が開かれた。そこには、伊藤博文伯爵(のちに公爵)、市川團十郎丈も出席し、脚本家(注・川尻)が脚本を読んだ。
その後、これに対して出席者が意見を述べ、依田氏が、みごとなひげを撫でながら、さかんに熱弁していたことが今でも思い出される。
そのとき伊藤伯爵は一同を見まわし、演劇改良ももちろん必要なのだが、これまでに見られたほかの改良運動はあまりに行き過ぎて、なにもかもが西洋化してしまった。振り返ってみると、古くから日本にあった大切なことや良いことも忘れられてしまい、ややもすると改良が改悪になってしまっていることもなきにしもあらずだ。このようなことは、よくよく研究して、運動が盲動におちいらないように注意したほうがよいだろう、という、いかにも老練な政治家らしい注意を与えてこの会をしめくくった。
このとき末松氏は、イギリスから帰国したばかりの若者で、伊藤伯爵の長女生子(原文では「幾子」)と婚約していた。かつて、東京日々新聞で西南戦争の記者として名を上げ、あの「鉄壁集」という詩集を出して好評を博した人が、その後イギリスで数年の学問修行をして帰国したのだから、当時の人気には目をみはるものがあった。
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