【箒のあと・目次ページへ】【現代文になおすときの方針

 三
閉門の家庭(上巻8頁)

 明治二年から三年にかけての水戸は恐怖の時代だった。藩政に秩序はなく、壮年の血気あふれる天狗党は、諸生党に対しすさまじい復讐行為におよんだ。

 私の父はもともとが竹を割ったような正直でさっぱりした性格だったので党派色はすくなかったが、諸生党の全盛期に矢倉奉行という水戸藩武器倉庫の主任を勤めたことがあるので、このころにはすでに閉門を申し渡された身の上で、いつ天狗党の襲撃を受けてもおかしくない状況に置かれていた。

 同僚の中には復讐を恐れて脱藩する者も次々にあらわれた。だが、脱藩すればその日から家名断絶となり家族は路頭に迷うほかはないよほど危険でない限りは運を天に任せて踏みとどまり家名を存続させようとしたのはもっともなことだった。

 とくにうちには六人の子供があったので、脱藩は死活問題だった。

 私の長兄はすでに十七歳になっていたから、さいみの羽織(注・2を参照のこと)の襲撃を受けたら父ともども惨殺されることは確実だったので、なにもせずにやりすごすよりはやはり脱藩して危険を避けるほうがよいのではないかと一時は途方に暮れた。母が柴山の不動尊と笠間の紋三郎稲荷に寒中水垢離の祈願をして一家の無難を祈るなか、父と兄は脱藩の準備を整え何晩かは草履をはいたまま寝たこともあった。


斬首の実見 (上巻9頁)

 しかしそうするうちに天誅事件も下火になり、おそろしい襲撃もなくなってきたので、ようやく我が家でも悪夢から目覚めることができた。でもあのころの針のむしろのような不安な日々のことは今でもはっきりと記憶している。

 明治二年、私が九歳のときのことだ。このころの藩政はまだ藩主が行っていたので、刑罰の執行は旧幕時代と同様で、泥棒の場合、盗んだ金が高額であれば斬首の刑となり、殺人の場合は当然のごとく死刑となっていた。

 当時の水戸藩の牢獄は下市赤沼というところにありときどき斬首刑が行われていた刑場になっている場所は空堀の上に板塀がめぐらされているだけの非常に無造作なものだったので、空堀をわたって板塀の節穴から覗けば中の様子を見ることができた。

 塀から刑場まではわずかに二、三間(注:いっけんは約180センチ)で、こわいもの見たさのためにこっそりやってきて、すぐ眼前で刑を執行を見たものだ。

 ある日、私の漢学の師で藩の裁判官を勤めていた横山高堅先生が門人に、明日は秦彌一という者の斬首があると告げた。この人物は友人と言い争いをしてその友人を殺してしまったもので、先生が死刑を宣告したのだという。そこで私はその当日に例により刑場に出かけて見物をした。

 地面の平らなところに深さ二尺(注:一尺は約30センチ)、直径三尺ほどの穴を掘り、そのへりに敷かれた荒菰の上に白布で目隠しをされて牢屋から連れてこられた囚人たちを座らせる。番太郎と呼ばれるひとりの××(注・原文伏字)が、囚人の首を穴のほうに突き出すと、執刀者が狙いをさだめて掛け声もろとも首を斬り落とす。首を斬ってわずかに喉の皮だけを残すのが熟練の技なのだそうだ。 
  ところでその秦彌一は、その日三番目に引き出されたが、落ち着いて名を名乗り声高らかに、

   啼かざれば とらはれまじを鶯の なく音あだなる春の初聲

と、辞世の詩を二度までくりかえし、すこしも悪びれた様子を見せなかったのはなかなか度胸のすわった男であったのだろう。

 それから次の囚人も、名前は知らないが荒菰に座るなり、

   春風に 高くあがりしあの鳶凧 どこの加減で切れたやら

と声高に都都逸を唄ったそのほかの者たちはただ黙々として斬られてしまった。

 このように私は何回も斬首刑を見たことがあるその様子はというと、首は斬られると前の穴に落ち、血が徳利を横にしたようにしばらく勢いよくこんこんと流れる。やがて出血が止まると首の切り口がむくむくと動いて、ものを包むかのように内側に収れんする。このとき番太郎が首と胴を運び去り、以後同様に次の人へと刑が執行されるのである。

 さてこの死者たちの衣服はもちろん番太郎が役の報酬として処分するので、やがて古着屋の店頭に売り出されることになる。だから当時古着を買っていた人々は、よくよくその出どころには注意をはらっていたらしい。

 以上が私が幼いころに実際に見たできごとである。今日の人には想像さえできないことだと思うので、猟奇的な一資料としてここに書き残しておくことにする。
     
【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ