だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

2017年11月

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二百四十  超人間的手裏剣(下巻335頁)

 大正八(1919)年四月十三日、私は高田釜吉君の国分寺別荘に招かれ、君の、超人的な手裏剣の妙技を実見するという眼福を得た。私はこの妙技を見て、昔、楚の国の養由基(注・ようゆうき。弓の名人)が、柳葉を百歩離れたところから射て百発百中のうまさだったとか、わが国で寛永時代の武芸者が太刀先三寸で身を倒す早業があったというような伝説が、決して作り話でないということを確信するにいたった。
 高田君がドイツ留学の十年間で、工学研究のかたわら、銃術、投槍、手裏剣などを学び、抜群の技量の持ち主であることは以前に伝え聞いていたので、ある日その実演のお手際拝見を願ったところ、高田君は何度か辞退したのちに、せっかくのお望みなので、国分寺の別邸で拙技をお慰みに供しましょうということで、銃猟に以前から親しんでいる古河虎之助男爵も招請してくれた。そこで当日私は、男爵と同道して、新宿から八王子街道を経て国分寺の高田別荘(原文「別墅(べっしょ)」に向かった。
 到着してみると、高田君は私たちを広大な雑木林に導いた。そこで古河男爵はまず、その腕前を見せるべく、猟犬一匹と勢子(注・せこ。狩猟者の補助をする人。原文では「背子」と表記)七、八人を放ち、林の中の小笹竹やぶの間から、前もって飼い置かれていた鶉を狩り出させ、射撃した。男爵はこの道の鍛錬者であって、一発、また一発と、十中の六、七まで命中されたので、私たちはその腕前にしきりに感服した。
 今度は高田君が本舞台に乗り出すことになったが、霰弾(注・さんだん、散弾。多数の細かいたまが同時に発射される仕掛けの弾丸)などではおもしろくないので、実弾で試そうということになった。
 その前口上として、「鶉の雄は、胸のあたりが赤く、また雌は、ポツポツと黒い斑点があるのでこれを見分けることができる。そして、その飛び方や動作にも自然に違いが見られるので、鳥が飛び立つ瞬間に、まず、雄雌のどちらなのかを明言し、最初はその右翼を打ちとめることにします」と言い終わるや、一羽の鶉が飛び上がる見て、これは雄だと言って、すぐに打ち落としたのを拾い上げてみると、予言に間違いなく、はたしてそれは雄鶉であり、みごとに右翼を射貫かれたのであった。そして、この次は左翼を打ってみせようと宣言すると、そのとおりになったので、私は舌を巻き、その神技に驚いたのであった。
 しかし高田君は、鉄砲で鶉を打つことなど造作もないことのようで、今度は手裏剣を試そうということになった。
 櫟(注・くぬぎ)林の片隅をたどっていくと、足元から二間(注・一間は約108センチ)くらい離れたところで、一羽の鶉が飛び立った。その瞬間、さっと打ち出した手裏剣は目にも止まらず、そのとき君は勢い余って一間ばかりもよろめいて、どうとその場で倒れてしまったので、狙いははずれてしまったに違いないと思いきや、「今のは命中疑いない」と言われるので捜索してみると、尖端が鋭い三角形になっている笄(注・こうがい。かんざし)のような手裏剣が鶉の胴に串刺しになっている見事さで、実際に見ていない人に話しても、ほとんど信じてもらえないほどの妙技なのであった。
 その後この櫟林を横切り、さらに数十歩行ったところで、またまた一羽の鶉を狙われたが、これも見事に命中した。しかも、ほとんど前のときと同じ場所を貫いたその手練は、一発目の成功を裏書きして、あれが偶然ではなかったことを証明することになった。
 このとき、河原の太之という下僕が、私たちを追って来て、遥かむこうの松の梢を指さし、あそこに鳩が一羽止まっているので、これをお射止めなされませ、といって、鯨製の、長さ三尺ほどの半弓に、白羽の矢をつがえて高田君に差し出した。君は藪陰伝いにそろそろと近づき、ヨッと引きヒョウと切って放つと、その矢は飛び立とうとする瞬間の鳩を松の梢に射止めたのであった。私たちは、鳩がバタバタともがいている、その松の木を仰ぎ見て、思わず感嘆の声をあげずにはいられなかった。
 高田君は、鉄砲、手裏剣、半弓と、やってだめなものはなかったが、今日はとりわけ出来がよかったと、みずから宣言されたとおり、百発百中で余裕綽々(注・しゃくしゃく)としていた。しかも危なげも一切感じられなかった。
 さて、今日の試練はこれくらいにすることにして別荘に戻ることにした。すると、料理に堪能な高田君は、たちまちにして猟装を脱ぎ捨て料理番に早変わりした。そしてみずから台所に立って、ひとつひとつ塩加減を試していたところ、先ほどの太之が、「ただいま、畑に雁が降りています」という報告をした。それをきいた君はすぐに立ち上がって、「さらば、その雁を打ち取って御馳走のひとつに加えよう」といって、早くもわが手中におさめたような口ぶりでイギリス製実弾二連発を携えて裏手から駆け出した。すると、出て行ったと思う間もなく、大きな鴻雁【ひしくいがん】を打ちとめて持ち帰られたので立ち上がって見に行った。すると、頸部のいちばん細いところを射抜いてあるのであった。このとき高田君は、雁の胴体を打ってしまうと今夜の御馳走にならないと思い、頭部を打とう苦心したのに、少し下がってしまい頸部に当たったのだと言うのである。そこで太之に命じ、その弾道を測らせてみると、距離は百六十五間(注・約180メートル)だということだった。
 私などは、この間隔では鳥がいるかどうかもわからないほどなのに、君は超人的な眼力をそなえているものとみえる。
 とにかく、私は生まれて初めてこのような妙技を見て、おおいに驚き、かつ悟るところがあったので、その当時この話を披露したこともあったが、ここに再び記述する次第である。


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 二百三十九   
露国舞踏家スミルノワ
(下巻
331
頁)

 欧州大戦(注・第一次世界大戦)の余響は、日本の財界、政界に予想外の反応を呈し、ものごとの多くの場面に「福徳の百年目(注・めったにおとずれない幸運)」とでもいうような吉祥をもたらしたが、芸術方面においてもまた思いがけない収穫があった。それは、英、仏、露、独、伊の諸大国が次第に持久戦に入ると、戦争関係以外の事物はほとんど世間から閑却されたので、ふだんのときなら簡単には外に出てこないような第一流の芸術家が、東洋の果てまで流れ流れて日本に来朝するという珍現象が起きたのである。その中で、もっとも私たちを感動させたのは、ロシアの舞踏家、スミルノワ嬢(注・エレナ・スミルノワ)と、イタリアの彫塑家ペシー(注・ペッチ)氏のふたりだった。
 よってまず、ロシアの舞踏家、スミルノワ嬢のことから語ることにしよう。

 エ・スミルノワ嬢は、ロシア帝室劇場(注・マリンスキー劇場)の第一等舞伎(注・プリンシパル)で、後年来朝したパブロワらとともに、ロシアでは最も著名な舞踏家であったという。
 大正五(1916)年、嬢は、補助オ・オブラコワ嬢(注・オリガ・オブラコワ。補助の意味はプリンシパルではないという意味か)、舞踏教師のべ・ロマノフ(注・ボリス・ロマノフ。実際には教師ではなく踊り手のようだ)、ピアニストのワンブルーのほかに一名の一座五人で、わが帝国劇場に出演することになった。
 公演の時間は三時間で十七曲が上演された。そのなかで、ロマノフの演じた「漂流民」についていうと、それは漂流の老人が路傍で憐れみを乞うても、だれも相手をせず、かえって嘲笑する者までいることに失望し、彼はついに反抗心を起こし憤然と立って世を罵るという筋書きだった。その表情の軽妙さに私たちは非常に感動したものだった。
 次はスミルノワ嬢の演じた「瀕死の白鳥」で、波静かな湖上に白鳥が悠々と遊んでいたところを猟夫に突然射られてその心臓を貫かれると、その白鳥は断末魔の苦悩を見せながら最後に静かなる眠りにつく、という一曲であった。これは、その後パプロワその他の舞踏家によって、またかというほどたびたび繰り返されたが、私は最初に見物したためか、その姿勢や表情が真に迫っており最も深い感動を与えたのはこの人ではないかと思った。
 スミルノワ嬢は当時二十六歳で、小柄で細面で、それほど美人というわけではないが、表情に限りない妙味があり、私としては、欧州諸国に大名をとどろかせた、あのパプロワなどよりも、かえって深い印象を感じたものだ。今一度見物したいものだと思っていたが、ついに再びやってくることはなかった。
 あのような舞踏家を日本にいながらにして見物する機会を持つことができたのは、すべて世界大戦の余といってもよいのではないかと思う。
 


伊国彫塑家ペシー氏(注・
Pecci
ペッチをペシーと読んでしまったものだろう)(下巻333頁)
 
 イタリアの彫塑家ペシー氏が、大正六(
1917
)年ごろ、しばらく日本に来遊し、山県元帥はじめとする数名の塑像を製作したのもまた、欧州大戦の結果、彼らの仕事が閑散になってしまったためであろう。

 ペシー氏は、イタリアの有名な彫塑家で、以前、イギリスのキッチナー元帥の肖像懸賞募集があったときに、その選に入ったこともある。
 これはよい機会であるということで、藤田平太郎男爵は、彼に山県元帥の胸像を製作してもらおうと、元帥にモデルになる同意を取り付けた。ペシーは、朝早くから、東京から小田原に出張し、三時間から四時間、塑像の製作に従事するということが約一週間にわたって行われたという。
 そのときの山県元帥の感想についての直話は、次のようなものである。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

 「藤田より熱心に勧誘せられて、自分もとうとうペシーの望み通りモデルになることを承知したが、一、二度座ればよいというのが、一日三、四時間ずつ、一週間も継続したので、中ほどからたまらなくなって、御免蒙ると言い出したところが、枢密顧問官、安広伴一郎が監督かたがた出張してきて、仕掛けたからには、どうでも仕遂げなくてはならぬというので、とうとう辛抱して、このほどようやく期満免除となった、自分は最初椅子に倚(注・よ)って、謹直に控えていたが、あまり退屈なので、人と談話してもよいかと聞けば、更に(注・いっこうに)差し支えないというので、毎日安広を呼び出して、雑談をなしつつ退屈を忍んでいたが、だんだん彼の話をきいてみると、さすがに世界的の人らしく、およそ人の肖像を作るには、長時間これに接して、よくその精神を会得し、形似のほかに、気韻(注・品格、気品)を写し出さなくてはならぬので、自然、時日を要することとなるのだという。彼がある人に語ったというを聞くに、自分の頤の辺の骨格は、人の頭梁として部下を愛撫する骨相を備えており、また、目はドイツのカイゼル(注・ヴィルヘルム2世)、とすこぶる類似するところがあるとのことである。これはよいのか悪いのか自分には一向わからないが、世界的彫塑家となるには、骨相学上にも相当の心得がなくてはならぬのであろう云々」

 このペシー作の山県元帥塑像は、大正十二(1923)年の震火災(注・関東大震災)で焼失したが、ペシーは当時、同像を二個作り、一個は某氏が所蔵しているということを山県家が聞き込んで、その後この像を山県家が買収し、陸軍戸山学校に寄進されたそうである。
 とにかくペシーが日本にその作品を遺すことになったのは、欧州大戦の余といってもよいだろう。


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二百三十八  虎肉試食会(下巻328頁)

 大正中期に、欧州大戦(注・第一次世界大戦)の余波で雨後のたけのこのように続出した成金連中には、「槿花一日の栄(注・きんかいちじつのえい。栄華がはかないこと」)というように一盛一衰が激しく、得意の頂点から失意のどん底に落ち込んだ者も少なくない。「貨悖(注・もと)って入る者は、また悖って出ず(注・道にはずれて手に入れた財貨は、また道にそむいて出ていくものだ。「大学」より)の諺にたがわず、栄枯があまりにも急激であり、ほとんど滑稽というしかない者もなくはなかったのである。
 中でも、一時は「虎大尽」の異名を取って有名になった船成金の山本唯三郎氏などは、そのもっともよい見本というべきだろう。
 山本氏は、風雲の会(注・龍が風と雲を得て天に昇るように英雄が願望をかなえる好機)に乗じて成金大尽の急先鋒となるや、征虎隊を組織して朝鮮に押し渡り、咸鏡道(注・かんきょうどう)その他の地方において、さかんに虎狩りを催した。
 また、その獲物をはく製にして持ち帰っただけでなく、世にも珍しい虎肉試食会なるものを帝国ホテルで開き、朝野知名の紳士を招待したのである。
 当夜の来会者は、約二百人で、田逓相(注・田健治郎逓信大臣)、仲小路農相(注・仲小路廉なかしょうじれん農務大臣、原文「中小路」)、清浦、末松両枢密顧問官、神尾大将(注・神尾光臣陸軍大将)、その他の実業家、新聞記者などであった。
 待合室から食堂に通じる廊下を竹やぶにして、岩石の間から猛虎が踊り出さんという演出にし、獲物である猛獣のはく製を陳列してあった。それは、全羅道の水虎、咸鏡道の岳羊、弥巴里【やはり】の注・のろ)、永起の豹、金剛山の熊などであったが、食堂の正面に余興の舞台を造り、その両側に、片側には利原の虎、もう片側にはタンシンの虎と北青の豺(注・ぬくでを飾られた。
 そのぬくでなるものは、大きさも形も狐に類し、眼光は金のようにピカピカで、口は耳まで裂けて、犀利な(注・鋭い)相貌で、性質もまたとても獰猛だということだ。
 当夜の晩餐の献立は、次のとおり。

  咸南虎冷肉ニコミ、トマトケチヤツプ、マリ子(注・マリネ)
  永興鷹スープ
  釜山鯛洋酒むし 注汁
  北青岳羊油煎 野菜添
  高原猪肉ロース、クランベリーソース、サラダ
  アイスクリーム 小菓子
  果物 コーヒー

 虎肉は、今夕の目玉の御馳走だったが、その肉は固くぼろぼろとして、日にちが経っていたためか、または本来の特性のためか臭気がきつく、もちろん賞美できるものではなく、ただ珍しいから試しに一口というだけだった。
 こうして食事が終わると、山本隊長が猛虎のごとき大声で挨拶された。そのなかに、「昔は虎穴に入らずんば虎児を得ず、ということでありますが、今度私等が組織した征虎隊は、山中を狩り歩いたばかりで、しかも幾頭の虎親を獲たので、まことに幸運でありました。なお、この虎狩中にひとつの処世訓を得たのは、虎を獲んとするには、武器よりも何よりも胆力が一番必要なることである。虎が堂々と進み来たるところを待ち受けて、その目を睨み詰め、間近に近寄りたる時、発砲するのが虎狩の秘伝で、もしこの胆力がなくして、虎を見て狼狽するようなことがあれば、虎の乗ずるところとなって、たちまち失敗に終わるのであるが、人事においてもまた、これに類するものがあろうと思う。また加藤清正の虎退治時代には、日本より外国に出かけて、外国の虎を打ちとめたのであるが、今や朝鮮も日本の版図に帰して、私はわが領土内において虎狩をしたのであるから、昔より虎伏す野辺と云いし、その野辺も、自国の領土なるかと思い、自ずから大国人となったような気分を生じ、進取の念が勃念と湧き起こってきましたから、今後は一層、向上発展するつもりであります」などと述べられた。
 そのとき、座中の大倉鶴彦(注・大倉喜八郎)
男爵が、ここで一吟なかるべからずとばかりに、高らかに次のような歌を詠みあげた。


   虎の肉賞玩のひと二人あり 曽我の十郎富士の山本

 このとき末松謙澄子爵は
「ただ今、大倉男のお説では、虎肉賞玩者は古来天下唯二人なりということであるが、今晩は主人の好意により、われわれ一同みなその賞玩者の仲間となりたれば、

   誰も彼も皆な祐成(注・すけなり。曽我十郎のこと)となりすまし 試しにけりな虎の初味

というべきであろうと思うが如何」と披露したので、一座はいよいよ悦に入り、喝采鳴りやまなかった。
 こうして、最後に田逓相が来賓を代表して、「加藤清正の虎狩は、三百年後の今日まで錦絵となり講談となり、わが同胞に勇壮なる教訓を与えているから、今度山本氏の征虎隊も、古人の遺烈を継承して、大いに現代の惰眠を覚醒することであろう。また初物を食べれば、七十五日くらいは生きのびるであろう」など、諧謔まじりの挨拶を述べ、前代未聞の虎肉試食会を終わったのであった。
 この会なども、成金時代の一挿話として後代の語り草として残るにちがいないものだ。


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二百三十七  独逸狩猟談(下巻324頁)

 大正八(1919)年一月末のことであった。私はある晩、井上勝之助侯爵(注・井上馨の甥で養嗣子)に招かれて築地の瓢家に出かけたが、その席には、高田釜吉、岩原謙三、有賀長文、野崎広太諸氏の顔が並んでいたので雑談は八方に飛び広がり、興味はいやがうえにも沸き立った。
 なかでも高田釜吉君のドイツ留学中の狩猟談は興味津々たるものがあり、非常に参考になるべきところがあるので、その大要を紹介しておこう。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

「私は本来、狩猟が好きなので、ドイツ留学中、ひととおり、かの国の形式を研究せんと思い、あるとき同国において名高い狩猟先生方に入門しましたが、不思議なことには、日本において囲碁の階級に、九段を名人といい、八段を上手というがごとく、ドイツにおいてもやはり、狩猟の名人を九段と呼んで居るのである。
 ところでこの先生は、いわゆる名人の称あるにそむかず、狩猟上においては、ただその目的物を撃ち取るのみをもって能事とせず、それぞれの場合に応ずる心の働きを主として、優等合格の弟子には、卒業の際、三段の免状を与うるのであります。
 私が卒業の際は、同級生が七人ありましたが、私は幸いにして、その第二番目で卒業することを得ました。しかしてその卒業試験というのが、いわゆる心の働きを主とするもので、第一番の生徒に対する試験は、小鳥が七羽飛んできたのを打ち取るべしと命じたのでありますが、さすがに第一番の位置を占めるほどなれば、二連発にて、まず最初の一羽を打ち、第二弾にてその次の一羽を打ち落としたところが、先生は非常に不機嫌で、そもそもこの小鳥は、スウェーデン(原文「瑞典」)、ノルウェー(原文「諾威」)などより独逸に飛び来たった渡り鳥である。されば、ドイツ国よりいえば、かかる外国の渡り鳥は、一羽も残さず、ドイツの国内で打ち取らなくてはならぬ。すなわち、この鳥の飛び来たった時、まずやりすごして、いずれかに落ちたところを待ち受け、時宜を見計らって打ち取らば、七羽中の四、五羽くらいは手に入るべきはずなるに、一時に二羽を打ち取って、残る五羽をドイツ国外に取りのがしたのは、狩猟者として、はなはだ無念の至りである、とて、三段の免許を与えず、それを二段に落としたのである。

 さてその次は私の順番で、ある池の中に三羽の鴨が下りて居るのを打ち取れということであったが、私は前例に懲りて居るから、なんでも三羽を残らず打ち取らなくてはならぬと思い、さまざまに工夫して、稍(注・やや=しばらく)一時間ほど小蔭に隠れて待って居ると、折よくも、二羽の鴨が一列に打ち重なったので、たちまち一発にしてこれを撃ち取り、他の一羽が驚いて飛び上がったところを、さらに撃ち取って、三羽ともにしとめたので、まず良かったと思って先生の前に出ると、先生が言わるるには、鴨は大型の鳥であり、ことに、池水に浮かみ居るところなれば、これを撃ち取るのは無造作であるが、一時間余りも辛抱して、時期の来るのを待っていたその耐忍に対して、三段の免許を与うべしとて、図らずも優等卒業の光栄を得た。
 右様の次第で、かの国の狩猟試験が、日本の剣道物語に伝わって居るがごとく、心の働きに重きを置くという一事は、東西相対して、まことに興味ある行方だろうと思います。
 またあるとき、今晩の主人である井上(注・勝之助)侯が、ドイツ皇帝(注・ヴィルヘルム2世か)から、かの禁猟地においてアワーハンスといえる名鳥(注・詳細不明)を狩猟する許可を得たことがある。このとき私は井上侯の随行員として禁猟地に赴きたるに、狩猟長官は私等にむかい、『そもそも、このアワーハンスは、ドイツ領内に五、六十羽のほか棲息せざる鳥なれば、皇帝のほか、これを狩猟することを得ないのである。しかして、その形は、七面鳥のごとく、肩に青き毛を被り(注・肩が青い毛でおおわれ)、尾は孔雀のごとく団扇形に開くもので、かなり大型の鳥ではあるが、その挙動がきわめて鋭敏で、大木の間を飛び回り、容易に人を近づけぬが、ただ、かの交尾期にあたっては、小高きところにとまって、チッチッと鳴いて居る、このときばかりは、かの耳に外物が聞こえぬものとみえ、彼に接近してこれを撃ち取ることができるのである』と説明した。
 ここにおいて私は、是非ともこれを撃ち取りくれんと決心し、井上侯と離れて諸処を徘徊する間に、折よくも、アワーハンスを認めて、一発にてこれをしとむることを得た。 ところがその翌日のベルリン(原文「伯林」)新聞紙は、皇帝陛下がかつて他国人に許したことのない狩猟を日本の大使に許されたとて大々的に特筆されたが、このアワーハンスは、はく製として日本に持ち帰り養父高田慎蔵の湯島邸に保存してありますから、そのうち一度ご覧になるが宜しかろう云々。」

 高田氏は前記のとおり、ドイツ仕込みの狩猟家なので、以前、伊豆地方で一日に二十八頭の鹿を打ちとめたことがあるそうだが、鹿は百間(注・約180メートル)以内には人を寄せつけず、また、胸先の三寸四方(注・一寸は約3センチ)くらいの、ある場所に命中しなければ、手負いのままに遠くまで逃げてしまう恐れがあるので必ず急所を打たなくてはならない。
 かくして、二十八頭の鹿を並べて猟師たちに見せたところ、その鉄砲がことごとく急所に当たっていたので、彼らも舌を巻いて感服したということである。


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二百三十六   越路太夫芸談(下)(下巻320頁)(上へもどる中へもどる

 越路太夫が浄瑠璃一段を語る間に、従来、十回くらい湯を呑んでいたのを全廃して、万一の用心のために湯飲みだけは備えておくが大曲を一段語るのにほとんど一滴も湯を呑まなかったことは、彼の晩年の浄瑠璃を聞いた人々はみな知っていることだが、彼がその演芸中に湯を呑まないことにした動機について、さらに語ったことは次のようなものであった。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた)

「片岡仁左衛門は伊勢音頭の貢を演じ、五人目までは人がよく斬れたが、六人目に至りて、うまく斬れなかったと評されたので、おおいに工夫を凝らしたそうでありますが、彼が六人目で斬り損ないを致したのは、五人まで斬って息が続かぬところより、衝立の陰にかくれて出てくる人を待つようなふりをして、内々湯を取り寄せて、一口飲んで再び立ち上がって六人目を斬ったのであるが、その湯を呑んでいる間に張り切った気が抜け去って本当の気合が掛からなかったがため、その失態を演じたのだということであります。
 ところで私はこの話をきいて、おおいに感ずるところがありましたので、一段の浄瑠璃を語るのに、たとえ声がかすれようが、のどが疲れようが、湯を呑まずに語れぬことはない、途中で湯を呑んでいると自然に気合が抜けるであろうと考えまして、最初舞台へ出る前に充分に用意しておいて、あとは一切湯を呑まずに語り出したところが、慣れて参る間に、これがかえって語りよく、のどぐあいも非常によくなってまいりましたのは、実に不思議のようであります。
 昨年東京に参ったときにも、私は湯を呑まなかったので、あるお客さんが、越路は一段の間に湯を呑まぬ、いや、そんなはずはないと申して、賭けをなされたそうでありますが、私が湯を呑まなかったので、とうとう、一方のお客さんが、百円の損失をこうむったとて、その後私に対しておおいに小言を言われたことがありました。
 大阪の名物、文楽座は、私共の芸術道場でありますから、損益問題を別にして、真の稽古場として、是非ともこれを保存したいと思います。この道場がなくては、弟子を養成することもできず、またここで、ふだん声を出しておりませぬと、東京などへ参って広い場所で語りこなすことができませぬ。
 東京で一番語りよいのは、新富座であります。これは、一番古い舞台でありますので、語り宜くできております。次が歌舞伎座焼失前で、一番語り苦いのは帝国劇場であります。
 帝国劇場は、声が正面に打突かるところがないためか、三階のほうへ抜けてしまって、高いところで聞く方が、かえってよく聴き取れるそうでありますが、語る者のためには、まことに工合が悪いようであります。
 文楽(注・文楽座)は、専門の舞台としては甚だ工合が悪くできておりますが、私共の座って居る演台の下には甕二つを埋めてありますので、どうやら語っていくことができるのであります。
 兎角、芸道は、下へ下へと下がっていくような心地がいたしまして、私共のほうも、前申すごとくでありますが、人形使いのほうもまた、旧のごとくには参りませぬ。
 先代の玉造(注・吉田玉造)などは、八十まで人形を使っておりましたが、これは大人形を片手に持って、高い下駄をはいて、しかも、今日のごとく人形の足を下に下げずに、自分の頭が隠れるようにできていたので、これを補助する二人の者が、常に引き上げらるるようになっておりましたが、これは多年の熟練で、十分腰に力がなくては、なかなか支え切れるものではありませぬ。
 現今では、黒頭巾をかぶらずに人形を使う者もありますが、これは見物の方から見て、人形の顔と重なり合い、まことに見苦しいものでありますので、私は次回、紙治を演ずる時には、是非とも黒頭巾をかぶせて、使わせようと思っております。
 人形使いもなかなか難儀な役でありまして、これもよほど保護しなければ、あとが絶えてしまいますから、大阪名物として、大阪紳士の力をもって、文楽だけは、是非とも保存していただきたいと希望しております。」

 越路は、体格が頑丈な作りで、いつも活気あふれるような、野太い声で、滔々とよく談じるところから、一見して重鎮のひとりとしてふさわしい人物であると納得できるのであるが、その特徴は、のどが非常に太いということである。このような太筒の持ち主なので、上演の長い時間にわたって、あのような音声を継続することができるにちがいないと思われた。
 さて、彼には隠し芸がある。それは、彼一流の舞踏で、相手さえいれば、徹夜も厭わないというほどの熱心さなので、かなりまいらされた人たちもあったようである。しかし、彼にしてみれば、本業の芸にとって、なんらか資するところがあったに違いない。
 とにかく、近代の名人であることに間違いはなく、私は、彼がこの世界の最後を飾ることになる一人とならなければよいのだがと、心中はなはだ懸念をしている次第なのである。


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二百三十五  越路太夫芸談(中)(下巻317頁)(上にもどる

 故越路太夫(注・竹本越路大夫)は浄瑠璃の巧者であったほかに、一流の大将株にもなれるような頭のよく働いた男だった。本領の芸術に対しても、ふだん自覚しているところが、ありふれた世間の芸人とはかなり趣を異にしていた。彼が滔々として話し去り、話し来たる芸談の中には、さらに次のような一節もあった。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)

 「私の師匠、摂津大掾(注・竹本せっつだいじょう)は、明治十年に没した、春太夫(注・竹本はるたゆう)と申す有名な太夫の弟子であります。春太夫も近代の名人で、その語り口には学ぶべきところが多々ありまし。摂津大掾は、御承知のごとく非常な美声でありまして、中将姫(注・近松作「当麻中将姫」)、新口村(注・にのくちむら。「冥途の飛脚」その改作「傾城恋飛脚」などの最終段)、先代萩(注・伽羅(めいぼく)先代萩。原文では「千代萩」)の三つを得意とし、これは到底、他人の追従を許しませぬが、その声のよいだけに、梅川や忠兵衛(注・冥途の飛脚の恋仲の二人)はよく語っても、孫右衛門(注・忠兵衛の父親)の方は晩年まで不得意でありました。
 ところが年寄って、例の美声が出なくなってから、はじめて孫右衛門が上手に語れるようになったので、とかく、老人物は老人が語るべきもので、真似事では妙所に入ることができなかろうと思われます。
 ゆえに、芸はただ、師匠をまねるのみでは、いわゆる底力がありませんから、人を感動せしむることができません。鍛錬に鍛錬を加えて、自然に腹の中から出てくる芸でなければ、奥ゆかしい光が出てこないのであります。
 つまり、師匠のよいところを習い覚え、それに自身の工夫を加えて、自身のものにして語る間に、だんだんと苔が生えたり、寂が付いたりして、師匠は師匠、自分は自分と、変わった浄瑠璃ができるのであります。
 私は来月、文楽(注・文楽座)で紙治(注・かみじ。紙屋治兵衛(かみやじへえ)の略。浄瑠璃「心中天の網島」の通称)を語ろうと思いますが、紙治は、御承知のとおり、近松門左衛門の作でありまして、その後、近松半二が書き直し、また、後になっていろいろ改作が加わり、例の炬燵の段などが出てきたのでありますが、私は今度、近松書き下ろしの紙治を語ってみようと思います。
 そこで義太夫は、人情を人に聞かせるものでありますから、文句のわかることが大切であります。いかに上手に語っても、文句がわからんでは、意味が通じませぬから、非常にその効果を減ずるものであります。私の方のことわざに、「語れ語るな心素直に」と申してありますが、文句が十分にわかって、無理のないように語るには、心素直に語ることがもっとも必要でありまして、義太夫を語るときには、心にわだかまりのないことが必要であります。
 ところで、私などは、少しく自分勝手であるかもしれませぬが、浄瑠璃を語る前に、何か気に障るようなことでも起こると、必ず思うように語れませぬから、家内などにも、申し聞け、浄瑠璃語りの女房は、亭主の機嫌を取るのが必要で、演芸の前には、別して(注・特に)亭主の機嫌のよいようにするのが、その義務である、と申しておりますが、むしゃくしゃした時には、決して素直に語れるものではありませぬ。
 例えば、先刻お聞きに達しました太功記十段目でも、はじめの「一間に入りにけり」と申す一句の出がうまくまいりませぬと、全曲を通じて工合が悪く、到底途中でこれを取り返すことはできないのであります。
 私は昨今、別して、のどの工合がよくなりまして、滅多に声を痛めることがないようになりましたが、義太夫語りは、のどが身上で、声が悪くては、どうにもこうにもなりませぬ。そこで、私が近頃のどの工合がよくなったのは、演芸中に湯を呑むことをやめたのが、ひとつの原因だろうと思います。私も近頃まで、一段の浄瑠璃を語るのに、十回くらい湯を呑んだのであります。

 もっとも、この湯を呑むと申しますのは、がぶがぶと呑むのではなく、ただ唇を湿すがために呑むのでありますが、私は、あるとき、素人の方が、なにげなく語って居らるる話を聞いて、大いに感ずるところがあって、湯を呑むことをやめたのであります。
 その話と申すのは、先々代の片岡仁左衛門だと思いますが、大阪にまだ蔵屋敷のあったころ、伊勢音頭の貢十人斬り(注・「伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)三段目で主人公の福岡貢が十人の人を斬る)を演じました、五人目まで斬るのを、蔵屋敷の御贔屓の旦那が桟敷で見て居って、いちいち、よく斬れたと申して、手を叩いておられましたが、六番目の、衝立の陰に隠れておって、そこへ出て参った女中を斬ったときに、それでは斬れぬと申して、不興の体で引き取られたと聞いて、仁左衛門は、すぐにその旦那の宅に参って、今日御見物の六番目中の人が斬れなかったと仰せられたそうでありますが、私も少し考える(ところ)がありますから、明日是非とも御見直しを願いたいと頼んでおいて、翌日よりさらに工夫を凝らしたそうでありますが、その旦那は、翌日も、翌々日も参らず、二、三日隔てて、しかも人の目に立たぬところに参って見ておられましたが、十人斬りが、十人までことごとくよく斬れたと申して、満足して帰られたということであります。」(注・次回につづく)
 


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二百三十四   越路太夫芸談(上)(下巻314頁)

 大正六(1917)年二月二十三日大阪に滞在中だった私は、文楽座において越路太夫(注・竹本越路太夫)の太功記十段目と津太夫(注・竹本津太夫)のお駒才三が、近来めずらしい大入りだということをきいて、同地の磯野良吉、金沢仁兵衛の両氏と午後二時ごろから文楽座に赴いた。
 まず越路のを聴いたが、彼は近来、老熟の域に達したばかりでなく、のどの具合が非常によく、健実な語り口の中に巧妙なる変化を交え、相当にきれいな美音も出ており、「浄瑠璃にかけては、彼の師匠である摂津大掾よりも一段巧者なり」という評判さえあって、この日もまた申し分のない出来栄えだった。
 ところで、磯野、金沢両氏は越路太夫の贔屓客なので、同夕、彼と津太夫を南地富田屋に招き、夕食をともにしながら彼らの芸術談を聴聞することになった。
 聴く方の私たちが熱心なので、語る彼らも興に乗り、越路の雄弁は滔々として三時間にわたった。その話には、私たちを啓発する内容が少なくなかったので、そのなかで、私の耳にとどまっているいくつかを抜摘して、彼の芸風の一斑を、同好者に伝えることにしよう。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

 「私は摂津大掾(注・二代目竹本摂津大掾せっつだいじょう)の弟子で、初名を文字太夫と申しました。私の修業盛りは、今日とは時勢も違って居りまして、師匠が表に出る時は、その人力車を後押しするような始末で、今日の若い者などには、とても辛抱ができぬことであります。近来浄瑠璃を習いにくる弟子どもは、少しく浄瑠璃が分かってくると、すぐに三味線の方を習って、未熟ながらに弟子を取って、まず銭を儲ける算段をいたしますから、到底、本当の浄瑠璃語りにはなれぬのであります。そこで私は大阪の旦那衆に頼み、大阪名物のこの浄瑠璃を根絶させぬよう、学校のようなものをつくり、寄宿舎に弟子を集めて、ここを卒業した者は、むやみに弟子取りをなさず、何年間かの義務年限を定めて、文楽座に出勤せしむる方法を立ててやる、そのかわり、十年か十五年は、彼らを養成してやるということにしたらば、中には物になる太夫ができるだろうと思って、近頃、折角(注・なんとか)これを旦那衆に頼みこもうと思っております。
 私は三十まで、師匠の供をして、師匠が浄瑠璃を語るときには、必ず湯を汲んで出したものであります。この湯をくんで居る間に、師匠が一生懸命になって語るのを聞き覚えるのが、第一の修業であります。近頃の若い者は、この懸命の師匠の語り口を本気になって聞いていないので、本当の芸を覚えることができないのであります。
 私はただ名人の語り口を聞くばかりでなく、素人旦那方の芸をも、よろこんで聞いておりますが、その語りぶりには人さまざまな特長があって、素人の芸でも、その中に私共の到底真似のできぬものがあります。先般、津太夫が、熊谷陣屋を語ったとき、土居通夫の旦那が、津太夫の熊谷よりも、乃公(注・おれ)のほうがうまいと申されましたが、熊谷その人になって居るという方から申せば、土居の旦那の方が津太夫よりも、確かに優って居るのであります。
 浄瑠璃は他の芸と違い、人情を語り分くるものでありますから、物によっては、相当の年配になって、段々経験を積まなくては、その妙所に達し得ぬもので、五十と六十との間が、本当の浄瑠璃を語れる時代であります。
 さてその経験を積むには、何事にも注意して、思いやりの深いということが肝腎で、往来を歩くにも、うかうかと歩くものではありません。老人子供、人さまざまの風体に気をつけ、他日これを言動に表わすことを工夫しなければなりませぬ。
 私の弟子があるとき、朝顔日記(注・「生写(しょううつし)朝顔日記」)の、かの笑い薬を売るところを語るのに、どんなふうに語ったら宜かろうかと申しますから、私は御霊神社(注・ごりょうじんじゃ)に行って、夜店の物売る声をよく聞いてこいと申したことがあります。朝顔日記のは、かの秋葉より、浜松辺に出てくる薬売りでありますが、御霊辺の夜店で物を売って居るのと、よく似通ったところがありますので、かようなことを、平常注意しておけば、必ず芸道に利用することができるものであります。
 また、弟子の中には、声自慢で、声さえよければ、それで宜いと言う者がありますが、声を自慢するようでは、浄瑠璃を語り得るものではありませぬ。浄瑠璃道においては、「下手に語れ、上手に語るな」と申すことがありまして、ピカピカと声を光らすような者では、まだまだ修業が足らぬのであります。」
 


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二百三十三  舞踏劇馬郎婦(下巻309頁)

 大正五(1916)年、大倉鶴彦(注・大倉喜八郎)翁は八十歳の高齢で男爵への陞叙(注・しょうじょ。位があがること)の光栄をになわれた。この祝賀記念のために、翁は赤坂葵町にある大倉集古館に維持金として五十万円出し、ここを公共に提供されるものにした。
 さらに同年の十一月には帝国劇場で大祝賀会を開き、余興に岡本綺堂の新作で三浦大助脚本の三幕物を上演することになった。
 その際、時間的な都合から約一時間ほどの女性的な狂言を組み合わせたいというので、私がかつて、たわむれに書き散らした舞踏劇である「馬郎婦(注・めろうふ)」を提供せよ、という懇望があった。このときには、鶴彦翁自身からの会見の申し込みがあったので、ある日会っていろいろ相談の末、帝劇専属の作者である右田寅彦の意見もきき上演することが決まったのである。
 この馬郎婦とは本来、三十三観音化身のひとつで、井上世外(注・馨)侯爵の蔵品のなかに李竜眠筆の同図がある。それは手に、ただ観音経を持っているだけだが、ほかに白馬が手綱をつかんでいるポーズのものもあるそうだ。ともかく、美貌をもって衆生済度の功徳を施したという伝説があるもので、あの魚籃観音などとほぼ同趣向のものである。
 私は舞台を紀州の那智山に取り、白妙、実は馬郎婦の役を中村歌右衛門に、そして、その相手方の若人、那智丸を松本幸四郎に当てはめて、その他それぞれの役割を定めた。その配役は次のとおりであった。

    舞踏劇馬郎婦 一幕
     那智山麓の場 滝道草庵の場 観世音霊験の場

 一、白妙        中村歌右衛門
 一、那智丸       松本幸四郎
 一、里の子太郎松    沢村源平
 一、里の子次郎松    尾上泰次郎
 一、巡礼源内      尾上菊四郎
 一、同おくる      松本幸之助 
 一、木樵与惣      沢村長十郎
 一、里の娘田鶴     沢村由次郎
 一、天女        森律子
 一、同         藤間房子
 一、同         初瀬浪子
 一、同         宇治龍子
 一、同         小原小春
 一、同         小林延子
 一、同         東日出子

  付言、此末段天女の舞は日本歌劇に節付致候

 唄春の花は、夕の風に誘はれ、秋の紅葉は、朝の霜にうつらふ  合唱翠帳紅閨(注・すいちょうこうけい。貴婦人の寝室)に枕ならべし妹と背も  〽いつの世にかは、隔つらん  〽凡そ人間の歓楽は  ただ一時の夢の夢。

  長唄連中
   長唄        芳村伊十郎
   三味線       猿若山左衛門
   長唄        杵屋六左衛門
   同         中村兵蔵
   同         中村六三郎 
   三味線       杵屋新右衛門
   同         杵屋五三郎
   同         杵屋六一郎
  常磐津連中
             常磐津松尾太夫
             同  志妻太夫
             同  弥生太夫
             同  鳴渡太夫
   三味線       同  文字兵衛
   上調子       同  文字助
   同         同  菊三郎
   管絃楽指揮者 楽長 永井健子
             外洋楽部員一同
          振付 藤間勘右衛門

 

 この祝賀演劇に私が参加したのは十一月二十七日だったが、山県含雪公も二階ボックスに来観されたので、私はこの劇の作意をくわしく老公に説明した。老公は、女優天女の舞の一節に、「春の花は夕の風に誘はれ、秋の紅葉は朝の霜にうつらふ云々」のところで、しきりにその文意を玩味し、「凡そ人間の歓楽は唯一時の夢の夢」とは言い得てまことによし、と嘆賞されたので、私も大いに面目を施した。
 この舞踏劇は、特に祝賀会の三日間に限って演出したもので、俳優がまだ練熟しないうちに終わってしまったので出来栄えはさほど上々でもなかったようだが、このころまでには、例の豊艶にして上品なる歌右衛門の相貌が観音の化身である白妙として申し分なく、幸四郎の若人、那智丸もまた非常に適役で、上流の観客にはかなりの高評を得たのではないかと思う。
 この劇の末段は、いわゆる歌劇になっていて、短い文句ではあったが俳優みずからがこれを歌ったので、これが日本における歌劇の最初だったとは言えないにしても、ほとんどそれに近いものであったのではないかと思っている。


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二百三十二   郭公落し文(下巻305頁)

 かつて高野山金剛峰寺の記室(注・記録係)を勤め、霊宝館の落成後にその館長となった井村米太郎氏には、以前から文学のたしなみがあり、真琴と号していた。和歌はほとんど作家の域に達しており、勅題の遠山雲に入選したほどの力量がある。
 高野山に、「郭公(注・文脈から、カッコウではなくホトトギス)の落とし文(注・どのようなものであるかは後述)」というものがあるのを、よい歌題であると思いたち、全国の名のある歌人に促して、その吟詠を集めていたが、それが今や数百首にもなっているということである。
 それ以前のことであるが、井村氏が御歌所長の高崎正風男爵に落とし文を送り、その吟詠を求めたところ、男爵は女官の手を経て、その落とし文を明治天皇陛下の内覧に供したこともあるそうだ。
 大正七(1918)年七月末、その落とし文を手紙に封じて私にも送ってこられたが、落とし文とは、昆虫が栗の葉が丸く巻いた内側に自分の巣を作ったもので、葉を開くと粟粒のような小さな卵があり、その形が結び文のように見えるのでこの名前で呼ばれているのである。別に郭公と関係があるわけではないが、郭公が鳴き始めるころ高野山阿弥陀ヶ岳のあたりで、栗の古木から、この落とし文がはらはらと散り落ちるのでこのように名づけたのだそうだ。
 井村氏は、毎年、六、七月ごろになると、この落とし文を書簡に同封して、自詠作品といっしょに私に寄贈するのを恒例にされるようになったが、大正八(1919)年の六月中旬には、例によって手紙を送ってこられた。「落とし文少々御覧に入れ候、若し御高吟を賜ふ事を得ば、何の幸ひか之に過ぎん、昨年御作の歌詞、定めて作曲出来上り候事と存候、雲山路隔たり、之を拝聴する事を得ざるは、遺憾限りなく候」と書かれたあと、その末尾には、次の二首が添えられていた。

   郭公たれに見よとて木の下に おきて行きけむ露の玉草
 
   ほととぎす啼きあかしてもなほつきぬ 思ひをこめし文や此ふみ

 私は、井村氏の郭公落とし文歌集編纂のことをきき、郭公のためになるべく多くの名家の吟詠を寄せ集めてやりたいと思い、その数日後、麹町五番町の新椿山荘に山県老公を訪問したときに、この落とし文を数片持参し御覧にいれた。そして、郭公のために玉詠一篇を恵まれたし、と希望した。
 すると公爵がその後、次のような一首をみごとに揮毫してくださったので、私は表装をして金剛峯寺に贈り、これを霊宝館の什物に加えてもらうことにした。
 その一首とは、次のようなものである。

     高野山より、郭公の落し文を送られけるとて、箒庵主人のおこせければ

                            新椿山荘老主
   落し文ありと知らする玉章を ひらく夕に啼くほととぎす

 山県公爵から、このような落とし文の玉吟一首を賜ったことで、私も高野山に対して大いに面目を施したので、公爵に送った感謝状の末尾に次の一首を書きつけた。

    高野山の知人より、書簡に巻込めておこせける郭公の落し文と云ふを、新椿山荘主公の尊覧に供へしに、頓て(注・やがて)歌詠みて賜はりければ
   落し文君に知られていかばかり うれしなきせむ山ほととぎす

 さて、先ほどふれた井村氏から私への書簡中に、昨年御作の御歌詞うんぬんとあったのは、私がこの落とし文に対して、例によって一歌詞を作り、東明流家元の平岡吟舟翁を煩わして節をつけてもらったと書き送ったので、井村氏がその曲を耳にしてみたいものだと希望された次第である。
 その歌詞というのは、次のようなものだった。

    郭公落し文
 高野山法のともしび、千代かけて、さやかに照す奥の院、名に流れたる玉川や、三鈷の松を吹く風も、ことさら夏は涼しきに、かたわれ月の影すごき、木の間がくれのほととぎす、声のうちより落しゆく、そのふみのなぞ解くよしもがな たのまれし、雁の使ひのそれならで、おもひのたけをしのびねに、洩しかねつつ郭公、その恋文を、エエ誰に見しよと心中立 いろはにほへと、ちりぬるを、わか世の常か、つねならぬ、その色ふかき言の葉を、封じこめたるおとし文、ソツと拾ひし主やたれ 五月まつ、花たちばなの香に匂ふ、軒端の雨のしめやかに、ふるきひじりのみいさをを、しのぶ枕の山こえて、夢みじか夜の中空に、一声名乗れ山ほととぎす


 井村氏は、昭和の初年に病没したので、生前にもっとも親交のあった現大覚寺門跡の藤村密幢師が、その追善供養のために、例の落とし文歌集を出版したいということで大いに尽力したようだが、相当な大部になる見込みなので今日までまだ刊行の運びにいたっていないのは、まことに遺憾の至りである。
 井村氏は高野山霊宝館の最初の館長であるから、同館において、そのうちこれを刊行し、井村氏のために落とし文の光彩を広く天下に示されんことを私は切に希望するものである。


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二百三十一  名物男柴庵翁の易簀(下巻302頁)
  (注・えきさく。礼記で、曽子の死に際に季孫から賜った大夫用の簀[
すのこ]を身分不相応のものとして粗末なものに易[か]えたという故事から、学徳の高い人の死、死に際のこと)

 四十年の莫逆(注・ばくぎゃく。親しい友)であった朝吹柴庵英二翁は、大正七(1918)年一月三十一日、享年七十歳をもって築地木挽町の自邸で、そのもっとも波瀾多き生涯を終えられた。
 翁は豊前耶馬渓(注・現大分県)近く(原文「畔」)の、一民家の子として生まれた。つとに福澤先生の知るところとなり慶応義塾に学んだ。その後、三菱会社にはいり、社長の岩崎弥太郎氏に外交的才幹を認められた。
 だんだんに実業界で出世するうちに、時の大蔵卿であった大隈侯爵らの愛顧を得て横浜に貿易商会をおこし、ここにはじめて本邦人による生糸の直輸出の端緒を開いた。これはいわゆる商権回復の運動であったが、翁はその仕事に邁進したものの、時勢がいまだこれをゆるさず、逆境相次ぎ失敗相重なった。このことで翁は、貿易商会が政府から借用した数十万円の負債を一身に引き受けることになり、当時、日本第一の借金王になってしまったのである。
 それから十数年間、七倒八起の境遇に立ちながら翁が奮闘した武者ぶりは、その円転滑脱の才思(注・才知のすぐれた考え)とあいまって、奇談、逸事を少なからず世にのこした。
 こうして明治二十五(1992)年に、翁は鐘淵紡績会社の専務となるや、拮据経営(注・仕事に励むこと)し、ついに、その衰運を挽回し、今日の同社の隆盛を基礎を築き上げたのである。
 その幕下(注・ばっか。配下)から、和田豊治、武藤山治のふたりを輩出したことは、人のよく知るところである。
 その後、三井の工業部にはいり、ついで同家本部に転勤するころには、義兄の中上川彦次郎をシテとし、おのれはそのワキ役となって、当時の三井の両雄であった中上川、益田(注・孝)
の両者間を円滑にする油となり、いわゆる世話女房としての立場で、物事がはかばかしくないとき(原文「冥々の際」)に、その天賦の調和的技能を発揮したことは枚挙にいとまない。

 その人となりは、聡慧豁達(注・そうけいかったつ。聡明でかつ度量がある)のうちに慎み深さと慎重さを兼ねていた。数字にも強く、記憶力がよく、座談にもきわめてすぐれ、言貌(注・げんぼう。言葉と容貌)に無限の愛嬌をたたえており、円転滑脱、陳を化して新と成し(注・古くなったものを新しいものに変え)、人を笑わせる(注・原文「人の頤(おとがい)を解く」)のがうまかった。
 私は、趣味においても、性格においても、業務においても、翁と非常に近いところにいたことから、社交家として、遊冶郎(注・ゆうやろう。道楽者)としての、そして美術鑑賞家としての翁についてはよく知り、これまでもいろいろな項で記述してきたとおりである。今回は、これまで触れることがなかった翁の文才について、すこし書いてみようと思う。
 翁は、その性格から言っても、狂歌がいちばん得意だった。大正初年、私が山谷の八百善で、道具一品持ち寄りの会を催したことがあったが、そのとき翁に送った案内の返事には、次のように書かれていた。
 「高橋義雄氏より、七月九日に、何か見るべきもの、一品持ちて、山谷の八百善に来れ(注・きたれ)との案内を受けたる時の答に

   九日に八百ぜんと云ふ五あんない一品二三六で七四十も
   (注・後半「一品持参でなしとも」)

 また、名取氏に嫁した令嬢の福子に、長孫(注・本来は、長男の長男のこと)が誕生したとき、
   
   
百までもいきてゐよとは願やせぬ 爺と婆とが死んでから死ね
 

と口ずさまれた。この歌は、あとになって悪戯をしでかし、愛孫は、九歳のときに夭折したので、あんな歌を詠むからだと家内より叱られましたと、翁は当惑した顔で告白されたこともあった。
 さて、晩年にいたり、井上通泰氏について、国風(注・漢詩に対し和歌のこと)を習い始め、そのなかには一風変わった詠みぶりの、いかにも翁の和歌らしいものもあった。
 あるときは、常磐会に出詠して、満点の光栄をになわれたこともあった。その歌は、海辺の夏月という題で、

    風もなく波も音せぬ海原に 曇れる月のあつき夜半かな

というものだった。
 さて、私と翁との交誼(注・親しい交流)は、現世だけでなく、冥土においても相変わらず続くだろうと思っている理由がある。
 大正六(1917)年、私は、翁と、馬越化生(注・恭平)、根津青山(注・嘉一郎)の両老とともに、霊宝館の地鎮祭に参列するため高野山に登山したのであるが、翁はこのときに思い立つところあって、奥の院玉川の橋を渡って、まさにそこから石階段を上ろうとする左側に、朝吹家累代の墓という一基の墓石を建立された。私は、翁といっしょにこれを検分し、私もご近所に墓地を定めて、死後ともにこの山中に来て、時々大声で談笑して、おおいに奥の院を賑わせようと顔を見合わせて哄笑したことがあったので、翁の易簀(注・えきさく。死)の翌年に、私は翁との生前の約束を実行して、翁の墓石に相対する奥の院石階段右側の二本の大杉の木の下に法華寺型の石灯篭を一基立て、その棹の正面に、高野山管長土宜法龍大僧正筆で、箒庵居士塚石燈と刻して、これを墓石に代えたのである。
 その後、私は奥の院に赴き、翁の碑前にぬかずいて次のような腰折(注・自作を謙遜した呼び方)一首を手向けた。

    まてしばし我れも来りてもろともに 高野の奥の月に語らむ

 人の世は無常迅速である。私も早晩、翁の霊とともに高野山の奥の院で談笑を交える時節が到来することだろう。
 


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二百三十  薪寺の一夜(下巻298頁)

 大正五(1916)年九月二十日私は、その前月に、ある人の紹介で突然私の四谷天馬軒を訪問された城州(注・山城=現在の京都府南部)薪寺の客僧(注・修行で旅をしている僧)、月江僧正の勧誘にしたがい、奈良の道具商の柳生彦蔵を帯同して薪寺を訪問し、その夜、方丈に一泊した。はからずも禅寺の閑寂を味わうことができたことは、私の一生にとり、きわめて物珍しい思い出であるので、ここにその大略を記述することにしよう。

 薪寺は、城州綴喜つづき郡田辺村字薪(注・たきぎ)にあるので、この名がある。亀山天皇の文永年間(注13世紀後半の鎌倉時代)に円通大応国師がこの地に建立された霊瑞山妙勝禅寺が、元弘の乱(注・後醍醐天皇を中心とする1330年代の鎌倉幕府倒幕運動)の兵燹(注・へいせん。戦争による火災)で烏有に帰してから、しばらく廃墟となっていたが、国師の法孫である一休和尚が、その遺恩に報いるために開山堂と酬恩庵を建てた。そして和尚が八十二歳のときに、境内に寿塔(注・生前に建てておく塔婆)を造り、軒のひさしに「慈揚」の二字を掲げ、遷化のあとに遺骨をその塔下に埋めたことから世間では一休寺とも呼ばれている
 全体としてこぢんまりした寺院であり、きわめて気の利いた構造であるが、その特色というべき点は、方丈の前の庭園に十六羅漢遊行の形を表した巨巌(注・大きな石)や珍石が羅列されて奇観をなしているところである。
 聞くところによると、この庭園は寛永のころ、この地に退隠して黙々庵を結び、茶事風流をもって残年を送った淀藩士、佐河田喜六昌俊が、その雅友であった松花堂昭乗、石山丈山の二人に相談して構築したものだという。ややもすれば俗悪に流れ易い築庭の趣向が、まったくそのような感じを起こさせないところに、布置結構(注・配置のデザイン)の妙があるのだろうと思われた。

 さて、九月二十日、奈良から汽車で木津に赴き、そこから大阪桜ノ宮に通じる片町線に乗り換えて田辺駅で下車すると、月江和尚が停車場に出迎えてくださったので、そこから寺までの村道八丁(注・一丁は約109メートル)を歩き山門の入口に到着した。
 その突き当りの石階段の上には、一休和尚の手植えといわれる、うっそうと茂る杉の老木が三本ある。甘南備かみなび山のふもとということで位置はそれほど高くないが、森閑たる境内は、おのずから人の心神を澄みやかにさせるものがある。
 石階段を上りつめて右折すると、その正面が本堂で、むかって右手には一休和尚の墳墓と、元は京都東山にあった虎丘という禅堂があった。
 そして、酬恩庵は左手の一段低いところにあったが、庵主は田辺宗晋といって、年の頃は六十五、六歳と思われ、見るからに寡黙で朴実な老僧であった。
 私たちは、この日、境内を一覧したのち奈良まで引き返すつもりだったが、宋晋、月江両和尚が、しきりに一宿を勧めてくれるので、生まれてこのかた経験したことのない禅寺の雲水となるのも面白かろうと思い、ついにはその好意を受けることにした。しかしもともと一泊の用意をしていなかったので、柳生とともに老和尚の浴衣を借り受け入浴後に運ばれてきた食膳に向かうと、精進料理の納豆汁、椎茸、油揚げなど、都人(注・みやこびと。都会の人間)には、十にひとつも、のどを通らない御馳走だが、これもまた得難いひとつの経験だった。
 夕食後、私たちは宗晋、月江両和尚と夜更けまで対話をしたが、談話の雄は月江和尚であった。和尚は、奇警(注・発想、行動が奇抜)で飄逸であり、しばしば人の頤を解く(注・人を大笑いさせる)ところがあった。ここでそのひとつ、ふたつを紹介するならば、「過日、ある夫人から、禅とはどういうものですかと質問されたので、禅は自分の向かうところに居るものである、と答えた。すると、ならばこれに近づくことはできるのか、というので、そうだ、自分の向かうところに、どこまでも向かっていけは、必ずその禅に近づくことができる、と答えた。禅は無門関(注・無門関は、禅の公案集のことだが、ここでは文字通り門のない関所の意味だろう)である。四通八達、筒抜けにして、当意即妙であり、行くところはどこでも行けないところはない。ある人が、ンとミと書いて、一休和尚に見せたとき、和尚は、そのかたわらに、『月と風と裸体になりて角力(注・すもう)かな』と書きつけられたということだ。」などというような、奇話を連発された。
 夜がしんしんと更けてきたから、住職がどこからか借りてきたらしい、せんべい布団にくるまって、寝所にあてられた一室に横たわると、たちまちのうちに黒甜郷裡(注・こくてんきょうり。眠りの世界)の人となったが、このような山寺の気楽さは、障子一重のほかに雨戸も立てないことであり、四更(注・しこう。午前一、二時ごろ)の月あかりが射しこむのにフト目を覚まして廊下に出ると、酬恩庵のひさしのすみに、欠けた月が一痕(注・ひとつ)かかっているという物凄さは、得も言われぬ風情であった。私がもし禅坊主ででもあったならば、釈迦が暁天の明星を見て大悟したように、あるいは豁然(注・かつぜん。突然)として透徹したかも知れないなどと、脳裏に終生忘れ難い印象をとどめることになったので、またしても例の駄作を試みたのだった。
 
     宿薪寺
   残宵夢覚寂空廊 鬼気逼人杉樹荒 露冷陰蛩如有咒 一休墓畔月蒼涼
     (注・蛩=こおろぎ、咒=まじない)

 このほか、数々思い浮かべた拙句の中には、
    
   夜もすがら蟲も経よむ薪寺

というのがあり、また、

   古寺の簷端(注・のきば)にすがくささがに(注・蜘蛛)の 絲にかかれる有明の月

というのがあった。
 そうこうする間に、夜が白々と明けて、本堂のほうに、かんかんと鳴り響く鉦の音につれ読誦(注・どくじゅ。経を読むこと)の声が、さやかに聞こえ渡ったので、私たちはいつになく早起きして盥嗽(注・かんそう。手を洗い口をすすぐこと)し終えると、すぐに方丈にむかい、一休和尚の木像の前にひざまずいた。
 今日は九月二十一日で彼岸の中日にあたっており、また一休和尚の命日だというので、なにやら浅からぬ因縁があるように感じ、朝食後くまなく境内を見てまわり、また佐河田喜六の黙々庵にも立ち寄り、午前十時ごろに辞去した。
 今回の所見を詳述しようとするとあまりに煩雑にわたってしまうので、ただ禅寺で一泊した感想だけにとどめることにする。
 


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二百二十九   赤星家蔵器処分(下巻294頁)

 赤星鉄馬氏が、大正六(1917)年から三回にわたり先代の弥之助氏の遺品の入札売却を決行したのは、近世の道具移動史上、特筆大書すべき事件であった。
 その入札は、第一回が三百九十万円、第二回が八十九万円で、第三回とあわせて約五百十万円に達した。空前だったのは無論のこと、以後十数年を経て昭和時代にいたってもなお、その半額に達したものがなかったことを見れば、あるいは絶後といってもよいかもしれない。
 この入札がなされた事情について、赤星氏は次のように告白している。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

 「拙者が今回、所蔵品を売却すべく決心したのは、ほかでもない、亡父弥之助は在世中、道具の取り扱いを厳重にし、老母のほかには、なんびとにも手を触れしめなかったので、老母も非常に苦心していたが、父の没後も、あいかわらず自身一手で取り扱って居るので、かかる骨折りが、いつまで続くべきものでもないと思い、近来、しきりにその処分法を考えてみたが、拙者は道具についてまったく無趣味である。しかし、刀剣だけは愛好するので、ここに、つくづく思い合わさるるのは、心なき者が、刀剣を取り扱って居るのを見ると、拙者は往々、ハラハラして、肝を冷やすことがあるが、道具を愛好する者より見れば、拙者等がこれを取り扱うのは、定めて同様に思わるるであろう。されば、刀剣なり、道具なり、兎角、数寄者に任するにしかず、亡父の遺品も、このうえ長く老母の手を煩わさず、断然これを売却して、世間愛好者の手に渡すのが宜かろうと決心したのである。」
 赤星鉄馬氏は、このような決心をし、親戚であり親友でもあった、樺山愛助のち伯爵君に相談のうえ、三井合名会社理事長の団琢磨男爵に、この道具処分の一切の指揮を委託することになった。しかし団男爵は業務多忙のため、じっさいにその指揮に当たることができないので、私にその宰領の全権を委託されたのである。

 さては私は、このころから「大正名器鑑」の材料の蒐集をしていたので、名器の調査上きわめて好都合であると思い、すぐにその依頼に応じ、東都および京阪の道具商から十三名の札元を選び、前後三回にわたって名品揃いの入札会を挙行した。
 なんといっても、成金景気が勃興しつつあった時期のこと、人気はいやがうえにも引き立ち、仙台伊達家の入札会のときよりさらに一層めぼしい好況を示し、入札価格が八万円以上だったものが、実に次に挙げる十二点に達したのである。

     梁楷筆雪中山水       金二十一万円
     馬鱗筆布袋双福       金十三万一千円
     元信筆全身龍        金十万五千円
     名物猿若茶入        金十万円
     東山御物玉澗筆蘭      金八万七千八百円
     利休尺八花入        金八六千円
     金岡筆那智滝        金八万五千六百円  (注・この現根津美術館蔵の国宝「那智滝図」は、現在は13~14世紀の作品と考えられているが、当時は9世紀の巨勢金岡筆と考えられていた)

     砧青磁管耳花入       金八万三千三百三十六円
     俊頼古今和歌集一巻     金八万二千円
     青井戸茶碗銘こたま     金八万二千円
     行成卿和漢朗詠集二巻    金八万円
     玳玻盞天目茶碗       金八万円

 さて、この赤星家蔵品入札は、いわゆる成金時期の中間で、景気はまだ絶頂に達していなかったが、前途春海のような希望に満ちているときだった。そのため競争の結果、意外な高価を出したものも多く、このときの落札品で、その後入札市場に出て、値段が二、三割方低落したものさえもある。相場の絶頂期ではなかったにせよ、この入札会などは、赤星家にとってはもっともよい時機を得たものであったと思われる。
 この入札会では、稀世の名品を目の前にし、それを争奪しようとする虚々実々の駆け引きが行われ、のちの語り草になるような奇談も少なくない。
 私なども、ザコの魚まじりをしてこの渦中に身を投じ、年来めがけていた猿若茶入を今度こそ買い取り、一生この茶入一品で押し通そう、などという途方もない願望を抱き、京都の土橋、大阪の春海に依頼し、六万円まで入札するようにと申し付けておいた。なのに彼らは、上景気に浮かされて、私に相談もせずに、とうとう九万八千円まで入札してしまった。ところが幸いに、十万円の札があったので、わずか二千円違いで私はかろうじて虎口を免れたのである。(注・このときの落札者は益田鈍翁)
 この茶入であるが、大寂びの茶入で、私の二番札に接近するものはなく、三番札は三万八千円だったというから、私がもし入札しなかったら、この高値には達しなかったはずである。だから、六万円は私のお陰ですよ、と、赤星氏に語って、大笑いしたようなことだった。
 赤星家は、先代弥之助氏が明治二十五(1892)年ごろから名器を買い入れはじめ、ほどなく東都名器収蔵家の巨頭(原文「巨擘(きょはく」)となりすましたのである。買収の時機がよかったので、実のところ安く買って高く売ったという結果になった。
 鉄馬氏は、この入札後、百万円を割いて啓明会というものを組織した。これは毎年の収得を、学芸方面の事業奨励費に利用するというものである。家のためにも世のためにも、いわゆる一挙両得であり、道具処分において、まことによく有終の美をなしたものではないかと思う。


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二百二十八  秋山真之将軍(下巻290頁)

 日露戦争のとき東郷司令官の幕僚として、三笠艦上で、あの「舷々相摩す」の名文報告を作り、その名がたちまちにして当代に響き渡った秋山真之将軍は伊予松山の出身で、兄に好古将軍がいる。
 頭脳明晰で、武略とともに文才を兼ね、第一艦隊付きの参謀としての画策がよく図に当たり対露軍略において貢献するところが非常に多かったことは、後年、当時の参謀官であった島村速雄将軍が極力賞揚しておられた証言を見ても、その一端を知ることができる。
 私は秋山将軍と、二、三度対話したことがあるが、その最初は交詢社で初見の際に、「僕は茶のことは一切分からぬが、文章が面白いので君の茶会記は始終愛読して居るよ」と言われたときで、私はその知己の言葉に感激したものだった。
 さて大正五(1916)年十二月、欧州大戦(注・第一次世界大戦)の戦況視察を終えて帰国された将軍が同気倶楽部(注・築地にあった会館か)で行った視察談は、単に当時の戦況を正視していたばかりでなくその後の形勢をも予断していた。滞りなく肯綮にあたり(注・こうけいにあたり。本質をついていること)、今日から振りかえって、その先見に感服することが多々あるので、ここにその一節を示したい。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

 「ドイツが今度の戦争を惹起したのは、近時、かの国の哲学者が、しきりに自我主義を唱え出したのを、カイゼルはじめ、ドイツ国民が共鳴して、ドイツは世界を統一する使命を帯びたる者なりと慢心したのが、その一原因である。
 また今ひとつは、近頃ドイツの人心がようやく浮誇安逸に傾かんとするので、これを真面目にするには戦争を行うにしかずという一種の高等政策が、その動機となったのだともいう。
 ところでドイツが、平押しに進んで手もなくパリを陥落し得れば当初の目的を達し得るのであるが、そううまくは問屋が卸さず、たちまち周囲の障害に出遭って時日が予想外に遷延したのは、全くドイツの失敗であった。
 しかしてこの当初の失敗は、結局、最終の失敗となるであろう。されば、独、墺(注・オーストリア)両軍は今や兵数の減少をきたし、物資、金融ともに極度の窮乏を告げ、今後一年くらいは、あるいは支え得べしとするも、それ以上に持続するあたわざるは数字において明白である。
 ゆえに今後、連合国側において、単独講和などの変態が起これば格別、もし連合が強硬なるにおいては、遠からず独、墺屈服の時機が到来するのは万々疑いなきところである。
 また仏国は建国以来、今日ほど国民の真面目になったことがないが、この国は一種不思議の国柄で、いざという場合には、軍人にも、政治家にも、経済家にも、非凡の天才が現れ出でて、狂瀾(注・手のほどこしようのない情勢)を、まさに倒れんとするにまわした例が少なくない。

 しかして今や、仏国は興国の機運が隆々として居るから、自分はある仏国人に向かい、今日になって君らが真面目になるのは、すでに遅い。なぜ今日の覚悟をもって、戦争以前より内輪喧嘩を罷(注・や)め、軍備を整え、人口減少の弊を防ぎ、ドイツをして、これに乗ずるの機会を得ざらしめなかったか、と直言してやった。仏国人はこの点において、まことによく日本人に類似し、ことあれば真面目になり、ことなければ目前の利害に眩惑して、永遠の謀(注・はかりごと)を忘却するの弊あり、殷鑑遠からず(注・戒めは身近にある)、日本は最も、今日の仏国に鑑戒(注・戒めとすること)するところなかるべからず云々。」

 秋山将軍は明治元年生まれで、大正七(1918)年、五十一歳で鬼籍にのぼられたので、無論、欧州大戦の結末を見るに及ばなかったが、前記の演説などには、ほとんど後世を透視したかのような趣がある。私は当時を回想し、いまさらながら将軍の達観に感服せざるを得ないのである。
 聞くところによると、将軍は大学予備門時代、正岡子規と莫逆の親友で、時に俳句を吐かれたこともあるそうだが、和歌は本格的に学ばれたので、青年時代からおりにふれて数々の詠吟がある。そのなかで、歌人らしい句調を帯びたものに次のようなものがある。

      漁村夕
   風の音も身にしむ秋の夕に さびしくかへる海士の釣舟

 また、ときどき画筆を弄んだこともあるようだが、なんといっても文章が最も得意なので、意図せずしてかの名文ができ上ったのであろう。
 私は前述のように将軍とは深い交際もないので、特にその遺事を記述するつもりもなかったが、昭和八(1933)年二月十六日、山下亀三郎君から「秋山真之」と題する将軍の伝記を寄贈されたので、とりあえずその中に掲げられていた、将軍から山下君に送られた二通の書簡を通読し、将軍にいかによく人を見るの明があり、またよく事に処する断があったかということをつまびらかにし、帝国海軍のためにこのような才能ある人が早逝したことを悼み、かつ世間でまだよく将軍を知らない人たちのためにここに神龍の片鱗を示そうと、いささか古くなった記憶を呼び起こしてこの一篇を綴った次第である。
 


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二百二十七  松方公財政談(下巻286頁)

 大正五(1916)年九月二十八日、私は鎌倉で死去した三井物産会社専務、渡辺専次郎氏の別荘を訪問し夫人に弔辞を述べた帰途、同地に滞留中の松方老公(注・松方正義)を訪問した。
 老公は折よく在荘で、さっそく私を客間に通してくださった。老公はこのとき八十四歳(注・1835年生まれなので、実際には数え年で82歳、満81歳)で、前頭は禿げ上がり、頭髪、口ひげともに純白だった。
 例の、大柄な頑丈づくりの体格を揺らしながら満面に愛嬌をたたえて出てこられ、薩摩弁丸出しで音吐朗々と語るところは、九十以上の高齢を保たれた特別製の健康体であると思われたものだ。
 私は、このほど公爵が私のために「嬉森庵」(注・向島の水戸徳川邸の茶室の名。277「嬉森庵の命拾ひ」を参照のこと)という扁額を揮毫してくださった好意に感謝し、室内飾り付けの書画や仏像について、ひとわたり問答をしたあと、話題はすぐに明治時代の経済政策についてに転じた。
 このとき公爵がじゅんじゅんと語られた談話の中には、このような一節があった。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)

 「明治九(1876)年、自分は大蔵次官であったが、三井の三野村利左衛門が、進取的の気性を備えた人物ではあるが、とかく仕事にしめくくりがないやり方なのを見て、かくては三井がながく繁栄を保つの道にあらずと思い、ここに三井一家の銀行を作らせ、この銀行に財力を集中して、家政のしめくくりをなさしむにしかず、と考えついたから、それとなく三野村に説いて、ついに三百万円の三井銀行を創立せしめたが、そのころ三井では、横浜の外国商館より百万円ほどの借金をしていたようなわけで、実際それだけの金を所有していたわけではない。
 しかるに翌十年、三野村が死去するや養子の利助がこれに代わったが、この男は気の小さいほうで、利左衛門の尻くくりをなすにはまことに適当な男なので、幸いに破たんをきたさず明治十五年に及んだが、自分はその前年、大隈に代わって大蔵大臣となり、大隈の発行した不換紙幣を整理するの必要を感じた。
 ところで米国その他各国の前例を見るに、不換紙幣を兌換状態に引き戻すには、一時経済界に非常なる緊迫をきたし、世間一般の不景気を招くのおそれあり、現に米国のごとき南北戦争後、不換紙幣の始末については非常に苦い経験をなめたことがある。
 この時、かの大財政家シャーマン(注・財務長官ジョン・シャーマン。原文では「シェルマン」)が、その局に当たって紙幣整理の事業を始めたが、果せるかな物論沸騰して、ほとんどこれを中止せざるべからざるに至った。

 それを、グラント(原文「グランド」)大統領は教書を発して、蹶然(注・けつぜん。きっぱりと)シャーマンの政策を支持し、みずから保障してこれを実行せしめたので、ついに有名なる不換紙幣の始末を完了することを得たのである。(注・シャーマンが財務長官だったのはヘイズ大統領時代なので、松方公の記憶違いか)
 自分はこの事情を熟知して居るから、明治十四年、いよいよ紙幣兌換政策を樹てんとするに当たり、三条(注・三条実美)、岩倉(注・岩倉具視)両公に談じ、不換紙幣始末は、かくかくの径路を辿らなくてはならぬ、もし、その終局に達する前に、両公の御決心が動揺すれは、到底その目的を達することを得ぬが、この儀、果して如何、と言いたるに、岩倉公は、慨然として、わが不換紙幣を今日のとくして経過せば、ついにエジプト(原文「埃及」)、トルコ(原文「土耳古」)のごとき状態に陥るべければ、断乎として、君の自説を実行すべしとて、大いに賛成の意を表された。
 しかし自分は、なお安心することを得ず、明治天皇陛下に謁見して、陛下の勅裁を得ざるべからずとて、岩倉、三条、両公らに伺候して、細々と(注・詳細に)紙幣償却の方法を説明し、かくのごとくせざれば、ついに国家を危うするべし、陛下は明治初年において、太政官紙幣を明治十三年に兌換すべしと宣言せられながら、今日これを引き換え給わざるは、すでに綸言(注・りんげん。君主のことば)にたがわせらるるものにて、聖代の汚点、これより甚だしきはなし。されば、いかにしても、この紙幣の整理を実行せざるべからず、と述べたるに、陛下は、汝が申すごとく実行せよ、他日、なにようのことありとも、決して異議あるべからず、と誓わせられたので、自分はこれより、紙幣整理に取り掛かり、明治二十年、銀紙の平均を得るにいたるまで、非常なる苦境に立ち、伊藤(注・伊藤博文)、井上(注・井上馨)その他の諸公さえ、松方には困るとて、なかなか攻撃論があったが、自分は陛下の御誓言を得て居るので、断然これを決行して、ついにその目的を達したのである。
 そのとき自分は、

   銀の世となりてなほ思ふかな 黄金花さく春を見るべく

と詠じて、いつかは日本を金貨本位国となし、はじめて世界一等国の伍伴(注・仲間)に列すべく希望したが、日清戦争後、かの賠償金を得たのを幸い、これまた非常の論戦難関を切り抜けて目的通り金貨本位の制度を立て、爾来、日本の外国貿易上に、銀貨時代のごとき動揺を見ざるようになったので、自ら顧みて、いささか国家に微功を効したかと、ひそかに満足して居る次第である。」


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  二百二十六   

波多野長者(下巻282頁)


 大正五(1916)年下期は、欧州大戦(注・第一次世界大戦)の影響がわが国の経済界に波及し、景気勃興、福運増長し、船、鉄、株の成金の萌芽がいたるところに現れはじめたころだった。
 その時代相が、私等の友人の間にも反映して、ここにさまざまな喜劇が展開した。その一例として、まず波多野長者を紹介することにしよう。
 大正五(1916)七月の初旬であった。波多野古渓【承五郎】は、少し前に時事新報で発表された五十万円以上の資産家の表に名前が掲載され、これをただ微苦笑するだけでうち過ごすのかと思いきや、いっぷう変わった古渓先生は、逆に自分から切って出て、「拙者儀此度、長者仲間に加へられたるに就き、自宅に於て一夕新長者祝を挙行すべければ、何卒奮って御参会を乞ふ」との案内状を同人の間に発送した。
 そこで当日の夕刻、上二番町にある波多野邸に推参すると、寄付の床には三井華精(注・三井高保)翁筆の恵比寿釣鯛図を掛け、床脇には、打出の槌(注・つち)と、大黒の形をした盆石を置き合わせ、まずは来客に当夜の先容(注・案内、紹介)を示してあった。その下に千両箱を三個積み重ね、二個には、箱に金沢益田の烙印があり、もう一個には御納戸用という書付があるのは、おそらく幕府御納戸方から出てきたものだろう。
 それから程なく運ばれてきた晩餐の献立は、いずれもが長者祝いに縁のある名前の材料を選んであり、その心入れが尋常でないことが示されていた。
 なお、この日の余興は、次のようなものであった。

    余興

  狂言          奥村金之助
 一、三人長者       小早川精太郎
              藤江又喜

       

       唄      吉住小三郎
              吉住小三蔵
       三味線    杵屋六四郎
  長唄          杵屋長三郎
 一、紀文大尽 笛     住田又兵衛
        小鼓    望月太左吉
        太鼓    望月長十郎
        太鼓    望月長四郎

        

        唄     吉住小三郎
  同           吉住小三蔵
 一、七福神        杵屋六四郎
              杵屋長三郎


 さらにこの席上を見回すと、ちりめん鹿の子絞りの鯛を青籠に入れ、金華山金の成る木、と染め出した古風な財布に長者通宝という新調の銅貨を入れた配り物を並べ、主人はもちろんのこと、長唄連中にも、長者通宝の紋を染め出した揃いの仕着せを着用させるなど、凝りに凝った物数寄ぶりであった。
 この宴会は三回を重ねたとのことだが、私のときの同席者は、朝吹柴庵(注・英二)、団狸山(注・琢磨)、藤山雨田(注・雷太)、岩原謙庵(注・謙三)ら十五、六名で、時代を反映したその異風な饗応には、来客一同あっと感嘆し、長者の豪勢ぶりを謳歌しない者はなかった。
 


藤原の紙成(下巻284頁)


 これも時代を反映する喜劇的茶事の一幕であったが、その主人公としてここに紹介しようとするのは、王子製紙会社専務の、藤原の紙成銀次郎君である。
 君は、明治四十四(1911)年より同専務となり、足かけ六年間、拮据(注・忙しく働くこと)経営の甲斐あり、また時局もその成功を助けて社運隆々となったので、近頃続出する船成、株成、鉄成の名称にちなみ、同人たちは君を「紙成」と呼んだ。
 一夕、築地明石町の某亭に招待したところで、その趣向と言っぱ(注・言うのは)、寄付に雷公起雲図を掛け、雷を紙成に響かせ、本席には信実(注・藤原信実)筆の猿丸太夫に、平業兼が「奥山にもみぢふみわけなく鹿の」の歌を書きつけた一幅を掛けて、業兼(注・なりかね)を成金に通じさせる。茶碗は仁清作の金銀筋大小二ツ組を用い、道具から懐石献立にいたるまで、すべて紙成の意匠をこらしてあった。そのうえ、席の隅に祝賀帖を備え置き、参会者に随意に楽書きを乞うたので、昔の歌人の苗字らしき藤原を連想して、駄句の数々ができ上ったのである。
 その中には、次のようなものもあった。
 


  紙の本の人〇

   ほのぼのと明石の町の夕ぎりに 金まうけゆく紙をしぞ思ふ


  詠人知らず
   千早振る紙のめぐみにしろかねも こがねとなりて花さきにけり


  権化 
   此度はぬしに取あへず手向山 もみぢのにしき紙のまにまに


  藤原の定価狂
   銀が金になる世なりけり 紙無月どの手すぢよりまうけそめけん

 

 このような、千早振る神代も聞かぬ名歌が、続々と書き連ねられたので、藤原君もそのままには捨て置かれず、このほど、ようやく出来上がった麻布新網町の茶席開きを兼ねて一趣向をこらすことになった。伊達家入札会にて落札した、兆殿司筆の緋衣達磨の一幅を掛け、道具、懐石にもそれぞれに応酬の深意を寓し、本来無一物といった悟り顔をしながら、悪友どもの鋭鋒を避けきった実業的手腕は、紙成大尽の初陣の大成功に終わり、目出度かりける次第であった。


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二百二十五  伊達家道具入札会(下巻278頁)

 私は大正元(1912)年から、日本全国の名物茶碗を調査し名器鑑を編成しようという志を持っており、当時もっとも多くの名器を所蔵していた旧国持ちの大名家に手づるを求めて、その調査を進めつつあった。
 その一方で茶会記を執筆し新聞紙上に掲載していたので、大正時代から昭和時代に及ぶまで、大きな道具入札会の世話人を依頼されることは何度あったかわからない。しかしながら、それが名器を調査するうえでの非常な便宜となったので、その都度すこしばかりの労を厭わなかったので、この間の道具移動に関しては耳にはいってくることがきわめて多かった。その件に関しては、昭和四(1929)年に私が編纂した「近代道具移動史」に詳述したので、「箒のあと」においては、このことにあまり多くは触れようと思わない。その中で、もっとも特色のあった三つの大道具入札会のことだけを紹介しようと思う。
 さて、この三大入札会とは、まず大正五(1916)年に行われた仙台伊達家の道具入札会であり、これが旧国持ち大大名家の道具入札の先駆けである。
 二番目は、同六年に行われた赤星家の入札会で、その売り上げ総額が五百万円を突破したという空前の巨額入札である。
 三番目が、同十二(1923)年に行われた若狭酒井家の入札会で、品数わずかに百二十点で二百四十円あまりに達したという無類の名品ぞろいの入札であった。

 まずは、伊達家の入札会から話を始めよう。

 大正五年五月十六日に第一回、同七月五日に第二回が挙行された仙台伊達家の道具入札会は、維新後に大大名が堂々と名乗りを挙げて、その蔵品を入札市場に送り出した最初のものだった。これは、他の道具持ちの大名家に対し非常に有力な勧誘作用を果たし、また、その模範にもなった。
 そもそも、徳川時代を通じ、日本で個人が所有する名器は、十中七、八は国持ち大名の手中にあり、残る二、三が、民間の富豪と、公卿名家の所蔵だった。
 旧国持ち大名は、明治初年の版籍奉還に次ぎ、廃藩置県に遭遇し、所持する財産のほかには新たに収入の道がないので、いわゆる「ジリ貧(原文「ぢりぢり貧乏」)」で、だんだんと窮迫に陥ったが、「古池に水絶えず」のたとえに洩れず、何とか食いつないで、簡単には先祖伝来の道具を売却するには至らなかった。中には多少売却した者もなかったわけではないが、さすがに名門の家名を惜しみ、公然と名乗って道具を入札市場に出す者はなかったのである。
 そこへ仙台伊達家のような大名家が、大っぴらに名乗って道具入札会を開いたので、これを見聞した諸大名家は、伊達家すらが、すでにかくのごとしである、われらも決して遠慮するに及ばない、ということで、このときから諸大名家が続々と道具を売却し始めた。
 その折も折、欧州大戦(注・第一次世界大戦)の影響で、世間に続出した成金が、さかんに道具を欲しがり求めたので、ここに売り手と買い手の双方が出現して出会い、古今未曾有の道具大移動が発生したのである。
 かくして、伊達家の入札会は、東都(注・東京)、京阪の道具商の十五名が札元になり両国美術倶楽部で開かれた。
 これぞ、維新後における道具入札のレコード破りで、第一回の売り上げは百万円を突破し、第二回とあわせて、総額百五十万円に達した。
 そのうちで、三万円以上だったのは、次のものであった。

  名物唐物福原茄子茶入   金五万七千円
  名物唐物岩城文琳茶入   金五万六千円
  牧谿筆朝陽        金五万五千円
  青磁東福寺香炉      金五万千円
  黒地有明蒔絵硯箱     金三万六千円
  砂張淡路屋船花入     金三万三千五百円
  元信筆真山水       金三万円
  名物此世香炉       金三万円
  元信筆中布袋左右松柏猿猴三幅対 
               金三万円

 以上の入札が行われた大正五年は道具相場がまだ絶頂に達していない時期で、この落札価格の多くがレコード破りとなった。大正四年に京都で行われた、雁半こと中村氏(注・京都の織物商、中村氏雁金屋半兵衛のことと思われるが詳細不明)の入札道具の相場が高価で、これを雁半相場と呼んでいたのに、今度はそれを凌駕したので、新たに、伊達相場という熟語が流行することになった。
 伊達家は、人も知る国持ち大名の白眉で、政宗以来、家格に相応した多数の名器を受け継いだうえに、四代綱村が茶事を好み、おおいに名器を蒐集し、石州流の清水道閑のような茶博士を招聘してさかんに茶道を奨励したので、同家には多くの収蔵品があった。
 以前には大阪の炭彦こと白井家に入質後に岩崎弥之助男爵の手に移った数々の名器もあったし、この入札の数年前に伊達伯爵家から明治天皇に奉献された公任卿朗詠の二巻(注・伝藤原公任筆和漢朗詠集)のようなものもあった。このような名品が、実に山のようにあったため、同藩出身の富田鐵之助氏らの献策で、このままこれらの品々を保存することは覚束ないので、このへんで処分し、天下の数寄者たちに分配するのが名器所有者の取るべき道であろうということになり、その処分が馬越恭平氏に委嘱された。
 馬越氏は、先年三井家を離れたときに、富田氏から有力な後援を得たことに恩義を感じ快くこの委嘱を引き受け、一生懸命に周旋の労を取ったばかりでなく、自身もまた入札の大手筋(注・大口入札者)になり、おおいに景気をつけたので、それぞれの品目ごとにレコード破りが続出した。
 大正八(1919)年ごろの成金爛熟期に比べれば、まだなお絶頂に達しておらず、あるいは七、八合目の相場だったかもしれないが、とにかく、大名道具移動の先駆になったもので、大正年代における道具入札のうちで、もっとも意義あるものであろうと思う。 
 


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二百二十四  龍年の余興(下巻274頁)

 大正五(1916)年は丙辰(注・ひのえたつ)という龍年であった。龍年には王政復古(注・明治維新)などもあったように、昔から天下多事の年回りだと言われているが、この龍年には欧州大戦(注・第一次世界大戦)の余熱がわが国の経済界にまで及んで、ほうぼうで成金(注・なりきん)のつぼみがほころびかけるという形勢が見られたりと、何やらいい気分が感じられるころだった。
 そのような新年そうそうに、私は小田原古稀庵に山県含雪公爵を訪問した。公爵は、金地の色紙にしたためられた次のような一首を見せてくださった。

      大正丙辰の元旦に雨降りければ
   雨雲の晴るる浪間にあらはれて 空ゆく龍の年立ちにけり

 そして、公爵は私に、新年の作は、と問われたので、その朝途中で考えた次のような腰折(注・自作を謙遜していう)を御覧にいれた。

   天翔る心なき身は朝寝して のどかに迎ふ龍の年かな

 すると侯爵は一笑して、無精な龍先生じゃのうと評された。
 さてその翌日、下條桂谷翁を番町邸にも訪問したが、翁は新年の試筆に今朝こんなものを書いたよといって牧谿風の雲中龍を見せてくださった。私は、割愛(注・譲ってもらうこと。この場合は有償であろう)を乞い、そのまま自宅に持ち帰ったのであるが、この時翁は、次のような話をされた。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

 「拙者の龍は、米沢藩御抱画師で、拙者が青年時代の恩師である目賀田雲川先生の画風である。先生は平常、人に教えて、龍の絵は、鼻と目と角と、一直線に並行するのが、宋元大家の画風なれば、必ずこの法則に背くべからず、と言われた。
 しかるに近来、日本の画家は、往々、この法則を無視し、橋本雅邦のごときも、いつぞや角を逆立てて、鼻と目を並行せざる龍を描いたから、画龍の古法は、かくかくなりと注意したるに、雅邦は、さる法則ありしか、とて、初めて心づいたようすであった。けだし古人が、多年の経験において、斯くするのが、龍の神霊を示すべき描法なるを発明したためであろう。
 また龍の爪は、普通三本に描くようだが、宋人陳所翁は自ら、一機軸を出して、これを四本に描いて居る。もっとも、天子の黄袍(注・黄色い上着)その他、御物の模様には、五爪の龍とて、これを五本にする慣例があるが、雲川先生は、陳所翁を学んで、常に四爪の龍を描いたから、拙者もまた、その例に倣って居る。また龍に関する画題は様々あるが、黄帝若しくは観音が龍に乗るの図、馬師皇(注・ばしこう。黄帝のころの馬の名医)が龍を癒すの図などが、その最も著名なるものである。
 ところが最近の一奇談は、旧臘(注・きゅうろう。去年の十二月の意)、孫女(注・まごむすめ)が咽喉に鯛の骨を立てて、いかにしても取れないので、急ぎ咽喉科医師坂口吉之進氏を招ぎたるに、氏は早速かけつけて、なんの苦もなくその骨を抜き取られたので、厚くその好意に謝したるに、坂口氏は、手をふりて、先生、その御礼にはおよびませんから、何か一幅画いてください、と言わるるので、さらば御需め(注・お求め)に応ずべしとて、馬師皇が龍を癒すの図をしたためたのはほかでもない。列仙伝に『馬師皇なる者は、黄帝の時の馬医なり、後龍あり下向、耳を垂れ口を張る。師皇曰く此龍病あり、我が能く之を癒すを知ると、乃ち其唇下に針し、甘草湯を飲ましむ。龍負ふて而して去る』とあり、馬師皇が龍に針して、その病を癒したるを、坂口氏が孫女の咽喉の刺を抜きたるに比して、此画題を選みたるに、本年が、恰も龍年に当たっているので、われながら当意即妙と思って居る。」

といって、桂谷翁は、まず得意の一笑をもらされたものだ。さらに次のような話もされた。
「明治四十二年の事なり、先帝陛下より、龍の絵を描いて差し出すよう御沙汰があったので、丹精をこめてこれを揮毫し居る折柄、旧藩主上杉茂憲老伯が来訪して之を見るや、我れにも同図を描いてくれよと懇望せられたれば、二つ返事で応諾しながら、事に紛れて、これを果たさず、旧臘二十四日にいたり、来年は龍年なれば、もはや猶予すべきにあらずと、にわかに思い立ってこれを描き、約束後七年ぶりで上杉邸に持参すれば、老伯は大いに喜んで、硯蓋の上に載せた紙包みと、ほかに目録を賜ったから、その紙包みをひらいてみると、これなん、上杉家の定紋、竹に雀を染め出したる黒羽二重五つ紋付き羽織で、老伯の言葉に、君が龍の絵を持参したらば与えんとて、七年前よりこれを仕立てて待っていたのが、今日役立って、誠に重畳のいたりであるとありければ、多年疎慢の罪を重ねたるが、いまさら思えばそら恐ろしく、このときばかりは、拙者も穴にも入りたき心地した云々。」
 このほか、もうひとつの龍物語は、平岡吟舟翁が辰年生まれで、大正五(1916)年はまさに還暦の年であったが、昔から、辰年の還暦の人が、新年一月の辰の日に描く龍が火伏せ(注・火事よけ)の呪いになるということで、翁に龍の絵を所望する人が続出して、どんどん数が多くなってしまった。
 そこで翁は、たちまちのうちに一計を案じ、まず、大刷毛で、塗抹した黒雲の中に、金銀の玉をつかんだ龍の爪を描くことにし、新年八日の辰の日山王山下の自邸で画龍会を催すことに決定した。そして、みるみるうちに百幅あまりを描きまくり、たった一日で埒をあけた(注・片をつけた)とは、いかにも奇想天外であったが、表具は筆者持ちとなったので、洛陽の紙価はいざ知らず、都下の表具料は、さぞかし暴騰したことだろう。
 龍年の余興、あらあらかくのごとく、めでたく候、かしこ。


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二百二十三  鷹峰光悦会発端(下巻270頁)

 京都府愛宕郡鷹峯に光悦寺という日蓮宗の寺院がある。境内には、本阿弥光悦、光瑳(注・光悦の養子)、光甫(注・
光瑳の子。空中斎)、光伝(注・光甫の子)らの墳墓がある。この辺一帯は京都から丹波に通じる街道にあたり、往時、光悦が徳川家康から広大な地面を賜り、一族多勢とともに、いわゆる光悦町を構成した場所である。

 寺院の庭先から東南をのぞむと、前面に坊主頭のような鷲ヶ峰が兀然(注・こつぜん。高く突き出ているさま)とそびえ、そのふもとを紙屋川が流れ、松樹竹林が連接し、左手には遠く叡山が控えている。
 その中間に横たわる船岡山越しに、蒲団を着て寝ている姿の東山一帯を展望する光景はいかにも明媚温雅で、洛北の名勝たるにそむかない。
 しかしながら、維新以後、訪ねる者も少なく、明治の晩年にアメリカ、デトロイトのフリーア(原文「フリヤー」)氏が、光悦を景慕してこの寺を訪ね、さかんにその絶景を賞讃するとともに、光悦の偉大な人格や業績を宣伝したために、京阪間にもようやくこの寺に注目する者が現れてきたのである。
 中でも、京都の道具商である土橋無声嘉兵衛は、当寺にほど近い玄琢村の生まれなので、光悦寺興隆のために大いに奔走し、同志を糾合して、まず光悦会を組織した。そして光悦好みの新茶室を境内に新築し、大虚庵と名づけ、大正四(1915)年十一月下旬に、その開庵披露をかねて光悦の遺作品の展覧会を本寺で催したのが、実に光悦会の発端である。
 以来、光悦会は、毎年光悦の祥月命日である十一月十三日に鷹峯で開かれている。最初に益田鈍翁が会長になり、その後、大谷尊由師が引き継ぎ、京阪、名古屋、東京の諸名家が、年々、濃薄茶席を受け持つことになった。そのため当会は、今や京都の年中行事の中で最も著名なものになったのである。
 私は大虚庵開きの茶会に出席して、はじめてこの地の光景に接した。そしてこれを愛玩するあまり、まず、光悦がいかにしてこの地に土着したかについて研究したものだ。 
 元和元(1615)年、彼が五十八歳の時、徳川家康が大阪の陣を終え京都にやってきた。そのとき所司代の板倉伊賀守(注・板倉勝重)に、「ちかごろ本阿弥光悦は何をしているのか」と質問したので、伊賀守は、「彼は異風者(注・変わり者)にて、京都に居あき申候(注・京都に住むことに飽きたと申しております)、辺土(注・へんぴな場所)に住居仕り度き由申居候」と言上した。
 これをきいた家康は、「近江丹波などより、京都への道に当り(注・近江、丹波から京都に至る道筋に)、用心悪く(注・不用心で)、辻斬、追剥などの出没する所あるべし、左様の所を広々と彼に取らせ候へ(注・そのような治安の悪い場所に、広い土地を与えよ)と言い渡した。
 そこで光悦は、鷹峯のふもとに、東西二百間余り、南北七町(注・東西約360メートル、南北約760メートル)の原地の清水が流れ出ているところを拝領し、一族の中で手に職のある者を呼び集めて、それぞれの住居を作った。
 また母の妙秀の菩提所として妙秀寺を建立するなどして、今日における、いわゆる文化村を創立したので、人呼んでこれを光悦村と称するにいたったのである。
 光悦は当時、近衛
三藐院注・さんみゃくいん。原文では「院」と表記。近衛信尹のぶただ)、松花堂昭乗とともに、三筆(注・寛永の三筆)と称せられたほどの能書家で、本業の刀剣鑑定のかたわら各種の工芸に従事していた。また茶事を好み、陶器を作り、謡曲を謡うなど、その芸術や思想がいかに秀抜卓絶していたかは、遺作の品によって容易に推察することができる。彼の門人であった灰屋紹益(注・はいやしょうえき。原文では「浄益」と表記)の「にぎはひ草」(原文では「賑ひ草」と表記。紹益の随筆)に、次のように書いてある。


「我身をかろくもてなして、一類眷族に、奢りをしりぞけんことを思ひ、住宅麁相(注・粗末)に、小さきを好みて、一所に年経て住めることもなく、茶の湯に深くすきたりければ、二畳三畳敷、いづれの宅にもかこひて、自から茶をたて、生涯の慰みとす、利休在世に近かりければにや、形なりを好み作りて、焼かせたる茶碗等、今世にかつ残りたるも、一ふりあるものとぞ云ふめる。都の乾に当りて、鷹峯と云う山あり、其麓を光悦に給はりてけり、我住所として一宇を立て、茶たて所などしつらひ、都には未だ知らざる初雪の朝は、心おもしろければ、寒さを忘れ、自から水くみ、釜仕掛け、程なく煮え音づるるも、いとど淋しく、都の方打ながめ、訪ひくる人もがなと、松の梢の雪は朝の風に吹き払ひて、木の下かげに暫し残るをおしむ。」

 光悦の茶風は千宗旦の侘び数寄に通じ、独楽閑寂の趣があった。私は、光悦の人となりとともに、この寺の風景を鍾愛(注・たいそう好き好む)したので、大正五(1916)年、境内東南方の崖地に臨む、鷲ヶ峰から東山方面をひと目に見渡す平地に、五畳敷一間床、書院付きの茅葺き一棟を寄進し、庵名は無造作に、本阿弥庵と名づけた。土間を広々と取り、天井板の竿縁がわりに朱塗りの細筋を引き渡すなど、いくぶん光悦風の意匠を取り入れた。露地には、片桐石州が所持したと言い伝えられる小形のつくばいと石灯籠を据え付け、これを毎年催す光悦会のために充てることにしたのである。
 その後大阪の八木与三郎氏が、騎牛庵という古茶室を寄進したため、光悦寺には三つの庵室がうち揃い、年々、関西の風雅をこの地に集める霊場となったのである。
 これは畢竟(注・ひっきょう。つまるところ)、光悦の遺徳のなせるわざではあるが、土橋無声らの尽力もまた、非常に大きなものがあったのであるから、光悦会の発端について記し、後の人びとの知るよすがにしておきたい。


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   二百二十二  

木瓜唐花(下巻267頁)

 大正四(1915)年の御即位御大典の際、私は石黒況翁(注・石黒忠悳)、下條桂谷の両翁からおもしろい故実異聞を耳にした。まずは況翁の談話を紹介しよう。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)

 「御大典の節、二条城中舞楽殿に引き廻されたる、だんだら幕の木瓜唐花は、織田家の紋所と同様であるが、織田信長は、つとに王室の式微(注・非常な衰え)を慨し、上洛の際、物資を献じて、朝廷の大礼を事故なく挙行せしめられたその時、舞楽殿に織田家の紋所幕を引き廻したので、かかる場合にこれを用ゆることになったという。
 しかるに、他の一説には、信長は当時の記念として、かの紋所を用い始めたので、木瓜唐花は、古来、朝廷の御儀式に使用せられたものだ、ともいうことである。
 以上二説の当否はいずれにしても、信長が天朝尊崇の志篤く、王室式微の時に当たりて、その古典旧式を復興したのは、蔽うべからざる事実であるから、今度の御大典の盛時を承知したならば、定めて地下で欣躍することだろうと思い、自分は、御大典の翌日、紫野大徳寺の総見院を訪い、信長の木像を礼拝し、また、その墓碑に香花を手向けて、古英雄の遺烈を追慕したが、総見院は、今や聚光院の預かり寺となって、境内荒廃、人影を見ず、誠に物淋しき光景であった。
 それより聚光院に立ち寄って、利休の墓に参詣すると、早朝より早や墓参せし者があったとみえ、香煙縷々として、新鮮の花さえ手向けられてあったから、当年天下を震撼した信長の墓畔よりも、かえって微々たる一茶博士の方が、賑やかなるかと、深く自ら感慨した次第である。」

 

大江定基(下巻268頁)

 下條桂谷翁は、大正四(1915)年四月初旬、宮中大饗宴の余興として、「石橋」(注・しゃっきょう)の御能を拝見したところが、「これは大江定基といわれし寂昭法師にて候、我れ入唐渡天し、初めて彼方此方をおがみ廻り、只今清凉山に参り候」という名乗りのところに至り、二十五、六年前、明治天皇陛下の御沙汰を蒙り、この大江定基、寂昭法師の履歴を調べた時、様々に苦心したにもかかわらず充分にその事蹟を確かめることができなかったのに、当夜、はからずもこの名乗りを聞いて当年のことに思いいたり、七十余歳となって謡曲から学問のよい資料を得たという。その談話の大要は次のようなものだった。

 「二十五、六年前、自分はある日、明治天皇陛下より、書画鑑定を仰せつけられて参内せしに、御廊下にて、ふと、杉(注・杉孫七郎)子爵に邂逅した。ところで子爵は、自分の顔を見るや、『よきところにて出会いにり(注・けり、か?)、実はただいま、谷文晁筆西園雅集図一幅を御買い上げにならんとするところだが、陛下より、図中に一人の僧侶あるは何人なりや』との御尋ねあり、ハタと当惑せし次第なるが、『貴下には定めて御承知ならん』と言わるるので、『自分も深くは心得ぬが、かの僧侶は大江定基の後身で、宋時代、かの国に渡り、高宗皇帝より円通大師の称号を賜った者だ』と答えたところが、杉子(注・子爵)は大いに悦んで、さらばその旨、徳大寺侍従長に説明してもらいたいと言うので、すぐに侍従長に面会して、右文晁幅を一覧するに、如何様、非凡の出来なれば、まず西園雅集なる画題について説明をなし、宋の米芾(注・べいふつ、北宋の文化人)、字は元章とて、当時、書画風流をもって天下に鳴りたる大文人が西園雅集なるものを催し、王義之の蘭亭修禊(注・らんていしゅうけつ)に倣って天下の名流を会合したその中に、日本人たる円通大師が加わって居るのは、当時、大師の名声がいかに彼の国に響き渡っていたかを知るに足る。されば、日本人より見れば、西園雅集中にこの一僧形あるのは、実にこの図の眼目というべきものであると述べたところが、徳大寺侍従長は委細聞き終わりて、御前に罷り出で、下條の説明はかくかくと言上したので、陛下にも至極御満足に思召され、なおとくと円通大師の履歴を調べて、申し出でよとの御沙汰があったので、仰せ畏みて早速取り調べたが、定かにそれと明記したる者を見ず、当惑のあまり、おりから上京した京都の富岡鉄斎翁に問えば、翁はすぐにこれに答えて、『大江定基は弱年の頃、三河国に在任中、長者の娘と契りしに、娘がほどなく身まかったので、纏綿(注・てんめん。深い愛情)の情止み難く、二十余日間、屍体の傍に座して、これを葬むらんともせぬので、あまりのこととて、僧侶が来たって、諸行無常の理を説いたところが、定基大いに悟るところあり、差添(注・脇差)を抜いて、我れと我が髻(注・もとどり)を切って仏門に入り、七十二歳の時、入宋して(注・史実ではもっと若いときのようだ)、ついに帰朝せず、宋の天子より円通大師の称号を賜り、八十余歳で彼の地に遷化したということである』と物語られたから、自分はこのことを聞くや、鬼の首でも取ったように悦んで、これを徳大寺侍従長の手許まで報告したが、この報告は、明治天皇陛下でも叡覧の上、右文晁幅に添え置かれたと承る。しかるに、今度宮中御能にて、図らず定基の事蹟を見当たり、明治大帝御在世中のありしことどもを回想して、いまさら今昔の感に堪えざる次第である云々。」


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二百二十一  松方公の大師流(下巻263頁)

 松方海東(注・松方正義)老公は、六十六歳のときから弘法大師流を習い始め、晩年にはほとんど玄人の域にまで上達された。
 大正四(1915)年十一月二十三日に、私は田中親美氏とともに、老公を京都嵯峨の川崎別荘(注・川崎正蔵の延命閣のことだろう)に訪問した。さらに随伴し、御池と東洞院の山田長左衛門氏宅に行き、主人が所蔵する文筆眼心抄(注・弘法大師空海が編著したといわれる平安時代前期の漢詩文評論書)という、長さ二丈(注・一丈は約3メートル)あまり、文字の大きさの径が五分(注・一分は約3ミリ)ほどの一巻を一緒に拝見する眼福の機会を得た。
 この一巻は、詩文章の体例(注・形式)を論述したもので、大師自作の文章なのか、あるいは唐人の所説を書写したものなのかはすぐさま判定することはできないが、文中に「王維云積水不可極、安知滄海東云々(注・王維が、阿倍仲麻呂が日本に帰国するときに送った詩の一部を指す)という句があることから、大師とほぼ同時代に作文されたものであることは明白である。その字数が幾千幾万あるかはわからないが、かつては東寺の宝物であったということで、大師の筆蹟のうちでも稀に見る名巻であると思われた。
 山田長左衛門氏は、京都の旧家で、三井家や家原家などと姻戚関係あり、代々文学や美術をたしなむ者を出してきた。当代の厳父である永年翁が書画の眼識に長じ、維新の際、名家や寺院の書画を狙い撃ちにして買い取ったものの中に、この名巻があったのだという。海東公は、この名巻を前にして、自身の大師流研究の経歴について、一場の談話を試みられた。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

 「自分が大師流を研究し始めたのは、明治三十三(1900)年ごろであったが、そのころまでは、筆の使い方を会得せず、筆を立てんか、また伏せんか、堅く握らんか、軽く持たんか、その辺の呼吸が分からぬので、専門家について質問したしと思い居る折柄、京都に横井某といえる名古屋産の老僧あり、自ら大師流に悟入せりと称していたので、一日面会して、その説をきけば、彼の筆使いは、従来自分等の行方とは正反対で、例えば、自分は字を書くときは、懸腕直筆(注・筆を垂直に持ち、腕やひじを机から離し、ひじを脇から離して字を書く書道の運筆)で、指を動かしてはならぬと思っていたのに、横井は、拇指、食指、中指ともども活動させて、筆の変化を助けざるべからず、というのである。即ち、一の字を書くには、最初落筆のとき、拇指を下にして、食指を上にし、それよりだんだん一文字を引き行くにしたがって、拇指は上の方に向かいつつ、筆を押し行きて、最後に筆を抜くときは、食指は下に、拇指は上になるようにすれば、筆に力を加えざるも、一文字は、みずからまっすぐに引けて、しかもその結尾に力のはいるものなりという。その他、筆使いに陰陽のあること、右に取りたる筆を抜く時、逆にこれを左に取るなどいう、従来の自分の筆法と、まったく逆行していたが、これが全く大師の筆法で、晋、唐の入木道(注・じゅぼくどう=書道)も、また、みなこの筆法に外ならるを悟った。けだし大師の入唐は、晋代を距たること遠からず、王義之の筆法の、伝えて唐人に存したのを、親しく研鑽せしものなれば、大師流は、実に王義之の筆法直伝というべきものである。大師の歌に、

   知らぬ身か知る身となりて知りて又 知らぬ身となる身こそやすけれ

というものがあるが、これは筆を下ろすとき、神あるがごとく、渾然として無我の境に入るという極所を言い表したもので、書道に限らず、百芸の奥儀はみな同様であろう。林道春(注・林羅山)は、王義之の筆法は、蘇東坡(注・蘇軾。北宋の政治家、詩人)、黄山谷(注・黄庭堅こうていきん。北宋の詩人)に至って、破壌し尽くし、かえって遠く日本に伝存せりといえる宋人の説を引用して、日本の書道が今なお、晋、唐の遺風を存するを賞揚して居るが、畢竟、大師のごとき者があって、彼の筆法を日本に伝えたからであろうと思う。」
という話もされた。

 海東公は、大師流の研究に熱中し、大師の書といえば、必ずそれを手に入れようとし、もしも手に入れることができないときには、それを借り受けて書写していたので、私はあるとき、松花堂昭乗筆の大師流長恨歌の巻を公の清覧に供し、大いに鑑賞していただいたこともあった。
 このような公の不撓不屈の練習が、ついには大いにその功を奏し、今では専門家といえども真似できない域に達し、帰京後ほどなくして半切に物された揮毫の中に、次のようなものがあった。

    高野之作
   数里攀峻坂 深更叩寺門 老僧眉似雲 只説大師恩

 老公の、寛厚純潔の資質は、謹直に大師流を恪守(注・かくしゅ。まじめに守り従う)して、覇気を留めず、我流を交えず、まことによく、その面目を発揮せられるので、私はすぐに、その韻を歩して(注・他人の詩の韻字を用いて詩を作ること)、感謝の意を表した。

   臨池天授妙 悟入大師門 為我揮霊腕 伝家長感恩

 私が老公に揮毫を願い出たのは、一再にとどまらないが(注・一度や二度ではないが)、大正五(1916)年に向島の徳川庭内に構築した嬉森庵の扁額も公爵の筆蹟で、そのころは、書風もいよいよ老熟して、ようやく模写の域も脱せられていた。維新後に大師流を会得した人を論じるときは、
まず老公を筆頭にあげなければならないだろう(原文「まず指を老公に屈せざるを得なかろう」)。



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二百二十   水戸学著述の由来(下)(下巻260頁)(上へもどる中へもどる

 私は前項において、水戸義公(注・徳川光圀)が伯夷伝を読んで感得した、兄弟推譲の第一義を説明した。そこで今回は、「君、君たらずといえども、臣、臣たらずんばあらず」という、第二義について述べようと思う。

 義公が、伯夷伝から感得した第二義は、伯夷、叔斉が、周の武王が殷の紂を討つのをいさめて、「以レ臣弑レ君可謂レ仁乎(注・臣下の身で君主を殺すのが、仁と言えるのか)」と曰い、武王が殷の乱を平らげてのち、天下周を宗とするにあたり、「義不レ食2周粟1(注・義として、周の粟を食べない)」といって、首陽山に隠れたという行実である。
 古来、シナにおいては、禅譲放伐(注・中国古代に唱えだされた王朝交代の二つの型。中国の君主は天帝の命によってその地位にあるものと信じられていた。禅譲は一王朝一代で、前の王が天命の下りた天下の最有徳者に平和的に王位を譲るという理想型。放伐は、世襲王朝の失徳の王を天下の有徳者が武力で討って代る革命。漢以後の王朝革命では、形式的に禅譲に似せるものが少くなかった。[ブリタニカ国際大百科事典小項目事典より]。高橋は、ここでは、放伐の意味で使用していると思われる。)が常道とされた。君子が君子らしくなければ、臣下がそれに取ってかわることも少なくなかったのである。
 孟子なども、「聞レ誅2一夫紂1矣、未レ聞レ弑レ君也(注・紂(=殷の王)という一人の男を武王が誅殺したとは聞くが、臣下が君主を殺したとは聞いていない)」と明言したほどであるのは、その建国の根本とする義が、すでにこのようなところにあったからである。
 伯夷、叔斉は、君臣の大義というものは決してこのようなものであってはならないということで、武王の馬を叩いて、その非をいさめたのである。そして、孔子は後世になってこれを「仁を求めて仁を得たり」と称賛したのである。

 古来、禅譲放伐(注・前述のとおり、放伐の意味であると思われる)を常習としてきたシナにおいても、すでにこのような義人がおり、聖人である孔子もその義を激賞したのである。
 わが日本国においては、国初以来、万世一系の天子を戴いており、革命の事例を求めることはできないのはもちろんのこと、君臣の大義は明確に万世にわたって不変なはずなのに、中世以降、禍乱(注・災いや戦乱)が相次ぎ、王政ははなはだしく衰え(原文「王室式微」)、政権は武門(注・武家)に移った。
 天下の人民は、将軍がいることを知ってはいても、天子がいることを知らない。北条義時の不臣行為、足利尊氏の奸猾行為があっても、世の中にはそれに気づく者がないというありさまなのであった。
 さいわいに、織田、豊臣の二氏が王室に関心を向け、徳川氏もその先鞭に従い、天朝尊崇の礼を失わなかったが、御水尾天皇のように、関東の情勢に心穏やかでなく幕府の措置に憤りを感じる志のある朝廷人もいたのである。しかし、俗儒曲学の者たちは、その仕えている幕府に媚びて、ややもすると名分を誤るおそれが出てきた。
 武門の驕慢が極点に達し、日本の建国の本義にたがうことがあったならば、徳川氏が長く不臣の汚名をかぶることになってしまうということが、義公のおおいに憂慮するところとなった。日本国民はみな、伯夷、叔斉の心をもって心とし、たとえ君が君らしくなくとも、臣は臣らしくなくてはならないという大義を、みずからのつとめとした。この大義に当たって、「親を滅するも、猶ほ辞さず(注・親をつぶすことも辞さない)」としたゆえんがここにある。
 公が、元禄三(1690)年十月に隠居して、翌月に水戸に赴くことになったとき、当主の粛公(注・水戸徳川家三代藩主、徳川綱條つなえだ)に授けられた留別の詩の結句は、次のようなものであった。

  古謂君雖以不君  臣不可不臣

これは、公が粛公に対して、家学の根本議を示したものである。公は、造次顛沛(注・ぞうじてんぱい。とっさの場合、危難の迫った場合)でも、このことを忘れなかったようだ。

 それゆえ、公はいつも、伯夷、叔斉を敬慕してやまず、かつて、小石川後楽園に得仁堂を作ったとき、そのふたりの木像を安置し、また水戸領内に隠棲することを決めたときに、久慈郡西山にやってきて、その地名を聞き、伯夷と叔斉が「登2彼西山1兮采2其薇(注・ぜんまい)1矣」の遺意を得たりとして、この場所を選定し、自らも西山と号したことなどは、すべてみな、ふたりへの欽仰思慕の一端と見るべきなのである。

 さて最後に、第三義「後人観感の為、修史の必要欠くべからざる事」についても述べてみよう。
 大日本史の序文に、「載籍あらずんば、虞夏の分、得て見る可らず」とある。義公が十八歳のとき伯夷伝を読んで、決然としてその高義を慕い、兄弟推譲の礼を知り、また君臣の大義名分をつまびらかにして、みずから矜式(注・きょうしき。謹んで手本にすること)するところを得ることができたのは、すべてみな、これらを記載する書籍があったためであった。
 だがわが日本においては、六国史(注・奈良から平安時代の修史事業で完成した歴史書。『日本書紀』『続日本紀(しょくにほんぎ)』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)以降、史実を著したものが非常に少なく、稗官野乗(注・民間の歴史書)では毀誉褒貶が一定せず、事実を誤り虚を伝えている。名分についても順逆をわきまえず、ひどいものでは天皇御謀反であるとか親王を京師(注・けいし。都)に流す、などと言う。当時の林家の博学をもってしても、わが国の朝廷の始祖を呉の太伯の末裔であるとし、それがわが国の建国の大本にもとることがわかっていない。
 「春秋」にあるような、厳正な筆法(注・春秋の筆法=孔子の書いた「春秋」のような厳しい批判の態度)で王覇の弁を明らかにし、乱臣賊子たちが、みずから鑑戒(注・いましめの手本)とするようなものがないという事態は見過ごすことのできない欠陥であるとして、義公は憤然と志を立てたのである。そして、万難を排し、漢土(注・中国の古い呼び方)の史記の実例にならい、本朝の正史編纂の大業を開くにいたったのである。

 以上の三大義は、義公が、伯夷伝を読んで感発なさり、以来、みずから率先実行されたもので、水戸学の根本義はすべてこの中に含まれているということになる。
 この水戸学の精神は、歴代の水戸藩主に伝わり、ことあるごとに発露された。幕府の末期に、公武の間で問題が起こりそうな形勢になったとき、武公(注・水戸徳川家七代藩主、治紀)は、この精神で烈公(注・同九代藩主、斉昭)を戒め、烈公は、この精神で慶喜公を諭した。そのおかげで、王政維新の際、徳川家がその方針を誤らなかったということは、すでに前述したとおりである。(注・191「徳川慶喜公に関する史実」を参照のこと)
 このようなわけで、今回の大正天皇の御即位御大典が盛大に行われたのを見て、感激に堪えず、私心を記念しようと、ついに一冊子をなしたものが、すなわち、この「水戸学」なのである。



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二百十九  水戸学著述の由来(中)(218・「上」からのつづき)

 水戸義公(注・徳川光圀)が十八歳のとき、史記の伯夷伝を読んでおおいに感奮した事実については、水戸家の第三世粛公(注・徳川綱條つなえだ)が、大日本史の序において記している。
「先人十八歳、適ま(注・たまたま)史記の伯夷伝を読んで、蹶然として(注・けつぜん。勢いよく行動を起こすさま)その高義を慕い、巻を撫して嘆じて曰く、載籍あらずんば、虞夏(注・虞は舜帝、夏は禹王。ともに中国の神話的な君主)の文、得て見るべからず、史筆によらずんんば、何をもってか、後の人をして観感するところあらしめんと、これにおいて慨焉として、始めて修史の志あり。原漢文

 義公が伯夷伝から感得したのは、ただ修史(注・史書の編纂)の必要のみだっただろうか、いや、義公一代の道義観もこのなかから出て来て、水戸学の全精神も実にこのなかに含まれているのである。
 この一義は、私の発見ではないかもしれないが、明白にこれを道破(注・はっきり言うこと)している先輩がないようなので、私は小著の「水戸学」の中で、特にこの所見を発表した。

 今、史記の伯仲伝を見ると、その冒頭に、
「それ学は載籍きわめて博し、なお信を六芸に考う、詩書欠けたりといえども、しかも虞夏の文、知るべきなり。原漢文
とあり、さらにその伝記には次のように書かれている。

(注: 
伯夷、叔斉の故事についてはhttps://dictionary.goo.ne.jp/word/伯夷叔斉/などを参照のこと)
 

「伯夷叔斉は、孤竹君の二子なり、父叔斉を立てんと欲す、父卒するに及んで、叔斉伯夷に譲る。伯夷が曰く、父の命なりと、遂に逃れ去る、叔斉また立つを肯んぜすしてこれを逃る、国人その中子を立つ、これにおいて伯夷叔斉、西伯昌の善く老を養うと聞き、盍ぞ(注・なんぞ)往いて帰せざると、至るに及んで、西伯卒す、武王木主を載せて、号して文王となし、東の方、紂を伐つ、伯夷叔斉馬を叩えてしかして諫めて曰く、父死して葬らず、ここに干戈(注・かんか。武器)に及ぶ、孝と謂うべけんや、臣をもって君を弑(注・しい)す(注・目上の者を殺す)、仁と謂うべけんや、左右これを兵せんと欲す、太公の曰く、これ義人なり、扶(注・たす)けてしかしてこれを去らしむ、武王すでに殷の乱を平らげて、天下周を宗とす、しかして伯夷叔斉これを耻ず(注・恥じる)、義周の粟を食わず、首陽の山に隠れぬ。原漢文
とある。

 私がこの文章を読んで思い当たったのは、義公が伯夷伝から受けた感発(注・発奮材料となったこと)は次にあげる三つの大義である。第一に、公自身が弟の身でありながら兄に先んじて封を継いだということ、第二に、君が君らしくないとしても、臣は臣らしくなければならないということ、第三に、史書の編纂がものごとを後世の人に伝えるために欠くことのできないものであるということである。これらを実現することを終生の目的とされたということである。水戸学の根底は、そこにあると言え、また義公一代の大節もまた、この中にあると言えよう。
 

 そこでまず第一の、弟の身で、兄んに先じて封を継いだ、という点から説明しよう。
 義公は、徳川家康の十一子の、権中納言源頼房、諡して威公と呼ばれた水戸藩祖の第三子である。母は、藩臣谷左馬之助重則の娘、靖定夫人である。諱は光圀、字は子龍、小字は長丸といい、のちに千代松に改めた。日新齋、常山人、卒然子などの号を持つ。また梅里と称し、退隠後に西山と号した。
 寛永五(1628)年戊申六月十日に、水戸藩士、三木仁兵衛之次(注・にへえゆきつぐ)の、柵町の家に生まれた。
 容貌端麗、気格俊邁で、六歳のとき、威公(注・水戸藩初代藩主徳川頼房、家康の11男)の世子がまだ決まらず、将軍家光は水戸家家老の中山備前守信吉に命じて、水戸公の子供のなかから世子を選ばせた。信吉は、義公が幼いながら人君の器量を備えていると見て、江戸に帰って復命したので、公は世子として小石川藩邸に迎えられた。
 七歳で将軍家光に謁見したが、その挙動に異常なく、将軍の手ずから文昌星の銅像を賜った。
 九歳で江戸城において元服した時、一字を賜り光圀と名づけ、従五位下から従四位下に叙して左衛門尉の任じられた。
 十三歳で従三位にのぼり、右近衛中将を拝した。
 義公が伯夷伝を読み、兄弟推譲の義を感じたのは、すでに十八歳に達した正保二年で、位階官爵のすべてで世子に相当するまでにのぼっており、今さら兄の頼重に譲ろうにも、事実として実行できない情勢になっていた。
 ここにおいて、公は自ら深く決意するところがあり、寛文元年七月二十九日、威公が享年四十五歳で水戸に薨じると、儒礼をもって久慈郡太田郷の瑞龍山に葬った。

 翌八月十八日に、将軍家綱の命により家督を相続する場に臨み、義公は、兄頼重、弟頼隆を威公神主の前に会して、「某(注・それがし=自分)は、常に兄を超えて家を継ぐことを本意なく思っているから、今、兄君の長子、千代松を養って、わが継嗣となすことにしたい、兄君が、もしこれを許諾するならば、某、今日命を受けようが、もししからずんば、某は別に思うところあり」といって、その決心を兄頼重に告げた。 
 またここで、二弟の頼元も、頼隆もとともに辞を尽くして頼重に説いたので、頼重もついにこれを承諾することになった。そこで公は、松千代を継嗣と定め、名を綱方と改め、その弟の綱條をも、あわせて養うことにしたが、その後、綱方が早世したので、綱條が水戸家第三世になり、こうして義公は、伯夷伝から感得した兄弟推譲の道を全うしたのである。
 


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二百十八  水戸学著述の由来(上)(下巻253頁)

 私の出生地である水戸下市三の町は、水戸義公、すなわち黄門光圀卿(注・水戸徳川家2代藩主)の降誕地である柵町から、わずかに数丁(注・一丁は約110メートル)のところにある。
 七、八歳のころ、よく柵町のあたりまで遊びに行き、この町外れにあった老木の下に小高い古塚があるのを見て、あるときそれについて先人に質問すると、その人はその由来を詳細に説明し、また義公の藩主としての、そして勤王家としての偉大な行状を話し聞かせてくれた。私は子供心にも非常に感激し、この時から義公を敬慕する気持ちが一層切実なものになっていったのである。
 その後数年して、私は久慈郡太田町に近い西山に行き、義公が隠棲していた山荘が非常に狭い場所だった(原文「わずかに膝を容るるに足るばかり)のを見て、感慨を禁じ得なかった。
 また、瑞龍山に登り、その墳塋(注・ふんえい墓)を拝し、また、梅里先生の碑文(注・光圀が大日本史編纂をすることになった事由が書かれている。梅里先生=光圀)を読んで、その出処進退の大節について知り、公の行実について、おりおり古老に尋ねたりした。すると彼らはみな容を改めて(注・いずまいを正して)義公様と敬称を用いて語るのをきき、その道徳が人心に深く浸潤していることを知った。
 さらに年がいってから彰考館に出入りするようになると、大日本史の編纂資料が豊富であるのを見て、水戸藩の修史事業が絶大であり、義公のような大気根、大見識の持ち主でなければ、とうていこれを大成することはできないことを知った。

 すでに東京で小石川後楽園の規模の雄大なことを知ったのちには、あの西山隠棲の質素簡朴さと対比して、その間に霄壌(注・しょうじょう。天と地)の違いがあるのを見て、義公が、時と場合に応じて、顕晦(注・けんかい。世に出ることと、世から隠れること)の軽重を異にする、高雅な風懐(注・風流な心)を持っていることに感服した。
 こうして明治三十九(1906)年にいたって大日本史がすべて完成した。当主の徳川濤山侯爵のち公爵】(注・水戸徳川家13代圀順くにゆき)がこれを天皇家に奉献なさり、義公の宿志が、代を重ねること十二代、年を積むこと二百五十年にして、はじめて報いられたことを悦び、私はいつか義公伝を編纂し、多年にわたる義公への欽慕の誠をあらわそうと決心した。
 水戸の学友だった清水正健、雨谷毅らに委嘱して、義公の伝記材料を数百巻に積みあがるほど収集したものの、私は当時、実業界に在籍していたため、それを編纂する余暇がなく、荏苒(注・じんぜん。物事がはかどらず)歳月を経過している間に、大正四(1915)年十一月に大正天皇陛下が御即位の大礼を行わせらるることになった。
 往時、朝廷色が弱まって長らく廃絶されていた盛儀を再興することになり、荘厳偉麗な悠紀(注・ゆき。原文「悠基」)、主基(注・すき)の二殿や、舞楽殿などは、まことに、大八洲(注・おおやしま。日本の古名)を知ろしめす(注・統治なさる)天津日嗣(注・あまつひつぎ。皇位のこと)の登極(注・即位)の大典たるにそむかなかった。
 率土普天(注・普天率土。天下のあまねくところ)、心を一にして、天壌(注・天下)とともに、きわまることのない、宝祚(注・ほうそ。天皇の位)の隆盛を祝し、赫々(注・かっかく。はなばなしい)たる皇威の八紘(注・全世界)の外に照徹するのを見て、手が舞い、足が踏むところを知らず、これ、もとより、皇祖皇宗の徳を樹つる宏遠、万国無比の国体によりて、しかるものではあるが、往時、皇化陵夷(注・天皇の徳化が次第に衰退すること)天日暗雲に隠れるに当たり、水戸義公を始めとして、その他、天下の志士仁人が、大義名分を明らかにして、王政維新の素地をなしたる努力の結晶で、徳川幕府の大政返上となり、明治時代の大発展となり、ついに、大正聖代の隆運をひらいて、この荘厳無比なる、御即位の大礼を挙行せらるるに至ったかと思えば、私等のごとく、旧水戸藩に生まれ、その臣籍に列し、父祖代々、名公の訓化に浴し、その主義主張を熟聞する者は、豈(注・あに。どうして)黙々として已む(注・やむ。済ませる)べけんやと思い、とりあえず、大体の綱領だけを叙述して、これを水戸学と名づけ、大正五(1916)年十月に、小著として刊行した次第である。

 水戸徳川家第二世、権中納言源光圀卿は、諡(注・おくりな)して義公という。学問淵博、識見超邁、中世以降、皇化陵夷、大義名分の明らかならざるを慨し(注・天皇の徳化が弱まり、大義名分が実現していないことを嘆き)、これを覚醒、啓発するをもって、乱臣賊子の心胆を寒からしめたるのみならず、躬親から(注・きゅうしんから。みずから)尊王の模範を示して、天下人心の帰嚮(注・親しみを抱くこと)を定め、明儒、朱舜水を聘して、大いに倫常の学を講じ、漢土聖賢の教えを資(と)って、もって本邦固有の道義を扶植し、みずから一家の学風を開かれたので、水戸藩の君主臣僚は、代々これを継承し、修史の遺業を紹述して始終渝(か)わらざりしがため、その感化いよいよ深く、ますます広く、幕府の末造、慶喜公の将軍職に就くや、その所出なる水戸家の学風理想を体現して、大政返上の英断に出でて、謹慎恭順、よく臣節を全うして、滑らかに王政維新の鴻業を完成せしめたのは、義公幕初に首唱を、慶喜が幕末に実現したるもので、これを水戸学説の終始一貫というべきであろう。しかし幕府全盛の際にあって、義公が右のごとき理想を樹立したについては、みずからその原由がなくてはならぬ。私は次項において、さらにその大要を陳述することとしよう。

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二百十七  元老の忠勤(下巻249頁)

 維新前後の国事に奔走し、ついには明治の新政府を樹立し、国家柱石の重臣として匡輔啓沃(注・きょうほけいよく。君主に助言補佐すること)の大任を果たした元老諸公の、国家と皇室に対する忠勤はいくら思っても言い足りず、またいくら言っても言い尽くすことができないほどに真摯で誠実である。またそれをいつも言動にあらわしていることは、まことに感嘆に堪えない。
 なかでも山県含雪(注・有朋)公は、もっとも謹厳な性格であるうえに、大正初期においては元老のなかの首班として、いってみれば托孤(注・もとの意味は、君主が死に臨んで子供を臣下に託すこと)の重責を負うような趣があったので、御大典(注・大正天皇即位式のこと)前後の御補導での苦心配慮は、さぞたいへんなことだっただろう。
 公爵が、例の敬虔な態度で私に洩らされた話のなかには、実に次のような一節があった。(注・旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字にあらためた)

 「先頃今上陛下より、自分が青島陥落の際に詠み出でた和歌を認めて差しだすべしとの御下命を蒙ったが、自分はその前、すでに自詠を御覧に入れたことがあるから、あまりしばしば聖覧を涜すのも畏れ多いと思って、ことさらそのままに差しおいたが、今度の御大典に当たり、大嘗祭御挙行のことは、もとより容易ならぬ御場合と思考するので、謹んで一首を詠み出で、京都御所にて陛下に捧呈した。その歌は、

    大嘗祭を詠みて奉る       有朋 

   神と君とまことの通ふ時ならし 更けわたりゆくおほなめまつり

というのであるが、大嘗祭は御一代中の大儀なり、御儀式の間は、誠に神と君と、誠の通うべき時なれば、御精神を統一して、滞りなく御儀を済まさせらるるが、神に対せらるる道なるべしとて、自分はこの歌の心を、事細かに奏上した。
 さて十日、紫宸殿において、御即位の勅語を御朗読あらせらるるについては、もとより皇祖皇宗に対せられ、また全国臣民に対して、宣せ給う御言葉なれば、一字一句にも御心を籠めさせらるること勿論なりとて、自分は十一月七日、御都合を伺いて、午後四時ごろ拝謁し、右の次第を言上して、親しく右勅語を御朗読あらせるるところを拝聴せしが、いまだ御慣熟遊ばされざるところありければ、さらに今一回、御朗読あるのを見届けて退出した。
 陛下にも、定めて五月蝿き(注・うるさい)老爺かなと思召さるることならんが、老臣の勤めは、たとえいかに思し召さるるとも、尽くすべきだけは竭くさん(注・尽くそう)とて、毎度かかる憎まれ役を勤むる次第である。
 この前、新嘗祭の際、陛下が神前に祝詞を御朗読遊ばさるるところを、拝聴したしと申し出でたるに、宮内官がこれを遮りて、これは従来秘密にして、式場に列なる者のほかには許されずと言われたから、秘密とて、すでに臣下においてあずかり知る者ある以上は、自分がこれを拝聴し得ざるはずなし、式場参列の者が秘密を保たば、自分もまたそれだけ秘密を保つべしとて、強いて願い出でければ、やがて勅許ありて、陛下より祝詞の御下示があった。
 これにおいて、自分は、改めて拝謁の上、陛下が神に告げさせらるる御言葉は、大御心より出でて、神の真心に通ずべきものなれば、一字一句たりとも、御大切に遊ばされざるべからずと、率直に申し上げたが、かくて今上陛下をも、先帝のごとく、堂々たる君上にならせ給うことを祈るが老臣の勤めなりと思い居る次第なり云々。」

 さて山県公爵は、御大典の際、京都の無隣庵に滞在して、しばしば陛下に拝謁のうえ、なにくれと所見をも言上し、大嘗祭にも参列するはずであったが、同祭は深夜に行わせらるる御儀式であったため、陛下には公の老体を御懸念遊ばされ、厳命をもって式場参列をやめさせ給うたので、公は当夜、無隣庵にあって、夜更くるまで端座し、敬虔の心をもって御式を遥拝したということである。
 これに先立つ五月十四日、私が目白の椿山荘に老公を訪問したとき、公爵は次のような話をされた。(旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字になおした) 

 「今度、泰宮殿下(注・やすのみやとしこないしんのう。明治天皇の第九皇女で東久邇宮稔彦王の妃になった泰宮聡子内親王)の御婚儀があるので、自分は是非とも参列したいと思って、斯く滞京して居るのである、先帝の内親王中、御婚儀の済ませられざるは、この御一方のみである。他の御姉君方は、御両親御揃いの中に御婚儀があったが、この御一方だけは、御両親御崩御後に、御婚儀を行わせらるるので、陛下在天の御霊も、吾等ごとき老臣の御婚儀に参列するのを、喜ばせらるるならんと拝察して、是非参列しようと思って居るが、これも一つは、年をとった証拠であるかもしらぬ云々。」

 以上の含雪公の談話は、皇室に対していかにも親しみ深い、真心から出た忠誠で、その言葉には、せつせつと人を動かすものがある。皇室の重臣たる者は、ただ表面的な政務ばかりでなく、皇室のために、このような心構えを持つことを、私は心から切望してやまないものである。


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二百十六  古稀庵の観楓(下巻245頁)

 山県含雪(注・有朋)公は、大正四(1915)年十一月、京都における御即位御大典に参列後、相州(注・現神奈川県)小田原の古稀庵に帰臥されたが、同二十六日の夜、東京目白の山県家執事石崎氏からの電話で、「ただいま小田原の侯爵より貴下へ御伝言がありましたが、京都は今年紅葉が不出来で、高雄も嵐山も一向、見栄がなかったので、小田原もさだめて同様ならんと思いしに、なんぞ計らん、例年よりもいっそうみごとなれば、散り初めぬ間に一度ご来観ありたしとのことであります」とあったので、「さらばその時機を失わぬよう、明日参候致すべければ、その旨言上、相成りたしと答えおいて、翌日午前八時半、東京を発して国府津に赴き、小田原行きの電車に乗り込んだ。
 すると、ちょうど山県公爵を訪問する石井外相(注・石井菊次郎)ばったり出会ったので、車中でいろいろな雑談を交えながら古稀庵に同行した。
 そのときの石外相の談話の内容は次のようなものだった。(注・わかりやすい表現になおした)
 「昨年七月末に欧州戦争が勃発したとき、自分は英国のスコットランドを旅行していたが、デンマーク(原文「丁抹」)を経てロシアに赴いたフランス大統領と外務大臣が急にパリに引き返したという電報に接し、ただごとではないと直感した。至急パリに戻り、二十九日の朝にフランス外務省に駆けつけ、責任ある当局者から戦争勃発が目睫(注・もくしょう。間近)に迫っている事情を探知し、さっそくヨーロッパとアメリカの両方から日本に電報した。当時ドイツでもイギリスでも極度の外交秘密を保っていたので、この電報が日本に欧州大戦を伝えた最初のものだっただろうと思う。」
 そのほかにも、欧州戦争の最中にフランスが人口増加の必要を感じて、内縁の妻や醜業婦(注・売春婦)の出産児までも救養しようとしたことや、フランス、ベルギーにおいて、国宝美術品を安全地帯に運搬したことなどについての耳新しい異聞を語られた。
 やがて古稀庵に到着すると石井子爵はさっそく公爵と機密談に取り掛かられたので、私はその間、貞子夫人とともに庭園を一巡し、主人である公爵の自負のとおりに今を盛りとしている紅葉を賞玩してから食堂にはいり、侯爵夫妻、石井外相と午餐をともにした。
 そして外相がほどなく辞去されると、公爵は「庭前の紅葉を見て」と題する和歌二首を私に示された。また、先ごろの京都における御大典に関する種々の感想談を語られたが、その委細については別項に譲る。
 私は、古稀庵庭前の紅葉が残らず染まり散り始めてもいないという、絶好の機会に際会し、飽くまで今年の秋色を賞玩することができた眼福に感謝し、午後三時に古稀庵を辞して帰京後、礼状の末尾に次の二首を書き添え老公に寄贈した。

      古稀庵の紅葉を見て
   錦きて昼行く人となりにけり もみぢまばゆき庭めぐりして
 
      同じ折、庵主が歌よみて賜はりければ
   紅葉見てかへる錦の袖の上に 君が言葉の花もにほへり

 さて二十九日になり、主公から届いた書簡には、貞子夫人の歌入りの文同封されており、その文句は次のとおりであった。
  

今日は御来庵被下候処、俗客に遮られ、甚だ遺憾の至りに候、別紙相認め差出候御取帰りの反古は、御返却被下度所願候、不日出京、期面晤可申候、草々不尽
    十一二十七日           古稀庵老有朋
箒庵高橋老兄御座下
 

 今年はあたたけきにや、高雄嵐山の紅葉さへ、いとはえなかりしに、古稀庵にかへり来て、秋の景色に驚きぬ

   野も山ももみぢは色に出ざれど 我庭のみは錦をりなす

   嵐山高雄も秋の色ぞなき 誰にほこらむ庭のもみぢ葉

と詠みて、箒庵主人に、いとまあらば、庭の紅葉見にと促せしに、又の日、庵を訪ひければ、紅葉見つつ語らひて、

   君が見し庵のもみぢ葉あすよりは 散りそめぬともなにか惜まむ
                    古稀庵有朋

                                               

 また、貞子夫人の歌入り文は、

  京都のもみぢ、ことしは、いづこも、色なかりしに、海ちかき古稀庵の庭、めづらしきまで、染めつくしければ、おのれにも歌よみてよと、仰せられければ、
                    貞子 
           
                                            
  名所のもみぢむなしきこの秋を 稀なる庵に錦をぞみる

  はこね山入口まばゆくさしわたり 紅葉にほへり板ばしのさと

  かけ谷のこのまにさしとほり ながれきらめきもみぢにほへり

 
 また時しらずに草花の咲きけるのを

  むらさきのりんどうの花なでしこの 色にまじりて水仙のさく


 なにと、御入筆被下度願上候、なほ御歌御染筆たまはり候やう、御願申上候かしこ

 
 このうちの、含雪公の和歌の「君が見し庵のもみぢ葉」の一首は、公爵の私に対する眷顧(注・ひいきにすること)が、非常に深いことを示されたもので、私にとって無上の光栄である。

 なお、この日公爵が物語られた、御大典前後の感想談は、また別項を設けて記述することにしよう。(注・次項217を参照のこと)
 

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二百十五  稀音屋六四郎の至芸(下巻241頁)

 私は明治の中期より謡曲、能楽を学び、さらに俗曲にはいって、河東節と清元を稽古した。
 あるときは、薗八(注・江戸中期の浄瑠璃太夫、薗八が始めた薗八節)に指を染めたこともあったが、その後、長唄研精会を参聴するに及んで、大正三(1914)年十月から、四谷伝馬町の天馬軒に、杵屋のち稀音家六四郎(注・のちの二代目稀音家浄観)を招き、時雨西行をふりだしに、おいおい大曲を学ぶことになった。そのうち、六四郎の勧めもあったので、二、三年間、吉住小三郎の門に出入りしたこともあった。
 六四郎は毎月五、六回の来宅を欠かさず、二十年一日のごとくに継続する一方で、私たち夫婦のほうから彼を訪問するということもあり、いってみれば、通家(注・婚姻関係などの非常に親しい家)の交わりを行っていたので、彼の芸術が抜群であることを知ると同時に、芸人として容易に得難い人格者であることを知った。そのことについて詳述するとなると非常に多くの語り草があるが、これは他日に譲ることにして、ここでは私の見た大略を述べることにしよう。
 稀音家六四郎は、本名を杉本金太郎といい、維新前後の東都長唄界で一方の重鎮であった杵屋三郎助の長男である。もともと一見識持った人で、あまりに著名な名家の名跡を継ぐことをきらい、あの、勧進帳を作曲した名人の杵屋六四郎のち六翁の門弟である六四郎を相続することになった。
 六四郎とは、この人が初代で、その娘のさくに門下のひとりを娶せて二代目にしたが、その後、この男が離縁になり名古屋に行って弥十郎と名乗ったので、今の六四郎は、この平凡な名跡を継いで、三代目六四郎となったのである。
 六四郎は天性の芸才に秀でていた上に、父の三郎助が厳格な人で、少年時代からきびしく鞭撻(注・指導)したので、その技芸は、たちまち朋輩の上に出たが、本人が非常な勉強家で、二代目六四郎の妻であった、さくなどから長唄を伝習したばかりでなく、さかんに他流の芸道も究めようとした。中には、小三郎(注・吉住小三郎)とふたりで生田流の永谷検校を訪ね、地唄の影法師を稽古した際、あまりに謡いぶりが悠長なのに閉口し、とうとう逃げ出してしまったというような奇談もある。
 さて彼が二十歳ごろに作曲した「熊野」が、今日、研精会派の大曲に数えられているのを見ても、その芸術の早熟(原文「夙成」)なのを知ることができる。
 彼は普通の長唄の三味線弾きとは違って、左の指がよく利く。また作曲の材料の豊富なのもまた、その少年時代の修業のさまをうかがうに足ることができよう。
 彼の作曲は、研精会との関係上、小三郎との合作が少なくないが、自作の分だけでも、すでに二十段余りにのぼっており、大家の貫録がある。
 彼は、芸術の面で優秀なだけでなく、その人となりが誠実で、普段からよく約束を守り、同業者には寛容に接し、門下の者にも親切に対するので、門流はますます繁盛し、一男一女もまた、みな家芸をもってその身を立て、家庭円満である。
 先年には妻女のしん子と、結婚二十五周年を迎え、銀婚式祝賀会を催した。そのとき私が、彼にかわって物した(注・作詞した)自祝詞松の寿に、彼がみずから節付けした一曲は次のようなものだった。


   松の寿
本調子もろ白髪末長かれと契り  合 其百年の四分一を早や杉本の金の名に、ちなむも好しやしろかねの堅き縁の祝ひ事  合三筋の糸の長き世を唯一筋に渡る身は、心の駒のくるひなく、時に二上り三下り  浮きしづみこそ変れども、かはらぬものは相生の妹背の中の本調子 合むかしむかし江戸つ児の何たら法師のざれ言を、ちつと鳥の口まねや   小唄三下がり世の中を、ずつとすまして、是れからは四季のながめや芸事に、つれはなくとも、小酒にうかれ、そこを覚えにやならぬぞい   合本調子越し方を、思ひまはせば、楽しきも、うきも、浮世の夢にして、彼の邯鄲の夢の間の、半ばは、すでに過ぎたれど、見のこす夢の春秋は  合 まさきのかつら、末ながく、めでたき御代にながらへて、君がめぐみをあふがまし  合面白や、雲白く、月さやかなる、銀世界  合 ながめながめて、又さらに   合 黄金の花の咲く春を、心のどかに  合 松の寿。

 
 六四郎は、その人となりが温厚洒脱でウイットに富み、ユーモアにも長じていた。酒をたしなみ、一杯機嫌になったあとに
さかんに連発する駄洒落の中には、時に掘り出し物といえるものがあった。
 あるとき、上野山下の鉄道の踏切にさしかかって通行止めを食ったとき、同行者をふりかえり、「お止め汽車待つお染久松はどうでしょう」と言ったり、大阪の淀川で、老婆を載せた円タクが川の中に落ちたという話をきいて、「婆は川へ円タクに」婆は川へ洗濯にと言ったりするような洒落の数々は、枚挙にいとまがない。
 興に乗れば、人の求めに応じて下條桂谷ばりの墨竹を揮毫することもあった。その号を、一齋というが、これは彼が私に、隠居したあとに雅号を用いたいと思いますが、何か命名していただきたいという注文されたとき、すごろくのさいころでは、六の裏が一であるから、六四郎、隠居して一齋、ではいかがかと言ったのが彼の気に入ったものか、ついにこれを採用したのである。
 とにかく彼の至芸は、明治後半期から今日まで、小三郎の名調とあいまって邦楽界に貢献するところが少なくない。これはみな、彼の少壮時代自他諸流の猛練習ほかならないので、ここでいささか彼の平生を記して、後進子弟の奮起を促そうとする次第である。


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二百十四  権八郎調子外しの段(下巻238頁)

 歌舞伎座での「春日神話妹背の鹿笛(注・前項の213を参照のこと)」は、河東節と同様、簾内語り式で、最初はきわめて大事をとり清元延寿太夫一門の玄人連だけで興行したが、中日ごろから、そのころ清元もしくは東明節を稽古していた高窪喜八郎、花月主人の平岡権八郎をはじめ、自称「天狗」の連中が数名簾内に割り込み、玄人連にまじってそれぞれの受け持ちの場所を語るということになっていた。
 そこで、いろいろな場所に集まり猛練習を続けいよいよこれでなら大丈夫ということになったので、私も無論その連中に加わり、延寿太夫張りの四本という高調子で、「山の端いづる月さえて」と謡い出したのが案外好評を得た。すると、われもわれもと連中がどんどん増えていった。
 さて、私がこの連中に加わったことについては、いささか思うところがあったのである。従来の日本の芸術家には、封建時代の遺習で自尊心の持ち合わせがなく、一種下級の人種であるかのように、みずから甘んじてそう心得ており、芸術そのものに対する崇高な観念が薄弱であった。試みに西洋諸国を見れば、芸術のたしなみある紳士が家庭内や公開の席上で、随時その余技を演奏することは当座の清興(注・上品で風流なたしなみ)を助けるだけでなく、健羨(注・非常に羨ましく思うこと)の的とさえなるほどなのである。ところが日本においては、音曲をたしなむ者が一種の道楽人のようにみなされ、芸事は外聞をはばかり隠蔽するものであるという弊害がある。
 そこで私は、この際すすんでこれを打破しようと思ったのである。旧習を革新する一端として、先ず隗より始めよ、の先例を示したわけだ。
 こうして私がこの決意を同好者に告げると、延寿太夫は私に、今度のような紳士の演芸は世間の耳目を一新するのはもちろん、玄人どもにも、わが芸術の価値を知らしめることになり、従って、その風紀を振粛(注・奮い起こし、引き締める)する端緒ともなるので、この道のため、幸慶のいたりであると語られたものだ。
 これが、素人連の簾内語りの始まりの次第であったが、興行が始まるや、「権八郎調子外しの段」という、舞台以上に面白い一幕が演じられることになったので、その話もしなくてはならない。
 花月楼主人の平岡権八郎は、義弟の高橋某と共に連中に加わった。高橋は最初の「山の端いづる月さえて」を、平岡は「みだれし髪をかきあげて」の一節を引き受けたのだが、高橋が太鼓の掛け声に釣り込まれてカッとなり、「山の端いづる」を一調子高いところから謡い出したため、桂寿郎が助け船を出してこれを救った。すると、今度は平岡がその例にならい、「みだれし髪を」というところを、またまた高調子で謡い出してしまった。これも桂寿郎が取り繕い大穴をあけずには済んだものの、こういう場面ではなにかが起こるのではないかと待ち構えていた連中の喜びようは普通ではなく、さっそく平岡や高橋の妻たちに、「君たちは今朝、金神様にお参りして、良人の無難を祈られたというのに、マンマと調子をはずされたのは、誠にお気の毒千万である」と丁重な弔詞を述べる始末で、本人たちは近所に居ることもできずに一時影を隠したという噂も出、ひょっとしたら身投げでもしはしないだろうかなどと案じる者もあらわれ、時ならぬ悲喜劇の一幕が演じられたのである。これは、この狂言にまつわる大愛嬌であった。
 ところで、家元である吟舟翁はこれを興がることと思い(注・おもしろがって)、連中を集め、その善後策を講じたのであるが、その席上、次のような話をされた。
 「往時(注・むかし)、浅草の札差の某が、河東節の隅田川を一中節と掛け合いで謡ったとき、某は河東節で狂女の出を語り出したが、三度ほど出直してもなお三味線の調子に乗らなかったので、その場はそのまま引き下がった。翌日みずから悪摺りを作り、隅田川の渡船の上に、笹を担いで乗り込んだ狂女が舷によりかかってヘドを吐いている図を、当日の連中に配布したので、さすがに某は洒落者なりとて、かえって好評を博したのだった。されば今度も、その例にならい、花月と高橋と両人より、自発の悪摺りを配布するが宜しかろう」
ということで、翁が即座にしたためた図案は、高い山の上から顔を出している者がいるところに、上の方から長い手を出して、その頭を押さえている者がいる。その山の下に、本街道という制札(注・せいさつ。注意書きの立て札)があるのを、山の上の人が見下ろして、「あれが本街道かいな」と言っているところであった。そして、平岡のほうは、平岡の似顔絵である男が背中に金神様の御札を背負い、乱れ髪の逆立っている頭の上に手をのせているところで、その口上書きには「乱れし髪を掻き上げ過ぎて、今更何とも……」とある趣向だった。
 この平岡は、油絵や水彩画もうまく帝展に入選するほどの技量を持っているので、その後、自筆でこの図案の悪摺りを描き、それを連中に配布し、外れてしまった調子を取り直したということだ。まことに珍事であったというべきであろう。
 この時は、欧州大戦の影響で、日本に好景気の波が盛り上がりはじめ、人の気持ちも自然にうきうきしていたので、このような喜劇も飛び出したわけで、これもまた、時代の相のひとつをあらわすものだったと言えるだろう。


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二百十三   春日神話妹背の鹿笛(下巻234頁)

 大正四(1915)年十月の歌舞伎座の興行で、一番目に同座付き作者である榎本虎彦(注・原文では寅彦)作「春日神話妹背の鹿笛」が上演されることになった。
 この狂言は、昔、奈良の春日山で若い男女が密会をしようとして合図の笛を吹き鳴らしたが、妻を恋う鹿が集まってきてその密会を妨げた。それに怒って、あやまってその鹿を打ち殺したのが娘に祟り狂乱してしまった、という伝説を、あの妹背山の狂言(注・妹背山婦女庭訓)の求女とお三輪の情事に結びつけたもので時代がかった甘い筋書きであったが、中村歌右衛門がお三輪をつとめるので、狂乱する場面で東明節を使用したいと家元の平岡吟舟に懇請した。
 ところが平岡翁は、明治二十九(1896)年に九代目団十郎の助六興行のときに河東節連中を引き受けたという経験もあり、年をとってからそのような面倒を見るのはまっぴら御免であると断られた。
 そこで歌右衛門は次に私夫婦を訪ない、翁に勧めてくれるようにと頼まれたので、九月二十六日、私たちは酒匂に滞在中の吟舟翁をたずね、段々熟議の末におおよそ引き受けてもらえることになり、清元延寿太夫一門を東明節連中とすることと東明流節付けのために開場を十月三日にすることを条件に、座元の松竹の承諾を得た。
 助六の興行の河東節連中のときを例にとり、芝居茶屋の武田家を連中席にあて、裏千家流の藤谷宗匠(注・「萬象録」によれば藤谷宗中)が毎日同家に出張して薄茶席を受け持った。床には、抱一上人筆の鹿に葛の花の二幅対を掛け、一方の壁床には、家元吟舟の雅号にちなみ、藤村庸軒筆の老人舟中に吟ずるの図を掛けたりして、飾り付けにも万端善美を尽くした。
 この時東明節社中として名前をつらねたのは、唄が二十一人、三味線が二十二人で、中日ごろから、この素人社中が飛び入りしようという計画になった。
 初日の唄は、清元延寿太夫、清元桂寿郎、清元魚見太夫、三味線は梅吉、梅之助、菊之助の顔ぶれで開場した。
 歌右衛門はこのころ五十歳前後で芸道熟練の最高潮に達した時であるから、例の鉛毒症で身体はいくぶん不自由ではあったが、東明節と、つかず離れず、振り少なく上品に踊りこなした。
 特に、吟舟翁の好みで入れた狂乱の幕切れに、お三輪が石灯籠にたおれながら向こうを指す姿が、前例のない良い型であるとして非常な人気を博すことになった。
 この東明節の文句は、次のとおりである。

 本調子山の端いづる月さえて、笛のしべもしめやかに、音すみわたる想夫恋 ゆうしでかくる神垣に、神灯のひかり、こうこうと、照す木のまに、ちらちらと、見えつ、かくれつ、さをしかの、思ひは同じ、鳴くこゑに、妻をしたふて来りけり。
 みだれし髪をかきあげて、むすぶえにしは、をだまきの、糸よりながきおもひだけ、 合ふえの歌口、音をとめて、より来る鹿を、てうとうつ 合笛は二つにせみをれのもろき命のさをしかや 合こゑも一時になきやみて、夜嵐ばかりぞのこりける あはれなり、いつしか狂女と 合なる鐘の、雲のひびきのあとたえて、こひしき人ぞしのばるる。
 二上り春日野に、むらさきにほふ、袖のつゆ 合なさけは、君を思ひでの、鏡にうつるおもかげは、心のまよひヲ、それそれよ、イヤイヤそこにいやしやんす 合花にもまさるわが君の、すがたはきえて、かげろふの、なぎの落葉や、まぼろしの、夢かうつつか、白雲の、ちぎれちぎれは、秋のそら、こずゑを鳴らす、ねぐら鳥、つまよつまよと、きこゆるを、若しやと思ふ恋のよく 合わけゆく蔦の細道を、たどりたどりて、三笠山 合手向の紅葉くれなゐの 合焔にまがふ棹鹿は、笛のしもとに、世を去りし 合うらみをここに、ゆふだすき、神のむくいを ナヲルおもひしれ。
 本調子すがたみだるる、花のつゆ、おもき呵責も、恋ゆゑに、くるひくるふぞ、あはれなる。
 

 この狂言では、お三輪狂乱の場で、結城孫三郎の操り鹿が八匹あらわれて、そのうちの一匹が、お三輪の笛でうち殺される趣向だった。総ざらいの時、この鹿が滑稽に見えないだろうかと心配する向きもあったが、実演においては案外好成績をあげ連日満員の盛況を呈した。
 その一方、家元の吟舟翁が負担した東明流連中席の武田家は、例の花柳国の女将軍らが押しかけて大入り満員であったばかりでなく、最後の三日間は、この連中が大そそり(注・歌舞伎の千秋楽などで、筋や配役を変えて滑稽に演じること。そそり芝居)を演じて、さまざまな談柄(注・だんぺい。話の種)を残した。これは、大正初期の演劇界における、ひとつの異彩だったのではないかと思う。

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二百十二  老母の永眠(下巻230頁)

 私の老母は、大正四(1915)年九月六日に享年八十九歳で永眠した。このことはもちろん一家庭の私事ではあるが、老母は高橋家に対して並々ならぬ勤労を尽くした婦人なので、その死去の前後の状況につきここに一筆することを許されたい。
 老母は水戸上市の士族、野々山正健の妹で、八十子といった。高橋家に嫁して四男二女を産み、維新前後の国難に当たって内助の功が多かったということは前述したとおりである。(注・10「慈母の奮闘」を参照のこと)
 野々山家は長命の血統で、祖母は九十六歳の高齢を保ったということであるから、老母も疑似赤痢にかからなければもっと長く生存したのかもしれない。
 私は八月三十一日に老母が発病した知らせを耳にし、さっそく医学博士の木村徳衛氏を同伴して看護婦とともに水戸に駆けつけたが、その翌日の九月一日に、興津において井上世外侯爵が薨去されたので、老母の病間をうかがって、いったん帰京して井上家を訪問し、老母危篤の状況を述べて侯爵夫人の諒解を得たうえで再び郷里に立ち帰った。
 すると老母は、例の謙遜な性分のため、井上さんの葬式は何日かと問い、自分には構わずにそちらに参加するがよろしいと、縷々私に注意されるので、私はとても当惑した。
 医師の内話によると、臨終はもはや一両日に迫っているというので、意を決しもっぱら老母の看護にあたることにした。
 こうして、九月六日に老母が永眠した。最初に来診した水戸の侍医が、すでに赤痢と診断しているので、法規に従い荼毘に付すほかはなく、死去後ほどなく市外佛日山常照寺の火葬場に送り、翌日遺骨を拾って小甕に納め、一週間後すなわち九月十三日に、水戸士族の墓地である酒門(注・水戸市内の地名)の蓮乗寺に埋葬した。
 私は、明治四十(1907)年の老父の葬儀のときに老母が生造花の行列を非常に喜んだことを思い起こし、今回は、いろいろなところから贈られた香華料のすべてをもって生造花六、七十対の行列を作ったので、水戸では空前にして、おそらく絶後であろうと言う者さえあった。
 水戸士族の葬式は、会葬者がまずその名刺を玄関の受付に差し出した後、門前の両側に立って並ぶ。すると喪主がその前にやってきて挨拶し、そこから棺の前に進み、親戚一同とともに黙礼しながら会葬者の面前を通過し、会葬者も棺のあとに従って粛々として墓地まで徒歩で行く。そして墓地の受付に名刺を置き引き取る、というのが常例となっている。このときの葬儀では、もちろん伯兄(注・長兄)の純が喪主で、まことにつつがなくすべてが済んだ。
 私の両親は、双方とも八十九歳の高齢を保った。今回試しに数えてみると、老母の子、孫、曾孫、玄孫(注・やしゃご)合わせて六十四人だった。
 しかもこれがみな正系本腹の子女なので、ずいぶん多いと思われるが、それもさることながら、存命中に玄孫を見たということは、とても珍しいことだろう。
 私の兄弟姉妹(原文「同胞」)は、姉が一番上で、これが中主氏に嫁いで、長女雪子を産み、雪子が三木氏に嫁いで長女をあげ、その長女がさらに他に嫁いで一子を産んだ。これが老母にとっての玄孫である。
 女子が二十歳で子供を産むとして、これが四代、つまり八十年たたないと玄孫を持つことはできない計算なので、生前に玄孫を見る者は特別に子福者の系統だといえるだろう。
 老母の歌に 
    月花のながめもあれどすごやかに おたつうまご見るがうれしさ

というのがある。老母も、非常にこの多福をよろこんでいたのである。
 私は、相貌、性格、嗜好のどれもが老母に酷似しており、また男子四人の中では私が末子なので、母はいつも私を秘蔵っ子としていたらしい。したがって、私の愛慕も一層深いものになった。
 老母の死去する十か月前、つまり大正三(1914)年の十二月に私が帰省した際に詠んだ十吟は次のようなものであった。
  
   
 あなたにぞ母は住むなる見るたびに 恋しき山は小筑波の山
    冬さればいとど身にしむ故郷の ははその森の木枯の声
    門に立ち我を待つらむたらちねの その面影のまづ浮びつつ
    語らむと思ひしことは忘られて ただあひ見ればうれしかりけり
    今もなほ我を幼き児のごとく 思ひなすこそ親心なれ
    ふりし事とひつとはれつするほどに 幼な心に我もなりけり
    故郷の昔をしのぶ片岡の 松も薪となる世なりけり
    むかし我が釣せし池をよこぎりて かなぢ車の走りゆく見ゆ
    かへり来てしばしやすらふ故郷の 柞の蔭ぞ立ちうかりける
      (注・柞=ははそ。コナラ。母の意味とかけて秋の季語として用いる)

    来む春は又ともなひて花を見む 冬籠りしてすごやかにませ

 昔、在原業平が、長岡に住んでいた老母に、

    世の中にさらぬ別のなくもがな 千代もと祈る人の子のため

と詠み送った例もあるように、どんなに高齢であろうとも母の死去を遺憾に感じないという者はないだろう。しかし五十五歳まで老母を持っていた私のような者は、あまり不足を言うことは、できないかもしれない。


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二百十一  井上世外(注・井上馨)侯の薨去(下巻227頁)

 井上世外侯は、大正四(1915)年九月一日、興津の別荘において薨去された。享年八十一歳であった。
 侯爵は、王政維新という日本未曾有の大変動が起きたときの大偉人である。
 その性格は非常に変化に富んでいた。ある時は政治の難局に立ち、伊藤
(注・博文)公爵その他の同輩のために縁の下の力持ちとなり、あえてその功を誇らぬというような美点があるかと思えば、それほど重大ではない事件を達成したときに、無遠慮に自分の働きを自慢することなどもあった。

 非常に強情で、意地が悪いようであるかと思えば、その反対にいたって涙もろく、徹底的に親切なところがあった。
 気が向かないことがあると大声で怒号し相手を叱りつけるので、雷さんだの電光伯だのという綽名(注・あだな)さえあったが、その一方で、先だった友人の後始末などを引き受けたり、芸人などをかわいがったり、また、特に婦女子や弱者に対し、まことにやさしい同情と援助を惜しまないため、私はある人に「井上侯の一身は、多種多類の合金のように、鉛もあれば金もあったり、銀、銅、亜鉛などもあり、硬軟貴賤、種々の混合物である」と評したこともあった。
 続いて、侯爵の文芸的方面をふりかえるならば、詩、書においては伊藤公爵に及ばず、和歌においては山県(注・有朋)公爵の敵ではないが、書画骨董の鑑賞においては、はるかに両公の上に出ていた。
 また時に狂歌を弄んで、その胸の内を洩らされることがあったが、ウイットもあれば、ユーモアもありで、通人ぶりにおいてもまたなかなか隅に置けないところがあった。
 井上侯爵が維新の元老として国事に尽力された功績は、薨去の際に、大正天皇陛下から賜った誄詞(注・るいし。死者の生前の功徳をたたえて述べる哀悼の言葉)の中に、炳焉として(注・へいえんとして。はっきりと)光輝をはなっているから、いまさらそれを詳説する必要もないが、私が侯爵と知り合ってから二十六年間に、生来のもので侯爵以外に見ることができない特徴だと思われたのは、侯爵の体内に充満する気魄が物事に激して爆発するときの猛烈さである。これには、維新前後の少壮時代には、この元気がいかに旺盛であっただろうかと想像するに足るものがあった。
 明治四十二(1909)年ごろ、ある事件に対し侯爵が非常に激怒しておられた最中に、私は当面の関係者ではなく、むしろ侯爵を鎮撫する使者として内田山邸に推参したことがあったそのとき侯爵は、苦り切った相貌で、たばこ盆を引き寄せ、鉈豆煙管(注・なたまめぎせる)で灰吹をポンポンと叩きながら、声をからして不平をひとくだり説き終わるや、怒気満面、眼中よりちらちらと電光のような閃きがほとばしり、私はほとんど見上げることもできないほどだった。世人が侯爵を不動尊に擬したのは、いかにももっともだと思われた。
 もともと侯爵には、外交家的な機略がないことはなかったが、どちらかと言えば直情径行の人で、物事があいまいであることを許さず、晴れでなければ雨、白でなければ黒、というやり方をした。よって、敵にはあくまで憎まれるかわりに、味方には、あくまで慕われる人物である。
 だから、侯爵の親切が過ぎて、かえって非難の口実を与えてしまい、しばしば誤解されてしまうことがあったものだ。
 その一例は、明治三十一、二(18989)年ごろ、東本願寺が侯爵に財政整理の役目を果たしてくれるよう懇請したときのことである。侯爵は京都の停車場で、本願寺から来た出迎えの馬車が立派なのを見て、人に財政の整理を頼もうとする者が、なんの余裕があって、このような贅沢をあえてするのかと、自分で辻車に乗って同寺に押しかけた。そして、朝の九時から夕方六時まで当事者から財政の状況を聞き、やがて運び出された食膳をみるなり、侯爵の癇癪玉はたちまち破裂した。「これみな、善男全女が寄進したる粒々辛苦の物ならずや、これを思えば、かかる膳部が喉を通るか」と罵倒したので、本願寺の僧侶たちは非常に驚き、その日限りで、内々で「くわばら、くわばら」と叫んで、敬遠主義を取ったものである。
 侯爵の薨去の際に、徳富蘇峰氏はこれを評し、「明治幡随院長兵衛」と呼んだことがあったが、政治でも、実業でも、頼まれて「うん」と引き受ければ、勇往邁進、水も火も避けずに進むという趣があり、いってみれば、高等な男達(注・おとこだち。侠客)の面影がないでもない。
 もともと侯爵は世話好きで、友誼(注・親しい仲間への友情)に厚かった。ある事件を処分を三浦観樹将軍(注・三浦梧楼)から頼まれて、それをさらに私に託されたことなどもあったが、伊藤博文公爵とのあいだは、また格別で、あの管鮑の仲(注・親友。中国春秋時代の管仲と鮑叔の故事から)もおよばないほどで、公爵が困難にあるのを見れば、どんなときにも駆けつけ、人足(注・力仕事をする労働者)になることを辞さなかった。
 また国家の大事とあらば、割の悪い役目をみずから買って出てこれに当たることもある。日清戦争後に朝鮮公使をつとめたのなどがそれである。
 また日露戦争の際、侯爵に軍国財政上の援助をしてもらおうとしたとき、なんでもよいから官職について尽力してはどうかと伊藤公爵から申し入れたのに対し、侯爵は、「国家に尽くすために官職は必要ない」と言い、伊藤公爵は、その高潔な心事に感嘆し、次のような和歌を贈られた。

   国の為尽す心を大君の しろしめすをもいとふ君かな

 井上侯爵は、この一首に、知己の言として非常に感激されて、生前、それを立派に表装して家宝にされたということだ。
 さて、侯爵の逸事については、すでに前項でも述べたし、ほかにまだ記述するべき資料も少なくはないが、これはまた他の機会に譲り、今は、維新の元勲たる偉人の長逝に対し、謹んで満腔の(注・全身全霊の)弔意を捧げるだけにとどめておこう。
 


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