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   十
慈母の奮闘(上巻30頁)

 私の母はとても謙遜な人で、誰に対しても自慢がましい言動をとったことがない。ただただ非常に辛抱強く、思い立ったことは必ずやりとげる性格だった。私を丁稚奉公に出しておくのがとても心苦しかったとみえ、私の奉公三年の間、身を粉にして立ち働き、事実爪に灯をともすように倹約したその苦労は筆舌につくしがたいものだった。夜おそくまで針仕事の内職をするのはもちろん、一家の家事全般をただひとりで受け持ち、薪を倹約するために自宅から十二、三町(注一町は約109メートル)離れた旧城下にある杉山という杉林に分け入り枯れた杉の枝を拾い、これを背負って帰り、炊事用にはたいていこれで間に合わせたという具合。一が万事で非常に倹約をしたので、三年のうちには家計にも多少の余裕が出てきた。このとき長兄の純は水戸から二里はなれた磯浜町の小学校教師となっていたので、もう一刻も待たなくともよいとなり、私の丁稚奉公をやめさせ兄の自炊を手伝わせながら自分で勉強させようというところにこぎつけた。そこで父が私の奉公をやめさせてもらおうと福田屋に来て主人に申し入れてくれたのだが、そのときは天にも昇る心地だったし、慈母の奮闘が私を深淵の底から引き揚げてくれたのだというありがたさで感涙を流さざるをえなかった。
 けれどもこの三年の丁稚奉公は私の一生において非常に思い出深いばかりでなく、他人の飯を食って人情の機微を知り子供ごころに深く刻みつけられたいろいろな印象は、のちに折にふれて有効な参考となった。また、この田舎の雑貨店で得た経験がやがて三越呉服店の改革に当たった時に少なからず役立ったことは、われながら不思議な因縁だと思うのである。
 この福田屋主人の近藤忠兵衛は八十歳くらいまで長生きしたそうだが、長男の秀次郎は五十歳前後で死去し、男子がいないのでそのひとり娘に姉の子をめとらせて相続させあいかわらず営業を続けていたので、私は明治四十年ごろに約三十年ぶりでお礼かたがた一度相田村を訪問し、当時生き残っていた古い知り合いを集めて一夕宴を催し、浦島が故郷に帰った思いにふけり非常に感慨深かったこともあった。


自炊の生活(上巻33頁)

 私は慈母の捨て身の努力で、十三歳から十六歳までの足かけ四年、正味三年の丁稚奉公の苦境から救い出され、その後すぐに、当時磯浜小学校教員になっていた長兄のところに同居し自炊生活をすることになった。
 小学校教員の身であるから住まいは九尺二間の棟割長屋の一軒を借り、私が朝早く起きて飯を炊き、汁を作り、弁当をこしらえて出勤する兄に持たせる。午前九時に炊事の仕事を全部終えると、それから和漢の歴史や、文章規範、唐宋八家文章などもっぱら漢籍を読みふけり、夕方になるとまた晩飯の用意をし、ひまがあれば夜ふけまで夜学という勉強ぶりであった。
 壁一枚むこうの隣りに、兄の同僚の中山さんという教師が住んでいて、その奥さんがあねご肌のおもしろい性格だったので夜になるといつものように同僚の教師がやってきては談話にふけっていた。そのころはまだ師範学校の卒業者もおらず教師の多くは士族のなれのはてであって、多少の文学のたしなみがあったので、神谷さんという五十過ぎの漢学者が詩を作り、藤井さんという元気のいい和学者が和歌を詠んだりするのを私もその末席につらなって傾聴したものだ。
 神谷が作った下那珂川の七言絶句に、

  布帆高掛孕西風 十里長江秋不空
  両岸霜楓紅映水 舟行錦浪繍波中

そして藤井の和歌に、

  わが宿に吹きくる風の香もしるし誰が垣根とも白菊の花

というのがあり、できがよいと一同が褒めたので今でも覚えている。
 このときの生活で一番困ったことは、もう一方の隣家に磯浜から水戸あたりまで生魚の行商をしている夫婦者が住んでいたのだが、毎晩のように痴話喧嘩が始まることだった。それがいわゆる残虐変態的なもので、ときには大暴れの立ち回りになるかと思えば、夜更けまで小声で楽しそうにしていることもあり私の勉強の邪魔になるのであった。
 考えてみれば苦労の多い生活だったが、少年時代にはその苦労も苦労とは思わず、ただ気ままに勉強することができることがうれしくてたまらなかった。 
 こうして一年が過ぎ私が十七歳になったその五月ころから、また水戸の実家に戻ることになり、それからはいよいよ本式の勉学に取り掛かることになった。

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