一、
幼時の記憶(上巻3頁)
幼いころの最初の記憶は、人により、また経験したことにより早かったり遅かったりするだろうが、だいたい数え年で四歳ころのもののようだ。私はあるとき山県有朋公とそんな話をしたことがあったが、公爵は四歳のとき、母に抱っこされて水車小屋のあるところに行き、水車の輪がくるくる回るのを見て、なんとおもしろいのだろうと思ったことを覚えていると話しておられた。私も公爵と同じく、四歳のときに水戸で起こった戦争のことを記憶している。
この戦争は、元治元(1864)年に、水戸藩主の中納言慶篤【よしあつ】の目付であった松平大炊頭頼徳【おおいのかみよりのり】が、当時水戸の政権を実質握っていた朝比奈彌太郎、市川三左衛門など、いわゆる諸生党【佐幕派】を、水戸城から追い出そうとしたところ、朝比奈たちは、たとえ藩主の命令であっても、その背後に武田耕雲斎、田丸稲之衛門、藤田小四郎など天狗党【尊王攘夷派】が控えている以上は、ぜったいに応じるわけにはいかないとして両軍が軍事対決するにいたり、頼徳軍は八月下旬に那珂湊方面から城下にせまり、水戸下市のいくつかの地点で諸生党の城兵と交戦することになってしまった。
その戦場が、私の生家のあった下市三ノ町のそばだったので、銃の弾が、うちの屋敷内の竹やぶに飛んできて、かちりかちりと音を立て、居ても立ってもいられない。そのとき父は水戸城にでも出かけていたか、とにかく留守だったので、私は母に背負われ、ほかの兄弟と一緒に上市の親戚の家に避難した。
その途中、昔の軍記物の絵巻から抜け出したような甲冑を着た武士が、槍をたずさえ走っていくのを見かけたが、これが日本で実戦において甲冑を着た最後ではなかろうか。そのとき、そのうちの一人が、右手に持った槍を杖のようについて、大息をはきながら道端で仁王立ちしていた姿が、いまでもありありと目の中に残っている。
腕白小僧(上巻4頁)
元治元年に水戸城下で起こった戦争中に私が母に連れられて避難したのは、上市の長尾家だった。本来なら母の実家である野々山家に行くところであろうが、野々山家主人である母の兄と、私の父の党派が違ったのだ。
事件が決着を見るまでの二か月ほどを、縁故の薄い長尾家に頼らなければならなかった母の心労は、どんなに大きかったことだろう。夫妻や家族の機嫌をそこなわないように小さくなっているときに、こんなことがあった。
長尾家の主人は背中におできが出来ていて戦争にも行けず、秘蔵の盆栽の、きんかんの実が色づくのを眺めていた。まだ四歳の腕白ざかりだった私は、おじさんを驚かそうとしたのか、背後からおできの上をぴしゃりとたたいたので、そうでなくても痛いのをこらえていたご主人は、アッと飛び上がって悲鳴を上げた。その声をききつけて母は平謝りしなければならず、どんなに肩身の狭かったことだろう。そのうえ私が、ご主人秘蔵のきんかんの実を、いつのまにか取って逃げてしまったものだから、母の忍耐もこれまでで、私は罰のためにお灸をすえられてようやくお詫びがすんだことを、子どもごころにもありありと記憶している。
このときの戦争のことを水戸では「子年のお騒ぎ」と称し、多くのおそろしいエピソードが残っている。
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