二百十 大江天也坊(下巻223頁)
大正四(1915)年七月二十一日のことであった。大江天也坊が私の四谷天馬軒を訪問して、その主宰している弘道会のために一臂の(注・いっぴの。片方のひじの=すこしの)援助を乞いたいという相談があった。
天也坊とは誰あろう、土佐の豪傑、大江卓の成れの果てである。
彼は明治初年より政界で活動し、片岡健吉、林有造らとその名を並べ、板垣伯爵とともに自由民権の説を唱えた。
後年、衆議院議員になり、あるいは東京株式取引所の理事長などになり、一時の羽振りはすこぶる豪勢なものであった。
彼は、後藤象二郎伯爵の末娘をめとり、岩崎弥之助氏と義兄弟の縁故もあった。
明治八、九(1875~6)年に岩崎弥太郎氏が金銭上の都合で政府から十万円の交付を得たいと願い出るにあたり、彼はその使者となり首尾よく大隈侯を説きつけたので、弥太郎氏はおおいにこれを徳とし、後日彼にむくいるところあるべしとの一札をおくったということである。
さて、大江氏の末路ははなはだ振るわず、困窮の頂点に達したとき、彼の親友は見るに見かねて、君はなぜ、あのお墨付きを役立てて、この窮境からのがれようとしないのかと注意を向けると、彼は頭を左右に振り「鷹は餓ゆとも穂を啄まず、僕は何程窮しても、かの一札を利用しようとは思わぬ、しかし、いよいよこれを利用する時節が到来すれば、百万円以上には物を言わせてみせるよ」と言って呵々大笑されたという。この一事をもっても彼の豪快さを知るに足るというものである。
大江氏の東京株式取引所理事長時代の豪勢ぶりは、実にすさまじいものであった。あるとき、出入りの道具商を引き連れて加賀金沢に乗り込み、名家の道具をよりどりに買収しようとしたことなどもある。
氏の所蔵品には、現在、山本達雄男爵所蔵の、一休和尚がその衣の裂で表具したという大燈国師の墨蹟や、某大家に収まっている知名な古筆手鑑などがあって、茶の湯を催すまでには至らなかったが、益田紅艶(注・益田孝の末弟英作)らを友とし、一時は美術鑑定家の巨頭になったこともあった。
しかし、理財、実業は彼の得意とするところではなく、傲骨みずから持して(注・誇り高さを崩さず)、和協性に乏しかったため、晩年に蹉跌(注・失敗、目論見違い)が相次いだとき、翻然として大に決心するところあり、高齢六十八歳にしてはじめて曹洞宗にはいり、本郷の麟祥院で落飾式なるものを挙げた。そこには多数の知人が集まり、今道心天也坊の僧形を披露するという奇行を行ったのである。
さて、本日の彼の訪問の要旨は、次のようなものであった。(注・一部わかりやすい表現になおした)
「明治四(1871)年の四民平等(原文「四民同等」)の発令(注・太政官布告)では、従来身分違いだった××(注・原文どおり)を公民と認めたのであるが、それから四十年たった今日になっても、旧習はいまだに去らず、東京はさておくとしても、ある地方に行けば、いまでもまだ××を排斥し、互いに同化していない。昔、××が支配していた乞食、非人のほうが、かえって普通良民にまじって、その間に何ら区別を見ないようになったが、今や全国で百二十万を数え、かつ年々増加傾向にある××のほうはそうではない。
特に、山陰、四国、九州などに行くと、彼らと縁組することはもちろん、そのひさしの下に立つことさえ嫌われ、融和するのが難しい状況である。これは人道的見地から、もはや片時も見過ごすことができない。
今日、わが同胞に対してこのような区別が存在することにより、彼らが危険思想を持つおそれもある。
いずれにせよ、発令の趣旨に照らし、少しでも早く、彼らを良民と同化させることが急務であると感じ、ここに弘道会を発足させた。
さいわい、三井、三菱その他から、すでに若干の寄付があり相当の金額に達したので、これからその基金を使って巡回教師三名を各地に派遣し、自分もときどき出張して余生をこの教化に託すつもりである云々。」
大江氏は明治初年に、奴隷解放(注・明治5年横浜港で中国人奴隷をペルー船から救助したのマリア・ルーズ号事件のことか?)のことに関わり、大に気焔をあげた経歴もあり、普通の経世家があまり着眼しないようなこの類の感化事業に関係することは、その性癖が普通の人とは少し違っていることを教えてくれる。
前述した通り、氏は益田紅艶と同気相求むる親友であり、その嘲謔遊戯の中には、稚気満々であとあとまで話の種になるものも少なくない。
大正十(1921)年、紅艶が築地の自宅で危篤の際、天也坊もまた病気で麻布の家におり、みずから往訪することができないからと、ある日私に電話をかけてきた。「紅艶がいよいよ危篤だそうだが、僕も老病で動けぬから、君がもし紅艶に会ったら、どちらが先になるか知らぬが、お互いに三途の川で待ち合わせ、堂々と閻魔の廟に乗り込もうではないかと、伝言してくれたまえ」ということであった。 天也坊の奇癖は、だいたいがこうした類のものであり、晩年には壮士の遅暮の嘆(注・ちぼのたん。老いていくことへの嘆き)がなかったとは言えないものの、それでも、豪快な一人傑たるを失わなかった。
2017年10月
「箒のあと」209 森村翁懐旧談(下)
二百九 森村翁懐旧談(下)(下巻220頁)
(注・207・森村翁懐旧談(上)、208森村翁懐旧談(中)からのつづき)
森村市左衛門翁の懐旧談は、こんこんと尽きることがない。今日も、そのいちばん有益で興味ある部分を続けることにしよう。(注・旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字になおした)
「福澤先生が時事新報を発行せられた直後、手前は先生に向かって、どうも新聞に六つかしい字が多くって、読みにくくって困るから、もっとたくさん、ふりがなをつけていただきたい、と申し出たところが、先生の言に、ふりがなを多くつけようとすると、費用がかさんで新聞の経済に関係するが、しかしもしお前が読みにくいというようでは、世間一般に困る人が多かろうから今後は一層多くふりがなをつけよう、ということであった。
それから、そのころ正金銀行が外国為替相場を秘密にして、その間にかけひきをなすので、これも先生にお願いして、為替相場表を毎日、新聞に出していただくこととしたので、正金銀行なども、もはやごまかしができなくなって、当時の外国貿易商人にとっては非常の便利でありました。
福澤先生は、つねに独立ということを説かれ、商売人は他人に依頼せずして、みずから商売上の工夫をなさなくてはならぬ、独立の工夫のない者は、決して偉い商売人にはなれない、と言われた。
その実例に『昔、越後屋の手代が外出して帰りが遅くなったのを番頭が大いに叱りつけたところが、その手代が申すには、私は今日、某所で非常に面白い柄の帯を締めていた女を見かけ、その柄を見届けようと思って、あとを追いつつ両国の方まで参り、その女がある家にはいったので、やっと気がついて、ただいま帰店したのであるが、その帯の柄はかくかくのものであるから、是非ともこれをお仕入れなさいませと勧めたが、番頭がこれに応ぜぬので、暫時うっちゃっておいたが、その手代が思い出しては、しきりにこれを勧むるので、とうとうこれを仕入れたところが、これが非常に人気に投じて、たちまち多額の売り上げを見たので、番頭もおおいに感心して、その手代をさっそく仕入方に回したそうだが、畢竟、商売に忠実で、平常注意を怠らず、独自に種々の工夫をするのが、商人に欠くべからざる要素である』と申されました。
先生のそのひと言は、手前の米国雑貨商売にとって、もっとも貴重なる金言で、米国に輸出する商品を仕入れるには、常にこの心持を忘れてはならぬと、手前は毎度店員に注意している次第であります。
また先生が、手前どもに一生涯の利益を与えてくださった教訓は、『学問というものは、本を読むばかりではない、箸の上げ下ろし、横町の曲がり角、これに注意するのが、実際の学問である』ということで、商売のことを、寝ても覚めても念頭に置き、横町の曲がり角に立って、どちらに行こうかと、ここで方針を定めて進めば、商売上に失敗することがないのである。
商人が時勢を考え違って、とんでもない失敗を招くのは、畢竟、この工夫を怠るからのことで、手前は毎度、店の若い者に向かって、このことを申し聞け、時勢の進歩が、ますます急激になれば、箸の上げ下ろしや、横町の曲がり角で、一段深く注意しなくてはならぬと申しておりますが、これはまったく、先生のありがたい教訓であります。
福澤先生は時として、突飛なことを言い出さるるが、これは偶然に言い出さるるのではなく、実験上の信念より発する名言で、これを味わえば、いかにももっともだと、うなずかるることがあります。
ある時、明治政府に志を得て、参議などになった人物が、非常に偉くて凡人でないように思う者もあるが、彼らはみな、まぐれ当たりである。時勢に推されて、ただぶらぶらとその位置に紛れ込んだ者で、これなどは、道楽の僥倖というものであろう、と申されました。
またある時、先生は手前に向かい、北里柴三郎がドイツから帰ってきて肺病研究所をたてようとするのを大学の連中が妨害するそうだが、これは学問上、非常に大切なものであるから、一時出金して補助してくれぬかと言われたので、手前は快くこれを承諾しましたが、その後、同研究所に参ってみると、政府の役人が二人ばかり来合せて、北里に勲章をやるという話を持ち込んでおった。ところが先生は、その役人らに向かって、勲章では研究所が建たないから、勲章を出すくらいならば、生でやるが宜しいではないかと彼らを揶揄っておられました。
また、手前は雲照律師を信仰していたので、ときどき先生に宗教談を持ち込んでみたが、そのときはあまり、お気に向かないようであった。しかし、晩年、大病にかかられて後、はじめて筆をとって、私のところへ左のごとき文句を書き送られました。
本来無一物とは云ひながら、無物の辺には自から勢力の大なるを見るべし。
明治三十二年秋、 福病翁
この語を味わいますと、先生も宗教については、まったく無関心ではなく、なんとやら、意味深長なるものがあるように思われます。」
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「箒のあと」208 森村翁懐旧談(中)
二百八 森村翁懐旧談(中)(下巻216頁)
(注・207・森村翁懐旧談(上)からのつづき)
森村市左衛門翁は上背があって体格も立派であるし、後年、白髪になってからは、なにやら絵に描いた神農氏のような、いかにも上品な相貌で、しかもその性格が律儀勤勉であった。ただし若年のころから宇治紫文の弟子になって一中節を語り、その堂奥に達したというような江戸趣味に富んだ半面もある。信仰心が深く、雲照律師に帰依し持戒を怠らなかったように、おのずから宗教家のようなところがあった。
さて翁が前記のとおりの道をたどってついに外国貿易に着眼し、アメリカに対して日本雑貨輸出の先鞭をつけることになったのは、単に森村一家のためだけでなく、実にわが国の貿易上の幸慶というべきであろう。
そのアメリカ貿易を開始するに至った経緯について翁がみずから語るところは次のとおりである。(注・旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字になおした)
「明治五、六年ごろのことと思いますが、手前は外国貿易のことが念頭を離れぬので、自分の弟の豊【とよ】を慶應義塾に入れましたが、これはただ学問をさせるばかりでなく、簿記法の帳面をつけたり、外国人と会話したりすることを覚えさせようというためであった。
このとき、福澤先生は手前に対して、それは面白い考えである、これまで塾に来る者は、みな学問をして参議になろうというようなことばかり考えているが、学問をして商売人になろうというのは、非常に面白いことであると申されました。
かくて弟が慶應義塾を卒業するや、暫時、教師のような真似をしておりましたが、明治七年ごろ、小幡篤次郎さんが突然私の宅に参って、今日は福澤先生の使いで来たが、お前の弟の豊を、米国へ遣ってはどうであろう、先生は書生を米国に遣って、商売を見習わせ、外国貿易の基を開かなくてはならぬというので、それぞれ知人間をを説きまわった結果、早矢仕【はやし】有的をして、鈴木尾という男を米国に遣って茶のことを調べさせ、また同時に荒井領一郎に生糸貿易のことを見習わせることになったから、雑貨のほうは、お前の弟がよかろうというので、自分は先生の代理で、お前にそのことを勧めに来たということであった。
そのとき手前はこれに答えて、それは手前の力の及ぶところではない、今、アメリカに人を遣るには、五百円か千円を要するであろう、これという目当てもないのに、そんな大金を使うことは、とても手前にはできませぬとて、断然お断りをしましたが、小幡さんが再三勧めに来らるるので、だんだん取り調べてみると、船中の寝台の下やら、または甲板の隅などに寝転んでいるような、最下等の旅客となれば、二百何十円かで紐育(注・ニューヨーク)まで行かれるということであったから、手前もついに奮発して、弟を米国に遣わすことに決したが、弟は渡米の後、五か月かかって、ポーキプシーのイーストマン学校を卒業し、それより、ささやかなる雑貨店を始むることになりました。
ところが、かの地で売り上げた金を日本に送り、その金で仕入れた品物をかの地に送るという、この金の運搬が非常に困難であったのは、当時、為替というものがなかったからであります。
そこで手前はこのことを先生に相談すると、先生は俺が外務省に掛け合ってやろうとて、そのころ先生は頬かむりをして、馬に乗って歩かれましたので、今度も同様の姿で外務省に参り、時の外務卿に相談せられた結果、政府が紐育で日本の領事館に支払う給料を、森村が紐育で領事館に渡し、その替金を、東京で森村が外務省より受け取るということに相談がまとまって、その金額は、一か月千ドル内外であったが、とにかく先生がその工夫をつけてくだされたので、手前どもは非常な便利を得たのであります。
ことに、当時、森村などと申しては、政府になんの信用もなかったので、福澤先生がその談判相手となり、領事館で入金したという照会が先生のところへ回ってくると、先生は例の通り、頬かむりをして馬に乗り、外務省に出かけてその金を受け取って、手前のほうに渡すという順序でありました。
それでは恐れ入りますから、手前どもが受け取りに出ましょうと申すと、先生は、お前のほうでは金が早く要るだろうから俺が受け取ってくると言って、いつも自分で外務省に出かけられましたが、当時、日本の一円は、米国の一ドルよりも少しく高く、かの百ドルが、日本の金で九十何円という割合でありました云々。」
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「箒のあと」207 森村翁懐旧談(上)
二百七 森村翁旧懐談(上) (下巻213頁)
明治二十五、六(1892~3)年ごろのことであった。松方大蔵大臣を三田の私邸に訪問して種々談話中、私は、政府が勲爵(注・勲等と爵位)の授与を政治家や軍人方面に限って、実業方面に及ばさないのは、まことに遺憾千万である、日本は今後、商工業によって国を立てなくてはならないから、その奨励の一端として、この方面にも勲爵の授与がなされるべきである、と陳述した。
すると松方大臣は、「至極ごもっともでごあす。それは俺も賛成でごあすが、しかしそのような実業家はいたって少なく、見渡したところで真に勲爵に値する者は、米国に雑貨貿易を開いた、森村(注・森村市左衛門)くらいのものであろう」と言われた。
私はそのときはじめて、森村翁の事業がそれほど顕著なものかということを知ったのである。
その後、森村翁が福澤先生のお宅で一中節を語られたとき私もこれを参聴し、その一中節には閉口したが、とにかく翁と福澤先生に密接な交際があることを知り、大正初年、私が福澤先生の事歴探問を始めた際、まず翁を訪問してその談話を聴聞した次第である。
その談話中には、維新前後における横浜の状況、米国貿易の開始、その他商業に関する福澤先生の注意などについて、当時の光景をしのぶような事実談が少なくない。そこで、翁の談話そのままを摘録し、読者の参考に供することにしよう。(注・旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字にあらため、一部ひらがなになおした)
「森村の家は、二百年以来、江戸における諸大名に出入りし、表方においては馬具、鎧、兜などの御用を勤め、奥向においては袋物、鼈甲、髪飾り類を納むるのが、その営業でありましたが、安政年間、ペルリ(注・ペリー)が渡来して、横浜に開港場ができたという噂を聞き、一日横浜見物に出かけたところが、波打ち際に漁師の家が数軒建っているばかりで、地面は何程でもつかわすから、すすんで商店を開けよという申し渡しがあっても、何人も家を建てる者がないので、政府はまず、地所割りを定めて、三井その他の商人に対して、それぞれ開店を命じたので、これらの連中は板囲いをなし、わずかに体裁をつくろっていたその中に、ささやかなる荒物屋が一、二軒あったので、試みにその店に立ち寄ってみると、当時西洋の軍艦から、ボーイなどが盗み出してきたものとおぼしく、古ぼけた兵隊の靴、または古着の羅紗服、ビール瓶、コップなどが並べてあったから、これはおもしろいと思って、これを買い取って江戸に帰り、即日店頭に飾っておいたところが、これがよほど珍しかったとみえ、馬に乗ったお武家さんが、続々来店せられた中に、板垣さんだの、後藤さんなどもあって、そんな方々が、マドロスか何かのはき古した靴を買って、よろこんでこれをはかれたというようなありさまであった。(注・じっさいには板垣退助、後藤象二郎が江戸に出るのは、横浜開港の1859年よりもずっとあとのことであるようだ)
これにおいて、私は時勢にかんがみて唐物屋を開くこととし、金巾(注・かなきん。経糸と緯糸の密度を同等に織った薄地の綿織物)、羅紗などを横浜より仕入れて、これを発売していましたが、手前の家は当時、鉄砲洲にあった奥平家のお出入りなので、唐物をかついで時々同邸にも参りました。
しかるに、奥平家には桑名昇というよほど進歩的の御家老があって、通常ならば手前らはとてもお目通りができぬのに、桑名さんは手前をお座敷に呼んで、じきじきによもやまの話をされた。
その時、まだ江戸に参られたばかりの福澤先生が桑名の家を訪なわれたのを、桑名さんが手前に紹介し、これは福澤という人で蘭学の先生であると申されました。
桑名さんは御家老、先生は奥平家の下役の子息でありますから、由良之助と平右衛門(注・仮名手本忠臣蔵の大星由良之助と足軽の寺岡平右衛門)ほどの違いがあるのだが、桑名さんは先生に対しておおいに敬意を表しておられました。
そうして桑名さんが手前に申すには、お前などはしあわせ者である、よく見ているが宜しい、今に日本も町人の世の中になって、吾々どもは町人の台所から出入りするような時節が来るであろうと申されましたから、手前は、とんでもないことで、そんなことがあるべきはずはない、と言えば、桑名さんはイヤイヤ決してそうでないとて、インドにおけるイギリスの商人の東インド会社やら、諸国の商人が寄り集まって、ついに独立するにいたったアメリカ合衆国の実例などをあげて、日本も今に商人の世となることであろうから、お前たちも大いに勉強するが宜しい、日本の商人も蒸気船に乗って外国に出かけ、外国人と商売して金儲けをなせば、商人の格式も大いに進んで、吾々どもがその台所より出入りするようになるのであると説明せられたので、いまだ二十歳くらいで血気盛んであった手前は、この話を聞いて非常に面白く感じ、お武家さんが商人の台所から出入りするような時節が来たらさぞ面白いことであろうと、この一言が非常に手前の神経を刺激し、他日、外国貿易を始める動機となったのであります。」
「箒のあと」206 法螺丸翁の刀剣談、太郎冠者の舞曲談
二百六
法螺丸翁の刀剣談(下巻210頁)
杉山茂丸翁は、人呼んで「法螺丸」というが、自身もこれを甘受して毎度豪傑ぶりを発揮している。
しかしながら、他のことは知らないが、その刀剣談についてはまったく真剣で、おおいに傾聴に値するものがある。
大正四(1915)年三月二十九日の団琢磨男爵主催の山谷八百善での晩餐会に、翁は黒田家から拝領したという相模守正弘作、中身一尺二三寸、文安年号銘の一刀を持参し、これを主人の団男爵に寄贈したあと得意の長講を一席ぶった。(注・一部漢字を新字やひらがなに直したほかは原文通り)
「刀剣は古来、武士の魂としてあるので、これを扱う方法も、研究に研究を重ね、たとえば君侯の前にこれを拝見するときのごとき、ほとんど茶礼に異ならざる作法があるのである。また刀を差すときは、刃を上にして差し、これを見るときも、また刃を上にするのは太平の象(注・しょう。すがた、ありさま)である。
しかるに、いったん事起こりて、刀を抜かんとするとき、反りを打って刃を下にするのは有事の象で、大将が軍陣に臨むとき、刃を下にして太刀を佩く(注・はく)のもまた同じ意味である。
日本では古来刀剣をもって武器の第一としていたから、その研究はおおいに進んで、第一鍔元に鍔をつけ、切羽鎺【せっぱはばき】を同処に付属するが、この切羽鎺は、多くは銅、真鍮、金などのごとき、鋼鉄とその性質を異にするものを用い、しかもその接続の間に多少の空虚を存するのは、強烈なる打撃に耐ゆる工夫なので、もし日本の刀剣を外国のそれのごとく扱って、鍔先になんらの工夫も施さなかったら、本来堅き銅鉄とて、実戦に臨んで、たちまち打ち折られてしまうであろう。
また刀を鞘に納むるとき、刀身が鞘の中の木質に触わるれば、必ず錆を生ずるから、刀を鞘に納めきったときには、鍔元において刀の中身が、鞘の中のどこにも触れざること、あたかも魚が水中に浮かぶがごとくに仕掛くるものである。
この発明は、日本の鞘師が、古来秘法として伝えたものだが、往時刀剣流行の際、もし専売特許というものがあって、その発明を専売にしたならば、その発明者は非常な利益を得たであろう云々。」
太郎冠者の舞曲談(下巻211頁)
太郎冠者とは、劇作家としての益田太郎の雅名(注・雅号)である。大正四(1915)年四月三十日、福澤桃介氏が築地新喜楽において珍芸会を催したとき、太郎冠者は批評家のひとりとして来会し、いろいろな芸評を行った。その中には、そのころから台頭しはじめた、西洋楽器演奏による日本の歌についてや、西洋人から見た日本舞踊の評などもあった。ここで、その断片をあげてみよう。
「日本の舞踊は、従来我も人も、きわめて丸くして、角なきものと思っていたところが、先般、ある米国人が、日本の舞踊を見て、さてさて角立ちたる踊りかな、と評したのを聞いて、はじめて気がついて考えてみれは、日本の舞踊は、一手ごとに、手や足がガクリガクリと行きどまっては、またさらに新しい運動に移るので、見ようによりては、非常に角張ったものと見られぬこともない。
かのエジプト(原文「埃及」)やインドの踊りが、手振りはかんたんでも、接続点の明白に角立たぬのは、その特長と見るべく、日本の舞踊中、京都の片山流のごときは、一段角張ったものであるが、その角張った踊りを賞揚すべきか否かは、ひとつの研究問題であろうと思う。
西洋の楽器に合わせて日本の唄をうたうときに、その意味が分明ならずとて毎々不平をきくことがあるが、これは最初より日本の文句に合わせて西洋音曲の節付けをしたのでなく、十中八、九は翻訳もので、たとえば西洋の言葉で「マイファーザー」というのは、三シレブル(注・シラブル。音節)であるが、これを日本の言葉に翻訳すれば、「私の父」というので、数シレブルとなる。このシレブル数の相違のあるにかかわらず、「マイファーザー」と「私の父」とを同じ間合いに唄おうとするから、言葉が詰まって、その意味が聴き取れぬようになるのである。
されば、日本語で新たに文句を組み立て、その文句に合わせて、西洋音曲の節付けをなせば、今日のごとく意味のわからぬはずはなかろうと思う。
近来日本では、西洋音楽趣味が普遍する傾きを生じ、第一、学校教育でピアノやヴァイオリンなどを教授するので、西洋音楽がもし男女に耳に慣れて、これをよろこぶことになるのはもちろんであるが、しかし一国の音楽は、楽器のいかんにかかわらず、まったく他国に化し去るものではない。欧州において、彼がごとく(注・あのように)接近する英、仏、伊、独、露、墺の諸国が、各自その国に歌曲を持っているのでもわかる通り、日本においても、楽器にいかんにかかわらず、無論自国の歌曲があるべきはずである。ただ日本の楽器が、西洋の楽器と相対して、日本の歌曲を発達せしむるにいかなる働きをなすべきやは、今後、年とともに決定せらるべき問題であろう云々。」
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「箒のあと」205 高田慎蔵氏の風骨
二百五 高田慎蔵氏の風骨(下巻206頁)
明治の初期から大正末期にいたるまで陸軍御用達の貿易商を営んで内外の信用を博し、朝野(注・政府と民間)の各方面に知人多く、書画骨董を好んで、おりおり風雅の会合を催すなど、東京の紳商のなかにあって一種異様な風骨を備えていた高田慎蔵氏は、佐渡国相川の土着士族のせがれである。
佐渡は幕府の直轄なので、王政維新の際に、幕臣で後年茨城県知事などを勤めた中山信安が、同地の士族の一団を率いて会津軍に加勢しようとしたとき、高田氏はいまだ十四、五歳の少年ながらその徒党に加わって出陣しようとした。しかしその前に裏切り者が現れて、結局これを果たすことはできなかったが、士族の子として一種の気概をたたえていたことは、後年に東都の交際裡に立つにおよんで自然とその素養をうかがうに足るものがあった。
明治二(1869)年に、井上勝子爵が、イギリス人のガール(注・鉱山技師エラスマス・ガワ―のことだと思われる)という鉱山技師を従えて佐渡を視察したとき、高田氏はその才気を認められ、いろいろと立身出世上の助言を得、明治三年に上京してドイツ商人が経営していた商店(注・アーレンス商会)に住み込んだ。
明治十二(1879)年に諸官庁が西洋人から品物を買わないという布達を出したので、そのドイツ商店(注・アーレンス商会ではなくベア商会に当時勤めていた)は表面上、高田商会の名前で陸軍御用達を勤めることになり、同二十二年には、高田氏が完全に私有するにいたり、以来、高田組の名声は旭日沖天の勢いを呈するにいたったのである。
高田氏はもともと左利き(注・酒好き)であったが、とりわけ洋酒を好み、湯島にあった氏の西洋館の地下の洋酒倉には葡萄酒その他各種の洋酒類が蓄えられ、およそ百年くらい前からの生産年別に品等を分け、室内の温度をいつも六十度(注・華氏60度は摂氏約15.6度)くらいにして保存するというたいへんな手間ひまかけた入れこみようだった。
かの世界大戦中にフランスからの葡萄酒輸出が途絶したとき、「東洋でボルドー産の古葡萄酒を保蔵するのは、ただ我が酒倉のみなり」と自慢して、各国大公使蓮を羨ましがらせたのは有名な逸話だ。
高田氏はとくに学問をした様子もないが、佐佐木信綱氏について晩学ながらも和歌を学び、また座談に長じ、ときどき頓智をひらめかすこともあった。
日露戦争中、曾禰子爵(注・曾禰荒助)が大蔵大臣であったが、日本で金貨の不足が憂慮されたとき、奥州気仙山に金脈があるという風説を信じて日本に大金山があると発表したことがあった。それは、たちまち外国に電報で伝えられ評判になったが、農商務省の技師たちがまじめに事実を否認したため、曾禰子爵は激怒して金鉱の管轄を農商務省から大蔵省に移した。
この時山県公爵は、曾禰子爵が気仙の金鉱熱に浮かされているのを危ぶみ、ある宴席でそのことを語りはじめたところ、高田氏は左右を見回し、声高に「気仙に金鉱あるのは事実です、このことについては、いずれ明日参上して、委細申し上げます」といって、翌日山県公爵を訪問し、「今や大戦中にあたり、海外において日本に金鉱ありという評判があるのは、まことにもっけの幸いである。農商務省の技師が大勢に通じないままに、むやみにこれを否認するのは大馬鹿者である。閣下より、農商務大臣の清浦子爵【のち伯爵】に御沙汰あり、技師たちの主張を取り消させるほうが得策でありましょう」と申し出た。
山県公爵も、いかにももっともであるとして、すぐにこの旨を清浦農相に伝え、金鉱有無論もうやむやのままに立ち消えとなったが、当時外債募集のためにイギリスに出張中だった高橋是清子爵は、この風説が募債の助けになったということである。
この例なども、高田氏の頓才が場合によって縦横に活躍したひとつのあかしとして見られるべきではなかろうか。
高田氏は、中年より思い立って、仏画や、宋、元、ならびに本朝の古画の蒐集をはじめ、下條桂谷画伯を顧問にしてその選別を任せた。そのため、収蔵の富は東都における一方の重鎮たるにいたったが、そのなかに弘法大師筆とされる木筆不動尊の大幅があった。
これは、明治四十一(1908)年に、高田氏が高野山の龍光院で感得した(注・修行して手に入れた)ものなので、信仰と鑑賞の両方の意味を兼ねており、翌明治四十二年から、本郷湯島の自邸で不動祭をとりおこなうことになった。
大正三(1914)年三月二十八日の不動祭は非常に盛大なものであった。当日、各室に陳列されたもののなかには、土佐為継(注・藤原為継)筆の在原行平像、伝信実(注・藤原信実)筆の藤原鎌足像、趙子昂筆の廬同煎茶図、崔白筆の波に群鷺図、渡辺崋山筆の富士山図など、稀代の名品が少なくなかった。
その日主人が短冊にしたためた和歌には、
年ごとの今日の祭にみすがたを 仰げば更に尊かりけり
とあり、また同じく短冊に物された山県含雪公爵の歌は、
かくれゐし高野の奥のみほとけは 世に出でてこそ光ありけれ
というものだった。
そのころの高田氏は、おそらく成功の絶頂期であっただろう。氏の没後まもなく起こった大正十二年の大震火災では湯島の本邸が烏有に帰し、上記の数々の書画を一炬に付して(注・いっきょにふして。全部燃やして)しまったが、氏が生前にこの悲惨を見ることなく亡くなったことは、むしろ幸運であったかもしれない。
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「箒のあと」204 後藤伯と福澤翁(下)
二百四 後藤伯と福澤翁(下)(下巻202頁)
(注・203・後藤伯と福澤翁(上)からのつづき)
三宅豹三氏の後藤(注・象二郎)伯爵と福澤翁に関する談話は、これよりいよいよ佳境にはいり、それまで私などがおぼろげながら聞いてきた事実を明らかにしたことも少なくないので、ここに継続して記すことにする。
「後藤象二郎伯は福澤先生と内々協議の末、明治二十八年秋、天機奉伺(注・天皇にご機嫌伺いをすること)として広島の行在所に赴いたその時は、李鴻章が講話談判のためにまさに日本に来たらんとする直前であったから、伯は、右講話に関して所見を述べ、土方(注・久元)宮内大臣を経てこれを聖聴に達した。
その趣旨というのは、講和条件として日本はまず京釜鉄道を納め(注・この時点で京城釜山間の鉄道はまだ敷設されていない。鉄道建設の権利を手中に納めるという意味)、これを延長して、鴨緑江に達する権利を得ること、最高顧問を朝鮮に派遣して内大臣兼侍従長たらしめ、日本公使のほかに独立の顧問府を立つることであった。
この献策は早くも朝鮮側に聞こえたので、親日派の朴泳孝、兪吉濬(注・ユ・ギルチュン)が、いわゆる最高顧問を日本より迎えんがため、さっそく来朝して福澤先生を訪い、何人がその顧問に適当なりやと問われたのに答えて、先生は後藤象二郎伯が最適任者であると言われたので、朴泳孝らは、さらに後藤伯を訪いて朝鮮の最高顧問たるべく懇請したれば、伯の悦び大方ならず、かくてこそ象二郎も、はじめてわが死処を得たとて、慨然として(注・心を奮い起こして)これに任ずるの考えがあったが、一方広島のほうでは、後藤が最高顧問となって公使以上に働くようになったらいかなる椿事をしでかすかもしれぬとて、井上馨侯を公使として朝鮮に遣わすことになったので、後藤伯最高顧問の画策はまったく水泡に帰したのであるが、井上侯が朝鮮公使となり、三浦梧楼子(注・子爵)がその後を継いで、ついにかの王妃焼殺し事件(注・閔妃殺害事件のこと)が勃発するに至ったその経過を傍観していた後藤伯は、さだめて感慨無量であったろうと思う。
僕は、最初後藤伯の秘書役をしていた井上角五郎の後任として、明治二十四年より三十二年までの間、後藤伯に仕え、家族同様に暮らしていたが、それ以前、福澤の玄関番をしていた時と後藤の秘書役となった時と、家庭の状態が全然反対であったのには実に驚かざるを得なかった。
先生の家は御承知のごとく、いたって静粛で行儀のよい習慣であるのに、後藤の家ときては、奥さんが吸付たばこを後藤さんに渡せば後藤さんがよろこんでこれを受ける、富貴楼や武田家などいう茶屋の女将が、始終いりびたっている、五代目菊五郎をはじめ、知名の俳優連が繰り込んできて、歌をうたうやら、歌留多を闘わすやら、その乱暴狼藉は、言語を絶するほどであった。
そのうえ後藤さんは、非常な贅沢者で、食膳には、いわゆる山海の珍味を集むる流儀であったから、たまたま福澤先生に招かれて、その御馳走にあずかることは非常な迷惑なのであるが、後藤さんは先生に対しておおいに勉め、先生は談話が長くなると無遠慮にあぐらをかいて話さるるが、後藤さんは厳格にきちんと座ってその話を聞くというようなありさまであった。
ある時、福澤先生が突然、後藤さんの家を訪われると、後藤家では『ソラ、先生が来た』とて目ざわりの者を片づけたが、ボーイが花札を戸棚の上に置き放しにしてあったのを先生が見つけて、これはなかなかお楽しみでありますな、と言われたので、さすがの後藤さんも非常に赤面したなどという珍談もあった。
先生はおりおり、芝浦にあった後藤の妾宅を訪わるることもあったが、そのときの御馳走は、松金の鰻と定まっていた。ところが後藤さんが福澤のほうに行くと、常食の麦飯を出され、ある夏、食後に氷と鉋(注・かんな)を木鉢に入れて出されたが、先生はその鉋で氷を削って砂糖を振りかけて後藤さんに出されたので、自宅ではアイスクリームを食べて、世の中に氷を生で食べるほど野蛮なことはないと言っておらるる後藤さんが、どんな顔をして氷を食べたろうかと、大笑いをしたことがあった。
後藤さんと福澤先生とは、かような性格の違いがあったので、あるとき後藤さんが福澤先生を評して、中上川の姪(注・福澤の姪で中上川彦次郎の妹の澄子)を、不男なる朝吹英二にめとらせたら大切にするだろうと思ったところが、この朝吹が大道楽者で、おおいに当て違いをしたこと、それから、平常、養生ということを口にしながら、ときどき河豚(注・ふぐ)を食わるること、娘さんを大切にするというので、その言うがままに任せておくこと、これが福澤の三失策であると言われたことがある。
かく性格の反対した両雄が意気相投合したのは不思議なことで、その間に奔走してこの有様を目撃した僕は、一種の奇観として少なからず興味を感じた次第である。」
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「箒のあと」203 後藤伯爵と福澤翁(上)
二百三 後藤伯と福澤翁(上) (下巻199頁)
私はここで、後藤象二郎伯爵と福澤先生の交際に関する三宅豹三氏の談話を紹介しようと思う。
三宅氏は、備後福山は御霊村の名家の生まれで、明治十二(1879)年に出京後、福澤先生の玄関番をふりだしに、あるときは時事新報記者となり、あるときは後藤象二郎伯爵の秘書官となり、またあるときは大河内輝剛氏とともに歌舞伎座の経営にあたるなど、いたるところで愛嬌をふりまいて交わる人々に重宝がられた存在だ。しかし、いわゆる器用貧乏で、とりたてて栄達を見ることはなかった。
ただ、その人となりがひょうきんで、文筆も達者で、座談に長じており、きわめて愉快な才子肌なので、わたしはもっとも長いあいだ親交を続けた。
氏は井上角五郎氏の後継者として後藤象二郎伯爵の秘書役となり、伯爵と福澤先生の間の仲介をした関係から、その内情について非常によく通じていたので、氏の談話の中から、もっとも興味深い部分を抜粋して次に掲載することにしよう。(注・原文通りだが、漢字をひらがなになおした部分がある)
「僕は明治十二年に上京して、福澤先生の玄関番となったが、これは僕の兄が、寺島宗則伯の家庭教師をしていたので、兄が伯より福澤先生に頼み込んで、僕を玄関番に住み込ませたのである。
ところが明治十七年、金玉均が朝鮮事変で日本に逃げてきたとき、前々よりの関係で、福澤先生はおおいに金玉均を庇護し、朝鮮の改革をなすには、金玉均が必要だと言っておられた(注・20「金玉均庇護」に関連記事あり)。
このころは、袁世凱が朝鮮で権力を振り回している最中なので、王妃閔氏(注・閔妃)は日本にある金玉均がいつ襲来するかもしれぬというので、しきりにこれを袁世凱に訴え、袁世凱はまたこれを李鴻章に言い送って、李鴻章より日本の外務省に突っ込んできた。
ところで外務省は、当時シナの勢力を怖れて、金玉均を小笠原島に流し、同島の気候が金玉均に相当せぬというので、さらに北海道に移したりなどする間に、福澤先生が暗々裡に金玉均を保護したその心づくしは、実に至れり尽くせりであった。
しかるに明治二十六年になって、東京駐箚のシナ公使、李経方(注・李鴻章の甥で養子。原文では経芳となっている)が後藤象二郎伯と懇意なので、福澤先生は後藤伯を通じて李経方に説き、金玉均は朝鮮を改革するに最も必要なる人物であるから、シナにおいても彼を忌避せず、むしろこれを利用する方が宜しかろうと言わしめたのである。
ところが李経方は李鴻章の甥であり、かつ歴代シナ公使中もっとも有為の人物であったから、すぐに後藤伯の進言を容れ、そのなかシナに帰って李鴻章を説き、金玉均と直接面会せしむべく内約するに至った。
かくして、李経方が帰国の途次、まずその郷里なる蕪湖に帰省している間に、多年無聊に苦しんでいた金玉均は、しきりに李鴻章との会見を急ぎ、李経方のあとを追って、まさに上海に赴かんとした。
一方、王妃の内命を受けた刺客、洪鐘宇(注・ホンジョング。李氏朝鮮末期の高官)は、この機会に乗じてその目的を達せんとし、甘言をもって金玉均に近づいてきた。
しかるに、これまで王妃が日本に送った刺客は、ただ褒美の金を取り出さんとする者で、真実使命を果たさんとする者なければ、金玉均もまた、これを見透かし、王妃より取り出してきた刺客の金を巻きあげたことさえあり、洪鐘宇もまた、この類ならんと思い、刺客と知りつつ油断していると、洪鐘宇は従来の刺客と違って、思慮周到に計画を進め、金玉均に油断させるため、一時フランスに赴いて、しばらくかの地に滞在したれば、彼が再び日本に帰ってきても、金玉均は彼を疑う心なく、ただ彼が朝鮮服を着け、朝鮮髪を蓄えているのが、少しく変だと言っていただけで、まんまと彼の策戦計画に引っかかり、不用意にも彼とともにシナ行きを企て、最初後藤伯より二千円ばかりの旅費を借用したが、借金払いなどして、わずか二、三百円の旅費をあますに過ぎなかったのを、洪鐘宇は巧みに金玉均に説き、シナに渡れば、朝鮮の志士、尹雄烈(注・ユンウンニョル)などが待ち受けているから、金子の心配は無用なりとて、ついに上海まで同道し、金玉均が眼病を患って進退不自由なるに付け入り、上海の旅館において、ついに彼を銃殺したのである。
このとき、金玉均の友人らは、屍体を日本に引き取りたいとて奔走したが、時の外務大臣林董伯が、この議を拒み、上海の土地で起こったことに、日本より容喙するのは不条理なりと言い張ったので、屍体はやがて朝鮮に送られ、数個に切断して、各処に曝さるるというがごとき大悲劇が演ぜられたのである。
しかしこれらの惨状が動機となって、朝鮮に東学党の変乱が起こり、ひいて二十七八年の日清戦争が巻き起こさるるに至ったので、事実においては、金玉均の一死が、日本の世界強国の仲間入りをさせたものだといっても宜しかろうと思う。」
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「箒のあと」202 香川皇后宮大夫
二百二 香川皇后宮大夫(下巻196頁)
皇后宮大夫、枢密顧問官、伯爵である香川敬三氏は、大正四(1915)年三月十八日に糖尿病に癰(注・はれもの)を併発し、七十七歳をもってそのもっとも波瀾の多い生涯を終えられた。
伯爵は水戸藩領内の伊勢畑村の郷士である蓮田家に生まれ、同村の神職である鯉沼伊織の養子となり(注・未調査だが養父の名は意信で、伊織は香川自身の過去の名のようだ)、藤田東湖の塾に学んだ。慷慨(注・こうがい。正義にはずれたことに憤るさま)にして気節(注・心意気と節操)あり、当時、天下の風雲がはなはだ急であるの見ておおいに期するところがあり、撃剣を水戸藩の剣客だった松平将監(注・しょうげん。徳川慶喜の異母弟、松平武聰[たけあきら]か?)、大越伊予らに学び、つとに抜群の誉を得た。
かくて、安政の末年、水戸藩に攘夷の密勅がくだるや、伯爵は同志三十七名とともに江戸に出て、一時、身を薩摩藩邸に寄せた。そのとき伯爵は二十歳で、浪人蓮見東太郎と名乗り、維新の大舞台に活躍すべく、すでにその第一歩を踏み出したのである。しかしそのことが世間に洩れ、ほどなくして幕吏に捕らえられ駒込の水戸藩中邸に拘禁されたが、文久三(1863)年の将軍家茂上洛のとき水戸藩主の慶篤(注・水戸徳川藩10代藩主よしあつ)に従って上洛した。ついでその弟である昭武侯が、かわって御所(原文「禁闕」)護衛の任に当たるようになると、伯爵は隊士の列に加わりながら勤王志士と気脈を通じ、薩摩、土佐に往来し、また岩倉村に蟄居中の岩倉公らとも相知るようになった。
その後高野山において義兵を挙げたこともあったが、奥羽征討の事件がおきると、東山道の官軍に加わって東下し、有名な新撰組の隊長である近藤勇を虜にするなど、壮年時代の活躍は実にめざましいものがあった。
伯爵は、上背は五尺(注・一尺は約30センチ)に足らず、矮躯厚肉(注・身長が低くてがっしりしている)で、一見するとその容貌は赤鬼のようであるが、温顔で人とふれあう際には機敏ななかに愛嬌がある。
かつて岩倉大使に随行して欧米に漫遊したとき、英語、フランス語それぞれ百ほどの言葉を暗記しただけで巧みにそれを応用して、用事を済ますのにまったく差し支えがなかったということを見ても、その機転が並ではないことがわかるのである。
人となりは清廉で親切、水戸藩志士の遺族に対しては常に率先して救援の手を差しのべ、その贈位などについて熱心に仲介の労を取ったことなどを見ても、その故旧(注・昔からの知り合い)を大事にする一端を見ることができる。
ふだんはきわめて恪勤(注・かっきん。まじめに職務にあたること)で、ものごとの処理を緻密に行うので、宮廷においてもっとも複雑である皇后宮大夫の職に奉じ、女官たちをじょうずに心服させた。
明治三(1870)年に宮内省にはいってから四十七年のあいだ要職にあり、七十七歳の高齢まで勤続し、正二位勲一等伯爵の地位にのぼった。
薨去の際には特旨で従一位に叙せられたことなどは、水戸藩の出身者としては、藩主徳川公を除いてまったく例をみないことである。
私は伯爵の生前に、しばしば行き来しあったので、伯爵も腹蔵なくその意中を語られたが、「宮内官として長くその職に奉じるためには、きわめて清廉に身を持さなくてはならないし、貨財(注・金銭や物品)からはつとめて遠ざからなければならないので、職務上の交際もあるので、なにやかやと、自分たちは極度の倹約をしないことには借財を余儀なくされる場合もあり、長年、官の道で奔走してきたのに家に余財は残っていない始末である」と述懐されたこともあった。伯爵は久しく要職にありながら、その身に問題が及ぶことがまったくなかったのは、なるほど、いわれのないことではなかったのだと思われた。
また、伯爵の老練で用意周到なことの一例は、明治四十四、五(1911~12)年ごろ、私の一番町宅に故徳川昭武侯爵一家を招請したとき、伯爵および令嬢しほ子嬢(注・香川志保子、権掌侍取扱)も来会されたが、この日伯爵は、一時間もはやく来宅され、みずから席順までも指図し、自身は伯爵でありながら徳川家連枝の末座に列し、「自分等の伯爵は、お大名のそれとは違いますから、今夕はここに着席します」といって、席のことも万端ぬかりなく整えられたことである。女官らとの交渉ごとが多い皇后宮大夫の職にある者は、このような緻密な用意がなくては勤まらないものなのだろうと思われた。
香川伯爵の葬儀は四月二十五日に行われた。遺言に従い、当日午前九時から十二時までのあいだ、紀尾井町の本邸で告別式が行われた後、青山墓地で埋葬式を挙げられた。
自宅で告別式を行うことは、このころから流行しはじめたことで、一、二の前例があるかも知れないが、今回のことがほとんど嚆矢に近いものだと思う。
明治三十年代までは、一般の葬儀では葬列を立て、会葬者が寺院または墓地まで送棺するのが常だったが、やがてこの会葬のやり方をしなくなると、今度は寺院か斎場で法要を営み、会葬者を長時間参列させるという場合が多くなった。しかし香川伯爵が遺言で今回のような告別式の方式を採用されたのは、長く宮廷にあって各種の儀礼に熟達し、かつ普段から非常に思いやりの深い人だったので、死後に友人を煩わすことをおそれてこの葬儀法を実行させたのに違いない。
死後のことに関してまでその用意が周到だったことからも、おのずからその平常を見ることができるのである。
思うに、伯爵が岩倉具視公と意気投合し、公からもっとも深く信任されたのは、性格が酷似していたために違いなく、伯爵のような人は明治時代における能吏のなかの巨擘(注・きょはく。親指、転じてすぐれた人)として、おおいに尊敬し値する一人であろうと思う。
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「箒のあと」201「実業懺悔」著述の由来
二百一 「実業懺悔」著述の由来(下巻192頁)
私は、前述(注・197)したように、大正三(1914)年に「がらくたかご」を著述した。そして、一年をへだてた翌年の四月に、さらに「実業懺悔」と題する新著を発刊した。これを著述したのには次のような由来がある。
人は、生から死にいたるまでさまざまな境遇に出会うもので、短い時間のあいだに波瀾の多い急流を漕ぎまわるようなことがあるかと思えば、比較的長いあいだ平々坦々な単調な境涯を過ごすこともある。人物の賢愚にかかわらず、大なり小なり、みな自分の歴史を持たぬ者はない。蟻のような小さな虫であっても、もしもその履歴を語り得るならば、一匹一匹みなその経歴談があるはずだ。
おりよく獲物を探り当てて贅沢に冬ごもりしたこともあろう、あるいは人間という怖ろしい動物の足下に踏みにじられて九死に一生を得たこともあろう。頼りにしていた木陰に大雨が漏り、ノアの洪水を思い出すような惨状に遭ったこともあろう。あるいは一片の木葉舟に取りすがって、あやうく水溜まりを乗り越えたこともあろう。
蟻ですらこのとおりさまざまな経歴があるのだから、ましてや人間においてをや、である。たいていなら、より以上の苦楽、吉凶、得意、失意があるのではなかろうか。
下司の智恵はあとから出る(注・愚か者は、必要なときによい考えが出ず、あとから思いつく、の意)というとおり、振り返って己がなしたことを考えて、ああでもあるまい、こうでもなかった、と毎度後悔することが多いのは、十人が十人たいてい同様だろうと思う。
故中上川彦次郎の談に、こういうものがある。「サンフランシスコあたりの大成金者が、生前に自伝を書かせて知人に贈ったとき、ある知人が、『君は非常な幸運者であるが、もし君が今一度生まれ変わって同じ世の中に出たならば、どうするか』と聞いてみた。すると成金先生は、『拙者は何度生まれ変わっても、同じことを繰り返すつもりである』と答えたそうだ。およそ人間にうぬぼれということがあっても、まずこれほどのうぬぼれはないだろう。もしこの人が痩せ我慢でなく、真実このように思ったのなら、天下でこの人ほど成功した人はなく、また幸運な人はなかろう」と言われた。
なるほど、これは、中上川氏の言われるとおりであろう。古往今来、幾多の英雄豪傑があるやら知らぬが、ためしにその心事を尋ねてみたら、あのとき、ああもしたらよかったろうと、あとから悔しがることが数々あるだろうに、その生涯を顧みて、みずから完全無欠であると満足する人は、じっさい非常に少ないだろうと思う。
さてわたしは、ふとしたことで実業界にはいり、碌々として(注・ろくろくとして=何もしないまま)二十一年間この社会の厄介になったが、振り返って考えてみると毎度失策だらけである。もし私に多少の悟道心もなく、私が、死んだ子の齢を数えるように、いたずらに後悔するような人間であったなら、残念残念と百万回繰り返すことだろう。しかし私は、実業界にあったとき、初めから大きな成功を期していなかったので、いまさらその成功について語ることはもちろん、その失敗を語ることさえあまり気乗りがしないのである。
しかしとにかく、この社会にはいって働き盛りの二十一年間を消費したからには、そのあいだにいかなる仕事に当たったか、いかなる人物と接触したか、いかなる経験をし、いかなる感想を抱いたかということを叙述し、それを読む人に多少の参考資料を提供するのも、あながち無意味ではないだろと考えたのである。この間における私の一切の行動と自信とは、次の一首に言い尽くされている。
なしし事拙なけれどもかへりみて 疚しからぬがうれしかりけり
さて、「実業懺悔」を刊行するにあたって、私はこれを、日本の外国貿易創設者であり、また三井財閥の中興の元勲である私たちの先輩、益田孝男爵に内示した。すると男爵は、私のために懇篤な序文を執筆して寄せてくださった。その中に次のような一節があった。(注・旧字を新字になおしたほかは原文通り)
「明治の実業界に於ける高橋君の功名は、事珍しく吹聴する迄もなき事ながら、予が最も感服したるは、君が三井銀行より同呉服店に転じ、所謂越後屋伝来の商売に大革命を加へたるにあり、昼尚ほ暗き土蔵作りの店舗に、十数名の番頭が、火鉢を左にし、掛硯を右にし、大算盤を膝にし、客の註文を聞きては、小僧を呼んで品物を持ち来らしめ、一客又一客、繁雑窮りなく、時間を空費すること、程度を知らざる旧弊を一掃し、店舗全部を開放して陳列場となし、客の好む所に従って選択するに任せ、自他共に愉快にして便利なる商売と為したるは、実に君が新工夫にして、破天荒と云はざる可らず。三井呉服店が気運に乗じて、今日の『デパートメント・ストア』を成したるは、爾後日比翁助君等の経営に俟つこと多しと雖も、其端緒は高橋君の創意によりて拓かれらるなり。而して独り三越のみと云はず、白木屋、松屋等の老舗も、遂に全く面目を一新するに至れり。此他幾多の実務に於ても、亦忙中の余技に於ても、君が新意匠に感服したること屡々なりき、爾後君は三井鉱山会社の理事と為り、次いで又王子製紙株式会社の業務を担当し、到る処好印蹟を留められたりと信ず云々。」
益田男爵の序文における過褒は、あえて当たらずといえども、知己の言としてありがたく頂戴した。
私は、まだこのほかにも感じるところがあり、「水戸学」という一著も著述したので、ついでながら項をあらためて、その趣意を告白することにしよう。(注・「水戸学」著述については218~220を参照のこと)
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「箒のあと」200 大隈侯爵懐旧談(下)
二百 大隈侯懐旧談(下)(下巻188頁)
大隈侯爵は明治十四(1881)年の政変において、いわゆる「敗軍の将」であったためか、当時の状況については前項(注・199)に述べた程度であまり多くを語らなかったが、福澤先生との交際に関しては、さらに次のような懐旧談を続けた。(注・一部わかりやすい表現になおした)
「吾輩がはじめて福澤先生を知ったのは明治四年の暮れか、五年の初めか、とにかく、あの廃藩置県が実施されたときであったと思う。一度知り合ってからは非常に懇意になって、先生が吾輩のところに来ると、家内どもまで一緒になって夕食を共にすることもあった。
先生は酒が強く食事が長いから、食っては話し、食っては話しと、だんだんと夜が更けてしまい、膳を片づけようとすると、まだまだという風で、家内を相手にして酒を飲みながら、いつまでも話をするのが常例だった。政治上の秘密談になると、この家の奥にある一室【母屋の背面を指して】で、他人を交えず、家内が酌をしながら話したのであるが、先生は吾輩から見れば先輩で、吾輩も先生によっていろいろと利益を得たことがある。
たとえば、この早稲田の学校ができたのも、吾輩が先生と交際していたからだと言ってもよいのである。
もっとも吾輩は、もともと教育には深い興味を持っていて、長崎にいたころから、いささかながら私立学校を開き人に教えていたこともある。しかし吾輩は、福澤先生のように学問をしている暇がなく、ちょうど今日の犬養や尾崎のように、政論に火花を散らして奔走していたから、まず不良少年仲間だったといってよいだろう。それで、自分は学問はしないが教育には興味を持っていたので、いつも人に向かって、福澤先生のような人は、自分の学問を人に伝えるという教育の仕方だが、吾輩は自分に学問がないから、学者を集めて生徒を教育させるというやり方で、方法は少し違うけれども、学校教育を行うという点についてはまったく同一軌道にあるのだ、と言っていたこともあるのである。
ところで吾輩が明治十四年に政府を退くとすぐに、雉子橋の屋敷を引き払って、この早稲田に引っ込んだが、これに先立つ明治四、五年ごろに、木戸などと一緒にこの辺を散歩していると、植木屋が大きな石灯籠を運んでいたので、これはどこの屋敷かと聞くと、讃州高松と井伊掃部頭の下屋敷であるが、これから庭前の樹木を伐り払って薪にするのだという。それはあまりにも惜しいものだと言って、五万坪ばかりあるのを一万円で買うことにした。
今日より考えてみれば、非常に安いものだったが、当時においては、銭を出して大きな屋敷を買う者はなく、例えば今日第一銀行になっている三井の地所なども、当時井上侯爵が田舎住まいを嫌って、都会の真ん中に屋敷がほしいというので、このころは誰の屋敷だったのやら、園内に池などがあり、約二万坪ほどある地面を井上にやったところ、井上が、蚊が多くて困るからこんな場所は御免したいと言いだした。そのとき三井の三野村利左衛門が、井上さんが御不用ならば、私が是非頂戴したいと言って、わずかな代価で政府から払い下げられた次第であるので、吾輩が早稲田を買ったのは当時においては非常な奮発であったのである。
そしてこの五万坪に、さらに二万坪ばかりを買い足して、今日では早稲田の学校が三万坪、吾輩の屋敷が四万坪程度になっている。
福澤先生は、かの正金銀行を創立するために、大きな骨折りをし、吾輩にもいろいろ相談があったが、これは堀越角次郎という甲州出の爺【おやじ】が、無学ではあったが一見識持っていたので、先生は非常に彼を信用し、彼が横浜に正金銀行を立てようとするのを後援し、吾輩にも助力を乞われたので、ついにこれを認可することになったのである。
それから先生はまた、後藤象二郎と懇意で、後藤の高島炭鉱処分について、先生が非常に尽力した。先生はあの炭鉱を岩崎弥太郎に買わせようと言い出し、岩崎を吾輩の家に呼びつけ、先生も列席のうえで、ぜひとも買ってやれと談判したところ、当時の後藤の借金は、百万円と言っていたのがだんだん増加し、百三十万円ほどになったので、岩崎は容易にはこれを承知しなかった。岩崎は後藤を罵り、『アンナ尻抜けな男は信用ができないから、一切相手にいたさぬ』、と言うのを、ふたりでようやく説きつけて、とうとう三菱に高島炭鉱を買わせたのだ。これは、いやいやながら引き受けたものだったが、今日では、むしろ三菱の金穴(注・ドル箱)となっただろうと思う。考えてみれば、人間の知恵など浅はかなもので、あとから先見だのなんの、と言っているが、その実はたいてい、まぐれ当たりに過ぎないのである云々。」
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「箒のあと」199 大隈侯爵懐旧談(上)
百九十九 大隈侯懐旧談(上)(下巻185頁)
大正の初年に、私が福澤先生の事歴を、先生と縁故ある長老の在世中に聴取しておこうと思い立ち、それから約二年間にわたり探問した人々が三、四十名に達したことは前項でも陳述したとおりである。
その大隈重信侯爵の談話については、「大隈侯の福澤談」として、すでに一部を掲載した(注・97「大隈の福澤評」を参照のこと)が、このときの大隈侯爵と私の会見は、ほとんど一時間半にわたったので、侯爵の懐旧談はほかにもいろいろある。
そこでまず、私が大隈侯爵を訪問したときの所見を述べ、その次に談話について述べることにしよう。
私が大隈侯爵を早稲田邸に訪問したのは、大正二(1913)年の五月ごろだったと思う。前もって約束していた午前十時ごろに侯爵邸を訪問すると、その日はほかに訪問客もなく、侯爵が母屋から庭前南方に張り出した温室におられ、今を盛りに咲き乱れた各種の蘭その他の南洋植物の香気の中を、例の松葉づえを突きながらゆっくり歩いておられた。
私が温室のなかに歩み入るのを前から見て手を挙げてそれを押しとどめ、やがて近づいて挨拶され、侯爵はニコニコして私を歓迎してくださった。
それというのは、私はこれに先立つこと数回侯爵と会見しており、数年前に前妻が死去したあと、音羽護国寺の境内でたまたま墓参をされていた侯爵に邂逅ししばらく立ち話をしたことなどもあったからである。侯爵はこの日は、いかにも打ちくつろいだ態度で、私を広々とした母屋の応接室に導きいれ、長卓をはさんでふたりで椅子に腰かけた。
大隈侯爵という人はもともと意思の強い人でそれが面貌にも現れていた。頬骨が高く、目が少し窪み、大きな一文字の口を結んだところは、いかにも確固たる決意をあらわしている。ある人が、「侯爵が衆人稠座(注・大勢の人が座っているようす)の中に入ってきて、中央の椅子に腰をおろすときは、大鷲が岩石の上にとまって、傲然と四方を睥睨するような風采がある」と言ったそうだが、それがいかにも適評だと思われた。
侯爵は維新後、薩長藩閥の群雄割拠の中にあって、そっくり大久保の後継者になり、明治十四(1881)年の下野ののちも屈するところはまったくなく闘志満々でその一生を貫いた、信念強固の、他人の追随を許さない人である。
かつ、日本の政治家としてはまれにみる雄弁家で、人のことを聴くというよりは、もっぱら話す一方ではあったが、博覧強記で、いつの間にか外国のことも研究していた。常に説法者の立場に立っていたあたりは、明治の功臣の中にあっては一種出色の大政治家であると言わざるを得ない。
大隈侯爵の談話では、私が探問した福澤先生の事歴から始まり、前項に述べた先生の所感のほかに、さらに次のような話があった。(注・わかりやすい表現に、一部変えてある)
「明治十一年大久保が亡くなり、吾輩がその後を引き受けたようなことになった。さしあたり、政治の上で大改革を行わなくてはならないことが数々あったが、このとき焦眉の急を要したのは、西南戦争のときに、薩摩の中で西郷にくみしなかった一派を、当時の政府が優遇し、一時東京に連れてきて、その人たちに巡査の職を授け、警視庁の配下に付属したのであるが、この巡査たちが、戦争で功労があったということを鼻にかけ、時として上司の命令に服従しない状態であったため、できるだけ早くこれを廃止したいということだった。もともと情実によって起こったものだったので、廃止するには手加減が必要だった。そこで鎮撫の意味で、大山(注・巌)大将を引っ張り出したり、山県公爵の声援を借りるなどして、ようやくこの巡査を押さえつけたのである。
しかしこれなどはほんの小細工で、政局の大勢を見渡すと薩長が相対峙して互いに牽制し合っているので、なにも改革を施すことができない状態だった。そこで吾輩は福澤先生と協議のうえ、伊藤、井上の二人を加えて、ここに根本的改革の方針を立て、国会を開設し、与論の力で、頑固連の鉾先をくじこうという決意をしたのである。
そのとき吾輩は、福澤先生に是非とも内閣の一員になってもらいたいと勧誘したが、先生はきっぱりとこれを断り、政治は乃公(注・おれ)の長所でないから、君たちがこれに当たるがよろしい、乃公は言論をもって一般民衆に政治的教育をなし、向鉢巻で君たちを声援するから、君たちも一生懸命で政治上の改良進歩を謀られたい、と言われたので、吾輩はその後先生に向かって、内閣入りを勧めないことにしたのである。」
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「箒のあと」198 花柳国の女将軍
百九十八 花柳国の女将軍(下巻182頁)
料理茶屋、待合の散在する区域のことを花柳国と呼んだり、その料理茶屋、待合を主宰する主婦のことを女将【おかみ】と呼んだりすることの当否はさて措くとして、料理茶屋、待合の繁昌が女将の手腕いかんにかかっているということは争うべくもない事実である。
さて、女将の中の大御所とも言うべきは、明治初期から中期まで、おおいにその異彩を放った横浜富貴楼のお倉であろう。
彼女の一代記は長くなるので省くが、その全盛期に、伊藤、井上、大隈、山県などの大官を手玉に取り、政府の属僚役人(注・小役人)たちがその鼻息をうかがったというその辣腕は、時代が時代だけに、のちの人にはまねできないことだった。また、彼女が横浜にありながら東京の各花柳国をも属国扱いにして、飛ぶ鳥を落とすような将軍ぶりを発揮したのは、いかにも豪勢なことだった。
これに次ぐ者としては、烏森に濱野屋の女将であるお濱がいた。その勢力は、比較的小範囲に限られたとはいえ、その人となりは、すこぶる侠気に富み、持って生まれた負けじ魂が彼女を一方の重鎮たらしめた。
このふたりに並ぶ大女将としては、その気性が協和的で、ある種の脱俗した偉大さを持つ、築地の新喜楽の第一世、伊藤きんがいた。きんは、日本橋区旅籠町新道の町家に生まれたが、家運が傾いたのち、その身を吉原の稲本楼に沈め、源氏名を鳰鳥【におとり】といった。小づくりで格別美人というわけではないが、元気で才子肌なので、福地桜痴、沖守固(注・おきもりかた)、中井桜洲(注・中井弘)らの贔屓を受けた。出廓後、日本橋区芳町に喜楽という待合を開き、その後築地に移り新喜楽という料理屋を始めた。東郷大将と同年の丙午生まれで商売運があると自負していたとおり、広く大官通人たちに愛された。ことに伊藤、井上や、大倉鶴彦(注・大倉喜八郎)男爵らの引き立てがあり、伊藤公爵の朝鮮統監時代にはわざわざ朝鮮まで出かけたことなどもある。
晩年には、永平寺の森田悟由禅師に帰依し、海千山千の老婆と大悟徹底した老禅師とが相対して笑語するところは、一休和尚と幻太夫(注・地獄太夫の間違いか?)との出会いのようであり、近世まれに見る図柄だった。
またこの老婆には、器量よしの芸人を後援するという道楽があった。伊井蓉峰を新派俳優の頭領分にしたのも、都一中を一流の家元に祭りあげたのも、それにあたる。
しかもそのようなことを人に誇ることなく、ただ当然のことをしているように平然としていたところが凡婦の及ばない特別な点だった。大正四(1915)年四月十七日、七十歳で花見がてらの冥途行きをしたのは、いかにも彼女にふさわしい臨終といえた。
さて同じ築地には、これもまた相当にすごかった瓢家の女将、お酉がいた。お酉は、横浜富貴楼の出身で明治中期には立派な女将ぶりを発揮していた。政界実業界の大家を引き寄せ、新橋の待合のなかではっきり一頭地を抜いていた。
このほかの待合の先覚者としては、長谷川のお鈴というのがいた。彼女が出雲橋近くに開店したころは、諸官省の役人や地方長官などが新橋での一流の客で、争って長谷川の格子をくぐったものだ。彼女のことをママと呼ぶ者が多かった。
このようにして新橋村が東京第一の花柳国になると、女将の頭目は目に見えて増えていったが、その中で、十五のお酌のときからこの地に現れ、ついには田川の女将となって元気と愛嬌と咳払いでもって六十年一日のごとくにその存在を示している石原半女があることは、新橋七不思議【もし、あったらだが】の随一に数えられることだろう。
その他一時期、雨後のたけのこのように続出した茶屋、待合には、早かったところで花月、蜂龍、花屋など、後進では山口、河内屋、金田中、きん楽などがある。
その中には、相当に人に知られた女将もいたが、年のわりに早くからその貫録をあらわして八方無敵、ぬらりくらりとしてこの世界の成功者となった、いわゆる「ギンミを取った」のは、木挽町田中家のおたけだろう。
さて新橋を離れ、その他の花柳国を見れば、浜町の料理屋に岡田屋おきんというのがいた。彼女は、持って生まれた愛嬌に加え、こんこんと尽きないお世辞でいかなる客といえども満足しないことはないという特長があったために、世に「世辞きん」の名前さえも残している。
また同方面の待合である弥生の女将は、同じくお世辞上手な中にもある種の侠気をたくわえ、時に鼻っ柱が強い江戸の気性を見せ、花柳界の紛争の仲介役に立っていた。もしくは、芸人の声援にも乗り出し、清元お葉が困窮しきったときには一時、彼女を自分の家に引き取ったこともある。江戸気質の女将の見本は、ひとり彼女の中に見られたような心持ちがしたものである。
以上が、明治初期からの約五、六十年にわたる東京横浜の花柳国の女将一覧記である。
彼女たちは、いずれもが海千山千の女傑であり、職業の貴賤、硬軟、軽重こそあれ、今日の社会事業に関係して「なになに会長」などと称される、かのインテリ女性たちと比較しても、その力量、機略ですこしも遜色がないばかりか、ときには大政治家のあいだに介在し、暗中飛躍の媒体になろうという者まであったのである。
今後の花柳国の消長はいかがなものになるであろう。後継の女将に、前記のような豪傑が現れるだろうか。社会風俗の変遷を注意して見る者は、興味を持ってそれを観察する価値があるのではないかと思う。
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「箒のあと」197「がらくたかご」著述の由来
百九十七 「がらくたかご」著述の由来(下巻178頁)
(注・じっさいには「我楽多籠」と漢字の題名で出版された)
私が初めて自著を出版したのは、明治十七(1884)年ごろ時事新報の記者時代に書いた「日本人種改良論」というものだった。木村摂津守の著書以外に序文を書いたことがなかったという福澤先生が特に序文を書いてくださったのは、私にとり非常な光栄であった。
次に明治十八(1885)年ごろ「拝金宗」という題名で、当時、世間でようやく始まりつつあった実業論を公表した。これはおおいに時流に乗り発行部数が非常に多かったので、続編も刊行することになった。
また同十九年には、演劇改良の見地から「梨園の曙」という西洋劇の翻訳書を発行し、明治二十二年には、欧米商業視察の旅を終えて帰国するとすぐに、まず「英国風俗鑑」を出版し、次いで「商政一新」を著述した。この「商政一新」により、私は井上(注・井上馨)侯爵の知るところとなり、その紹介によって、とうとう三井に入社することになったのである。
こうして明治二十四(1991)年に実業界にはいってからは、日常の業務に追われて、筆硯に親しむ余暇がなく、実業生活二十一年間においては一度も著述を刊行しなかったが、明治四十五(1912)年から閑散の身となったので、「東都茶会記」を執筆するかたわら、大正三(1914)年十月に「がらくたかご」【我楽多籠】と題する趣味的な著作を発刊した。なぜこのような著作を出したのかといえば、私はもともと多趣味な人間で、世にいう八百屋主義というのだろうか、間口が広くて奥行きは浅いが、数多い芸術を総合してみると、その趣味には共通点があり、それほど深入りしなくてもかなりそれらを楽しむことができたからである。
さて、人は日々さまざまな場所でさまざまな場面に出合うものだが、そこで出合った事柄に興味を持つか持たないかでは、怡楽(注・いらく。喜び楽しみ)の分量に、大きな違いがあるだろう。
たとえば、義太夫を語る友達に招かれて「親類だけに二段聞き」する(注・義理のつきあい)というような場合に、音曲の心得があれば、下手は下手なりに面白く、上手は上手ながらに聞き甲斐があって、どちらも怡楽の種になるものである。
しかし音曲のたしなみがまったくないのに義太夫を聞かされる人の場合は、たしなみがないがために何時間かの不愉快を我慢しなければならない。
つまり、この両者のあいだには、生涯を通じて怡楽の分量に大損益があることになる。
私は前にも述べたように他方面に多趣味な性質なので、自分で考えても、人一倍怡楽が多いのではないかと思っている。そしてこの怡楽を、なるべく広く世間一般の人に伝えることが仲間に対する当然の義務だと考えたのである。私がなんらかの動機から、それぞれの趣味の境涯にはいりだんだんと研究していくに従い、その趣味が次第に変化しまた向上していく体験談を著述したのが、この「がらくたかご」なのである。
「がらくたかご」には、詩、歌、書、画、茶の湯、道具、建築、築庭、能楽、絃曲の十種を盛り込んだ。本来、東洋の芸術には、これらすべてに通じる共通点があるのである。昔、唐の張旭は、じょうずに剣を使う者を見てたちまちにして書道を悟ったということだが、これはさもありそうなことである。
どのような芸術でも、究極に至ると、禅学でいうところの打成一片、物我相忘、万里一条鉄といった境涯に帰着するもので、芸術でも、その点に達すると渾然として玉のごとく、巧を求めずして自然と底光りが出てくるものである。
古人が、「道なり、技より進めり(注・荘子のなかの包丁の言葉「わたしの好きなのは、技術を越えたところにある道だ」のこと)」と言ったのは、すなわちそのことで、いろいろな芸術を総合してみると、たとえ究極に達していなくても、その行く先を想像することは難しくないので、私などももちろん深奥なる妙味を語ることはできないにしても、それまでに自得しただけを発表し同好者とともにこれを楽しもうとして、この「がらくたかご」を著述した次第である。
この本を発刊にするとすぐに、元老のなかでもっとも多趣味であった山県含雪公爵(注・山県有朋)に一冊呈上しその品評を願い出た。ほどなく公爵からいただいた謝状は次のようなものだった。
寒威日に相加はり候処、老兄万福慶賀、扨て先日は貴著我楽多籠御恵贈を忝(注・かたじけのう)し深謝、日夕一読相試み候処、眼識超群円満にして勁健、有急湍(注・早瀬) 有緩流、不能措巻候、拙詠一首
墨の香も高くかをれり楽みの心にあまる筆のすさひは
供一覧候、年内余日無之、来陽緩々可期面唔草々不尽
十二月十七日 古稀庵老主朋
箒庵宗匠坐下
山県公爵の多趣味といえば、その種類が十二、三種にも達していることは、昭和七年の公爵の十周年忌辰(注・命日)に当たって私が東京中央放送局から放送したことがあるから、追って後段に陳述することにしよう(注・「箒のあと」のなかでは記述されていない)。
私が以上のような十種の芸術について私の体験談を発表したのは、大正三(1914)年五十四歳の時なので、それから昭和七(1932)年にいたるまでには実に十九年経過し、私の趣味の経験もむしろ後半生のほうが潤沢であるので、今後また所感を発表して、同好者の一粲を博する(注・謙遜の意味で「お笑い草となる」の意)ことにしよう。
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「箒のあと」196 正金銀行創設の経緯
百九十六 正金銀行創設の経緯(下巻175頁)
正金銀行の最初の頭取である中村道太氏から、私が例の福澤先生事歴談を聴取した折(注・193を参照のこと)、正金銀行の創設経緯に関する話も聞かされた。このような談話には、幾分自慢話が伴うものなので多少の割引を要するかもしれないが、おおむね事実とたがわない以上これを全部葬り去ることは忍び難いので、次にその大要を記してみることにする。(注・わかりやすい表現にかえた)
「自分は三州(注・三河国)豊橋、松平伊豆守の藩士で、万延元(1860)年に江戸に出て、奥平藩邸に先生を訪問したのが先生との交際のはじまりです。それ以来、先生と私のあいだにはいろいろな交渉がありますが、そのことについては別の機会に譲ります。
明治九(1876)年、私は日本にひとつの特殊な銀行をつくりました。平常は正金(注・貨幣、現金)を蓄え置き、万が一の(原文「一朝」)非常事態に備え、わが国の経済の根本を動かさないようにしなければならないと考えついたので、関根正直氏に依頼して漢文で意見書を書かせた。
これが今の正金銀行の創設意見書で、福澤先生もこれを見て、しごくもっともだと言われました。
しかし当時は実行の運びにいたらず、私はいったん郷里に帰り何か国家のためになるような機械を製作しようと専念していた。
明治十一(1878)年になって、先生からの手紙で、かの正金準備銀行の意見が実行されそうだから至急上京せよ、とあったので、さっそく上京してみると、先生は今夕大隈を訪ねる予定なので一緒に来いと言われる。そこで三田から人力車で雉子橋(注・現千代田区役所の場所)の大隈邸を訪問し、三人鼎座して相談を始めた。
そのころの福澤、大隈らは、ずいぶん乱暴な口のききようで、先生が、そんな馬鹿なことを言うな、などと言えば、大隈さんが口をとがらして怒り出すというような非常に元気のあるものだった。
さて、結局の話であるが、資本金を三百万円とし、二百万円を民間から募り、百万円を政府で引き受けるということになった。民間では福澤先生の懇意であった堀越角次郎に話をし、横浜では私の懇意だった木村利右衛門に相談し、政府のほうは大隈さんが斡旋するということになったが、資金募集は案外順調に進み、横浜のほうでは木村が百万円を引き受けると言い、東京では安田善次郎氏が同額が受け持とうと言い出した。
そこで、十一年末から、正金銀行の定款を作り上げ、十二年一月に開店して私が最初の頭取になったのである。
ところが明治十四(1881)年、例の政変で大隈さんが退職することになったので、政府筋から私にも退職せよと言われたが、私はきっぱりと踏みとどまっていた。
十五年になり、松方さんは大蔵省から検査官を派遣し、何か私の落ち度を見つけようとされたが、それ以前に本行には大蔵省の監督官が出張しているので、いかに探究しても免職の理由がなく、松方さんもおおいに窮してとうとう嘆願的に出てきたから、私はついにこれに応じましたが、福澤先生が承知せず『中村をやめさせるとは言語道断なり』といって、滔々とその不法を論難した文書を発表された。これが私にとっては有難迷惑で、その後思いもよらぬ迫害を一身に引き受けるような始末となった。
さて当時、私の保有株は二千株あり、そのころ百円株が八十円くらいだったから、福澤先生は私にその株を政府に返還せよと申されましたが、一年ばかり経つ間に、正金株が非常に騰貴して、払込の百円になり、さらに進んでその倍額の二百円に達したので、先生はしきりにこれを売却せよと言われました。しかし私は、『この株は三百円になりますから、これまでは頑として持ち耐えます』と言い張り、ほどなく原六郎氏が頭取になり三百円の値が出たので、私はこれを売却して借金を引き去り、手取りで三十七万円を得て、正金と完全に絶縁することになったのであります云々。」
中村氏はなにごとにも器用で、商売の思想に富み、維新前には美濃人の早矢仕有的と相談して横浜に薬種店を開き、はじめてアメリカからキニーネを輸入したというような経歴もある。
幕末に世間が物騒になり、茶釜の値段が下落するとすぐに、地金として茶釜の買収しようという相談を福澤先生に持ち込んだこともある。
また、簿記に長じて、文部省の七等出仕となり、医科大学に簿記法を教授したというような履歴もあるなど、さまざまなアイデア(原文「工夫」)に富んだ人であったが、正金銀行頭取を辞職後、鉱山業で惨敗してからは再び盛り返すことができず、大正初年に私がこの話を聞いたときには、赤坂溜池にわび住まいをして茶道の教授をしていた。老後になって陋屋に隠棲しながら屈託の色を少しも見せず、雄弁滔々として懐旧談を物語られたのは、なにはともあれ、一種の人物であると見受けられたものだった。
「箒のあと」195 荘田平五郎と三菱
百九十五 荘田と三菱(下巻171頁)
荘田平五郎氏には一時期「三菱の智嚢(注・知恵袋)」とさえ謳われた時代があった。
氏は九州の杵築藩士で、維新前に同藩の留学生として上京後、慶應義塾にはいり、卒業後は義塾または他校で教鞭をとったこともあった。
明治八(1875)年に三菱汽船会社に入社し、おおいにその手腕を振るった。
福澤先生は、氏が在塾中に、きちんとした袴をはき、一挙一動がいかにも几帳面であったことを称揚して乱暴書生に対する教訓としたほどだった。
氏と三菱との関係について氏が私に語った経歴談の中で、氏は次のようなことを言っている。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらため、内容も若干わかりやすい表現になおした)
「私は明治八年に三菱汽船会社に雇われた。三菱は、明治六年の佐賀の乱で政府の海運御用を勤め、翌七年に台湾征討の運送の仕事を引き受けた。
それ以前には、大蔵省内に蕃地事務局というものがあって、P&O会社(注・Peninsular and Oriental Steam Navigation Company)、およびパシフィック(原文「パシフヰツク」)汽船会社(注・パシフィック・メイル社か?)から、千トン内外の機先七艘を買い入れた。台湾事件が終わったあと、それを三菱に貸し下げることになったので、三菱はその船を使って上海への航路を開いた。そのときの事務上、外国人に接触する必要が生じたので、英学書生を雇い入れることになり、かの浅田正文などもそのとき雇い入れられた一人であった。
もともと、この汽船貸し下げのことは大久保利通卿の発議であるそうだが、当時、日本の海運は、第一に政府が担当するか、第二に民間に委任するか、第三に民間の当業者を保護するかの三策しかなかったのである。
大久保卿は、その第三策を取り、三菱の上海航路を補助するにいたったので、私はこのとき三菱に入社したのである。
その口入れをしてくれたのは豊川良平君で、福澤先生にはご相談はしたが、入社については先生とはなんら関係もなかったのである。
福澤先生と岩崎弥太郎との交際は明治十三(1880)年ごろから始まったのであるが、先生は、贔屓役者の後藤象二郎伯爵のことについて岩崎と面談する必要があり、このころから交際を開かれたのだと思う。
その仔細は、後藤伯爵が高島炭鉱を引き受けて大借金に苦しんでいたので、これを岩崎に買入れさせようという案件であった。この高島炭鉱というのは、肥前鍋島の領分で、かの英国人グラヴァ―(原文「グラパ」)と鍋島家が共同で掘り始めたもので、後年にいたっては、ほとんどグラヴァ―ひとりの所有物になっていた。
しかるに明治初年、後藤伯爵が政府と意見を異にして民間に下り、蓬莱橋ぎわに蓬莱社という商館をたてられたとき、そのころの日本の工業法によると、日本の鉱山は外国人が所有することができないというので、政府がグラヴァ―から高島炭鉱を買い上げたのを、後藤伯爵がさらに政府から買収したのである。
このときの金主になったのは、横浜の英一番ジャーディン・マセソン(原文「ヂャーヂンマヂソン」)で、ジャーディンは金主となるかわりに炭鉱の機械一切をその手で売り込み、石炭の売却もまたその手を経るのであるから、こちらのほうは儲かる一方であるが、炭鉱はだんだん採掘費用がかさみ、とうとう非常に大きな損失を招き、明治十二、三(1879~80)年ごろにおける後藤伯爵は実に窮迫の極点に達し、借金のために政治上の働きが束縛されるありさまになった。
そのとき、後藤伯爵びいきの福澤先生はこれを見るに忍びず、岩崎弥太郎に、石炭は三菱でも入用だろうから、ぜひとも高島を買い取ってやれと説きつけたが、弥太郎は容易にはそれに応ぜず、明治十四(1881)年の春にいたり、ようやく相談がまとまったのである。
だいたい三菱という会社は、岩崎弥太郎と、川田小一郎と、石川七財の三人の合作で、一時は三川商会といっていたこともある。川田と石川の川と、もうひとつはどういうわけで三川となったのか、それはわからないが、川田は御承知のとおりの才気ある人物で、外交のことに当たり、石川は堅実な武士気質の人で、内部の仕事に任じた。
明治十一、二年ごろ、石川は函館にいて北海道の汽船業務にあたり、川田は大阪で関西方面の総取締をしていた。北海道から大阪、大阪から下関を経て北海道というように、北と西との航海業を始めたところ、最初は費用が多くかかり運賃が高くなったので、渋沢、益田などが帆船会社というものを興し、北海道の交通をはじめたが、明治十六(1883)年になって、品川弥二郎子爵が共同運輸会社を作り、帆船会社もそれに合流して大活躍を始めたので、そこから三菱と共同運輸との大競争が起こったのである。この両者が明治十八(1885)年に合併して、日本郵船会社ができあがったのである云々。」
以上、荘田平五郎氏の談話は、郵船会社建設以降のことにもわたっているが、今は荘田氏が三菱に入社した経緯だけにとどめ、その他は省くことにしたい。
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「箒のあと」194 山本権兵衛伯爵の福澤談(下)
百九十四 山本伯の福澤談(下)(下巻168頁)
前項(注・193「山本権兵衛伯爵の福澤談(上)」)のとおり、山本(注・権兵衛)伯爵は福澤先生に対して自己の海軍改革案主張に関する談話を進め、ひきつづき次のように述べられたということである。
「さて自分の提出した海軍改革案を西郷(注・従道)海軍大臣が内閣会議に提出したところが、議論百出の末、閣僚中より委員を選定することとなり、山県、伊藤、井上その他の先輩がこれに当たり、自分がその説明を引き受けてついに本案成立したので、この海軍をもってほどなく日清戦争に当たり、実験上さらにまた各般の改革を施した次第を述べ、なお今後の方針についても詳細説明するところがあったので、福澤先生はおおいに満足して今度は反対に自身の来歴を語り、『俺は蘭学を修めて西洋実学の真価を知り、無遠慮に漢学者どもを罵ったので、維新前にあっても相当危険なる場合に遭遇したが、維新後にいたっては、さらにその危険を増し、いつ暗殺せらるるかもしれぬので、万一の場合に逃げ込むべく、居間のストーヴの下に逃げ道をつくったこともあった。されば一方にはおおいに人心を刺激して西洋文明の方向に向かわしめんとし、あるいは嚇し、あるいは嘲り、その論鋒があまりに過激にわたったかと思えば、今度はにわかにこれを緩和し、座を見て法を説くの筆法(注・相手によって説明の方法を変える方法)を用いたれば、福澤には一定の論旨なく、飄々として変転するものだなどと世間よりさまざまの誤解を受けたが、その実、あまり一方に熱中すれば、その身を危うする惧(注・おそれ)があったからである』という苦心談もあり、また『日本の発達が、最初は非常に気遣われたが、日本国民中には相当気力ある者もあって、俺が心配したよりも存外の好結果をきたし、国運も次第に進歩してきたが、前途を見れは、なおさまざまの困難が横たわっているので、日夜苦慮しているのである』というような所見をも述べられ、双方の意気が非常によく投合したので先生もたいそう満足せられ、やがて昼食にとて自分を案内せられた座敷は八畳敷ばかりで、片隅に引っ込んだ床になにやら掛物がかかっていた。
かくて先生の私に対する挙動は、初めより胸襟をひらいて、いさかか包み隠すところなく、食後もまた引き続き、さまざまの談話にはいった。
さて自分は従来、勝安房、西郷隆盛、同従道、大久保利通、伊藤博文などいう人物に面会しているが、考えてみれば、これらの人々のなかで福澤先生ほど大きく腹心を開いて人に接し、子供のごとき無邪気さをもって初対面よりあたかも古き友達に対するがごとく彼我の界を撤去して、愉快に語らるる雅量を持っている人に会ったことがない。
自分が大西郷より添書をもらって勝安房を訪ねたとき、まずどんな人物かと面会してみれば、小づくりな医者のような容体で、たばこ入れを提げて、ひょこひょこと現れ出で、なんとやら軽々しい挙動で、これが勝先生かと思われるようであったが、ただ目がぎょろぎょろとしているところが凡人と思われず、自分に向かってしきりに薩摩人は乱暴であるから、よほど注意しなくてはならぬと教訓を与えてくれましたが、しかし初めより人を呑んでかかって、禅宗流に、いわゆる一喝を喰わせようというやり口であった。
また西郷従道という人は、なかなか真似のできないよいところがあった人で、松方内閣が選挙干渉で、どこまでも押し通そうという場合に、前日までその評議にあずかって格別異存もなかったのに、その翌日の内閣閣議においては、彼がひとり立ち上がって、『かようなことで、お上に御迷惑をかけては重々相すまぬ訳であるから、この内閣は断然明け渡そうではないか』と切って出たので、高島鞆之助やら、その他薩摩の連中等は、あまりに突飛なるに驚いて、かれこれ異存も申し述べたが、西郷はどこまでも例の調子で、この連中を説き伏せてしまった。彼はよく、窮して通ずるの呼吸を解し、いよいよという場合には、実に俺が悪かったというように、なんらの執着もなく手のひらをかえすように翻然と態度を変えてしまうところが彼の得意で、これは容易に真似のできない芸当である。
兄の隆盛などは、その徳をもって人を服するという特長はあったが、弟のごとく翻然と態度を新たにする禅僧じみた真似はできない人であった。
これらの豪傑は、いずれも得難い人物であるが、福澤先生は学者でもあり、かつ非常に大きい人物で、自分がこれまで接触した偉人中の偉人というべき者であろうと思う云々。」
以上は山本伯爵の福澤先生に関する感想談の一部分である。その他の談話は、あまり複雑にわたってしまうので、まずこの辺で打ち切ることにしよう。
「箒のあと」193 山本権兵衛伯爵の福澤談(上)
百九十三 山本伯の福澤談(上)(下巻164頁)
私は実業界を引退後、余暇に乗じて福澤先生の事歴を先生に縁故ある長老から聴取しておこうと思い、大隈重信、後藤新平、足立寛、中村道太、荘田平五郎、森村市左衛門、阿部泰蔵、北里柴三郎、犬養毅、尾崎行雄ら約三、四十人を歴訪し、各人各様の関係や感想を査問した。これは、それらの人々の在世中になるべく多くの資料を収集するということが主な目的だった。(注・3,40人を歴訪したとあるが、28名分が「福澤先生を語る・諸名士の直話」(昭和9年、岩波書店)にまとめられた。)
そのような次第で私が山本権兵衛氏を訪問したのは、福澤先生が明治三十二(1899)年に山本伯爵と会談されたあと、ある人に「このごろ、山本権兵衛という人に会うたが、イヤ実に偉い男だ、彼はただの軍人でない、学者だ、全体薩摩の奴には数学のわからぬ男が多いが、山本という男は、徹頭徹尾マセマチカルにできあがっていて、実学に根拠する話のできる男だ」と激賞されたということをきいていたからである。
また先生が脳溢血のあと、記憶力が衰えて人の名前を思い出せなかった時、「あの薩摩の奴を連れて来い」と言われたので、三田に関係ある薩摩人の名を数えあげるうちに、山本権兵衛という名前が出てくるなり、両手を打って「それだ、それだ」と言われたということも聞いていたので、私は伯爵への紹介を園田幸吉男爵に依頼したのである。
男爵はさっそく快諾され、山本伯爵は厳格な人だから自分自身が訪問して申し入れようといって、わざわざその労をとってくださったので、私は、大正三(1914)年十一月二日午前八時半から山本伯爵の高輪台町邸を訪問することになったのである。
まず日本客間に通されてみると、床に大正天皇陛下が伯爵の日本海軍建設に関する功労を嘉賞された勅作の七律の宸翰が掛けてあったので、謹んでこれを拝観していると、伯爵は悠然と座につかれ初対面の挨拶を述べられた。
そして伯爵は、私が訪問した趣旨を聞き終わるとおもむろに口を開き、まず福澤先生の事歴に関する思い出談を語り、だんだん話が進むにつれて日露戦争後にドイツを訪問して皇帝(注・ヴィルヘルム2世)に謁見した顛末から、大正政変の委細にまで及んだが、ここでは福澤先生に関することだけを記しておくことにしよう。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)
「自分が福澤先生と会見したのは、明治三十二年であった。会見の手続きは、今なお海軍に勤めておらるる木村摂津守(注・芥舟木村喜毅)の子息(注・次男の浩吉)が先生の使者として来宅し、福澤先生が閣下に会見したいということでありますが、先生が自分より会見を申し込むというのは甚だ稀なことでありますから、枉げて(注・まげて。無理にでも)ご承諾願いたいということであった。
よってすぐにこれを承諾すると木村はさらに語を継ぎ、福澤先生は年輩でもあるから、会見の場所等については先生の方にお任せくだされたいというので、それも宜しいと承諾すれば、既に時日の相談をしてきたものをみえ、何日何時より福澤宅にて会見したしとのことであったから、当日朝九時頃、先生の宅を訪問したが、当日の会談は午前九時に始まって正午になってもなお尽きないので、先生は自分に昼食の御馳走をなし、奥さんや令息たちにも紹介せられて、午餐後、午後四時ごろまで語り続け、先生も非常に満足せられたようであった。
されば当日の談話は、非常に広汎なる範囲にわたったが、今その大要をいえば、自分が十四歳の時、はじめて『西洋事情』を読んで、おおいに時勢に感発したことから始まり、大西郷(注・西郷隆盛)の添書を持って江戸に出て、勝安房(注・勝海舟)に面会して、いろいろ教訓を受けたこと、西郷従道がほしいままに台湾征討に出かけたのを憤慨して、おおいにその不当を責めたが、その後西郷より事情を聞いて自分の誤解を悟ったこと、また自分は一身を海軍にゆだねる決心で勝安房を訪問したところが、彼は自身の経歴を説いて、海軍振興をもって己が任とするには決死の覚悟がなくてはならぬと激励されたから、自分は万難を排して海軍の学術を修めてみようと彼に誓約して、ついにドイツに留学したこと、また明治二十一年、自分に対して四面攻撃が起こったとき、自分は六か月ばかりかかって、わが海軍大改革案を編成し、これを西郷(注・従道)海軍大臣に示したところが、西郷はちょっとこれを読んだばかりで、すぐに賛成の意を表したので、自分が六か月かかって調べたことを、ちょっと読んだばかりで諒解するはずはない、自分はさような大臣の下に就職することはできぬと言い出したら、西郷は例の調子で、実は一切わかっておらぬが、今日君をおいて海軍改革は不可能だから、万事万端君に任せるつもりである。しかしてこの改革案は必ず内閣の同意を得てみせるから、君も是非留まって、これを実行してくれよと切望せられたことなどであった云々。」
以上、山本伯爵の談話は、まだその蔗境(注・しゃきょう。だんだんおもしろくなっていくこと)に入っていないので、次項(注・194「山本権兵衛伯爵の福澤談・下」)においてさらに記すことにしよう。
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「箒のあと」192 水戸武公遺戒の報告
百九十二 水戸武公(注・徳川治紀)遺戒の報告(下巻161頁)
大正三(1914)年八月十三日の箱根小涌谷三河屋における私と渋沢(注・栄一)子爵との会談では、徳川慶喜公と子爵の遭遇について、そして、その感想が大部分を占めた。(注・191「徳川慶喜公に関する史実」を参照のこと)
子爵が維新の直後にフランスから帰国したとき、とりあえず公が謹慎していた静岡の宝台院に伺候すると、薄暗い行燈の下で、公が悄然として座っているありさまに、なんとも慰めの言葉も出ず、世には神も仏もないものかと男泣きに泣いて次の一首を作られたそうだ。
維新偉績覓無痕 抉剔相穿未鉤玄 公議与論知何用 千秋誰慰台冤魂
しかし、公の忠誠で高潔な心事はようやく天下に知れ渡り、いわゆる至誠人天に通じて、薨去の際には世間一般から深い哀悼の情が寄せられことから、さらに次の一首を詠じたということである。
嘉遯韜光五十春 英姿今日去成神 至誠果見天人合 不問盛名喧四隣
このとき渋沢子爵は、座右にあった机でこの二首をありあわせの巻紙にしたため「拙作です」と謙遜して私に下さったが、子爵は筆を持つとき親指を曲げず、まっすぐに突き出して一字一字ていねいに書き終えられた。このような座興の執筆にも軽率な様子がまったくなかったことは、例の綿密な天性によるものであろう。
さて、私は前項(注・191)に記したとおり、この会談の中で水戸武公(注・水戸藩七代藩主徳川治紀)の勤王に関する遺戒を渋沢子爵にお知らせすることを約束したが、それから多忙に取り紛れてそのままになってしまっていた。しかし同十一月十日になりようやくそれを執筆して、すぐに子爵に廻送した。その文言は次のようなものであった。(注・旧字を新字になおしたほかは原文どおり)
「拝啓仕候、去る八月中、箱根小涌谷に於て拝芝(注・はいし。面会)の節、水戸武公の勤王に関する遺戒をお目にかけ候様、御約束致候処、右遺戒と申すは、武公が自から認められたる者には無之、水戸の儒臣青山延于の著述したる武公遺事中に、左の一節有之候事に御座候。
『公は御平生、朝廷を殊の外御崇敬被遊けり、或る時、景山公子(注・武公の子、烈公斉昭)へ御意遊されけるは、たとへ何方の養子と成候とも、御普代大名へは参り不申候様に心得可申候、普代は何事か天下に大変出来候へば、将軍家にしたがひをる故に、天子にむかひ奉りて、弓も引かねばならぬ事也、これは常に君としてつかうまつる故に、かくあるべき事なれども、我等は将軍家いかほど御尤もの事にても、天子に御向ひ弓をひかせられなば、少【いささか】も将軍家にしたがひ奉る事はせぬ心得なり、何ほど将軍家理のある事なりとも、天子を敵と遊され候ては、不義の事なれば、我は将軍家に従ふことはあるまじと仰せられければ、公子左様に候はば、公には常々将軍家を御敬ひ遊され候て、毎月の御登城をもかかせられざるは、何故にて候と仰上られければ、御意に将軍と云ふは、天下の政を執られ給ひて、日夜御こころのひまなき故、下民も其徳に服したてまつりて、一人もしたがひたてまつらざる者なく、大名なども一人にても服さぬ者はあらず、しかれば、漢土などに候へば、革命にもなるべき勢ひもあらせられ候へども、天子をば御うやまひ奉るなりと御意遊されたり、又御意に我等かく存候ても、天子に向ひたてまつりては、弓をばひかぬ心得なれば、子供にも其心得にて、普代大名の養子とはなるまじきことなりと、御意遊されけると也。』
御承知にても候はん、青山延于先生は、藤田東湖の実父幽谷先生と相並んで、水戸の宿儒に有之、彰考館総裁をも相勤め、且武公に昵近致し候人なれば、前件記事は固より確実の事と存ぜられ候、又右武公遺事に、
『公或る時仰せられ候は、新井白石制度を改めて、百官も衣冠にて出仕する(注・徳川幕府に)やう建議ありしかど、其儀止みて、関東の幸なり、若し其通りになり候はば、平将門(注・「新皇」を自称し朝敵となる)のやうになるべしと仰せられけりとぞ。』
と申す一節も有之候、案ずるに、武公が斯かる言説を反覆(注・繰り返す)致され候は、当時高山彦九郎、蒲生君平など、王覇の名分論を試みて、隠然王政復古の気焔を煽り候時節に就き、公武の間、一朝危機に迫り候やうの場合なしとも言ふ可らず、其際水戸徳川家をして、方針を誤らしめざるやう、義公(注・水戸藩二代藩主徳川光圀)以来伝家の本領を、景山公子に訓戒し置きたるものと被存候、然るに烈公(注・徳川斉昭)時代となりては、形勢も愈々差迫り候故、烈公が慶喜公に対して、先般御話の如き訓戒を垂れられ候は、誠に当然の成り行きと存ぜられ候、武公は水戸藩祖威公より七代目の藩主にして、諱は治紀、字は徳民、鶴山と号し、安永二年十月二十四日誕生の君侯に御座候。」
というのが、私が渋沢子爵に対して申し送った書簡の大要であった。
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「箒のあと」191 徳川慶喜公に関する史実
百九十一 徳川慶喜公に関する史実(下巻157頁)
大正三(1914)年八月十三日、箱根小涌谷の三河屋で台風の大雨が建物を震撼させんばかりだった最中に、渋沢子爵と前後三時間にわたって対話していた私は、「昔から、歴史というものは、いわゆる史眼炬のごとき人物(注・歴史を見極める炯眼のある人)が、内外、表裏から虚実を明らかにして公正に記述しなければ、その真相を後世に伝えることができないのだから、身近でその真相に触れた人々はなるべく筆まめにこれを書き残して、のちの人に正確な史料を供給するのが義務だろう」という話をした。すると渋沢子爵は次のように言われた。(注・一部わかりやすい表現になおした)
「しごくごもっともなご意見である。歴史の真相が間違って伝わりやすいことは、徳川慶喜公の生涯を見てもわかるだろう。
拙者は、公の伝記【卓上に積み重ねてあった徳川慶喜公伝の稿本を指して】を自ら編纂し、公に関していちばん誤解されやすい事実を闡明(注・せんめい。はっきりしなかったことを明らかにする)しようと苦心している。編年体にすると二か月分で一冊になりそうなので、あまりに膨大にならないように、史料的な記述ではなく叙事的な伝記として書き上げるつもりで鋭意努力しているが、完成するまでにはまだ何年もかかってしまうだろう。
さて、自分が慶喜公に初めてお目にかかったとき、いかにも聡明な御方であると思ったが、その説をきいてみると、当時の公は開国論者である。拙者は攘夷専門であるから、まったく意見が違っていて内心では不満でたまらなかった。
しかしだんだん時がたつにつれ、攘夷などというものが到底実行されるべきでないことがわかってくると、それまでの不平は雲散霧消して、公の先見に感服することになった。
次に、慶喜公が将軍となられたとき、公はずいぶん賢明な人であるのに、もはや余命もない徳川政府を引き受けるとは、やはり将軍にはなりたいものかと、またまた胸中不平にたえなかったが、これも時の経過にしたがい、公が徳川の末路を良くしようとするがために、みずから犠牲になられたことがわかって、またまたその深謀遠慮に感服したのである。慶喜公が出てきて大政を返上し、また謹慎恭順したからこそ、徳川家一門もその末路をまっとうすることができたというのに、いまさらのように拙者などは思慮が浅薄だったということを知り、いよいよ公の高潔な心事を知ることができたのである。
そのことについては、ここにひとつの美談がある。拙者はつねづね、明治政府諸公の、慶喜公に対する処置に飽きたらないものを感じていた。慶喜公が、朝命とあらば、よいことでも悪いことでも、ただ一意謹慎して江戸城を官軍に引き渡し、百万の生霊を塗炭の苦しみから救われたという、その心事を推察するなら、少なくとも諸公と同様の優遇を受けるべき人であろうと会う人ごとに話し、ことに井上侯爵に対しては、勇気をふりしぼって(原文「張胆明目」)そのことを主張したところ、侯爵も『それはいかにももっともである、まず伊藤に話してみるがよかろう』と言われたので、その後伊藤公爵に面会し、真正面から議論を持ちかけたところ、逆に公爵から次のような逸話を聞き、はなはだ愉快にたえなかったのである。
『あるとき、有栖川宮邸でスペインの国賓を招待したとき、慶喜公や自分が陪賓になったが、その宴が終わったあとに自分は慶喜公に向かって、唐突な質問ではあるけれども、そもそも王政維新の際に、公は謹慎恭順の意を表せられて、なんらの抵抗も試みず、王政維新を容易にされたのはまことに感服の至りであるが、当時公はいかなる考えでそのようにされたのか、その感想をうけたまわりたいと申し出たところ、慶喜公は、それはこういうことだ、これは決して拙者ひとりの考えでやったことではなく、つまり水戸の家風である。拙者は十一歳で一橋家に養われるようになったが、二十歳のとき父である烈公(注・水戸藩九代藩主徳川斉昭)が拙者を招き、さて汝もすでに丁年(注・一人前の年齢)に達したので一応申し聞かせておくが、これから国事はどんどん困難になっていくだろう。しかしここに、わが水戸の家風として、いかなる場合にも厳守しなくてはならないのは、朝廷に対して勤王の趣意を守るべきであるということである。もしも宗家と朝廷のあいだに事あるときには、大義親を滅す(注・大義のためには親兄弟をも犠牲にする)の大法により、むしろ宗家に対して弓を引くことになっても、決して朝廷にそむいてはいけない。これがわが家法なので、いかなる場合にもこれに背いてはいけない、と訓戒されたのを常に心肝に銘じていたので、ただその趣意を失わないようにと努めただけで、自分自身でそれこれという考えがあったというわけではなかったのだと、こともなげに答えられたのである。
慶喜公が、自分の問いに対してなんら意見がましいことを述べず、ただ父祖の遺風を守ったまでだと返答されたことは、いかにも奥ゆかしく、ますますその人物の高きに感じ入った云々』
以上の伊藤公爵からの直話を聞き、拙者はますます慶喜公の高潔な心事に感じ入り、なんとかして公の進退大節(注・行動の大義)を世の人に知らせたいと、みずから公の伝記を編纂している次第である」と述べられた。
このとき私は渋沢子爵に対して、子爵は水戸武公(注・水戸藩九代藩主徳川治紀、斉昭の父)が烈公に与えられたという訓言についてすでに聞いたことがあるかどうかとたずねたが、まだきいたことがない、とのことだったので、それならば、他日あらためてそれを写し取ってお見せしましょうということで、当日の談話を打ち切った。(注・その訓言については、次ページ192「水戸武公遺戒の報告」を参照のこと)
「箒のあと」190 渋沢青淵子爵経歴談
百九十 渋沢青淵(注・栄一)子爵経歴談(下巻154頁)
大正三(1914)年八月、私が箱根小涌谷の三河屋に避暑中、渋沢子爵【当時は男爵】夫妻も同じ宿に投宿されていた。
同十二日の夜に台風が襲来し激しい雨が建物にたたきつけ(原文「猛雨沛然として屋を動かし)、電灯は消え、温泉は濁り、さんざんなありさまだった。
私は手持無沙汰のまま、翌十三日の昼食後に渋沢子爵の部屋を訪問した。
そこでまず話したのは、当時突発したヨーロッパの対戦の発端となった、オーストリアとセルビアの国交断絶と、それが原因で起こったドイツのベルギー侵入事件のことだった。
このとき子爵は、次のように話された。(注・わかりやすい表現になおした)
「自分はこのほど大隈首相に面会し、首相の意向を尋ねたが、ドイツ皇帝(注・ヴィルヘルム2世)は一風変わった人物で、その自力を過信し、いま、もしドイツがフランスに攻め入ればイギリスは中立の態度を取るだろうから、あっという間にパリ城下に迫ることができるだろうと思っていた。しかしベルギーがその進軍をさえぎり、英仏露の三国がたちまちのうちに連合するに至った。これはドイツ皇帝も、いささか予想はずれだっただろうが、事がここにいたってしまっては、騎虎の勢いを止めるのはむずかしく、非常に大きな事変になってしまうかもしれない。」
とのことだった。
またわが国の政府は、イギリスからの要請によって、ドイツが蟠踞(注・動かないで根を張ること)している青島から、その勢力を駆逐することになるだろうという評議もあるようだと、さっき東京のほうからの報告を受け取ったという。
その談話のあと、私は子爵に向かって、子爵が明治六年に官吏を辞めて、みずから実業界に身を投じたのはどのような考えだったのかと質問した。子爵は例の綿密さで事細かに当時の事情を語られたので、ここにその大要を掲げよう。
「自分は武州川越在の百姓の子であるが、十四歳のころ、自分より数歳年上だった小高某(注・原文では「小高某」になっているが、いとこの尾高長七郎だろう)が、剣術修業のために江戸に出て、ときどき帰村して江戸にいたときの見聞談をするの聞いた。そして今日の徳川幕府は、日本国を統一して攘夷を成功させることはできないだろうと思われるので、むしろ徳川幕府を倒して、朝廷に攘夷を実行してもらうほかはないという気持ちを抱いた。
そこで、百姓の本分を離れて、だんだんに壮士の気風を身につけ、渋沢喜作と相談してふたりで京都に出奔した。
しかし身を寄せるところがほかにないため、しばらく一橋家用人の平岡円四郎のところに寄寓していたところ、そのことを幕吏に感づかれ、平岡方に自分たちの身分の照会があった。そのとき平岡は自分たちに対し、今は倒幕論をひるがえして、むしろ一橋家に奉公したほうがよかろうと忠告してくれた。
ここにおいて自分たちは、幕府に引き渡されて牢死の運命にあうよりも、むしろそのほうが得策だろうということで、ついに一橋家の家臣になったのである。
そしてだんだんに慶喜公に近づいてみると、慈悲もあり思慮もある君公であるから、この人のためなら一身を捧げて奉公してみようと思い定めた。ちょうどそのすぐあとに慶喜公が十五代将軍になられた。
自分は、公の弟の民部卿(注・徳川昭武)がナポレオン三世の主催するパリ万国博覧会に出向く一行に加わって渡仏することになった。
民部卿がその使命を果たしたあとは、五、六年間フランスで学問修行をする予定だった。二年ほど滞在しているあいだに幕府は転覆したが、まだ所持していた金が残っていたので、自分は民部卿とともに依然として遊学していた。しかし藩論の定めるところで民部卿が水戸家を相続することになり、自分も一緒に帰国し、すぐに静岡の宝台院に退隠中の慶喜公を訪問した。
公は昔とは大違いの哀れなありさまで落涙を止めることもできなかったが、自分がさかんに薩長の暴慢に憤慨しているのを見て逆に私を慰め、決して嘆息する必要はない、人を恨まず、天をとがめず、静かに本分を守るがよいと説諭された。
私は憤りが簡単には収まらず、新政府に対して大きな不満を抱いていたが、明治二年の新政府の命令で是非なく大蔵省に出仕することになり、はじめは大隈侯爵の下で働いた。
ほどなく大蔵大輔となった井上侯爵と知り合い、当時の財政改革について、ともに尽力はしていたものの、自分は慶喜公に対する情誼からもともと仕官を好まなかったので、明治六年に井上侯爵の辞職とともに自分も辞め、民間に下って実業方面に従事することとなったのである。
それ以前に、自分はフランスの商業状態を見ており非常に感じ入るところがあった。日本の商人には国家的観念というものがなく、よきにつけ、悪しきにつけ、政府に盲従して自分の利益を計っている。それだけでは国家の前途ははなはだおぼつかないと気づいた。しかし、大蔵省の在勤中に、しばしば民間の商人と接触するうちに、そのなかで意見を話せるのは三井の三野村利左衛門など二、三人だけで、この人たちとて確固たる国家観念があるわけではないから、自分自身が商業界にはいってこの社会のために尽くすほかはない、と決心したのである。
そんなとき、うまい具合に伊藤博文公爵がアメリカから帰り、国立銀行条例を日本でも実行しようということになり、自分が、その銀行制度実施の先頭に立ち、第一国立銀行の頭取を引き受けて、いよいよ本格的に商業界に乗り出すことになったのである云々」
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「箒のあと」189 井上世外侯爵の狂歌
百八十九 井上世外侯の狂歌(下巻149頁)
私は大正三(1914)年三月五日、興津別荘に滞在中の井上侯爵を訪問し、庭先の木瓜が開き桜のつぼみも膨らんで、春雨一過すれば、まさに嫣然一笑(注・あでやかに笑う。ここではつぼみが開くこと)するばかりになった快心草堂の縁先に出て、黒潮の上を渡ってくる春風に吹かれながら、いろいろな雑談をした。そのとき侯爵は記憶をたどり、あれやこれやの自作狂歌について語られた。
侯爵の狂歌には侯爵の奇智頓才が現れており、専門狂歌師の作よりもかえって面白いものがある。侯爵は、それらの狂歌を書き留めておかれているのかと質問すると、「否、そのとき、そのときの座興で、詠み捨て、書き捨てだから、ほとんどは忘れてしまったよ」と言われる。
そこで、私は、それまでに聞き込んでいたものと、このときに聞き取った秀逸なものを合わせ、ここで紹介することにする。
明治二十一(1888)年ごろ、外務大臣を辞めて、長州の外海というところに引き籠りけるとき
隅田川人のうらやむ都鳥 今は外海【とのみ】の鴎なりけり
あるとき、富士の裾野を過ぎて
下女らしき名に不似合の白化粧 ツンとすまして人を見くだす
明治三十年ごろ、朝鮮より帰ってきて、興津に引き籠っていたとき、故伊藤博文公爵からしきりに就官を勧められて
人間をやめて世外に棲むからだ 猿にしておけ猿にしておけ
同じ折、使者が度重なるので、興津に横砂というところがあるのを思いついて
寝つおきつ浮世の外の老の身は 用があってもむかひ横砂
日露戦争中、高橋(注・是清)日本銀行副総裁が、公債募集のために渡英することについて、世評がばらばら(原文「区々」)だったので
よしあしの中にかかれる高橋は 渡りてきかむかりがねの声
修善寺にこもっていたとき、旅宿で朝夕、興津鯛ばかり出されたので
あま鯛で寝てもおきても小言のみ 醤油やうにつけ焼かれては
身延山にお参りしたとき、僧に何か書いてほしいと頼まれたので
門前の小僧のみかは藪かげの 鶯さへも法華経となく
還暦の年に、人に見せるために
けふよりはもとの赤子にかへりけり 皆ちやん御免だだをこねても
奈良に遊んだとき
いにしへの奈良の都をたづぬれば 春日にのこる鹿の声のみ
明治三十一年二月、官をやめて鎌倉に引っ込んだとき
世はうしと由井の浜辺による波に ときし冠のひもを洗はむ
伊豆の鼓(注・つづみ)の滝にて
音にきく鼓の滝の水しらべ しめつゆるめつなり渡るらむ
駿河半紙を漉くのを見て
木の皮をむいてみつまたにてほして なんと駿河の紙のたふとさ
甲斐の国のある製糸場を参観していたとき
おかひこでくるめそだてし甲斐の国 木綿もきぬと人はいふらむ
あるとき朝鮮の時局について
てうせんとにぎつて打てど手にならず 岡目八目つぶれかんじやう
静岡県の近藤という茶人が「山里は茶うけの菓子も事たりて松風もあり落雁もあり」と詠みおこしたことに対し
耳と目で茶うけの菓子が事たらば ゑがいた餅で正月はすむ
また、同じ人から「法性のむろぢと聞けど我すめば有為の波風立たぬ日もなし」という歌を見せられて
うろむろと悟りすごすなけふすめば 金でなければ何で空海
山口に遊んだとき、ある人が戯れに、相撲の賭けで十五円を得て、御馳走するというのをきいて
ごちそうに御礼はいらぬ十五円 とりし相撲は人のふんどし
以上の世外侯爵の狂歌を通してみると、侯爵は何かに感激した場合に、狂歌でその所感を洩らされたということがわかる。また、時として、三猿という号を使われていたので、次のような狂歌もあった。
自作の竹花入に初冠と命名して
うひかむりつけて無茶くちや楽まん 人の笑ひはかへり三猿て
世外侯爵は、伊藤、山県両公爵と並び、長州の三傑と称されたが、詩書においては伊藤公に及ばず、和歌においては山県公に及ばなかった。そのかわり書画骨董の鑑賞に関しては両公のはるかに上を行き、狂歌においてもまた他の二尊を凌駕し、杉聴雨(注・杉孫七郎)子爵とほとんど伯仲する間柄であったと思う。
「箒のあと」188 白紙庵構築の由来
百八十八 白紙庵構築の由来(下巻145頁)
私は、しばしば述べてきたように明治四十五(1912)年からその身を文芸界に投じることになったので、十年余り住み慣れた麹町区一番町の邸宅を中井新右衛門氏に譲渡し、四谷伝馬町に新しい境涯向きの住居を建てることにした。
そこの新築の茶室に、なにか人を驚かすような趣向を加えたいと思い考えた末、それまでに三百年以上たった白紙を収集しておいたので、新しい三畳台目の新席の壁を全部その白紙で張りつめることにした。
ところが同じ白紙といっても、それぞれ多少の濃淡があるので、まるで地図のような模様が現れ出た。これならば、必ずや好事家の一粲を博す(注・謙遜の意味で、お笑い種になる)に違いないと思い、自分ひとりで得意がり、名前も当然のごとく「白紙庵」と命名した。そして大正三(1914)年三月八日から新席開きの茶会を催し東京の同好者たちを招待した。
さて、この新席に掛ける一軸は、徳川慶喜公の大字一行物にしようとかねがね思っていた。そのことには、ほかでもない次のような理由があった。
先年の御殿山の大師会で私が禅居庵の一席を受け持ったとき、慶喜公が渋沢栄一子爵同伴で来臨された。東道役(注・来客の世話人)で台主の益田鈍翁も同座してしばし清談を交わした後、私は慶喜公に「御序(注・ついで)の節、何がな御染筆を願いたし」と申し出たところ、公はすぐに快諾してくださった。
そこでその後、白紙に縁故のある文句を二つ、三つ選んで、公の末女である徳川圀順公爵夫人の手元に渡し、夫人を経て重ねて願い出たときには、公はすでに病床にありもはや執筆はかなわなくなってしまったので、公の生前にその墨蹟を拝領する機会を失ってしまった。これははなはだ遺憾なことだった。
そこで私はやむを得ず、藤村庸軒筆の白紙の讃を得て、これを開庵の床に掛けたのである。
その文句は次の通りであった。
題白紙 庸軒子
無画無詩掲一行 不看赤青兼黒黄 這中風致凛乎冷 楮国乾坤雪又霜
白紙庵の懐石茶会は十数回を重ねた。来客には記念として、この庸軒白紙讃を染め付けて新調した六角火入を配りなどした。この記念品は、同人のあいだでなかなかの評判になり、松原瑜洲【松江藩士、通称新之助】翁からは、大心和尚筆の白紙讃一軸に添えて次の五絶を贈られた。
箒庵兄鼎新白紙庵 余贈大心和尚所書白紙偈幅 更賦此以為慶
瑜洲松原新拝
心清如白紙 性浄似流泉 白紙庵中主 汲泉茶自煎
このほか、同人数名からは詩歌の寄贈をいただいたが、なかでも岩渓裳川翁の白紙行古体一篇は、新しい庵に一段の光輝を添えるものとなった。
箒庵先生、新築茶室 名曰白紙庵、 即賦一篇古体以博粲
裳川岩渓晋
茆庵新著白紙字 窺得平生尚素意 満壁糊貼千百張 番々足写博物志
谷泉詩偈趙州茶 三白相得雪月花 久矣二陸伝経具 風流未曾帰驕奢
維摩丈室有縄墨 軽楹不用珠翠飾 個中悟到一味禅 豈止賓主参語黙(注・楹=柱)
石丈偶座如点頭 傍有臨風瀟洒侯 唐昌姑射女仙対 蒼髯老叟皆同流
聞道旧儀其客五 多驚人目物為主 不掃胸裡万斛塵 床頭空挂玉柄塵
請見高情陶令琴 無絃能解弾旨深 廬家七椀在知趣 徒競茗器終何心
幽鼎松風払々入 清泉一杓古可汲 世俗好事紫奪朱 悲糸誰作墨子泣
浮碧殷紅金花箋 敢説日辺天上伝 茶煙色映白紙白 白衣人結浄因縁
このとき、私もまた、次の腰折(注・自作を謙遜した言い方)を物して、新庵で茶禅一味(注・茶道は禅から起こり求めるところは同一であるということ)を味わいつつあった。
花の朝月の夕に木の芽烹て(注・煮て)浮世のことは白紙の庵
白紙の壁に向ひて松風の 音を聞きつつ我が世をや経む
ところがこの茶会のあと一か月余りすぎた四月十七日に、徳川圀順公爵の家令、福原脩氏が来宅して語るところによれば、私がさきに公爵夫人を経て慶喜公に願い出た揮毫が、昨年十一月二十二日に公が薨去されために果たされなかったことを夫人がことのほか遺憾に思召され、その次第を慶喜公の嗣子、慶久公に申し入れて、私のために公の遺墨一枚を請われた。すると慶久公はこころよくそれを承諾され、遺墨の中から適当なものを選択するようにと福原氏に沙汰があったので、福原氏は白紙庵に縁故のある文句を選び、唐紙半切に次の二句があるものを持参した、とのことであった。
私にとっても思いがけないことで慶喜公の遺墨を拝領することができたので、よろこんで(原文「欣然」)これを開いてみると、
素志与白雲同悠
真情与青松共爽
というもので、不思議にも、素志、白雲などという文字があり、ただ白紙庵に縁故があるだけでなく、なんとやら、私のような隠逸者の境遇にぴったりの語句で、願ってもない好記念物なので、厚く公爵夫人の御好意に感謝した。さらに徳川邸へもまかり出て、慶久公にもお礼申し上げたのである。
この白紙庵は、幸いに癸亥(注・みずのとい。大正12年)の震火災にもあわず、今は斎藤浩介氏の住居になっている。微々たる一庵室に関連して以上のような因縁話があったので、追憶の一端にもと、ここにその由来を記し置く次第である。
(注・原文で、146頁の最終行[ー人であった三輪君が、・・・布袋腹を抱へ]は、前項の144頁の最終行に来るべきものである。)
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「箒のあと」187 東都の三曲界
百八十七 東都の三曲界(下巻141頁)
明治中期以来、東都(注・東京)の三曲界(注・地歌、箏曲、胡弓楽、尺八楽の四種の音楽の総称。他の邦楽種目である長唄、義太夫節、清元、琵琶楽、能楽は含まない)には、それぞれに若干の大家が存在していたが、私は、亡妻も後妻も、みな琴や三味線に親しんだので、自然とそちら方面の大家と接触し、その技芸を傾聴する機会が多かった。だから自分では練習したことはなくても、その芸風や巧拙について、まったくの門外漢というわけでもなかろうと思う。
明治中期には、山田流の中能島松声が嶄然として(注・抜きん出て)頭角をあらわした。琴も三味線も達者であったうえ、無類の美声で、よどみない節回しには、他の追随を許さないものがあった。
彼は、単に山田流の琴唄だけでなく、富本の名曲に琴の節付けをして例の美声で唄い、ときどき清元お葉との掛け合いで演奏したこともあった。
中能島は、でくでくと肥満し、たちの悪い(原文「念の入った」)疱瘡のために目が不自由になったうえに頭部は茶色や紫色のしみだらけで、色つきの地図を見るような非常にグロテスクな容貌だったのであるが、天はこの名人に美声という一物を与え、ひとたび発声すれば、いわゆる「梁塵を動かし(注・漢の魯の虞公は声が清らかで歌うと梁の上のちりまで動いたという「劉向別録」の故事から歌や音楽にすぐれていることのたとえ)、潜蚊を舞わしむる」の趣があった。五世延寿太夫がまだ若かったころ、彼とお葉の掛け合いで「お菊幸助」を語るのを聞き、感動のあまり清元を習う気になったという一事をもってしても、そのことは十分に理解できるだろう。
さて、中能島に次ぐ美声家は山登万和である。この人は、私の一番町宅にも何度もやってきて、得意の自作である「須磨の嵐」などを唄われた。
山登は痩せぎすで色が黒く、出っ歯だった。凛々としたその声は、いわゆる「盲人声にあらず(注・声をきいただけで情景まで見えるようだ、の意味か?)」で、私は、彼が熊野【ゆや】の「青かりし葉の秋、また花の春は」という一説を唄うのをきいて、いかにも青いように聞こえるのだと毎回笑って人に話したものだった。しかし中能島に比べると、同じ美声でも、ふたりの間には多少の差があったように思う。
また山田流では、このほかに山勢松韻という大家もおり、この人は琴を達者に弾かれた。門下から今井慶松、萩岡松韻のふたりを出したのは、同流にとっての彼の功労といわなくてはならない。今井慶松が、得意の新晒しなどにおいて師匠以上の鮮やかさを見せているのは、よく知られていることである。また、大正の後半から昭和にかけての宮城道雄氏の活躍は、三曲界にとり、たのもしい限りである。
宮城氏は天才肌で、まだ二十歳前に「水の変態」という曲を作曲された。思えばそれが彼にとっての出世作であり、その後も次々に新作に励んでいるだけでなく、琴の演奏も非常に達者である。
氏はまた、いくらか洋楽を研究したので、作曲にもそれを取り入れようという工夫があるようだ。しかしこれは、西洋人がどんなにうまく和服を着ても日本人から見ると滑稽なように、洋楽の模倣は結局彼らの一笑を買うに過ぎない。氏のような天才は、その精力を一番有効な道に傾注して、みごとに当代にふさわしい純日本式の名曲を創作されるようにと私は切に願っている。
さて、また三味線においては、明治中期に櫛田栄清氏がいた。その門下から、出藍の誉れある(注・弟子が師をしのぐこと)今の高橋栄清氏を出したことを、ありがたく思わなくてはならない。(注・三味線もうまかったのかもしれないが櫛田栄清も高橋栄清も筝曲家)
また明治末期から大正時代にかけて、熊本から生田流の永谷検校、小出いと子のふたりが上京し三曲界をおおいに賑わした。
熊本がいかにして、このような名手を生み出したかということについて、私は熊本出身の清浦(注・清浦奎吾)伯爵や、徳富(注・徳富蘇峰)氏などに質問してみたが、結局わからずじまいだった。
このふたりのうち永谷検校はもちろん名手だったのだが、小出いと子のほうも、単に女流としてのみならず、生田流では、当代で彼女に比肩する人は何人もいないと思う。
いと子は五歳のときから三味線を習い始め非常に厳格な修業を続け、それ以来、七十五歳の老齢にいたるまで、睡眠時間のほかは、ほとんど三味線を離したことがないという。そういう勉強に加え、天賦の芸才があったことから当然のごとく、ついには超人的な域に達したのである。
小出は上京後、しじゅう私の家に出入りしていたので、私は毎回のように、そのすばらしい能力に感服していたが、私が四谷伝馬町に住んでいたころ、夜更けてから帰宅すると小出の撥音が非常に遠くのほうまで聞こえてくるので、今夜もまた彼女が来宅しているのだとすぐにわかったほどだった。
尺八では、先代の荒木古童が一番有名だった。私は彼の晩年に鶴の巣籠を聞き、その妙技に感じ入ったことがある。
今の古童翁も先代に劣らぬ名手であると言われ、その子である梅旭氏にも非常に有望な将来が期待されていることは、単に琴古流のためだけでなく東都三曲界のために、大いに祝福すべきことだと思う。
東都三曲界のことを語るに当たり、たまたま思い出したのが、三輪信次郎君のことだ。明治二十五、六(1892~93)年ごろ、東京の銀行業者が芝紅葉館に日本銀行総裁の川田小一郎男爵を招待した席上で、当時十五銀行の支配人だった三輪君が、余興に一曲演奏しようといってなにか琴の曲を弾き終わると、川田男爵は布袋腹をかかえて「三輪法師、三輪法師」と呼びつつ大いに喝采したことがあった。
その後、三輪法師は、山田流女流筝曲家として好評を得ていた山室千代子を相棒にして、四十年間筝曲に没頭しているが、素人としてこのような活動をする人は、古来類例がなかろう。お世辞にも、お上手とは申し上げかねるが、その熱心さにだけは大いに敬意を表さざるを得ないのである。
(注・原文において、144頁の最終行が抜けている。146頁の最終行[人であった三輪君が、余興に一曲奏せんとて、何やら琴を弾き終るや、川田男は布袋腹を抱へ]が、本来ここに印刷されるべきだった。)
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「箒のあと」186 伊藤公題箋文晁幅
百八十六 伊藤公題箋文晁幅(下巻138頁)
私は明治四十五(1912)年下期から四谷伝馬町に新宅となる天馬軒を建設中であったが、翌年の七月になってもまだ工事半ばなので、上州伊香保の木暮旅館聚遠楼に避暑にいくことにした。
同旅館の主人、木暮武太夫【先代】氏は私の旧友だったので、「気の合う御仁がやってきた」とばかり、おりおり私を訪ねてきて雑談して過ごしたものだった。
そんな時、氏は木暮家の「いの一番」の宝物であった谷文晁筆の墨画山水大幅を持参し次のように語った。
「これを以前あなた(原文「老兄」)にご覧にいれたとき、非常に称賛されて東京の好事家に吹聴なさったおかげで、その後大評判になり、明治二十九(1896)年、ときの総理大臣伊藤博文公爵がいつしかこの話をきかれて、ぜひとも一覧したいと所望された。そこで、そのころ衆議院議員だった拙者は、同年一月、議員開会の際にそれを持参して上京した。遼東半島還付反対の上奏案がまさに議会に提出されるというときで、伊藤公爵は非常に多忙であったにもかかわらず議会の大臣室でこれを一覧すると言われるので、拙者は部屋まで持参した。大臣室は西洋間で壁に掛物を掛ける場所がなくどうしたものかと見まわしていると、海軍大臣の西郷(注・従道)侯爵が『俺どんに好い工夫がごあす』と言って、みずから椅子の上に立ち、壁に掛けてある柱時計を取り外し掛物をその釘に掛けようとした。ところが少し高くて手が届かないので、佩剣(注・はいけん。帯剣)をはずして軸掛けのかわりにし、首尾よくこれを掛け終えることができた。それを見ていた伊藤公爵はじめ一同は、その機智に驚いたものだった。
さて掛物を熟覧した伊藤公爵は、『これぞ文晁の中の文晁である』と、しばらく感心してみていたが、時は上奏案の議事中という大わらわの最中だったので、西郷侯爵はふたたび佩剣で掛物をはずし、これを巻き納めて拙者に返却された。
拙者はこれを箱に納めて、そうそうに引き下がろうとしたそのとき、さきほどから硯箱を引き寄せて、せっせと墨をすっていた内務大臣の野村靖子爵が、『木暮君、その掛物の外題(注・掛物の題名)の付箋を誰かに一筆願ってはどうです。僕はさっきから、誰かが書くだろうと思って、墨をすって待っていたよ』と言われた。すると西郷侯爵がすかさず『誰彼と言わず、伊藤さんが宜しい』と言って、これを伊藤公爵に突き付けた。
折が折であったので公爵は非常に難色を示したが、西郷侯爵は例の調子で、『これを見料と思うて書くが宜しゅうごあす』と言われたので一同大笑いとなり、公爵もすぐに筆を執り、付箋の上に、文晁筆として、下に春畝山人題と、謹直な楷書で書きつけられた。
ちょうどそのとき、上奏案否決の知らせが大臣室に届けられたので、一同肩をなでおろし(原文「愁眉を開き」)、歓声がわいたような次第だった。
思い返すとこれは十八年前の昔で、そこにいた三人も今は全員この世を去り、この幅だけが当時を追懐する記念の品になったのである。
その後、衆議院書記官の林田亀太郎氏が伊香保に来たので、拙者はこの顛末を同幅の箱裏に書いてもらった。そして今度は西園寺陶庵公が避暑で来られたのを幸いに、すぐに(原文「不日」)箱の表に公爵の題字を請い、十善具足(注・非の打ちどころのない)の宝物にする考えなのだ。」
ということだった。
聞くところによるとこの文晁幅は、木暮氏が高崎である道具店から掘り出したもので、驚くなかれ、その値はたった五円だったという。
ところで、私には木暮氏から前にきいていた話がある。
氏は、明治十三、四(1880~81)年ごろ、官吏になりたいと思い上京した。そのとき福澤先生に面会しこの志望を述べたところ、先生はその不心得を諭したという。「役人などは、産業を持たない士族の子弟がやればよいことで、代々の営業を持つ君などが従事すべきことではない。とくに温泉宿というものは、時勢の進歩につれて、これから大いに繁昌するだろうことは先例を見ても明らかなので、君はまずもって家業に励むことが大切だ。そして、今日は土地の値段が法外に安いのだから、できるだけ土地を買い入れておくのがよいだろう。もし大いに威張りたいというのなら、いつか国会議員になって堂々と国政を議論するべきなのだ」と言われたそうだ。そこで氏は仕官するという気持ちをきっぱりと断ち、もっぱら家業に専心し、その一方で衆議院議員になって福澤先生の言われたとおりに当初の志望を達することになったのだそうだ。
そのとき私は木暮氏に、「しかし、君が先生の教訓どおり、安価な土地を買い入れておいたとしても、この掛物を買い入れた利益には及ばないだろう」と一笑したのである。その武太夫君も今では世を去られ、私もまたほどなく寂滅するだろうから、結局残るのはこの幅ばかりとなることだろう。
「箒のあと」185 西園寺陶庵公の雅懐
百八十五 西園寺陶庵公の雅懐(下巻134頁)
大正二(1913)年八月、私が伊香保の木暮武太夫の第二別荘で避暑をしていとき、西園寺陶庵公爵が第一別荘にて静養中だった。
私はその前年から無職の自由の身になり、文芸趣味の世界で日々の無聊を慰めており、あまり得意でない俳句などをひねくり回したり連歌もどきの文句を並べたりしていた。そのなかには次のようなものがあった。
湯の宿や隣はさきの総理どの 背戸の垣根にひるがほの咲く
ふしながら見送る雲の行衛かな 杉の葉わけの風の涼しさ
夕立のあとよりつづく蝉時雨 時刻たかへず来る碁がたき
谷ひとつあなたに斧の響かな 浴衣にかをる山百合の花
山風を土産にせばや峠茶屋 足の下より瀧の音する
この連句中の第一句の「隣はさきの総理どの」というのは、もちろん陶庵公を指したもので、宿泊先が目と鼻の先なので、ときどき散策のついでに公爵の閑眠を驚かしたこともあったが、公爵は快く部屋に通してくださり(原文「引見せられて」)、毎度、俗世間を離れた清談に耽られた。
公爵は聡明で博識、多方面にわたる趣味を持ち、なにごとに関しても打てば響くような返答があり、その談話には粛然と襟を正すようなものもあれば、実にここちよいものもあり、そうかと思うと軽快飄逸で頬を緩めるようなおかしな話もあった。そのひと月ばかりの間に何度か拝聴した話の中でいまでも私の記憶に残っているのは、時代の道徳問題に関する次のようなことだった。(注・わかりやすい表現になおした)
「最近、世間で、道徳が次第に衰えていくことを憂い、将来を悲観する者もあるが、かつてに比べて今日の道徳が衰えたとは思わない。自分はまだ若かったころ京都におり、周囲での道徳の腐敗している有様を見てまことに苦々しく思い、他の場所ではここまで腐敗してはいないだろうと考えていたが、その後、諸藩の内情を探ったり旧幕府の気風を察したりすると、やはり京都と変わることなく賄賂が横行し、士風は地に落ちたというありさまは今日よりもさらに甚だしいものだった。
これは維新の前の紀綱が非常にゆるんだときだけではない。士風がもっとも凛然としていたと言われる徳川初期においても同じである。家康の臣下である某が、自分の家は代々ひとりとして御家に背いた者がありませぬ、と自慢のように語ったところ、家康もまたおおいに感心して、汝の家が代々当家に背かぬのは、まことに奇特の至りであるとして、すみやかにその禄を増加したということである。
徳川の臣下には、本多正信などを始めとして、時に臣下となり、また仇敵になった者があったが、その中で某のような者はまことに珍しい律儀者であるということで、褒美を得たのである。
徳川譜代の臣下ですらこのような調子であったから、今日の政事に奔走する者が、あっちにつき、こっちから離れる、というようなことがあったとしても、これを徳川時代の道徳と比較して、いたずらに悲観するべきではあるまい云々」
さて、このとき私は公爵に対して茶掛の揮毫を願い出た。すると公爵は、昨今はリウマチ(原文「僂麻質斯」)ぎみで、筆を持つと手が震えるから、具合のいいときを見計らって執筆しようと言われたのであるが、そのついでに次のように語られた。
「リウマチについて思い出すのは、先年あるところに招かれてやはり手が震えているところに、当地に避暑中だった、かの中村歌右衛門が御盃頂戴といって自分の前にやってきた。あちらも同じく手が震えるので、左の手で右の手を動かないように押さえて盃を差し出すのを、自分もまた手が震えるので左の手を添えてそれを受ける。その酌をするのが、お粂という新橋の老妓で、それもまた震い仲間のひとりなので、徳利が盃にカチカチと当たったのを見て、これでは三震である、と大笑いになったことがある云々」
また、このときであったかその後のことだったか忘れたが、貞奴(注・川上貞奴)とともに伊香保に来た福澤桃介氏が、私と同時に公爵を訪問して雑談したことがあった。
桃介氏は、大同電気社長として木曽川上流に大発電所を完成させた記念に、電気の神の大立像を建設しようという計画を持っており、「電気は女性で現わすべきものだと思うが、なにか適当な神像のモデルはないだろうか」と真面目な顔で言い出された。
そのとき公爵は意味ありげな笑みを浮かべて、「それこれと言わず、御携帯の美人(注・当時、貞奴は桃介の愛人だった)の像にすればいいだろう(原文「しくものはなかろう」)と言われたので、さすがの桃介氏も、正面からの不意打ちに一本参ってグウの音も出なかった。これなどは、公爵が長年のあいだ荒くれ政治家を相手にして鍛え上げられた、一刀流の鋭鋒であると納得したものだった。
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「箒のあと」184 大倉鶴彦喜寿狂歌集
百八十四 大倉鶴彦喜寿狂歌集(下巻130頁)
大倉鶴彦【喜八郎】翁は維新の前から実業方面で活動し、粒々辛苦して最後には当代随一の富豪となったという経歴を持つ。言うまでもなく、まさに立志伝中の人である。
少壮時代から余裕しゃくしゃくと一中節をたしなみ、六十の手習いで光悦流の書家になった。また狂歌を好み独特な感吟を連発するなど、その余技においても色々と伝えられていることが多い。
大正二(1913)年、翁が七十七歳になるとき、喜の字の祝いとして狂歌募集の趣意書を発表した。七月十九日がその締め切りだったが、その趣意書というのは次のようなものだった。(注・よみやすいように少し手を入れてある)
「天に七曜の輝きあれば、地に七宝のうつくしきあり、人に七賢の洒落者あれば、鳥に七面鳥の替りものあり、神に七社、仏に七堂伽藍の具はるあり、義礼の整ふ七教七経七書の七面倒なるは暫く措き、七音七情は人学ばずして之を能くすべし、おのれ七歩の詩才なきも、歳七秩を越えてまた七年、七ころび八起きのあしたの心やすく、質種の心配もなくて、七十七度くり返す、七くさ粥のたび重り、ここに目出度喜字の齢を得たり、乃ち四方の風流男【みやびを】に請申て、七の字に因る兼題十七首を撰み、狂歌の雅会に無邪気の興を催し、共に聖代を楽しみ、太平をうたはんとほつす、冀く(注・乞い願わく)は、大かたの歌人、七わたの玉の言の葉、あまた寄せたまはん事を、七重のひざを八重に折り、七くどくもねきまうすになむ。
大正二年初夏 和歌廼家あるじ 鶴彦
兼題
七福神 七曜 七里ヶ浜 七面鳥 七本槍 七堂伽藍
七騎落 七夕 七不思議 七賢人 七草 七小町
七変化 七五三祝 七色唐辛子 七里法華 七ころび八起
撰者 澤の屋青淵
和歌の屋鶴彦
そこで私は、兼題の中から五題を選び、次のような駄句を寄せた。
七夕
飛行機を見て彦星のひとりごと 今年はあれで天の河原を
七騎落
八騎では不吉とかつぐ大将も 八幡殿の末と知らずや
七福神
六福のにこりにこりを弁天へ 御世辞笑ひと見たは僻目か
(注・萬象録では「御世辞きらひ」)
七賢人
七けんにいざ言とはむ御別荘 時に藪蚊はありやなしやと
七ころび八起き
七ころび八起きを十たびくりかへし 七十七となれる鶴彦
鶴彦翁の狂歌は、天性の流露にまかせて連発する流儀で、これという師匠がいるわけではないが、上州伊香保出身の、俳号を文廼家といった松村秀茂老を相談相手にしていた。非常な速吟家で、巧拙はさておき、即座に何首でも連発するというやり方である。しかも持って生まれた歌才で、時によって秀逸なできのものを吐き出すこともある。独特の大胆不敵な言い回しの中に鶴彦式のおもしろみがあった。
さて同年十月二十七日には、帝国劇場で盛大なる喜寿祝賀会を催し、幸田露伴氏の新作「名和長年」、および私の作詩、平岡吟舟作曲の東明流「那智丸」の歌劇を興行した。
その日に翁が来賓に配られた扇子には、
老ぬとも思はぬうちに梓弓 八十路に近くなりし鶴彦
と書きつけられた。
当日は、衆議院議長の大岡育造氏が祝辞を演説されたが、そのなかには次のような一節があった。(旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)
「大倉氏の祖父某は、越後新発田の産で、商売をもって一家を興した人物であるが、その没後、頼山陽が執筆した碑文には、大倉氏が新発田のごとき僻邑に一生を過ごしたのは、誠に惜しむべきことである、彼がもし大都会にあって活動したならば、さらに観るべきものがあったであろう、と述べている。しかるに、今や、その孫たる鶴彦翁が、東京において赫々たる(注・かっかくたる。華々しい)成功を告げ、さらに海外にまで発展し、シナ満州などにおいて、種々の事業を経営しているのは、よく乃祖(注・ないそ=祖先)の志を成し、いわゆる身を立て父母を顕したものである云々」
これはいかにも、事実その通りである。
また、翁の、あるときの述懐のなかに、
わたり来しうきよの橋のあとみれば 命にかけてあやうかりけり
という歌があった。後年、山下亀三郎氏が、私の家でこの歌の記念額を見て、自分の経験からもおおいに感じ入るところがあったとみえ何度も感吟して「実にしかり、実にしかり」と讃嘆した。両人の経歴が似ていたためであろう。私はこのとき山下氏を見ながら、「名歌は天地を動かし、鬼神を感ぜしむるというが、君のような鉄骨漢を感動させる鶴彦翁の狂歌は、さてさて偉いものであるな」と言って一笑したのである。
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「箒のあと」183 朝吹柴庵道具逸話
百八十三 朝吹柴庵道具逸話(下巻126頁)
朝吹柴庵(注・朝吹英二)翁は多方面に多趣味な人である。才思横溢(注・才能にあふれ)、愛嬌たっぷり、いたるところに奇談の種を宿している。書画骨董方面での逸話が特に多く、なかでも他の人がまねできないところは、「蛇の道はへび(注・専門家にとってお手のものであること)」以上の敏感さで珍器、名物のありかを嗅ぎつけ、海老で鯛を釣るような掘り出し物を見つける能力を持っているということであった。翁のことを私が「道具釣りの名人」と名づけたのは、その抜群の技量を何度も目撃したからである。
さて、翁がいわゆる道具釣りに出かけるための決まった場所は、下谷仲町の斎藤琳琅閣、四谷見附の伊藤平山堂、その他何軒かの道具店であった。あるとき翁は、琳琅閣で天下の大名物、古銅青海波の花入と、古太刀中の古太刀といわれる「天の座」の名刀を釣り上げたことがあった。
この琳琅閣の主人は、名前を斎藤といい、本業は古本屋である。旧大名家に出入りするついでに道具類も買い取るようになった一種の変わり種であったが、なぜか世間では彼のことをバイブルと呼んでいた。
柴庵翁は、彼が古本の横に大名家から仕入れた道具を陳列していることを嗅ぎつけ、ときどき訪問するうちに彼の常連の得意客のひとりになった。今回翁が掘り出した青海波の花入は、茶書のいくつかに水戸殿御所持として挙げられている大名物で、徳川二代、三代将軍がいっしょに水戸邸にお成りになった折に、二代将軍みずからこの花入に緋木瓜の一枝を活けられた、という来歴のあるものだ。後年、水戸家の分家である守山藩主松平大学殿(注・松平頼貞)に伝わっていたものを、琳琅閣主人が、かの天の座の名剣とともに同家より取り出したものだった。
翁がかねがね垂れておいた釣り針に運よく稀代の大魚がかかったわけで、琳琅閣主人がおそるおそる申し出たその値段というのは、ほとんど二束三文だったので、翁は二つ返事でこれを買い上げた。
しかし、鼻高々で歓びにひたっている間もなく(原文「隆鼻天に冲して得々自ら悦びたる間もなく」)、それを垣間見た益田鈍翁から熱烈な懇望があった。
もともと柴庵翁の道楽は、道具を釣ることにあって用いる方にはないのだから、造作もなく譲ってもよいはずなのだが、この花入だけには未練が残り簡単には手放さなかった。その様子は次の譲状によって察することができるのである。
拝啓青海波花入 御懇望に依り御譲申候、永く御愛蔵賜はり度、希望の至りに奉存候
東京三十四年除夜
真言寺拝具
観濤先生玉机下
嫁入はめでたけれども親心 嬉しくもあり悲しくもあり
御一笑可被下候
(注・高橋義雄著「近世道具移動史」では、「嫁入りは是非なけれども」となっている)
この青海波という花入は、高さ一尺(注・約30センチ)ほど、伝世銅の作、管耳下蕪である。全面が鮮明で、優美高尚な形式は、言語に絶するものがある。銅色も油のごとくで、古謡に「絵かげもうつるなる青海波とはこれやらん」とあるのにちなみ、誰かがこの名をつけたのだろう。とにかく、これは柴庵翁の一世一代の大獲物であった。
翁には、このほかにも四谷の道具店、黒田琢磨のところから利休丸壺という名物茶入を釣り上げるという大手柄もあった。
また、古経巻に関心を持たれてからは、扇面経やら久能寺経やらを手に入れたこともあり、晩年には、文人画の方面にも猿臂(注・えんぴ。猿のような長い腕)を伸ばして、頼山陽筆の耶馬渓詩画二幅対を獲得したこともあった。
翁は石田三成に同情したためか、その相棒であった安国寺恵瓊が所持していた直径八分(注・約2センチ)ほどの純金透かし彫りの印子(注・金塊)を数珠つなぎにした、長さ一丈(注・約3メートル)余りの鎖を買収したこともあった。これは、旧忍藩主松平忠敬子爵の所蔵品だった。
ともかく、翁の趣味は八宗兼学(注・幅広いこと)であった。広範な方面で釣り針を垂れて、根気強く獲物を釣り上げるというやり方だったので、後代の語り草になるような大収穫があったことも決して偶然ではなかったのである。
朝吹柴庵翁はあるとき私に向かって、大隈侯爵が井上世外侯爵を評して「井上はあまり学問をしたというわけでもないが、なにか事あるにあたって恐ろしい知恵の出る男である」と言われたと語ってくれたことがあったが、この世外侯爵への大隈侯爵の見立ては、そのままそっくり柴庵翁に当てはめることができると思う。
翁がどれほど奇智頓才に富んでいるかということは、ある事件に当面したときに、あっという間に名案をひねり出し、周囲の人をその奇想で感心させることが多かったことからもわかる。
一例としては、馬越化生翁が、かつて小堀遠州銘の有来という茶碗を使ったときに、有来とはどういう意味かということについて、化生翁は「有り来たり」という意味だろうと説明されたのであるが、柴庵翁は簡単には承服せず、帰宅してから沈思百端、夜更けにいたって大悟したという。その説によれば、論語のなかに、
有朋自遠方来不亦楽乎
とあるが、もともとこの「有来」という茶碗は、前田侯爵家所蔵の「楚白」という茶碗と同手のものなので、小堀遠州が楚白の茶碗の朋(注・友)と見て、論語の冒頭の一句の中から、有の字と、来の字を取り合わせて、その銘にしたのだろう、ということで、「遠州の死後に、遠州の心を知る者は、ただ自分ひとりである」と得意満面で、即刻これを茶友に宣伝し、それを聞いた者たちはその奇智に敬服したのである。
その後しばらくして、遠州が寵愛した陶器師に、有来新兵衛(注・うらいしんべえ。https://kotobank.jp/word/新兵衛-1083231#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.90.8D.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8.2BPlus)という者がいて、その茶碗を所蔵したために遠州がこのよう命名したことがわかり、柴庵翁の沽券は、すこしばかり下落したのであるが、翁にはこのほかにも各種の発明があり、翁の生前は茶界が非常に賑やかであったというのは事実である。翁は、茶の世界における一種の天才であったというべきであろう。
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「箒のあと」182 三井松籟翁の茶品
百八十二 三井松籟翁の茶品(下巻123頁)
三井松籟翁は八郎次郎(注・三井南家の当主の名)と称し、総領家(注・三井北家)主人の八郎右衛門高福翁の第二子で、諱を高弘という。三井南家を継ぎ、明治二十二(1889)年第一国立銀行の取締役になり、同二十五年ごろから三井家の重要な諸職を歴任した。
三十四(1901)年三井物産会社の社長に就任し同社の盛運の基礎を開き、その勲功で男爵に叙せられことはよく知られている。
翁はこうした本領のほかに、もともと文雅風流を好み、茶道に造詣があり、鑑賞眼にすぐれていた。また人あたりが温厚で、事にあたって円満に処理をする才覚を備えていた。
優雅な品格に加えて、茶道の修養のたまもので、玉のように非のうちどころのない人となりで、大正二、三(1913~14)年ごろには、和敬会、すなわち十六羅漢会の白眉としてこの世界での崇敬を集めていた。
もともと三井南家には過去に文芸をもって世に知られた主人がいた。なかでももっとも高名だったのは、延享四(1747)年に生まれ寛政十一(1799)年に享年五十三歳で没した、嘉栗居士、俗称を長次郎、諱を高業といった人だった。
高業は、わけあって大阪に隠居した。狂歌を栗柯亭木端に学び、僊果亭嘉栗と称し、蜀山人(注・太田南畝)を旗頭とする江戸の天明ぶり(注・天明狂歌)と拮抗して、おおいに浪華狂歌の気焔をあげた。
居士の狂歌の中で、花より団子の意味を詠じたものがある。
世の中のながめは稲の花ざかり 吉野龍田はそれからのこと
また、「つるめそ」といって、京都祇園祭りの甲冑行列に雇われていた日雇い労働者が、炎暑の下で汗みどろになって練り歩くさまを詠じたものには、
つるめそが其ひおどしの鎧きて 下には汗のくさりかたびら
また、居士の会心の作で、辞世の意味を込めたものには、
幕串の跡はそのままありながら 夕ぐれさびし花の木のもと(注・幕串=幕を張るために立てる細い柱や串)
飲みつづけ日数も一二みいらとり 其むかへ酒そのむかへ酒
などがあった。
狂歌の著作として「貞柳伝」、「奈羅飛乃岡」、「栗葉集」、「辰の市」、浄瑠璃に「伊賀の敵討」、「糸桜本町育」、「納太刀誉鑑」、「碁太平記白石噺」、紀行文に「北国路之記」、「吉野紀行」がある。
なかでも「伊賀の敵討」は、「伊賀越」として東西の歌舞伎で何度も上演されたし、「碁太平記白石噺」も、例の宮城野信夫の仇討の話で広く世間に知られている(原文「人口に膾炙する」)ものである。
松籟松翁はこのような文豪を出した商家を出した三井南家に、三井総領家からはいって主人になったので、家に伝わる書画、器具を、思うままに使って理想的な茶会を催すことができたのである。当代の紳士茶人の中で、抜きん出て(原文「嶄然。ざんぜん」)頭角をあらわしたのにはそのような背景もあった。
翁はきわめて丹念な(注・念入りな)な性格で、茶会を催すときには、半年ないし一年前から道具の組み合わせを研究したものだ。実物を茶室に並べて千思万考し、すみずみまで納得してから(原文「毛髪遺憾なきにいたって」)はじめて実行に移すという流儀であった。
だから、翁の茶会は、一年に一、二回に過ぎなかったが、あの「三年鳴かず、鳴けば必ず人を驚かさん」という故事に似たおもむきで、だいたい毎回、後世に伝わるようなすばらしい出来ばえの茶会を催されるのだった。
たとえば、日露戦争中の奉天戦のあとの祝勝茶会では、床に宗祇法師の大倉色紙の「旅人の」の一軸を掛け、薩摩焼と萩焼の筒茶碗を用いて薩長の意味を暗示するとともに、筒茶碗の形に大砲を重ねたという機転なのであった。それなどは、翁の遊び心が高じて際物師になってしまったと、茶人たちの大喝采を浴びた。
また、大正二(1913)年の紀元節には、御即位の御大礼が行われる年の佳辰(注・かしん。めでたい日)を記念しようということで、床に一休筆の色紙を掛けられたのであるが、その歌は、
あしはらは国常立を始めにて いくよを守る神となるらむ
というもので、その日の会の床飾りとして、これ以上の掛物があるとは思われなかった。また、そのたばこ盆に、呉須【ごす】の「朝日に鳳凰」模様の火入を置き、香合は染付の鶺鴒(注・せきれい)を使い、吸物に大内蒔絵小椀を出し、三輪明神の祭器だった斎部【いわいべ】(注・神酒を入れるもの)という素焼きの小甕を花入として掛けるなど、いずれも茶題にふさわしい器物の組み合わせだった。
これはつまるところ、宝蔵の奥が深く、勇将に仕える勇猛な兵卒が雲のように湧き出てくるのと同じで、道具が主人の点呼に応じて、いつでも陣地につき争って役に立とうとしているためである。しかもそれが茶番に陥らず、品を保ってその趣向の目的を果たしているあたりは、翁の独擅場といってもよいだろう。
惜しいかな、翁はそのころから病床につかれることが多くなり、ながいこと茶会を催すことができなかったのであるが、翁は、京都鷹峯光悦会の会長なので、あるとき、光悦会大虚庵の一席を受け持ち、寸松庵色紙の「山里は秋こそことにわびしけれ」の一軸を掛け、その前に自作の千家了々斎ごのみの巻水形竹花入を飾り、またすべての器具をこれに準じるものでそろえて関西茶人の目を驚かしたこともあった。
要するに、翁の茶品が人格と同様に非常に高いということである。私の生涯においても、翁のような大家に遭遇することはめったにないことだと思うにつけ、追懐の情にも切なるものがある。ここに翁の茶品の一端を述べ、同人の記憶を新たにしようとする次第である。
「箒のあと」181 脱線党の一人者
百八十一 脱線党の一人者(下巻119頁)
「箒のあと」も、最近少し堅苦しい話題が続いたので、合いの楔(注・中間のつなぎ)に、この辺で無邪気なナンセンス物語を挿入しようと思う。
そんな「脱線党」の第一人者といえば、なんといっても、わが益田紅艶(注・益田英作)である。雅俗の両方面でいろいろな珍談があるので、その二、三を紹介しよう。
汽車の中で近善を生け捕りにした話
益田紅艶が関係していた道具商である多聞店は、同業の近善と、一番多くの取引をしていた。近善というのは竹内広太郎の店の名で、彼の親父が名古屋出身だったので、その道具の買い出し先が特に名古屋方面に多かった。
紅艶は、名古屋の某家が所蔵していたある名器を買い取ろうとして、ずっと前から近善に依頼しておいたのだが、道具取引の上で近善のことを毎度のようにたしなめていたので、いつか近善が、かの名器を取り出しても(注・道具商が売り主から品物を手に入れても、という意味)、もしかすると自分を袖にして、他の得意先に持っていってしまうのではないかという疑心暗鬼に陥ってしまった。
そのような折のことであった。近善はある日、道具を包んだ風呂敷を抱えて名古屋から帰京する夜汽車に乗り込んだ。そして、豊橋のあたりにさしかかったときである。大阪から帰京する途中の紅艶が偶然にも同じ汽車に乗り合わせており、便所に向かった。そして思いがけなく、近善と彼が携帯していた道具の風呂敷包みを発見したのである。
さては、いよいよ思ったとおりのことが起きてしまったと思った紅艶は、列車中に響き渡るような大音声で、「見つけた、見つけた」と怒鳴りながら、近善の首筋をつかみ、猫の子でも吊るしあげるように、風呂敷包みもろとも、隣室の自席(注・コンパートメントがあったのだろうか、それとも隣りの車両のことか?)まで引き摺っていってしまった。
同乗していた旅客たちは非常に驚き、近善のことを、てっきりスリだと思ったらしい。どうりで目つきの険しい男だったと思っていたが、さては、あのでぶでぶした男の風呂敷を掏り取ったに違いない、おのおのがたは、何か紛失物はござらぬかと、上を下への大騒ぎになったという。
やがて近善がもとの席に戻ってきたあとも、みな警戒を解かず、とうとう彼はスリにされてしまったということだ。
新発明の湯たんぽの破裂
紅艶の汽車の中での珍談には、さらに振るっているものがある。
彼は大正初年の冬、加賀金沢の道具入札会に行こうとして、上野駅(原文「停車場」)から、寝台車の二階に乗り込んだ。
彼は、大仏といわれるくらいの大兵の肥満体だったので、二階に何度も昇ったり降りたりするのが不便だと、前々から用意してあったゴム製の小便袋を携帯していた。その小便袋は、用便のあとには、湯たんぽに変身するという彼の新発明もあって、彼は「寒中の旅行は、これに限りやす」と得意がっていた。
さて汽車が高崎あたりを通過したころ、彼が寝返りを打ち、ゴム袋を尻の下に敷いた。その途端、袋が破裂して、寝台は大洪水となってしまい、着ていたものもびしょ濡れになってしまった。
さすがの紅艶もいたたまれずに、汽車がやがて軽井沢に着くと、同伴していた店員に助けられてプラットフォームに飛び出した。そこの洗面場の水を、衣服の上からザアザアとかけ、ちょっと絞っただけで、もとの寝台に立ち戻り、平気で寝込んでしまった。
翌朝金沢に到着したときには、からだの熱で、みごとに衣が乾きあがっていたとは、紅艶ならではの人に真似のできない珍芸で、話を聞いた人はみな鼻をつまんだという。
警句とポンチの天才
紅艶は、近善に行ってめぼしい道具を買い取るときはいつも、紙切れにその道具の絵を描き、横に代価を書き込んで伝票がわりにし、それを多聞店のほうに持ってきてもらうという習慣があった。
あるとき、仁清(注・野々村仁清)の茶碗を五十円で買い取り、例によって紙片にその図を描き、その横に、
仁清わづか五十円、二十五円は直(注・すぐ)でくさし
と書きつけた。
これは、「人生わずか五十年、二十五年は寝て暮らし(注・桃中軒雲右衛門の浪花節。「朝寝十年うたた寝十年残り五年を居眠りすれば人生しまいにゃゼロになる」と続く)」のだじゃれ(原文「地口」)であり、紅艶の生涯中でも一番の傑作だった。彼が死去したときには、香典返しの袱紗に、この文句が染め出されたが、それなども、いかにも故人にふさわしい、しゃれた思いつきだった。
また明治四十(1907)年ごろであったか、名古屋の道具数寄者であった織田徳兵衛老が、私の寸松庵で同席した誰かと濃茶茶碗を品評して、萩焼か、唐津焼かとあれこれ考えていた。そのとき紅艶が横から口を出し、「鷺を烏と争うのでゲスか」という洒落を言った(注・さぎ=萩、からす=唐津)。すると織田老は、茶室で洒落を言うとはけしからんと非常に不満の色を表わしたのであるが、相客一同は喝采し、その傑作を賞讃したものだった。
またあるときには、長唄研精会(注・明治35年に結成された長唄演奏会。112・長唄研精会来歴を参照のこと)で、「長唄の囃子というのは古い妾のようで、あれば煩わしいが、なければ淋しい」と評し、まわりにいた人たちは、いかにもその通りだとうなずいたものだった。
さらに、紅艶の頓智の才能は、口舌だけに限ったものではなく、ポンチ画を描かせても、また独特の才能を発揮した。令兄である鈍翁(注・益田孝)や、山県老公などの似顔絵には、実に非凡の傑作がある。
しかし天下一品というべきものは、彼が日光遊覧中に小西旅館に泊まったときに描いたものだ。
泥棒の用心に、ということで、紙入(注・財布)を花生(注・花瓶)の中に隠した椿事を、みずからポンチ画にして、詞書を添えたものである。
最初は、大兵肥満で近眼眼鏡をかけた大入道が、花生の中に紙入を隠している図、次は、その花入の中に水が残っていて、入れた紙入がびしょ濡れになったところ、その次は、濡れたお札に火熨斗(注・ひのし=炭火を入れて使うアイロン)をかけて、「これなら大丈夫、使えるな」と、ニコニコして喜んでいるところの図。
それを順番にたどって描いた巧妙さは、プロの画家も顔負けであったし、自分を上手に滑稽化して描いた、自画像の見本のような出来ばえだった。
このように、この方面での彼の頓才(注・臨機応変な頓智)は、彼の警句とともに、まだまだほかにも語り伝えられている。それらについては、またのちに記述することにしよう。
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