【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

 八
武士の訓言(上巻24頁)

 私の父は前にも言ったように非常に正直で竹を割ったような気性であり、学問にはあまり熱心ではなくひごろ読書をする姿を見たこともなかったが、刀剣鑑定に関しては素人としては一級で、のちに東京で今村長賀(注・刀剣鑑定家ーhttps://ja.wikipedia.org/wiki/今村長賀氏などと交際していたことからもわかるように、なかなかの眼力ではあったらしい。

 さて家禄奉還となったのち父にはほかに職業がないので、そのころはまだ士族が刀剣を大切にする習慣が残っていたので、刀研ぎの内職をしていた。
 私がいよいよ丁稚奉公に出るという当日、父は私を自分の前に座らせ非常に厳格な態度でこう言った。「おまえも知るような事情で、今回はやむを得ず福田屋に奉公させることになったが、奉公した以上は、その主人のために忠実に働くことは言うまでもない。しかし同じところで働く小僧や番頭などと喧嘩するなどして居づらくなるようなことがあったら、主人に断って帰ってこい。しかしおまえも武士の子なのだから、金銭上の過失によって暇を出されるようなことがあったら、それこそ家の面目にかかわるのでこの家の敷居はまたがせないぞ。そのことをしっかり肝に銘じて忘れることがあってはならぬぞ。」と。
 このひとことは、場合が場合であったが私の頭脳に沁み込んで、今日まで、金銭の上で心にやましいことをせずに来られたのは、この訓戒の賜物であったろうと思うのである。私はいつも金銭上のことでは、人に貸しはあっても借りは一切ない。我が家の出納帳には一切借りの項目がないことを誇っているが、これはこれまでも述べた通りの水戸藩の武士気質であり、自分では日ごろ余裕のある生活を送っていると感じるとはいえ大金持ちにはなれなかったのも、つまりこうした考え方のなせるわざだったのであろう。


異様の丁稚(上巻25頁)

 私は前記のとおり十三歳で茨城県多賀郡相田村にある福田屋という呉服荒物店の丁稚奉公で住み込み生活を始めた。この福田屋は、三代前の主人が水戸上市にある福田屋の番頭だったのが、事情によりこの村に土着して本店ののれん分けをしてもらい営業を継続したものだった。今では多賀郡の中で資産家になっているが、そのころの主人は近藤忠兵衛といって五十いくつかのでっぷり太った風采の立派な人物だった。私が貧乏士族の成れの果てで丁稚になりさがったことを気の毒に思い、私の幼名を幸四郎といったので、ほかの小僧とは区別して「さん」づけで幸さんと呼んで非常に優遇してくれた。
 けれども私は折にふれて元の身分を思い出し、袴をはいて小刀を差してみたくなり、この村から二里(注約8キロ)離れたところにある旧松岡藩の城下の手綱というところに住んでいた次兄の桑名喜徳のところへ行き、預けてあった袴と小刀を持ち出してその日一日城下を歩き回って有頂天になっていた。ところがそれを近藤の長男の秀次郎に見つけられてしまい「幸さんは徳利姿でご城下を歩いていたよ」と大いに笑われてしまったことあった。このあたりで徳利姿というのは、袴をはいた姿が徳利に似ていることから袴姿をそういうのであろう。
 私は十歳ころから詩を作るのが好きで十三歳のときに雪を詠じた七言絶句を作ったことを覚えている。福田屋で丁稚になったあとも店頭の洋灯の下で言葉(原文「詩語碎金(さいきん)」)をひねくっては詩作にふけっていたので、一緒に働いていた小僧たちはいったい何をしているのかと思っていたようである。
 また店で来客のとだえたときに、私がいらなくなった反故紙で習字のけいこをしているのをみた人が、田舎の純朴さであろう、なにか書いてくれないかと白紙を持ってきた。それに大きな文字を書いて渡したところ、それがだんだん評判になり、得意先のほうぼうから、しきりに揮毫を頼まれるようになってしまったので「清風」の二字をもっとも得意として書き続けたものだ。それで、福田屋の小僧さんは、まだ一年にもならないのに、この近所の大書家だというすごい評判になってしまったのである。



【箒のあと(全)・
目次へ】【箒のあと・次ページへ