二十
弁士の概評(上巻64頁)
私が初めて上京した明治十四(1881)年の東京では、慶應義塾演説館、明治会堂、両国中村楼、井生村楼などで盛んに政談演説が行われていた。私塾に通っていた学生たちは、それらを聴きにいくことが日曜日の学課のようになっていた。
さて、明治十四年からの数年間に演説壇上に立った弁士たちの顔ぶれをざっと見てみよう。
三田演説館では、福澤先生が大本尊で、その演説ぶりは前述したように座談風で、演説調ではなかったが、これはまったくの例外といってもよかった。
明治会堂の一群のなかでは、矢野文雄(注・矢野龍渓)氏が代表者の立場にあった。色黒でやせていて、口ひげが立派で上品な風采であったが、弁舌もなかなかのもので、あるときなどは奉書の紙をくるくる巻いて、講釈師が荒木又右衛門の御前試合を語るときのように、それを振り回して演説されたこともあった。
犬養毅氏は、周知のように精悍であり、ときに、からかいぎみな口調でシンプルさの裏側に力強い威圧を感じさせていた。
藤田茂吉氏は小柄で色白で、鼻の下に黒々としたひげをはやしていた。いかにもきびきびしたようすだったが、この人の弁舌もなかなかのものだった。
波多野承五郎氏は、わずかにかすれ声で、弁舌というほどではなかったが、ときおり警句を吐いて聴衆を喜ばせた。
三田以外の弁士では、福地源一郎氏が群を抜いていた。氏は東京日々新聞の主筆で、当時、政府に買収されたという噂があり、御用記者として新聞の記事を書き政府擁護の独演会を催していたので、あるときには会場でやじが飛ぶこともあったものの、ふだんは少しどもるくせがあるのに演説はすらすらと力強く、大物の貫録を示していたものだった。
嚶鳴社の一群においては、沼間守一氏が旧幕府出身で、てきぱきした江戸弁でもって聴衆を魅了していた。上背はあまりなく、色白で目がぎょろりとしていた。嚶鳴社の演説聴講料は十銭だったが、あるとき沼間氏が入場料を徴収する受付に座っていたことがあり、なんとなく寄席の番人のように見えたこともあった。
島田三郎氏は、よく知られているように達弁で、討論会などでは一番目立っていた。
草間時復、波多野伝三郎などという人たちもいた。
田口卯吉という博士で、自由貿易論を唱えた経済学者もいたが、この人は色白で、おおがらで、演説はうちとけた態度で聴衆に親しみやすいものだった。
そして、末広重恭、大石正巳、馬場辰猪、小野梓といった一騎当千の弁士もいた。なかでも馬場辰猪氏は土佐弁で非常に歯切れがよく、聴衆の人気が非常に高かった。
金玉均庇護(上巻66頁)
明治十八(1885)年ごろと記憶しているが、日本政府は朝鮮問題について、当時、李鴻章が全盛だった中国と衝突することを恐れていた。中国が、金玉均(注・朝鮮独立をめざし、前年閔妃暗殺クーデタに失敗)が日本に亡命し、閔妃政府打倒を画策していることに不快感を持っているので、日本政府としては、これがなんら日本政府の意図とは関係ないことを中国に示すため、金を小笠原の島に配流する決定をした。
このとき福澤先生は、朝鮮問題についての政府の弱腰に激怒したばかりでなく、それまで何年も先生に信頼を寄せていた金玉均が島流しになることをあわれんだ。熟慮熟考の末、この配流をのがれることのできる唯一の手段は、フランス公使館に、金みずからが保護を訴え出ることだという結論にいたったようで、金の真意を訴えるフランス公使宛ての長い英文の書簡をしたためた。そしてある晩、ひそかに私を自宅に呼びよせ、この英文を鉛筆でなるべくきれいに写してほしい、秘密の書類なのでなるべく人目につかないほうがいいので、うちの玄関先の座敷がいいだろうといって、丸いテーブルと椅子を貸してくださったので、私はその英文をまずていねいに西洋紙に写しとった。
つまり、この英文は先生が書かれたものではないにしても、万が一、筆者の取り調べがあったときには面倒になるということで私に複写させたのだろう。しかも鉛筆書きだったことも、よくよく考えてのことだったに違いない。
そこで私は夜おそくまでかかってこれを写したが、それが終わるとすぐに、先生はこれを白い紙袋にしまい、宛名も書かずに、ご苦労だが明日横浜に行きグランドホテルに滞在中の金玉均に目立たないように渡してもらいたい、ということだったので、翌日私は先生に命じられた通り正午前にグランドホテルに赴き、金に面会した。
金は喜んで私を迎え、その書簡を受け取って、二度ばかり、ありがたそうに読んだあと、私と昼食をともにするために食堂に案内してくれた。
さらに玉突場にも誘ってくれて、私と一ゲームをしたが、彼は器用な男で、碁もうまければ日本の花がるた(注・花札のこと)もとても強かったそうで、ビリヤードの腕も150くらいだったとみえ、当時の私ははじめから敵ではなかった。
彼は中肉中背、朝鮮風のすこし平べったい青白い顔で、朴永孝ほど家柄がよくないから品格にはとぼしいけれど、小さな目と薄い唇から機敏な性格が読み取れ、いかにも頭の回転がよさそうな才子肌だった。
福澤先生は、金玉均らが朝鮮問題で見せる画策は、いつも過激で非常識のように思えるけれど、彼らは、はじめから命を投げ出しているので自然に極端に走るのだろう、と言われたことがあったが、彼らの、国のために死生を顧みないその勇気は、同情と同時に畏敬にあたいする。金玉均の死が日清戦争の一端となったことも、偶然ではあるまい。
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