十三
少年の願望(上巻40ページ)
むかしから身分の低い者が世の中に出ようとするとき、どんな豪傑とて最初からとてつもなく大きな望みを持っているわけではないことは、豊臣秀吉が丹羽、柴田の出世をうらやみ、姓を羽柴と名乗ったということからもよくわかる。
私が、亡くなった安田善兵衛翁にその出世物語をうかがったところ、翁の望みは、郷里の越中富山では千両の金持ちが千両分限と呼ばれて尊敬を受けていたので、自分の代で千両分限になってみたい、ということだったそうだ。安田翁は一代で一億円前後の大分限者になった人であるから、この点においてはわが国で随一であるのに、幼いころの望みはただの千両だったのである。
ならばわたしのように貧乏士族に生まれて金に縁の薄い者の望みなど、いたって小さくて当然だった。母の地道な働きぶりで丁稚奉公から引き戻してくれたその恩に報いたく、十八歳ではじめて中学校に入学したときは、この学校を卒業し少しでもはやく就職して老父母の生計上の心配をなくしてやりたいというのが精一杯の望みだった。
私は、生家の裏手に祀ってあった笠間の紋三郎稲荷の小さな祠に毎朝おまいりして、この願望成就を祈念したものだ。当時の師範学校の校長の月給は五十円ほどだったので、せめてはその半分くらいの収入のある教師にでもなりたい、というのが望みのすべてだった。
今日振り返ってみると、その小心ぶりに驚くほどだが、少年時代にあのような苦境に立ち、勉強にも真剣さが増したことはとても貴重な経験で、ぬくぬくと育ち(原文「温飽(おんぽう)に狎(な)れて」)人生の窮苦を体験する機会がなかった人たちに比べると、いってみれば「苦は楽の種」で、むしろ幸福だったのではないかと思う。
新人の感化(上巻41頁)
明治十一年、水戸上市の師範学校構内に中学予備校が設立された。その翌年度からの中学校を開設するための準備であり、そのときの師範学校校長は、慶應義塾の塾員である松木直巳で、予備校の英学教授も兼任していた。松木氏は中津の出身で、浜野定四郎氏に一番ちかいところにいて、慶應義塾には入学しなかったようだが、福澤、小幡の両先生とも同郷という関係があったために、東京にいるころにはもちろん、水戸に赴任してからも、つねに音信が続いていた。浜野氏の薫陶によって、英学もそうとうにできていたが、人となりも機敏で、話すのがうまく、福澤先生直伝という漢学排斥論や、民権論、国権論などをさかんにふりかざして、私たちを煙に巻こうとするので、私たちもいつも難問を出して、議論を戦わせようとしたが、まったく子ども扱いされて切り込むすきがなかった。
この間に、ミルの代議政体、ギゾーの文明論、アダム・スミスの経済論などという、きいたこともないような新論を、私たちは断片的ながらも吹き込まれ、おおいに啓発された。このように、当時の水戸において、松木氏はただひとりの新知識の持ち主で、そのひとことひとことに、私たちは耳をそばだてたものだった。
こうして私たちは、明治十一年から十四年までの足かけ四年のあいだ中学校に在学し、校長の町田則史、教授の大矢透、そして松木氏の指導を受けたわけだが、明治十四年に、あと三、四か月で中学卒業という間際の時期に、私たちは松木氏から、天使の知らせかと思われるようなことをきかされた。その朗報を耳にするや、私たちは中学の卒業証書などは無駄な反故紙以下だといって、すぐに退学してしまったのであるが、それはほかでもない、次のような知らせだったからだ。松木氏からきかされたのは、私たちが、福澤先生の庇護のもとで慶應義塾に入学しないかという誘いを受けているということだったのである。
こうして私と渡邊治は、明治十四年の六月に、そのころ水戸と東京の間を往復していたガタクリ馬車に乗り、松木氏に伴われて上京することになった。松木氏は当時水戸における新しい知識人として水戸人を啓発しただけでなく、私たちにとっては、まさに上京という出世の道を開いてくれた大恩人なのである。
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