四
水戸の士族(上巻11頁)
明治維新直後の水戸の士族はどのような状況に置かれていたのであろうか。
幕府の壊滅とともに水戸では天狗党が全権をにぎったので、その前に逃げ出していた佐幕派の諸生党の士族は、家名断絶の処分を受けたが、党に属しているかどうか曖昧なままに藩の領地に残った者たちも、閉門を命じられたリ禄高を減らされたりして、まったくみじめなありさまだった。
私の家は四代前から水戸徳川家に仕え、祖父の彦左衛門は拙翁という号を持った、なかなかの人物だったらしい。父は常彦と言い正直な武士気質な人間だったために、とくべつ出世もしない代わりに党派対立の影響もさほど受けずに、維新の前に水戸藩主が京都守護を命じられた時には随行して京都にしばらく滞在したことがあり、その時の話は私もよくきかされたものだった。
父はさっぱりした性格で、背が高く見た目も悪くなかった。刀剣好きで、矢倉奉行という水戸藩の武器倉庫係を勤めたこともあったので、維新後に家計が窮乏したときには刀研ぎをしていたこともある。子供が六人で、長女と末娘のあいだに男の子が四人おり、私はその四男である。
母は水戸藩士、野々山正健の妹で、がっしりとした体格の持ち主だった。骨身を惜しまず貧乏家計をきりもりし、家事を気にかけない父への内助の功も大きかった。子供の教育などは母が一手にひきうけていたようなものだ。もっとも父も、私たち子供を刀磨場に呼んで、刀を研ぎながら「大学」「三字教」などを教えてくれたこともある。
とにかく家族の人数が多かったので、非常に倹約をしなければ、たちまち食べるにも困ることになる。三度の食事も、たいていは味噌汁と漬物で、一番安いいわしの魚にありつけるのも月に二、三度くらいであったから、私はそういう意味で貧乏体験を百パーセントして卒業した者であるといえよう。
儒教の余弊(上巻12頁)
水戸では昔から儒教を重んじ、仏教を脇に追いやる傾向があった。とはいえ義公(注:水戸藩二代藩主徳川光圀。1628~1701))は度量が大きく、「佛老を排して佛老を崇ぶ(注:仏教の僧侶を排除しながらも重んじる)」と言われたほどで、当時、戒めを破ったかどで大勢の僧侶を懲罰した一方、生母の谷夫人のために久昌寺を建てたり、明から禅僧の心越禅師を招いて祇園寺を開設されたりしたこともあったにはあった。
けれども天保時代(注:1831~45)の烈公(注:九代藩主斉昭。1800~1860)の廃仏の勢いは非常に強かった。烈公は藩内にある寺院の釣り鐘を鋳つぶして大砲を作り、
今よりは心のどかに花を見む夕暮つぐる鐘のなければ
と詠んだほどだ。
そういうわけで、仏教の特色でもある柔和忍辱【にゅうわにんにく】(注:恨まずおだやかに)の精神が藩のひとびとに浸透する機会がなく、やがて仁でなければ不仁だというような、両極端で狭量な儒教主義で党派争いをするようになり、ついにはあの恐怖時代につながっていくのである。
長く朝鮮に滞在し、朝鮮事情を研究された目賀田種太郎氏は、「朝鮮李朝では、その政策で僧侶を寺院に閉じ込めて、人民教化の任に当たらせないようにする一方で、儒教主義だけを奨励したため、人の心が残忍性を帯びるようになり、党派の優位のためには、人命さえ犠牲にするような風習が生まれてしまったそうで、それは、社会の潤滑油となるべき仏教の教えの影響が見られなかったからである」と、談話で話されていたことがある。
水戸でもまったく同様で、儒教が偏重されたため、その弊害として、人の心に寛大さが欠けるようになり、藤田東湖でさえもが「常陸之俗、慷慨勇於義、然固陋寡聞(注:水戸の人間は義のためだといってよく考えずに突っ走る)」と告白したように、頑固で片意地で喧嘩っ早い、いわゆる水戸坊【みとっぽう】の気風がはぐくまれていったのだ。
明治維新の精神的な原動力として貢献した土地であるにもかかわらず、維新後の政治的な舞台で活躍することがなかったのは、この儒教中毒が原因であったのだろう。
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