十八 福澤先生の演説(上巻58頁)
福澤先生は日本で初めて西洋流のスピーチ、つまり演説というものを始めた開祖にあたる。明治六年ごろ、当時西洋の学問の大家だった、西周、中村敬宇、箕作秋坪、神田孝平などの面々により明六社という学会が組織されたとき、日本語で西洋流の演説ができるのかどうか、という問題が起こった。そのとき福澤先生は、日本語で演説できないわけがない、という理由をよどみなく述べまくったあと、一同を見まわして、これが演説のできる、なによりの証拠ではないか、と言われたそうだ。
その後明治八年に、三田台上に今も残る、あの演説館が完成し、当時の慶應義塾の先輩たちが、先生を本命の演者として毎週一回、傍聴無料で演説会を開催した。これが三田の名物になり、東京中の学生はもちろん各地から聴きに来る人で、いつも大入り満員の盛況となった。
明治十四年、私たちも上京するやいなや、これを聴きに行くのがなによりもの関心事で、毎回ほとんど聴き逃さなかった。
福澤先生の演説ぶりは、壇上のテーブルの前に立ち、顔見知りの仲間に話しかけるような親しげな態度で、言葉使いもふだんの会話とかわらなかった。談話中に聴衆にも考えてもらうように、自分もまた考えているというふうに、まずうつむいて腕組みをし、ワンポーズおいてから、またよどみなくその問題の説明を続ける。その間のとり方のうまさに聴衆はいやおうなく魅了され、親しみを感じたものだった。
しかし先生が一番強調したい主張の部分にくると、表情も険しく真剣みを帯び、それがまた聴衆を感激させるのである。
明治十五年の秋だったと思うが、ある日先生が演説館で宗教論を演説した。その当時の仏教の僧侶の堕落ぶりを激しく批判し、「僧は俗より出でて俗よりも俗なり(注・俗界をはなれて模範的であるべき僧の行いが、一般大衆よりも卑俗だ)」という警句を吐いて、おおいに熱弁された。そのとき聴衆のひとりに僧侶がおり、怒りが高ぶり卒倒してしまうというハプニングもあった。
その後この議論は「時事新報」にも掲載され、その文章や論旨がしびれるようにうまく、私たちに影響を与えた。先生の演説は、時々ウイットとユーモアで聴衆を笑わせ、きいていて飽きるということがなかった。
三田演説館はもともと学校付属の施設なので、演説では政治論議は避け、社会問題や学説についての内容を取り上げた。福澤先生が登壇する前の前座として、義塾出身の先輩が四、五人演説を行うことになっていたので、私などもたびたび壇に上がった。のちに山下亀三郎氏が語るところによると、氏は明治十七年に上京したその当日に三田演説館に駆けつけたが、そのときの福澤先生の演説は養子論というもので、学生が都会にあこがれて中央に集まることばかりを考えるのはよくない、故郷に戻り適当な養子先でも見つかれば、さっさと応じて養家の資力をもとにして養家を盛り立てるのが出世の早道であると論じられ、また私の演題が「ハンス先生伝」というものだったが、その論旨がなんだったかは覚えていないとのことだった。
そのころの学生は演説というものを重視し、学校でもこれが奨励された。それは今日でいうところの、野球、ラグビーなどのスポーツと同じである。ともかくも、明治の初めから中期にかけて、慶應義塾の演説館が社会教育においてしるした大きな功績は、いまさら力説するまでもないことであろう。
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