五
党争の余毒(上巻14頁)
水戸の党争といえば有名だが、最初は学問上の党派争いだった。それがやがて政治問題に移り、さらには感情問題に発展して、長いこと歩み寄ることができないでいるあいだに、次第に残虐性を帯びるようになり、何度かの殺戮行為を繰り返すようになったという、深刻な負の副産物を生じてしまった。
私が記憶している維新後の水戸の様子を述べてみよう。水戸は、佐竹時代(注・豊臣政権時代に水戸城は佐竹氏の居城だった)にあった古い城域を拡大して、四方に新しい城郭を築いたもので、士族屋敷と市街とが城郭をはさみ、南には仙波湖があり、北には那珂川が流れている。城の東側は一段さがった低地で下市といい、西側は高く水はけのよいテーブルランドで、上市といった。
この上市と下市の士族のあいだには、例の党派的反目があった。それが子供ごころにも浸透して、上市では下市の者を「あひる」と呼び、下市では上市の者を「いなご」と呼んだ。一方は高いところで、つんつん威張り、一方は低いところで、泥水を飲んでいるという、嘲笑的な呼び名である。
両市の士族のこどもたちは、いつもグループを作って石合戦をしたり、道で会えば殴り合いをしたりと、とにかく喧嘩は土地の名物くらいに思われるありさまだったので、私などはひとりで上市のほうに行くこともできず、上市のこどもたちもまた、気軽に下市に来ることができなかった。
もともと水戸の士族の家庭は儒教主義で固まっていたので、夫婦のあいだで笑ったりすることもなく、こどもも、ひっそりと籠り、喪中のように陰鬱な空気の中にいつも閉ざされたようになっていたが、明治初年の恐怖時代には、それがさらにひどくなり、天狗だの、諸生だの、という噂は、ぜったいに口にしてはならず、そんな名前を耳にするのは、身の毛がよだつようで、大声で快活に話す者さえもいない状態だった。
このような情勢であったので、いつも人を疑うようなことになり、ほんの偶然に起こってしまったあやまちでも、なにかの下心があったに違いないと思われるようになってしまった。
あるとき、うちの町内であったことだが、士族の子供が弓で遊んでいるときに、誤って隣りの家の台所に矢が飛び込んでしまった。そのとき隣家の主人は、うちになんの恨みがあるのだと言って非常に怒り、その矢を取りに来たこどもを、大人気もなく追い返したという。これひとつをとっても、その当時の士族の気分が、いかにぴりぴりしておかしくなり、内心疑いに満ちていたかということがわかるだろう。
水戸には歴史学者が多かったが、その他のことを趣味にする人は、非常に少なかった。とくに、音楽を趣味とする人はほとんどおらず、水戸藩主の屋敷を除いては、市中どこをさがしても、一台の琴さえもなかっただろう。
明治三年ころにわたしが住んでいた三ノ町に、飯島という士族がいて、病気の娘の気晴らしのために、町人の師匠を呼んで常磐津の稽古をさせていた。それが私などにはとても興味深く、毎日稽古の始まる時間になると、その家の門のところに立ってきいていたので「継信殿の胸板へ、ハッシと立って真逆さま」などという歌詞を全部覚えてしまったくらいだ。
その当時は、士族の屋敷で三味線の音をさせるなどは、悪魔の声をきくのと同じだという扱いだったので、後年、東京に出てきて、宴会の席で三味線をきいたときは、座っているのがなにやら恥ずかしいように思えたものだった。だがその後、福澤諭吉先生のお宅で、令嬢たちに三味線をひかせて、踊りを踊らせているのを見てから、ようやく、そういう感じを忘れることができるようになった。このことだけを見ても、水戸士族の家庭の雰囲気が、いかに味気なく、暗いものだったかがわかるだろう。
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