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  第三期 青年 明治十四年より二十年まで

 十六
上京の端緒(上巻51頁)

  明治十四(1881)年、私は数え年で二十一歳、満年齢で二十歳で成人した。加えてこの年は、実際の身の上にも大きな変化の起きた年だった。足かけ四年在学し、あと三、四か月で卒業するはずだった中学校を退学して上京し、慶應義塾に入学することになったからだ。 

 この上京のきっかけを作ってくれたのは松木直巳氏だった。当時福澤先生は、政府の大隈重信、伊藤博文、井上馨の各参議と協議し、立憲政党の樹立の前に民間における政治思想の高まりを開発するために、先生を主筆とする新聞を発行することを計画されていた。
  先生は、そのために新聞記者にふさわしい文章の書ける人材を養成する必要があると思っていたのだが、松木氏が水戸の中学に文章の書ける若者が四、五人いると申し出たのをきき、それもそうだろう、水戸は徳川光圀公の時代から大日本史の編纂のために文筆を奨励したから今でもそのなごりがあるだろう、遺伝というのはこわいもので、先祖代々伝えられた体質はその血族に伝わるもので、体の大きい両親からはおおがらな子が生まれて顔つきも似るものだし、目には見えない知能も遺伝し文学者の子孫には文学者がいるのは当然だ、もちろん例外もあろうが、だいたいにおいてそういうものだから、水戸の学生に文章がうまい者が多いのは当然だろう、と述べられたそうだ。

  そのころ先生は西洋から伝わったばかりだった英国人ガルトン(注・フランシス・ゴルトン、遺伝学者)の遺伝論を読んで大いに啓発され、執筆中の「時事小言」の中でもそのことに触れられたほどだったから、いっそうその思いを強くされたのであろう。
  先生は松木氏に対し、水戸の学生のなかにそれほどの文章家がいるなら慶應義塾に入学させ、卒業後に新聞の仕事に携わってもらうのはどうだろう、その間の学費は自分もちでもよいと言われたので、松木氏は大喜びで水戸に帰り、まず私と渡邊にこのことを伝えてくれたので、私と渡邊は二つ返事で承諾した。そのときには石川幹明、井坂直幹のふたりにも同様に話がいき、私たちからすこし遅れてこのふたりも上京し、福澤先生の庇護のもとに慶應義塾に入学することになったのである。 


初謁の福澤先生(上)(上巻52頁)

  私渡邊治は思いがけない松木氏の紹介により福澤先生の慶應義塾に入学することになったので、明治十四年の六月ごろ、東京、水戸間を運行していた乗り合い馬車で上京した。松木氏はその二、三日前に東京に出ていたので、翌日の午前十時ごろに松木氏に連れられて三田台上の福澤先生のお宅にうかがった。先生のお宅は、現在は令息である一太郎君が住まわれているが、先生のご存命中にも模様替えをしたりその後も増改築が行われているので、当時のようすからはだいぶ変わっているようであるが、玄関はやはり今と同じところで、むかって左側に洋間の応接室があり、その奥に三間つづきの大広間があった。そこで先生にはじめてお目にかかったのである。 

  先生は左手に丁字型の手のついた煙草盆を持ち、上手のほうに無造作に座られた。当時私は二十一歳、渡邊は十九歳、福澤先生は四十八歳で、はじめて私の目に映った先生の印象は次のようなものだった。まず大きな顔の輪郭がはっきりしていて顔のすべてのパーツがよく整っており、ひたいが広く、眉毛は濃く太く、目が大きかった。眼光は人を射るというほど鋭くはないが、喜怒哀楽の変化に富んでいるように感じられた。形のよい鼻は高く、口は一文字に大きく決断力が強そうだった。左の頬にやや大きなほくろがあり、髪はまんなかよりすこし左に分け目があり、ひげは濃そうだが、すべてそり落としてあり痕跡をとどめなかった。 
 居合術を好み、また運動のために米つきをされたような先生であるから筋骨たくましく、写真で見たことがある西郷隆盛と似ている点があるように思った。そして、先生がうれしくて顔を崩して笑われるときと談話中にちょっとまじめになってつんとすまされたようにされるときの違いはとても大きく、顔がこれほど変化するとはいっても、先生ほど変化の多い人もめずらしいだろう。
 のちに大熊氏廣氏が福澤先生の銅像を作られたときのことである。私はヨーロッパから帰国したときに同船した縁で大熊氏と親しく、先生の銅像製作の世話係のはしくれとして大熊氏からしじゅう苦労話をきかされたのだが、非常に喜んでいるときの先生となにか深い考えに沈んでおられるときの先生の顔つきには非常に大きな違いがあるため、先生のまじめでごく落ち着いた顔を像にすると、しょっちゅうじかに先生に会っている人から、先生とは違うという不満が出るのだそうだ。木彫りの人形のように変化の少ないお顔でないだけに像を作るのは非常に難しく、誰から見てもこれは福澤先生に似ているという顔かたちを作りあげるのはとてもたいへんだとのことであった。 

  松木氏にきいていた話からは、先生はぐずぐずしているとすぐに叱るりつけるような方のように思っていたのに、だんだん話をしているあいだに脚をくずしてあぐらになるような具合で、初めて会ったのに、長年なじんだ伯父さんに対するような親しみを感じたのには、つくづく感心してしまった。


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