十五 未見の福澤先生(上巻45頁)
前述したように私は、多賀郡相田村の福田屋の若主人が東京から持ち返る土産話によって初めて福澤諭吉の名前を知った。それは明治七年、私が十四歳のときのことだった。その後、明治十年、十七歳で漢学塾の自強舎に通学しているときに、塾にあった唯一の新刊出版物であった「文明論之概略」を読んだときは、好奇心と反抗心が半々で、福澤とはいったい何者だ、尻尾をつかんでやる、くらいの気持ちであったから、もちろん心服していたわけではなかった。
だからその翌年に、松木直巳氏が茨城師範学校長と中学予備校教授を兼任し、私たちにさかんに福澤崇拝論を吹き込んだときにも、私たちは、ああ、また例の大騒ぎが始まった、くらいに思って上の空できいていたものだが、それが度重なるに従い、ついに福澤びいきのひとりになっていったのである。
当時の松木氏の福澤先生に関する話のなかにこんなものがあった。先生は、慶應義塾の講義や演説や著書や、たえまない接客などなどで目の回りそうなくらいに忙しい方だ、たまたま先生にお目にかかることができても、ゆっくり話している時間はない、だから質問することがあるときには、前もって順序よく整理しておき、廊下の立ち話のような機会でも、すばやく話しかけて要領よく答えをききださなくてはならない。また先生は、自身でも新しい英語の本を読まれるが、英書を読むのは浜野定四郎氏が一番得意にしていることなので、まずは浜野氏に読ませてその要点をききとり、それを自身で消化して日本の国情にあてはめ、たちまち堂々たる議論に仕立てあげてしまう。また先生は、直情径行(注・感情のままに行動するタイプ)で、うれしいときには顔をくしゃくしゃにして喜び、怒るときには大声を上げて怒鳴るので、教師や弟子のなかにはとても怖がっている人もあるが、小幡先生は温厚な人柄で、非常に物静かで親切なので、福澤先生と教授のあいだに意見の食い違いがあるときなどには、小幡先生があいだに立ち、双方の意見をとりもつのだそうだ。福澤先生を孔子とすれば、小幡先生は顔淵にたとえることができ、福澤先生も、小幡先生にはいつも遠慮し、話に耳を傾けられるようだ、などと語られた。
このように、松木氏があまりにも福澤先生のことを持ち上げるので、同僚からも反感を買うようなこともあったものの、その熱心さは、しまいには水戸人の心を動かして、まるで水戸に「福澤宗」の信仰グループができたかのようになった。
このようなときに、佐々木籌先生など数名の漢学者が、上京のついでに福澤先生に面会したいというので、それを松木氏が取り次ぎ、佐々木氏らは、あるとき福澤先生に会いに行くことになった。面会後、佐々木氏らは鬼の首でも取ったように、たいそう得意になっていたが、その後松木先生のところに届いた福澤先生の手紙にあった評を内々に見せてもらったところ、「釣り鐘も提灯でたたいたのでは大きな音が出るわけにはいかぬ」というようなことが書いてあり、私はこれはいかにも名句だ、福澤先生はさすがにうまいことを言われるものだと、かえすがえすもおかしかった。このようなことが、私の上京以前に福澤先生に関して知ることのできたことの一端だ。
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