六
元喜按摩(上巻16頁)
私は父母が健康で、ともに八十九歳の高齢を保ったし、母方の祖母も九十六まで生きたほどで、生まれてからほとんど病気らしい病気をしたことがない。そして非常な腕白小僧であったらしい。
その腕白ぶりが手に負えないので、それを止めるために、あまりいたずらをすると元喜按摩のところにやってしまうぞ、というのが私の怖がらせるたったひとつの方法だったそうだ。
元喜按摩というのは水戸の士族町を流しでまわっていた指圧師で、そのころ三十歳くらいだったと思う。顔じゅうがあばただらけで目玉が飛び出ていて、見るからにグロテスクな恐ろしい怪物のようだったために、私がとても怖がるのをいいことに、その人のところにやってしまう、というのを脅し文句にしたものとみえる。私はこれが何よりもおそろしく、元喜按摩の笛が遠くでピーッと鳴るのをきくだけで、たちまち身震いして小さくなるのだった。
子供のときの習慣というのはこわいもので、この恐怖心を終生消すことができず、今でも按摩の笛をきくと、襟から水でもかけられたような感じになってしまう。世間で、子供に雷やおばけを怖がらせるというのは、おそらく同じような大人の理屈から生まれるのだろうが、わたしの体験からいえば、少々のいたずらは押さえつけることなく、のびのびと自然に教育するほうがよいのではないだろうか。
水戸の家塾(上巻17頁)
水戸には、烈公(注・水戸藩9代藩主徳川斉昭)の建てられた、弘道館という文武練習所があり、ここで水戸藩士の子弟は、明治維新のはじめまで文武両道の稽古をした。そのほかに水戸上市、下市にも家塾があり、年少者は、たいていそれらの家塾に通学した。
私の住んでいた下市三ノ町には、横山先生が私塾を開いていた。先生は通称を喜右衛門、諱を高堅といい、いかにも漢学の先生らしい厳格な風采であり、太平記がお好きで、書斎でときどきそれを朗読されていた声はいまでも私の耳に残っている。
家塾の授業は朝昼晩の三回に分かれていた。朝げいこでは、先生が塾の広間に出てこられ、そのまわりを生徒が取り囲んで座り、順番に漢文の読み方を教わった。質問があるときには、指の先でその場所を示すと、先生は細い竹の棒でその字句を押さえながら、読み方を教えてくれるのである。
書き方の稽古は、もっぱら習字だった。生徒のレベルに合わせてあらかじめ先生が用意されたお手本の稽古をした。
夜学には先生は出ていらっしゃらず、塾頭かその他の先輩が代理をつとめた。ときに詩作をこころみる生徒がいた場合などは、紙に書いて先生にあとで添削してもらう。
もっとも夜学のときに先生が突然みえる場合もあって、そういうときには、塾頭らを相手に教訓めいたお話をされることもあった。塾の人数がすくないこともあり、子弟のあいだがらは親子のように和気あいあいとしていた。
ところで、私たち少年がおおいに得意がっていたのは、塾の夜学からの帰り道に、高下駄をからからと踏み鳴らしながら「月落鳥啼霜満天」だとか、「鞭声粛々夜通河」などと声高らかに吟じながら歩くことだった。月の明るい夜などは、帰路があまりに短いことを物足りなく思うのだった。
このような家塾の様子は、今日の学校からみると、想像もできないことだろう。当時の師弟間の濃密なかかわり合いを思い出すと、こうした教育法には、なんともいえない独特の味があったことを思い返さずにはいられない。
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