二
戊辰の戦争(上巻5頁)
明治元(1868)年、明治維新で江戸城が官軍の手にわたってから、それまで水戸城にこもっていた諸生党、つまり佐幕派の朝比奈彌太郎、市川三左衛門らは、もはや幕府からの支持がなくなったので水戸城から脱出し会津軍に身を投じた。しかしその会津もまもなく落城したので、窮鼠の一軍となって再び水戸城を奪還しようとして突然水戸に押し寄せてきた。
まず大手門の弘道館を乗っ取ったものだから城兵はたいそう驚き、藩士を集めて応戦することになったが、清水六一というつわものが夜陰に乗じて城に攻め入って暴れまわり一時はほとんど落城しそうになった。そのときには私の父なども召集を受け、同じく登城しようとしていた私の姉婿の中西重蔵が中西の父とともに父を迎えにきたが、そのとき身につけていたものはといえば、たっつけ脚絆に草履履き、腰には大小二本の刀を差していた。重蔵の父が腕試しだと言って、さっと太刀を抜いて庭のしだれ梅の枝を五、六本切り払ったその勇ましさは、今なお私の幼時の記憶として鮮明に残っている。
さいみの羽織(上巻6頁)
水戸は藩始まって以来、党派騒ぎで有名な土地柄であるが、明治維新の直前の、いわゆる天狗党と諸生党の摩擦はひどかった。諸生党が藩政を握れば天狗党を追いやり、天狗党が勢力を占めれば諸生党を虐待するという復讐的な行動が続き、いわば恐怖時代がやってきていた。
であるから、明治元年に天狗党が諸生党の朝比奈、市川らを追い払ってからの、諸生党に対する残虐行為には目も当てられないものがあった。虐殺隊は、さいみの羽織というキツネ色の麻布で作ったユニホームを着て連れだって城下を歩き回り、今日はこの家を襲っただの、あいつに天誅を加えただのという話が伝わってくる。それは、諸生党の全権時代から城下に住んでいた藩士を戦慄におとしいれる悪魔の声であった。
私も八歳から九歳にかけてこの恐怖時代を経験し、子供ごごろにも大きな恐怖を感じたものだ。私が住んでいた水戸下市三の町は、お城から見て一の町、二の町、三の町と士族屋敷が並ぶ地域であったので、天誅執行官のやり玉に挙げられる家が多かった。昨日は何々家の門前に生首がひとつ落ちていただの、今、何々家にさいみの羽織が踏み込んで家族を惨殺中であるだのという、まがまがしいニュースが次々に飛び込んでくるものだから、士族の家庭では生きた心地もしなかった。
このころ、うちの筋向かいに、佐野甚次郎という五十歳くらいの藩士が住んでいた。この人物は、有名な「桜田義士」のひとり佐野竹之助の一族の者で、本人も自分を曲げない硬骨なところがあったものだから、きっと天狗党ににらまれたのだろう、ある朝病気で寝ていたところに天誅組数人に押し入られてしまった。彼らは甚次郎をふとんにくるんだまま、二、三町(注・一町は約109メートル)はなれた石垣というところに連れ去り、橋の上から吊るし斬りにしたという噂が伝わってきた。
そんなことがあるので、私の家にも、あのさいみの羽織が舞い込んで来やしまいかとびくびくして大声で話すこともできず、泣く子も黙るとはこのことかと思われた。今思い返してみても、このようなことが日本で起きたとは信じられないという隔世の感がある。
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