だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

2018年01月

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「箒のあと」を書き終りて(下巻559頁)
(注・旧字を新字になおした。旧仮名遣いはそのまま、途中の漢詩は省略した)

                
                 箒庵 高橋義雄

 昨年六月十八日を以て、都新聞に掲げ始めた「箒のあと」は、今や満一年を過ぎて、予定の三百篇を載せ終つた。最初都新聞整理部長渡部英夫君が、我が伽藍洞を訪ひて、同新聞に「箒のあと」を掲載すべく請求せられた時、私は渡部君に向ひ、我が作つた文は、恰も我が子の如く思はるるから、精々可愛がつて下さいと希望して置いた処が、其後同新聞写真部長中村長作君が、非常の丹精を以て、諸方より図画写真を取り集め、之を篇中に挿入して、記事に一段の興味を添へられたので、不肖の子も、幸ひ読者諸君の愛顧を辱うする事を得たのは、私の深く感銘するところである。

(漢詩中略)

 私は右様の次第で、首尾よく「箒のあと」を書き終つたので、

  まばらにも掃きあつめけり花紅葉 ふりたる筆を箒とはして

と口吟んだが、振り返つて見れば、書くべき事が、猶ほ数多く残つて居るから、追て標題を改めて、更に散りたる花紅葉を掃き尽くす事としやう。




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三百  和製張子房(下巻
555頁)


 後藤新平伯爵のことを、ひところ世間で和製ルーズヴェルトと言いはやした例にならい、私は、久原房之助君に、和製張子房(注・張良=秦末前漢の政治家、軍師。劉邦に仕える)の尊称を贈ろうと思う。
 後藤伯爵は元気はつらつで、その言動が果敢であることと、鼻眼鏡がルーズヴェルトに似ていたことからその異称がついたのであろうが、私は、司馬遷が張子房を評して「籌策(注・ちゅうさく=計略)を帷幕の中に運(注・めぐ)らして、勝を千里の外に決し、而してその状婦人女子のごとし」と言ったのを、久原君になぞらえて、この尊称を贈呈したのである。
 久原君が大正初年に日立鉱山を手に入れ、その祝宴を築地の瓢家に張ったとき、田中銀之助氏が同席者に、「僕は久原君の事業の成功をうらやましいとは思わぬが、その状貌婦人のごとく、人に接して温容靄々たる(注・容貌が女性的で、人当たりが温かさとやさしさに満ち溢れている)ところが、実に健羨(注・けんせん=うらやましいこと)に堪えないよ」と言われたのが、まさに適評であると思う。
 久原君の父である庄三郎翁は、藤田鹿太郎翁を兄とし、同伝三郎男爵を弟として、三人共同して藤田組を経営された。翁は一見、好々爺のようで、いかにもおだやかで人当たりがよいため、藤田組においても常に外交方面に当たっておられた。 
 私が明治中期に大阪に滞在していたときは、しばしば翁に会う機会があったが、翁は書画什器を愛し、ことに四条派のものについては当時の鑑識者のひとりであった。

 ある日私が、翁の京都知恩院(原文「智恩院」)そばの別荘を訪ねたとき、翁は、「およそ別荘というものは、便利と閑静とを兼ねあわせていなくてはならない、どんなに静かでも、それが不便な場所にあったのでは、用をなさないではないか」と言われたが、たしかにこの別荘は、知恩院のそばの袋町にあり、門を出れば祇園、四条の繁華街に接し、門をはいれば華頂山寺の閑寂を占める景勝の地であることに感心したことがあった。
 久原君は少年時代、慶應義塾幼稚舎から進んで本科にはいり、卒業後間もなく藤田組経営の小坂銅山にはいって十三年間実地研究を積んだ。一時は非常に悲観的状況に陥った小坂銅山で、ドイツで発明された新しい精錬法を試みて、あっという間にこれを復活させた。日露戦争前後の藤田組の社運隆々なのは、久原君の鉱業での新しい工夫が成功への原動力になったそうだ。しかし、「蛟龍(雲雨を得れば)ついに池中の物にあらず(注・池に住む蛟(みずち)もチャンスをつかめば天に飛翔する)」というように、ほどなく藤田組から離れ、大正初年に日立鉱山を手に入れた。日立鉱山は時勢の運にも恵まれ、あっという間に大きな発展を遂げ、一躍、三千万円の大会社に成長した。その豪勢さに人々はやがて目を見張った(原文「瞠若(どうじゃく)たらしむ」)
 久原君は、見た目が柔和であると同時に、非常に人情味に富んでいた。とくに、母堂に対する孝養は人がうらやむほどだった。こんなこともあった。大正初年に、君が母堂に東京見物をさせようとしたとき、東京の宿を必死で探しておられた。私は、実業界から隠退後で、ちょうどこの時、一番町邸から四谷伝馬町の新宅に移ろうとしていた。それで久原君に一番町邸のほうを母堂の宿として提供したのである。このとき母堂は風邪気味で、結局、上京されなかったが、こんなことからも、ひごろの孝心がいかに深く厚かったかを知ることができるだろう。
 さて、私と久原君の間には、とてもおもしろい口約束が交わされているので、そのいきさつをここに記しておく。
 大正五年ごろであった。私は京都鷹峯の光悦寺境内に、本阿弥庵という五畳床付の一庵室を寄進した(注・223・鷹峯光悦会発端を参照のこと)。その工事の片がついたので、検分のために出かけようとすると、ちょうど久原君も京都に滞在中だったので、君を誘って光悦寺に赴いた。そこで、紙屋川をへだてて鷲ヶ峰に対面し、竹林の上に現れた比叡山を左にして、蒲団を着て寝ているような姿の東山をはるかに望見しながら、ふたり並んで腰掛けに座った。そのとき久原君が私のほうを見て、「君が林泉の間に悠遊して、茶事三昧にはいっている生涯は、まことにうらやましいものである」と言われた。そこで、私はすかさず、「さらば、君と僕と、身分を取り換えようではないか」と言った。すると、久原君も、勢い余った行きがかり上(原文「騎虎の勢いで」)、いやだとも言えず、では取り換えよう、という言質(注・誓約)を与えてくださったのである。
 私は、この言質を取ったからには、今すぐに実行する必要もないので、実行の時機については私に一任してほしいと言って、そのときはそのまま笑って別れた。
 その後、昭和三(1928)年、私が帝国ホテルで大正名器鑑の出版記念会(原文「告成式)」を開催し朝野の名士を招待したときに、君は威望隆々たる逓信大臣で、田中首相(注・田中義一)とともに来臨された。その帰途、君は私に向かって「いつぞやの約束を、この辺で決行してはどうですか」と言われたので私は首を左右に振り、「いやいや、まだその時機ではありますまい」と答えておいた。
 続いて昭和七(1932)年末、井上侯爵家に仏事があったとき同邸で君に偶然出会い、連れ立って玄関から出ていこうとしたとき、君は私に「例の約束はまだかいな」と言われたので、「だんだん近づいてきたようだが、ここまで来た以上はもうすこし辛抱したほうがよいと思う」と一笑して別れた。
 最近、君の姻戚の鮎川義介(注・鮎川の妹と久原が結婚していた)君に会った時、たわむれにこの話をすると、君は大笑して、「その約束は、この世ではとうてい果たされないでしょう」と言われた。
 しかし私は、この先に、まだおおいに期待している。久原君に、いつこの約束履行を申し込むか知れないので、君もこれ以上出世するのは、チト考えものであるかもしれない。



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二百九十九  故犬養首相遺事(下巻551頁) 

 犬養木堂翁が昭和七(1932)年五月十五日に永田町の首相官邸で青天白日のもと兇徒の毒手にたおれたことは、日本開闢以来の大椿事であった。これに関して世相の批判をすることは歴史的な意味からも重要なことではあるが、そのことについては他日に譲る。
 私はこの兇変により五十年の知己を突然失うことになった。驚愕哀傷、まことに言語道断のできごとだった。
 大政治家である以外に、書道、刀剣、古硯、筆、墨など、幅広い趣味を持っておられたこの翁との交遊を、今、回顧すると、数々の追懐が湧き起こってくる。私は、先輩に対する哀悼の情を慰めるため、ここでその想い出の二、三を記し読者の同情にうったえようと思う。
 木堂翁の余技の中で、もっとも得意としたのは書道だろう。かつて、何流を究められたのかと聞いても、「我に師承なし、ただ古法帖を研究したのみだ」と言われていたが、その書体は、木堂その人のように、痩硬勁抜(注・けいばつ=抜きん出ている)としていた。これは、翁が非常に精通していた刀剣の鑑定からヒントを得たのではないかという感じがしたものだ。
 翁は親友の榊原鉄硯君のために、その文人画を世間に紹介するために、みずからがその讃を書かれたことがあった。私も翁の墨蹟をひとつ持っておきたいと思い、あるとき八木岡春山に孤舟独釣図を描かせて、翁にその讃を乞うたことがあった。翁は、長上幅の上方に、


  雲水平生一釣綸 扁舟来往楚江浜 自焼緑竹炊新飯 誰道煙消不見人
       是徐幼文詩也 木堂散人書


としたため、さらにこれに添えて、次の一書を送ってくださった。


 「敬啓、字がユガミ甚だ見苦し、御勘弁可被下候、此詩は明初の徐賁(注・じょほん。元末明初の文人画家)の作、柳子厚の日出煙消不見人 乃一声山水緑』の翻案にして、尤も傑作と存候に付、認め候。」


 翁がみずから詩作をされたのかどうか、私はついにこれを見たことがなかったが、榊原鉄硯君の画に讃するときは、図柄に応じて、たいてい古人の詩を書かれていたようなので、ふだん好んで唐宋時代以降の諸大家の詩集を読破されていたのだろう。 
 さて画讃についてであるが、これは翁のもっとも苦心するところで、その布置按配の妙は専門家といえども遠く及ばないほどだった。
 翁は書道に深く通じていたので、古硯、筆、墨などについても非常に精密な研究を重ねられていた。例の、直截で簡明な毒舌で滔々と説明されるところには、おおいに傾聴する価値があった。
 翁はもともと皮肉屋で、相手の急所を突くのがうまく、ウイットに富んだ批評で相手を一言で降伏させる技量を持っていた。これは、長年政壇の勇将として攻勢弁論に当たった鍛錬から来たものであろう。時に友人と会って談話をすると、翁はたちまちその中心になり、その話の中には、必ず何か人を驚かすようなことがなければ気が済まないというところがあった。時として悪ふざけが混じることもあったが、どこか独特な愛嬌があって、毒舌の毒を、その後に残さないところに木堂一流の特長が見受けられたのである。
 たとえばある人が老大政治家を指して、「某氏も近頃少し箍(注・たが)が弛んだようだね」と言うのを聞くなり、翁は口元に微笑を浮かべて、「某氏に箍があったのかね」と反問した、などというのはいちばんの例である。
 また翁が大茶目を発揮した一例は、親友の朝吹柴庵【英二】翁が、以前親しくしていた婦人に大阪で旅館を開かせた時、翁は軽石を奉書に包み、水引をかけて、うやうやしくこれをその婦人に贈り、暗に柴庵翁のあばた面を諷したというものだ。これなどは、すこし薬が強すぎた感じがあった。

 私は、翁が首相になってから、ある日翁に会ってゆるゆると談話する機会があったので、次のように言ってみたことがある。「貴下はシナの要人の中に、年来懇意にしている人が多いようだが、彼らと親しく胸襟を開いて、日支の親善の気運を盛り上げるのは、今日、貴下のほかにはいないと思われる、むかし、伊藤公、大久保侯らが李鴻章と会見して直接意見交換をし、その都度、東洋の平和が破綻せずにすんだことがあったが、その後の日支交渉は、いつも公使や領事任せで、大官が直接交渉をするのを避ける傾向があるが、これは全くそうする必要がないことである。貴下は、今や、我が国内閣の首班であるのだから、それを利用して、蒋介石その他のシナ大官と会見して、おおいに東洋問題について論じ、これ以上事態を悪化させないように懇談してみてはどうだろう」と。

 すると木堂翁は、「貴説はいかにもごもっともであると思うが、いかんせん、今日のシナには、時局について懇談をする相手がいないということが困りものである。といって、心ある者は、今日の事態が最上策だとは考えているわけもないだろう。彼らの勢力は、今ではどれも小さな部分に限られており、しかも対内関係を重視し、衆愚に媚びつつ、一時的な安楽(原文「一日の苟安[こうあん]」)をむさぼっているありさまだ。よって今はその時機ではない、もし近い将来、せめてシナの半分だけでも背負って立つほどの人物が出て来たならば、胸襟を開いて、その人とともに東洋百年の長計を熟議したいものである」と述べられた。
 今や、日本側で、この会談の適役を勤めるべき木堂翁を失ったことは、まことに千載の恨事である。私は、翁の長逝に対し、挽歌一首を詠じたので、これを掲げて、哀悼の微志を表することにしよう。


  大丈夫児鉄石膓 稜々気節挟風霜 天皇賜誄哀長逝 死有余栄老木堂

 


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二百九十八  大津馬茶会と新曲(下巻548頁)


 根津青山【嘉一郎】翁は、明治三十七、八(190405)年ごろ大阪の老道具商である春海藤次郎の周旋で、松花堂昭乗画、沢庵和尚讃の大津馬という名物書幅を、当時のレコード破りの高値で買い入れられた(注・根津と春海の交流については110を参照のこと)。しかし、それを秘蔵するあまり、かんたんにはこれを出してくることがなかったので、私は少しでもはやくこれを同好者に見せてほしいものだと思っていた。そして昭和四(1929)年十月に、青山の根津邸の弘仁残茶茶会でそれを出させることに成功し、その書幅は非常な喝采で迎えられた。そのとき私は、これを東明流の材料にして大津馬という新曲を作った。
 もともと大津馬というのは、江州(注・近江)大津から京都まで、米俵を背負って逢坂山を往復する馬のことをそう呼ぶ。松花堂がその馬を描いて、そのころ羽州(注・出羽)上の山(注・かみのやま。山形県にある)に流されていた沢庵和尚の讃を乞うたとき、和尚が小色紙に、


 なぞもかく重荷大津の馬れきて なれも浮世に我もうきよに


と書きつけられたものだ。
 これは歳暮の茶掛けとして、このうえもない珍幅になりそうなので、私は再び、昭和五(1930)年丑年の青山歳暮茶会でもそれを使うように青山翁に勧めたのであった。
 ところで青山翁は非常に多忙な身にもかかわらず、大正十(1921)年から毎年歳暮茶会を催しており、この年は十一回目にあたっていた。
 さて、いよいよその幅を使用することになったが、私は、この茶会に何らかの余興を添えたいと思い川部緑水(注・川部太郎、根津家出入りの道具商)と相談し、平岡吟舟翁に頼んで、大蕪を背負った馬子が重荷を負った大津馬を追っていくという図柄を小色紙に描いてもらった。そして、同じ大きさの小色紙に私が、


  年の瀬や重荷大津の馬と人


としたためたものとを、筋かいに(注・斜めに重ねて並べて)張り交ぜた一幅を作り、それを寄付の床に掛けてもらった。

 この年は財界不況で、株持ち連中が大いに苦しんでいる実況をうがった(注・比喩的に表現した)茶目っ気ある趣向だった。 
 さらに茶会後には、さきほどの大津馬の新曲を吹き込んだ蓄音機レコードを広間で来客に披露するという段取りにした。その新曲の文句は、次の通りである。


逢坂の関の清水に影みえて、今や引くらん望月の、駒のひづめの音羽山、越えて都の春の花、秋の紅葉の狩鞍に、金ぷくりんのよそほひを、誇れる友もありとかや、うたてやな、我は過ぐせや悪しかりけん、同じく生を受けながら、しがなき志賀の片ほとり、大津の里に年を経て、田夫野人に追ひつかはれ、背に重荷をあふ坂や、都にかよふ憂きつとめ、誰あはれまんものなしと、思ひわびたる我が影を、八幡の御坊の写し絵に、沢庵和尚の口ずさみ、馬子唄なぞもサアかく、重荷大津のヨ―、馬れきてサアヨー、なれもサア浮世に、我もヨ―うきよにサアヨー。
 となぐさめられて今更に、生き甲斐あれや大津馬、いにしへ浮世又平が、筆の始めの大津絵は、
 大津絵ぶしげほうのあたまへ、梯子を掛け、雷太鼓で、何を釣るつもり、若衆はすまして鷹を手に、見て見ぬふりの塗笠おやま、紫にほふ藤の枝、肩のこりなら、座頭の役、杖でさぐれば、犬わんわん、棒ふり廻すあらきの鬼も、発起り【ぽっきり】をれた其角は、撞木の身がはり、鉦たたき、オツとしめたと、鯰を押へ、奴の行列アレワイサノサ、是は皆さん御存じの、釣鐘背負うた弁慶さん、目に立つ五郎の矢の根とぎ。
 そもそも仲間にはづれたる、我が午年の運びらき、人間万事塞翁の馬い処に、当り矢の、伯楽ならぬ沢庵や、八幡の御坊に見出され、彼の大津絵の又外に、大津馬とて、エンヤリヤウ、引き綱の長きほまれや残るらん。
 

 さて、青山邸の歳暮茶会では、前記の大津馬の小色紙を寄付に掛け、本席の撫松庵には、初入の床に、上半分がコゲ、下半分が白釉の伊賀花入に、白玉椿一輪と、蝋梅(注・ロウバイ=黄色の小花をつける梅)とを活けた。
 後座(注・あとざ=茶会の後半)には、中興名物の節季大海茶入、沢庵和尚共筒茶杓、高麗割高台茶碗、砂張建水などを組み合わせるという大奮発の茶会であった。
 やがて濃茶が一巡して、八畳の景文の間に座を移すと、上段床には、津軽家伝来の、浮世又平(注・岩佐又兵衛)筆の極彩色の不破、名古屋(注・「不破」という歌舞伎題目の主人公ふたり。不破伴左衛門と名古屋山三郎の傾城葛城をめぐる恋の鞘当てで有名)を掛け、入側(注・いりがわ=濡れ縁と座敷の間の一間幅の通路)に、大津馬に付属した書付類を並べてあった。
 客一同が座につくのを待ち、東明流新曲の大津馬の蓄音機を披露した。こうして今回は、私が大津馬の幅を使用させた発願人であったことから、大津馬の新しい小色紙幅をはじめ、新曲レコードまで採用していただいたおかげで、いささかこの茶会に余興を添えることができた。いわゆる「蒼蝿驥尾について千里を走る(注・蝿が名馬の尾にとまって千里を走るように、優れた人のおかげでよい結果を出すこと)」の類で、まことに望外のしあわせであった。そこで、ここに大津馬茶会と、同新曲の由来を記し、昭和庚午(注・かのえうま。昭和5年)の歳暮の記念にしようと思う。 
 


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二百九十七  栂尾高山寺遺香庵(下巻544頁)

 明治六(1931)年は、栂尾【とがのお】高山寺開祖の明恵(注・みょうえ)上人の七百年遠忌に当たっていた。上人は、建仁寺を開山した栄西禅師から三個の茶の実を贈られらたのを、まず栂尾の三本木に植えた。以来、その茶樹が非常に繁殖し、栂尾では狭く感じられるようになったので、上人みずからが宇治に出向き、茶園に適当な地所を視察し、駒の蹄影【あしかげ】という場所をよしとされた。その時の歌がある。

    栂山の尾上の茶の木わけ植ゑて あとぞ生ふべし駒の蹄影

 宇治の茶園がさらにふえるにつれ、それがだんだん日本全国に広がっていった。今では内地の供給を満たすだけでなく、国産品の主要品として年々海外に輸出されるようにまでなったのであるから、上人は、実に日本茶の大恩人といわざるを得ない。
 そこで、京都、大阪、宇治などの茶人、茶商らが、報恩のために、今度の遠忌に際しそれ相応の記念事業を行いたいと希望した。そして、結局、明恵上人遠忌記念(注・記念会?)というものを組織し、大久保利武侯爵を会長に推した。
 その会では一、二年前から資金募集に着手していたが、昭和五(1930)年十一月上旬に、大久保侯爵がわざわざ私の伽藍洞を訪問され次のように言われた。
「自分は先ごろ京都に滞在中、同地の有志者から、明恵上人七百年遠忌事業に関して相談を受けた。上人は島津公爵家の祖先、忠久と旧縁があり、長く栂尾高山寺に納めてあった忠久の肖像を、先年、島津家に譲り受けたことなどもある。そして自分もひごろから、上人の学徳を欽慕している。この事業が順調に進行することを希望しているので、今日は、貴下にも何分の援助を乞うために突然来訪した次第である。」
このように言われたので、私はよろこんでこの勧誘に応じた。

 そして、十一月中旬、入洛のついでに高山寺を訪問し、宮内省図書量御用掛の猪隈信男、光悦会世話役の土橋嘉兵衛の両老を同伴し、当山第一の保護建造物である石水院、そして、鎌倉初期の経巻、什器などを多数収蔵している宝庫などを巡覧した。

 今度の遠忌記念事業において、どのようなものを提供するのがいちばんふさわしいかを相談したところ、同山景勝の地に一棟の茶室を寄進するのがもっともよい計画であると思いついた。そこで、遠忌記念会とは別に茶室寄進会というものを組織し、京阪、名古屋、東京、金沢の道具商諸氏に世話人になってもらい、私が発起人総代、土橋老が世話人総代になり、ひとり百円の茶室寄進者を百三人募集することができた。
 昭和六(1931)年六月から、京都の数寄屋大工の木村清兵衛に命じて、高山寺本坊庫裡の横手に適当な場所を決め、四畳台目茶席、八畳広間の一棟と、別に待合兼用の鐘楼を建築した。また新たに、合図用も兼ねた梵鐘を鋳造した。それを茶恩鐘と名づけ、遺香庵寄進者である百三人の姓名をその周囲に鐫り(注・彫り)、その由来をのちの人に知らせる目的で、次の文句も鋳出しておいたのである。
 
今茲栂尾高山寺開基明恵上人七百年遠忌に当り、平常上人の高徳を慕ひ、其茶恩を感ずる者一百三人相謀りて、一宇の茶室を此地に寄進し、名付けて遺香庵と云ふ。聊か報謝の微志を表せんが為なり。乃ち新に梵鐘を鋳て、寄進者の姓名を其上に鐫り、以て後日の記念と為す。

   昭和六年初冬
       遺香庵寄進者総代 高橋義雄」

 また露地の築造は、京都の植木職である、植治こと小川治兵衛老に依頼した。そして茶室、露地に、万端の準備がすべて整ったので、遠忌法要に先立つこと数日、十一月十一日に遺香庵びらきの茶会を行った。

 当日は秋天快晴の上々吉の茶会日和であった。本坊正面前に受付を設け、そこで芳名録に記名をすませた賓客は、小高い丘の上に立てられた腰掛待合にはいり、自分の名前が彫り出されている、直径一尺六寸(注・一尺は約30センチ)、高さ二尺六寸の梵鐘を打ち鳴らした。すると、満山に響き渡るその音は、明恵上人の茶恩を讃嘆する声と聞こえなくもなく、まことに恰好の供養となった。
 それから順次、遺香庵にはいり、まず私の濃茶飾りつけを一覧し、次に石水院に座を移し、野村得庵君(注・野村徳七)の心のこもった薄茶席でうちくつろいだ。
 午後二時から、山腹にる開山堂で、遺香庵の引き渡し式に参列した。ここに、日本茶の大恩人である明恵上人の本山に、その茶恩を味わうべき茶室が築造されたので、来年からは京都の各茶道宗匠家が順番を決めて毎年献茶会を開くことになった。いささかなりとも遠忌への記念をとどめることができたことは、私たちにとって茶人冥利につきることだった。
 その日私は、即興の二首ができたので、末尾に蛇足として添えておく。


    高山寺
  橋似長虹飲澗横 清流聞做誦経声 白雲黄葉高山寺 人帯斜陽画裡行


    遺香庵
  扶桑到処慕遺香 渇仰上人功徳長 今日新庵修遠忌 満山茶樹是甘棠


 


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二百九十六  日本一の勉強家(下巻540頁)


 大正八、九(191920)年ごろであったろうか、東京のある実業雑誌が「日本一の百家」選を行った。このとき、徳富蘇峰翁を勉強家の日本一、私を怠け者の日本一と発表したのであった。近頃では人間の働き盛りといわれている五十一歳で風来坊の仲間入りをした私をこのように見立てたことは、あながち無理もないことだと思われたが、日本一の勉強家として蘇峰翁を推したことは、さらに一層、適切な人物評(原文「月旦」)であったといわねばなるまい。
 翁は、青年時代から東京の文壇に立ち、まず雑誌社を始めた。ついで新聞社をおこし、さらには政治界にも出入りし、時には大官のブレーン(原文「幕賓」)となった。あるときには朝鮮にまで出向き、人民の文化や知識を開発する機関(注・朝鮮総督府の機関新聞社だった日本語新聞の京城日報社のことであろう)の監督の仕事をしたこともある。
 またあるときには世界各国を遍歴し、執筆の英気を養ったこともある。その間も常に健筆をふるって、その所見や感想の執筆を続けた。まさに、飲食と睡眠の時間以外に翁が筆を手にしていなかった時間はなかったであろう。
 また読書にしても、五行を一度に読むような勢いで(原文「五行並下るの概あり」)和洋の新刊書をひもとき、絶え間なく新しい知識を取り入れて新聞紙上にその所見を発表する。まさに世の中の指導者(原文「一世の木鐸」)であった。
 ほかにも、出版事業、教育事業にも関与し、特に、全国各地に旅行して、いたるところで講演をやるときにも紙と筆を持ち歩くのであるから、普通の勉強家の二、三人分の働きをしていることになる。

 年齢がいってからも、その活動は衰えることなく、近年には「近世日本国民史」を著述しながらも、言論の文章も書いて、諸般の問題をあまねく料理しているという精力絶倫ぶりを発揮し、とても人間業とは思えない。

 翁が、文筆(原文「操觚」)をなりわいとして世に出られてから今日にいたるまでに著作した文字は、おそらく膨大になるはずで、日本開闢以来、たとえ絶無とは言わないまでも、きわめて稀有なことであるだろう。
 近世の文豪中に似たような存在を探したら、誰がいるだろうか。その時勢に通じ、事務にも通じ、政治的活動力を備えているとともに歴史家として秀でているという点で、この三百年では、ただ新井白石を挙げることしかできない。


 私が蘇峰翁と知り合ったのは、大正初年からのことである。あるときは私の伽藍洞にやってこられ、一木庵茶席にはいり、ともに一碗の茶をすすったこともある。あるいは山県含雪公について、上野の表慶館で十大仏画を一緒に観覧したこともある。あるいは、大倉聴松(注・大倉喜七郎)男爵の招待でシナ料理の相客になり、その健啖ぶりに驚かされたこともある。あるいは、水戸義公(注・水戸徳川家二代藩主光圀)の生誕三百年記念展覧会を青山会館(注・徳富蘇峰旧宅)で開くにあたり、翁のために材料集めを手伝ったこともあった。このように、各方面において、いわゆる「日本一の勉強家」である翁の勉強ぶりを目撃する機会を得たのである。これは、非常にありがたくうれしいことだった。
 さて翁は、昭和七(1932)年に、古稀の寿を迎えられたので、門下の人々で相談して、蘇峰先生古稀祝賀記念刊行会というものを組織し、各方面からの寄稿を集めた。そのとき私は、「作文趣味」と題する拙文一篇を寄せた。その内容の一部には次のように書いた(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)。


「蘇峰先生が東都の文壇に立たれたのは、余よりも四、五年後のことであろう。余は明治十九年ごろ、始(注・ママ)めて先生の書かれた「将来之日本」という題する一篇を見たが、蘇山秀霊の気を帯びたる文彩は、忽ち時人の眼に反射し、彼の蘇東坡が京師(注・みやこ)に出でて、始めて其文章を発表した時の如く、当時東都の文壇に、欧陽永叔(注・欧陽脩)の如き者があったらば、今より数年、人亦老夫を説かざるべしと、嗟嘆した事であろう。(注・欧陽脩は、若い蘇東坡の才能を高く評価した)

 徳富氏は恰も蘇氏の如く、父に老蘇に似たる淇水翁(注・徳富一敬)あり、弟に小蘇に類する蘆花子(注・徳富蘆花)あり、而して蘇峰先生は能く家学を伝えて、之に加うるには洋学を以てし、識見文章共に我が文壇を圧して、政治、宗教、文芸、紀行、随筆等、行く所として可ならざるなく、文情双絶、波瀾独り老成の観あり、殊に目下著作中の近世日本国民史に至っては、千載不朽の大文字で、聞く所に拠れば、毎日暁起、浄几に向かって執筆せらるるそうだが、時に会心の文字を獲るや、其苦心に酬ゆべき作文趣味の愉悦は、果して如何であろう。余は往時頼山陽が彼の「通議」を書き終わって、


  一窓風雪妻児臥 揮筆灯前紙有声


と口吟した時は、王侯の栄爵を受けたるよりも、連城の趙璧を獲たよりも、数倍の趣味的愉快を感じたであろうと思うが、我が蘇峰先生の如き、此点に於いて、或いは遥かに山陽に勝る者があるかも知らぬ。且つ又文筆の士は、兎角薄倖ならざれば短命であるのに反し、蘇峰先生が精力絶倫で、今や古稀の寿域に躋(注・のぼ)らんとするに拘わらず、老健壮者を凌ぐの概あるは、文徳寿福、共に円満なる者と謂うべく、天此文豪に余年を仮して、其の修史の大業を完成せしむべきは、余の固信して疑わざる所である。終わりに臨み拙吟一首を掲げ、我が蘇峰先生景仰の誠を表せんと欲す。


    奉似蘇峰先生
  一家史論挟風雲 三長如今独属君 筆底有時飜学浪 東瀛復見大蘇文 (注・瀛=うみ)


 蘇峰翁の勉強ぶりは、今もなおまったく衰えず、近世日本国民史も、間もなく明治期にはいろうとしている。これはまことに喜ばしい限りである。
 人間のならいとして、古人を偉大に見過ぎるかわりに当代の人物を軽視するという傾向がある。古歌にも、


 来て見れば左程にもなし富士の山 昔も人も斯くやありけん


というのがあるが、翁のような人は、同時代の私たちから見ても非常に偉大であるから、今後百年、二百年を経過したならば、いっそう偉大に見えることであろう、この偉大な勉強家と時を同じくして生まれ、かつ知り合うこともできた私は、まことにしあわせ者であったと思う。



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二百九十五  盛久能平家経(下巻536頁)

 昭和六(1931)年は、明治四十二(1909)年に亡くなった梅若実翁の二十三回忌に当たっていた。そこで梅若宗家の六郎氏(注・のちの二代梅若実)は、浅草厩橋の能舞台において一門の盛大な追善能楽会を催した。
 さらに素人演能会をも開かれた。生き残っている実翁の直接の門人が今では暁天の星のように少なくなっていることもあり、私にもぜひ一番出演してほしという勧誘があった。
 そこで、しまいにはそれを引き受けることになり、さて、何を演じようかと悩んだ末に「盛久」に決定した。

 その理由はこのようなものだった。私は以前、厳島神社の重宝である平家納経の副本調製を計画した。経巻模写にあたっては、その道で古今を通じて並ぶ者のいないとされていた田中親美に委嘱し、大正十四(1925)年に完成させ厳島神社に奉納した。その中には、もちろん観音経も含まれていたが、今、能楽二百番の中で、全体が経巻に関わり、とくに平家に縁故のある曲目としては、断じて「盛久」にまさるものはない。今回は追善でもあるので、それでは今度私が盛久を勤めて、平家経巻中の観音経を実際に使おうと思いついたのである。
 ところが、私が平家納経副本調製の記念として田中氏に依頼した模写経は、法華経二十八品中、厳王品、宝塔品、信解品の三巻、あいにく観音品はなかったのである。そこで仕方なく、この三品のうちの一巻を使用するほかはないと思っていた。
 さて、ここで不思議な因縁話が起こった。実翁の追善能は四月二十六日に挙行されることになっていたが、その一日前の二十五日に、品川御殿山碧雲台において、益田鈍翁が第三回遠州会を催した。そのとき、先年から翁が田中親美氏に模写してもらっていた平家経全部を披露することになった。当日私は同会場に行き、主人の鈍翁に面会して盛久の演能について話し、あいにく観音経を持ち合わせていないので、遺憾ではあるが他の経巻で代用するつもりだと言った。すると鈍翁は聞き終わりもしないうちに、能舞台で平家経を読もうとするなら本物でなければ十分に緊張した気分にならないだろうから、今日陳列している観音品をお持ちになったほうがよかろうと言われた。
 そこで私はおおいに喜び、これを借り受けたのである。そして翌日午後三時ごろ、梅若舞台で、この観音経を懐にいれるとき、巻の中のもっとも美麗な箇所を見せるように工夫した。この日は、経巻調製の本人である田中親美氏はもちろん、同の仰木魯堂、森川如春、横山雲泉、越沢宗見らの来観を願った。

 さていよいよ、観音経の一節の、

  或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段々壌

とよみあげたときには、われながら異常なまでに気分が張りつめた。また、太刀取りが私の後ろに立って「御経の光、眼に塞がり、取り落したる太刀を見れば、二つに折れて段々となる」というところに至って、燦爛たる経巻の色彩がその言葉とよく調和し、いっそうの効果を現わしたように思われた。

 また、盛久能のなかの、口伝とも言える

「吾等が為めの観世音、三世の利益同じくば、斯く刑戮(注・けいりく=刑罰、死刑)に近き身の、誓ひにいかで洩るべきや、盛久が終の道よも闇からじ頼母しや」

というところでは、少し睡眠中に、あらたなる霊夢を感じるところで、左手に持っていた経巻の巻軸が手の中からすこし滑り落ちることになるのだが、それが水晶軸の重みによって、非常にうまいぐあいに運んだ。これは、実物の経巻が生み出した自然の効能であると思われた。
 それにしても、益田邸で偶然に平家副本披露会があって、そこで陳列されていた観音品を、その翌日に梅若舞台で読誦するようなことになるとは、なんという奇遇だろうか。
 ここで私は、田中親美氏と相談し、能楽に適した平家経型の観音経を調製して、それを梅若家に寄贈しようと思いたった。すぐに六郎氏に話してみたところ、六郎氏は非常に喜び、それならば、今回の亡父の二十三回忌追善会を記念するために、今後、盛久能を演じるときには、かならずその経巻を使用することにいたしますと言われた。私も非常に感激して、田中親美に委嘱して、平家経のうちで、地紋色彩のもっとも優美な部分を写して、一巻を作り上げた。そして、田中氏の勧めにしたがい、拙筆で観音経を書写し、さらに腰折(注・自分の歌を謙遜する言い方)一首を白紙に物して、経巻とともに、梅若家に寄贈した。その一首は次のようなものだった。

 梅若実翁二十三回忌追善能に盛久を勤め、其折読誦したる平家経一巻を、同家に参らすとて

  うれしくも盛り久しき梅若の 家にとどめむ法華経の声

 この和歌中の「盛り久しき」は、いうまでもなく盛久のことで「法華経の声」は、梅若に、鶯を利かせたのである。
 ところで、梅若六郎【のちに実邦と改める】氏は、翌昭和七(1932)年四月十四日、厩橋舞台で、みずから盛久を勤めた。貴賓席の床には、私の贈歌の一軸を掛け、このとき、例の平家経形観音経をはじめて舞台で読誦された。
 終演後、六郎氏は、「経巻がみごとなので、一層気分が緊張しました」と、その感想を洩らされた。こうして、今回を始めとして、梅若舞台の盛久能に、ながくこの経巻が使用されるということは、私のもっとも満足するところである。


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二百九十四  隅田公園記念碑(下巻533頁)

 大正の癸亥(注・みずのとい=大正12年、1923年)の大震火災後に様々な場所で行われた復興事業により、世の中はまさに激変(原文「滄桑の変を出現」)した。
 向島の隅田公園など、その一番の例だといえよう。同公園の大部分は旧水戸徳川家の下屋敷、すなわち小梅邸であった。この地はそのむかし木母寺(注・もくぼじ)という寺があった場所で、また嬉森という大木の林もあったなど、昔からいろいろな歴史的由緒がある。
 私は大正の初年からその嬉森跡の椎林の中に嬉森庵という茶室を設計し、しばしば茶会を催してきたという縁故もあったので、この公園の過去の歴史がまったく忘れられてしまうことを残念に思うので、水戸徳川家で大正初年に編集された「梅邸史」の大要をここに摘録して、後日のために残そうと思う。(注・現代文になおした)

  〇維新前の小梅邸
 小梅邸の所在地は、もと西葛西小梅村といった。五代将軍常憲公(注・徳川綱吉)の時代の元禄六(1693)年癸酉(注・みずのととり)八月五日に、この地は、わが(注・水戸藩の)三代藩主、粛公(注・徳川綱條つなえだ)に下賜された。以来、水戸藩下屋敷となり、代々の藩公がここで鷹狩りを催した。
 藤田東湖が幕命によって幽閉されたのは、この邸内である。弘化二(1845)年二月に小石川邸からここに移され、ここで「常陸帯」を執筆し、「正気の歌」の詩を作ったのである。翌三年丙午(注・ひのえうま)十二月、東湖は蟄居を解かれ、遠慮(注・謹慎)小普請組となり、水戸に移される。

  〇維新後の小梅邸
 明治四(1871)年辛未(注・かのとひつじ)七月十四日に廃藩置県の令が出ると、わが(注・水戸藩の)十一代節公(注・徳川昭武)は、その翌日にここに転居した。
 その後、定公(注・水戸徳川家12代徳川篤敬あつよし)はイタリア風を採用して洋館を建設し、明治三十(1897)年に落成した。
 ところが、土地が低くしばしば洪水が起こるので、土を盛って屋敷も新築する必要が出てきた。そこで、当公(注・当代の当主である13代圀順くにゆき)の時代の明治四十五(1912)年五月に、それに着手し、大正二(1913)年九月に竣工した。今の日本館がそれにあたる。

 江東の周辺は、田畑が市街に変化してゆく時期にあたっており、(注・徳川邸においても)明治四十(1907)年から、邸内の田畑、鴨堀などを埋めて市街地として整備を行った。広さは一万坪余り、戸数は五百戸余り。

  〇歴代藩主ならびに夫人の廟所
 歴代の藩公、藩公夫人の尊霊を奉祀した御廟は、旧水戸藩城の中にあったものをここに移し、規模を四分の一に縮小して再建された。明治三十三(1900)年九月九日に落成した。
 廟の前にある、文明夫人(注・水戸藩9代藩主徳川斉昭の夫人)による御碑は、もと駒籠(注・未詳。駒込別邸?)の庭内にあったものを、ここに移して建てられたものである。

  〇明治八年以降の行幸、行啓
 明治八(1875)年から明治二十九(1896)年までに、前後六回、行幸啓を仰ぎ奉る光栄を得た。
 明治八年四月四日、桜の花が咲き始めたころ、明治天皇が特別に御臨幸あらせられ、次のような勅語を賜る。
 「朕親臨シテ、光圀斉昭等ノ遺書ヲ観テ、其功業ヲ思フ、汝昭武遺志ヲ継ギ、其能ク益勉励セヨ」
 同時に、御製一首を賜る。


  花くはし桜もあれと此やとの 代々のこころを我はとひけり

 明治十五(1882)年十一月二十一日、同十六年六月三日には、天皇陛下が親しく臨幸あらせられ、隅田川における海軍端艇競漕(注・ボートレース)を御覧ぜさせ給う。
 同十七年四月二日には、天皇皇后両陛下の行幸啓を仰ぎ奉り、同二十五年六月九日には、皇后陛下、皇太子殿下の行啓を拝し、同二十九年十二月十八日には、再度、天皇陛下の行幸を仰ぎ奉る機会を得た。このどちらも隅田川での海軍端艇競漕を御覧になった。」

 前述したとおり、隅田川公園は歴史的な由緒のある場所であるが、関東大震火災のとき、徳川邸が土蔵一戸のほかは、すべて烏有に帰してしまった。復興局では、この一万坪余りの土地を徳川家から買い取り、その他、付近の地所と合わせて新しく隅田公園を作ったのである。

 水戸家ではこのとき、明治八(1895)年の明治大帝の御臨幸の際、当主に陛下から下賜された御製の記念碑を建設することが決まり、当主の圀順公が碑面に御製を謹書し、背面にその事由を記して、これを後世に伝えることにした。今後、当園に足を運ぶ人は、この石碑によって、今昔を追懐することができるであろう。



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二百九十三 現役大臣の茶の湯(下巻534頁)


 昭和六(1931)年四月初旬、司法大臣で子爵の渡辺千冬氏が、ある骨董商から偶然手に入れられた清朝御府(注・ぎょふ。皇帝の宝庫)伝来の茶碗は、口径四寸(注・一寸は約3センチ)、高さ一寸七、八分くらいで、春先専用の薄茶茶碗としては、このうえない寸法(注・サイズ)である。また内外は薄桃色で、ところどころに、いわゆる煎餅ぶくれがあり、口縁の外側から青釉がどろどろと一ナダレになっているのが、なんともいえない「景色」になっている。
 見込(注・茶碗内部の底)には黒金気釉で「花碗」の二大字が現れている。その筆づかいがすこぶる古雅で、古い法帖(注・ほうじょう=名筆鑑賞用の折り本)の文字を見るようなおもむきで、また、この茶碗を包んだ黄絹の風呂敷に、乾隆皇帝之章という大朱印が押されているところを見ると、あるいは幕府の什物であった可能性もある。
 ところで渡辺法相は、最近東京に「添光会」という茶会を設けて実物教育の宗匠を自任している加賀金沢の裏千家流茶人である越沢宗見と知り合いなので、彼にその茶碗を見せてみると、宗見は激賞し「閣下、もしこの茶碗がご不用なら、即座に拙者にお譲りあれ、もしまたご所蔵なさるるならば、ぜひとも、この茶碗びらき(注・披露)の一会を催さるべし」と言われたので、法相も非常にその気になり、では宗匠の才覚でその一会を催すことができるよう、それぞれの用意を整えるようにとの命令を下された。

 宗見はおおいによろこび、さっそく私にその一部始終を語ってくれた。また、その茶碗も見せてくれたが、これこそ、それまでの茶人が絵高麗と言い慣わしているものであった。絵高麗とは、はじめシナで製造されていたが、朝鮮で模造されるようになり、そちらの模様のほうがかえって世間に知られるようになって、ついには絵高麗と呼ばれるようになったものであるがこの花碗は、まちがいなくシナの窯元の製造になるもののようで、古陶器研究のうえで絶好(原文「屈竟」)の資料になるばかりでなく、じっさいの茶事に使ってもまた、しごく面白いものなので、私は、かの有名な博多文琳茶入が楊貴妃の白粉壺だと言い伝えられている例にならい、この茶碗も、楊貴妃に縁故のある品であるとみなし、これに付属するのに適当な女性的な薄手の茶杓を作り、銘を紅唇とした。その筒には、

    楊貴妃の口やふれけむ花の碗

としたため、宗見に与えた。
 こうして、茶碗と茶杓はそろったが、茶入のほうはどうしたらよいかという問題が起こった。そのとき宗見が、「先日ある機会に、貴族院議員の伊東祐弘子爵が所蔵する茶器を拝見したが、そのなかに、徳川初期の、子爵家の主人だった人が作らせたという茶入が、いくつか裸のままで残っているのを見た」という。この主人は、小堀遠州らと茶交があったらしく、その指導によって帖佐、高取その他、九州の窯に製作させたものらしい。渡辺法相は伊東子爵と懇意なので、その茶入のなかの一個を分けてもらえないか頼んでみて、今度の茶会に組み合わせるのがよい考えではなかろうか、ということだった。
 そこで、そのことを宗見から法相に進言し、法相から伊東子爵に相談してみると、それはよい廃物利用になると子爵は非常によろこんで快諾してくれた。
 これで茶会の主要品である茶碗、茶杓、茶入の三点が、あっというまに顔を揃えたことは、宗見の才覚が抜群であったからではあるものの、これこそ、花碗が世に現れる不思議の因縁と言わなくてはならないだろう。

 このような次第で花碗茶会の主要品が揃うと、渡辺子爵は四月二十三日正午に、豊多摩郡府中町の加藤(注・昭和茶会記によると加藤辰弥)氏の鳩林庵荘不識庵にて、正式な茶会を催された。
 当日の掛物は、西園寺陶庵公揮毫の色紙の表装が間に合わなかったので、同公筆の発句短冊で代用することになったが、その後ほどなく、表具のできあがった一軸は、金地色紙に、


  一枝国艶 両腋清風 
        坐茅漁荘主人時年八十有三印


という文句であった。楊貴妃と廬同(注・唐詩人)の故典を対句にしたところ(注・白居易「長恨歌」のなかの「一枝紅艶」と、廬同「七碗茶詩」のなかの「唯覚両腋習習清風生」からとったものか)など、ぴったりの(原文「寸分動かぬ」)思いつきだった。
 そのほかも、どれもが花碗を盛り立てる気の利いた飾りつけだった。懐石のときに、広間の床に掛けられた二幅対は、会主の先君子(注・亡父)である、無辺居士国武翁(注・渡辺国武)愛蔵の、


  臨済喝得口破
  徳山捧得手穿


という、清巌和尚の墨蹟中、稀有の傑作と見受けられた。
 こうして、午後四時ごろ、花碗茶会は大成功のうちに終了した。これは、茶道にとりまことに喜ばしいことであった。
 そもそも維新前においては、徳川将軍家をはじめとして、国持大名、幕府老中らが茶会を催したという例は多い。京都においても、関白諸公が、みずから茶会を開かれたということも少なくない。しかし維新後には、山県含雪公爵、井上世外侯爵が、晩年にみずから茶事を行われたということはあっても、現役大臣という立場でそれを試みた人はいなかった。それが今回、花碗の因縁により、後代の語り草ともなるような会を渡辺法相が催されたということは、いろいろな意味において、真の快挙であり浄業(注・じょうごう=善い行い)であったと思う。
 私は、法相が、この茶会をきっかけに、さらに奥深く茶道に踏み入り、政界において、ある意味、出色の大臣となるだけでなく、茶界においても、今後、より大きな足跡を残されることを、ひとえに期待する次第である。

 


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二百九十二 三十六人集分譲(下巻525頁)


 西本願寺大谷伯爵家は昭和四(1929)年、武蔵野女学校建設資金の調達のため、その資金寄贈者に、同家に伝来する三十六人家集三十五帖のうちの二帖「伊勢集」と「貫之集、下」を分譲することになった。
 全部で二千七百四十四ページのなかから三百三十ページを割き、その各十ページを一口にし、資金となる二万円を寄贈した人々に抽選で頒布することになった。抽選は、七月二十七日、品川御殿山、碧雲台(注・益田鈍翁邸)で滞りなくおこなわれた。
 思いかえせば大正十四(1925)年のころだったか、当時の西本願寺法主摂理、大谷尊由師が、あるとき私に現在わが国には、まだ真正の日本女子教育を行う女学校がないが、そのなかで、やや目につくのがキリスト(原文「耶蘇」)教宣教師の経営するもので、日本の女子を薫陶するには精神的な面での欠陥が少なくない、もしも日本の国情にふさわしい淑女を養成し、将来、女子が参政権を持つようになったときに、穏健な素養で危険思想の緩和剤となるような役割を果たすことができるようになるためには、自分たち仏教者の手によって理想的な女子教育を行う学校を建設しなければならないのであると述べられたことがあった。
 その後私は、本願寺の教育事業について、尊由師と同志一体ともいえる高楠順次郎博士に面会したとき、博士も同じ問題について話され、本願寺が女子学校を建設するためには、少なくとも三百万円必要だが、どうやってその資金を得たらよいだろうかと言われた。そこでわたしは、今もしも三百万円集めるならば、本願寺自身がまず非常な決意を示して、宗祖である親鸞の一衣一鉢の昔に戻り、伝来の什器も処分して、少なくとも資金の半分でも調達すれば、世の人もその真摯な態度に同情して、必ずやあとの半分を寄付(原文「義捐」)してくれるだろう、と述べたことがあった。

 このたび大谷光明師が新法主に就任されると(注・実際にはゴタゴタがあり、光明ではなく、光明の4歳の息子光照が就任している)、いよいよ武蔵野女子学校の建設に手されることになった。その資金に充てるために、当山第一の什器である三十六人集を分譲することを決心されたことは、宗教家の殉教的な事業に対する態度として至極当然のなりゆきであったと言わなくてはなるまい。
 そもそも三十六人集とは、今から九百三十年前、一条天皇の長保年間(9991004年)に納言藤原公任が撰した、人麻呂(原文「人麿」)」、赤人以下三十六歌仙の歌集を、当時の名筆家が尽善尽美(注・善と美を尽くした完璧な)の台紙に物し(注・書いて)、時の太政大臣道長の息女である彰子が一条天皇の中宮に入内するときに持参したものだと伝えられている。(注・現在は、天永31112318日の白河法皇六十賀贈り物として制作されたという説が有力)
 しかし現在大谷伯爵家に存在しているのは、その原本ではなくて、当時から、あまりはなれていない時代に複写したものであるというのが現代の古筆家の意見である。(注・現在は、大部分が原本で、天文18(1549)に、後奈良天皇より本願寺第10世の証如に下賜されたと見られている)

 しかし、その辺の説明はとりあえずおくとして、大谷家が今回、これを分譲することになったことについて世間には反対意見もあるようだが、とにかく、殉教的な目的達成のためには忍んでこれを分譲しなければならないのだという理由のもと、これを決行されることになったのである。ほかに適当な方法がないのに、いたずらにそれを止めさせようとするのは、非常に無理な注文だと言わなくてはなるまい。
 かつ、この歌集は、大谷家に伝来する以前、すでに世間に分散してしまったものもある。古筆鑑定の権威である田中親美氏の語るところによると、本帖は、その名のとおり、三十六人の歌集だが、そのなかで、一人で、上下二集あるのが二家あるため、もともと三十八帖あった。だが、人麻呂、業平、小町、兼輔の四帖が、すでに早くから散逸し、また、順(注・源順、みなもとのしたごう)集の一部も、すでに世間に出ている。
 このうち、兼輔集だけは、鎌倉初期の模写本があり、古筆家は、筆写したのは寂連法師と断定している。
 さて、これら世間に散逸した歌集切には、およそ四つの呼び名がある。
 順(注・したごう)集切は、「糟色紙(かすじきし)」と呼ばれ、現存するものが二ページあるのを、関戸守彦、池田成彬の両氏がそれぞれ一ページずつ所持している。
 また同集の「岡寺切」三ページは、古河虎之助家、根津嘉一郎家、および学士院が所持している。

 人麻呂集の「室町切」二ページは、近衛(注・文麿)公爵、古河(注・虎之助)男爵の所持であり、業平集の「尾形切」ページは、益田孝男爵二ページ、三井高精男爵、藤田平太郎男爵、原六郎氏、関戸守彦氏、安田善次郎氏が、それぞれ一ページずつ所持している。
 しかしながら、小町集は、現在、一ページも見当たらない。
 以上の歌切のなかで、これまでもっとも高かったのは、二万円三千円、もっとも安かったののでも一万五千円をくだらなかった。ところが今、にわかに、三百三十ページもの同歌切が世に出たのであるから、従来の所有者は大恐慌を起こしてもおかしくはなかった。しかし、今度の分譲を受けた者の中には、ひとりで一口、二口をまとめて、新たに手ごろな歌帖を調製する者もあるようだ。
 そのほか日本全国に、名古屋のように古筆愛好家が激増した地方もあるので、この歌切を所望する者は多く、争ってこれを得ようとした。したがって、これから古筆市場の市価が、従来に比べてひどく下落するといったことはなさそうだ。
 それはさておき、歌集二帖に六十万円余りの値がついたことは、維新以来の道具相場のレコード破りのことであった。日本もこれで、世界大国の仲間入りをしたような気持ちになる。これは、昭和年代におけるわが国の道具移動史上に、特筆されるべきことだろうと思う。

 


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二百九十一  松屋肩衝争奪戦(下巻522頁)


 松屋肩衝という大名物(注・おおめいぶつ)茶入は、もとは松本周室【あるいは松本珠報ともいう】が所持していたことから松本肩衝ともよばれていた。周室は、これを足利義政に献じ、義政がそれを珠光(注・村田珠光)に賜った。珠光はそれを、弟子の古市播磨守澄胤(注・ちょういん)に伝え、澄胤はそれを奈良の松屋源三郎久行に譲ったのである。
 それからは代々松屋に伝わり、松屋肩衝と呼ばれることになった。津田宗及の茶湯日記によると、永禄八(1565)年五月に松永久秀が南都焼き討ち(注・室町幕府13代将軍義輝を襲撃、殺害)の際に、あらかじめ松屋に内報して、徐熈(注・じょき。中国五代南唐の画家)の鷺の掛物と、この茶入を、よそに持ち出させたということである。
 その後、天正十五(1587)年十月の北野大茶の湯にも出陳された。また、霊元天皇の叡覧(注・天子が御覧になること)、将軍秀忠の上覧に供したこともあり、細川三斎、古田織部、小堀遠州、片桐石州といった大茶人からも多大な賞讃を博したものである。
 これより以前、利休がその袋を寄付し、三斎が象牙蓋と挽家(注・ひきや。仕覆に入れた茶入を収納する棗型の木の容器)の革袋と桐箱を寄進して、それらは今でもすべて付属している。
 この茶入は、徳川将軍家所蔵の初花肩衝と同種類の、漢作(注・唐物茶入のうちもっとも古い宋元時代のもの)で、こちらは少し背が低く胴まわりが大きいことが一風変わっているところである。
 もともと松屋では、久行、久好、久政、久重と、代々の数寄者が相続し、松屋三名物(注・徐熈筆の白鷺図、松屋肩衝、存星[ぞんせい]の長盆のこと。鷺図、存星長盆は現在所在不明)を持ち伝えた。歴代の主人たちは利休をはじめとする大宗匠のところに出入りしており、彼ら大宗匠の言行を記録したものとして「松屋会記(原文「松屋筆記」)」あるいは「四祖伝書」などといったものを残した。それらは広く京阪の茶人に知られ、松屋の三名物を見ざる者は、ほとんど茶人にあらざるがごとくに言われていた時代もあった。

 このように松屋は代々、これら名物を伝承してきたが、寛政年間(17891801年)に、松平不昧公は、いかにしても松屋肩衝を手に入れようと、お国入りの途中、伏見の旅館でこれを一覧することになり、実見が終って松屋主人が茶入を持って引き下がろうとしたとき、お供の家臣が進み出で次の間のふすまをあけると、千両箱が三個積み重ねられ置かれていた。懇望しているという内意を見せたわけだが、松屋は、これは先祖伝来の重宝なので金銭には替え難いとして最後まで応じなかった。
 当時、不昧公から松屋に送った礼状には、


 昨日は両種久々にて致一覧、大慶不過之候、別而肩衝如我等可賞品とは不被存候、不備               出羽一々
 土門源三郎様


とある。なんとなく、いやみを含んでいるように見受けられるのは、おそらく非常に失望されたからであろう。
 さて安政年間(185460年)になり、松屋の家政が傾いた(原文「不如意」)ため、これら三名物を、大阪の道具商である道勝、こと伊藤勝兵衛のところに質入れした。
 それを、島津公が一万両で買い上げられたという伝説は残っているのだが、このとき買われたのが、松屋肩衝だけだったのか、徐熈の鷺、存星長盆も一緒だったのか、その辺はさだかではない。
 私はそのことについて、以前、伊集院兼常翁を介して、島津家の方を調べてもらったことがあるが、西南戦争のときに焼失したものでもあろうか、とにかく、現存するのは茶入だけだということだった。
 さて、昭和三(1928)年の島津公爵家蔵器入札のとき、島津家の財政整理委員の樺山愛輔伯爵が、三井合名会社の理事である団琢磨男爵に、この入札の一切の世話を委託した続いて団男爵は、その宰領一切を私に依頼されたので、私は蔵器の中でもっとも高価なこの茶入の落ち着き先を探すため、まず根津青山、馬越化生の両翁を勧誘した。
 この両翁の入札の結果は、青山翁の力が勝っていた。軍配が青山にあがったとき、有力な札元であった戸田露朝が一曲の歌詞を作って私に送ってくれたので、ここに掲載しよう。


 

松屋潟月伊達引

 「むかしより、いまに常盤の色かへぬ、松の位の名物も、薩摩風に吹きよせられて、都のちまたくらぶにて、市に出でたるをりからに、引く手あまたのその中に、桜川(注・馬越のこと)とて今の世に、名うての大関力こぶ、入れて通ひし御成門、かたやは是も横綱の、緑も深き青山(注・根津のこと)と、互にきそふ土俵入、取組ありし其日には、四本柱もゆるぐ程、人気集るまつやがた、突合ふ手先、其内に、青山関の上手投、見事にきまり首尾よくも、勝星いただき帰り行く、げに勇ましきよそほひは、末の世までの語草、めでたかりける次第なり。」


 こうして、この茶入の噂は、一時はこの世界を賑わせた。(注・現在も根津美術館蔵)
 勝敗があるのは、戦う者の常、これ以上、気にするにも足らないことである。しかし、このような名器の争奪戦において、片方の大関であった化生翁が、今や、忽然として娑婆の土俵を引退された(注・亡くなられた)ということは、まことに残念きわまりないことである。



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二百九十 名器三十本茶杓(下巻517頁)

 私が大正元(1915)年から着手した「大正名器鑑」の編集は同十五(1926)年末に結了した。ひきつづきその再版のために二年余りを費やし、昭和三(1928)年九月に完成させることができた。
 その一部は天皇陛下に奉献し、さらに東久邇宮殿下にも献納するという光栄に浴した(原文「辱うしうした」)ので、同年十月二十七日に、帝国ホテルで本鑑の出版記念会(原文「告成会」)を催すことに決した。
 実物と対照させるため、諸大家から門外不出の大名物品を拝借し一堂に陳列することも行った。そこに、各方面の紳士、高官(原文「縉紳(しんしん)」、茶伯、文芸好事家を招待し、首尾よく記念の式典を終えた。
 さて、その翌年四月十七日に、根津青山翁の主唱に益田鈍翁、馬越化生、団狸山、原三渓の諸先輩が賛同して、さきの出版記念会に対して「箒庵翁慰労会」なるものを、東京会館で催してくださった。そこで、過分な讃辞と貴重な記念品を贈っていただいたので、私はその光栄を記念するために若干の茶杓を作り、それらに名器鑑中の茶碗、茶入にちなむ名前をつけ、ひごろ懇意にしている茶友に贈呈することを思い立った。
 さて、それを何本削ろうかと考えた末、表千家宗匠の如心斎宗左が、元文年間(注・173641年)に北野天満宮修復のために、三十本削って寄進した茶杓のことを「北野三十本」といって、今日の茶人たちにもてはやされていることから、私もそれにならい三十本製作することにした。
 寄贈しようとする人々に対しては、それぞれ縁故のある名称を選び、筒には「名器三十本之内、箒庵」と書きつけることにした。
 その名称と贈った人々の名前は次のとおりである。
 

  伊予簾  横井二王(注・横井庄太郎、名古屋道具商米萬

   走井   山田玉鳳(注・保次郎、名古屋道具商)
   橋立   中村好古堂(注・作次郎ではなく富次郎、道具商)
   花橘   近藤其日庵(注・廉平)
   春雨   加藤犀水(注・正治、正義の養子)
   思河   熊沢無想庵(注・一衛、実業家)
   大津   根津青山(注・嘉一郎)
   唐琴   林楽庵(注・新助、京都道具商)
   合甫   富田宗慶(注・重助、名古屋実業家)
   玉川   野崎幻庵(注・広太)
   玉柳   金子虎子(注・昭和茶会記に「大兵肥満の女性」とあるので瓢家女将お酉かも知れないが不詳)
   太郎坊  川部太郎(注・緑水、道具商川部利吉の養嗣子)
   茄子   益田無塵(注・益田多喜子)
   呉竹   伊丹揚山(注・信太郎、元七の息子、道具商)
   山雀   団狸山(注・琢磨)
   破衣   原三渓(注・富太郎)
   升    磯野丹庵(注・良吉)
   松島   八田円斎(注・道具商)
   猿若   益田鈍翁(注・孝)
   サビ助  仰木魯堂(注・敬一郎、建築家)
   笹枕   田中竹香(注・元京都祇園芸妓、田中竹子、「昭和茶会記」洛東竹操庵を参照)
   面壁   山中春篁堂(注・吉郎兵衛)
   宮島   田中親美
   箕面   戸田露朝(注・道具商)
   三笠山  土橋無声(注・嘉兵衛、道具商)

   四海兄弟 野村得庵(注・徳七)
   時雨   森川如春(注・勘一郎)
   白菊   越沢宗見(注・金沢呉服商、茶人、「雅会」会長)
   勢至   馬越化生(注・恭平)
   関寺   山澄静斎(注・力太郎、道具商、力蔵の息子)

 私は近年、茶杓削りに興味を覚え、天下の名竹をさがして、手に入れたら削り、ということを続け、それを同好者に寄贈することが一種の道楽になっているので、すでに作ってあったものだけでも二、三百はあったと思うが、今回も、例の道楽が頭をもたげ、この三十本の茶杓を製作したのである。
 そもそも、日本において茶杓を使い始めたのはいつのことだろうか。とにかく、抹茶を茶入から茶碗に移すには、茶杓様の器具を用いなければなるまい。鎌倉初期、シナから茶の実を持ち帰った建仁寺開山の栄西禅師の「喫茶養生記」のなかで、点茶の説明には、容器に二、三匙の抹茶を入れて、これに一杓の熱闘を注ぐべし、と書いてあるから、そのころからすでになんらかの茶杓を使用していたに違いない。
 その後、東山時代になり、天目点茶にはたいてい象牙の茶杓が使われたが、現在、足利義政、または茶祖の珠光(注・村田珠光)作と言い伝えられている竹製の茶杓があることを見れば、その時代にも竹茶杓はあったものと考えられる。
 茶杓の材料には、そのほかに桑、桜、その他の堅木が使われ、ほかにも、塗物、一閑張り、あるいは金銀なども使ったようだ。しかし紹鴎(注・武野紹鴎)、利休以後は、竹製のものが一番多く、象牙がそれに次いで多い。
しかし、象牙、塗物、木材の茶杓は、茶杓職人でないと、なかなかうまく作ることはできないので、昔から茶人の自作茶杓は、たいてい竹材に限られているのである。
 その茶杓には、その作者の人格があらわれる。貴人、僧侶、宗匠、その他どのような種類の人が作ったものであるか、ひと目見ただけでだいたいわかってしまうのは、作者の魂がその茶杓に乗り移っているからなのである。
 であるから、茶人が古人を友とし、その流風の余韻をしのぶときには、茶杓がもっともたしかな対象物となる。そして、これを鑑定することが、茶会における最大の興であるとされているのである。

 私が茶杓製作におおいに興味を持つようになったのもそのようなわけで、自分でも茶杓を作ってみれば、他人の茶杓を見て、その肝心な部分(原文「急所」)に一段と深く注意を向けることができ、ひいては鑑定もますます上達するのである。
 よって、巧拙はともかく、天下の茶人は、かならず茶杓の自製を試みてほしいものだと、私はこの機会を利用して勧めておきたいのである。


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二百八十九 大正名器鑑の編著(下巻514頁)

 茶道が始まって以来四百五十年のあいだに、茶人によって賞玩された名物茶器の数は、ほとんど数え切れない。
 利休時代までの茶書に載せられたものを大名物(注・おおめいぶつ)といい、時代がくだって寛永時代(注・江戸時代初期162445年)にいたり、小堀遠州らがその鑑識眼で選んだ名器を、中興名物と呼ぶ。それらが代々伝えられて貴重な宝とされているのである。
 徳川時代においては、これらの名物が、将軍家、諸大名、あるいは民間の諸名家の宝蔵に秘蔵され、それらを簡単には見ることはできなかったので、数寄者の中には、なるべく広くこれらについて調査し、名物集を作ろうとするものも多かった。
 なかでも、享保時代(注・171636年、徳川吉宗の時代)には、松平左近将監乗邑(注・のりむら、のりさと。老中)が非常な努力(原文「丹精」)で「名物記」三冊(注・「乗邑名物記」)を編集し、続いて寛政年間(注・17891801年)には、松平出羽守宗納【不昧公】が九年を費やして「古今名物類聚」十八冊を編集し、その後、本屋了雲が「麟鳳亀龍」という名物記四冊を編集した。これらの名物記が、従来は名物茶器の記録として、茶人の金科玉条とするところであった。
 封建時代には、諸大名が名器を各自の藩地で保蔵しているだけでなく、いろいろな意味で極度に秘蔵する習慣があったので、松平乗邑が当時の幕府老中であったことが、その調査のうえで非常に役立った。松平不昧も、徳川の親藩であるうえに十八万石の資力があり、それを背景にして編集を行うことができた。
 にもかかわらず、実物を見ることができない場合もなきにしもあらずで、伝聞によって記録を作成したので、調査が正確を欠くだけでなく、写真のような実物を写すことができる便利なもののない時代だったので、読者が実物を思い描くことが難しいといううらみがあり、私はいつもそのことを残念に思っていた。

 ひとりの研究者の力(原文「一学究の独力」)では、満足な名物記を完成することは、いかに便利な世の中でも簡単なことではないと思いつつも、なんとか奮闘して、この事業をやりとげてみたいと私は思ったのである。私が五十一歳で実業界を引退したのも、半分はこれを実現させるためだった。
 こうして、私は実業界を引退した大正元(1921)年から、どのような順序で着手すればよいかいろいろ研究し、大正六(1917)年にはほぼその方針を決めることができたので、それからすぐに名器の検覧、そして写真撮影にとりかかった。
 しかし、一度にたくさんのことを網羅しようとすると調査に滞り(原文「不手廻り」)が生じ、あれこれやるべきことが増えて、どっちつかずの中途半端になりそうだったので(原文「共に疎漏に陥るべきを悟り」)、第一期計画として、まずは茶器の代表(原文「儀表」=模範)である、茶入、茶碗、を調査し、その全力をこの二種類のものに集中することにしたのである。
 そこで、天下の名物茶入と茶碗の七分の一を所有されている松平直亮伯爵の四谷元町邸を訪問し、私が今度名器鑑を編集しようとしているのは、寛政年間に伯爵の高祖である松平不昧公が「古今名物類聚」を編述されたのと同様に、今日の聖代の余陰によって(注・「この平和な大正の御代(みよ)に」ほどの意味か)、さらに一層精密な図録を調製しようという趣旨であると、ひたすらに伯爵の援助を懇請した。

 すると伯爵はよろこんでこれを承諾され、不昧の時代は名器を検覧することは難しく、撮影技術もなかったために、その調査を入念にきわめることはできなかったが、今日、貴下が一層綿密な名器鑑を編集しようとするのは、茶道のためにもまことに有益な企画になるので、自分は貴下の目的が果たされるようにできる限りの協力をしようと、私のことを非常に励ましてくださった。私は、伯爵のそのひと言で、百万の援軍を得るよりも力づけられ、大正七(1918)年の五月に、伯爵の東京邸に所蔵されている三十八点を検覧した。

 続いて、松江市の宝蔵にある五十五点も調査し終えることで、名器鑑の中核となる部分を構成することができた。これは、私にとってこのうえないよろこびだった。
 次いで、同年十一月には、幕府伝来の御物を保蔵されている徳川家達公爵を訪問し、本編集の趣旨を説明した。公爵もその計画に賛成してくださり、所蔵の大名物茶入十三点、茶碗六点の検覧と撮影を許可されただけでなく、同族諸家に対しても、私が、その所蔵名器を検覧できるように親切にも取りはからってくださったので、私は引き続き、徳川三家の名器を拝見することができた。その後、島津、毛利、前田、浅野、細川をはじめとする旧大名家や、民間の大家を歴訪した。
 茶入については、持ち主が百人で、品数は四百三十六点、茶碗は、持ち主が百十八人、品数は四百三十九点というところで、調査を終了した。
 大正六(1917)年から実編集の時期にはいった。それから足かけ十年を費やして、大正十五(1926)年十二月、全国に現存する名物茶入、茶碗の編集を完了した。
 「茶入之部」五編、「茶碗之部」四編を印刷にまわし、これを「大正名器鑑」と名づけた。
 この事業の遂行には、物質的にも精神的にも想像をこえる困難に遭遇したが、時勢のおかげで、かつての故人がひとりなしとげることができなかったことを成就した。さらに手前味噌の点を挙げるなら、天下の諸名家を歴訪し、茶事始まって以来の誰よりも一番多くの名器を実見することができたことは、この事業から生まれた役得だったといえよう。

 


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二百八十八 医茶一途論(下巻510頁)

 私は父母から健康な身体を恵まれたので、七十年あまりのあいだのうち医者の厄介になったことが非常に少ない。医者から見れば、むしろ「有り甲斐のない代物」だと言われてしまうだろうが、そのかわり、たまに病気にかかったときにはいつも当代一流の医家に診てもらっていた。
 明治十四(1881)年に上京してから八年間はほとんど無病であったが、明治二十二(1889)年秋に欧米の来遊から帰国したのち、すぐに腸チフスにかかり帝大病院に入院した。そのときにはベルツ博士の診断を受けた。
 その後数年して、はじめて丹毒を患い赤十字病院に入院した時には、院長である橋本綱常子爵の診断を受けた。
 また明治四十二(1909)年、前妻が腎臓病にかかったときには、青山胤通博士の治療を願い、大正四(1915)年、老母が郷里で患ったときには、木村徳衛博士に往診していただいた。

 私が当代の名医と接した経験は、おおよそ以上のような数回でしかなく、とくに明治末期から大正の末年にいたる二十年間にまったく無病であったのは、この間、毎年のように伊香保に避暑入浴に出かけたためであると思われる。そのため、伊香保温泉の効能の宣伝もかねて、同地の八千代公園に、奈良地方から持ち帰った一丈二尺(注・約3.6メートル)の古石灯を寄進して、その棹に次の一首を彫りつけた。

  銷夏上毛雲木区 温泉日々濯吾躯 山霊冥助人如問 二十年間一病無
  (銷=とける、けす)

 私はこのようにもともと長く健康状態を維持してきたが、大正末年から大正名器鑑の校正に従事して極度に視力を虐使したため、視神経の衰弱をきたした。さらに消化不良にもなってしまい、一時は十七貫八百目(注・一貫は3.75キロで、67キロ弱)に達していた体重が、ほとんど十三貫目(注・49キロ弱)に減ってしまった。
 この間、もちろん床に臥せっていたわけではないが、家人らも、もしや胃癌ではなかろうかと危ぶむほどになってしまったので、そこではじめて病人のような気分を味わうことになった。そして、当代抜群の国手(注・名医。医師の敬称)として知られていた、帝大の真鍋嘉一郎君の診断を乞うことになった。
 きくところによると、君は初診の人に接するとき簡単には診察にとりかからず、長時間患者と対座して、よもやまの談話をするなかで、その容態についての一般的な観察をすることを、ふだんからの診断法としていられるそうだ。私のときも、その診断前の談話が長かった。
 その話題はといえば、さきごろ九死一生の大患にかかった馬越恭平翁に関するもので、翁が茶人で、また私も茶人であることから、とうとう医茶一途論について話をされたのである。その主旨は、次のようなものだった。

 「自分は、茶人が恭謙の態度をもって懐石の給仕をつとめ、さらに濃茶手前にはいるや、自分等の目より見れば一本の竹べらにすぎない茶杓を丁重に取り扱い、また古ぼけた茶碗を重宝のようにみなして、これを運び、これを拭い、茶を点て、客に供するその間に、万々損傷なきよう始終注意して居るその精神は、われわれ医者にとってもまた、おおいに学ぶべきところあり、この点においては医道も茶道も、全然一途なるべしと思わるる。ところでこのごろ馬越翁の病状がようやく危険区域を脱し来たるや、翁はそろそろわがままを言い出し、看護婦らが、すこぶる難渋する由、訴え出られたから、自分は一日、馬越翁に向かい、君は大茶人であるそうだが、いつごろより茶事を始めたるや、と問えば、翁はたちまち大得意となり、入門以来、五十年の茶歴を語られたから、自分はさらに一歩を進め、茶人が竹べらやら、古茶碗やらを大切丁寧に取り扱う、その注意周到は、自分のおおいに感服するところであるが、およそ天下に、わが身体より大切なる器物があろうか、しかるに、貴老は、近頃看護婦の言葉を用いず、ややもすれば、病態を虐用するきらいありという。茶人はかの竹べらや古茶碗をさえ大切に取り扱う者なるに、今、天下第一貴重なる、わが身体を、貴老のごとく粗末に取り扱う者を称して、はたして大茶人ということをえべきやいかん、と詰問したるに、さすがの馬越翁も、これには閉口して、グーの音(注・ね)も出なかった。

 自分はかつて、井伊大老茶道論を読んで、茶道の精神が、わが医道に共通して居ることを知ったので、今後は、医茶一途論を唱えて、ただにわが医道のみならず、人間社会万般のことに茶道の精神を拡充しなくてはならぬと思って居る云々。」

 以上、真鍋国手の医茶一途論は、まさに近来の名説だが、茶道の門外漢から出た説だからこそ、ますますその真価があがるものだろうと思う。そこで私は、この論法を使って、しばしば老人の冷や水を戒めているのである。
 さきごろ、益田鈍翁が大患にかかり、やがて全快の間際になって馬越翁とほぼ同じようなわがままが出てきたということを耳にしたので、さっそく医茶一途論を令息の太郎君に伝え、これを利用して翁の不摂生を防止するように勧めておいた。ここでもきっと多少の効果はあったのではないかと思うが、世間のいたるところで医茶一途論が特効をあらわす機会がありそうだと信じるので、ここにその要点を披露する次第である。


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二百八十七 延寿達磨(下巻507頁)

 五世清元寿大夫、岡村庄吉翁は大器晩成で、古稀(注・数え年70歳)を過ぎても声量がそれほど衰えず、芸の技はますます老熟した。その凄艶秀絶な清調(注・澄んだ声)は、目下のところ、浄瑠璃界全体を見まわしても他の追随を許さないものがある。それはもちろん天性の才能(原文「天稟=てんぴん」)のなせるわざではあるが、翁は芸術にのみ忠実で、もっぱら自身の健康に留意し、ほかの音曲師匠のように多くの門弟に稽古をつけることがなく、つねに医戒(注・健康に関する教え)を厳守しているからである
 適度な睡眠と食事を守り、十数年前から伊豆の伊東に別荘(原文「別業」)を構え、一回の劇場出演が終るとすぐにそこに赴き、呼吸疾患に特効がある同地の温泉につかる。そして一切の俗用を避けて、おのれの至宝である音声の保養につとめるのである。だからこそ、その芸術が老衰をきたすということがないのであろう。
 このように翁は芸術本位で保養を大切にしているため、その余暇のなぐさみに(原文「消閑の為め」)、最近では絵画に指を染めている。ひまさえあれば一室に閉じこもり、さかんに揮毫を行っているようだが、これまで師について学んだということはなく、古画を研究したり実物を写生したりして、いつもの根気よさで熱心に続けている(原文「孜々として倦まぬ」)ので、上達もはやく、近作の中には一種独特の風格があらわれているものもあるそうだ。
 もっともはじめのうちは失敗だらけで、竹が芦に見えたり、虎が猫と間違えられてしまうくらいはまだよくて、あるときは、ひと刷毛描きの鷺を描いて、大自慢でそれを田舎出身の下働きの女(原文「下婢」かひ)に見せたところ、女は不思議そうな顔をして、「旦那様、これはおかめの面でござんすか」とききかえしたので、さすがの大画伯も答えにつまって、ただただ苦笑を洩らすばかりだったそうだ。
 しかしその後画題のうち、馬、うぐいすなどには、かなりの佳作もあった。とくに鰹(注・かつお)は、伊東滞在中に毎日漁場に出かけ、解剖するようにさまざまな写生を行い、独特な新感覚のあらわれた作品になっているものもあって、翁の新画の十八番物のなかでも随一だということだ。
 さらに最近は、だんだん人物画にも興味を持ち、鍾馗や達磨などを描き始めた。なかでも達磨はもっとも得意とするところだそうだ。
 その苦心談をきいてみると、達磨はインドで聖者であり、あの毛のちぢれた黒人ではなく、容貌はコケ―ジャン(原文「コーケシヤン」=白人のこと)系の北欧人に近いはずなので、描くときには、達磨の顔をいくぶん西洋顔にして、独特な風格を描き出したのだという。
  翁は、その絵画には必ず自讃をつけるが、書については、翁が明治九1876)年から十八(1885)年まで三井物産会社の少年書記時代に鍛えた腕前に、その後多年の修練が加わり、剛健で抜群(原文「勁抜」けいばつ)な筆づかいで、ほとんど作家の域に達している。
 昭和四(1929)年の一月に、翁の達磨の評判を耳にして、荊妻(注・けいさい=妻のことを謙遜していう表現)の柳舟(注・高橋楊子。東明柳舟)が、新年の試し書きを所望すると、翁はおおいに乗り気になって、描きも画いたり、二百余枚のその中から会心の一枚を選んで贈られたので、さっそく表装に取り掛かり、一月二十八日に赤坂伽藍洞(注・高橋箒庵邸)で達磨びらきの茶会を催すことになった。この達磨画讃は、次のようなものだった。

    心外無別法
   我影も動かぬさまや冬の月
         五世延寿並題印

 この延寿達磨画讃の表装は、上下が萌黄地丸龍紋緞子、一風(注・一文字と風帯)と中廻しが丹地金襴で、それを書院の九尺床にかけ、荊妻の柳舟主催の茶会に来洞した人々は、延寿、栄寿(注・清元栄寿太夫)の両夫婦、稀音家六四郎、清元栄治郎の面々で、達磨幅の前には時代物唐物黒塗卓に青磁四方香炉を置き、名香蘭奢待(注・らんじゃたい)を薫じた。書院には、青貝入波に片輪車蒔絵手箱、床脇棚には厳島経(注・平家納経)の写し二巻、琵琶棚には土佐光信の胴革絵の平家琵琶を飾り、私は床の中にいる達磨を礼讃するために、六四郎をワキとして、栄治郎の三味線で、平岡吟舟翁節付けの東明流「道八達磨」の一曲を演奏した。
 この道八達磨というのは、東福寺の兆殿司(注・室町時代の画僧、ちょうでんす)筆で、織田信長の実弟である有楽斎長益の子、左門頼長、俗称、道八の旧蔵であるために、この名称がある。道八は、飄逸奇抜な茶人で、この達磨をみずからの肖像とみなし、画像の上に虚空元年月日の日付で、

     我影と眺めながらも余のうさを 知らぬ顔こそ羨ましけれ

と自讃して、終生これを秘蔵したそうである。
 この達磨を道八というならば、今度の達磨は、延寿達磨といってもよいだとうということで、私は延寿達磨という清元曲の新曲を作って翁に贈った。

 このようにして、和気あいあいの中に延寿達磨びらきの茶会は終わったが、この日、晩からの雪は鵞毛(注・ガチョウの毛)のようにひらひらと舞い、このまま降り続ければ、翌朝には庭に大きな雪だるまができそうに思われた。



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二百八十六  延寿大夫芸談(下巻503頁)

 若いころに三井物産の手代として働いていた五世清元延寿大夫は、清元お葉の至芸に魅せられて、だんだんと清元に深入りしていった。とうとうしまいには、お葉の夫の四世延寿大夫の養子になり五世を相続することになったが、その経緯については前述したとおりである。(注・157158「清元延寿大夫の生い立ち」を参照のこと)
 延寿は大器晩成のほうで、実力を発揮し始めたのは、実に大正初年ごろからである。そして今ではすでに古稀(注・数え年70歳)をこえるという高齢ながら、強弩の末勢(きょうどのすえのいきおい=強い弓の最後の勢い。強弩の末魯縞を穿つ能わず、という成句で用いられ、本来は肯定的な意味では使われない)を維持し、当代音曲界の第一人者と目されている。
 その理由はいろいろであるが、それはまたの機会に譲り、ここでは、彼の演芸上の努力が並々ならぬものであることの一端をしめすひとつのエピソードを紹介したい。
 延寿の声は非常に強く、高く、かつ清らかで、しかも音量が豊富であるので、清調(注・清らかな調べ)を本旨とする清元語りの太夫としては申し分がない。しかしこの種の太夫は、時としてその美声に邪魔されて、老人物を語るときに苦しむことが少なくないのである。現に、近世、その美声でその名声をほしいままにした摂津大掾(注・竹本せっつだいじょう)の場合にも、しばしばその欠点を感じることがあった。
 延寿大夫も同じであったが、彼の場合はそのことを自覚し、どうすればこれを補うことができるかを考えていた。梅川忠兵衛(注・「冥途の飛脚」の主人公名で、作品の通称)の浄瑠璃のなかにあらわれる老人、孫右衛門(注・忠兵衛の父親)を語るにあたっての苦心談などは、そのもっとも興味深いものであると思われる。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)
 「私は三十代で延寿大夫を相続して間もなく、梅川忠兵衛の孫右衛門を語らんと思い、老人の気分を出すべく、その語り口を研究して、当時横浜に隠居していた、岡太夫(注・豊竹おかたゆうか?)という義太夫語りに相談した。彼は、そのころ、大分の老体であったが、その道にかけては、すこぶるつきの老練者で、団十郎、菊五郎のごときも、時代物のせりふまわしについては、彼の教えを乞うたことが度々あり、現に団十郎が妹背山(注・「妹背山婦女庭訓」いもせやまおんなていきん)の大判事を演じた時は、彼よりその口跡を習われたが、団十郎ほどの者でも、そのころまでは、未だ声を呑むということを会得しなかったので、なんびとにも遠慮せぬ岡太夫は、団十郎を子ども扱いにして『それじゃ、まるでなっていねえよ』といったような口調で、彼に種々の工夫を授けたので、団十郎もこのときより、口跡の緩急(注・メリハリ)に大進歩を示したということであった。
 私はかねてそのことを承知していたので、一日、岡太夫を訪い、今度私は、梅忠の孫右衛門を語ろうと思うが、そのせりふまわしを教えてくださいと申し出たところが、岡太夫はせせら笑って、『おまえは、五十を越えないうちに、孫右衛門を語ろうと思うのか、そんな心得なれば、清元の養子などはやめてしまうがよろしい』と、さんざんに度肝を抜かれたが、さて、やむにやまれぬ場合とて、彼の忠言もききいれず、とうとう孫右衛門を語ったところが、案の定、大失敗に終わったので、私はそれより五十を越えないうちは、断じて孫右衛門を語らぬ決心をしたのであります。」と述懐された。

 ところが延寿が五十六、七歳のころ、癸亥(注・干支の、みずのとい=大正12年)の震災前で、まだ有楽町に有楽座があったときに、同座で行われた清元会で、清元梅吉の三味線で孫右衛門を語ったことがあった。
 延寿はもともと芸道熱心で、しかも非常に入念だった。毎日の芝居の出語りのときでも、登場前に必ず一回全曲をさらってから登場することにしているくらいだから、今回の孫右衛門についても非常に工夫をこらしたにちがいない。多少は美声が災いしたところはあったが、とにかく彼としては上々の出来で、観客からも好評を得たのである。
 しかし彼の得意は、累(注・かさね)、お俊伝兵衛(注・「近頃河原の達引ちかごろかわらのたてひき)で心中する男女)、三千歳(注・みちとせ。お葉作曲の清元)、十六夜清心(注・いざよいせいしん。歌舞伎)などである。その息の長い美声をじゅうぶんに発揮することができる曲において、他の追随を許さないものがある。
 とくに、彼は女性の声色を得意とし、江戸前の女気分をあらわす妙味は、どの流派を見まわしても当代に肩を並べる者はないだろう。そのような声の持ち主の太夫であるから、老人物を得意とするはずもなく、この点においては摂津大掾と同類である。
 私はかつて、越路太夫(注・三代目竹本越路太夫)から、梅川を語っては、摂津大掾が天下一品だが、孫右衛門はまだ不得意で、晩年になって美声が衰えてきたとき、はじめてこれを語れるようになりましたときかされたことがあったが、延寿もまた同じであろうと思う。
 彼は有楽座で孫右衛門を語った後、約十年間、これを出さなかった。昭和三(1928)年になり、三越会場での清元会で、めずらしくもこれを再び語ったが、古稀を過ぎてもなお枯渇していない彼の美声では、いくら苦心してもやはり難しいようであった(原文「終に其苦心に伴はざる憾なきに非ず。」)
 おそらく彼は、清調美音で成功する太夫であり、終生、老人物を得意にすることはなさそうだ。ただ、彼自身が、不得意であることを知りながら、あくまでもこれを研究する熱心さを持つことを、おおいに評価しなければなるまい。



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二百八十五  仏法僧(下巻500頁)

 仏法僧は、またの名を三宝鳥という(注・コノハズクのこと)。私は多年その声にあこがれて、紀州高野山で三回、大和室生寺で一回、聴聞を企画しながら毎度失敗したので、今度は木曽の福島興禅寺に出かけ声を聞こうとして、このときもそれを果たすことができなかった。
 ところが大正十五(1926)年七月、名古屋の茶友である森川如春が、先日三河国鳳来寺で仏法僧をきいてきたが、そこでは、宵の内から、ふんだんに鳴きだすので、簡単に聞くことができると言われた。ここにおいて、私は長年の宿望を達する時が来たと非常によろこび、愚息の忠雄、田中親美、稀音家六四郎(注・当時は杵屋六四郎)を同伴し、ちょうど上京中だった森川如春を案内人(原文「東道」)にして、同十七日に、三州(注・三河国、現在の愛知県)鳳来寺に参詣し、その夜、まさにはっきりと鳥の声を聞くことができたのである。
 七月十七日の朝、私は同行の五人で東京を出発、午後三時に豊橋着、すぐに豊川電車に乗り換えて、約三十分で長篠駅についた。駅から自動車で約二十分で門谷村に到着したが、この村は戸数が四、五十あるかどうかという規模で、そのなかほどに小松屋という旅人宿があった。この宿でも仏法僧を聞くことができるそうだが、私たちは、前もって鳳来寺に一泊の依頼状を出しておいたので、そこで登山の支度を整えた。
 そこから鳳来寺の奥の院までは、石の階段が千二百段だと知らされた(原文「註された」)が、鳳来寺はその手前の八百段のところにあるので、一同はおおわらわで石段を登り、夕刻に鳳来寺に到着した。 

 寺の住持である田畑賢修師は、私たちを非常に優待してくださり、夕食後庭前に出て、仏法僧を聞くための涼み台などを用意してくださったので、一同は今か今かと待っていたところ、午後九時ごろになって、前山の杉の木の間からブッポーソーという声が聞こえ始めた。
 最初のブッポーの二音の部分は非常に短く、あとのソーの部分がやや長くて尻上がりとなり、鼓(注・つづみ)の裏皮に抜ける音のように、ポンと余韻を残して響き渡る。それが山谷に反響して朗らかで、フクロウか鳩に似ているが、それよりもやや甲高く力強い感じがした。
 こうして一羽が鳴き始めると、反対側の山でも他の一羽が鳴きだし、シテ、ワキの掛け合いとなったが、そのようなことは、この山でもかなり珍しいことであるそうだ。
 その後私は、朝鮮で捕獲した仏法僧のはく製を見たが、大きさは、頭から尾までが七寸強(注・一寸は約3センチ)で、鳩よりもやや小さい。くちばしは黄色で、胸が孔雀のような瑠璃色を帯びて、美麗な斑変わり(注・まだら模様)がある。足の指は、前が三本、うしろが一本で、一見、とて九官鳥に似ているが、この鳥は夏季だけ日本にやってきて、秋口には南洋に飛んで帰るのだそうだ。
 さて私はこの仏法僧を聞いて年来の希望を果たしたが、今回稀音家六四郎を同伴したのは、森川如春が、「天下の音楽家は、必ず仏法僧を聞かねばならない」と言われたからだった。そんなことで彼を誘ったのであるから、その後、「仏法僧」という新曲を書いて、ためしに六四郎に見せてみると、彼は例の凝り性であるから、わずか四、五日で作曲を完成させたのである。その文句は次の通り。

    新曲仏法僧
 三下り妄執の雲立ちおほひ、法のともしび影暗き、浮世をよそに三河路や、鳳来山の山奥に、仏法僧といふ鳥の、棲むとし聞きて思ふどち、誘ひ合せつ水無月の、八日の朝、鳥がなく、あづまの都あとになし、耳の幸さへ豊橋を、渡る日脚の長篠を、過ぎて麓の門谷より、嶮しき山路よぢ登り、夕涼しき杉間もる、弓張月の影高き、峰の御寺に着きにけり。
 本調子見あぐれば、巌峨々たる奥の院、見下す谷は数千丈、月の光もほの暗く、早や初夏過ぐる折こそあれ、峙(注・そばだ)つ峰の彼方より、仏法僧と啼く声に、連れて聞ゆる又一つ、同じ其名を呼子鳥、しらべ合する声々の、こだまに響くぞ物すごき。
 三メリ更け渡る、夜風にゆらぐ、方丈の、灯の影かすかにも、夢か、うつつか、唱歌の声。心して聞けや人々、三宝の声は、心に通ふなり、声か、心か、心か、声か、声も心も、元ひとつ、アラ有り難の声や心や。
 本調子繰返し繰返し、近寄る影は、老いたる人、白髯長く胸に垂れ、頭に烏帽子を冠りつつ是れはいにしへ高野にて、開山大師に仕えし者なり、我今此山にありと聞き、遥々尋ね来りたつ、其信心に酬いんと、聖の御歌を唄つつ、夢中に姿を願はすなり、ゆめゆめ人にな語りそと、言ふかと思へば、一睡の南柯の夢は、覚めにけり。
頼母しや頼母しや、山の奥には、三宝の昔ながらの声すなり、末世にてはなかりけり、心に掛けし年月の、願ひも満ちし嬉しさを、峰の薬師の御利生と、伏し拝みつつ打つれて、麓の方にぞ下りける。
 

 これは、六四郎が興に乗って、速作、力作したものである。曲風は、幽玄体の、あの長唄の枕慈童(注・まくらじどう)などに匹敵するものであろう。
 ところでその当座は、東都のまんなかでも、しばしばこの仏法僧が鳴き始めたので、川柳でいうところの「河東節親類だけに二段聞き」(注・素人のひとりよがりの歌の披露に、身近な人が義理でつきあわされること)の類のお相伴を食った友人も少なくなかったようだった。


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二百八十四  東郷元帥懐旧談(下巻496頁)

 私は明治三十八(1905)年の末に、島崎柳塢(注・りゅうう)に追儺厄鬼図を描かせ、東郷元帥
(注・東郷平八郎)に五字讃を乞い、同年の歳暮掛けにしたことがあった(注・129「東郷元帥の五字讃」参照のこと)が、大正十四(1925)年、またすこしばかり思いたつところがあり、自作の茶杓に「山櫻」という筒書付を乞い、また茶室掛けとして「淸寂」二大字の揮毫を願い出た。

 すると元帥は、早速執筆のうえ、取次人である下條桂谷の門弟、八木岡春山に下付してくださったので、私は同十二月十日の午前九時半ごろから八木岡春山を連れて上六番町の東郷邸に推参し、うやうやしく御礼を述べた。
 東郷邸は、木造一階建ての簡素な西洋館で、玄関にはいると、右手に三間四方(注・一間は約1.8メートル)ほどの応接間がある。中央のテーブルのまわりに四脚の椅子があり、片隅にはソファ一脚が置いてあった。北向きの窓の内側に、はく製の鳥類や、石膏の人形、あるいは葵の紋散らしのある飾り太刀などが雑然と並べられていた。
 やがて女中が私たちふたりに番茶を運んできたあと、元帥は、ねずみ色のセル地無紋の羽織に、手織りらしいブツブツとした粗末な袴を着けて部屋にはいってこられた。ひげはもはや真っ白になっていて、鼻の下とあご(原文「腮」)に少々刈り残しがあり、頭髪にはいくぶん黒いところも残っているというかんじだった。
 元帥は気軽(原文「無造作」)に応接されたので、主客はそれぞれ椅子にすわり、まず私からの御礼を申し述べたあと、よもやまの雑談に移った。
 そのなかで、元帥が私の質問に対して率直に物語られたバルチック艦隊の動静についての談話はすでに前述(注・同じく129参照のこと)したので、ここではその他のことについていくつか記述しようと思う。
 私が元帥に対して、閣下はお若い時に禅学を修められましたか、と訊いたのに対する元帥の答えは次のようなものであった。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

 「自分の少年時代は、尊王攘夷論が天下に充満していたときで、薩摩のはしばしに至るまで、人心おのずから穏やかならず、西郷、大久保等が先達となって、しきりに国事に奔走する折柄とて、自分が読書の稽古をしたのは、十七歳のときまでであった。
 そのころ自分の隣家に、伊藤という陽明学の先生があったが、この人は藩中でも、すこぶる高名で、西郷も大久保も講義をきいたり教えを受けたりしたことがあった。
 しかるに、自分はその隣家なので、始終その門に出入りして陽明学の講義を聴いたので、禅学を研究したとか僧侶の提唱(注・説法)を聴いたとかいうことはないが、心学の大要はこの伊藤先生より聞知することを得たのである。
 鹿児島では、このころより、海軍振興の藩論が起こり、自分等は少年ながらも、進んでこれを練習せんとする志を立てたが、一方京都において、倒幕論が進行し、薩長連合の結果、形勢いよいよ急迫したので、自分等は薩摩の軍艦春日丸に乗り込んで大阪に赴き、すぐに上陸して京都に向かわんとしたところが、それが慶応四(1868)年正月二日のことで、伏見鳥羽の朝幕衝突戦が、まさに勃発せんとするときであったから、乗ってきた軍艦を棄てておくわけにもいかず、中途より引き返して、軍艦に乗り移らんがため大阪の方より押し寄せ来る幕軍と、京都の方より進出する薩長軍の間を通り抜けて、ほどなく戦争が始まるならんと思いつつ、同志とともに大阪に立ち戻り、小船に乗って天保山沖に繋いでおいた春日丸へ漕ぎつけたが、二日の晩より三日にかけて、大阪方面に火の手があがったり砲声が聞こえたりするので、いよいよ戦争が始まったことを知り、春日丸と運送船二艘を率いて大阪沖を抜錨し、一路鹿児島に向かわんとしたところが、榎本武揚の率いていた幕府の軍艦数艘がその進路を横切って居るので、運送船の中一艘をまず四国の方に放ちやり、春日丸は他の運送船一艘とともに紀州海峡の方に避けたのを、榎本等の軍艦が追いかけてきて、三日より四日にわたって、しきりに砲戦を交えたが、榎本等は大阪方面のことが気にかかったとみえ、いまだ勝敗の決しないうちに引き上げたので、春日丸は運送船を引き連れて無事に鹿児島に帰着することを得た。
 それより官軍が江戸城を受け取って、東北佐幕藩の征討となり、黒田清隆、山県有朋の連合軍が越後の長岡を討伐する際、海上応援として軍艦に乗り込み、最初に能登の七尾に到着し、引き続き越後の海岸を巡航して海上より官軍に加勢した。
 また函館五稜郭追討の際は、やはり軍艦で北海道に赴き、かの戦争は約七か月ばかり続いたので、五稜郭降伏まで北海道沿岸の諸処で佐幕海軍と砲戦を交えたこともあった。
 その後明治四(1771)年にいたり、日本おおいに海軍を拡張しなくてはならぬという形勢になったので、自分は十二人の同僚とともに、海軍練習のため英国に渡航することとなったが、その十二人中、今日生き残って居る者は、自分と八田祐次郎(注・はったゆうじろう。裕次郎が正しいか?)の二人のみである。
 さて自分が英国滞在の七年間には、日本において種々の事変があった。ことに西南戦争のごとき、薩州出身の自分等としては、その際帰国して国事に尽くすべきはずであったが、先輩よりの勧告に、国に尽くすはそれぞれの道がある、今日帰国して、中途で海軍の研究を棄ててはなんにもならぬから、十分研究しをとげて、他日国家の用に立つ方がよかろう、と言われて、いかにももっともだと思ったので、爾来、水夫のことより始めて、躬行実践の修業を続け、明治十一(1878)年になって首尾よく帰国したのである。」

 私はこのような東郷元帥の直談をきいて、多大な感興を催した。向寒の際(注・寒い季節に向かう折柄)、一層ご自愛あらんことを乞う、と申し述べて、西洋応接間をあとにした。すると元帥は私たちを玄関まで送り出されたので、深く元帥の好意に感謝して、八木岡とともに同邸を退出したのである。 

 


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二百八十三  平家納経副本完成(下)(下巻492頁)

 前項(注・282平家納経副本完成(上)を参照)に記述したように、平家納経は田中親美氏の五か年半の丹精によって原本にも劣らない副本ができあがった。そこで、清盛の願文に記載されている仁安元(1166)年十一月十八日という月日にちなみ、大正十四(1925)年の同月同日に、この副本を厳島神社に奉納することが決まった。
 その奉納前に、副本寄進者や一般の同好者に展示したいと思い、まず上野帝室博物館の許可を得て、十一月十一、二、三の三日間、原本と副本をあわせて同館の表慶館に展陳する運びになった。
 ところがその前日の九日に、皇后陛下(注・貞明皇后)が帝室博物館に行啓あらせられたので、原本十巻と副本全部とを御覧にいれたところ陛下はたいへんに御感心なさり(原文「御感 斜ならず」)、破格なこととして田中氏を召し出され、「さぞご苦労であったろうが、大層好く出来ました」というありがたい御言葉を賜ったのである。田中氏は、光栄身に余る思いで、陛下の美術奨励の思し召しの深いことに感泣したのであるが、これは、田中氏ひとりの光栄であるばかりでなく、寄進者一同にとってもまことにありがたいことだった。
 こうして表慶館における三日間の展観が大盛況のうちに終了すると、今度はこれを京都恩賜博物館に陳列して、十五、六の両日に東京でと同じように一般(原文「衆庶」)の観覧に供した。 
 そしていよいよ十一月十八日、午前十時に厳島神社に奉納するという段取りなので、私たちは、馬越恭平、野崎広太、田中親美、森川勘一郎、吉田丹左衛門、その他東京、京阪の道具商連中といっしょに神殿に参列した。
 御戸帳の内検に一段高く金幣を立て、その両側に供物を供えて、菊地宮司以下、神職が列座したうえで、馬越恭平翁が寄進者総代として例の奉納文を朗読し、これから一同で玉串を神前に捧げ奉納式は終了した。
 私は欣喜のあまり、次の一首を口ずさんだ。

    年を経て写し終へたる法の巻 神に捧ぐる今日の嬉しさ

 前述したように、平家納経は、まず経巻だけを奉納し、次いで原物どおりの金銅篋(注・はこ)を奉納して、はじめて国宝中の国宝たる平家納経の副本が完成したのであった。
 この副本調整には五年半を費やした。その間に、大正十二(1923)年の大震災があったので、私にとっては思い出しても身の毛がよだつような事件があった。れは次のようなできごとだった。
 副本の調整中、私と益田孝男爵が、文部省からの命令でそのその保管者となっていたので、神社から十巻ずつ東京に持ってきて、それを品川御殿山の益田男爵の倉庫に保管し、田中親美氏が必要に応じて二、三巻ずつ渋谷の自邸に持ち帰って順次模写をしていた。しかし渋谷と品川を往復するのが、あまりに遠くてたいへんなので、もう少し近場に移転してもらいたいという請求があった。そこで、私は、当時赤坂山王台下にあった平岡吟舟翁の倉庫が、翁の秘蔵の袋物類を保蔵するために、この上なく堅牢な石造りの建築になっていることを知り、納経の一部をこの倉庫に移すことを決定した。大正十二年八月二十八日にそれを決行しようとしたところ、平岡翁が国府津の別荘に行って不在であったため、翁が帰宅するまでしばらく猶予しているあいだに、例の震火災が起こったのである。
 平岡翁の倉庫は無類に堅固なものであったが、石造りだったため地震によって壁間に亀裂が生じ、その隙間から侵入した猛火の舐めつくすところとなったのである。もし平岡翁が在京していたならば、少なくとも納経の三、四巻は、この倉庫の中にあって焼失したであろう。それは思うだけでも恐ろしい危険なことだった。それが、偶然のおかげで危険を免れたのは、このような名宝に対しては不思議な神明の加護があるからなのである。
 私はこれに先立ち厳島に赴いたとき、納経を保管していた倉庫を見せていたいただいたが、その倉庫は木造で、しかもかなり粗末なものであった。そして、いつのことだか、放火によって半焼したことさえあったのである。
 さて、菊地宮司らも、厳島神社の什宝の数が非常に多いにもかかわらず、宝庫がきわめて粗末であることから、当社にもっとも関係の深い毛利公爵、浅野侯爵の両家をはじめ、その他一般の篤志家の援助を請うて、完全な宝庫と、宝物陳列館を建設しようとされている。そのために目下、熱心に勧化(注・かんげ=寺のための寄付集め)を行っておられることは、まことに時宜を得た盛挙であろう。
 およそ古代の宝物というものは、人為的であれ、自然的であれ、さまざまな障害に出遭って、破損したり、散逸したりして、完全に伝存しているものは非常に少ないものだ。にもかかわらず、平家納経は、七百年余りもの前に平家一門が奉納したときのままに、経巻、容器ともに完全に保存されてきた。このことはまさに、平家納経が国宝中の国宝であることの理由なのである。
 だから私は、前述した危険を追懐するたびに、慄然として、鳥肌が立つ(原文「肌に粟する」)思いをせざるを得ない。これこそが、私の一生のうちで、もっとも恐ろしかった思い出であるので、ついでのことながら、ここにそれを告白する次第である。



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二百八十二  平家納経副本完成(上)(下巻489頁)

 今から七百六、七十年前の長寛、仁安(注・ともに西暦1160年代)の昔、平相国(注・へいしょうこく=平清盛のこと)清盛以下、同族の三十二人が厳島神社に奉納した「平家納経あるいは、厳島経ともいう」は、わが国の国宝中の国宝として、もっとも貴重なものである。
 近来、拝観者の数が非常に多くなり、これを巻舒(注・けんじょ=巻いたり広げたり)するたびに、胡粉や金箔の剥落が起こり、ひどい場合には折り目を生じるなど、汚損の度合いが加速している。そのことを時の厳島神社宮司の高山昇氏が憂慮し、副本を製作(原文「調製」)する計画を立てた。
 しかし神社の経済的な事情でその費用を捻出することができないので、大正九(1920)年二月、高山氏は古社寺保存会員の文学博士である福井利吉郎氏と相談のうえ、同十三日に両人揃ってわが伽藍洞を訪問され、副本調整費用調達の件について愚見を問われた。
 この年四月十八日、御殿山益田孝男爵邸で例の大師会を開き、その会場に古経巻を陳列することになっていたので、その機会を利用して平家納経の四、五巻を陳列し、当日来会する人々に、この無二の国宝の汚損を防ぐために副本製作がいかに緊要であるかを納得してもらい、ひとりにつき副本一巻の製作費用の寄進を願い出てはどうかと発案した。すると、両氏ともに、それはもっともな話であると同意されたので、すぐに益田男爵の同意も得てこの計画を実行に移したのである。
 これが意外なほどに来会者の同情を引き、特に時期が例の好景気時代の頂点にもあたっていたため、二、三時間しかたたないうちに、すぐに三十人余りの寄進者が出そろってしまい、副本製作費用が難なく集まってしまった。これはまことに幸慶のいたりであった。
 こうして副本調整の事業は、すべて田中親美氏に委嘱することになったが、平家美術の精粋をきわめたこの納経を、田中氏がいかに天才的技能者(原文「神工鬼手」)であるとしても、はたして原本どおりに調整できるものなのだろうかということは私たちの大きな心配の種だった。しかし試しにまず製作された提婆品(注・第12、だいばほん)、巌王品(注・第27、ごんのうほん)を見てみると、それらは原本に優るとも劣らない出来栄えであったので、さっそく田中氏を督励して、その製作に着手してもらった。
 これが国宝の中でも最貴重品であるので、文部省から私と益田孝男爵にその保管責任を命じられたので、一度に十巻ずつ品川御殿山の益田家宝庫に納めておき、田中氏が必要に応じて二、三巻ずつ取り出して模写することになった。
 経文はもちろんのこと、地紙の金銀砂子、表裏の絵図、装飾の巻金軸銀透かし彫りなど、平家美術の極致を原本通りに模写しようというのであるから、五年半の歳月がかかった。そのあいだには、癸亥(注・干支の、みずのとい=大正12年)の大震災などもあったが、大正十四(1925)年についに完成し、十一月十八日、まず経巻だけを厳島神社に奉納する運びとなった。それは、私たちにとってこの上ない喜び(原文「欣快措く能はざる所」)であった。
 この副本には、願文一巻を添えることになり、私がその文を作り、益田男爵がそれをしたためた。それは、次のとおりである。(注・旧字を新字にあらためた)


 「伏て惟る(注・おもんみる=考えてみる)に、長寛仁安の際、平相国清盛以下同族三十二人、厳島神祠に奉納の法華経一部廿(注・二十)八品、無量義、観普賢、阿弥陀、般若心経各一巻は、願文(注・がんもん。冒頭に書かれた趣旨)所載の如く、花敷蓮現之文、玉軸綵之典、尽善尽美(注・経文の内容も、使われた材料も善美のきわみを尽くし。なお、原文では誤植らしく蓮の字が連に、の字が䏼になっている)にして、天下無比の霊宝たり、而して奉納後七百六十余年をへて、儀容儼存嘗て(注・かつて)残欠磨損の痕跡を留めざるは(注・威厳を保ったままに破損欠損していないのは)、偏に(注・ひとえに)神明の呵護にして、人天の幸慶、何物か之に加へん、然るに近年令聞遠邇に敷き(注・近年その評判がほうぼうに伝わり)、群衆争うて拝観を希ひ、巻舒愈々繁くして、汚損漸く加はらんとす、厳島宮司高山昇、夙に此に見る所あり、速に副本を製して、平常衆庶展観の便に供せんとし、大正九年二月、古社寺保存委員福井利吉郎に諮り、相携へて高橋義雄を訪ひ、問ふに副本調整資金醵集の事を以てす、偶ま男爵益田孝、弘法大師会を、品川御殿山碧雲台に営むに会ふ、義雄乃ち益田男と謀りて、当日平家納経数巻を会場に披展し、事由を臨場の士女に告げて、一人一巻調整費の喜捨を乞ひしに、来衆欣んで之に応じ、未だ半日ならずして、三十四人の浄施を獲たるのみならず、其後更に賛加を望む者あり、応募者実に下記連名の多きに達したるは、誠に稀覯の盛事と謂ふべきなり、斯くて、副本調整の資已に整ふや製作一切の事を挙げて、田中親美に託し、爾来数星霜、結据労作、備さに艱苦を嘗め、又其中間癸亥の大震劫火に遭遇したりと雖も、幸ひに何等の障害を蒙らず、既にして菊地武文、高山宮司に代りたるも、亦能く其意緒を継ぎ、今茲大正十四年初冬に至りて、願文一巻、経文三十二巻の複写全く成り、神工鬼手、殆ど前倫を絶ち、精緻優麗、将に原本を凌がんとするの慨あり、是に於て浄施の士女相棒持して、親しく厳島神祠に賽し、隨喜渇仰して、謹んで之を宝前に奉納す、冀(注・こいねがわ)くは神明大慈眼を垂れ、我等の微衷を照覧し給はん事を、誠恐誠惶頓首敬白

 大正十四年十一月十八日   (連名略)」



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二百八十一  護国寺境内の茶化(下巻485頁)

 関東大震災(原文「癸亥大震災」)ののち東京市内を見渡すと、どこもかしこも荒涼(原文「満目荒涼」)として廃墟の感があった。神社仏閣も多くは烏有に帰して、東京の人々の信仰にも多少の影響を及ぼしかねないというおそれもあったことから、私は、京都の金閣や銀閣のような、参詣者に一種の清浄な気分を与えるような場所を提供する必要があるのではないかと思った。
 市内を見回しても、音羽護国寺以外にはほとんどそれに該当するところがないように思われたので、私は護国寺をそのような目的の浄境にしたいものだと思い、京都方面の実例にならって、同寺の境内を茶化する(注・茶の湯の影響を持たせる)必要があると思っていた。
 震災後のそのようなとき、麻布の天徳寺にあった松平不昧公の墓地が、道路改正のために別の場所に移転することになった。松平家では、それを旧藩地である松江の廟所に改葬する意向であるということを聞き、私は松平直亮伯爵を訪問して、その移転先の墓地を音羽護国寺にしていただけないかと乞うてみた。すると幸いにそれが承諾されたので、今度は護国寺の執事に相談し、三条公(注・三条実美)の塋域の隣地の三十坪余りの土地を提供し、これを松平家の墓域とし、その一角に不昧公ならびに、?(靜の左側に彡)楽院夫人の墓碑を、移建することになった。護国寺はここに、茶道の本尊を迎え、境内の茶化の端緒を開くことになったのである。
 さて私は、大正十四(1925)年の井上侯爵家蔵器入札会で、馬越化生翁らとともに同会の札元に対して、不昧公のために護国寺境内に茶室を寄進することを勧告し、西南にある景勝の地を選んで不昧軒、円成庵の広間と茶室を建造するということになった。これについては松平家もとても喜び、天徳寺の墓所にあった不昧公筆塚石、つくばい、石灯籠ならびに、不昧公の師家(注・禅僧の師)にあたる鎌倉円覚寺の誠拙禅師のち大用国師】筆の「弾指円成」の四字を彫りつけた門扉までをも寄贈していただいた。そこで茶室を円成と名づけ、広間を不昧とすることにした。円成庵には、護国寺貫主の小野方良行師の、不昧軒には、松平直亮伯爵揮毫の扁額を掲げ、大正十五(1926)年十月十七日に開庵茶会を催した。
 そのとき、松平伯爵家が不昧軒広間の飾りつけを引き受けてくださり、床には牧谿筆の松に叭々鳥幅を掛け、その前に中興名物の古銅象耳花入を置いて白玉椿をはさみ、床脇棚には時代片輪車手箱を飾った。また展観品として、加賀光悦茶碗を出陳してくださったばかりでなく、護国寺に対しても、不昧公の肖像ならびに同公筆による枕流の二大字幅を寄進してくださったことはまことに望外の好都合であった。
 その後、山澄静斎(注・山澄力太郎=力蔵の子)が、先祖の宗澄の追福(注・追善)のために宗澄庵を寄納し、これに先立ち私が寄進した仲麿堂、三笠亭とともに三席の茶室が並んだので、いよいよ境内に茶気分をただよわすことになった。
 私はこのほか、さらに大規模な茶事公会に使用するための大広間の必要を感じ、原六郎翁の品川御殿山邸内にあった慶長館に目をつけ、嗣子の邦造君を通じて寄進してもらえるよう懇望した。というのも、原翁は私の墓所の北隣りに終焉の地を所有し、百年の後には私らとともにこの地に永眠する人であるからで、翁の記念物として慶長館を寄進してもらえるよう願ったのである。
 すると原翁は喜んでこれを承諾され私たちの希望を叶えてくださったので、護国寺のほうでもとてもよろこんだ。さっそく仰木魯堂に委嘱して、慶長館を護国寺境内の西側の薬師堂の裏手に移建することになった。
 この慶長館というのは、もともと江州(注・近江)三井寺境内の一塔頭だった月光院というもので、現存する円満院よりも比叡山寄りの高地にあった。表十八畳二間、裏十畳二間が連続しており、入側(注・いりがわ=濡れ縁と座敷の間にある一間幅の通路)もいれると約七十畳にもなる。ふすまの張り付けは狩野元信筆で、有名な水呑虎の図も、このなかにあるものである。
 明治二十(1887)年ごろに、三井寺でこのふすまだけを売却したいという相談があったとき、井上世外侯爵の勧めに従って原翁が買収されたものであった。しかし原翁は、このふすまがいかなる座敷にあったのかということを一応、実地検分しようということで、その後三井寺に赴き、とうとうその建物までも引き受けることになったのである。
 ところで、これを慶長館と呼ぶのは、慶長年間において当館に大修復を加えたためで、創立の年代は鎌倉時代か足利時代であるといわれ、まだ一定の説はない。とにかく、五百年をこえる古建築であることは疑いなく、護国寺に移建してほどなく保護建造物に指定された。護国寺ではこれを月光殿と名づけ、小野方貫主がその扁額を揮毫した。
 今では、法要や茶事などのときに、護国寺にとっては非常に大切な建物になり、大師会をはじめ、その他の茶事のためにも使用することになったので、客殿、庵室もようやく備わって、護国寺境内の茶化の理想が実現されることになったのは、私たちのおおいに満足するところである。

 この際にあって、執事として内外の交渉にあたり、これらの事業を進めたのは佐々木教純師であるが、師が小野方良行大僧正のあとをうけて最近貫主に栄進されたことは、本寺にとって、まことに幸慶のいたりだった。今後建設の必要がある多宝塔、宝物館なども、この貫主在職中に必ず完成されるに違いないと、私は注意深く観察(原文「刮目」)しながら期待している。


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二百八十  護国寺仲磨堂縁起(下巻482頁)

 仲麿堂とは、私が音羽護国寺の弘法大師堂の前に建立した一宇の(注・一棟の)小堂である。
 ここでこの堂の縁起を述べようとするならば、まず私がその堂前の老松の下に移築した、阿倍仲麻呂(原文「安倍仲麿)」塚古碑の由来を物語らなくてはならない。
 私は大正の初年に奈良において、高さ四尺(注・一尺は約30センチ)、幅二尺四寸、厚さ一尺ほどの自然石に、安倍仲麿塚と彫りつけてある古碑を見つけた。古色蒼然として、一見して七、八百年以上はたったものと思われた。
 碑面の文字は温秀高雅で、藤原時代の名家の筆蹟であることにまったく疑いはなかったので、出どころを問うてみたところ、大和国磯城郡安倍村(注・現奈良県桜井市)の、安倍文殊堂(注・安倍文殊院か?)の前にあったのだという。安倍村は、安倍一族の発祥の地なので、仲麻呂が唐において物故したのち、招魂碑としてこれをこの地に建てたものにちがいない。
 そのような古碑が、いまや道具屋の手に渡ってその店頭にさらされることになったのは、いかにも怪訝にたえないが、既に市場に出ている以上、早晩、誰かの手に渡っていくだろうから、心なき人の手に渡らぬ前にとにかく自分が買い取り、いったん自邸の伽藍洞に引き取っておいた次第である。
 仲麻呂は弘法大師よりも先輩で、しかも年代にはそれほどの違いもなく、また同じように入唐しているという縁もある(注・仲麻呂が入唐したのは8世紀、弘法大師空海は9世紀である)ので、この碑を護国寺の大師堂前に移建するのは、決して不届きなこと(原文「不倫」)ではないと思うと同時に、そのままにしておいたのでは、後世になってからその由来がわからなるだろうと考え、はなはだおこがましいことではあったが、碑陰に、次のような引(注・ひき=案内文)と詩を彫りつけたのである。

    此碑旧在大和国安倍村 久没蒿莱 無人剥蘚者 大正十三年甲子仲秋 移植斯地
     (注・蒿=よもぎ、莱=あかざ、蘚=こけ)
 

      題詩于其陰     箒庵逸人

    恋闕葵心欲愬誰 向東拝賦望郷詞 千秋唯有天辺月 猶照招魂苔字碑
     (注・愬=うったえる)

 この題詩は、はなはだ拙劣なものではあるが、しかし私はこの機会に阿部仲麻呂のために、すこしばかり冤を雪ぐ(注・名誉を挽回する)つもりであったのである。
 なぜならば、仲麻呂は霊亀二(716)年、十六歳のとき選ばれて遣唐留学生となり唐に行って学問をした。姓名も変えて、朝衡と名のり、玄宗皇帝の治世下で秘書監という役儀を勤めたという。そのことから維新前後の攘夷論が盛んだったころ、彼は唐に仕えた売国奴であるとして、藤田東湖などでさえもが彼を罵り、俗儒曲学と呼んだのである。
 仲麻呂は、あの「三笠の山に出でし月かも」の歌からも容易に推察できるように、自分が留学生として遣わされた朝廷を忘れたり、故郷に残した父母を顧みなかったような人間ではない。彼が唐の朝廷に立って官職を帯びたのは、留学生として唐の儀礼典章を研究するためだったのであり、また唐朝のほうでも、日本の秀才に花を持たせて名誉職を授けたということなのだ。これは、今日各国の朝廷から外臣に勲章を贈与するのとほとんど大差ないものだっただろう。

 彼は日本に帰ろうとして明州に至り、あの「天の原ふりさけ見れば」の望郷歌を詠まれたにもかかわらず、海上で台風にあい安南(注・現ベトナム)に漂泊し、結局恨みを抱きながら異郷で没することになった。そのことには大いに同情すべき点があるので、私は碑陰にさきほどの拙詩を題して雪辱の気持ちを表明したのであった。
 私はこのように仲麻呂塚石を護国寺境内の大師堂前に安置したので、それまで参詣人の休息所になっていた建物に接続する形で、六畳広間と三畳台目茶席と瓦敷辻堂形一室を増築し、それを仲麿堂と名づけた。そして、円窓龕(注・がん=厨子)内に設置するため、彫刻の大家である内藤伸氏に仲麻呂の木像彫刻を依頼した。すると内藤氏は熱心に古図を研究し、仲麻呂の服装などを調べ上げ、高さ一尺(注・約30センチ)ほどの木像を制作してくださったので、それを当堂の本尊にし、大正十四(1925)年五月九日に仲麿堂開扉茶会を催し、献茶式を行った。
 このとき小間を箒庵と名づけ、これに千宗旦筆の弘法大師画讃を掛けたが、それは、宗旦の、大師が曲(注・きょくろく=僧侶が法会のときに使う椅子)に座った図を、まるで子供のらくがきのように粗筆でしたためた上に、

     空海中主 日本弘法 在高野山 多少参人

の四言偈(注・げ=詩句)を書きつけてあるもので、この一軸の前には、時代朱塗四方盆に御本蓮形染付獅子蓋香炉を置いて、名香初音を薫じ、表に三笠山月の図、裏に仲麿堂の三字入りの楽焼菓子皿に青竹串三色団子を載せ、独楽盆には唐もろこし煎餅を盛って薄茶をすすめた。
 またこのときから三笠亭と命名した広間では、今回仲麿堂の堂守となった裏千家の藤谷宗仁が、この場にふさわしい道具組で来客の接待に当たった。
 そして、遠路奈良(原文「奈良三界」)から背負い込んできた仲麻呂石を、図らずも最適の地に安置することができたので、これならば地下の仲麻呂からもあまり苦情は言われないだろうと、はじめて安堵の思いをなしたのである。これが、すなわち護国寺仲麿堂の縁起である。



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二百七十九  中村画伯の遺物(下巻478頁)

 近年、洋画家の鬼才としてその将来を嘱望され、洋画界において嘖々たる(注・さくさくたる=口々に人が褒める)名声のあった中村彝(注・つね)君は、大正十三(1924)年末、三十六歳で周囲の哀惜のうちに白玉楼中の人となった(注・逝去した)。
 私は生前の君に面識を得る機会を持たなかったが、大正五(1916)年ごろに君が市外下落合に新画室を作られたとき、君の親友であった水戸徳川家家令の福原脩氏を通じて、その建築費を少額、寄進したことがあった。
 ところが君は非常に物堅い(注・律儀な)性質で、大正九(1920)年に、君の病気が悪化したとき、奈良新薬師寺十二神将の模像銅面を一個、私のもとに届け、病気が癒えたら、恩に報いるために、ぜひとも貴下の肖像を描きたいと思っていたが、今ははなはだ覚束ないので、まずこの小品を机右に捧げるという伝言がなされた。これで、君の私に対する物質的な応酬はすでに十分に完了されたはずなのに、君の没後に親戚、故旧(注・旧知の、なじみの人)がその遺言状を開いてみると、君がひごろ最も敬慕していたフランスの油絵の大家であるシスレーの田園秋景図の模写の、縦一尺八寸(注・約53センチ)、幅二尺四寸(注・約73センチ)の油絵一枚を、遺品として私に贈るようにしたためてあったそうで、君の愛弟である鈴木良三氏みずからが、これをわが伽藍洞に持参された。私は、君が志操高潔で情誼に厚い君子人であったことを知ると同時に、その芸術の霊光もまた、この性情から発露したものであることを知り、今さらながら非常に感激したのである。
 中村彜君は、水戸藩士、中村三五右衛門の末子で、明治二十(1887)年に同市上市寺町に生まれた。君の祖父は、厳父と同名の三五右衛門といい、藤田東湖先生の回天詩史に、小官而有志、則中村皆一時之選之、とあるのがその人で、小身(注・低い身分)ながら気節のある志士であったとみえる。
 君は少年のころ軍人を志したが、ほどなく病を得てこれを断念し、それからは洋画を志した。白馬会の中村(注・中村不折のことだろうが、不折は白馬会には参加しておらず、のちに太平洋画会に参加した。なお白馬会は、太平洋画会の前身である明治美術会から分裂したグループである)、満谷(注・満谷国四郎。満谷も白馬会には参加しておらず、太平洋画会の創立メンバー)両氏に師事し、太平洋洋画会にはいるころには、技能もますます進んだが、大正五(1916)年下落合に画室を設けたころには、数年前からすでに痼疾となっていた肺患が昂進して、時として画筆を持てないこともあった。この期に及んで、今村繁三氏が、君の天才を見込んでそのパトロンになり、また福原脩氏の伯母が、君の看護役を引き受けて肉親も及ばない介抱を継続したのは、いずれも感心な美談である。君の晩年の傑作である老母像は、この伯母をモデルにしたものであるそうだ。

 このほか、エロシェンコや田中館愛橘博士、室田義文氏の肖像などは、みな不朽の名作として知られている。
 さて、君が遺品として私に贈ってくれたシスレーの田園秋景図の原画は、今村繁三氏の所蔵だそうであるが、私に贈られたほうの図は、いわゆる意写というのか、原画の筆が細やかなのにひきかえ、非常に剛健な筆致で描かれている。
 向かって左手に一軒の田舎家があり、右手には、紅緑点綴(注・赤や緑の散らばった)の森林がある。その中ほどに通っている小径を、村の女が、子供の手を引いて歩いて来るという図柄で、田舎家と樹林のあいだから遠い山の景色を見せている。概して平凡な風景で、なにひとつ目標になるような偉観はなく、ただその秋晴れの空が澄み渡っていて気分のよいところがその特色となっているというものである。
 故人の愛弟の鈴木氏によれば、シスレーは今から四、五十年前に物故した大家で、名利の観念に淡い人となりであり、自分の画壇における評判などにはまったく頓着しなかったそうだ。またつねに清貧に安んじたため、世間からは貧乏シスレーと言われ、三十代で早死にしたとのことである。
 もともと天才肌で、人とは一風変わったところがあった。パリ近くのモレ―という湖水と森林の景色絶佳なところに隠棲した。そして、水と空との研究に没頭し、特に雲色水光を描くことに長じたため、当時は仲間から空の魔手と呼ばれていたそうだ。
 さきほどの田園風景なども、ことさらに平凡な景色を選んで、観る者の胸中に、しぜんと余情を描かせるものである。この田舎家や樹林の奥には山村を抱いた湖水があるとか、野花に満ちた牧場があるとか、天を突く寺院の高塔があるとかといった、見えないところにあるかもしれないさまざまな風景を目に思い浮かばせる意匠がこもっている。これは、東洋の省筆画、破墨山水画などと同じく、茶的精神を含蓄した絵画の一種であるというべきだろう。
 中村君が遺品としてこれを私に贈られたことにも、そういった意味があっただろうと思われたので、私はこれを伽藍洞の什器として、ながく故人の好意を記念するつもりである。
 拙作の一詩があるので、ここに掲げる。

   昨夜寒風摧蕙闌 妬才天意太辛酸 贈吾一幅高秋景 髣髴遺容画裡看
       (注・摧=くじく、蕙=かおりぐさ、闌=たけなわ)



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   二百七十八

中京の茶風一変(下巻475頁)

 大正癸亥(注・みずのとい。大正12年。1923年)の大震災は、単に罹災地だけでなく、はるかに距離を隔てた名古屋、すなわち中京の茶界にまでも思いも寄らない影響を及ぼした。その次第は次のようなものである。
 今や茶道の第一人者と言われている益田鈍翁が、震災直後に家族の一部とともにしばらく避難していた。そのとき同地方の数寄者連は、鈍翁慰安のために争って茶会を催し翁を招いた。その数は多く、翁はひっぱり凧となり、一日に五、六回の茶会に出席したことさえあったという。
 そのうちに、ようやく物情がおさまってくると、鈍翁は、さいわいに無難だった品川御殿山、相州(注・現神奈川)小田原の両方の宝蔵から茶器を取り寄せて、返茶(注・返礼の茶事)を催し、かたっぱしから中京の数寄者を招待したので、同地方の人びとは、はじめて東京の茶事に触れることになったのである。
 それまでの中京の茶事がどのようなものであったかというと、その多くは同地方で勢力をもっていた久田流ないしは松尾流の宗匠の指導を受けていた。掛物には、それら流祖の筆跡を珍重し、久田宗全作の楽茶碗などをこの上ない名品として満足していた。茶席において、宋元の書画や上代の古筆を用いる者はなく、すべてが地方の低級な田舎茶に過ぎなかったのである。
 それが今や、天下の大宗匠が主人になり東京の茶風を煽揚したので、同地方は、関東大震火災によって経済的にも膨張発展した事情ともあいまって、たちまちのうちに茶風が一変し、それまでの低級な茶流から脱皮し、一躍、東京流に同化することになったのである。これは不慮の震災から生じた鈍翁の感化だといえよう。
 このときから、中京と鈍翁のあいだには親密な茶的関係が生じ、中京の数寄者が東京や小田原の鈍翁の茶会に間断なく参加するようになった。そしていよいよその流風に感化された。もしも普通の経路をたどっていたならば、何十年かけても到達することは難しかったに違いないような進境を示したのである。中京茶人は、ながく鈍翁の感化が偉大であったことを忘れてはならないであろう。


京の古筆流行(下巻476頁)

 前述したように、名古屋地方においては茶風が一変したが、それとともに、ここで非常に注目すべきことには、同地方において上代古筆物の流行をきたしたという事実がある。もともと同地には関戸家という旧大家があった。主人は守彦といって、伝来の名物茶器も少なくなかったのであるが、とりわけ知名な古筆物を豊富に収蔵していることでも、天下のなんびとにも劣らないほどの大家だった。だが大正初年までは土地に古筆物を賞玩する者がなかったために、所蔵品を見せようというような意志もなく、誰言うともなく、「関戸家の天の岩戸は、なんびともこれを開くことを得ず」という評判だった。
 私は大正名器鑑の編纂のために、いかにしても同家の名品を検覧しなくてはならないと思っていたので、あるとき関戸主人に懇請し、ついに初めてその所蔵品を拝見することができた。それで、同地の人々のなかには私のことを、関戸の岩戸を開いたタヂカラオ(原文「手力雄命」)であるという者さえいた。
 このころから、同地の森川如春勘一郎氏が、年若いのに似ず、田中親美氏について古筆物を研究し、頭脳明哲で一を聞いて十を悟り、短い間に(原文「未だ幾ならず)立派な鑑識家となったので、中京茶人の組織である敬和会という順回茶会(注・各家で持ち回りの茶会)の先導役となり(原文「牛耳を執り」)、大いに古筆熱をあおった。
 その結果、関戸家を中心に、同地には多数の古筆研究家が誕生し、にわかに蒐集者の増加を見たのである。
 そこで、大正十四(1926)年五月、名古屋市立図書館長の阪谷俊作氏を催主にして、十七、八、九の三日間、同市立図書館で上代仮名展覧会を開催することになった。これには、中京側では関戸、森川の両氏、東京側では益田孝男爵、田中親美氏が賛助した。
 同図書館では、新館の階上全部を展覧会場とし、壁に掛物を列掲し、陳列箱に、帖、巻および残片を披陳(注・ひらいて陳列)した。
 その数といい品質といい、これほどの有名な古筆物を一堂に集めたことはかつてないことであった。東京、中京の諸大家から出品されたものを挙げてみると、井上勝之助侯爵の藻塩草、三井八郎右衛門男爵(注・三井北家10代高棟たかみね)の高松帖、益田孝男爵の翰墨城、原富太郎氏の落葉帖、岡谷清治朗氏の鳳台帖といったもので、天下有数の古筆手鑑を展観したのである。
 このことで、いっそう古筆愛好者が増え、それ以来、東京や京阪の入札会においても、めぼしい古筆物は、往々にして名古屋地方にさらわれるという傾向が見られるようになった。古筆物の相場が維新以降に騰貴した書画骨董の中にあって、きわだって群を抜いているが、それは、中京における古筆の流行が、その原因の一半をなしたようである。
 これが全国の好事家の間にも波及し、近年では古筆物の価格はうなぎのぼりで、貫之の高野切が、一行二千円するというのが常識になり、歌柄によっては、あるいは三千円の値がつくものすらあるのである。
 このような流行は、東京側からの益田男爵や田中氏の声援にあずかったという力が大きかったこともあるにせよ、古筆鑑定において、はやくから一隻眼をそなえていたばかりでなく口も八丁、手も八丁で中京一帯に好事家を勧誘した、森川如春の功労が大きかったといわねばならない。
 茶事と古筆が関連しあって、ともに大いに向上し、中京が、西の京阪や東の東京と、対抗しうる位置につけるほどになったことは、同地のためには、おおいに祝福すべきことであっただろうと思う。
 


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二百七十七  嬉森庵の命拾い(下巻472頁)

 大正五(1916)年、私は名古屋の旧家、牧野作兵衛氏から京都表千家の不審庵写しの古茶室を譲り受け、向島水戸徳川邸の東南に位置する大椎樹の森の中に移築し、これを嬉森庵と名づけた。(注・221「松方公爵の大師流」を参照のこと)
 牧野家は、当主から五代前の主人が非常な好事家で、表千家の不審庵の写しを作るにあたり、ただ茶室だけでなく、露地の樹木、飛石、石灯籠などの大小や位置までをも、ことごとく模倣したのだそうだが、それは今から約二百年前のことである。不審庵は維新後に火災にあっており、同庵の写しの中で非常に古いものは全国でもこの一席だけだということだ。
 この席は長三畳台目で、台目畳の脇に、幅四寸(注・一寸は約3センチ)ほどの長板があり、茶道口は太鼓張りの片びらきになっているのが珍しい。東京には、それまでのこれを写した茶席がなかったので、向島徳川邸の東南方に、もともと嬉森という名前の椎の大木が林立している一画があったことを幸いに、その中にこの茶室を建てたらよいと思い、とうとうこれを譲り受け、徳川家の許可を得て名古屋から本席を移したのである。
 これに五畳一間床付の広間を付属して、露地を広々ととり、曳舟通りから入って突き当りに三畳の寄付を設けた。そして、不審庵と語呂が似ていることから、嬉森庵と名づけ、扁額に松方老公(注・松方正義)の揮毫を乞い、同年末に完成を告げた。
 それ以来七年間というもの、この席においてしばしば茶会を催し、山県含雪公、徳川家達公、井上勝之助公爵らの来臨をいただいたこともあった。
 とくに山県公を招請したときには、老公が水戸徳川庭内に来られるということは今後おそらくないと思われた(原文「二度と容易にある間敷ければ」)ため、当主の徳川濤山侯爵のち公爵(注・水戸徳川家13代当主圀順くにゆき)に頼み、本館客間に明治天皇の「花くはし」の御宸翰(注・しんかん。天皇直筆の文書)をはじめ、霊元天皇ほか歴代天皇から水戸家に下賜された数々の宸翰を飾り、茶会のあと、公爵を庭園伝いにその陳列室に案内して縦覧に供したのである。
 公爵は敬虔な態度でそれらを仔細に拝観された。水戸徳川家の勤王の事蹟については天下に顕著であるが、今日数々の文献を拝見してみると、聞きしにまさる盛観で、水戸家歴代の君臣の勤王に対して、おおいに敬意を払わずにはいられないと非常に感激された。私は、水戸家の背景によって大いにこの茶会の威厳を高めたことを、まことに望外の光栄としたのである。
 さて、この嬉森庵は、建築されてから二百年たっているもので、古茶室の少ない東都(注・東京)においては、古さにおいてまちがいなく十指のうちに数えられるものだろう。今、東都の古茶室を挙げてみるならば、内田山井上侯爵邸の八窓庵、麻布今井町三井男爵(注・三井高棟)邸の如庵、上野博物館構内の六窓庵であり、その次にはこの嬉森庵を推さなくてはなるまい。

 この嬉森庵が、さいわいなことに大正十二(1923)年の震災を免れた。それはほかでもない、次のような事情によるものだった。
 そのころ向島付近がだんだんに工場地帯になり、煙突の煙が邸内を襲うようになって、邸宅地として次第に不適当になってきたので、山の手あたりにそれに替わる土地を見つけ次第、移転を断行するという意見が水戸徳川家において台頭していた。私は、この嬉森庵が長くこの場所に安住できないということを知り、どこかにこれを移転する必要を感じていた折柄、上目黒に広大な住宅を有する津村重舎翁が邸内に茶席を設けようとしているということを聞き、同翁と相談の結果、庭石もろとも嬉森庵を譲渡することになったのである。その移築工事も着々と進行して、ほどなく全部引き移った直後に九月一日の震火災があり、徳川邸は新設した土蔵一戸だけを残してすべて烏有に帰したのである。嬉森庵が、あとすこしでもこの地にとどまっていたならば無論焼失してしまったであろうに、その前に津村邸に移転したので危ういところでその厄を免れたというのは、まったく天佑と言わざるを得ないのである。

 そこで、その後津村翁から庵名を求められた時、私は、もっともありきたりに(原文「通俗に」)天佑庵と命名し、扁額に拙筆をふるったのであったが、古茶室が稀有といえる東都において、この庵がその原形を全うすることができたのは、もちろん天佑のなせるわざであったとはいえ、津村翁が折よくも、これを引き受けてくださったおかげであると言わなくてはなるまい。
 津村翁はこの茶室の移築後、その開席披露をするために数々の名器、名幅を蒐集されたばかりでなく、最初は故藤谷宗仁について裏千家の手前を習い、ついで同後継者の森谷宗勇を招いて夫婦ともに茶道を練習されながら、いまだこれを決行されていない。あるいは謙遜の結果かもしれないが、私は以上のような次第で、嬉森庵の天佑をよろこんでいる者なので、なるべくはやく開庵茶会を催して、同庵の中にはいって、その幸運を祝するという光栄を与えていただきたいものだと、(原文「得しめられんことを」)、あえて希望する次第である。



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二百七十六  大震火災と名器(下巻468頁)

 大正十二(1923)年九月一日の関東地方の大震災は日本開闢以来稀有の大事変であった。その間に起きた種々の劇的な挿話を記述していてはほとんど際限がないから「箒のあと」においてはあまり多くに触れないつもりである。ただこの震災と名器の関係についてだけ、その大略を述べることにしたい。
 私はこの年の七月下旬から上州(注・現群馬県)伊香保に避暑し、八月いっぱい同地に滞留し、大震災の当日午前八時に家族とともに帰京しようとしていた。夜来の小雨が、まだまったくやむことがなかったのであるが、そのとき十三歳になる愚息(原文「豚児」)の忠雄が急に、「僕は東京に帰る時はいつでも非常にうれしいのに今日はなんだか不愉快だ、こんなときに帰れば必ずよいことはあるまいから、今日は帰京を見合わせましょう」と異議を唱えた。
 そこで、とりとめもないこととは思ったものの、とにかく出発を午後まで延期しているうちに、正午近くにかなり強くかつ長い地震があったので、浅間山でも噴火したのだろうかと特に意に介さずにいたが、午後三時ごろいよいよ帰京しようとして停車場に行ってみると、東京方面が大震災で、大宮の鉄橋が不通だという報道に接したのである。そして、よくも午前中に出発しなかったものだと、いまさらながらに愚息の予感の的中に驚いたのであった。
 やがて、その夜九時ごろになって東京方面の空が真っ赤になった。多分、大火が起こったに違いない、いや、いかに大火だとしても、三十里もはなれたところにその光が届くはずもないだろうなどと言っている間に夜があけ、だんだんと騒ぎが大きくなっていった。
 区々の(注・まとまりのない)情報が伝わりはじめ、やれ、どこが焼けただの、ここが残ったのと噂がとりどりであったが、中でも名器所蔵者の類焼に関してが、私にとってはもっとも神経をとがらせることだった。たとえ焼けたとしても、その宝蔵は無事に違いない、もし仮に宝蔵に火が入っても、名器は別の場所に移されたに違いない、などなどと、夜も安眠できぬままに焦慮したが、四日になって急使が登山してくるまでは自宅の安否さえも分かっていないありさまであったのだから、各家の消息をはっきりと知ることなどもちろん不可能だった。
 連日のように懸念しつつ帰京を急ぎ、十日に自動車で帰宅するやいなや、まず類焼した水戸徳川家に問い合わせてみると、宝蔵の一棟が焼け残り、大名物茶入の新田肩衝、玉堂肩衝もみな無事であるとのことで、おおいに喜んだ。(注・現在ともに徳川ミュージアム蔵)
 続いて、井伊直忠伯爵の宮王肩衝はいかがであったかと訊きただすと、旧藩士の中村勝麻呂(原文「勝磨」)氏が、井伊家道具係と力を合わせて、まず家乗史料(注・一家の歴史に関する史料)を持ち出し、さらに猛火とたたかいながら、有名な又兵衛の彦根屏風、牧谿筆の猿鶴二幅対などともに、宮王も無事に他所に移されたとのことだった。(注・現在彦根城博物館蔵、現在では岩佐又兵衛の作ではないとされている)
 また名器所蔵者のうち、三井高精男爵、馬越恭平、加藤正義、浅田正吉の諸氏は、いずも宝蔵が焼け残って、さいわいに名器の安全を保たれたとのことだった。
 益田信世(注・益田孝の三男)氏は、震災の間際にいゆる虫が知らせたものか、急に茶器を小田原の新邸に移すことにしたので、あやうく災厄を免れたそうである。
 岩原謙三君は、宝蔵が焼け残ったにもかかわらず、表装を修復するために倉庫外に出していた弘法大師の肉筆金剛経を焼いてしまわれたそうで、これは取返しのつかない(原文「終古の」)遺憾であった。
 また横浜で類焼した小野哲郎氏所蔵の曜変天目茶碗は、稲葉子爵家の伝来品で、先年レコード破りの高価でもって氏の手に帰したものであったが、金庫の中にあって、これも幸いに無事だとのことだった。(注・現在は静嘉堂文庫所蔵の国宝) 
 また、郷里から鎌倉の別荘に数々の名器を取り寄せて置いていた加州金沢の松岡忠良氏方では、倉庫四つも破壊されたにもかかわらず、井戸茶碗宝樹庵、光悦七種雪片などが、さいわいに無事であったそうだ。
 これに反して、藤堂高紹伯爵の向両国百本杭本邸は数棟の宝蔵が残りなく焼け落ち有名な書画什器が焼失したことは言うに及ばず、古今の名器として知られた中興名物、古瀬戸尻膨銘破被茶入、同飛鳥川手銘雲井茶入、古井戸茶碗銘老僧、織田有楽手造茶碗銘(注・ママ)なども、おそらく火焔の中にその影を失ったという。
 松平頼壽伯爵所蔵の長次郎七種茶碗木守と、酒井清兵衛氏所蔵の光悦七種茶碗鉄壁は、ともに祝融(注・しゅくゆう=火事)の咒(注・のろ)うところとなり、駿河台の内田薫作氏方では、因果経二巻、中興名物祖母懐銘絃茶入が烏有に帰した。
 ことに悲惨をきわめたのは森岡男爵家の宝蔵で、生海鼠手茶入銘妹背山、薩摩焼茶入銘顔回、無地志野茶碗、および玉子手茶碗銘雪柳などが、いずれも火焔の舐めつくすところとなった。

 しかし、東京市の六割以上も焼失したという割に名器の被害が少なかったのは、不幸中の幸いであったろう。
 これまでの日本において火災のために一時に多数の名器を失ったのは、元和元(1615)年の大阪城落城と、明暦三(1657)年の江戸大火である。前者は太閤秀吉が蓄積した名器を烏有に帰し、後者は柳営御物(注・幕府徳川家の名物茶器)の大半を一炬(注・いっきょ=大きな火)に付した。どちらも火事の範囲はそれほど広くないにもかかわらず、多くの名器を焼き払ってしまった。大阪城のほうはその数は不明であるが、江戸城では、大名物肩衝茶入だけでも二十二点にのぼったという。
 これに比べれば、今回の火災で焼失したものは、茶入が十五、茶碗が八つであったのは、名器所蔵者の多くが山の手に住んでいたためであろう。
 私はこの震火災によって、名器の罹災状況を知り得ない人があるだろうと思い、ここに私の知り得た大略を述べて、後日の参考に供する次第である。

 


 ≪参考≫
「箒のあと」の本文ではないが、国華倶楽部編「罹災目録」(昭和8年)を参考までに載せておく。
    国会図書館デジタルライブラリー
 
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1215483
 


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二百七十五  若州酒井家名器(下巻464頁)

 若州(注・若狭、現福井県)酒井家、空印忠勝は、小堀遠州とのあいだに茶に関することでの交渉事が持ったことがある。遠州が茶器買収のために公用金を使い込んでしまったとき、三代将軍は国持大名に内命して援助させたかわりに、遠州からそれぞれの大名に茶器を分譲したのだそうで、このとき酒井家では、有名な飛鳥川の茶入を引き取ったという伝説が残っている。

 そのように本来名器に富んだ家柄であるところにもってきて、安政年間に京都所司代を勤めた忠義公が有名な名器蒐集家で、当時、名器に関して「大鰐」の異名を持っていた。実際、柳営御物(注・幕府徳川家の所持する名物茶道具)中の名品である青磁吉野山花入を手に入れようとしたのであるが、幕府にあってはどうすることもできない。そこで、和宮降嫁の際に、幕府からこれを天朝(注・天皇家)に献納させ、天朝から所司代への周旋へのねぎらいとして、これを酒井家に下賜させたという逸話が残る。
 そのほか、京都の本願寺、あるいは三井家から譲り受けた名器の数も少なくなく、維新の際には多数の蔵器を処分したけれども、名器に関してはそのまま保蔵されていたので、大正八、九(191920)年になって、同家旧臣のうちで、その処分論がなされたとき、和田維四郎(注・つなしろう)氏の提議で、家祖が家康公から拝領したというような伝来の名器は論外であるが、歴代主人が自己の嗜好で蒐集した道具に関しては、それを処分しても差し支えないだろう、たとえば、当家には、狩猟を好んで鹿の頭を多数収蔵された主人がいるが、その鹿の頭を永世保存しなくてはならないという理由はないのと同時に、後年になってから蒐集した茶器を処分してはならないという理由もないはずだ、という意見に賛成者が多かった。
 そこで、大正十二(1923)年、益田鈍翁に宰領を委託することになり、最初は、大阪の戸田露朝を盟主とした道具商連合団体に対して、約百二十点を百二十万円で譲渡しようとした。しかし道具商団体のほうが尻込みして応じなかったため、同年六月中旬、とうとう入札売却することになったのである。
 そうしたところが、この売上総高が、実に二百四十万円に達し、一品平均で二万円に相当したのであるから、これはまったく空前にして、おそらく絶後の道具入札会であったということができるだろう。
 この入札会においては、五万円以上の名品が十三点の多数にのぼったが、その名称と落札価格を次に示しておく。

  大名物国司茄子茶入    金二十万円
  光長筆吉備大臣入唐絵巻物 金十八万八千九百円
  大名物北野肩衝茶入    金十五万九千二百円
  大名物角木花入      金九万八千円
  名物玉柏茶入       金九万千百円
  名物畠山茶入       金九万円
  名物木下丸壺茶入     金八万三千九百円
  名物二徳三島茶碗     金七万六千二百円
  名物粉引三島茶碗     金七万六千二百円
  名物橋姫茶入       金七万四千九百円
  名物坂部井戸茶碗     金七万千九百十円
  大名物寺沢丸壺茶入    金五万七千九百十円
  名物割高台茶碗      金五万千九百十円


 以上の入札では、最初に道具屋連合での買収をやろうとした大阪の戸田が、第一番の大手筋(注・大口落札者)となった。戸田は、土佐光長筆の吉備大臣入唐絵巻物や、名物橋姫茶入などを主なものとして、一手に、実に七十万円に達する落札を行ったということだ。これぞ、戸田露朝一代の晴れ業として、後日の語り草となるであろう。
 また、紳士好事家の側では、北三井家が大手筋だったが、これは安政年間に酒井家から買い上げられた品々を、今回買い戻されたもので、大名物北野肩衝茶入(注・国宝、名物粉引茶碗、二徳三島茶碗などがそれである。(注・三点とも、現在も三井記念館蔵)
 またこの入札会の宰領であった益田鈍翁は、名物玉柏茶入、梁楷筆鶏骨、名物夕陽天目などを買収され、大阪の藤田男爵(注・藤田平太郎、伝三郎の長男)は、大名物国司茄子茶入、同角木花入を買収されたが、この国司茄子は、実に茶入のレコード破りであった。(注・国司茄子茶入、古銅角木花入ともに、現在も藤田美術館蔵)
 その他、横浜の原三渓氏が、名物畠山茶入を(注・現在は畠山記念館蔵)、名古屋の富田重助氏が、利休鶴首茶入を、岩原謙庵氏が大名物羽室文琳茶入を、馬越化生翁が瀬戸黄河茶入を、それぞれ落札されたので、この入札会は大成功をもって終局したのである。
 それだけではなく、この入札代金が酒井家に収納されて間もなく、あの大震火災(注・関東大震災)が起こったので、道具社会が一時混乱状態に陥っても酒井家は取引上なんらの支障も蒙らなかったことは、くれぐれも同家の幸運であったということで、同家は震火災罹災者に対し、即時金三十万円の寄付を行われたということだ。
 とかく道具入札売却には、その場合に応じて、非常な幸となる場合と、不幸となる場合があるものであるが、酒井家の場合は、もちろん無上の幸運だったといえよう。これは、単に同家にとってというばかりでなく、長年愛蔵されていた名器にとっても、しあわせなことだったのである。名器もまた格外に出世して、おおいに面目を施した。この入札会は、大正初年以来の幾多の大入札会の中において、長く記憶されることになるだろう。

 


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二百七十四   金剛太夫と守田勘彌(下巻461頁)

 大正十二(1923)年、帝国劇場の四月狂言は、社長の大倉鶴彦男爵(注・大倉喜八郎)が幸田露伴博士にあらすじを語って脚色してもらったもので、それは、上杉家の家老、千坂兵部(注・高房)が、同家の抱え能役者の猿橋右門を、間諜として大石内蔵助の山科の閑居に入り込ませたという伝説をもとにしたもので、益田太郎冠者が、それにさらに潤色を加えたものであった。猿橋右門の役には守田勘彌を振り当てた。
 さて、それにつき、右門は金剛流の能役者なので、勘彌にも同流の謡曲と仕舞を覚えておいてもらわなければならないだろうということになった。帝国劇場専務の山本久三郎氏から私にその相談があったので、私はだれかれ言うよりは、金剛右京氏に事情を話し、その指導を乞うしかないだろうと回答し、山本氏もこれに同意した。
 私は三月二十九日の夕刻に、右近を勤める勘彌と、右門が猩々の舞を舞っている隙をうかがって斬りつける武林唯七に扮する助高屋高助を伴い、そのころ赤坂表町にあった金剛舞台に右京氏を訪問した。
 この訪問は、前もって右京氏と打ち合わせた上でのことだったので、氏は同流の故実についてさまざまな話をされたあとに、みずから舞台に立って、猩々の切(注・きり。五番立ての最後)を二回ほど舞って一通りの同流の型を示してくださった。そのときの右京氏の談話の大要は次のようなものである。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)

 「猿橋右門は、金剛の弟子筋でも、すこぶる著名な一人で、子孫代々、上杉家の能役者であったが、近年に至りて、その遺族は北海道に移ったということである。本来、金剛家と上杉家とは、川中島の合戦ころより既に親密なる関係があり、戦国時代のことであるから、能役者といえども、いざ鎌倉といえば、軍陣に加わる覚悟がなくてはならぬので、平常、武術のたしなみあり、芸道にもまた、自ずからこれを加味して居るその一例は、扇を刀と同然にみなして、いざ舞い出すという場合には、右の腰に差したる扇子を、右手でズッと膝の前に引けば、初めて扇となって、礼式の型となるので、今日でも関西地方では、改まりたる席の挨拶には、必ず扇子を膝の前に置くのを例として居る。また抜いた扇子を取って右の腰に差すのは、刀を差すのとまったくその作法を同じうして居る。金剛流では、謡うときに扇の要を右の手に持って、末のほうを左の手の平に載するのである。

 また仕舞の始めに、宝生や観世は左の膝を立つるが、金剛では右の膝を立てて舞い出すのだ。とにかく、能の極意は禅味にあって、目は後頭部を見るという心掛けであるが、これは、いわゆる心眼をもって見るのである。金剛には八方睨みという面があるが、本来眼は耳の辺までは届くかも知らぬが、その後方まで届くはずはないのである。それに八方睨みというのは、すなわち心眼なのである。
 また、仕舞の型に、開くというものがあるが、これは文字を書く人が、筆を紙に下して一本の棒をまっすぐに引くのと同じことで、ひじを張って、両手を開き、肩の貝殻骨(注・肩甲骨)が、ひじとともに開くようにするのである。しかして、その開くときには、心は前でなくて、後ろに専ら(注・もっぱら=集中して)でなくてはなくてはならぬ、云々」

 さて、金剛太夫が、私たちを舞台正面の見所に導き、自身が舞台の上に立って猩々の切を謡い、かつ舞われた型を見てみると、梅若流などとはずいぶん違ったところがある。「足もとはよろよろと」というところなど、よろよろとして後ろに下がるかわりに、まず斜めに左に取り、中ほどから「く」の字を描いて、右の方に引き下がるという型になっている。
 このような仕舞を終えたあと、太夫は勘彌に向かって次のように語られた。

「古来、能役者は、他の芸人にその家芸を伝うることを禁じて居るが、しかし芸術家は相見互いであるから、お互いに芸道を研究して、その相談に応ずるのが、当然の義務といわねばならぬ。ゆえに、自分は従来能界に行われた慣例にかかわらず、芸道の上に不審があるものは、同業であると、他の芸人であるとを問わず、我が知って居るだけはこれに答え、どこまでも研究的態度を取るのが、自分の信念であります」

 このような次第で、勘彌と高助は、金剛流の猩々舞をその目で見たが、一、二度見ただけではとうてい会得することはできないというので、帝劇開場の前に数回、私の宅にやってきて、私から梅若流の謡と仕舞を稽古したのであるが、複雑な舞踏に慣れている彼らには、簡単な仕舞がかえって勝手悪いものらしく割合に進歩が遅かった。しかし、専門家というのは格別なもので、いよいよ舞台にのぼったときには練習の効果が現れて、非常に評判がよかったのである。惜しむらくは、このような芸道熱心な勘彌が、その後十年たたないうちに冥土の舞台に移籍しまったことであり、斯界(注・ここでは劇界のこと)にとり、まことに残心の至りである。


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二百七十三  吉住小三郎芸談(下)(下巻457頁)(注・上にもどる

 二代目小三郎は目に一丁字がなかった(注・字を知らなかった、無学だった)が記憶力がよく、芸道熱心で音曲に関してはなんでも研究していた。
 そのころ岡安喜三郎が、小三郎とは互角の長唄語りで、彼のほうが家格が優れているため、あるとき小三郎が常勤していた芝居小屋で勧進帳をやるというとき(注・天保111840)年江戸河原崎座で勧進帳初演)、喜三郎がタテ唄(注・長唄の首席の唄い手)をやるらしいとい聞いた小三郎はそれを承知せず、自分の芸が、もしも彼よりも劣るというならば、自分は甘んじて彼の下に就くべきだろうが、そうとは思われない、自分の持ち場で、彼がタテ唄になるということは、はなはだ当を得ていないと言い出した。
 それならば、甲乙なく、両床で語らせようということになり、このときから芝居の長唄地語りに両床ということが始まったのだそうだ。
 小三郎と喜三郎は、このようなライバル(原文「競争者」)でありながら、芸道に対する小三郎の熱心さは、見栄も外聞も顧みることはなく、喜三郎の長所については彼から習うことを恥とはしなかった。
 あるとき喜三郎が、吾妻八景の「ふくむ矢立の隅田川」というところを唄うのを聞いて、それを真似しようとしたが、それが簡単にはできないことを知って、みずから喜三郎のところにのこのこと出かけ、彼の細君に面会し、「隅田川の一節は、われ、喜三郎殿に及ばざれば、謹んでその教えを乞わんとて、今日、罷り出でたるなり」と告げたところ、喜三郎の女房は、そのような奇特な心掛けがあったとは気づかずに、「あれは当流の秘伝でありますから、御伝授はできませぬ」と断ったので、小三郎は本意なくも引き取り、ならば、自分で工夫してみようということで、今日の吉住流で唄っている通り、「すみだがは」の五文字を、三味線の切れ目切れ目にはさんで唄うということにしたのだそうだ。
 小三郎はこのほかにも、唄いぶりにおいて、いろいろな考案を凝らして、その芸風が今に残っているものも少なくない。
 越後獅子の「そこなおけさに異なこと言はれ」という文句の中の「異な」の上に、「ン」という間を置くのも、この人の語り方で、現に今日でも吉住流で行われ、この一段に一種の風雅を添えていることなどもその一例であるそうだ。
 二代目小三郎は芸道熱心で、すこしでも自分の芸に勝るものがあれば、恥も外聞もなく自分を曲げて屈服するかわりに、江戸っ児の負けじ魂で、相手が強ければ強いほど一歩も後には引かないという勝気の持ち主だった。だから、この人の逸事は数々あるが、そのなかでも一番おもしろいのは次のようなものだ。
 あるとき三島神社の祭礼に江戸から長唄連中を迎えることになり、小三郎が招かれた。そこで、そこに赴く途中に箱根の関所を通りがかったときのこと、そのころ関所の役人は、徒然のあまり、芸人などが通りがかれば、慰み半分にその芸を演じさせるということがあったそうで、小三郎にも長唄を一曲演じてみよと命じたのである。そこで小三郎は望まれるままに、正式に一段を語り聴かせたそうだ。すると名人の芸であるので、関所の役人もことのほか感服して、続いてもう一曲、と所望した。そこで小三郎はもう一曲演じ終えたのであるが、そこで関所役人に向かって、「さて最初の一曲は長唄芸人のお調べのためなれば、無料にてよろしけれども、その後の一曲は御所望にて演じたるものなれば、なにとぞ御祝儀を頂戴いたしたし」と申し出た。しかし関所役人がこれに取り合う様子がないため、小三郎は彼らに向かって、「さらば、われわれは小田原に引き返し、大久保加賀守殿(注・小田原城主)まで願い出でて、御祝儀の埒(注・らち)明け申すべきに就き、左様御承知相成りたし」と申したので、彼らも非常に閉口して、とうとう、いくばくかの祝儀を奮発したのだそうだ。小三郎のこのような機転胆略は、この逸話からもほぼうかがい知ることができるであろう。
 さて、この小三郎に師事し、堅実な芸風でおりおり芝居などに現れたのが、三代目小三郎である。今の六四郎(注・杵屋六四郎、のちの稀音家六四郎)がまだ若年のころに、その三味線を弾いている左手がよく利くのを見込んで今の小三郎と提携させたのが、この人であったことからもわかるように、芸道には一見識あった人物だと思う。
 また、この晩に六四郎が語った芸談の中に、幕末の長唄界における大作曲家である杵屋勝三郎についての話があった。
 杵屋勝三郎は、有名な芸道熱心の奇人である。ある日外出中に、それまで近づきのなかった長唄師匠の門前を通り過ぎた。そのときちょうど、自分が作った「鞍馬山」を、師匠がその弟子に稽古している最中であった。聞いていると、だいぶ違っているところがあるので、彼は見も知らぬ師匠の家に飛び込み、自分は杵屋勝三郎でその曲を作った者であるが、ただ今のは少し間違っているところがあります、と言って、師匠の手から三味線を引き取って鞍馬山を一段弾き終え、これからはこんな風に教えてください、と言って平気で去ったということだ。
 このような熱心さを持っていたからこそ、その作曲した曲も後世に伝わり、今日までさかんに行われているのであろう、云々、という話であったが、これなども、大いに味わうべき名人の逸話であろうと思う。



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二百七十二  吉住小三郎芸談(上)(下巻454頁)

 大正十一(1922)年十二月二十三日夕刻より、わが国の長唄界の双璧である吉住小三郎と稀音家六四郎(注・大正時代は杵屋六四郎)が私の伽藍洞に揃ってやって来られ、晩餐ののち、ふたりともくつろいで芸談に耽られた。小三郎が古今の芸人の逸事について、こんこんと話を進めると、六四郎もまた例の洒落まじりに種々の思い出話を織り込んで、深更まで語り続けたのであった。
 そのなかで小三郎が語った吉住流の起源についての話が非常に興味深かった。昔の名人のおもかげをしのび、後進の者の奮起を促すに足る内容であったので、このような伝説がもしもすっかり消えてしまっては惜しいので、ここにその大要を書き留めておこうと思う。 (注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)
 

「天保時代を中心とし、その前後にわたって、江戸の長唄界に名人の名をとどめた者は少なくないが、吉住流の開祖で綽名を『芋ころ』と言われた、二代小三郎などは、そのもっとも著しい者である。
 この芋ころ小三郎は吉住流二代目であるが、その実は開祖であって、古名人風の奇行に富んだ人であったそうだ。元は芋屋で、青物市場から芋を買い出して市中を売り歩いていたが、生来音曲好きで、長唄師匠の門前に立ってその稽古を立ち聞きするようなことさえあった。 
 ある時、芋の荷をかついで、当時、桜田門外にあった葭簀(注・よしず)張りの掛茶屋に憩んで居る前を通ったのが、そのころ番町に住んでいた旗本(原文「旗下」)で吉村幸次郎という長唄の上手で、頭を奴のように剃り落としていたため、世人呼んで『奴の幸次』といった者であった。
 この人は旗本でありながら猿若町の芝居に出で、その美声を轟かし、当時長唄の名人という評判が高かったから、芋屋の小三郎は、彼があたかもその目前を通り過ぐるのを見て、芋をかついでも一代なり、長唄を唄っても一代なり、俺は今より芋屋をやめて、かの幸次の門弟となり、長唄語りとなって一生を送ろうと、ここに一念発起して、それより番町の吉村方に赴き、ついに彼の弟子となったが、その時の名を五郎次といったので、吉村の門弟になってより、吉村五郎次と称せしにかかわらず、彼が元、芋屋なりしため仲間では芋ころ五郎次と呼んだが、彼はむしろこれを得意としていたそうである。

 芋ころ五郎次は、吉村幸次郎、あだ名奴の幸次』の門下となって一心に長唄を勉強していたが、好きこそ物の上手なれで、暫時の間にめきめきと上達したので、当時、斯界に高名であった杵屋六左衛門の知るところとなり、芸名を吉村伊十郎(注・芳村が正しいか?)と名乗ったところが、この芸名について種々の苦情が持ち上がった。そのとき五郎次は人に向かって、『俺は芸をもって立つのであるから、名などはどうでも構うものか、吉村伊十郎が悪いなら、元の芋ころ五郎次でたくさんであると言い放ったが、六左衛門が、それではあまりに体裁が悪かろうとて、元禄ごろの長唄語りで、吉住小三郎と名乗り、その芸風も伝わらず、ただ一代で中絶した者があった、その跡を相続せしむることとなり、これより、芋ころ五郎次は、二代目吉住小三郎と称したが、その次が、今の小三郎の親、三代目小三郎で、当代は、すなわち四代目である。

 かくて、二代目小三郎は芋屋出身なれば、もとより文字もなかったが、江戸児風の負け嫌いで、思い立ったことは一気にこれを貫かねばやまぬという気性であったから、さまざまの面白い逸話をとどめた、そのなかでもっとも名高いのは、かの長唄の角兵衛が、杵屋六左衛門によって節付けせられ、猿若町の芝居で初めてこれを上演した時、小三郎は、そのころ六左衛門の引き立てで、ようやく三枚目に列することができたばかりなのに、この角兵衛中の山というべき新発田五万石荒さうとままよという一節を語らせてもらいたいと申し出たそうである。
 しかるにここは、すでに他の太夫に語らせてみたが、なにぶん六左衛門の気にかなわないので、はなはだ不快に思っていた折柄なれば、小三郎が自ら唄わんと申し出たのをきいて、六左衛門もその気になり、さらば、いつより試むるかと聞けば、小三郎は明日より語らんと言うにぞ、六左衛門はすこぶるこれを危ぶんだが、かつて小三郎の気性を知って居るので、よしそれならば、勝手に語ってみろと言い渡すや、小三郎は自身大酒家であったから、たちまち一升徳利を提げて、そのころ越後より出てきた米搗き男のいる米屋に赴き、持参の酒を米搗き等に振舞って、しきりに新発田五万石を唄わせたが、彼はこの間において、おおいに自得するところあり、翌日芝居においてこれを唄い出づるや、見物の評判は言うに及ばず、六左衛門も大いに感服したので、吉住流は今日まで、その唄いぶりを伝えて居るそうだ。」次ページへ「下」に続く)
 


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二百七十一  アインシユタイン博士の来庵(下巻450頁)

 大正十一(1922)年十一月二十九日午前十時、アインシュタイン博士が茶の湯の見学(原文「茶式見学」)のため、夫人同道で、わが伽藍洞(注・高橋箒庵の赤坂邸)の一木庵を訪問されたことは、本庵にとってまことに光栄の至りであった。
 博士夫妻は来日以来、能楽を観覧したり邦楽を聴聞したりして、日本の文芸について深い興味を感じられたということで、本邦に固有の茶の湯についても、ぜひ研究したいとのことで、福澤三八君の紹介でこの日来庵されたのである。
 私は博士をひと目見て、まずその相貌に敬服した。博士は、ドイツ人としては大兵というほどでもないが、あまり小さいほうでもなかった。髪が縮れているのが異様であり、色が白く、下膨れである。豊満な顔の道具(注・パーツ)がよく揃っており、丸い目は、切れ長で、微笑するときが現れ、得も言われぬ愛嬌をたたえる。柔和で沈着で、対面したばかりのときから私はその徳風に魅了されてしまった。
 私は、博士に訪問していただくことを幸いに、茶道の本旨をできるだけ説明して参考にしていただこうと考えていたのだが、博士の在邸時間が一時間十五分だけだったのと、茶道用語の翻訳が、なかなか容易でなかったことから、改造社の稲垣守克君が流暢なドイツ語で熱心に通訳されたにもかかわらず、思ったことの十のうちの一をも言い尽くすことができなかったことは非常に残念であった。
 しかし、ちょうど口切茶会(注・毎年11月にその年の五月に摘んで保存した新茶の封を切る茶会)を開催している最中だったので、まず寄付から案内を始め、床に掛けた松花堂(注・松花堂昭乗)の消息は、三代将軍家光が小堀遠州の品川御殿山茶会に臨まれたとき、その光栄を祝した手紙であるということや、寄付の床掛けとは、茶客が他の同席者とそこで待っているときに読んで楽しむものであることを説明した。

 次に、茶客が全員揃った時、庵主が寄付に客を出迎える時のやり方を見せた。客は、寄付から露地に出て、つくばいの清水で嗽ぎ(注・くちすすぎ)を行う。これには、入席前に口内とともに心頭を清浄にするという謂われがあることを説明した。
 つづいて、狭いにじり口から、三畳半の一木庵にはいっていただいた。そして、床に掛けた、三代将軍筆の木兎(注・みみずく)に沢庵和尚の讃がある一軸の由来を説明し終えたのち、すぐに炭手前をお見せしたのである。
 さて炭手前の最中、釜を上げて、すぐさま、長次郎焼の焙烙(注・ほうろく)に盛った湿し灰(注・しめしばい)を炉の中に振り撒くときに、私は、この湿し灰を撒くのは、ひとつには灰燼を鎮めるという目的、もうひとつには、火勢を助ける目的があることを説明した。すると博士は、四百年前の日本の茶人が、すでに物理学の原理に基づいて炭手前の湿し灰を使い始めていたという注意周到さに感心されたようすだった。
 また炭手前の終わりに染付荘子香合から銘九重という練香を取り出して、それを炉中に投じ炭臭を消すという趣向にも、一興を催されたようだった。
 その後、懐石の膳腕器具を順番に並べ、日本の茶席の懐石は、禅僧の応量器(注・禅僧の食器。托鉢)にならったもので、なるべく庵主の手を煩わさずに、はじめから終わりまで客の方で始末を行う次第を述べた。
 懐石が終ると、中立といって、いったん客を腰掛にまで立ち退かせる。そのあいだに室内を清掃し、掛物を花入と取り換え、濃茶の支度がすでに整った合図として、銅鑼七点(注・大小大小中中大と鳴らすやり方)を打ち鳴らすという方式について説明した。実際に中立はしてもらわなかったが、ためしに銅鑼を鳴らし、その風情を示したのである。
 こうして、いよいよ濃茶手前にはいった。青竹の蓋置に柄杓をおろして端座したとき、もともと濃茶手前の身構えは禅僧の結跏趺坐を変形させたもので、両足の親指を重ね合わせ、四十五度の角度に両股を開き、下腹にうんと力を入れて正座するものであること、左右に動くときにも常にこの四十五度の角度を保って、八回動けば身体が一周することになることを説明した。
 ここで、この態勢で手前に取り掛かった。心を丹田に落ちつけて、無念無想の境に入れば、百万の大敵が襲い掛かって来ようとも、百雷が一時に落ちて来ようとも、泰然自若として微動だにしないという男気が全身に満ちているのだと言ったが、それを通訳が説明し終えると、博士も、なるほどと感服したようであった。
 しかし、だんだんと濃茶器を取り出し、茶入、茶碗、茶杓などにそれぞれの名称があるのを説明したときには、博士も夫人も、鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くして、いっこうに合点がいかなかったのは無理もないだろう。ドイツなどで言ったら、食事中にテーブルの上に並んでいる茶碗や皿鉢に、飛鳥川とか、玉柏とか、布引とか、白波などという風雅が名前がついているわけだから、それを不思議に感じるのは、まことに当然のことであろう。日本の名物茶器は、いつもそれを擬人化して、茶器を室内に飾るのはその茶器に縁故ある故人の魂をその場に招くのと同然であるということを理解するのは、不滅衰の相対原理発見の大学者にとっても決して簡単なことではあるまいと思う。
 こうして一応、茶事の説明を終えると、庭前の利休堂に案内し、聞香の形式をお見せし、また、編纂中の名器鑑の材料などを展示したのであるが、なんといっても時間が短かったので、博士が会得されるまでの十分な説明をすることができなかったことは、まことに遺憾の至りであった。
 しかし、世界的な大学者を自庵に迎え、茶式の一端を説明することができたことは、私の一生のなかでも、もっとも愉快な出来事であった。
 


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