十二
自強舎の学友(上巻36頁)
水戸の共同学塾である自強舎は、上市の田見小路にあった。塾長は誰とは決まっていなかったが幹部制で、その部長だと見られていたのは、剣道の達人で士族の有力者でもあった大関俊徳だった。
学課は読書作文が主で、名の知られた漢学の先生がみえて指導にあたり、また有志者の希望に応じて剣の練習が行われる道場もあった。
生徒はおよそ五、六十人で、水戸人として後年に名をなした人はたいてい、この自強舎の出身である。井坂直幹、石河幹明、渡邊治、村田彬、越智直、亀井善述、小池友徳、真木謙、石河幹徳、戸田忠正らは、みな当時の通学者である。
私は自強舎に明治十年から十一年の三月まで通学したが、この間に西南戦争があった。水戸はおおむね西郷びいきであったので、なんとなく当時の政府をこころよく思わず、思想は儒教にこりかたまっていた。
こういうなかで、私は井坂直幹、渡邊治というふたりの親友と相談し、渋井にある井坂の家で、毎月三、四回の講義会を開いたのであるが、あの浅見絅斎(注・あさみけいさい。17世紀末の儒学者)の編述した「靖献遺言(注・せいけんいげん。中国の儒学者八名の評伝)」を、最初の読書会の指定図書に選んだことをみるだけでも、当時の水戸学生の思想がどのようなものだったかがわかるというものだろう。
前述のように、自強舎の教授法は漢書の輪読(注・複数の人が順番に読む)が一番重要で、それに作詩作文が続く。ときどき先生から出る課題は、楠木正成、その息子の正儀、新田義貞を論じた、南北朝関係の人物のものが多かった。また紀行文には下那珂川記、袋田観瀑記といったものが題目になり、それに次いで、「送某之於東京序」などというのが一番の人気課題だった。添削には小原、佐々木の両先生が当たられ、井坂直幹氏の楠木正儀論が、小原先生にとてもほめられたことがあった。
またそのころ水戸の梅巷【ばいこう】に住み、「戸田藤田」と呼ばれ、有名な水戸藩の家老戸田氏の孫であった忠正氏に、石河幹明氏は次のような七言絶句を贈った。
東風吹雨々斜々 思到城西處士家
梅巷梅花柳堤柳 晴餘春色定如何
これは面白いと思い、今でも記憶している。
私は詩も好きで、時々字句(原文「詩語碎金」)をひねって詩作を試みてもいたが、むしろ作文のほうが得意であるので、よく昔の人の文章を愛読していた。
そのようなものを真似することも多かったとみえ、あるとき井坂氏が、朱竹坨が、その友人に送ったという作文時の心得を書きぬいて、「これをよく読んでごらんなさい」と、親切にも渡してくれた。その主眼は、自分の真の気持ちから出たものでなくては真の文章ではない、ということで、ややもすると古文の真似に陥っていた私に、忠告してくれたわけだ。これに私は非常に心を動かされ、その後の文章作りの痛切な教訓となった。これが、私の一年間の自強舎在学中の思い出である。
思想の変遷(上巻38頁)
西南戦争の結果は、日本の思想界に大きな変化を起こしたようだが、水戸は、旧来の思想がもっとも濃厚な地域でもあったので、よけいにその動揺は大きかった。
水戸は尊王攘夷論をもって明治維新を先導したわけだが、漢学が盛んで、旧思想が深くしみ込んでいたので、それを払いのけるのは簡単なことではなく、明治維新後の文明思潮には、もっとも遅れがちであった。新政府関係の打ち出すことがらには、ことごとく不快感をもち、当時反政府だった西郷に対しては、むやみやたらに同情心を示していた。しかし西南戦争で、その大黒柱が破壊されたのであるから、あっという間に、夢のまどろみから起こされたようなものだった。
そのような中、明治十一年五月に大久保内務卿の暗殺のニュースが自強舎に届いたとき、その辺にたむろしていた学生たちが、一斉に立ち上がり激しく拍手した。そのときちょうど、茨城県学務課長の志賀という人が来ており、今の拍手はなんのためだったのかと質問され、その事情を知ると、けしからん学生たちだと厳しく叱責されたので、学生一同は、すこしばかり時勢の移りかわりというものを理解したのである。
一般的な風潮もだが、教育に関してはなおのこと、漢学が主流であり続けた水戸地方にも、この暗殺事件のころから、ようやく変化が見えてきた。翌年の明治十二年から、水戸にも中学校を開設するため、師範学校の構内に、その予備校を設立することになった。私たちも、今までのような不規則な漢学教授で満足していては、将来、世の中に出て成功することはできないと思いいたり、ならばこれからは、英学(注・西洋の学問)の勉強もし、日進月歩の学問の道を歩みだそうと決心し、渡邊治、石河幹徳、村田彬、越智直らと、この予備校に入学することにした。
しかし、そのことが自強舎の人たちに知られてしまうと、きっとなんらかの脅しに合うだろうからというので秘密中の秘密にして、その時が来るのを待っていた。ところがその間、井坂直幹氏なども少し時勢の変わっていくのに目覚めたのだろう、自強舎に、なぜか一部だけ伝来していた福澤先生の「文明論之概略」を読み始め、これはなかなか馬鹿にできないものだから、君も一度読んでみたまえと、私にこっそり言ってきたものだった。
やがて、慶應義塾出身の松木直巳が、師範学校の校長として水戸に来て、福澤先生の文明論を大いに喧伝したため、自強舎の学生諸君も、ようやく師範学校や中学校の教授たちに親しみを覚える(原文「欵(かん)を通じる」)ようになった。そして、福澤先生の著作である「西洋事情」、「学問のすすめ」や、小幡篤次郎訳述の「ウェーランド経済書(原文「エイランド経済論」)、西周訳「心理学」などという英書の訳文を読み、その疑問点を質問するなど、純粋な漢学塾の学生だった者も、ようやく英学の先生の教えを乞うようになったのである。
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