十九
演説の稽古(上巻60頁)
私が明治十四年に初めて上京したのは、あの西南戦争のあとに興ってきた国会開設請願という政治的な運動が頂点に達していたころで、福澤先生は、大隈、伊藤、井上らの政権中枢の指導者と協議して、立憲政体の樹立のための準備にとりかかっているときだった。京橋区木挽町に明治会堂という政治演説場を作り、矢野文雄(注・矢野龍渓)、犬養毅、尾崎行雄、波多野承五郎、藤田茂吉、箕浦勝人、須田辰次郎、渡邊修、高島小金治などの弁士に、政府攻撃の演説をさせた。
彼らの言い分はだいたい福澤先生の受け売りで、当時世間で問題となっていて藩閥政府の違法行為とされた、北海道の官有施設を薩摩の息のかかった商人に払い下げるという事件を扱うことが多かった。
このころの演説会は、三田の一派のほかでは、沼間守一、島田三郎らが率いていた嚶鳴社の一派があった。彼らが浅草の井生村楼や江東中華楼などで、十銭くらいの入場料を取って演説会や討論会を開催していたので、私なども、休日を利用して聴いてまわっては、その人のうまい、へたを評価したり、特徴のものまねをしては、一日もはやく演説がうまくなりたいと念願していた。
そこで私は慶應義塾に在学中、さかんに演説の練習をして、まずは水戸訛りを矯正することに励み、演説の草稿を作って机を前にして低い声で演説してみることもあった。
そのころの慶應義塾には、正科のほかに、最初から順を踏まずに講義に飛び入りして聴講することができる予科というものがあった。
この予科の学生に黒岩周六(注・のちの黒岩涙香)という人がいて、この人はのちに万朝報を主宰して名声をあげたが、西洋小説の翻訳者としてもきわめて有名になった人である。この黒岩も、やはり演説の練習をしたいと思っていたひとりだったので、仲間同士、夜中にこっそり宿舎の台所の横から廊下伝いに演説館の中にはいりこみ、ろうそく一本をテーブルの上に立て、ひとりが弁士となって滔々と演説するあいだは、もうひとりが聴き手となり、交代で演説をやっては互いの演説を批評し合うというようなことまでして、熱心に練習をしたのだった。
今ふりかえると、かなり子供じみておかしい話である。でもあのころは、世の中の人がみな政治論議に夢中になり、そのためには演説が貴重な武器だったのだから私たちはまじめに練習をしたのであって、黒岩氏がのちに雄弁家のひとりになったのも、この練習がおおいに役に立ったにちがいないと思う。
今日の学校ではスポーツばかりに熱中し、演説の練習を奨励するという話をきかないが、私は、学生はどのような方面に進むにしても学生時代に演説の練習をしておくことはとても大切なことだと思っていて、そのような風習がなくなってしまったことを非常に残念に思っている。
先師の体訓(上巻62頁)
福澤先生が学生にたいし、率先実行(原文「躬行実践」)の教訓を与えてくださったおかげで、それが生涯身についたことは貴重だった。このような実践で示す教育は、昨今ではあまり見られないことだ。
明治十七年ごろのことだと思う。世の中は、非常にはげしい不景気に見舞われていた。これは、西南戦争のために増発された不換紙幣を整理する政策の影響のためだった。松方大蔵卿が明治天皇の御前会議で、どんな困難があっても最初の目的を達成するまでは方針を変えないように、という勅命を受けて断行したものだったから、銀座通りには軒並み貸家の札が下がるという状況で、これは昭和五、六年の不景気よりももっと深刻だったと思う。
そのころ埼玉の熊谷に、竹井澹如という福澤先生を崇拝する有志家がおり、ある時先生を熊谷に招き演説会を開催したことがあった。これに時事新報社から、私と津田興二氏が随行することになり、その他誰だかは忘れたが、二、三人の前座演説者とともにおもむいた。なんとかいう名前の寺を演説会場として、仏壇の前に演台を設け、津田氏がまず前座をつとめた。当時世間の関心事だった政府の言論弾圧について、これを攻撃し、社会の安全弁を閉じてしまうと、いつか必ず大きな破裂がやってくることは間違いないと、語気も荒く次第に熱気を帯びてきたので、先生は控室ではらはらしながら聴いていたが、とうとう制止して、みずからが演台にあがり、そのころ唱え始めたばかりの実業論について演説された。その論旨は、地方の産業開発についてであった。
そのようなことをへて全員の演説も終わり、上野に戻ってきたときには、午後七時ごろになっていた。空腹でもあったし、これから三田までどうやって帰るのだろうと、一同は先生のようすをうかがいながら黙ってあとからついていった。先生はそのころ、着流しの和服に羽織を着ておられたが、尻はしょりをされたので、絹のパッチ(注・ステテコのこと)をはいておられるのが見えた。そして、ここから人力車に乗るのは金の無駄になるので、自分の脚で歩こうではないかと、一同を見まわして言われるや、先頭に立って、さっさと歩きだされた。
新橋あたりにさしかかったころ、手招きして、すし屋ののれんをくぐり、「さあ、空腹しのぎにひとつお上がりなされ」と、率先して海苔巻やまぐろ寿司をぱくつかれたので、私たちは初めての経験だったのではじめは手を出せずにいたが、あまりにおなかがすいていたものだから、しばし立ち食いの宴となった。そして先生は懐から財布を取り出し勘定を払うと、また先頭に立って三田台まで帰られ、私たちも当時宿泊していた慶應義塾の塾舎に帰りついた。
先生が人力車にも乗らずに塾生を引率し、時節をわきまえて倹約の模範を示されたその教訓に、われわれは感服するよりなかった。このとき先生は五十一歳だった。
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