九
福澤の風評(上巻27頁)
私が福田屋に奉公していたしていたころは、五、六月の田植えの季節になると、近村の農家が忙しいので店は非常にひまになるのであるが、この福田屋自身がもちろんのこと、村に田畑を所有し作男に耕作させていたから、田植え前になると一里ほど離れた内野山【うつのやま】という山から芝草を刈り取り、馬の背に載せて水田まで運び肥料にするという仕事があった。これは「刈敷【かつしき】」と呼ばれ、農繁期になると猫の手も借りたいほど忙しいので、小僧の私なども手伝いに出かけ、刈敷を背負った馬をひいて水田までを往復したこともあった。この季節ちょうど馬に盛りがついていて、ほかの刈敷馬と道ですれ違うときにヒンヒンないて暴れ出すので、十三、四歳の私の細腕では、これを止めるのが難しく、遠くからほかの馬がいななく声がきこえてくるだけで身震いするほど怖かったものだ。
ところであるとき私は、馬をひいて内野山にのぼり、磯原から桜井にかけての遠くの海岸の松原を見渡しているときに、自分が丁稚、そして牧童となり、このような草深い田舎で年をとっていくのは、まったく無念であると思った。少しでもはやく水戸に戻り、やがては東京にも出ていきたいという希望が、潮のごとくに沸き立ってきた。人間というものは高いところにのぼって目の前に広大な景色が展開するのを見ると、自然にこのような気持ちになるものなのかもしれない。
この気持ちが起こってからというもの、水戸や東京からのニュースに関心を持ち、福田屋の若主人である秀次郎が、春と秋の二回、呉服ものの仕入れのために東京に出かけ、小網町あたりの宿で四、五日滞在して戻ってくるときなどは、そのつど根掘り葉掘り東京の土産話を聞くのを楽しみにしていた。
あるとき秀次郎の話で、福澤諭吉という人が最近東京で評判であるときいた。この人は、西洋の学問ができて口もたつので、誰が議論に行ってもしゃべり負かされてしまう。それで、世間では彼に「猪口才(注・ちょこざい)諭吉」というあだ名をつけているのだそうだ。
最近では、彼は楠公権助論というのを世間に公にして、楠公(注・楠木正成)が湊川で討ち死にしたのは、くだらぬ犬死で、権助(注・下男のこと)が主人の使いに出て金を落としてしまったのを苦に首をくくったのと同じだと言い出したので、勤王の志士の激しい怒りを買い、たびたび暗殺が企てられているという。その話をきいて私はこの上なく好奇心が湧くのを感じた。なぜ楠公が権助と同じなのか、その議論のつながりがわからないので、どういうことだろうとしきりに考えたが、ついに理由がわからなかったので、なんとかして、この福澤の書いた書物を見てみたいと思いながらも、片田舎の悲しさで、ついにその目的を達することはできなかった。私が福澤先生の名前を耳にしたのはこれが初めてで、それは明治七年、十四歳の時であった。
白石の前鑑(上巻29頁)
私は相田村の福田屋に、十三歳から十六歳までの足掛け四年、正味三年の丁稚奉公をしていたが、いっしょに働いていた田舎小僧よりもすこしはましなところがあったらしく、しきりに近隣の評判小僧となった。そして、相田村から一里半(注・約6キロ)の桜井村で、元松岡藩士で、家禄奉還後にも所領の田地があるのを幸いに土着して裕福に暮らしていた郡司という士族が、私を婿養子にほしいと申し込んできた。福田屋は旧藩時代から郡司家のひいきを受けていたものだから、この時を逃すものかと私にこの話をすすめる。私も一時は迷ったのだが、聞き知っていた話から、ことに教訓を得てこの話は断ることにした。それは、女性としては物知りで、太平記や太閤記などの中から私にいろいろ話聞かせてくれていた母からきいた話のひとつであったのだが、私はそのような話をよく記憶して、十一、二歳のころには、口づてに周囲に話してきかせたりしたので、近所の知り合いから講談を頼まれることもあったのである。
それは、新井白石の「おりたく柴の記」の中に出てくる、彼の書生時代の話である。ある富豪の町人から養子になってほしいと頼まれたとき、蛇がまだ小さいときに小さな傷をつけられたが、それがやがて大蛇になったときに、とても大きな傷になったという例があるので、今町人の養子になって、のちに出世した場合に、その傷が大きくなるのはまっぴらごめんだと言って断ったという。私も、今、郡司家の養子になったら、このように草深い田舎で一生を過ごさなくてはならないと気がつき、両親に相談するまでもなく、きっぱりとこの話を断ったのである。もしあのときに養子になっていたら、今の姿がいかに貧弱なものであるとはいえ、今日ある姿とは相当違っていただろうと思い、われながらよくぞ運命の虎口を逃れたものだと思う。新井白石の物語がこの運命から私を救ってくれたのだと感じることである。
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