二百七十 名物形石灯籠供養(下巻447頁)
私は明治二十六(1893)年、大阪に仮住まい(原文「僑居」)したころから、奈良、京都を中心に、五畿内各地の神社仏閣にある著名な古石灯籠観賞めぐりをしていた。そしてその古色を愛し、また時代によって製作を異にする形式の変化を研究し、おおいに興味を感じるあまり、奈良の石工に命じて各所の名物石灯籠を原形そのままに模造するまでになった。
大正十一(1922)年に、それが既に二十基に達したので、私はこれを前妻の墓所である音羽護国寺に寄進し、観音堂東南の鐘楼と銅仏のあいだに建て並べることにした。
同年の五月にその工事が完成したので、六日午後一時から五時まで、同好の人を案内して、ちょっとした石灯籠供養を営んだので、その縁起について今ここで大略を述べることにしよう。
私は多年、築庭が趣味で、したがって、古い庭石を手に入れるために、おりおり奈良あたりに出かけ、古い石塔、伽藍石、あるいは石灯籠などを多数買い入れた。
明治三十二(1899)年ごろ、奈良法華寺の書院の前にあった法華寺形という古石灯籠を譲り受けてからは、ことに石灯籠に興味を持ち、その後さかんに探索を続けたが、本歌は容易には手にはいらないので、奈良の石工である石田太次郎に委嘱して、まず最初に、元興寺形、般若寺形、祓戸形などを模作してもらった。現物と寸分の違いもないようにするために、奈良の道具商の柳生彦蔵に依頼して、その工事を監督してもらった。
最初は四、五本作るつもりであったのが、だんだんに増加して、ついに二十本に達したので、この上は、それらを分散するのも惜しいことだと思い、ある景勝の場所に建て並べて、ひと目に併観できるようにする方法を種々考えたが、熟考の末、前述のように音羽護国寺境内を選定した次第である。
音羽護国寺は、東京市中において一番の景勝の地を占め、境内は広々とした高台にあり(原文「高敞」)、老樹が多く、名物の石灯籠を設置するには無類の好適地だと思った。執事【のち貫主】の佐々木教純師に相談したところ、石灯籠は除闇遍明(注・じょあんへんみょう。闇を消しあまねく照らす)の意義にかない、境内の装飾として、まことに恰好のものであるので喜んで受納したいと言われたので、大正十一(1922)年初夏より工事に着手し、秋の中頃にすべての設置を終えたのであった。
石灯籠というものは本来、年を経るにつれて古色を加えて価格も増すものであるから、杉の苗を植えるのと同じく、知らず知らずのうちに、将来は相当の寺の財産になるだろうと思う。
そのあたりのことも十分に考えて、地盤も十分に堅固にし、周囲には鉄柵を設けた。また後人がその来歴についてわかるように、かたわらに一基の石碑を建てて、西園寺陶庵公の「除闇」という二字の篆額の下方に自撰の碑文を彫りつけた。その文句は次のとおりである。
神齢山護国寺は、皇城の乾位を占めて、新義真言宗の道場たり。予曩(注・さき)に前室の物故に遭ひて墓域を此地に定む、其後護国寺維持財団の設立せらるるや、選ばれて理事長と為る、乃ち宿縁の浅からざるを思ひ、南都付近著名の石灯二十基を模造し、之を観音堂の東南に駢置して、記念を他日に留めんとす。惟ふに石灯は久しきに耐えて色を増し、除闇遍明、能く真言の教理と符号し且その上代名匠の典型は、観音をして自から矜式する所あらしむるに足る。是れ予の敢て此挙ある所以なり。因て碑を建て事由を録して後人に告ぐ。
国まもる寺のゆくすゑ照さなむ 万代ふべきこれのともし火
大正十一年歳次壬戌十一月
箒庵 高橋義雄
なお、その背面に列記した二十基灯籠の名称は、次の通りである。
般若寺形 多武峰形 元興寺形 三月堂形 栄山寺形 蝉丸形 灯明寺形
太秦形 当麻形 西之屋形 平等院形 法華寺形、八幡形、柚之木形
奥之院形 道明寺形 飛鳥形 祓戸形 蓮華寺形 雲卜形
さて私はこの石灯籠を護国寺に寄進すると同時に、維持費として金五千円を付け、百年の期限でこれを三井信託会社に預けておいた。それから十二年間に、複利がほとんど三千円にまでなり、これを百年すえおけば約五百万円に達する計算になる。今後だんだんと利息が下がるとしても、まだ三、四百万円にはなるはずなので、そのときには、護国寺境内に大仏殿でも建てたらどうだろうというのが、私の道楽なのである。
今、世間の事柄については、来年のことを言えば鬼が笑うというけれども、寺院の問題に関しては、百年先の話をしてもあまり可笑しく思われないのが不思議である。