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十四  地方中学の三年間(上巻43頁)


  私が明治十一年から十四年まで茨城中学に在学したときの体験を話せば当時の地方の学校の一般的なようすを想像してもらえると思うので、ここにその概略を記してることにしよう。
  のときの中学校では、のちの盲唖学校長として名高い町田則文氏が校長で英学と化学を担当していた。また、かなの研究で学士院賞を受けいで文学博士となった大矢透史が図画科を受け持ち、漢学は佐々木籌氏、理科は越後出身の上遠野富之助氏が担当していた。
 学生としては私のほかに、渡邊治、石河幹徳、村田彬、越智直など、
一クラス、二十四、五人だった。私は下市三ノ町の実家から学校までの二十五、六町(注・約2.8キロ)の距離を毎日徒歩で通学した。

  渡邊治は私よりも三つ年下ながら才気あふれていつも首席を占めていたので、私もいつか一度は首席を奪ってみたいと、渡邊を競争の目標にして火の出るような猛勉強を続けた。

  あるときなど、風土病の瘧(注・ぎゃく。おこりのこと)にかかり発熱する時間になると四十度の高い熱が出るのに、試験の直前に学校を休むのがいやで高熱をおして出席したところ、悪寒がひどくついに講堂で倒れて先生をひどく驚かせたこともあった。しかし私は小さいころからいたって体が丈夫だったので、このようないいかげんな不摂生をしてもなんとかなり、渡邊との競争が勉学を進めるのに非常に大きな助けとなった。
 私と渡邊の交際についてはいろいろな思い出話がある。たとえばこんなことがあった。
 明治十三年、文部卿の河野敏鎌氏は、世間の一般感情が国会開設請願だとか藩閥政治打倒だとかとかく反政府の方向で燃え上がっているので、これを鎮めるために学校の教育内容を監督するという方針を打ち出した(注・明治十三年の教育干渉令発令)。文部省の権大書記官であった島田三郎氏を諸県に派遣しこの干渉教育についての大々的な説明をはじめた。
 さて島田氏は水戸の県会議事堂で二時間にわたって干渉教育論を論じた。そのとき私と渡邊は学校から書記役を命じられ、ここぞとばかりに必死に筆記をしたのであるが、のちに「シャベ郎」とあだ名された島田氏の弁舌であるから、筆記するのがこの上なく困難で、渡邊と私の筆記したものをあとからつきあわせて、ようやく長い演説の筆記録を作ったのだった。
 この筆記録がその後どうなったのか、そのときは全く知らなかったが、大正十四年十月十日に東京九段の偕行社で開催された町田則文氏の古稀の祝い、ならびに大矢透氏への博士号授与の祝いの席上で町田氏が話されたところによると、例の筆記録をその後島田氏に直接送ったところ島田氏自身がこれを読み、自分で書いてもこれほどうまくは書けないだろうと非常に褒められ、いろいろな県に出張して演説をしたが、このような筆記録ができたのは水戸だけだと感心されていたそうである。
 当時の私たちは若く知識欲も旺盛で、どんなことでも新しいものには耳を傾けたものだった。あるときなんの用があったのか、水戸に福地源一郎氏が来られたことがあった。最初は誰も福地氏であることを知らず、風呂敷のはしに福地源一郎という紙の札がついていたのをある人が見つけてからが大騒ぎになった。学務課長で、この人も知識人とされていた志賀などという人たちが福地氏の泊まっている宿におしかけ、そのころ藩閥政治擁護論を大いに唱えていた福地氏に議論をいどもうとしたのであるが、志賀らは福地氏から子供扱いされて相手にもされなかったということであった。東京の大家と地方の知識人のあいだには大いなる差があるものだとひそかに笑ったものである。こんなふうにして過ぎた正味三年間の中学校生活は、私たちにとり希望に満ち非常に愉快な時代であった。


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