だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

2017年12月

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百七十  名物形石灯籠供養(下巻447頁)

 私は明治二十六(1893)年、大阪に仮住まい(原文「僑居」)したころから、奈良、京都を中心に、五畿内各地の神社仏閣にある著名な古石灯籠観賞めぐりをしていた。そしてその古色を愛し、また時代によって製作を異にする形式の変化を研究し、おおいに興味を感じるあまり、奈良の石工に命じて各所の名物石灯籠を原形そのままに模造するまでになった。
 大正十一(1922)年に、それが既に二十基に達したので、私はこれを前妻の墓所である音羽護国寺に寄進し、観音堂東南の鐘楼と銅仏のあいだに建て並べることにした。
 同年の五月にその工事が完成したので、六日午後一時から五時まで、同好の人を案内して、ちょっとした石灯籠供養を営んだので、その縁起について今ここで大略を述べることにしよう。
 私は多年、築庭が趣味で、したがって、古い庭石を手に入れるために、おりおり奈良あたりに出かけ、古い石塔、伽藍石、あるいは石灯籠などを多数買い入れた。
 明治三十二(1899)年ごろ、奈良法華寺の書院の前にあった法華寺形という古石灯籠を譲り受けてからは、ことに石灯籠に興味を持ち、その後さかんに探索を続けたが、本歌は容易には手にはいらないので、奈良の石工である石田太次郎に委嘱して、まず最初に、元興寺形、般若寺形、祓戸形などを模作してもらった。現物と寸分の違いもないようにするために、奈良の道具商の柳生彦蔵に依頼して、その工事を監督してもらった。
 最初は四、五本作るつもりであったのが、だんだんに増加して、ついに二十本に達したので、この上は、それらを分散するのも惜しいことだと思い、ある景勝の場所に建て並べて、ひと目に併観できるようにする方法を種々考えたが、熟考の末、前述のように音羽護国寺境内を選定した次第である。
 音羽護国寺は、東京市中において一番の景勝の地を占め、境内は広々とした高台にあり(原文「高敞」)、老樹が多く、名物の石灯籠を設置するには無類の好適地だと思った。執事のち貫主の佐々木教純師に相談したところ、石灯籠は除闇遍明(注・じょあんへんみょう。闇を消しあまねく照らす)の意義にかない、境内の装飾として、まことに恰好のものであるので喜んで受納したいと言われたので、大正十一(1922)年初夏より工事に着手し、秋の中頃にすべての設置を終えたのであった。

 石灯籠というものは本来、年を経るにつれて古色を加えて価格も増すものであるから、杉の苗を植えるのと同じく、知らず知らずのうちに、将来は相当の寺の財産になるだろうと思う。
 そのあたりのことも十分に考えて、地盤も十分に堅固にし、周囲には鉄柵を設けた。また後人がその来歴についてわかるように、かたわらに一基の石碑を建てて、西園寺陶庵公の「除闇」という二字の篆額の下方に自の碑文を彫りつけた。その文句は次のとおりである。

 神齢山護国寺は、皇城の乾位を占めて、新義真言宗の道場たり。予曩(注・さき)に前室の物故に遭ひて墓域を此地に定む、其後護国寺維持財団の設立せらるるや、選ばれて理事長と為る、乃ち宿縁の浅からざるを思ひ、南都付近著名の石灯二十基を模造し、之を観音堂の東南に駢置して、記念を他日に留めんとす。惟ふに石灯は久しきに耐えて色を増し、除闇遍明、能く真言の教理と符号し且その上代名匠の典型は、観音をして自から矜式する所あらしむるに足る。是れ予の敢て此挙ある所以なり。因て碑を建て事由を録して後人に告ぐ。

       国まもる寺のゆくすゑ照さなむ 万代ふべきこれのともし火

     大正十一年歳次壬戌十一月

                        箒庵 高橋義雄


 なお、その背面に列記した二十基灯籠の名称は、次の通りである。

  般若寺形 多武峰形 元興寺形 三月堂形 栄山寺形 蝉丸形 灯明寺形 
  太秦形 当麻形 西之屋形 平等院形 法華寺形、八幡形、柚之木形 
  奥之院形 道明寺形 飛鳥形 祓戸形 蓮華寺形 雲卜形

 さて私はこの石灯籠を護国寺に寄進すると同時に、維持費として金五千円を付け、百年の期限でこれを三井信託会社に預けておいた。それから十二年間に、複利がほとんど三千円にまでなり、これを百年すえおけば約五百万円に達する計算になる今後だんだんと利息が下がるとしても、まだ三、四百万円にはなるはずなので、そのときには、護国寺境内に大仏殿でも建てたらどうだろうというのが、私の道楽なのである。
 今、世間の事柄については、来年のことを言えば鬼が笑うというけれども、寺院の問題に関しては、百年先の話をしてもあまり可笑しく思われないのが不思議である。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百六十九  大倉翁の値切じまひ(下巻444頁)

 大倉鶴彦翁(注・大倉喜八郎)は越後(注・現新潟)新発田の出身で、その祖父なる人の碑文は頼山陽が書いたものであるということだから、土地に知られた名家だったのだろう。
 維新前に志を立てて江戸に出て、戊辰戦争の前後に銃砲を幕府軍に売ったことで官軍の詰責に合ったとき、自分は商人である、商人が商品を売るのに、朝幕(注・朝廷と幕府)の区別はつけない、という大気焔を吐き、その豪胆ぶりの発揮したという伝説さえある。
 後年になって日清、日露の戦争などの機運に乗じて、実業のうえでの大発展をとげ、勲功をもって男爵に叙せられたころから次第に人格を高め、光悦流の書を習い、あるいは天才的な狂歌を口ずさんだ。     
 還暦以後、古稀(注・70歳)、喜字(注・喜寿=77歳)、八十(注・傘寿)、米(注・米寿=88歳)の祝寿会ごとに、公共的な記念となるものを残し、福禄寿(注・幸福、俸禄、長寿)を一身に集めた。
 九十二歳の高齢を保たれたが、その大胆率直にして辺幅(注・うわべ)を飾らない様子や、かたわらに人なきがごとき豪快さにいたっては、ほとんど他人の追随を許さないものがある。
 さて大正十一(1922)年は、翁が八十五歳の時だったが、同年の二月、山県有朋公が薨去し、音羽護国寺で国葬があった。そのとき、その墓地に隣接して六十坪ほどの空き地があるのを見るや、翁はそれを買収し、わが墳墓となさんとしたのであった。
 私が音羽護国寺財団維持会の理事長であるのを見込み、二女の時子さん(原文「時子夫人」)を通じて同墓地買収について依頼されたので、私はさっそく当時の護国寺執事のち貫主であった佐々木教純師に諮った。すると相手が知名の大家なので、特に一坪三百円として、一万八千円にて譲渡しようということであった。
 このとき翁は、私の方には回答をせずに、秘書某を直接佐々木執事のもとに差し向けて一万八千円を一万五千円に値切られたので、佐々木執事は非常に驚き、その旨を私の方に通知してきた。 
 私はただ打ち笑って、しばらくそのままにしておいた。するとそのことが、時子さんの耳にはいったので、彼女はさっそく父翁に向かって、墓地というものは最後の別荘ではないか、最後の別荘を買うというときに、それを値切るということがありますか、と正面から突っ込んだところ、翁は一向に平気で、俺は商人だ、商人がものを買うのに値切らないでそのまま買うということはない、なるほど墓地は別荘の買いじまいだから、俺は値切りじまいをしたのである、と一笑して取り合わなかったそうだ。
 このあたりが大倉翁の大倉翁たるところで、三つ子の商魂百まで変わらず、洒々楽々、露骨にそれを表白して少しも取り繕うところがないのが、いかにも翁のおもしろいところである。
 昔聞いた話だが、維新前の吉原に桜川善幸という幇間がいて、いつも「俺は若干の金を遺して死ぬから、死後に改めてみるがよい」と公言していた。臨終のとき病床に仰臥し、無言で天井を指さしたので、さては前々から言っていた通りに遺金を隠し置いてあるに違いないと、やがて天井を改めたところ、はたして手箱のようなものがあったので、家人で寄り合って開いてみた。すると小判形の石を包んだ封の上に「嘘の吐きじまひ」と書いてあったということである。
 大倉翁が、商人として、墓地の値切りじまいと言われたことは、その幇間の、嘘の吐きじまいと似通っていて、いかにもおもしろい逸話であると思う。
 大倉翁の墓地値切り事件は、もともと些細な問題で、翁にしてみても我意を通そうとしたわけではなかったので、その後、墓地は翁の言い分どおり一万五千円としたうえに、別に祠堂金の名目で三千円を寄付することになり、ほどなく問題が解決した。
 翁は、このような経緯があったことなど、ほとんど忘れたかのように洒々楽々として、私に次のような礼状を送ってこられた。

 「此頃御手数被成下候音羽墓地の儀、取引等円満に相済み、護国寺より寄付の礼状も相届候次第に付、不取敢拝謝申述度、此書状したため候うち、腰をれ一首うかみ候まま、備貴覧候、御一笑々々
     儒者捨場近き音羽の墓地なれば世を而して後に往くべし
                        鶴彦
   高橋大人

 この書状の中の狂歌に、儒者捨場とあるのは、旧幕時代に、聖堂(注・湯島聖堂。昌平坂学問所)の老儒官たちが、その住まいを山の手に構え、閑静な音羽護国寺のあたりには特におおぜい住んでいたので、当時の世の人々が姨捨山になぞらえて、これを儒者捨場と呼んだのだそうだ。
 私は明治四十二(1909)年の前妻死去のときから護国寺境内に墓地を営んだばかりでなく、すでに自分の寿碑(注・功績を記した碑)までも建ててある次第なので、さっそく返書をしたため大倉翁に送り、末尾には次の一首を書き添えて翁の一笑に供したのである。

    つひにゆく処はおなじ音羽山 寝ながら娑婆の物語せむ



【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百六十八  伏見大宮御殿の一夕(下)(下巻439頁)(注・(上)にもどる

 伏見大宮殿下は、前項の岐阜震災(注・濃尾地震)の御物語に引き続き、その地震のときも危険であったが、それよりも一層危険だったのに不思議にもそれを免れたことがあった時のことを物語られた。
 「西南戦争の時であった。田原坂の戦いに、敵味方の間隔はなはだ接近し、あるときは塁壁の上より互いに悪口を交換するような場合もあったが、壁上に首を出せば、たちまち鉄砲で撃たれるので、初めは用心して首を出さなかったが、時日を重ねるにしたがって、だんだん危険に慣れ、敵をからかってみようと帽子だけを壁上に出すと、すぐそれを射撃するのをおもしろがったこともあった。
 しかるにその後、敵兵が退却してしまったので、自分らは従来潜んでおった塁壁より現れ出で、もはや居残る者はあるまいと思って、伊藤大尉という者と並んで敵塁の方へ進んで行ったところが、いまだ敵兵が残っておって、自分らの近づくのを見てこれを狙撃したから、伊藤は横腹を打ち貫かれて即死してしまった。
 その他だいぶ当方に負傷があったが、自分は幸いにその弾丸にあたらなかった。敵塁間近で狙いを定めて撃ったのだから、これに当たらぬというのはよほどの幸運と思われた。
 自分は当時、中尉であったが、西南戦争のころは日本の軍事もいたって幼稚で、衛生の組織など皆無であったから、大尉くらいの将校が戦死したのを、獣類を運搬するように縄で手と足をくくって、青竹の棒を突きさして、これをかついで多数の屍体とともに、ひとつ穴にほおりこんで埋めるという悲惨な状況であった。
 また鉄砲などもいたって不完全なもので、あまり遠方に達しなかったので、鹿児島に近づいた時、敵兵は高い山の上にいて、当方の鉄砲の届かぬことを知って、毎日相撲を取ってたわむれていたが、そのころ日本に渡ってきたクルップ砲をもって、これを追い払わんと思ったところが、将校中にこのクルップを射撃しうる者がなかったのでも、当時、軍事の幼稚なことがわかるであろう。
 しかるに両三日かかって、どうやらこれを撃つことを発見し、かの山上に向かって発砲し始めたので、敵兵もさだめて驚いたであろう。その後、相撲など取る者がなくなったのはおかしかった。」

 伏見大宮殿下は、このように西南戦争の際に起きた御身上の危険を語り終えられ、微笑を洩らされた。そのとき私は、殿下のような高貴な御方でも、このような危地に立たれることがあるのかと思い、なるほど皇族方が陸海軍籍に入って御修養あらせられることは、まことにありがたいことだと思った。軍隊にあっては、高貴な身分でも、軍規によって進退せられるからこそ、規律を守り、下情(注・しもじもの様子)を知り、困難に耐えることができるのであって、他の職務にあっては、このような実体験を積まれることは、とうていできないであろうと深く感銘したのである。
 こうして、殿下の御物語をうかがった玉突場から、何部屋かを隔てた日本座敷に通された。ここは、上段が八畳、次の間が十畳で、一間(注・約1.8メートル)の入側(注・いりがわ。座敷と濡れ縁との間の細長い通路)がめぐらされた書院の中央に、大卓が置かれていた。私たちは殿下と相対して、毛皮を張った座布団に座し、御陪食を仰せつけられた。
 その際にも、囲碁、盆栽、乗馬その他数々の御趣味についての御物語があった。
 中でも音曲については、御幼少より御家芸として御修得あらせられたそうで、それに関する御物語は次のようなものであった。
 「自分は音曲が大好きであるが、なんの音曲についても、調子だけは確かに聞き分けることができると思う。そのいわれは、宮家において、有栖川は書道および和歌のことを司どり、伏見は音律を司る家柄で、何事をおいても、その本役を練習するのが、往時、自分らの勤めであった。
 それで自分は、六歳の時より琵琶を習い始めて、十四歳の時まで間断なくこれを継続したが、この琵琶には、いたって無意味でしかも文句の相類似して居る曲が八十八曲もあるのを、ことごとく暗記しなくてはならぬので非常に困難を感じたのである。これが、何か意味でもあれば、それにすがって記憶しやすいのであるが、同じような文句で無意味であるから、これを記憶する困難は非常なものであった。
 それで自分はもっぱら琵琶を習ったが、これと同時に、笙、篳篥(注・ひちりき。縦笛)、琴も習い、特に好んで尺八を習ったのである。それゆえ、他の俗曲などを聞いても、子供の時より習い覚えた音律の耳は確かであるあら、調子を聞き違えることはないのである。」
 大宮殿下はこのように物語られたあと、私に向かって、かねてから茶の湯が好きだと聞いているが、自分の父もまた非常に茶を好み、茶器も相当に集めたようだが、自分は今まで研究する機会がなかったので、持ち合わせの茶器も今は物置の中にしまいこんだままで、虫干しすらもしていない、しかし、今、茶杓を一本取り出してあるので、せっかくの幸いなので、ひとつ鑑定してもらいたい、ということで、侍女に命じて持ってこさせた。
 見ると、桐木地の箱の中を二つに仕切り、一方に利休作の茶杓を入れ、一方に宗旦(注・千利休の孫)がこれに命名した由来書を入れてあった。
 そこで、仔細にこれを点検してみると、筒書付は宗旦で、上に「上京」、下に「利休」とあり、十善具足(注・よいものが揃っている)したものであったので、このような茶杓を御所持せられているからには、御茶入、御茶碗などにも必ずや名品がございましょうと申し上げたところ、そのうちに一度参邸して、とくと検査してもらいたいと仰せられた。
 よって私は、他日に御蔵器拝見させていただきたい、などと言上し、当夕のお召し寄せの光栄を拝謝し、御玄関まで退出した。
 このとき藤田氏(注・藤田彦三郎)が私の袖を引いて、「殿下が御見送りである」と言った声に驚き、振り返ってみると、間近に、にこにこされた殿下が立っていらしたので、破格の御待遇をおそれかしこみ、重ねて御礼を言上して退出したのである。これは私の一代の中で、またと得難き光栄であった。
 


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百六十七  伏見大宮御殿の一夕(上)(下巻436頁)

 大正十一(1922)年三月三十日午後四時半、私は大阪の藤田彦三郎藤田平太郎男爵の末弟氏とともに、伏見大宮貞愛(注・さだなる)親王殿下の御召を蒙り、紀尾井町御殿に伺候した。
 藤田氏は以前より大宮殿下の御知遇を辱うして(注・はずかしゅうして=ありがたくも得て)、上京するたび必ず宮家に参候するのを常としたが、いつのことにか私のことが殿下のお耳に入った(原文「上聞に達した」)ものらしく、一夕同道して参殿せよとの御沙汰があったそうで、藤田氏からその旨も含めて私に申し越されたので、命刻(注・指定された時刻)に、相伴って参殿した。
 はじめ、西洋館の応接間で御家職の人々に挨拶したあと、日本館と西洋館の間にある撞球場(注・ビリヤード場)を兼ねた大ホールに通された。
 殿下は、籐椅子が数脚の中ほどの、巻たばこなどが置かれたテーブルの前に着座されており、私たちに対して御丁寧なる御会釈をされた。
 当時、御年六十五歳で、御頭には白髪をまじえ、大兵豊満で、御容貌が柔和、かつ上品であるのは言うまでもなく、御微笑を含ませられるごとに、鳳眼(注・切れ長の目。中国の貴相)とも申し上げるべき切れ長の御目に、無限の愛嬌をたたえられていた。尊大な風はどこにもなく、きわめて率直に御談話あらせられるので、いわゆる慈眼藹々(注・あいあい。和やかなさま)春風一座に満つる、の感があった。
 最初は緊張していたのが、いつしか打ちくつろいで、高貴な方の御前であることも忘れ、無遠慮にも、それから一時間ほども四方山の御話相手をさせていただいた。
 そのとき殿下は、和やかに、次のような御話を語られた。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

 「自分が最初、京都より東京に出てきた時は、九段下にあった千坪ばかりの屋敷に住んでいたが、その後、九段上の、現今、山階宮邸になっているところに移り、これもあまり手狭なので、明治二十六、七年ごろ、自分が青森に在勤しておった留守中、当邸を建築したのであるが、時あたかも、岐阜震災(注・明治241028日濃尾地震)のあとで、西洋館は地震に耐えぬであろうというので、庭に向かった屋根の正面に、大きな物置を載せるはずであったのを、ついに中止したのである。
 岐阜の地震といえば、かのとき、自分は、叔母にあたる人の法要で京都に赴く途中、名古屋に一泊して、翌朝ひとり旅館の二階にいると地震が始まったのである。
 ところで、かねて大地震は一度にドンと来るものだということを聞いていたから、程なくやむだろうと思って居ると、それが非常な勢いになってきたので、とにかく二階を降りようと思って、はしご段のところに来ると、はしごが波を打って動揺して居るから、その上を駆けおりて正面の入り口より庭に出ようと思ったところが、その入り口の大きなガラス戸が、震動のために自分の頭の上にドンと倒れてきた。その時、なんのためであったか自分にも心づかなかったが、左の手に頑丈な煙管(注・キセル)を持っていたので、その戸を煙管で受け止めたのが、あたかも(注・ちょうど)その桟(注・さん。戸、障子などのほね)に当たったので、戸は斜めになって自分のかたわらにドンと倒れたのである。

 もしこの煙管を持っていなかったならば、戸が頭の上に倒れて、ガラスのために大けがをしなくてはならぬのであったが、煙管一本で不思議に難をまぬがれたので、その後自分はこの煙管を活人管と名づけて、今でも記念に保存して居る。
 かの時の地震は実に珍しい大地震で、その後一日間、何回となく揺り返したが、また来たのではあるまいかと心配して、庭に天幕を張ってその中に滞留しておったのである。
 そのころの名古屋の師団長は桂太郎であったので、同行して付近の現状を視察したが、市外の田舎道などは、土橋、石橋、ことごとく破壊し、民家は将棋倒れになってしまったので、工兵が繰り出して、その中から罹災者を救助するという惨憺たるありさまであった。
 今もし、かがごとき地震が再来したならば、この西洋館なども到底持ち耐えぬであろう。近頃市中で建築しておる鉄筋家屋などは、はたしてどうであろうか、鉄骨はきりぎりすの籠のごとくに立っておっても、石や煉瓦が振るい落とされてしまいはせぬか、実地に当たってみなくてはわからぬであろう。」

と、最近までは、安政地震以来の最大地震として知られていた岐阜震災の御遭難の状況の御物語をされたのである。
 ところで殿下は、大正十二(1923)年の初めに銚子御別邸にて御薨去あらせられたから、同年九月の大震災は御存じなかったのであるが、岐阜大震災での実際の御体験にもとづき、種々の御思い付きの御設備が、癸亥(注・みずのとい。大正12年)の大震火災のときにしっかりと役目を果たし、当時の大宮御殿に格別な御損害がなかったのも、畢竟(注・ひっきょう=結局のところ)このためであったのだろうと思う。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

    第七期 文芸 大正十一年より昭和七年まで
二百六十六  山県有朋公の薨去(下巻433頁)

 大勲位元帥山県有朋公は、大正十一(1922)年二月一日をもって、その八十五年にわたる国家奉仕の大生涯を終えられた。
 公は天保九(1838)年に生まれ、明治元(1868)年が三十一歳、大正元(1912)年が七十五歳で、幕末、明治大正の両時代にまたがって、開国維新から西南、日清、日露の戦役のような日本未曾有の大事変に際会し、艱難のためにますます玉成されたという大人豪である。
 公は、毛利家の最下級士族の山県三郎有稔(注・ありとし)の長子で、家格がきわめて低かったにもかかわらず、厳父が国学者で気概のある人物であったので、幼い時から経史(注・四書五経など儒教の経典と史書)を授かり、また厳父が好んだ和歌、謡曲なども仕込まれた。また少年のころから撃剣、柔術を習い、ことに槍術は、岡部半蔵について免許皆伝を得られたそうだ。
 幼名を辰之助といい、長じて小助と改め、ついで狂介、あるいは素狂と称した。一時変名して、萩原鹿之助と名乗ったこともあったが、維新の際から有朋と改めた。後年には、さらに含雪と号し、その居所にちなんで、椿山荘主、芽城目白山人、古稀庵主人などの雅号を持っていた。
 二十歳ごろから、国事多端(注・国に関する事件が多発するようす)になったので、同藩の志士、高杉晋作らと計画して、有名な奇兵隊を組織した。それを率いて藩中の俗論党を制圧したり、長州征伐にやってきた幕府軍に対抗したりして武将としての名声をあげたばかりでなく、長州藩の勤王の使命を帯びて、しばしばあちこちに奔走し、当時の同藩の多士済々の間にあって、きわだった頭角をあらわされた。
 維新の皇謨(注・こうぼ。天皇が国家を統治する計画)が決定するや、藩兵を率いて東北に出陣し、越後口においては、頑強な敵兵との難戦苦闘が数か月にわたり、ついには掃蕩(注・敵を完全に除き去ること)の功を全うした。

 明治政府が成立すると、引き続き軍政の局に当たった。大輔、卿となり、徴兵制度を確立し、わが国の陸軍の創設者となったのである。
 明治十八(1985)年に内務大臣に任ぜられると、孜々として(注・ししとして=熱心に)市町村自治制の制定に尽力し、次いで欧米視察を終えて帰朝してすぐに、明治二十二(1889)年末に第一次帝国議会の総理大臣になった。それから間もなく日清戦争となって第一軍司令官になった。その半ばで病気で帰国されされたが、帷幕(注・いばく。司令部)に参画した功は非常に大きく、その後、遣露の使命を帯びてロシアの首都(注・サンクトペテルブルク)に赴いた。
 次いで明治三十一(1898)年、再び山県内閣を組織し、日露戦争が起きると参謀総長として帷幕の大任に当たることになった。
 平和回復後には要職を後進に譲り、みずからは政局には当たらなかったものの、枢密院議長として至尊(注・しそん。天皇のこと)の輔弼の任を果たした。ここでも老来倍々蹇蹇匪躬(注・けんけんひきゅう。自分のことは後回しにして苦労を重ね主人に尽くすこと)の節を通したので、ふだんは謙抑(注・へりくだって控えめにすること)しているにもかかわらず、国家の大事にいたっては公の一断を待つ者は多く、威望隆々としていた。人は時に、それを徳川家康になぞらえ、あるいは大御所などと称するようになったのである。
 文武の両面において非常にすぐれた人物であった。世界にその比類を求めるならば、厳毅誠忠の武人にして文勲もあった、かの蘇轍(注・北宋の文人)に、「入っては即ち周公、召公(注・ともに西周の功臣)、出ては即ち方叔、召虎(注・ともに西周の功臣)」と讃嘆された宋朝の韓魏公(注・韓琦[かんき])、北宋の政治家)、もしくは、ワーテルロー(原文「オートルロー」)でナポレオン一世を打ち破り武勲の名声高く、しかも経綸の才幹も備えて国政の料理に任じたイギリスのウェリントン公などが、ほぼこれに相当する人格であろう。
 私は明治二十三(1890)年に井上世外侯爵の紹介で初めて山県公に謁見したが、その時は丁度二年間の欧米視察を終えて帰国したときだったので、一夕、公と相会して、欧米見聞談を披歴したところ、公はその翌日に井上侯爵に面会のときに、「昨夜、高橋と会見したが、一見、旧のごとくであった」と言われたそうで、私は井上侯爵からそのことを伝聞して身にしみじみと知己の感を抱くことになったのである。
 その後私は、三井家に奉公していたので別段公と交渉するという要務もなかったし、自分からも進んで公を訪問するということはなかったのに、公は、何かの機会があるごとに私を招いて共に語り、また他から招かれたときに私を誘引して同席させることも少なくなかった。
 公は、職務その他に何らの利害関係のない私を常にその身辺から離さず、以来三十年余りのあいだ、台閣と江湖(注・政府と民間)、大官と処士(注・政府高官と民間人)という立場で、出処進退がまったく没交渉である私と公が、なぜともなく始終相接近したのである。公はその都度、胸襟を開いて、なにくれとなくその感想を洩らされたということは、世に言う相性(原文「合性」)というものであろうか。私はこのような公の知遇に対し、心から感謝の念に満ちているので、公の三回忌に当たって「山公遺烈」と題する一書を著述し、私と公との遭遇について叙述した。ここでは紙面を割くことをしないが、そのとき、私は同書のうしろに、七絶一首を題して、いささかの知遇の感を述べたので、ここにそれを掲げることにしよう。

   江海雅懐容我狂 卅年知遇感平生 悲風颯入一枝筆 泣写名公憐士情


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ
 

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百六十五  小倉色紙披露会(下巻426頁)

 昔から、名品を獲るは易く、これを使うは難しい、とよく言われるが、私は小倉色紙を手に入れたとき、殊にこの感を深くしたのである。
 私が小倉色紙を手に入れたのは大正七、八(191819)年ごろで、そのときは箱も付属物もなく、全く丸裸のままだったが、上下が浅黄地銀襴、中(注・中廻し)が紫印金、一風(注・いっぷう=表装で一文字と風袋を合わせた略装)が上代紗の表装で、もともと並々ならぬものであることはもちろん、色紙は古筆家の、いわゆる白色紙で、砂子または地紋がないだけ文字がはっきりとして、いかにもみごとなものであった。
 その歌は、

    高砂の尾上のさくら咲きにけり とやまのかすみたたすもあらなむ

というものだった。
 そこで、だんだんと調べてみると、これは久世大和守家の伝来品で、現在は子爵久世広英氏の所蔵だったが、わけあって、中身だけが世間に出て、利休の添文と、畠山牛庵(注・畠山光政、書画鑑定家)その他古筆の外題(注・書籍,掛物,巻物などの外側につける題箋)はいまも久世家に残っているということがわかったので、その後、子爵に懇望して付属物全部をまとめることができたのである。

 さて、この色紙の伝来を見てみよう。一条殿御所持のあと、仙石兵部殿(注・仙石忠政か?)へ行ったのち、細川三斎のもとで表具に趣向が凝らされ、そこから一柳殿へゆき、同家の息女が金保安斎方への嫁入りの際に持参して、その子の道訓に伝わったということである。白河楽翁(注・松平定信の「集古十種」、松平不昧の「古今名物類聚」のどちらにも久世大和守所持とあるので、寛政年間(17891801)にはすでに同家の所蔵になっていたものと思われる。
 小倉色紙は、利休の時代から世でもっとも重んじられ、大大名家になくてはならぬ重宝として、お家騒動の種にすらなったものである。なぜこの色紙が珍重されたのかというと、それより以前には寸松庵色紙、継色紙、升色紙、俊頼大色紙などというものがあったが、それらはいずれも巻物を切ったり、歌帖をばらばらにして色紙形に作り直したもので、本物の色紙として生まれたのは小倉色紙が最初だったからである。
 この色紙がひとたび世に出たあとは、為家の色紙がこれに続き、さらに下って有名な宗祇法師の大倉色紙などが出てきた。そして、色紙の元祖が小倉であることから、自然に世の中でもてはやされるようになったものと思われる。
 またこの色紙は、山荘のふすまに張り付けたので、遠くからでも読めるように特にその字を大きくしたようで、茶人がこれを珍重するのも、その文字が大きく一見して非常にはっきりしているためであるとも思われる。
 前述した久世家の小倉色紙には、利休筆定家卿色紙弥弥秘蔵云々(注・原文では卿が郷となっている、誤植か)の添文掛物が付属していたので、大正十(1921)年四月二十二日から、赤坂一木町の一木庵において、これを披露する茶の湯を催すにあたり、私は待合の壁床にこの利休文を掛け、本席に例の色紙を掛けて連会すること十日にわたり、茶友七十人余りを招待した。

 この時の益田鈍翁の謝状に、次の一節があった。(注・旧字を新字になおしたほかは原文通り)

 「小倉の色紙でお茶を頂戴すると云事は、昔は大々名でなければ及びもない事なるに、今や箒庵子より此光栄を賜はつたのは、誠に老後の仕合である。待合で利休の添文を見たので、扨てこそと思ひつつ本席に入れば、果して小倉色紙が掛つてあつたが、表装は細川三斎好みで、久世大和守家に伝はり、出来も殊更美事にして、一見頭の下がる者であつた。斯くて庵主は此掛物に配するに、青磁桃の香合を以てし、花入は紹鴎所持古銅桃底に白玉椿を活け、茶入は金森大海、茶碗は黒光悦で、何れも名物揃えなれば、何れの茶会でも、無遠慮に勝手の事を言ひ合ふ連中も、今日ばかりは襟を正して、大々名に成り済ました心地がした。併し茶会の終りまで、客を緊張させて置く庵主でないから、濃茶が終ると、伊賀の水指、庸軒(注・藤村庸軒)好み朱棗、無地刷毛目茶碗に薩摩を取合せ、如何にも平民的気分に為したのは、庵主が苦心の存する所で、濃茶の間は、厳粛なる謡曲の如く、薄茶と為りては気の利いた清元とも謂ふべきか云々」

 鈍翁は茶道に於ける千軍万馬往来の老将なので、その品評も急所にあたり、主催者が心の底からうなずくことができるものである。
 思うに、小倉色紙は、もともと百枚あったものだろうが、寛政年間(
1789
1801)の松平不昧の調査では現存が二十八枚とされ、その中で、茶事に使用することができるのは「八重葎」、「ほととぎす」、「いにしへの」、「誰をかも」の四枚のほかは、今回の「高砂の」の一枚を合わせて、わずかに五枚を数えるに過ぎない。であるから、古宗匠がこれを使用するにあたって一世一代の工夫を凝らしたことが美談となって後世に伝えられているものもある。 

 利休が某家の茶客になったとき、その露地に落葉が掃き残してあったのを見て、さては、当家で秘蔵されているという「八重葎」の色紙が掛けられているに違いない、と予言したという逸話も残っている。
 また、ある大家は、暁の茶会を催し、「ほととぎす」の色紙を掛け、室内に灯火をともさず、四更(注・しこう。午前4時ごろまでの早朝)の月光が、突き上げ窓(注・茶室に設けられた天窓)から差し込んで、掛物の上を照らし始めると、「ただ有明の月ぞのこれる」の文字が、ありありと読めるようにしてあったということもあった。
 しかし私の色紙披露会は、前述のように平々凡々で、なんら茶興をそそるほどの趣向もなかったが、来客の方からは、さまざまの論評を寄せていただいた。ある人が、一木庵は奈良興福寺殿堂の古材を柱としているから小倉色紙とは調和しないだろうと言ったのに対し、故団狸庵翁(注・団琢磨)が、小倉色紙は仮名でこそあるが、その文字が大きく、一種独特な墨蹟であると言えるものであるから、古材の太柱席と調和しないはずはないだろうと言われたなどは、確かに傾聴すべき一説であると思う。この披露会も、おかげでお茶を濁すことができたのは、まったく茶友の厚情のおかげで、そのことに深謝せねばなるまい。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百六十四  益田紅艶冥土入り(下巻422頁)

 東都名物男の随一であった益田紅艶英作氏は、持病の糖尿、腎臓病に二回の脳溢血を併発し、大正十(1921)年二月二日、享年五十七歳をもって悠然と冥土に出立した。
 氏は、故益田鳳翁の末子(原文「季子」)で、伯兄(注・長兄)に孝男爵、仲兄(注・次兄)に故克徳を持ち、兄弟三人それぞれの特長をもって当世に栄達したが、中でも氏は飄逸な天才肌で、社会の各方面で数々の奇談逸事を残した。
 この名物男についてはすでに何度も記述したことがある(注・
80・千葉勝と紅艶181・脱線党の一人者などを参照のこと)が、今回は永別に臨み、ここに二、三の興味ある行実を叙述してみることにしたい。

 紅艶は慶応元(1865)年生まれで、明治十一(1878)年十五歳の時、遊学(原文「見学」)のためにまずフランスに行き、ついでイギリスに渡り、アメリカにはもっとも長く在留したので英語に堪能であることは言うまでもなく、英文の手紙を書かせては邦人中、彼の右に出る者はほとんどなかったという。
 その後彼は三井物産会社に入り、英、米、シナの各支店に転勤したが、本来が剽軽な性質なものだから、他からの束縛を受けて規則正しく勤務することが好きになれず、三十歳ごろからはやくも気随気ままな生活に入った。
 明治二十六(1893)年、彼がはじめて日本橋区浜町に構えた小宅で初陣茶会を催したときには洋行帰りのほやほやで、一半の西洋趣味を加え、来客を香水風呂に入れ、床には芭蕉の、

    無惨やな兜の下のきりぎりす

という句入文を掛け、余興には河東節の邯鄲の一曲を出すなど、彼がのちのち一流を開くことになる趣向茶の処女的なひらめき見せたのである。これは、彼の茶道における魔法使いの始まりであった。

 紅艶は美術鑑賞において一隻眼を有した。ふだんの金遣いは、いわゆる握り家(注・けち)の方だったが、美術的名品に対しては驚くほどに大胆不敵で、思い切った奮発を辞さないところがあった。
 その所蔵品には新古さまざまなものがあり、中には観音だの阿弥陀だのといった古仏の手足の断片などもまざっていたが、彼の説によると、世界中で手足がいちばん自然に発達しているのは日本人だということで、その日本人において、生まれてからまだ何らの圧迫を受けていない子供の手足はもっとも自然美に近いものである。すなわち、古仏像の足の部分などは、それを手本に作ったものなので、土踏まずのない、むっくりした柔らかい子供の足に近い美形を保っているとのことである。その断片によって四肢顔面を想像すれば、仏像全体の美観がおのずから眼前に現れてくるので、真に古仏像を愛玩しようとする者ならば、手足の断片だけを見てもその美想を満足することができるのだという。この一事からしても、彼一流の見識を知るに足るのである。

 紅艶の逸事は、茶事、美術鑑賞のほか、音曲舞踏方面で一番多いようである。
 彼は、図体が大きな割には、声が細くて甲高く、その節回しのあどけなさがまるで子供のようで、しかも独りよがりの大天狗なので、さまざま奇談を残すことになった。
 彼の音曲の皮切りになったのは河東節で、十一代目山彦秀翁(注・十一代目十寸見【ますみ】河東)に弟子入りをした。例の「夜の編み笠」で、白鷺の一節を得意とし、かねがね長兄の鈍翁に自慢していた。
 さて鈍翁がある日、汽車の中で秀翁に出会ったとき、ついでに、紅艶の河東節はどうですかときいてみると、もともとお世辞っ気のない秀翁は、「英作さんの調子外れときては、いやはや、まことに困りものでげす」とやっつけたので、これを伝え聞いた紅艶は、半時ばかり呆然としたのち、その日のうちに河東節をやめてしまった。
 今度は転じて長唄の門にはいり、吉住小米についておおいに勉強しつつ、例の工夫沢山で、「有喜大尽」の大石(注・大石内蔵助)を、成田屋張りで語るという調子で、いたるところで喝采を受けたのを真に受けていた。ところがある時、小米の稽古場で、師匠が自分の噂をしているのを立ち聞きしてみると、「紅艶さんときたら、いつまでたってもアノ通りで、先の見込みがありませんよ」という始末で、紅艶おおいに悟るところあり、この時から河岸を振り事(注・歌舞伎舞踊)の方面に変え、さらにより多く珍談を残すことになったのである。その顛末については、長くなるので他日に譲ることにしよう。
 紅艶は、その死後、築地本願寺境内に葬られ、円融院釈霊水居士という法名をつけられた。霊水とは、無論、彼の目黒の茶室である霊水庵からきた名称だが、円融とは、本願寺の和尚が勝手につけた法名で、この二字はもっともよく故人の性格をあらわしているだけでなく、あのステテコ踊りで有名だった故三遊亭円遊とその音便が似ているので、ある友人は

    ステテコを地獄で踊れ円融院

と口ずさんだそうだ。紅艶が冥土でこれを聞いたなら、「敵ながらあっぱれでげす」とうなずくことだろう。
 朝吹柴庵という大名物を失って間もなく、この大道具があの世に落札されてしまっては、東都の雅俗両社会は、ともに大いなる寂莫を感じないわけにはいかない。
 この種の人物は、花は咲いても実は結ばぬというのが常なのに、紅艶はまったくこれに反し、生前にはあらん限りの気随気ままを尽くしながら、死後に大資産を残しているから、これこそまさに雅俗両諦に通じた完全な処世と言ってもよさそうだ。
 史記に、滑稽列伝貨殖列伝というのがあるが、大正時代の太史公(注・司馬遷)なら彼をどの列伝中に収めるであろうか。とにかく彼は、明治後期から大正時代にわたって、一種出色の名物男と称するべき者であろう。
 


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百六十三  玉菊三味線供養(下巻419頁)

 大正十(1921)年七月十日ごろのこと、小泉三申、馬越化生の二老連名の招待状が机上に舞い込んできた。また結婚披露かなと思って開いてみると、珍しいことに古三味線供養と題する次のような案内状であった。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)

 「享保の遊女玉菊が持ちし古三味線一挺、伝えて老友知十子(注・
岡野知十)の許にあり、玉菊が河東節を好みしより、その追善に水調子(注・河東節の楽曲名)一曲あり、今なお伝えられる。『灯籠に亡き玉菊の来る夜かな』盆後十七日を卜し(注・ぼくし=よいと判断し)この古曲をもって、この古三味線の供養を営み、しばらく現代をのがれ、二百余年の昔の夢の世に遊びたく、御来聴被下候わば、施主の本懐不過之候敬白。」


 この案内の末尾に、会席は七月十七日夕六時、赤坂三河家に設けしめ候と書き添えてあった。
 馬越恭平翁は、それまで花柳国における千軍万馬往来の古武者なので怪しむ理由もなかったが、最近は政治界において、当代の蘇秦、張儀(注・ともに中国戦国時代の政治家)と目されつつある三申老が、通人粋士のお株を奪ってこのような会合の主人になったというのは非常に面白い出来事であるといえた。
 そこで、なにはさておき示された時刻に三河家に出かけてみると、大岡硯海(注・大岡育造)、望月圭介、大倉喜七郎、高田釜吉、山本条太郎の諸君と、岡野知十、中内蝶二、久保田米斎、西山吟平などという文芸連が顔を揃えており、取り持ち、兼、感服役として、吉原の元老であるお塩、お〆、あるいは瓢家、蜂龍、弥生の三老女将が居並んでいるその様は、十六羅漢と和尚塚の婆さんが一座に会合したような光景だった。

 そのなかに、両手に剣と縄を持った不動尊のような岡警視総監(注・岡喜七郎警視総監次席か)が泰然として着座しているのが、すこぶる異様な観を呈していたものだから、私は小声で、
    灯籠に総監殿の来る世かな
と、隣りの客に耳打ちしながら一笑したものだ。 

 この晩の趣向を見てみよう。寄付では、岡野知十著「玉菊と其三味線」と題された小冊子と、享保十一(1726)年に、玉菊追善のために竹島竹婦人が作った水調子という一曲の刷り物が配られた。本館二階広間では、正面床に古画の阿弥陀三尊来迎仏を掛け、時代根来(注・漆塗り)机に、知十翁所持の、玉菊遺愛の三味線を横たえて、そのかたわらに古銅水瓶形花入に、百合、桔梗、撫子などの草花を満々と活けてあった。右床脇の唐物箔絵卓上には、古青磁、竹の節香炉と、時代青貝香合とを置き合わせ、左床脇には、玉菊三味線の外箱やら、その三回忌に発行された「袖草紙」という追善句集、そして安政三(1856)年に宇野千万年が富本組太夫のもとめに応じて書き下ろした「其俤(注・おもかげ)伝染(うつ)る玉菊」と題する古版本を陳列してあった。この飾り付け品の大部分は三申翁の出品であったという。

 この晩、高田釜吉君は玉菊の霊に手向けるために、後の白河という伽羅の名香を持参されたが、その心入れには会主もおおいに感服し、すぐさま例の竹の節香合炉に薫じられた。
 玉菊は臨終の三日前、伽羅が欲しいといって、わざわざ知人のもとに使いを出したということだから、これは今日の会合にとって何より結構な供養となるだろう。
 さて顧みて席上を見回すと、座敷の中央天井から、せいろ形白張大灯籠を釣り下げて、その周囲に小形の切子形灯籠を十数個吊るし中に電灯をともし、河東節の紋と蓮の透かし模様をつけた白紙を、尾のように長く垂らしてあった。この紙片が風鈴につるした短冊のようにひらひらと夕風に吹きなびくところは、万斛の(注・ばんこくの=はかりきれないほど多量の)新凉、忽地(注・こっち=急に)に生ず、といった趣があった。
 本場の吉原では、年中行事の玉菊灯籠がすでにその跡を絶った今日このごろなので、赤坂方面にこの灯籠がぶら下がったのを見て、地下の玉菊もさぞかし戸惑っているのではないかと思われた。
 さて一同が座につくと、この座敷の入り口の両側に吉原仲之町の文字入りの長提灯を置き、吉原で享保のころから今日まで繁昌している竹村伊勢という巻煎餅屋の菓子箱を積み重ね、その中から昔ながらの煎餅包みを取り出して一同の前に配ったので、いよいよ一座に吉原気分がみなぎることになったのは、すこぶる振るった趣向であった。
 さて玉菊三味線供養の余興には、最初、赤坂の歌妓である澄江、小鈴の唄、三助三味線の水調子、つづいて当代河東節の家元、山彦秀次郎(注・このころにはすでに山彦秀翁)の唄、小鈴と澄江の三味線で廓八景が出てきた。昔からこの水調子を演じるときは、玉菊の幽霊が出てくるという伝説があるそうだ。
 元来玉菊は酒好きで、きわめて明るいさっぱりした気性の女で、しかもよく河東節を語ったので、その時代の粋士の人気を集めたようで、抱一上人(注・酒井抱一)が「鰹にて一つ飲むべし玉菊忌」と詠じたのは、まったく彼女のすべてを言い表したものであろう。
 最近では、世間があまりにも硬化して、会合というと、諸君よ、諸君よ、という者が多いなか、化生、三申の両翁が江戸趣味たっぷりのこの会を催されたことは、私たちにとってまことに万斛の清涼剤に値する心地がしたのものである。そこで、この夜の所見の大要をすっぱ抜いて、後日の語り草に供する次第である。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百六十二  名笛大獅子(下巻416頁)

 私は大正九(1920)年十二月、梅若舞台で井筒の能を勤めた。この能は、九番習い物(注・修得のために特別な伝授が必要なもの)で、きわめて静かな序の舞がある。
 舞はもちろん笛で舞うものであるから、笛方が上手でないと区切れ目がはっきりしなくて、足拍子が非常に踏みにくくなってしまう。私はいつも笛を杉山立枝翁に依頼しており、今回もまた翁にやっていただいた。翁は元福岡藩士で、千石を領した大身なので、旧藩時代には、あるところで隊長となって金子堅太郎なども配下について調練を行ったことがあったそうだ。
 能管(注・能楽などに用いられる横笛)については、もちろん余技として習われたわけだが、体格が頑丈で、息が非常に長く強い人だったので、黒田家の名笛である大獅子を吹きこなすほどの力量があった。明治後半から昭和六(1931)年にいたるまで、東都の能舞台において、翁と肩を並べられる笛師はきわめて少なかっただろうと思う。
 さて翁は十二月三日に拙宅にみえ、例の大獅子で序の舞一段を吹奏し、初段卸しの左右二つ拍子などについてそれぞれ打合せが済んだあと、一場の芸談をされたのである。その大要を述べてみよう。(注・旧字を新字になおした)
「私は福岡藩の士族で、明治二十九(1896)年上京するや、黒田家先代長知侯が、能の太鼓に堪能なので、時々お相手をしましたが、長知侯薨去後、飯田巽氏等の発起で、その追悼能を催したとき、かつて中村三右衛門といえる笛師が持っていた天下の名笛大獅子が黒田家にあることを知り、これを拝借して、古市公威、三井元之助連獅子の、石橋(注・しゃっきょう)を勤めようと思いました。この中村という者の子は三四郎と申し、父にも劣らぬ名人でありましたが、不良性を帯びた人物とみえ、あるとき炬燵にあたりながら、大獅子を吹いていたのを、父が見とがめて小言を言ったところが、彼は怒ってその笛を柱に投げつけて、歌口を二つに打ち折ってしまいました。
 しかるに、その後、折れたところが継ぎ合わされ、黒田家の御所蔵となっていたので、私は今度追善能を勤むるに、これを拝借せんとしましたが、いずれにしまいこんだやら、いかに宝蔵内を捜しても、その笛が見当たらぬというので、私は非常に残念がっておりましたが、しあわせのことには、演能間際にいたって笛が宝庫中より発見されたという報告を聞き、長知侯の御霊のお引き合わせかと思いて、それより非常に勇み立ち、その笛で無事に追善能を勤めました後、一時この笛を私が拝借することとなりました。 

 ところが、ほどなくこの笛が、黒田家の世襲財産に編入されたから返上せよという命令がありましたので、私は我が子に別るるよりも悲しき思いで返上しましたが、私はなんとしてもその笛に別れて居ることができず、あるとき金子子爵にお目にかかって、このことを嘆願すると、黒田家の宝庫にしまっておいても、なんの役にも立つまいから、自分が黒田家に談判して、再びその方に貸し渡さるるようにしようとて、いろいろご尽力の結果、またまたこれを拝借することを得て、大よろこびでありましたが、あるとき舞台で、力強くヒシギ(注・高く鋭く強い音)を吹いたところが、最初折れたところより、またまたポッキと折れてしまったので、にわかに人を楽屋につかわして、同業者の笛を借り受け、かろうじてその場は間に合わせましたが、この笛は自分の体格と相応したものとみえ、普通の笛よりも少しく大きく、同業者などにてこれを吹きこなすものはありませぬが、自分としては、他の笛ではとても大獅子のごとき音色を出すことができないのであります。
 名笛というものは不思議なもので、私にはほとんど生命のごとくに思わるるので、平常懐中して肌身離さず、寝るときは枕元に置いて、何か変事があったら、自身が携帯して立ち退くよう、一夜たりともこれを離したことはありませぬ云々」
 杉山翁は、以上のように語り終え、私に大獅子の笛を見せてくれた。その笛は、普通のものより大型で、一見したところ五百年からたったもののように思われた。寂味十分で、歌口のところで二つに折れたところを、漆で継ぎ合わせた痕跡がある。笛の頭の凹部に、後藤祐乗の作だという金彫の獅子が張り付けてあるので、大獅子の銘があるのだろう。
 すばらしい金蒔絵の筒に納めてあったが、杉山翁が私の家の十二畳半の座敷でこれを吹くと、場所が狭いだけに、笛の音は一段と強く、ふすま越しに聞いていた荊妻(注・けいさい=自分の妻をへりくだった言い方)などは、呂(注・りょう)の音(注・低音域)になんとも言われぬ妙味があると、非常に感服していた。
 杉山翁は昭和七(1932)年に永眠したが、大獅子を一代の間拝借しつづけ、生前にその由来書をしたため、死後、黒田家に返納するつもりであると語っていたから、笛は、今では黒田家に返納されたことだろう。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百六十一  高野山霊宝館落慶式(下巻412頁)

 明治四十三(1910)年に発起した高野山霊宝館は、それから十二年をついやして大正十(1921)年五月十五日に、いよいよ落慶式を挙行する運びとなった。そこで最初からこの事業に微力を尽くしてきた私たちは、この日をもってようやく肩の荷をおろすことができたのである。(注・160「高野山霊宝館の発端」を参照のこと)
 そもそもこの霊宝館は、高野鉄道社長の根津嘉一郎氏らが高野繁昌の一策として建設する必要を唱えたものだった。高野山側としても、同山の開山一千百年の記念事業の一部としてその実現をさかんに望み、大師会の発頭人として知られていた益田鈍翁(注・益田孝)や、真言寺と自称して大師崇拝者であった朝吹柴庵(注・朝吹英二)らが発起人に馳せ参じたので、ここにいよいよその計画を立て資金勧募に着手した。
 しかしそれに着手したそのとき、最初からこの事業に熱心だった高野山宝城院住職の佐伯宥純師が突然遷化(注・せんげ=高僧の死去のこと)してしまった。そのためたちまちのうちに大頓挫を生じ、一時は計画を中止しなければならないことになりかけた。しかしこれでは佐伯師の霊に対して申し訳が立たないということで、私と野崎幻庵(注・野崎広太)でその事務所を引き受け、決然として資金募集を始めた。
 その意気に馬越化生翁が共鳴し、それからは三人で、あるときは知己の誰かれを勧誘し、あるときは諸大家道具入札会の札元たちを説いてその冥加金(注・奉納金)を徴収するなど、さまざまな手段を講じて、かろうじて十一万円を募集することができた。しかし物価騰貴のため、当初十三万円であった予算が、ほとんどその倍額に達していたので、発起人中の発起人であった下記の八名が各自、最低七千円、最高一万一千円を分担し、出資総額を十七万円にまとめた。
 一方高野山側では、当初からこの事業の相談役であった文学博士の黒板勝美、荻野仲三郎の両氏が調談の結果、館内の造作備品代金の十万円余りを支弁することになったので、双方の合計の約三十万円で霊宝館第一期計画を完成し、この日めでたくこの落慶式を挙行するにいたったのである。
 霊宝館は、正殿を中心にして左右に両翼を張り、回廊でそれを連接する構造(原文「結構」)である。今回は第一期事業として、正殿すなわち紫雲館と、左翼すなわち放光閣を完成し、右翼は第二期事業として将来の竣工を待つことにしたのである。
 こうして、この日は東京から発起人総代として益田鈍翁、根津青山、馬越化生、野崎幻庵と私の五名のほかに室田義文氏が出席し、九州からは安川敬一郎男爵、京都からは日置藤夫氏などが登山した。

 益田男爵が霊宝館寄進文を読み上げ、金剛峯寺管長の土宜法龍師が受納文を、建築技師長の大江新太郎氏が報告文を、馬越化生翁が祝詞を朗読し、首尾よく落慶式は終わった。
 黒板博士の筆になった霊宝館の寄進文は次の通りであった。

 「寄進し奉る高野山霊宝館一宇の事。
右当山は弘法大師入定の聖跡、三世諸仏集会の浄域なり、上天子より下衆庶に至るまで、一心帰依の懇志を致し、三会得脱の値遇を期す、是を以て蓮峰蘿(=カズラ)窟、徳風吹くこと一千百余年、霊宝秘珍、庫の充ち蔵に溢る、惜い哉、或は祝融の災に罹り、或は蠧魚(=紙魚)の食となり、日に散し月に失ふ者、其数を知らず、而して保存の法未だ立たず、展観の便尚ほ欠く、登山の輩、参詣の衆、多くを以て恨みと為す、是に於て明治庚戌の春、始めて霊宝館造立の発願あり、我等之を隨喜し、奉加四方に勤め、功徳一切に及ぶ、而して十余星霜を経、輪奐(=建築物が広大であること)の美未だ成らざるの間、座主密門大僧正を始め奉り、佐伯権中僧正、朝吹柴庵等、忽ち黄壌(=死後の世界)の長別を告げ、前後恨み極まりなき者なり、切に浮世の夢の如きを感じ、弥よ(=いよいよ)事業の遂げ難きを歎じ、更に多少の志を集め、纔(=わずか)に土木の功を終り、殿紫雲と称し、閣放光と呼ぶ、乃ち虔んで大師の宝前に寄進し奉り、聊か以て小願を果す、庶幾(=こいねがわ)くは、遍照金剛の威光弥よ輝き、普賢行願の梵風益加り、又願くは此微善に依り、故座主以下、聖霊出離生死頓生仏果、同心緇素(注・しそ=出家者と在家者)現当安楽、願望円満、乃至法界平等利益、敬白(原漢文)
 大正十五円五月十五日

      高野山霊宝館建設発起人総代
     益田孝     根津嘉一郎
     馬越恭平    村井吉兵衛   
     原富太郎    朝吹常吉

     野崎広太    高橋義雄

 霊宝館の右翼はまだ出来上がっておらず完全に竣工してはいなかったが、正館と左翼ができあがったので、什宝保存のため、また一般の人々(原文「衆庶」)観覧のために、今後幾久しく無限の功徳と便宜を生じることになるだろう。
 山間僻地の寺院に関する事業というものは、都会での同様の事業のようには華々しく目立つようなことはないが、概して永続的なものになりやすく、少しずつであっても後世に恵沢を及ぼすものが多い。たとえば鎌倉幕府の事業は、なにひとつ見る影もなく荒廃してしまったが、尼将軍政子(注・北条政子)が高野山に寄進した多宝塔は、厳然として今もその雄姿を留めているではないか。
 霊宝館建設の議が起こってから十二年、私たちは、時には托鉢坊主のようになって、勧化(注・寄付集め)に憂き身をやつしたこともあったが、今や本館が落成しその功徳が今後長く継続するのだと思えば、いささか骨折り甲斐があったものだと衷心(注・心の底から。原文「中心」)満足している次第である。

【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針


二百六十  武井守正男懐旧談(下巻408頁)


 武井守正男爵は旧姫路酒井家の家臣で、維新前に勤王論を唱え、反対党のために迫害されて六年間入牢の身となり、非常な困難をしのいで維新の際にはじめて天日を見ることを得たのである。
 私が大正九(1910)年十月下旬に、本郷湯島の武井邸で男爵と四方山(注・よもやま)話の雑談中に、男爵は八十一歳の老齢にもかかわらず、かくしゃくとして、壮健な者をもしのぐように滔々と自身のことや姫路藩に関する懐旧談を物語られた。後人の参考になるべきものも少なくないので、ここに大要を述べよう。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)
 「自分は、維新前、姫路藩で勤王論を唱えたがため、執政より重譴(注・重いけん責)をこうむり、とうとう牢舎を申し付けられたが、その牢というのは、大阪にあった三重牢の模本によって建てられたもので、最後の一重は切り石を積み上げ、その石をはさんで栗の角材を組み合わせたものだから、その中は、ほとんど暗夜のように暗く、しかも三畳敷きに便所その他の設けがあるので、その長さ五尺(注・約150センチ)に足らず、平常精一杯に足を伸ばすあたわざるこの牢内に、仲間が三人同舎するので、背中を抱き合って臥するのほかなく、寝返りをなすときは、三人協議して、同じ方向に身体を転換する始末である。
 食事はひき割り(注・ひきわり麦の飯か?)の上に、たくあんの切れ端などを細く刻んで振りかけたくらいで、粗食きわまったものであるが、その粗食ならざれば、六年間もこの牢内に生存することはできぬのである。
 しかし自分等は、孟子のいわゆる浩然の気が満身に充溢して、文天祥(注・宋末の政治家。征服者の元からの出仕勧誘に従わず処刑される)気取りで、意気揚々としていたので、壮年の時でもあり、まったく気をもって生命を取りとめたものである。
 しかるにかかる悲惨事に遭遇した自分が、兄弟等のあとまで生き残って今年八十一歳の長寿を保っているのは、考えてみれば実に不思議なものではある。
 自分は性来、道具(注・骨董品)が好きなので、姫路酒井家が、いかにしてかがごとく多数の道具を集められたかにつき、しばしば古老の説をきいたが、同家は文化文政時代、かの抱一上人の令兄に、宗雅(注・そうが=忠以ただざね)公という君公あり、松平不昧公などの茶友で名器を愛好せられたためでもあるが、その実は、当時の一家老であった河合隼之介が、一見識をもって名器買収の藩是を立てたがためである。

 彼は学者政治家肌で、姫路藩執政らと意見を異にし、しばらく京都に潜匿していたが、君公が彼を呼び返して一家老となるに及んで、財政上に大手腕を振るい、種々の物産を興して、いまだ数年ならざるに酒井を富裕の大名となした。
 ところで彼は、一策を献じ、いたずらに金銀を後代にのこせば、馬鹿者が出で来たりて、これを浪費するのおそれあり、ためにかえって酒井家の安泰を害するべければ、この金をもって、ことごとく名器を買い置くにしかずとて、ここの名器買収の方針を定め、酒井家においては世間相場の倍額をもって、さかんに名器を買い入るるべしと触れまわったので、現今内務省になって居る、かの酒井家の通用門は、毎日道具屋の市をなし、当時の風説に、雲州家(注・出雲松平家)は金を吝(注・おし)むがため道具屋の方に人気なく、第一流の品物は金放れよき酒井家の方に集まったという。
 かくて、当時もし月並み的に藩庫に金銀を保蔵しておいたならば、とうてい永続するあたわず、元も子もなくなってあろうに、幸い名器を買っておいたので、今なお酒井家の宝庫に残って居るのは、まったく河合の卓識と言わずばなるまい。
 河合については、さまざまの事蹟が残っているその中で、彼は姫路の城下をへだたる一里ばかりなる仁寿山に学校を設け、そのかたわらに水楼と号する文人風の瀟洒なる住居を構造し、なお少しく離れて、風景絶佳なる高所に、六一亭といえる遊覧所をも備え、すべてこれを貴賓接待用に供されたが、この六一亭というのは、一望中に十一箇国を見渡すことができるので、日本六十六州の六分の一を眺望しうるという意味で、かく名づけたのである。
 また水楼には、河合と最も懇親であった頼山陽が長時日寄宿していて、姫路藩書生のために縷々(注・るる)講義をなしたこともあるので、同楼中には頼山陽の間と名づくる一室がある。
 また河合の自宅には竹楼という書斎があって、一切竹をもって構造したものだが、その記文は山陽遺稿に載せられてある。
 河合は右のごとく、学問好きの苦労人であったから、江戸においてもすこぶる高名で、水野出羽守の土方縫殿介ぬいのすけ、二本松丹羽家の丹羽粂之介と、あわせて、天下の三介と呼ばれたということである云々」

 武井男爵は書画骨董を好み、ことに印籠収蔵家として名高かった。酒井家から拝領品中には名品も少なくなく、中でも、銘「夏山」という伊羅保片身替茶碗は、茶人間には非常によく知られている。
 とにかく、維新の前後の国難にあたって鍛錬した気魄は老年にいたるまで衰えず、なんとなくドッシリとして、古武士の風格を備えた人物であった。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百五十九  大口御歌所寄人(下巻404頁)

 明治時代から大正時代にかけて、わが国に和歌界の重鎮であった御歌所寄人の大口鯛二氏が、大正九(1910)年八月中旬に、信州山田温泉風景館に避暑中に脳溢血にかかり長野病院に入院し、十月十三日に病勢が急変して享年五十七歳で溘焉(注・こうえん=死が急であること)白玉楼中の人となった(注・文人が死ぬこと)ことは、惜しんでも惜しみきれないものがある。
 氏は名古屋出身で、通称、鯛二の鯛の字を分けて、周魚といい、また旅師、あるいは多比之と称した。また、住居は白檮舎しらかしのやと号した。
 はじめ伊東祐命翁に学び、のちに御歌所にはいり高崎正風翁に親炙した。和歌に堪能で、勅題の「寄山祝」の一首は、当時、入選の光栄にあずかった。
 和歌に堪能な者は、概して歌学にくわしくないものであるが、氏は博覧強記で、歌学の知識がきわめて広汎なうえに、詠歌もまたうまかった。
 さらにその他にも、書道は嶄然として(注・ひときわ目立って)一家をなしていた。ふだんは、行成(注・藤原行成)風の書体を好まれたが、その源流を同じくすることから、近衛予楽院(注・このえよらくいん=近衛家煕いえひろ)の筆跡を愛重した。その書翰(注・書簡)などは、往々にして、本物に迫るほどで、このように書道に堪能であるために、平からあまねく古筆物の研究をして、その鑑識眼は並々ならず(原文「凡を超え」)、歌人として、才、学、識の三長をほとんど兼ね備えていた点、近来稀にみる大家であった。
 氏は名古屋出身であるがため、さまざまな風流趣味を解し、みずから茶会を催したことはないようだが、茶客になると巧妙な辞令で書画器具を品評したもの
だった。その会の趣向を観察しては、それに対する臨機の挨拶をするその客ぶりの殊勝であるところなどは、ほとんど専門家をしのぐものがあった。

 氏はまた、すこぶる勉強家で孜々(注・しし=熱心に、せっせと)として後進を誘掖(注・ゆうえき=導き助ける)したので、全国にわたって和歌の門弟が非常に多く、「ちくさの花」という雑誌を通じて、間接直接に、天下の歌学者を薫陶したその数は、幾万人になるか知れない。
 近年、御歌所を辞して門下の教導に専念しようとしたとき、明治天皇の御歌集編纂委員を命じられ、その編纂が終わるというときに、今度は昭憲皇太后御歌集編纂委員に取り掛かることになった。それでその前に、来年が十回忌に当たる高崎正風男爵の歌集の手写をして、それを今年中に完成しようとして、七月ごろから習字を始め、山田温泉で心静かに歌集の手書きに着手しようとして同地に滞在中に脳溢血にかかり、ついに易簀(注・えきさく=学徳ある人が死ぬこと)するに至ったのである。
 大口氏は、行成流の書道に深く通じ、好んで古筆物を研究していたため、京都西本願寺において、あの有名な三十六人家集(原文「歌集」)を発見した大功績を持つ。
 明治二十九(1896)年八月、大口氏は西本願寺法主、大谷光尊伯爵の依頼を受け、同寺の古文書類の整理のため、約一週間を費やして、くまなく宝庫を捜索したのであるが、古筆物としては、わずかに藍紙万葉の一片を発見しただけだったので、失望のあまり、まだ何かほかに見つけようと根気よく探索している最中に、古ぼけた小箱の中から、思いがけなく天下の名宝、三十六人家集が光明赫燿(注・かくやく=光り輝いて)として出現したので、大口氏は夢ではないかと驚き、早速、光尊伯に見せ、この名宝の発見を祝したのである。そして許可を得てその一部を東京に持ち帰り、同行者を自宅に集めこれを展示せられたが、私はこのときはじめてその古筆帖を一覧したのであった。
 その三十六人家集が、いかにして本願寺に伝来したかを取り調べたところ、これは後奈良天皇御即位のとき、当時の王室は式微の極み(注・非常に衰えていること)で、その費用を用立てることができなかったため、本願寺が見るに見兼ねて、献金を申し出たので、その御会釈(注・天皇のあいさつ)として、当時の門主である証如上人に天皇から下賜されたものである。
 女房奉書ならびに付属の目録があり、さらに証如上人の日記、天文十八(1549)年正月の条にこの歌集拝領の文言があり、古筆物として天下第一と称せられたにもかかわらず、久しく本願寺の倉庫中に埋没して誰もこれに気づかずに、大口氏が発見しなかったならばどうなっていたのかもわからなかったのであるから、この歌集が存在する限り、大口氏の発見の功績は決して没却してはならないのである。
 大口氏は能書であるうえに筆まめで、私などが作歌の添削を頼むと、長文の手紙で諄々としてお返事くださるということを常とした。また詠歌は多作なほうだったので、その一代の和歌は、おそらく幾万首かに達していたであろう。
 その歌風は人物、気質ともに、温雅流暢であった。その一例を挙げる。

      春朝
    窓の戸をあけはなちても寒からぬ あしたとおもへば鶯のなく
      春雨
    庭見れば松のかげまでぬれたれど いまだ音せぬ春の雨かな
      松間の月
    山松のかけふむみちのつづらをり をりをり月にそむきけるかな
      魚
    いくそたびおしながされて山川の はやせを魚ののぼりゆくらむ

 大口氏は、詠歌と書道に堪能であったほかに、歌学の講義もまた決して人後に落ちず、大正初年に私の一番町邸で源氏講義を開かれたときには、山県老公、同人らも参聴され、永眠の際には、公爵も非常にその歌才能を痛惜された。氏が比較的短命で逝去されたことは、歌道のために、まことに惜しむべきことであった。

【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百五十八  鴻池家名器(下巻401頁)

 私は大正元(1912)年に大正名器鑑の編集を思い立ってから、その下準備には数年間を要したが、その後いよいよ目算も立ったので大正六(1917)年から実物の検覧や撮影などに着手し、日本全国いたるところの諸名家を歴訪した。
 大阪の鴻池善右衛門家は、二百年来の自家の道具を他人に見せたことがなく、ことに、維新後には、お出入り道具商といえども、ほとんどこれを見た者がないという噂を耳にしていた。だから、今回これを拝見しようとするなら、頭を使った臨機応変な調整(原文「大いに手加減」)が必要だろうと、百方考慮の末に、鴻池家の大番頭であった蘆田順三郎氏に頼み、まず大正名器鑑の目的を説明してもらうことにし、もしも鴻池家の名器を収録することができないようなことがあると、名器鑑の編纂そのものが、ほとんど無意味になってしまうので、本事業のために、是非とも男爵の援助を乞いたい旨を申し出た。
 すると善右衛門男爵は乗り気になり、「さらば、これが名器の国勢調査であるな」と戯れ(注・ざれ)つつ、快く承諾された。そこで大正九(1910)年五月四日午前九時から、大阪市瓦屋橋鴻池別荘において同家の名器を拝見する段取りとなり、私は、名器鑑編集員および写真班一行の四人を帯同して同別荘に出かけた。
 男爵はいたって綿密な人で、前日にはみずから出向いて展観する名器はもちろんのこと、接待方面にまで万端の指揮をされていた。当日の接待は蘆田氏に命じ、内事係の草間繁三と、お出入り茶器商の砂元吉老を接伴役にして、私たちをまず唐子の間に案内された。
 この唐子の間というのは、六畳敷きの広間で、これに続いて四畳に三尺四方床付(注・一尺は約30センチ)の茶室がある。その間のふすまの腰張りが、足利末期の名家によって描かれた極彩色唐子遊びの図なので、当家ではこのように呼んでいるのだそうだ。(注・唐子とは、唐風の服装と髪型のこども)
 さて案内にしたがい、この四畳茶席にはいり、その三尺四方床を見ると、珍しいことに寸松庵色紙がかかっていた。
 その歌は、

   色も香もおなじ昔にさくらめと 年ふる人そあらたまりける

というもので、私は今日はじめて当家にこの色紙があることを発見した。
 そして、その下に置かれた花入は、高さ尺二寸ほど(注・約36センチ)、底の方がやや張っており、轆轤(注・ろくろ)のあとがキリキリとねじ上がり口縁のあたりにまで達している。その口縁の一端から一端まで、反橋(注・そりはし=太鼓橋)のような取っ手がついているという極めて珍しい(原文「異常なる」)伊賀焼である。そこに、純白の大山蓮花(注・オオヤマレンゲ)を活け、根〆(注・生け花で挿した花や枝の根本を整える花材)に、都忘れという紫色の花を添えてある。その風情は、なんとも筆舌に尽くしがたいものであった。
 こうして、御道具拝見の前に、炭手前から始まり、正式の懐石ならびに濃茶の御馳走があり、そのあとにいよいよ展観席に入り名物の拝見となった。

 その日拝見したものは三十点を数えたので、そのひとつひとつについて今述べることができない。よって、その中で、もっとも高名な古田高麗茶碗に関する挿話だけを紹介することにしよう。

 鴻池家所蔵の古田高麗茶碗は、昔から最も有名なものであるが、この茶碗が当家に伝来した逸話についてきくことになった。
 それは、天明年間(注・1782-1788年)のことで、この茶碗を買い入れた主人は、当男爵の曽祖父で、炉雪と号した数寄者であった。そのころ大阪の加島屋(原文「鹿島屋」)広岡家に、紅葉呉須と称する茶碗昭和三年、広岡家蔵器入札売却の節、十八万九千九百円で落札、維新後に売買された茶碗の最高額であるがあって、関西第一という評判であったが、炉雪翁はあるとき、お出入り道具商の加賀屋作左衛門に、「方今(注・ほうこん=現在)、世間に、広岡の紅葉呉須に勝る茶碗があるか」と問うたところ、加賀作は一議に及ばず(注・議論するまでもなく)「古田織部所持の古田高麗茶碗は、只今江戸吉原、扇屋宇右衛門が所持しておりますが、かの茶碗ならば、たしかに紅葉呉須に勝っております」と答えたので、炉雪翁の喜びは並ではなく、「さらば、代価にかかわらず、その茶碗を買い取り来たれ」と、加賀作に申し付けた。
 さてその茶碗は、天明のころ、古筆了泉の所蔵だったが、了泉が廓通いの金に窮して、当時、吉原の見番、大黒屋に質入れし、ほどなく扇屋宇右衛門の手に渡ったのである。
 加賀作は、上方の物持ち主人のような扮装で扇屋に乗り込み、花扇という傾城(注・おいらん)を揚げ詰めにして、一か月ほど流連(注・いつづけ)する間に、持参の茶箱を開いて主人を招き、次第に接近して、ある日、扇屋の田中の茶寮で、古田高麗を実見する機会を得た。
 その時は、あたかも年末で、扇屋に金の入用があったので、折よくだんだんと相談を進め、古田高麗を千二百両、ノンコウ(注・楽家三代目道入)の初雪茶碗を八百両、あわせて二千両で譲り受けるという相談をまとめた。これが決定するやいなや、加賀作は、あらかじめ用意してあった小判二箱を扇屋に運び込み、その二茶碗を受け取るとすぐ、炉雪翁が首を長くして江戸の吉左右(注・きっそう=知らせ)を待ち受けているに違いないと、東海道五十三次を早駕籠で突きぬけ、身請けの茶碗を恋焦がれている炉雪翁の見参に供え、首尾よく、手活けの花(注・身請けして自分のものにした遊女のこと)としたのである。その後、この一部始終を聞き込んだ江戸の金持ち十人衆は、鳶に油揚げをさらわれたような気分になり、おおいに残念がったということだ。
 炉雪翁がこれほどまでに執心したこの茶碗は、白地御所丸手に属し、小堀遠州筆の箱書きに、古田高麗とあり、関西ではこの茶碗の上をいくものがないので、この一点を加えた鴻池家の宝蔵は、このこのときからさらに一段の権威を持つようになったということである。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百五十七   山県公の大西郷評(下巻397頁)

 大正九(1910)年の末、私は小田原の古稀庵に山県含雪公(注・山県有朋)を訪問し長時間の対談を行ったことがあった。そのときたまたま大西郷(注・西郷隆盛)のことに話が及び、公爵は「自分はしばしば大西郷に接触しては居るが、いたって寡言な人物であるから、取り立ててこれという談柄(注・話題)もない。しかし今、自分が直感した一斑を述べてみよう」と言って、次のようなことを語られたので、ここに大略を示してみよう。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)

 「自分と大西郷との初対面は、維新前数年元治元年か上国の形勢を視察するがため、毛利公の内命を受けて、京都に上ったときであった。(注・元治元年は1864年。上国とは都に近い国々。幕末の長州藩主は毛利敬親たかちか)
 このときのことを、自分は葉桜日記という記行文に書き綴っておいたが、西郷とは京都の薩摩邸で会見して、薩長連合、王政復古の意見を交換したのである。
 当時、徳川慶喜公は京都に滞留せられたが、その輔佐に、原市之進とて、なかなか有力な人物がいて、八方に眼を配っていたから、容易に事を挙ぐるを得ず、このうえ京都に滞在しても無益なりと思い、自分は近々帰国せんとして、そのことを西郷に通ずるや、西郷は毛利家に対する会釈として、自分を島津薩摩守(注・島津茂久)に謁見せしめようと言うので、とうとう同君公に謁見することとなったが、これはもちろん儀式上の挨拶だけで、胸襟を開いて意見を陳述するようなわけではなかった。
 そのとき薩摩公は自分に向かって、万事西郷吉之助(注・西郷隆盛)と小松帯刀とに委任してあるから、委細両人と協議を遂げらよと言い渡された。ところで自分は、右両人その他、当時薩摩有力家と時事について種々協議したが、そのとき西郷は、なにごとも、人事を尽くして天命を待つのほかありますまい、と言われたから、自分はさらに、その人事を尽くして成らざる時はいかにせらるる考えなりや、と問うたところが、西郷は、ただ死をもってその道に殉ずるべきのみ、と言い放って、口をつぐまれた。
  察するところ、西郷はよく人言を聞き、またよくこれを採用し、しかも一旦承認した以上は、義を泰山の重きに比して、断じてこの決心を動かさぬという流儀なれば、彼を取り巻く者に智恵分別があれば格別、不幸にして時勢を知らず、機宜を解せざる者に乗せらるれば、あるいはその方針を過(注・あやま)つことなきやと懸念されたが、他年、彼が部下に引きずられて、その終わりを全うするあたわなかったのは、まことに遺憾千万である。
 さて維新後になって、自分が西郷に接触したのは、明治三年、彼が東京を引き払って鹿児島に帰っていたときである。しかして当時の廟議は、彼を起こして陸軍大輔となし、自分を少輔となさんとするにあって、岩倉公より自分にその旨を伝えられたから、自分は非才その任にあらずとて、しきりにこれを辞退したれども、公らの容るるところとならなかったから、さらば、まず西郷に談じて、彼が就職するにおいては自分も微力をいたすこととしようとて、あたかも島津家先君(注・島津斉彬)の祭事に、朝廷より勅使を立てらるる都合であったから、自分は表面上、勅使となって鹿児島に赴き、さて西郷に面会するや、自分は劈頭第一(注・まずはじめ)に、君らは、天子の御輿を、武蔵野原中に担ぎ出したまま、これを置き去りにして、鹿児島に帰って居るということは実に不都合千万ではないかと一本突っ込んだところが、これには西郷もすこぶる参ったようで、結局彼は上京して陸軍方面の重寄(注・ちょうき。重い責任の委託)に当たることとなったのである。
 その前後、自分は彼に面接して、たびたび談話したことがあるが、彼は最も藤田東湖の為人(注・人となり)に感服せしばかりでく、ほとんど心酔というほどの崇拝者で、談東湖に及ぶ時は、彼は容を改めて、必ず先生と呼び、東湖は人に対してきわめて磊落に応答するが、切先三寸をあらわさぬ人であったと評していた。その意味は、胸中に秘略を蔵して、容易におのれの奥底を看破せられざる、底の含蓄ありということであろう。長州人でも吉田松陰をはじめ、その他水戸に遊んで帰ってきた者はおおいにその感化を受けて、藩中の子弟などより見識が一格高くなるように思われたが、薩摩においても、西郷が東湖に対してかがごとく感服していたから、水戸の学風勢力が、当時各藩に影響したところは、すこぶる多大で、王政維新は水戸がその原因をなしたといっても決して過言であるまいと思う。

 西郷は平常、大局を支配する人で、計数に当たったり、もしくは些事に立ち入ったりすることをなさず、いったん決心すれば善悪ともにこれを決行して、その責任をむなしうせず、という風の人物で、その輪郭が非常に大きく、ムックリとして要領を得ざる間に、毅然として動かすべからざる大丈夫の魂を蔵した者というべきであろう云々。」
 以上、山県公爵の大西郷に対する観察談は、もちろんその一端に過ぎないが、今日、大西郷に対する生きた証言を聞くことができるのは、山県、松方、大隈諸公のほかには、もはや幾人もいない。私はあのとき、山県公からこの談片を聞くことができたことを、非常な欣幸だと思っているのである。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百五十六  信実歌仙断巻式(下巻394頁)

 大正七(1918)年一月、松昌洋行の山本唯三郎氏の使者が突然私の家に、佐竹侯爵家旧蔵の信実筆三十六歌仙二巻(注・伝藤原信実筆の、いわゆる「佐竹本三十六歌仙絵巻」)を持参し、今度この二巻を買収するつもりであるが、付属品その他に間違いはなかろうか、貴下の一覧を乞うた上で、いよいよ決定するつもりなので、委細ご意見、この者に伝言していただきたいということであった。
 そこですぐに、これを披見(注・開いて見る)してみた。実物はもちろん、付属品一切、まったく間違いはなかったので、山本氏がこれを買収するのは国宝保存のために結構な考えで、さっそく実行していただきたいと回答しておいた。
 山本氏は、曩に(注・さきに)征虎軍を組織して朝鮮に赴き、帰ってくるや虎肉試食会を催して、朝野の紳士を招待したりするなど、その行動にはすこぶる小気味よい趣味がある。(注・238「虎肉試食会」を参照のこと)
 今回はまた、危うくばらばらに分離されそうになった国宝の三十六歌仙を、一手に買収したことは、まことに当代の船成金たるに背かず、私はその後、書簡の末尾に次の一首を書き添えて同氏に送った。

   風雲意気欲衝天 万里打囲鞭着先 昨日韓山擒虎手 更収三十六歌仙  

   (注・擒=とりこ)

 さて、人事齟齬多く(注・人のやることにはうまくいかないことも多く)、その後、二年もたたないうちに山本氏がだんだんと左前(注・経済的苦境に陥る)になり、にわかに歌仙絵巻を処分しようとしたがひとりでこれを買収する者がいなかった。
 そこで最初のときからの世話人であった服部七兵衛(注・道具商)が委託を受け、同業の土橋嘉兵衛を仲間にひきこんで(原文「語らいて」)、結局、各歌仙を分断して、一枚ずつ抽籤で全国の数寄者に分配するということで評議一決したのである。
 それにつき、是非、行司役を引き受けてほしいといって、私と益田鈍翁、野崎幻庵の三人に依頼があった。今や絵巻をどうすることもできず、かくなる上は数寄者冥利として、むしろ潔くこれを引き受け、歌仙のために安住の嫁入り先を斡旋するしかないということになり、当代の古筆道の権威である田中親美氏をその評議委員長とし、尾州(注・尾張国、現愛知県西部)の森山勘一郎氏をその補助として、大正八(1919)年十二月二十日、品川御殿山(注・益田鈍翁邸)の応挙館において、いよいよ断巻式を挙行することになった。
 この三十六歌仙は、山本氏が三十五万五千円で買収後に約二年間所有していたので、同氏には、この歌仙の中から宗于朝臣(注・源宗于むねゆき)を贈呈することになった。その代わりに住吉明神を一枚加えて、やはり三十六枚になるようにして、原価に二万三千円を足した三十七万八千円を、その三十六枚に割り振ることにした。

 ところで、この分断にあたっては、歌仙の中に人気者と不人気者とがあったり、完全なものと汚損したものとがあったり、住吉明神のように、ただ住吉の景色とその歌だけが描かれたものがあったり、貫之のように、狩野探幽がその詞書を書き添えたものがあったり、あるいは躬恒(注・凡河内躬恒おおしこうちのみつね)のように、歌仙も詞書も共に探幽の補筆がなされているものもあって、それらを評価するのは至難中の至難だった。そこは、田中、森川らが厳密な格付け比較会議を開いて、三十六歌仙を、横綱、三役、幕内、二段目、三段目(注・三段目のほうが格上だが、原文通り)と分類し、四万円を最高額、三千円を最低額にして、その平準価格となる一万円より高いものが九枚となった。それ以下のものは、九千円、八千円と、千円ずつ下げてゆき、三千円を最低額と定めたのである。
 さて、その分断の当日、すなわち十二月二十日は、午前十時が定刻で、抽籤の権利者自身が出席する場合もあれば、代理の人間を差し向ける場合もあった。
 青竹の筒に納めた銅製の香箸のような籤(注・くじ)に各歌仙の名を彫りつけてあるものを、予定した席順に順次降り出していったが、その籤の当たりはずれは、神ではない身にはどうすることもできず、最高額の品を望んでいた者に最低額のものが当たり、坊主は嫌っていた者に、あいにくその坊主が来てしまったりした。歌仙の人柄と、それが当たった人のあいだに面白い対照が見られる場合があったときなどは、拍手喝采してそれを祝するなど、一座の五十名ほどの諸大家が、この日ばかりは子供のようになって、お祭り騒ぎを演じたのであった。
 なかでも、第四番籤の業平(注・在原業平)が馬越恭平氏に当たったときなどは、ご本人はグッと脂下がって(注・やにさがって=いい気分でにたにたする)当代の色男は拙者でげす、と言わんばかりの面持ちをしているところに、一同が急霰(注・きゅうさん=いわかに降るあられ)のような大喝采を浴びせかけたなどは、この日最大の愛嬌であった。
 信実三十六歌仙断巻式は、以上のような次第で行われ、二巻は分かれて三十七幅の掛物となり変わったのである。しかし、このように分断することが余儀なくなってしまってから考えてみると、この巻物は他の絵巻物とは違って、歌仙とその詞書とが一枚一個ずつになっているので、連続している他の絵巻物を切ってしまうのとは、だいぶ趣を異にしているため、あきらめがつかないことがないでもないのである。
 ただ、当日に三好大経師が鋏を手に取って、この巻物を切断するときには、角力の横綱の断髪式に臨むのと同様、なんとなく愛惜の感を抱かずにいられなかったので、私は古歌をもじって次のような狂態一首を物し、当日列席した同行の一笑に供したのである。

    切るはうし切らねば金がまとまらぬ 捨つべきものは鋏なりけり

(注・戦国時代の武将の古歌に「取るも憂し取らぬは物の数ならず捨つべきものは弓矢なりけり」=人の首を取るのはいやだ、かといって取らないと半人前と言われる。ああ弓矢を捨てたいものだ、がある)


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百五十五  犬養木堂翁刀剣談(下巻390頁)

 犬養木堂翁(注・犬養毅)に関する二、三の遺事についてはすでに叙述してきたが、翁の余技のなかでも抜群であった刀剣鑑賞のことにはまだ触れていなかったから、京極正宗を同観したときに翁が洩らされた刀剣談義について、ここに紹介することにしよう。 
 それは大正八(1919)年四月二十七日のことだった。京極高徳子爵は、当時、刀剣鑑定で有名であった松平頼平子爵の勧誘で、京極家伝来の正宗在銘の短刀を、内幸町の華族会館に陳列し、愛刀家の一覧に供せられた。私は松平子爵の案内により、午後一時ごろから同館に推参した。
 その日、日本座敷に飾られていた銘刀は、例の京極正宗のほかには、青江定次(注・正しくは青江貞次か)大脇差と、吉光短刀の二点で、その付箋には次のように書かれていた。

  正宗短刀  長さ七寸五分強(注・約23センチ)
     豊臣秀吉より京極高次拝領
  

  ニツカリ(注・にっかり)青江大脇差  長さ一尺九寸九分(注・約60センチ)
     豊臣秀頼より京極高次拝領
 

  吉光短刀  長さ七寸八分(注・約24センチ)
     徳川家康より京極高次拝領
 

 この三点中、まず正宗短刀を拝見した。多年のうちに、しばしば研磨したためだろうか、その身が細くすり減って、鍔元に少し詰め上げがあり、目貫孔にかけて、温和な字体の正宗の二字がある。短刀の両側には、刃から身全体にわたって、龍(注・みずち=雨龍)が雲に浮かぶような、あるいは白糸が風に乱れるような光線を反射してちらちらと変化する焼刃の乱れがある。一見して非凡の名作と思われたが、そのとき同席の木堂翁は、私や浅田徳則氏などに向かって、ここに、一場の刀剣談をされたのである。その説は次のようなものであった。(旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)

 「拙者は多年多数の刀剣を見たが、今日拝見するがごとき在銘正宗を見たことがない。先年、刀剣鑑定家、今村長賀、別役正義等が、正宗は自ら刀剣を打ちたるにあらず、彼は刀工の総元締めで、多くの職人を支配したるまでなり、その証拠には、正確なる正宗在銘の刀剣がないではないかと主張した。

 そのとき拙者はこれに反対して、正宗は普通の刀工にあらず、関東足利の命を受け、諸国を遍歴して名刀を調べ、また名工を抱えて、これを我が門下に拉致し、さかんに刀剣を作りたる(原文「作りにる」誤植か)ものにて、世に相州十哲と云えるは、すなわち彼の門下中、優秀なる者を称したのである。
 此の時にあたり、正宗在銘の刀剣は、いまだ世に出でなかったかも知らぬが、相州刀中に、一種非凡な作物があるのを、もし正宗でないとすれば、果してなんびとの作であろうか、たとえば、井上侯爵家の秘蔵、包丁正宗のごとき、正宗の銘こそなけれ、その作行きは、かの十哲輩の及ぶところにあらず、これらは正宗が自ら鍛えたもので、かの正宗に自作なしというのは、はなはだ不当の説なりと抗論したことがあったが、今日この短刀を見るに及んで、はじめて前説の正確なるを証明することを得た。
 もしかの議論のあった時、この短刀を発見していたらば、無論、議論などあるべきはずがなかったのに、これが今日まで世に知られなかったのは、必ず相当の理由があろう。けだし徳川時代においては、名刀を秘蔵して、容易に世に発表せざるを常とした。ことに徳川四代将軍家綱時代、明暦の大火で、幕府が所蔵の名刀を焼失せしにより、諸大名より、しきりに名刀を徴発せしことあり、その後八代吉宗将軍時代にも、また同様のことがあったので、京極家にても、かの正宗を極秘したのであろう。そのため正宗に関して、種々の説が行われたのであろうが、今日この短刀が世に知られた以上は、正宗論はもはや確定したるものと言ってもよかろう。
 またニッカリ青江大脇差は、青江定次(注・貞次か)の作である。彼は元暦年中、後鳥羽天皇がさかんに全国の刀鍛冶を招集せられたときの名工で、青江は備前の地名である。この地は砂鉄の流れ出る川筋なれば、備前物の名工は、多くは根拠をここに置いて、さかんに名刀を製作したのである。
 しかして、この青江脇差は、古刀に似合わず、毫も(注・ごうも=少しも)疲れたる痕跡がないので、実に稀有の名刀なのである。またニッカリというのは、ニッコリのことで、ある人がこの刀をもって道行く人を斬ったところが、あまりによく斬れたので、斬られた者もみずから気づかず、顧みてニッコリ笑いたり、という伝説があるので、この名を得たということである。
 しかしてその小身に、羽柴五郎左衛門長とあって、その下の秀の字は見えないが、これは丹羽長秀が、その差料(注・さしりょう=自分がさすための刀)を豊臣家に献じ、豊臣秀頼がさらにこれを、京極高次に与えたのである。
 高次は、関ケ原戦争の節、大津城にあって、非常に重要の地を占めていたので、大阪方も、徳川方も、しきりにこれを味方せんと苦労し、徳川家康が吉光の短刀を高次に与えたのも、このときであった。
 すなわち、今日陳列の三名刀は、京極家と最も歴史的関係のある名品で、中にも正宗在銘の短刀は、刀剣界の疑問を一掃すべき名品なれば、お互いに、近来容易に得べからざる眼福を得たのである云々」

 以上、犬養木堂翁の談話は、その普段の刀剣に対する蘊蓄(注・うんちく)を発揮したものである。よって私は、これを同好の知友に知らせるために、ここにそれを記述した次第である。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百五十四  正倉院拝観新例(下巻386頁)

 奈良の正倉院は世界に無比の奇跡的な一大宝庫である。好古鑑賞家は必ず、まずはこれを拝観しなくてはならないはずなのに、これまで秋季の御虫干しの際に、相当の位階勲などのある者でなければその拝観が許可されていなかった。私なども、しばしば拝観を希望したけれども、大正八(1919)年になるまで、ついにその目的を果たすことはできなかった。
 そこで、私は同年九月、山県老公(注・山県有朋)を小田原の古稀庵に訪問したとき、正倉院拝観を位階勲などを有する者だけに限られることは、帝室の民間美術工芸文学家に対する一視同人の思し召しとは相いれないと述べた。今もし、宮内大臣か帝室博物館総長などの奏請で、長年この道に篤志を持つ者に拝観の機会を与えられることになったら、大正聖代において、もっとも有難い新しい一例となるはずだと述べると、公爵は同感として傾聴せられたのである。
 そして「いかにももっともの次第なれば、なんとか尽力してみましょう」といって、ほどなく宮内大臣(注・波多野敬直)に懇談されたところ、この方面の慣例を改めることは非常に億劫(注・一劫の一億倍。非常に長い時間)なことのようで、宮内大臣は公爵に「御趣意は了承いたしたれども、それぞれ手続きを要すべきにつき、とにかく、来年までお待ちくだされたし」と回答された。
 このとき公爵は、「来年まで自分が生きて居るや否やも分からぬから、善は急げでぜひとも実行せられたし」と希望したところ、廷議(注・朝廷の論議)はにわかに進行して、本年から帝室博物館総長の奏請によって、位階勲がない者でも特別に御倉拝観を許可してもらえることになった。

 最初に約十人ほどが、この特別許可を受けられることになったので、丸腰無冠太夫の私が、いの一番にこの恩典にあずかり(原文「霑(うるお)ひて」、多年の宿望を果たすことができたのである。
 前述した篤志の人々に対しては、早晩、御倉拝観が許可されることになるらしいが、その時機を幾年か早めてくれた山県公爵の尽力に対しては、私ひとりでなく、多数の篤志者もまた感謝せねばなるまい。
 このような次第で、私は十一月十四日に、田中親美氏を同伴して午前十時前、正倉院の事務所に到着し、勅封庫開扉のために当地に出張中の帝室博物館総長、森林太郎(注・森鴎外)氏に面会した。その後、案内され、事務所から数十間(注・一間は約180センチ)ほどはなれた正倉院の正面に進み、眼前に千百余年を経た(原文「閲(けみ)した」、世界無比の宝庫を仰ぎ見た時には、わけもなく(原文「何かは知らず」)ただ、かたじけなさに涙がこぼれるばかりだった。
 そもそもこの正倉院は、天平勝宝八(756)年、光明皇后が、先帝の御遺物を奉納しようと建造された宝庫である。幅六間、奥行き五間一尺の倉庫が二戸、約六間の間隔で南北に相対して建てられたもので、その後、収蔵品の品類が増加したので、この南北二つの倉の間に新たに一倉を増築し、内部ではつながっていないが、三倉を一棟の下に連結したものである。
 床下は漆喰で固められ、その上に直径二尺(注・一尺は約30センチ)、高さ九尺の円柱を立て、そのまた上に約三尺ほどの框縁板を張ってあるので、空気の流通に申し分ないだけでなく、地面から倉庫扉の下端まで約一丈二尺(注・一丈は約3メートル)の高さがあって、簡単に近づくことができない。かつ、普段ははしごを設けず、御虫干し開扉の時だけ東面に回廊を作り、ここに段はしごをかけて昇降用とするのである。

 今、この段はしごを踏み、まず北倉の入り口まで登っていくと、千年余りの風雨にさらされた校倉あぜくらの古色が蒼然として、掬す(注・きくす=味わう)べきなのは倉庫そのものであり、これが、すでに無上の国宝なのである。
 正倉院の宝物は聖武天皇の御遺物を主として、その他、当時の尊貴なる方がたの献納品が収蔵されたものなので、朝廷、もしくは上流社会に関係するものが多数であることはもちろん、その種類は、当時の社会百般の物類をあますところなく含み、美術、工芸、歴史、風俗、宗教、政治、文学の各方面の資料を宝物によって拝覧者に供する。それらが、いろいろな意味において無類の貴重品であるということは、いまさら私の多言を要しない。私は拝観後、正倉院拝観記を新聞紙上に掲載したことがあるので今またここでは繰り返さないが、千余年を経た木造の宝庫が、そのまま今日に現存するということは、万世一系の皇室をいただく、わが国体が尊厳であるためで、非常に小さな(原文「爾たる」)一倉庫であるが、見にきてみれば、有形の国宝とともに精神的な無形の国宝も包蔵するもので、わが歴朝列聖の遺烈余沢が、いかに深く、かつ広いかを如実に現わしている。 
 ことに、当院に収蔵してある薬草、薬品などは、最初は庶民救済のために供せられたもので、わが歴代天皇の、民を憐れみ世を救う聖慮をうかがい知ることができるので、私は日本国民になるべく広くこの宝庫を拝観してもらい、そのありがたさを知ってもらいたいと思っている。だからといって、宝物保存上、開扉期間を長くするわけにもいかないならば、同じ品が多数あるものに限り、それぞれ見本を分類して、別に展観館を設けるなどといった工夫をしてはどうかと希望してやまないものである。
 私は御倉宝物がいかに貴重で、いかにのちの人々に利益になるかということを、ここに細記する余裕がないことが残念だが、私が拝観したときに、聖武天皇の御製に、

   青丹よし奈良の都の黒木もて 造れる宿は居れとあかぬかも

とあったことにちなみ、

   青丹よし奈良の都に千とせ経し 御倉のたから見れどあかぬかも

とたたえて奉った。そのことから、これがいかに豊富偉麗なものであったかということを推察していただければと思う。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百五十三  土橋無声庵の奇骨(下巻382頁)

 大正初年から関西道具商の世界に台頭して、持って生まれた奇骨と飛びぬけた機略でたちまちその名声(原文「声価」)をとどろかせた土橋嘉兵衛は、洛北鷹峯玄琢村の生まれで、十一歳のときから橘屋こと駒井卯八という道具商の丁稚になり、卯八の厳格な指導のもとでその少年時代を過ごした。
 卯八は思慮深い人物で、嘉兵衛の将来を嘱望し、他の奉公人に対しては何事にも寛容を示して簡単には叱責することはなかったのに、嘉兵衛に対しては一歩たりとも仮借しなかった。
 あるとき嘉兵衛少年が、主人の言いつけどおりに得意先への勘定書をしたため、宛名の「服部」を「八鳥」と書きつけた。すると卯八はこの馬鹿者めといって少年の横っ面をいやというほど殴りつけたので、嘉兵衛は一時非常に憤慨したものの、これはみなすべて自分を思うためのことだと気づいて、それからというもの得意先の姓名はもちろん、その住宅の町所まで暗記するにいたったということだ。
 こうして彼の年季が終わり独立して道具展を営むことになるやいなや、卯八は自家の商売の符牒である、
     コヱナクテヒトヲヨブ
というのを嘉兵衛に譲り与えた。「およそ道具商たるものは、我よりすすんで売ることを求めず、客が来たりて自然に買うように心がけねばならぬ、これ我が主となるか、客となるかの境(原文「堺」)にして、道具商の秘訣は、全く此の間に存するのである。即ち我家の符牒の意味は、こちらより声を掛けざるに、人があちらから寄り来たるよう仕向くべしというものなれば、汝もよくよくその意味を会得して、終生これを服膺せざるべからず」と言われたそうだ。土橋の商売風は、ただしくこれを実行しているから、私は彼からその茶室の庵名を乞われたとき、一も二もなく無声庵と名づけ、その扁額に拙筆を揮った(注・ふるった)次第である。
 土橋は、前述したとおり十一歳から橘屋卯八の薫陶を受け、丁稚から仕上げて、例の気性で根気強くその業界で訓練を積んでいたので、大正初年まではまだ頭角をあらわさなかったが、彼がいったん道具商界で活躍するようになるとその出世はきわめて早く、明治末期に東本願寺蔵器入札のとき、すすんでその札元になってから後はとんとん拍子で家業を振興し、大正七(1918)年十一月、京都四条通の円山応挙旧宅跡に堂々たる新道具店、仲選居を営んだ。その盛大な開業披露では、煎茶、抹茶の両方面にわたり多数の名器を陳列し東西の諸大家の来観を乞うたが、時も時、成金時代がまさに絶頂に達しようとしていた時だったので、光悦会に参会かたがた京阪、名古屋、東京、金沢から集まってきた人の数は知れず、文字通り門前市をなしたのである。
 寄付十畳の床には応挙筆の蘆に三羽の鴨の一軸を掛け、その前に染付鯉耳の花入を置き、紅白牡丹を挿し、炉辺の遠州棚には唐津水指を載せ、釜は大西五郎左衛門作で萬歳樂のの文字がついていた。香合は伊賀伽藍で、いつの間に練習したのか、主人は遠州流の手前で、まず炭手前を行い、それから運ばれてきた懐石の道具は一々名品揃いで客の目を驚かせた。
 懐石後には四畳台目席で濃茶の饗応があった。床には小大君の香紙切を掛け、唐物朱盆に唐津の香炉を置き、そのころ主人が某大名から取り出したという二百二十匁(注・825グラム)あまりもある芙蓉の名香を焚いた。
 茶碗は遊撃呉器、茶入れは橋姫手銘一本、茶杓は遠州作歌銘、水指は南蛮編簾など、珍器揃いだった。
 私がこの茶入を見て、もしや橋姫手ではなかろうか、と言うのきいて、主人は水屋から飛び出てきて、これまですでに百数十人の茶客を迎えたが、この茶入を橋姫手だと言い当てた人は、今日が初めてであります、といって、しきりに賞讃を辞を呈するなど、彼の正客に対する外交的茶略には他人の追随を許さぬものがあった。
 この仲選居開きの道具売却高が一日で四、五十万円に達したというのは、いわゆる、声なくして人を呼ぶ、の商略がいかに巧妙であるかを推しはかれるというものだ。しかしながら、これはただ商略だけでできることではない。彼の人となりが、軽快脱俗の中に一種の機略と侠気とを秘め、京洛中の風流茶事には労費を厭わずに参加し、光悦会、松花堂会、洛東会、大徳寺三斎会、栂尾高山寺会、大仏桐蔭会などにおいて、いずれもなくてはならない人物、見なくてはならない顔役になっているがためなのである。
 ひとたびこの人を失ったならば、京都の風雅界は、にわかに落莫(注・ものさびしいさま)の観を呈することになると思われるので、私はこの社会のために彼がその健康を良く保ち、長く活動を続けられることを希望してやまないのである。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百五十二  有栖川宮家御蔵象墜(下巻379頁)

IMG_1448

 大正六(1917)年、私は西園寺陶庵(注・公望)公から、頼山陽が有栖川宮家の執事に宛てた書簡の張り交ぜ巻物二巻を拝借し、山陽と有栖川宮家の間にどのような交渉があったかということを詳しく調べ(原文「つまびらかにし」)、非常な興味を感じたことがあった。
 その節に陶庵公から、有栖川宮家に山陽筆の耶馬渓図巻があったように記憶しているということを伺い、私はいかにしてもそれを拝見したいと思った。
 その後、井上勝之助侯爵夫人末子の方を経て、有栖川宮大妃故威仁親王妃殿下に同巻拝見のことを願い出たところ、はたしてその巻物があるのかどうか家職に面会して詳しく聴き取るのがよいだろうという御回答があった。
 そこで大正七(1918)年五月四日、麹町区三年町の有栖川宮家に伺候し、家職の武田尚氏に面会して、その耶馬渓図巻について質問した。すると、かつてそのような図巻を見受けたことはないが、山陽の筆蹟なら、同人筆の象墜記と、小島山(注・こじまとうざん・象牙彫刻家)作の象墜(注・しょうつい)があります、と言われたので、思いがけず、ここで象墜記と、象墜を拝見することができたのである。これは、蜀を望んで隴以上の大物を得たような感じであった。(注・慣用句は「隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望む」=欲にきりがないことの意であるが、耶馬渓図巻を見ることができなかったことから、わざと逆に使用したものか)
 さて象墜とは、象牙彫りの根付で、厚さが一寸(注・約3センチ)、横幅一寸五分、高さ一寸ほどの象牙に、小島山が、廬生邯鄲の夢の図を彫りつけたものである。彫られた人物は蟻よりも小さく、楼閣が十五、人物八百八十人、象、馬十二頭、その他の鳥獣が無数にいる。その面貌や動作が、それぞれ変化に富んでいることが実に驚くべき技巧だといえる。これを世界的な作品だと呼んだとしても、決してほめすぎではないだろう
 また、この象墜に付属している山陽の記文は、どうやらその初稿であるらしく、山陽遺稿に載せてあるものよりも、一層、詳細なところもある。巻末には小石玄瑞の跋文まで載せてある。
 私は少年のころ山陽遺稿の象墜記を読み、このような技巧が実際に存在するものだろうかと、驚きつつも怪しんだということがあったが、今日、図らずも象墜の実物と記文とを併観し、その疑念を一掃することができたということは、実に一生の中での大眼福というべきものであろう。

 そこで私は、この大眼福を独占するに忍びず、当時、象墜拝観記を書いて新聞紙上に公表した。その後、昭和七(1932)年、日本美術協会第八十九回美術展覧会において、この象墜を高松宮家から拝借して同会場に出陳し、あまねく世間の公衆に展示したので、おそらく好事家は拝観したことと思う。
 例の象墜記は山陽遺稿に掲載されており、よく知られているものなので今ここでは省略し、この象墜の作者である小島山という人について、その略歴を掲げることにしたい。
 小島山は彫刻を専業とした人ではなく、天性器用だったので道楽でやっていたということのようである。
 かの象墜の底面には、文政己未秋、山小島旭という彫名があるが、文政己未は同六年で、山が三十歳のときの作であるそうだ。山陽遺稿には、これを作るとき、年甫めて(注・=始めて)二十、とあるが、これは山陽の誤記ではなくて、多分、版下の誤写であろうということだった。
 とにかく、このような根気のいる仕事は、二十代から三十前後の、いちばん元気な時に限るもので、聞くところによるとイタリアなどでも、彫刻で天下に名をあげるほどの人は、三十歳までに必ず一代の大作を作り上げるということだ。
 小島山については、その子息である晩が作った碑文の中に、次のような一節がある。(注・旧字を新字になおした)

 「先考諱は旭、字は子産、姓は源、小島山を以て行はる、丹後峰山の人、幼にして彫鐫(注・鐫=彫る)に巧なり、師承する所なし、而して製作超凡、細勁緻密、人其妙を賞す、生平京師(注・都)を愛し、遂に家事を弟に付して、往いて僑す、考又嘗て象墜を製し、盧生夢の図(注・「邯鄲の夢」の図)を鐫る、其径方寸、楼閣人馬悉く具はる、山陽先生記文中に詳かなり、又一谷合戦図の墜を製す、亦巧緻を極む、多作せず、但興到れば即ち刀を弄し、或は寝食を忘るるに至る、喜んで硯を製し、毎に西土妙作を見れば、輙ち(注・すなわち)意を極めて、模造殆ど真を乱る、且つ書画古玩器を嗜み、賞鑑頗る精、又琵琶を能くし、暇あれば即ち撫弾して自から娯む、性闊達にして気概あり、交る所皆一時の名流、流注病を得たり、然れども未だ嘗て此を以て意と為さず、後大阪に徒り、客至れば談諧各々歓心を尽す、此の如き者、十四年一日の如く、弘化乙巳七月十六日歿す、享年五十二、城南禅林寺に葬る、其略を碑陰に書すと云う原漢文
  以上が小島山の略歴である。昔から、彫刻家の余技として、米粒に大黒を彫るなどと言う話は聞いているが、象墜にいたっては、ほとんど人間業とも思われないものである。私は一生のうち、このような作品を再び見ることはできないだろうと思うので、世間の好事家のために私がこれを実見するにいたった経緯を示し、その参考にしてもらおうと思った次第である。(注・現在は三の丸尚蔵館所蔵になっている)


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針


二百五十一  角田竹冷宗匠(下巻375頁)


 角田竹冷(注・かくたちくれい)氏は静岡県の出身である。角田真平と称して明治の後年から大正時代にかけ政治、経済の両方面で活動し若干の功績を残されたが、竹冷宗匠として俳諧道に遺された足跡は、それよりはるかに大きかったのではなかろうか。
 大正七(1918)年一月六日のことであった。私が避寒していた大磯の長生館に、同地に滞在中の安田善次郎氏と角田真平氏が突然訪問されたので、とりあえず持参の茶箱をひらいて、大阪鶴屋の羊羹で薄茶一服をすすめつつ、三人で鼎座して、暫時、風流談にふけった。
 このとき角田氏は、今、安田翁を訪問して、新作の狂歌を頂戴してきましたといって、絹地に今年の干支である馬二疋が描かれた上に書きつけてある狂歌を見せてくれた。その文句は、


  さちあれと振る塞翁の馬の年 世はかけくらのまはり双六


とあり、また、他の一枚には、大黒が俵の上に立って、小づちを振っている図に、


  槌の柄をあげてさづくる福の神 打出のたから得るもうま年


とあった。
 竹冷氏はさかんに「さちあれ」の狂歌をほめて、これは近来の名吟だと思います、などと、おおいにお世辞をふりまかれた。
 私が角田氏に、新年のお作は、ときくと、今朝の口吟であります、といって、


  初風呂や番茶をのめば日が上る


という一句を示されたので、では新年の御題の海辺の松のほうは、と言うと、どれも駄作でありますと断ったうえで、次の三首を示された。


  左ればここより年はたちなむ千松島


  松に漁火にまづ年あけし日ざしかな


  枝ぶりやわかざりかけん磯馴松


 このとき私は角田氏に、貴下はかつて沼間守一らと嚶鳴社で政談演説を試み、法律家、政治家として政客の群に出入りし、今や東京株式取引所の理事として、塵俗なる(注・けがれた俗世の)商業社会に奔走しているにもかかわらず、当代一流の宗匠として俳名が世間に知れわたっている(原文「喧(かまびす)しい」)のは両極端なはなしで、ずいぶんと変化に富んだご身分でありますな、と言うと、イヤ、拙者のような雅俗両性動物は、世間にその例がすくないほうだろう、拙者は静岡県人で、父も伯父も発句(注・俳句)が好きだったので、少年時代から見よう見まねでこれを学び、明治七(1873)年、岩倉右大臣が熱海に来浴(注・温泉を訪問)されたとき、図らずも右大臣に拝謁し、そのころはまだ黄吻(注・くちばしが黄色い=若くて経験がない)の少年だったが、「うごきなき巌ありての清水かな」という即吟を御覧に入れたところ、右大臣はすこぶるこれを奇(注・すぐれている)とせられたと同時に、あるいはあらかじめ詠み置いてあったものではないかと思われた様子で、ほかにも即席の題を出して試みられたが、いかなる題でも、とにかく即座に詠み出でるので、右大臣も、自分を詞才のある小童と思われたものであろう、とにかく東京に出て来いと言われたので、その後ほどなく上京して、一時、岩倉家の厄介になっていたが、もしこのときから右大臣家を離れず、その系統を追って、伊藤(注・博文)公などに接近していたならば、自分と同年の伊東巳代治子爵のち伯爵らと同じく、伊藤系統の役人連中にはいって、今は、男爵か子爵の仲間入りができたであろうが、しかし自分はわがまま者で、窮屈なことが大嫌いなため、ほどなく岩倉家を辞して静岡に帰り、二度目に東京に出てきた時、図らず河野敏鎌、沼間守一らに接近する機会を得て、ついに彼らの仲間にはいり、民間政論家となって今日までもこのように俗界に奔走している次第である、しかし発句は性来の嗜好なので、かつてこれをやめたることなく、いかなる俗間にあっても胸中より発句を取り去ったことなく、日常道路を歩いていても、あるいは室内に寝ころんでいても、目前に横たわる器物の取り合わせを見ても、すべて発句道より調和を得ているや否やを思い起こすのは、われながら不思議な気がする。たとえば今朝この部屋にはいってきて、床に「紅爐一點雲」の五字一行がかかっているのを見れは、この前にはなるべく、銀の花入などを置きたくないな、と思うのは、発句道より出てくるところの自分の癇癖であろうが、思うに、貴下の好まるる茶事なども、やはりこれと同様ではあるまいか、本来、発句は字数が少ないので、古人がことごとく詠み尽くしているから、たとえば梅の句を詠もうとするのに、句中に梅という字を使うと、たいてい古人と衝突することになるから、自分は弟子どもに、梅を詠もうとしたら、梅を詠むな、と教え、何か他字をもって、梅の心を詠み出すように心がけないと、決して新しい句を作ることはできぬぞ、と申して居る。かくて発句には、往々にして暗合(注・偶然に一致すること)するものがあるが、その場合が違えば、必ずしもこれを咎めるに及ばない。たとえば、加賀の千代が、夫の死んだときに詠んだ句に、有名な「起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さかな」というのがあるが、京都島原の八橋太夫にも同じ句があって、その前書きに、「まろうどの来まさぬ宵に」と書いてある。今、この二つの場合を比較すれば、同句ながら、八橋のほうが、ことに風情が多いように思われるのである」など、竹冷宗匠の俳談は、滾々(注・こんこん)と、尽きるところがなかった。

 彼もまた、明治から大正にかけて存在した、いわゆる雅俗両性動物中の一奇物といってよいだろう。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百五十  山県元帥の対支観(下巻371頁)

 清国(原文「支那」)が中華民国となってから、自国の統一や改善を二の次にして、ひたすらに対外的な威信を高めようとすることに熱中するあまり、しゃにむに排外思想を激発して、相手が下手に出れば出るほど、つけあがって和協の道をふさぎ、伝統的な、「夷をもって夷を制する(注・敵を利用して他の敵を制し自分は戦わずに利益を得る)」の策略をめぐらし、諸外国に種々の利権口実を与え、のちのちに取り返しのつかぬようなはめに陥りつつあることは、まことに気の毒な次第である。
 このことは、ただシナ(原文「支那」)一国の不利であるばかりでなく、対岸に位置して、もっとも頻繁な交渉のある日本のためにも、はなはだ迷惑千万な事態であるといえる。
 山県元帥は、ひごろからこの点を気にかけ、日支関係を改善したいと願い、シナの政治家、孫逸仙(注・そんいっせん。孫文)、梁士詒(注・りょうしい)、唐紹儀らの来日(原文「渡日」)に際し、親しく面陳(注・面前で陳述)された。そのたびに、私は公爵からその談話の概略を聴聞する光栄を得たが、今日から振り返ってみると、先見というのだろうか、達識というのだろうか、とにかく、私たちが今日シナに対して言いたいと思うところを直言されているのである。
 わが国の経世家の対支観は今でも当時とほとんど違いがない。そこで私は、大正六(1917)年十二月十七日に五番町の新椿山荘において公爵から聴取した、シナの政治家、梁士詒との会談の要旨をここに掲げることにする。(旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)
「自分は今日、梁士詒と会見したが、彼は袁世凱の幕僚として、もっとも有力な人だったということだから、最初より率直に所懐を陳述すべく前提して談話を進め、貴国が南北朝和せずして、比年(注・年々)紛々擾々(注・ふんぷんじょうじょう=ごたごたしていること)の間にあるのは、まことに痛嘆の至りであるが、その南北の主張なるものを聞くに、一国の利害よりも、むしろ各自の手前勝手が多いようである。
 顧みて世界の大勢を見れば、今や支那はかかる内争に没頭するときではない。少しも早く挙国一致して、第一に強固(原文「鞏固」)なる政府を作り、第二に財政を確立して国防を充実しなくてはならぬ。聞くがごとくんば(注・聞くところによると)、貴下は北京政治家中にて、もっとも声望実力ある人なりといえば、同志を糾合して、紛擾を一掃し、一死もって国家百年の大計を樹立しなくてはなるまいとて、ことにその一死というところに力をこめて、通訳にこれを繰り返させたが、梁はこの談話中に、二度までも、お説ごもっともなり、と明言した。
 それより自分は一歩進め、数年前、孫逸仙(注・孫文)が自分と会談したとき、日本は近年武力をもって発展したる国なりと言われたから、自分はこれを聞きとがめ、ただいま貴下は、日本が武力をもって発展したる国なりと言われたが、かくては日本がアジア中に侵略主義を実行する国なるがごとくに聞こえて、はなはだ穏やかならぬと思う。そもそも貴下は、日露戦争をなんと見らるるや、露国は極東に向かって、侵略の矛先を向け、すでに満州を圧して北京に迫り、明らかに支那併呑の下地をなしたのではないか、このときにあたり、もし日本が手をむなしうして(注・何もせず)傍観したならば、支那は露国の配下となり、日本は露国と接壤(注・境界を接する)せざるを得ぬのである。

 今やアジア州において、もっとも重要なる位地に立つ者は、日本と支那の二国なるに、今、支那が滅亡するにおいては、日本ひとり安閑たるを得ぬ、すなわち日本が一国の興廃を賭して、やむをえず剣を抜いて立ったゆえんで、その危険困難は、実に名状すべからざるほどであったが、一国千年の安危にはかえられず、万やむを得ずしてこの挙に出でたのである。
 しかして、幸いにも露国の矛先をくじき、日本とともに貴国も、かの爪牙をまぬがれた次第で、その成績よりみれば、あるいは日本が武力をもって発展したりと言わるるかも知らぬが、日本がこの決心をなしたのは、領土を広げんがためなどの野心にあらず、真に自国の安危、東洋の安危を双肩に担うて、万々やむを得ずして立ったのである。
 全体、アジア人はアジアに棲まざるべからずというのが、自分の主義だが、このアジア州において、もっとも重要なる位地にある日本と支那とのうち、いずれか一国が滅亡するにおいては、他の一国もまた独立しあたわざるは火を見るよりも明らかである。
 すなわち、自分が支那に対して、平常、親善云々を大声疾呼するのは、まったくこれがためにほかならぬのである。これは、先年自分が孫逸仙に語ったところであるが、その趣意は十年一日のごとく、かつて変わるところなく、自分の対支政策は、この主義より割り出して、親善を眼目とするものなれば、貴下もこの意を諒して、両国提携もって極東の危急を救うべく、尽力せられたい、と述べたところが、梁もしきりに感謝の意を表していたから、支那の要人連に、充分この意見を徹底するに至らば、まことにしあわせなことだと思って居る云々」
 以上、山県元帥の対支観は、今日といえども、否、百年千年ののちであっても、まさに適切不動のものであろうと思うが、シナの政治家が、いったいいつになったらこのことをよく理解するのか。それを理解したときには、すでに手遅れだったということがなければ、まことに幸い(原文「僥倖」)であると思うのである。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百四十九  白頭宰相原敬氏(下巻367頁)

 故政友会総裁元首相の原敬氏は、年齢の割に早くから白髪となったので、白頭宰相の異称を得るにいたった。
 あるとき私が西園寺公爵と雑談しているとき、公爵は次のような話をされた。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

 「自分が明治十(1876)年前後パリに滞在中、原氏も来たって同地に在留していたが、そのころ原氏も青年時代で、頭髪は無論、真っ黒であったが、ただ頭の真ん中に、一筋細く白髪が通っていたので非常に早白髪だと思っていた。ところがこのころ、パリの劇場にて興行中の演劇に、ある貴族家の相続争いを仕組んだものがあって、その家の財産を相続する実子が早くより所在をくらましていたので、実父が逝去したとき、その正統なりと名乗って出ても、なんびともこれを承認しなかったが、この家の血統には、青年時代より頭の真ん中に白髪の一筋があったのに、今度実子と名乗って出た若者は、正しくこの特徴を備えていたので、とうとう相続者と認定せらるることに至るという筋合いであったから、自分は原氏に向かって、君もフランス人なれば、かの家の相続人になられるであろうにと、からかったところが、原氏は迷惑そうに苦笑していたから、自分はとんだことを口走ったなと思って、匆々(注・そうそう=早々に)その話を打ち切ったことがある云々」ということであった。つまりそうすると、原氏は青年時代から、後年白髪になる特徴を備えていたということだろう。
 私は、あるとき、白髪という和歌の兼題(注・あらかじめ出された題)で、

   黒髪にまじる白髪の一すぢは 老に入るべきさかひなりけり

と詠んだことがあったが、何やら先ほどの談話に符号するように思われたので、われながら不思議に思ったものだった。
 原氏は、頭は白髪であったが、身長が高く、顔の血色がよく、面貌の道具がよく揃っており(注・顔立ちが整っており)、盛岡出身ということで奥州弁ながら言語明晰で、いかにもきびきびとした政治家であった。
 私はいつからだったか記憶していないものの、新聞記者だったころからの馴染みで、その後仕事の方面が違ってしまったため、あまりひんぱんに会談する機会もなかったが、大正七(1918)年一月に、原氏が夫人同伴で腰越(注・鎌倉)の別荘に避寒中に偶然にも雑談する機会を得た。
 ちょうどそのころ、佐竹侯爵家の入札会に出た、信実筆三十六歌仙巻(注・伝藤原信実筆の、いわゆる佐竹本三十六歌仙絵巻)を切断する問題があったので、そのことから国宝保存のことに話が及び、私はかねてからの持論として、わが国に国宝を今日のように神社仏閣の保管に任せて心なき者に取り扱わせておくと、今後五十年しないうちに、その真価の半分が失われることになるであろう、だから、今日もしも真の経世家(注・政治、経済、社会の指導者、政治家)がいるならば、日本に国立美術館を作り、継続事業として年々国家から若干の金を支出し、全国の神社仏閣の所蔵する信仰に関わるもの以外の国宝を、その美術館が買い取り、完全に保護するという方法を講じなくてはならないのではないか、と述べた。
  すると原氏も非常に同感で、さきごろ山陰道に赴いたとき、かの応挙寺(注・兵庫県の大乗寺)を一覧したとき、寺内のふすま絵はすべて応挙とその門下の筆になり、すでに国宝になっているものなのに、住持(注・住職)が心ない人らしく、ねずみが襖に穴をあけてその穴から出入りしているのに一向頓着していない様子なのは、国宝保存上のはなはだしい欠陥だと感じた、と言われたところを見れば、原氏もこの点については、なかなか話せる人物だと思ったのであった。
 なお、そのときの雑談の中には、次のような話もあった。
 「自分は一向無風流で、何事にも趣味がないから、暇さえあれば読書をするのが関の山である。
 かつて国技館の角力見物に招かれて、よんどころなく出かけたとき、事務員が出迎えて、さまざまに説明してくれたが、ただ負けるか勝つかを繰り返すのみで、自分には更に(注・いっこうに)面白みを感じなかった。
 また芝居に招かれたこともあるが、これは筋書きが変化していくだけ、角力よりははるかに面白いとは思ったが、しかし自身でわざわざ見物するほどの嗜好はない。
 義太夫は、大阪滞在の節、宴席の余興としてしばしば聴かされたことがあるので、例の文楽へは行かなかったが、語り手が上手なれば、それほど迷惑せぬという程度である。
 茶の湯はもちろん承知せぬばかりでなく、狭苦しき茶室に出入りすることは、自分にとっては大禁物である。しかし茶の喫(注・の)み方だけは稽古しておきたいと思ったのは、ほかでもない、田舎地方に遊説に出かけて、諸方(注・しょほう=あちこち)の家に招かれたとき、なんらの予告もなく、その娘さんたちが正装して、目八分に茶碗を捧げて持ち出さるることがあるが、まさかに無下に突き返すこともできず、このときばかりは、平常茶の喫み方を心得て居ればよかったと思うことが度々ある。
 往時、太閤時代には、不作法なる武人までが茶室入りをしたということであるが、これは彼らが京大阪に上って、人と交際をなすに当たり、なるべくお里が知れないように、おおいに苦心する結果であろう。今日の成金連が、金を儲けるとすぐに衣食の贅沢を覚え、それより立派な家屋を造り、書画や骨董が欲しくなるまではまだよいが、その上さらに、爵位が欲しくなるというのが成り上がり者の通過する径路で、この点に至っては古今一徹といってもよかろうと思う云々」
 以上の原氏の雑談を聞けば、彼が爵位を有することを好まず、一生、平民宰相でおわったのは、みずから確乎たる信念があったからということがわかる。彼が、わが国の政治の世界で異彩を放っていたのは、ただ、その白頭だけではなかったのである。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百四十八  梅幸の人形(下巻363頁)

 大正九(1920)年のことだった。当時、船成金の巨魁として相州(注・現神奈川県)小田原に対潮閣という広壮な別邸を控えていた山下亀三郎君は、その人となり豪放磊落で茶目っ気に富み、みずから脱仙居士、またときには紺足袋生などと名乗り、時の大官長者に対しても無邪気、無遠慮にふるまうのが山下式として名高かった。 
 彼はそのころ、梅幸という楳茂都(注・うめもと。原文「梅茂都」)流の舞踏に堪能な神戸の美人を贔屓にしており、彼女の妙芸である踊りが東京の芸道数寄者に知られていないことを遺憾の至りだと考えた。そこでまず、そのいわゆる数寄者なるものを選考することにし、同じ小田原提灯村(注・当時小田原に名士の邸宅や別荘が多数点在していたのを、小田原名産の提灯のあかりがともっている様子にたとえたものか)の古稀庵に高臥されている山県含雪(注・山県有朋)公に白羽の矢を立てた。次いで、装束付きで時雨西行を踊ったことがあるという素人舞踏の大天狗、益田紅艶(注・益田英作)、を指名した。そのほか提灯村在籍の、田健次郎、木村清四郎、野崎広太らを招待して梅幸の艶姿と舞型とを紹介することになったのである。
 余もまた、その寵招(注・特別な招待)をいただいたのであるが、当日間際になって含雪公が急に風邪に冒されたのでやむなく延期となった。

 ところが脱仙君は、そこでたちまち例の茶目っ気を出し、京都を物色して梅幸に生き写しの京人形を取り寄せ、病気御見舞いとしてこれを古稀庵に贈り届けた。
 ここで、その人形を届けた使者が山下家の運転手で、これが美貌の青年だったため、「梅幸人形をお届け申し上げます」と言ったその口上を取次の書生が聞き間違え、運転手を役者の梅幸と思い込んで人形を公爵の枕元に持参し、「ただいま、役者の梅幸がこの品物を持参いたしました」と取り次いでしまった。
 そのとき公爵はもちろん臥床中、貞子夫人は上京して不在なので、何が何だかさっぱりわからないままに、とにかく面会するのを断ったとき、貞子夫人が帰庵され、梅幸と梅幸の間違いを発見したため、公爵もおおいに笑われて山下氏に次のような礼状を送られた。

 先夜は老人病気御尋問を辱うせし耳(注・のみ)ならず、京都土産祇園名物の舞妓人形を御恵贈被下、直に床頭に侍らせ日夜看護相勤めさせ候、御一笑即左に、


  すすみ行く世にもかはらぬかみ園の 舞子のすがた見るぞうれしき


忽ち五十年前の壮雄を憶起し、快感不堪、此に謝意を表し候、老生風気は減退致候へ共、于今医戒を守り、対客を謝絶し、静養罷在候、御省念是祈候、不日万可期面晤候、草々不一
             古稀庵老朋

  山下賢兄梧下

 こうして、梅幸の舞踏見物はしばらく中止になっていたが、含雪公の病気全快とともにいよいよ開催することになり、三月二十一日の午後、小田原の山下別荘に前記の顔ぶれを招集すると、一同は楽しみにやってきた。
 すると、さきほどの含雪公の書簡(原文「手簡」)が、時代物の匹田に鹿の子絞りの打掛模様裂で表装され寄付の床に掛けられていた。
 やがて、善美を尽くした大広間に通されると、ほどなくして梅幸の舞踏の開演となった。
 梅幸は関西美人に似ず、意気な(注・粋な)細面で、目元に無限の愛嬌をたたえ、年は三十四、五歳だそうだが、見たところ二十五、六歳のようだ。扇を手にしてスラリと立ち上がっただけで、すでに平凡な踊り手とは違った姿勢を見せていた。
 こうして当夜は、神戸の老妓、政子と小浜が地方(注・じかた=音楽演奏者)になって、「新縁の綱」「常磐津松島」「からくり的(注・まと)」の三番が舞われたが、とくに最後の「からくり的」で、その妙技が発揮された。
 「からくり的」は、関東で行われている傀儡師に類するもので、その文句は次のようなものである。
 「おもしろや、人の往来のけしきにて、世は皆花の盛りとも、的のちかはぬ星兜、先駈したる武者一騎、仰々しくもほだばかり、そりやうごかぬは、曳けやとて、彼の念仏にあらはれし、例の鍾巻道成寺、祈らぬものの、ふはふはと、なんばうをかし物語、それは娘気、これは又廓をぬけた頬冠、おやまのあとの色男、立ち止りては、あぶなもの、見つけられたら、淡雪の、浮名も消えて、元の水、流れ汲む身にあらねども、かはる勤めの大鳥毛、台傘、立傘、挟箱、皆一様に振り出す、列を乱さぬ張肘のかたいは、実にも作りつけ、さて其次は、鬼の手のぬつと出したは、見る人の笠つかむかと思はるる、それを笑ひの手拍子に、切狂言は下り蛛、うらよしひよし、道しるべ、よいことばかりえ」

 「からくり的」の舞は、扇を楊弓(注・ようきゅう=遊び用の小弓)を擬して、一回矢を放つごとに、種々の人形が現れ出て、それぞれの身振りをするという趣向で、梅幸の、人物をあらわす姿勢の優美さと、もともとの容姿の秀麗さで、観ている者を実に魅了したのである。
 さて梅幸の踊りが済むと、待っていました、とばかりに、益田紅艶が装束付きで保名狂乱を踊り出したのには、一同驚き唖然とするしかなかった(原文「喫驚の外なかつた」)。紅艶が、二十貫(注・約75キログラム)という丸々と太った図体で、近眼眼鏡の上に紫鉢巻を締めたところを含雪公がつくづくと見て、「初荷の飾り牛のようだね」と評されたのは、あまりにその通りで文句なし(原文「評し得て寸分動かぬ所」)だと、しばらくは鳴りもやまなかった。
 これで、関西楳茂都流の達人梅幸と、関東藤間流の名手紅艶との舞踏競技の展覧会が開かれたわけだが、その妙技のいかんは知らず、舞踏の終わったあとの喝采は紅艶のほうがはるかに大きかったのは、時にとっての一興で(注・その時とても盛り上がり)、当時のことを思い出すと、その光景が今でも眼前に浮かぶようである。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百四十七  往生極楽院山門(下巻360頁)

 私には庭園趣味があり(原文「平素林泉の癖あり」)、ことに京都の名勝を愛して、ほとんどの庭を訪れたことがあるほどである。あるとき大原の三千院に行ったとき、その境内が幽寂なことや、堂宇(注・堂の建物)が古雅であることが気に入り、機会があればまた参詣したいと思っていた。
 大正六(1917)年五月のある日、京都の植木職である、植治こと小川治兵衛老が上京して私の伽藍洞にやってきた。そのときたままた話が三千院のことに及ぶと、同院の門跡、梅谷孝永上人が、境内阿弥陀堂の庭園の門塀が見る影もなく荒廃しているのを嘆き補修したいという長年の願いを持っているが、場所が山間の僻地であることもあって篤志者の参詣も非常に少なく、補修を援助してくれる人がいないので非常に当惑しているという話をしてくれた。
 私はすぐに、かつて三千院に遊んだときのことを思い浮かべ、庭園の補修については少しばかり思う仔細もあったので、微力ながらも助力することにやぶさかではない(原文「敢て一臂(いっぴ)を吝(おし)まざるべし」)と口約しておいた。
 ところがその後ほどなくして他用で京都に赴く(原文「入洛」)機会があったので、ある日植治を同伴して自動車を大原に走らせた。
 京都から約五十分ほどで三千院に到着すると、かねて申し入れてあったことであったので、すぐに本坊の上段の間に通された。そして待つ間もなく、梶井三千院門跡(注・梶井門跡は三千院の旧称、門跡とは格式ある寺院の位階、またはその住職のこと)である権大僧正梅谷孝永上人が立ち現れた。
 上人は、五十の坂を四つ、五つ上がった年の頃で、やや小づくりの身体に紫衣をまとい、梶井門跡に特有の、有名な萌黄の地に金菊の紋がついた幅の狭い袈裟を掛けており、愛想のよい応対をされた。
 ではご案内しましょうということで、われわれは本坊の庭前におり立った。庭は、中央の池のまわりに一面のつつじが花盛りであった。その間を通り抜け、つづいて一段高い平面地に登ってゆくと、そこに恵心僧都(注・源信。10世紀の天台僧)の遺構と言い伝えられている阿弥陀堂の建物(原文「一宇」)がある。すなわちこれが、往生極楽院である。
 これは藤原時代の宸殿(注・しんでん=門跡寺院に特有の建物)式仏堂で、ひさしの先が深く垂れ、優美、古雅で、比類のないものであったが、周囲の門塀や庭園が見る影もなく荒廃し、すでに一日たりとも捨て置けないような状況になっていた。とりあえず、これを修築することが梅谷上人の宿願だということで、この日上人は、私たちに往生極楽院の内外の実状を見せてくれた。
 当院は、七、八間四方(注・約14メートル四方)の仏堂で、回り縁の周囲には高欄がめぐらされている。階段を登って内陣にはいると、中央正面に丈六(注・じょうろく=身長一丈六尺、約4.8メートル)の阿弥陀如来像があり、その両側に蓮坐を捧げて端座する来迎仏が純然日本式に座っているが、ほかではあまり見ない一種風変りな座り方に見える。
 製作したのは恵心僧都という伝来であるが、その面相を観察すると藤原末期の作ではないかとも思われる。今からおよそ二百年前に、本尊があまりにも燻って(注・くすぶって=すすけて)しまったので、心ない僧侶の発議で、新たに金箔を塗り立てそうだが、それはまことに無惨な結果になっている。
 さてこの仏像の背面は、これも恵心僧都の筆だということで、胎、金両部の曼陀羅(注・胎蔵界、金剛界の両界曼荼羅)を書き詰めた木版を張りまわしてある。藤原時代の建造物で、壁画がこのようにはっきりと現存しているのは、宇治の平等院、日野の法界寺、醍醐の五重塔以外には、ほとんど例を見ない国宝であるから、好古家ならば一度は必ず見ておくべきものだろうと思われた。
 そもそもこの三千院は、大覚寺、仁和寺、青蓮院、妙法院とともに叡山五門跡の随一で、伝教大師が平安王城鎮護のために勅命を奉じて延暦寺を建設しようとしたときに、その常住坊として比叡山に建造したもので、最初は三千院円融坊と称していた。
 当院は、今生天皇からさかのぼる五代前の天皇、皇后のご冥福を奉修する御懺法講(注・おせんぼうこう)というものを行うしきたりになっている(注・御懺法講じたいは平安末期から断続的に続く皇室行事)。それには、奥行き十間(注・一間は約1.8メートル)、幅十三間の、荘厳な宸殿が必要なため、後年、山上から現在の場所に移築したものである。
 しかし維新後の旧物破壊の暴風は当院にも激しく襲来し、今ではその宸殿の影さえも見られない状態になってしまった。
 けれども御懺法講は、こと、皇室に関する大法要であるので、一日も早くその宸殿を復旧することが当院第一の急務なのだということだ。
 しかしこの問題はまずおくとして、当面の問題として、往生極楽院の荒廃した様を見苦しくないように補修したいというのが梅谷上人の希望なので、私は植治に命じてまず庭園の掃除に当たらせ、往生極楽院周囲の門塀については、将来に適当な山門が建設されるまで、仮設の意味で、僭越ながら私が、小さな山門を寄進すると申し出た。すると梅谷上人は非常に喜んでこれを受納されたので、これも植治に任せて、それぞれの職人に申し付けることにした。
 最初は、屋根を檜皮葺にしたところ、その後十数年たって、山中の湿気のために、だいぶ破損を生じたというので、永久保存のために、さらに銅瓦で葺き替えを行ったのである。
 このような縁で、梅谷上人はその後、私を伽藍洞に訪問されたこともあった。上人は天台宗における偉才で、ほどなく妙法院門跡になり、さらに進んで、今は比叡山延暦寺の門主大僧正になられたそうである。
 上人はまた、非常に文藻(注・詩をつくる才能)にも富み、故杉聴雨(注・杉孫七郎)、福原周峰らと、しばしば唱酬したこともあったということである。そこで私はこの時、上人に謝する(原文「道謝する」)ために、次の七絶一首を贈呈した。

      訪小原三千院賦呈梅谷上人
   花木禅房苔径深 清談半日快吾心 澄潭応有魚龍聴 出定高僧得意吟


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百四十六  岩原謙庵の空中水指割(下巻356頁)

 岩原謙庵【謙三】君は、実業家としては日常事務の上で綿密すぎるほどだと言われているにもかかわらず、いったん茶事方面に乗り出すと、益田鈍翁が彼に「素骨【粗忽】庵」の尊称を贈ったほどの愛嬌家で、故意【わざ】とでなく、自然に椿談(注・珍談)を生み出す特徴を持ち、謙庵茶会を催すときは必ずなんらかの語り草を残すと言われている。 

 謙庵の茶事は大正初年から始まったのであるが、あるとき自庵に茶客を招いたときのことである。帰宅が遅くなってしまい、急いで帽子をかぶりながら飛び込んできて、挨拶も半ばにそのことに気づき、イヤこれは失敬、と、その帽子を脱ごうとしたのを、正客の三井松籟(注・三井南家、八郎次郎高弘)翁が、からかい半分で、そのまま、そのまま、と差し止めたので、どうしたものかと思い惑って、帽子に手をかけながら引き下がったという椿事がある。
 またあるときは、大阪の磯野良吉氏が正客となり、今や主人に相対して、お辞儀を交換しているところに、令閨(注・令夫人)がかわいがっていた愛犬の狆が、主人のうしろから現れて正客の頭に飛びつき、ひどく驚かせてしまったということがあり、一時は、謙庵を狆庵に改称すべきであるという動議が起こったこともあった。
 またあるときは、茶会の劈頭(注・一番最初)に初心者である素人茶客を招いて、試験的にやってみるという目的で、後藤新平、杉山茂丸、金杉英五郎などという豪傑連を案内したことがあったのだが、その前日に、ある人が、明日から茶会が始まるそうですね、と質問すると、謙庵は鼻であしらいつつ、「明日の連中などは茶客と言うべき者ではない、彼らには、ただ物を食わせてやるだけだ」と放言した。その放言が、いつしか、かの豪傑連に嗅ぎ出されてしまったから、ことはいよいよ面倒になり、とうとうお詫び茶会が開かれることになり、芭蕉翁の、「物言へば唇寒し秋の風」の一軸を掛けて、かろうじて口禍の難関を切り抜けたなどということもあった。
 これらの数々の椿事を編集したならば、たちまちにして謙庵奇談集が一部できあがるであろうが、ここに、謙庵の失策の中でも、もっとも有名になった話を紹介しよう。
 大正七(1918)年の四月下旬、益田鈍翁が御殿山為楽庵で催した茶会のことである。本阿弥空中(注・光悦の孫、光甫)作の水指を拝見中、お供【そなえ】形の撮【つま】みのある共蓋を取り上げて見回している間に、例の粗忽で、その蓋を、水指の中に滑り落としてしまった。その瞬間、カーンという響きを立てて(原文「かつ然として響きあり」)蓋は二、三片に割れてしまったので、今の今までは大得意に角を伸ばしていたカタツムリが、何かに触れてにわかに縮こまったように、これは、これは、と恐れ入るという、開いた口がふさがらないような笑止のありさまなのであった。
 相客の益田紅艶は、拙者の働きはこのような時にこそ必要であろう、と言わんばかりに、ひと膝乗り出し、ここで、次のようなお詫びのための一案を提出したのである。
 この茶会の前に、私の旧蔵の松花堂(注・松花堂昭乗)筆の長恨歌の一巻の市場入札があった。そのとき、鈍翁と謙庵が偶然にも競争して、首尾よく謙庵の手に落ちたので、釣り落とした魚を惜しむように鈍翁がしきりに残念がっているという時だったので、今回の不調法のお詫びのために、その長恨歌の一巻を、入札原価そのままで、謙庵から鈍翁に譲り渡してはどうか、というのである。
 ここにおいて、謙庵もこれを拒み得ず、不平の気持ちを押さえて、その提議に応じることになったので、事件はすらすらと解決したのであった。
 このとき紅艶は、
   空中でテツペンかけたほととぎす
と詠み出でた。時も時、名に負う(注・有名な)「目に青葉、山ほととぎす」の時節に、空中作の水指蓋のてっぺんが欠けたのを、巧みに言い表した面白さに、主人の鈍翁も、やがて下の句に、
   ながき恨みの夢やさむらぬ
とつけたのは、恋しと思っていた長恨歌の一巻が、夢のごとくに我が手に落ちてきたためだったろう。(注・蛇足でつけくわえれば、ほととぎすの鳴き声はテッペンカケタカと言い慣わす)
 ところが、その後ほどなく、益田鈍翁の御殿山幽月亭で催された初風炉(注・しょぶろ)茶会で、三井華精(注・室町三井家、高保)男爵、馬越化生、加藤正義、根津青山の諸氏という、いずれも悪口達者の連中だけを招いた中に、謙庵をはさんだのは、鈍翁の胸に一物あったのであろう。やがて濃茶手前になり、例の空中水指が道具畳に現れたのを見ると、最近では土物の破損修復が上達して、たいていの疵物は、玄人でも見分けがつかないほどうまく繕えるようになっているので、先夜謙庵が打ちこぼした破損の痕跡など、どこを見ても見つけられないほどの手際で直されているのだった。その精妙さに驚くと同時に、この水指がここまで修繕されうるものだったのなら、何を苦しみ、せっかく手に入れた長恨歌の巻物を投げ出した上に、平身低頭して自分の粗忽を詫びる必要があったのかと、謙庵はにわかに不平の色を浮かべた。その反対に、鈍翁は得意の微笑を洩らし、空中水指蓋割りの一件から、いったんは競争に負けた長恨歌巻を、まんまと我が手に分捕った次第を、その後、一座の悪口連中に披露したので、そのことはたちまちにして、東都(注・東京)の同人連に知れ渡り、さらに全国の茶人仲間にも喧伝されることになったのである。
 そのおかげで、この水指は、図らずも一種の名物となり、その後鈍翁がこれを鷹峯の光悦会に出品したときには、今述べてきたような歴史的水指として、大勢の来客の注目を引くに至ったのである。大正茶番劇の圧巻ともいうべき、空中水指割りの一埒(注・いちらつ=一部始終)、ここにあらあら、かくのごとし。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百四十五  古稀庵の石と竹(下巻353頁)

 山県含雪(注・山県有朋)公は性来、多方面に多趣味で、文学方面における和歌では専門家を凌駕する力量があった。またさらに趣味は工芸方面にもわたり、嶄然(注・ざんぜん=ひときわ)群を抜いていたのは、公爵がもっとも得意とした築庭術であった。
 公爵には、奇兵隊時代に長州において、すでに小庭園を造られたという経験がある。また明治初年には目白台に椿山荘を設計し、次いで京都の無隣庵を造った。この間に、小規模ながら、小石川水道町に新々【さらさら】亭を設け(注・134・「和歌修行の端緒」を参照のこと)、最後に小田原古稀庵を構築されたのである。いずれの庭園においても、水なき庭はその趣をなさず、という一貫した理想を実行に移された。
 古稀庵の構築から数年たって、庭園の中にこれ以上新しい施設を作ってみる場所が皆無になってしまうと次第に腕がうずき(原文「髀肉(ひにく)の嘆を催し」)、同庵の崖下に五百坪余りの空き地があるのを買い取って、そこに新しい庭園を築造することになった。
 さて公爵の築庭術は、水に一番の重きを置くものである。椿山荘においては、荘内にある池辺の天然湧水を利用し、無隣庵においては東山疎水(注・琵琶湖疎水)の分流を引き入れ、古稀庵においては鉄管で箱根山中の渓流を取り入れ、いわゆる「智者は水を楽しむ(注・「論語」から。知者は水の流れのように物事を円滑に行う)」の能事(注・やりとげるべきこと)を尽くされた。
 築庭の要素である樹木と石類については水に対するほどの執心はなかったようで、公爵の愛顧を受けた植木屋の勝五郎老人なども、この点に関しては時々、公爵と所見を異にする場合があったらしい。もっとも、公爵が庭石についてまったく無関心でなかったことは、京都無隣庵築庭の際に、醍醐山の山奥に豊太閤(注・豊臣秀吉)が桃山築城の時に取り残したという大石があることを耳にして、ある日みずから踏査にゆき、兜型をした巨石に目をつけ数頭の牛でもって引き出したという一例からもうかがえるのである。この巨石は途中に幾多の障害があったにもかかわらず、ついには無隣庵に運び込まれ庭の主人公となったという経歴がある。
  また古稀庵の庭前にも頼朝の馬蹄石というものを配置されたことがあったので、私は公爵の今回の新庭に使ってもらおうと、そのころ庭石として使い始めていた筑波山の山石の中から、もっとも雅趣のある大石三個を贈呈した。
 そのときの礼状には、
 「曽て(注・かつて)御話し有之候佳石三個、御恵贈を忝(注・かたじけの)うし、深謝不啻(注・ただならず)候、一昨夕草庵に罷越(注・まかりこ)し、直(注・すぐ)に一覧候処、頗(注・すこぶ)る美事なる良石にして、古色を帯び、恰好尤も宜敷(注・よろしく)、激流の尽処(注・つきるところ)に配置可致と楽居候、余而願置候庭上に建設すべき草亭之図、数葉拝見、其第三図に取極め可申含に候云々」
とあった。
 このとき公爵は、高橋がせっかく佳石を贈ってくれたのだから、彼が一言もなく感服すべきところに配置しなくてならないということで、編み竹で石の模型を作って、その上に新聞紙を張りどこにでも簡単に運べるようにし、樹下へ、池辺へと据えてみて、遠近から熟覧したうえではじめてその位置を決定されたのだそうだ。
 この新庭の完成後、私が公爵を訪問したとき、公爵みずからが私を案内してくださり、その苦心を語られ、大石を庭前に据え付けるにはこれが一番の方法だろうと言われた。私が、竹籠の張り抜きはいかにも新しい工夫だが、益田無為庵(注・益田克徳)は、茶席の露地に飛石を按配するときに、石型に切り抜いた新聞紙を、そこここに置き合わせていたことがありました、と言うと、それでは立体と平面の違いはあっても、吾輩より前にそんな工夫をした者があったのかねと非常に満足そうだった。
 またこれより以前に、公爵が古稀庵の南端に一棟の離れ家を建設されたとき、私はその周囲に植えてくださるようにと、昔、皆川淇薗が長崎から京都に初めて輸入したと言い伝えられる苦竹を数十幹、京都から取り寄せ、「真鶴が岬に向へる園の中に千代をちぎりて茂れ若竹」という一首を添えて公爵に贈呈したことがあったが、そのときの公爵の礼状は次のとおりだった。
 「御清康慶賀の至りに候、扨て嘗て御約諾致し置き候まま、過ぐる三日植木職を古稀庵に差出し候処、御恵贈被下候苦竹持参の植木屋と行き違ひに相成、昨夜植木屋帰京、芳翰落手(注・お手紙を受け取り)、猶事情細縷伝承候に付き、早速電話にて御挨拶申陳為置候、苦竹に付ては遠国より御取寄せ、不容易高配を忝うし、芳情深謝、且高詠感吟不啻、取敢へずおかへしの心を

   窓近く君がおくりし竹うゑて こもれる千代のなかにすまばや

供一覧、余事拝青を期、御礼可申上候、草々拝復
 七月五日朝     椿山荘朋頓首
高橋賢兄侍史
 

 この書簡中の「窓近く君がおくりし竹うゑて」の一首は、椿山歌集編集者もその歌集の中に加えられたほどで、公爵の詠歌の中でも傑作の部類に属するものだろうと思うが、その後この竹がおおいに繁茂して公爵の清節をしのぶべく古稀庵の庭前の眺めとなっていることは、私にとってまことにこの上ない思い出なのである。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百四十四  決闘実験談(下)(下巻349頁)(注・上へもどる

 高田君の決闘実験談はいよいよ劇的場面にはいって興味津々たるものがあったが、つづいて要所のみ叙述することにしよう。
 「今度の決闘は、双方、形式だけに止め、弾丸を空中に放って散会しよう、と申し込まれたので、私はこれに感じて、短銃を手にし、まず先方の様子を見ると、もはや決闘を実行する決心がないので、先方の銃先が当方に向かっていることだけは見えても、相手の身体がちらちらして、はっきり私に見えなかったのは、かかる場合に度胸の据わらぬためでありましょう。
 さて号令がかかったので、私は約束通り、空中に向かって打ち放したところが、相手は真剣に私を狙ったものとみえ、弾丸が私のかぶっていた高帽子を打ち貫いて、はるか後ろに射飛ばしたのであります。そこでその帽子を取り上げてみると、弾丸が私の頭より五分(注・一分は約3ミリ)ばかり上をかすっていたので、まことに危険なことでありましたが、私の方の立会人は非常にこれを憤慨し、かかる場合には、こちらから決闘を取り消すことができるが、いかにしたものだろうかと私に尋ねますから、私はまだ弾丸が二回分残っているから、最後まで試みることにしようとて、今度は私も狙いをつけて打ちましたが、私の弾丸は外れて当たらず、かつ、私がまだ決闘に慣れず、左の手を広げていたため、相手の弾丸が私の腕を打ち貫きましたが、幸い骨に掛からなかったので、格別の傷ではなかったのであります。
 よって、さっそくその傷を包帯して、第三回目の勝負となりました。
 私はすでに二回まで、危ないところを打たれておりますので、この度は十分覚悟をしたものとみえ、先方の姿が分明に見えて、さらに(注・全く)怖るる心がなかったのはいよいよ度胸が据わったのでありましょう。
 しかして最後の仕合は、先方の弾丸は私に当たらず、私の弾丸は見事に先方の肺部を打ち貫いたのであります。
 このとき、先方が真倒【まっさかさま】にひっくり返ったの見て、私もまた、後ろにどうと倒れて腰が抜けたというのでありましょうか、いかにしても立つことができませぬ。また手にした短銃を自分で離そうと思っても指が利かず、これを離すことができませぬので、介添え人が私の指を揉んで短銃を離し、腰が抜けて歩けないので二人に助けられて現場を引き上げたという始末で、実にお恥ずかしい話でありますが、これは実際の話であります。
 しかるに、先方のオルフという男が、私に面会したいというので、彼が倒れて居るところに行ってみますと、肺部より泡が立って、呼吸するごとに、血がブクブクと流れ出るので、まことに気の毒に感じました。そのとき彼は、この度のことは、私がまことに悪いのであるから、学校やその他の人々には何卒秘密にしてもらいたいと言わるるので、私は、日本人はさような卑怯なことは致さぬ、決して他言は致さぬ、と言って引き取りましたが、この噂が他の人々から洩れたとみえ新聞などに書きたてられたので、彼は即日学校より免職せられ、二週間ばかりたって傷所も癒えたとか言って、アメリカに渡ろうとしたその船中で吐血して死んだということであります。
 同時に先方の立会人二人も卑怯の振る舞いをしたという評判が立ってドイツにいることができず、やはりアメリカへ逃げ出したということであります。
 ドイツの政府では決闘を禁じておりますが、その実は内々奨励して居るので、決闘した者は形式上、五日間牢に入れられますが、皇帝がさっそく特赦するという慣例で、ドイツでは士気を鼓舞するという方法としてこの決闘を奨励するのであります。
 そこで私は牢に入るべきところでありましたが、この時の日本公使は子爵青木周蔵氏で、私が決闘したというので、日本人はかくのごときものであるとして、しきりにドイツ人に自慢したような次第で、公使より皇帝(注・ヴィルヘルム2世)に申し上げて牢にも入らずに済みましたが、その後私はドイツにおいて非常な尊敬を受け、上級の学生でも私に会えば帽子を脱いで挨拶するというありさまでした。
 ドイツ人の決闘は、多くは長くて薄っぺらな剣をもって闘い、決闘倶楽部というものが諸処(注・しょしょ=あちらこちら)にあって、申し合わせて決闘をなし、面部に数か所の疵を受けて居る者が婦人連にもてはやさるるという始末である。ドイツは、かくのごとき蛮的武勇を奨励して戦争の準備をなしたわけでありますが、今後この種の武勇奨励が、ながくドイツ国に継続すべしや否やは未知数であります。」


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百四十三  決闘実験談(上)(下巻346頁)

 高田釜吉君が狩猟において、超人的な妙技で各種の武器をいずれ劣らず使いこなすということは、これまで披露してきたとおりである(注・237「独逸狩猟談」240「超人的手裏剣談」
242「水国飛将軍」参照)が、君の先人に当たる「天下の糸平」(注・釜吉は糸平田中平八の三男で、高田家の婿養子になった)の血統を伝える者で、信州ばりの負けじ魂と秘めているからでもなかろうが、ドイツ留学中に、かの国で流行していた決闘を実行するにいたった経験を持つとなれば、これは日本人としてはほとんど他に例を見ないことではなかろうか。その君が、なんらの誇張もなく、ありのままに事実を語る談話をきくだけで、血湧き肉躍るの感をもよおすので、次にその大要を紹介することにしよう。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)


「私は明治二十五(1892)年より三十五年まで、十年間ドイツに留学しましたが、私の通っていた学校の助教授で、オルフという男が、平常卑怯者で、かつ意地悪であったから、学生側より常にげじげじのごとく思われていたが、私は一級二十五人の級長となっていたので、オルフが時間通りに出席しなかったとき、私は彼の室に参って催促をしたところが、彼はなにやら婦人のもとに送る手紙を書いている様子なので、生徒が非常に待っていますから至急ご出席くださいと言えば、ただいま手紙を書いて居るから書きおわったら出席するとばかりでいつまで待っても出て来ぬので、私は再び彼の室へ押しかけ、貴方は私用の手紙を書いていながら予定の時間に出席せぬのは教師として甚だ不都合ではありませぬか、と詰責したところが、彼は非常に横幕(注・横柄と権幕の造語?)で、私を叱りつけましたが、この時よりして彼は私に含むところがあった様子で、何か落ち度を見つけて私を追い出そうと企んでいたらしい。その時学校において貴重な品物が紛失した事件がありましたが、彼は私の下宿を訪ねて、私が試験用に書き溜めておいた書類を見せよと言いますから、何心なく戸棚を開けて見せますと、その書類には目をつけず、かの紛失した貴重品を見出さんとするもののごとく、何かしきりにきょろきょろと見まわして、とうとう諸方(注・しょほう=あちこち)の引き出しなどまで開けかけたので、あまりの無礼に私もたまらず片手で彼を押しのけたところが、彼は私の足につまづいて、すってんころりと横倒れになった。このとき彼は血相を変えて私に名刺を差し出しましたが、これは無論、私に決闘を申し込んだわけでありますから、私もこの場に臨んで引き下がるわけにもいかず、同じく名刺を彼に渡したのであります。
  これにおいて私は、図らずも彼と決闘をしなくてならぬこととなったが、これを日本人に話せば必ず引き留めらるるから、一切無言で熟考の末、私の友達であったドイツの軍人にこのことを話すと、この男は軍人のこととて、事ここに至っては、断然決闘するほうが宜かろうと勧めたばかりでなく、自ら進んで立会人になろうと言い出されたので、このほか、さらに今一人の軍人を頼んで証人となし、時日を定めて郊外の原中で決闘することとなりました。
 かくして、この決闘までには約二週間ばかりの余裕がありましたが、ドイツでは決闘を申し込まれた方に武器選定の権利がありますから、私は双方武器を使用せずに決闘しようと申し出たところが、当国ではさようなことは行われないというので、しからば先方の好み次第にしようとて、とうとう短銃と定めたので、私の友人らは私に対して、至急短銃の打ち方を稽古せよと申しましたが、私は二週間くらい習ったところで格別の進境もなかろうから、別に稽古するにも及ばぬとて、このまま時日の来るのを待ちました。
 そこで決闘の前夜、宮岡恒次郎氏その他、私と同宿の日本人を招集して、シャンペンを飲んで、それとなく訣別したのでありますが、私が何も言わぬので、なんのために、かような会合を催したのか、いずれも不思議に思っておりました。
 さていよいよ当日となって現場に赴けば、先方は二人の立会人を連れてすでに出張しておりましたが、立会人は双方ともに正服着用で、決闘の場所は、十間(注・一間は約1.8メートル)の間隔を置き、双方号令をかけて三回までこころむる(注・試す)のであります。しかして、今や決闘の始まらんとするとき、先方の立会人が使者に立って、このたびの決闘は、もともと格別の原因もないことだから、双方弾丸を空中に放って、散会しようということでありました。よって当方も、その意を諒とし快くこれに応じたのでありますが、これは先方が私を騙してその身を全うしようという狡猾な手段なのでありました。」(注・次ページにつづく)


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百四十二  水国飛将軍(下巻342頁)

 高田釜吉君が、ドイツじこみの狩猟に堪能で、空を翔ける鳥や地を走る獣、水を泳ぐ魚を、小銃、半弓、投槍、手裏剣、投網、銛などで狙撃すると百発百中の腕前であると聞き、大正八(1919)年四月十三日に君の国分寺別荘でその技量を実見した。(注・240「超人的手裏剣」を参照のこと)すると、それが聞きしにまさる腕前なので、私は君に、「大正養由基(注・養由基は楚国の弓の名手)」の称号を奉り、無上の敬意を表した。
 それからわずか一か月後の同年五月十七日に、君は三井養之助君を荒川の鯉猟に案内され、私にも同遊を勧めてくれたので、私にとってはまさに願ったり叶ったりで大喜びでその日を待ち受けた。
 当日の待合に決めてあった向島の香浮園に出向くと、当園の女将は、かつて新橋の花柳国におり、わが国開闢以来の指折りの名妓と謳われた清香の、成れの果てと言っては失敬かもしれないが、当時は伊井容峰の恋女房となって香浮園の経営にあたっているのは彼女であったので、この待合の並々ならぬ飾り付けには高田君も非常に苦心したようで、床に掛けてある文晁(注・谷文晁)と抱一(注・酒井抱一)の合作の一軸は、文晁の庵室のかたわらに一本柳を描き、その柳の枝にぶらさげてある短冊に、抱一が、

  からかさに柳をわくる庵かな

という一句をしたためたものだった。これは、生粋の江戸趣味を発揮したのもので、憎らしいまでに、よくこの待合に当てはまっているのだった。
 こうして、午後三時くらいかと思われるころ、香浮園の裏手の繋船場に出て、屋形船一艘と曳舟用のモーターボートそして網船の各一艘に乗り移り、曳舟はポッポッと音を立てて上流にさかのぼった。千住の大橋の下を潜り、十数丁(注・一丁=一町は約109メートル)上手にいたると、右岸は蒹葭菰蒲(注・水辺の植物)が一帯に生い茂り、左岸は榛(注・はしばみ。カバノキ科)の林が空を覆い、見渡す限りの新緑が入り交じり、水国の風光は清快限りなかった。流れの上手から下手に向かって、約千尺(注・約300メートル。一尺は約30センチ)ほどの麻糸に五、六尺ずつの間隔で、高田流一子相伝の香餌をつけた釣り針を垂らしておいたものを上流から順番に手繰って調べてみると、二、三寸から、大きいものでは五寸ほどの鯉がその釣り針に掛かって水際で溌剌として跳ね回っているのを手網ですくい取っていく。そして、千尺の糸を引き上げ終わったときには、十六匹の鯉が掛かっていた。
 そこまではそれほど驚くほどでもなかったが、さてそれからが高田君の離れ技を見せてくれるところで、今度は銛で水中の魚を刺すところ御覧にいれよう、ということになった。長さ四尺(注・約120センチ)ほどの樫棒の下の端に、長い菅糸(注・すがいと。生糸を練る前の状態の一本のままの糸)をつけた銛をはめて、蓋と底の両方にガラスを張った、縦が七、八寸で横一尺ほどの長方形の箱の半分を水中に入れ、そのガラスごしに川底を覗き込むのだが、この日は雨のあとで河の水がやや濁っており、私たちには一尺以下でさえ見分けられないのに、君のそのガラス箱をとおして八尺くらいの水底をはっきりと見ることができるそうで、左手にこの箱を持ち、右手で銛の柄を持ちながら、舷(注・げん。船の側面)に寄ってしばらく水底を眺めていたが、やがて狙いを定めて銛を突きさすと、はたして手応えがあったようだった。まず銛から外れて浮き上がってきた樫棒を納め、刺した魚を菅糸で手繰りあげると、獲物はすこぶる大きな魚だった。簡単には引き上げられないのを徐々に引き寄せて、手綱ですくい上げてみると、銛が五寸ほどの大鯉の背中を斜めに突き通しているという手練れの見事さなのであった。手裏剣で飛び立つ鶉をしとめるのと同様に人間業とは思われず、私たちは驚嘆のあまり、そのみごとな命中をヤンヤと賞嘆してやまなかった。
 高田君の演技は、この離れ技でもまだあきたらないもののようで、今度はその一番得意だという投網の実演を私たちに見せてくれることになった。
 投網に取り掛かろうとして、洋服の上に黒いゴム(原文「護謨」)製の筒袖着を着け、下にはやはりゴム製の茶色いズボンをはいて、海水浴用の大編み笠をあみだ(注・前をあげて阿弥陀の後光のように)にかぶり、投網を持って船の舳(注・へさき)に立っている武者ぶりを、三井養之助君は、例の諧謔によって曾我廼家(注・曾我廼家五郎か)の太田道灌に見立てたが、敵ながらあっぱれ、と言いたいくらいの適評であった。
 投網の打ち方については高田君一流の工夫があって、普通より少し高めに網を上げて、腰の呼吸でエイヤッと投げ入れる。その網は、あらん限りに広く四角く広がって水中に落ちていったが、これは長年の手練れで、当日高田君の幕僚として船中に同伴していた築地の網屋藤兵衛、すなわち網藤老人も、ただいま網は、まことによく打てましたな、と感嘆の声を発したほどだった。
 こうして水国の余興が続く間に、暮色は蒼然として川面をおおい、腹には北山時雨(注・きたやましぐれ。空腹のこと)を催してきた。すると水国の飛将軍は、たちまち船中の大膳頭(注・料理長)となって、鯉こく、すっぽん汁、手長海老の天ぷらなどが、所狭しと運び出され、近来無類の御馳走となった。
 折柄、旧暦の十八日の月も昇ってきて、江上は一層の眺めになり、舳艫相ふくんで(注・じぐろあいふくんで=多くの船が続いて進むこと)そろそろと川をくだった。
 やがて香浮園に帰り着くと、ここにもまた、茶目っ気あふれる主人の風流が現れて、床に掛けられた頼山陽の半切には、

  打魚航去入菰蒲 昏黒帰来網不虚 溌剌満籃飛不定 挙灯難弁是何魚

という七絶があった。
 今日の趣向も、どうやらこの一軸から割り出されたのではないかとさえ感じられたものだから、私は帰宅後に、それに和韻して、礼状とともに次の一首を高田君に贈ったのである。
  
  
風弄軽柔入緑蒲 我心縹渺欲凌虚 依稀移得泰准景 画舫掲簾観打魚
 
【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

【箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百四十一  蛙の行列(下巻339頁)


Image-1


 大正七(1918)年の成金現象としては道具入札市場も空前の盛況を示した。書画、什器はもちろんのこと、金具、根付、緒締(注・印籠と根付などを結ぶ二本の紐を通し、印籠などの蓋があかないようにする留め玉)などの、いわゆる袋物の類も値段が倍化した。その名品にいたっては、娘一人に婿八人の引く手あまたのありさまだった。
 平岡吟舟翁は、長年袋物を取集する趣味(原文「癖」)を持ち、この世界の珍品という珍品はたいてい翁の手中に納まっていたため、袋物商は日々翁のもとに詰めかけ、さかんにお払い下げを嘆願していた。
 そのころ大流行していた加納夏雄の作品の中で天下一品とされていた「蛙の行列」は、細長い金具の表に十五匹の蛙が彫られ、裏座に御婆子(注・オオバコ。別名ガエルッパ、ゲーロッパ、オンバコ。弱ったカエルをこの葉陰におくと元気になるという俗説からカエルバともいう)の葉をあしらい、裏座止めに一匹の蛙を置き、全部で十六匹の蛙が大名行列をなすという図案である。
 夏雄はその意匠を、鳥羽僧正の動物絵巻物(注・鳥獣戯画)から借りてきたものとおぼしく、オオバコの葉で作られた駕籠に乗っている親蛙を中心にして、タンポポ(原文「蒲公英」)、オオバコなど、さまざまな草花を、槍や馬印(注・うまじるし。武将のいる場所を示すための装飾物をつけた棹など)とした同勢が、ぞろぞろと練りゆく姿を、赤銅や、素銅、金銀、四分一(注・しぶいち。銅3、銀1の割合で作った日本固有の合金)などのさまざまな金属材に彫刻してある彩色配合の妙は得も言われないもので、夏雄がこれを製作したときには、いかに苦心を費やしただろうかということがよくわかる。つまりは、夏雄作の金具のうちの白眉といえるものであるから、たとえほうぼうから懇望されたからといって、翁は簡単に手放すことはなかったのだった。
 しかし、京都の道具商である林新兵衛の子、政次郎が、近江八幡の大家である浅見氏(注・実業家浅見又造の子孫か)の依頼を受け、一万円でぜひともこれを譲り受けたいという申し込みがあったとき、父の代からの出入りの道具商でもあり、またこの青年のために花を持たせてやろうという思いやりもあって、翁もついにこれを手放すことを決心したのである。
 この金具はまさに天下一品の品であったので、いたるところで大手を振って、なんびとにも土下座をさせなくてはいけない、ということで、紙片に即座に書きつけて渡された端唄は、次のようなものだった。

    天下御免の行列が、お江戸を立って、上方へ、行く先々は、下に居ろ。

 こうして、政次郎はこの蛙の行列を得て、同業の先輩さえも舌を巻いた光栄を祝うために、新旧の所有主をはじめ、その他の袋物を趣味とする連中を招いて、一夕、この金具披露会を催すことにした。それにあたり、私に「蛙の行列」という歌詞を注文されたので、私は、吟舟翁の次のような端唄を土台にして、さっそく新曲を物した。その文句の中では、蛙の言い分として、

  わしがししをば、何と見た、おありがたやのお婆さん、蓮のうてなにころげ出た、釈迦の涙と手を合す。

という一節があるので、その披露会を釈迦降誕の四月八日(注・翌年の大正8年)に決め、蛙に縁のある三十間堀の某旗亭(注・料理屋。会場は「蜂龍」だった。)を会場とし、会の名を観蛙会と名づけた。そして新旧の所有主のほかに、岡田雨香、今村繁蔵、戸田音一、伊丹揚山ほか、袋物屋連中の数名を加え、行列の蛙の数と同じく、来客を十六人にとした。 さて当夜は、会場の床には、潅仏会(注・かんぶつえ。釈迦の誕生日に甘茶などを釈迦仏像の頭頂から注ぐ法会)の花見堂が安置され、中に、かの蛙の行列金具を陳列し、鳥羽僧正の蛙の合戦絵巻の一部を写した献立書には、蛙に縁のある川や池に産した料理の献立が列記された。水菓子に蛙卵とあるのは何かと思えば、葡萄の実をひとつもぎとって、これをおたまじゃくしに見立てるなど、ずいぶん奇抜な意匠のものもあった。
 さて、この観蛙会の余興は食前食後にわたり珍芸がいろいろあったが、真っ先にあったのは柳家小さんの素人芝居と、蛙が青大将に恐れ入る落語の一席で、次は、猫八(注・江戸家猫八)の物まね鳥獣虫類の声色で、各種の蛙の鳴き分けから多数の蛙合戦の喧騒乱雑の状態を活写する頃には、一座は蛙気分に包まれた。
 こうして余興が進むうちに、つぎの間に掛け渡されていた踊り舞台の引幕が両側に開かれた。すると当夜の主人である政次郎が常磐津地語の首席に座り、老妓連中をワキ、ツレにして、「忍夜孝事寄」(注・しのびよるこうにことよせ)、すなわち平親王将門の娘、滝夜叉の一曲を語り出し、まず来客の度肝を抜いた。
 光国(注・朝廷から滝夜叉姫の成敗を命じられた大宅太郎光国)と滝夜叉の大立ち回りになったとき、張り子の大蝦蟇が舞台に飛び出し、相馬錦の旗を両人で引っ張るという見得を切ると、その旗には一万両の文字がありありと現れるという趣向などは、さすがに凝りに凝った思い付きであった。
 さてその次は、いよいよ新曲の蛙踊りだった。雛妓十五人が子蛙になり、親蛙一匹がその中央に立って統率するというものだ。髪は天平式の双髻(注・そうけい。髻=もとどりがふたつある)で、衣服も天平時代のもので、上に色衣詰袖の服を着け、下に袴をはいていた。五彩燦爛の(注・色彩豊かであでやかな)、見目麗しい(原文「辺り目映き」)十六人の蛙姫が、まず舞台に平伏し、いっせいにヒョコヒョコと這い出し、四人一組、八人一組、文句に応じてさまざまな手振りをする。そして最後には十六匹がいっせいに総踊りをして幕となるという面白さで、まったくのところ、春宵一刻値千金(注・蘇軾「春夜詩」から)ともいうべき朧月夜に、粋客が一堂に会したこの会のことを今日振り返ってみると、ほとんど隔世の感を覚えざるを得ない。
 畢竟(注・つまるところ)、成金時代の好景気を反映する一喜劇として、当時の世相を知る一端ともなると思われるので、ナンセンスな蛙物語を、くどくど書き連ねた次第だ。




【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

このページのトップヘ