第二期 少年 明治四年より一三年まで
七
麗人の栄枯(上巻21頁)
私の生家である水戸下市市三ノ町の筋向いに、大内源右衛門という二百石取りのさむらいが住んでいた。那珂港で船主をやっていて、水戸藩に献金した功をみとめられ士族に成り上がった人物で、欅づくりの大門は町内一の壮観をほこっていた。
この家のひとり娘の芳子は、わたしが十一歳のとき十三歳で、うまれながらの美しさは、まだつぼみが開く前から人を魅了するほどだった。
あるとき私は、大内家の庭先の芝生で、この令嬢と遊びながら相撲を取っていて、自分よりもずっと背の高かった芳子嬢を振り回して投げ出したところ、なんの手ごたえもなく、彼女が芝生の上にころころ転がってしまったことがあった。まるで半開きの牡丹の花の一枝を地面に投げつけたような感じがして、子供ながらどうしていいかわからなくなってしまったものだ。
この令嬢はもともと色白で、目鼻立ちが整い利発であったから、十七、八歳のころには藩で並ぶ者のいない麗人となっていた。
ところが、その父の源五右衛門の酒飲みがたたり、ほどなく死んでしまったために、令嬢は、石岡あたりの資産家の次男を養子にもらったのであるが、もともと財産のための結婚であったから、美しい馬が、いやらしい男を乗せて走っているような感じはいなめず、家禄を返還したあと、出身地である那珂港にひっこんで家政を切りまわしたその苦労はたいへんなものだったのではなかったろうか。その後私は芳子夫人に会う機会がなかったが、幼いころを思い出すたびに、令嬢の美貌を思い出したものだった。
ところが不思議な縁で、私の伯父の三女が、芳子夫人のひとり息子の大内義比氏と結婚することになったために、その披露宴で芳子夫人とひさかたぶりに会ったところ、むかしのおもかげはどこへやら、目の前に現れたのは、年老いて白髪頭になった老女で、これがあのみめうるわしかった芳子嬢であるとは、どうやっても信じられないほどだった。
このことがあって私は、漢代に、李夫人が病気のあとに武帝に会うことを拒み、「病気の前の姿を覚えていてください」と言ったことや、茶事において、入席の際に一度見た花は二度と見返ってはいけないとされていることには、相応の理由があるものだと実感し、年取った旧知の美人などには、なるべく会わない方が良いものだと深く悟ったものだった。
家禄の奉還(上巻22頁)
明治二年に版籍奉還が、四年に廃藩置県が行われ、旧藩士族は家禄を奉還するかわりに、朝廷から秩禄公債を頂戴することになった。
当時の水戸藩では、その当事者たちが、新朝廷に対してあまりに遠慮しすぎた結果、藩につかえる中士の家禄を基準に、一律で一家につき玄米四十七俵を給付するということになっていたので、これを秩禄公債に置き換えた金額では、とうてい一家を養うには不足で、とくに我が家のように両親と六人の子供のいるような大家族では、困窮の度が激しかった。
長男は家に残して学問修行をさせなければならないが、そのほかは外に出して、まず人減らしをしなくてはならない。そこで次男の喜徳を、旧松岡藩士である桑名氏の養子に、三男の秀夫を久慈郡小中の佐藤氏の養子に出し、さて私は、桑名氏の仲介で、茨城県下多賀郡相田村の、福田屋という呉服荒物を扱う小売店の丁稚小僧に住み込ませることが決まった。
これが明治六年、私が十三歳のときのことであったが、水戸士族の子弟は、十三参りといって、十三歳になると城下から四里(注:一里は約4キロメートル)ほどはなれた海岸にある、村松村の虚空蔵菩薩に参詣するという習慣があったので、この年の五月に、父に連れられて村松に出かけ、はじめて海というものを見て帰宅したところ、士族の子である自分が町人になるという、一身上の大きな変化があることを知らされ、子供ながらに大きなショックを受けた。
そのころ町人と言えば、恥や道徳の観念もなく、ただ金儲けのために生きている一段低い階級の人間だと思っていたので、武士の誇りを捨てて、このような階級に身を落とすことは、道徳上の一巻の終わりのように感じられたからだ。商家の丁稚になってしまえば、奉公第一となって、学問修行もやめなくてはならない。それはそれで悲しいことだったが、それよりもなお悲しいのは、木刀とはいえ腰に一刀をさしていた身分であった自分が、刀を捨てて丸腰にならねばならぬことだった。それは身を切られるよりも情けないことだった。そのことを思い出しては涙にくれていることに母が非常に同情して、「決して長いことではない、自分が働いてそのうちに引き戻して学問修行をさせてやるから」というそのひとことを心の頼りに、私はとうとう丁稚奉公に出かけたのである。
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