だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

2017年09月

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百八十  実験上の宿命観(下巻115頁)

 私が明治十四(1881)年に上京してから、今日にいたるまでの五十年余りのあいだに接触の機会があった大人物の中には、維新の前後に死生の間で奔走した人々が多い。これらの人々は、ことさらに学んだというわけでなく自然の巡り合わせから、禅宗の、いわゆる「大死一番」、「底の境地」を経験し、知らず知らずのうちに悟りの道に達したものか、大事に臨んで驚かず泰然自若の趣のあることが多い。
 あるとき井上世外侯爵が、維新の前に伊藤博文公爵とともにイギリスに遊学した時の船の中での経験談を語られた。その中で次のような話をされた。(注・一部わかりやすい表現に変えた)
「自分と伊藤は英国の帆前船に乗り込んで、まず上海まで出かけたが、このとき船長が、なんの目的をもって渡英するのかと自分たちにきいてきたのを、その身ぶりによってだいたいの意味をとることができたので、航海術を研究するためだ、と答えるつもりが、英語を話すことができない。自分たちは、ネビゲーションという語が航海という意味だということだけを知っていたので、その語を何度も振り回したところ、船長は早合点し、ふたりが水夫の見習いになりたいのだと思い、そのときから自分たちは、インド洋を過ぎ、喜望峰を回り、英国に到着するまで、甲板上で水夫のやる仕事を言いつけられたのである。
 喜望峰に近づいたころ非常に大きな嵐に遭遇した。波が甲板を洗い、すさまじく荒れ狂っているので、自分たちは、細縄で体をマストに結びつけながら立ち働いていた。そのとき、ひとり強情な水夫がおり、そんなまねをしたくないと言って威張っていたところ、たまたま非常に大きな波が来て彼をさらっていってしまったので、さてさて気の毒なことをしたと思っていると、今度はその大波が揺り返してきて彼はふたたび甲板に投げ上げられ、彼はマストに取りついて奇跡的に一命をとりとめたのである。
 それを見て自分は大いに悟るところがあった。人間というものは、生きようとしていても生きられるものではなく、死のうとしても死ねるものではない。これはみな天命が定めるところなので、安んじてこれに服従するよりほかはないと思ったのである。」

 また私は、山県含雪公爵からも、これとほとんど同様な懐旧談を聞いたことがある。それは次のようなものだった。
 「長州藩が攘夷実行のために、元治元(1864)年に下関で、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの連合艦隊と戦闘した。そのときの本営は前田に、支営は壇の浦に置かれた。
 自分は壇の浦の砲台を守備し、最初は外人の砲撃など大したことはないと、たかをくくっていた。しかし八月五日、連合艦隊は前田砲台と壇の浦砲台に向かって、さかんに猛撃を開始した。
 そのとき先方の軍艦は、わが射程外にあり当方の弾丸は先方に届かず、先方の弾丸だけがわが砲台に命中するので、前田も壇の浦もさんざんに攻撃され(原文「這々の体に打ちなされ」)、翌六日には壇の浦がとても持ちきれなくなったので、自分は兵をおさめて前田の本営に引き返した。
 そのときの陣営はほとんど焼け落ち、外国陸戦隊がすでに上陸し始めていたので、士気ははなはだ振るわず逃げ腰の者も出てきた。
 そこで自分は、敗兵をまとめてしきりに防戦を試みたが、武器の性能の違いが大きく非常な苦戦に陥った。
 さて自分が手槍を杖にして前田の本営に立ち上がったとき、急にのどの渇きを覚えたので、焼け残りの木材に腰かけ、鉄砲でも洗ったらしい手桶の中に煤だらけの水があるのを見て、これでも飲もうと前方に身をかがめたその瞬間、敵弾一発が背中をかすめ、腰につけていた握り飯の包みを打ち抜き背中と右腕にかすり傷を受けたのである。
 もしこのとき身体が直立していたならば、ちょうど胴のまんなかを射抜かれていたはずであったのに、煤けた水を飲もうとして前にかがんでいたばかりに、幸い命拾いをしたのである。
 そこで自分は、死生には天命あり、死ぬときはいかに用心しても助からず、生きるときには偶然にも危機を免れるものであると、しみじみと人の運命を悟ったのである。」

 ナポレオンの伝記に書いてあるそうだが、彼が戦争で、弾丸雨飛をものともせずに、悠然として砦の壁の上に立ち、双眼鏡で戦争のありさまを眺めていた。そのとき、傍らで砦の壁の陰から目だけを出して戦争を見ていた幕僚の一士官が、飛んできた弾丸に額の真ん中を打ち貫かれて即死した。
 ナポレオンはそれをかえりみて、おれのように壁の上に立っていれば、たとえ弾丸が当たっても急所を避ければ死なずにすむのに、臆病なまねをするから、かえって命を取られるのだ、とののしったそうである。
 これもまた、ひとびとの運命の強弱というもので、たおれる者はそれまでである。生き残った者が最後の勝利を占めるわけなので、じたばたしてもどうすることもできないものなのだ。
 このような宿命観は、大死一番の境涯を通過することにより、自然に悟り得るものなのだろうか。私の経験では、維新前後に活動した英雄豪傑の中に、そのような覚悟を持つ人々を非常に多く見出すような気がするのである。

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百七十九  内田山掛物揃い(下巻112頁)

 井上世外侯爵は大正二(1913)年一月二十六日の早朝、自邸の湯殿(注・風呂場)で冷水浴中に軽度の脳溢血にかかった。発病当時は左の手足がきかず、談話も不明瞭になった。
 同二十九日、私が吉本博士の許可を得て侯爵に面会したときには、「あまり悪口などを利くものさに、とうとう病気になってしまったよ」と打ち笑い、左手を上下して「どうしてもまだ自由にならず、ものをつかんでも感覚がない」と訴えられた。
 しかし二月にはいっておおいに元気を回復し「相手欲しやの状態になられたので、なんとか病中のつれづれを慰めてさしあげたいと思った。侯爵はかねてから清元が好きで、お若をひいきにされていたので、私は河東節の「東山掛物揃い」にならって「内田山掛物揃い」という曲の作詩をして、五世延寿太夫に節付けを依頼した。
 三月上旬にその曲ができ上がったので、いよいよ演奏の準備を整えることになった。築地瓢家の女将(注・お酉)を世話人にして、三味線はお若、丸子、唄は〆子、花吉、やま子に振り当てて、九日の午前十時から、侯爵の病床がある光琳の間で、掛物揃いの新曲披露をすることになったのである。
 その日の陪聴者として、平岡吟舟、野崎幻庵、原田次郎(注・軍人の原田次郎ではなく、第74銀行頭取の原田二郎のように思われる)、今村繁三、その他婦人客数名を案内した。
 侯爵は、床に銭舜挙(注・銭選)筆の宮女牡丹花の一軸を掛け、砧青磁の筍形花入に白玉椿を活けなどして喜色満面。耳を澄ましてこれを傾聴された。歌詞、曲は次のとおりであった。

   内田山掛物揃い
(エドカカリ)久方の月まつ山の (合)下庵いほに (合)数寄をこらせし故事を、今も都の内田山 (オトス)けふまれ人をむかひつつ、掛けつらねたる名画の数々、あたりまばゆき (スエル)ばかりなり。

先ず周文の間に掛けたるは、むかし蒙古の大軍が、皇国に仇せし其時に (合)土佐の長隆一心に、敵国降伏の祈誓をこめ、画ける不動の尊像にて (合)降魔の剣を打ふつて (合)雲を蹴立てて飛びゆく有様 (合)如何なる天魔おにがみも、畏れつべうぞ見えにける。
(クドキ合)また光琳の間に掛けたるは (合)徽宗皇帝の御筆にて、(カン)桃の梢に鳩ひとつ、春の日かげのやはらかく、羽色にうつる (合)筆のあや、(オトス)風情をここにとどめたり。
(イロ)さて御居間は一休が、悟りごころの面白く、杖をかたげて (合)丸木橋を渡る旅人、下は谷底 (合オット)あぶない (合)すでのこと、浮いた浮世の綱渡り、さつてもこのよなものかいな、粋な和尚の筆すさみ。
(ウキギン)八窓庵は、西行が江口の里に行きくれて、賤が軒端にただずみつ、一夜のやどりを乞ひけるに、あるじと見えし、あそびめが、情なぎさのことはりに (詞)『世の中をいとふまでこそかたからめ仮りのやどりを惜む君かな』と口吟めば、あるじは之を聞くよりも (山田)『世をいとふ人とし聞けば仮りの宿に心とむなと思ふばかりぞ』と心ありげの言の葉に、露をもやどす草枕、仮寝の夢ぞ奇特なる (二上り)面白や、さしも江口の河船に、遊女のうたふ棹の歌、うたへやうたへ、うたかたの、あはれ昔の恋しさよ (ツツミウタ)是までなりといふ浪に、浮べる舟は、忽ちに六牙の象の姿となり、普賢は之れに打乗りて、西の空へと行き給ふ有りがたかりける次第なり。
(カカリ)花月の間には、南蘋か朝日に鳳凰をぞ掛けにける (ウタヒ)まことや聖人ひじり世に出づれば、此鳥奇瑞をあらはして豊栄とよさかのぼる朝日子の影に羽をのす豊けさは、実に治まれる大御代の、姿もかくやと、一同に感ぜぬものこそなかりけれ。

 河東節の「東山掛物揃い」は、近松門左衛門の作であると言い伝えられ、河東節の中の白眉であるが、作者は、君台観(注・足利義政東山御殿内の装飾に関して能阿弥や相阿弥が記録した美術工芸史「君台観左右帳記」)を参考にしたとは思われず、とにかく、事実に即した文句ではない。
 しかし私のものは、井上家の秘蔵品の中から五幅を選んだものである。 
 周文の間には、土佐長隆筆の蒙古退治不動(注・蒙古襲来絵詞の一部か?)、光琳の間には徽宗皇帝の桃鳩図、御居間の床には一休和尚の丸木橋渡り、八窓庵には西行法師の江口の歌、花月の間には沈南蘋筆の朝日に鳳凰の図を掛けて、めでたく一曲を語り納めるという構成であった。
 作曲者も歌意をくみ取り、発端では勇壮、中間は上品かつ艶麗。その後、幽幻清寂にはいり、典雅荘重の趣をもって終局を迎えるよう苦心したようだった。
 そのころは、新橋の清元が美声ぞろいで同流の最高潮に達したときだったから、曲が終わるや、世外侯爵夫妻をはじめ一同は感じ入り、ヤンヤの喝采がしばらく鳴りやまなかったものだ。
 場所といい場面といい、またその演奏者といい、すべてに非の打ちどころがなく、このときのような女流演奏家たちの清らかな調べを聴くことは、私の生涯にもう二度とないだろうと思われた。


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百七十八  井上侯の財政追憶談(下巻108頁)

 井上世外侯爵が、明治の初年に大蔵大輔として財政上に辣腕を振るわれた顛末については何度か聴聞したことがあったが、大正二(1913)年一月十八日に今一度その機会が訪れた。
 この日は、井上侯爵がこのほど拝領した明治天皇の御遺物の六点を拝見するために、内田山邸を訪問し午餐をともにしたのち、珍しく来客がとだえたときにきくことができたもので、従来の話よりも簡潔でよく要領を得ているのでここに掲載することにしよう。(注・以下わかりやすい表現に変えてある)

 「維新のはじめ、自分が大蔵大輔として財政の局に当たったときには、大久保利通が大蔵卿であった。そのころの外国貿易では、メキシコ・ドル銀貨を持ってきて、日本の二朱銀、一朱銀と引き換えて通用させていた。ところが日本の二朱銀、一朱銀は多量の金分を含んでいるため、貿易のために使うのではなく、その金を含んだ日本銀をメキシコ・ドル銀貨で買い集めて、(注・両者に含まれる金銀量の差で)大儲けをすることが行われていたのである。
 明治四(1871)年に、岩倉大使が欧米巡遊に出かけるとき、自分は伊藤に六百万両の銀を託してサンフランシスコに送り、そこで分析させたところ、案の上、多量の純金を得ることができたので、運賃と利息を差し引いても、まだ多くの利益を得た。
 そこで自分は、この銀を紅葉山の御蔵に納め、三条公(注・三条実美さねとみ)をはじめとする政府首脳たちに調印させて、これは太政官紙幣の準備金に充てるので、なにがあっても使用をしないということに決定したのである。
 ところが、その後政府の費用がどんどんかさみ、太政官紙幣を発行すればするほど、その紙幣の価値が下落していった。そこで自分は三井組に命じて、三井為替券を発行させたのである。
 ところが、三井為替券もまた非常に下落してしまったので、同僚からいろいろと攻撃された。ことに江藤新平などからは、三井に為替券を発行させるから、ますます紙幣が下落するのだと突っ込まれた。
 それで自分は非常に憤慨して、ならばその三井の為替券を三日間で額面通りにしてみせよう、と言い出したところ、ではお手並みを拝見しようと言い返され、引くに引けなくなってしまった(原文「騎虎の勢い黙止するを得ず」)。
 そこでまず、蛎殻町の両替屋に行き、袂(注・たもと)から三井の為替券を取り出し、これを両替してほしいと言ったところ、やはり一割五分くらいの割引料を要求する。そこで、その両替商の名前を手帳に控え、すぐに、そのときの東京府知事の大木喬任氏のちに伯爵を訪問して「両替商が政府発行の為替券に差をつけるのは不都合である、さっそくこれを召し捕るべし」と談じ込んだ。
 次にその足で円太郎馬車を横浜に飛ばし、まずは富貴楼に陣取って、田中平八、すなわち糸平を呼び寄せた。
 そして「自分は仔細あって三井為替券を買い集めようと思うので、新貨幣で五十万円ほど買い入れてもらいたい」と依頼した。糸平はさっそく承知して、それを買い入れてくれたが、そのとき大阪造幣寮で製造中の新貨幣が間に合わなかったので、糸平から非常に怒られたという滑稽談もあったのであるが、しかしともかくも五十万円分を買い入れたので、三井の為替券は、たちまち元値に回復し、自分は幸いにも面目を保つことができたのである。
 かの紅葉山のお蔵に封印した正貨についてであるが、どんなことがあっても使用しないと決めてあったのに、江藤新平が裁判所構成法なるものを作り、裁判官を終身官にするために、あの正貨を使用するべきであるという建議をした。自分はさかんに異議を唱え、今日のような無能な裁判官を終身官にするために財政の基礎とするべき大切な準備金を使用するなどとは、もってのほかである、と主張した。しかし他方面からも、この正貨を使用しようではないかと言い出した者もあったので、自分としては、苦心惨憺して準備したこの正貨を使用することに耐えられず、このような財政について疎い役人どもと一緒に仕事をすることを潔しとせず、きっぱりと民間に下り、一生政府関係の仕事には関わらないという決心をした。
 そして渋沢(注・渋沢栄一)とともに財政上の意見を建白し、同時に、その趣意を二、三人の新聞記者に話したところ、政府は、自分が機密を漏らしたとして裁判所に呼び出した。そのときには、もろもろの弁論の末に二円五十銭の罰金を課せられた、などということがあった。
 さて、自分が政府を飛び出したのは明治六(1873)年であった。その後大阪に行き、先収社という商会をはじめた。藤田伝三郎。木村正幹、益田孝らのほかに、アメリカ人のアーウィン(注・ロバート・W・アーウィン)などを加え、アメリカ一番商館(注・ウォルシュ・ホール商会)から、一時は七十万円ほども借金して、おおいに商工業を行うつもりだった。
 しかし明治八(1875)年に朝鮮事変が始まると、政府側からの懇願で、黒田(注・黒田清隆)が大使、自分が副使となって朝鮮に赴くことになり、やむをえず、先収社は解散することになった。
 そのとき、純益金が四万円ほどあったので、それをすべて関係者に分配し、自分は朝鮮事変の決着をつけてから、明治九(1876)年にイギリスに行った。
 イギリスでは経済関係の調査を行っていたが、その最中の明治十一(1878)年に、大久保が暗殺されたというので政府から呼び戻された。それ以来、ついに外務省にはいり条約改正の仕事に尽力することになったのであるが、明治初年の財政は貧乏所帯のやりくりで、その困難さは、なかなか言葉で言い尽くせるようなものではなかったのである。」

 以上が世外侯爵の追憶談である。侯爵はこの追憶談を語られてから九日目の、一月二十六日に脳溢血を発症されたのである。侯爵が、複雑きわまる財政談をされたのは、あるいはこれが最後だったかもしれない。この談話は明治初年の財政情勢について将来の人々の参考になることもあるかもしれないので、ここに大要を書き留めておいたのである。
 


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百七十七  群書索引 広文庫(下巻104頁)

 大正二(1913)年一月九日のことだった。文学博士、物集(もずめ)高見翁が、私の一番町宅に突然やってきた。そして諄々と語ったのは次のようなことだった。(注・わかりやい表現になおした)
 「自分は長らく帝国大学の国学教授の仕事をしてきたが、明治十九(1886)に伊藤博文公爵が憲法制定のために日本の風俗習慣を調査しようとしたとき、その関連の書物や、そこに記載されている事項を探すのが困難であるという状況について聞き及んだ。そのとき、強く奮起する気持ちを感じて、日本の群書索引の編纂を思い立ったのである。
 それは、たとえば、牛乳に関するさまざまな故事来歴を調べたいと思ったときに、仏経典の中にある、釈迦が牛乳を飲んだことなどをはじめとして、牛乳に関することが出ている書籍の原書名と、それがどのページに出ているのかを一目瞭然に示すことをめざすものである。
 しかし、その原書名を明らかにすることができても、その書物が世間にあまり流布していなかったり、またはすでに消滅して現存しないということもあり、その場合は参考にすることができないわけで、索引があるだけでは用をたさない。
 よって、さらに「広文庫(注・こうぶんこ)」というものを編纂することにした。そこでは、たとえば牛乳については、これこれの書物に、かくかくの記録がある、というふうに、必要な箇所を抜粋することにしたのである。
 この広文庫は、一冊につき二万六千字の原稿が千部にまで達した。つまり、二千六百万字の大部になったのである。(注・参考までに、現在の新書サイズの本は一冊につき10万字が目安といわれている。つまり広文庫は新書で約260冊の分量ということになる)
 このような大部のものは、いまだかつて例を見ない。これまでの日本において、浩瀚(注・こうかん。書物が大部であること)な四大著述と呼ばれていたものは、

第一に、滋野貞主が、仁和朝の時代(注・正確には9世紀前半の淳和天皇の時代である)に編集した「秘府略千巻」現在は完全に消滅した(注・完全に消滅したとあるが、写本が二巻のみ現存しているようだ)、

第二に、徳川光圀編纂の「礼儀類典」(注・引用書目233収載項目は234の朝儀公事にわたり全515巻)、

第三に明和時代(176472)の山岡明阿(注・山岡浚明(まつあけ))が編んだ「類聚名物考三百六十巻」、

そして最後に、屋代弘賢の「古今要覧六百九十巻」である
 

 だが、広文庫は、この四大著作を全部合わせたよりも、もっと浩瀚なものである。

 さて、この群書索引と広文庫は、最近になってようやく脱稿することができたが、それを出版するためには多額の金が必要なので、これまで編纂のために参考にしてきた書画や古器物を売却してその費用に充てるつもりである。京都の林新助、世にも頼もしい道具商であると聞いたので、あなたの紹介をもらって彼に面会したいと思う。そして、これらの品物を売却する目処を立て、一日も早く、ふたつの書物の出版事業を完成させたいのである。」
と言われた。
 私は、翁が独力で、長年にわたってこのような大事業に従事したという気概に感じ入った。またその五尺に満たない(注・150センチ以下)小柄な老人の儒学者が、よぼよぼしながら自著出版のためのわずらわしい俗務に奔走しているのを見て同情する気持ちが湧き起こった。
 そこでさっそく林に紹介状を書いた。聞くところによると、翁の所蔵品は約四百点ほどで、なかには好古的参考になる貴重な品物もあるということなので、できるだけことがうまく運ぶようにと希望しておいた。
 さて、この日の同翁の話では次のようなこともきいた。
 「今日にいたるまで、日本では群書索引のようなものがなかったために、ある故実(注・昔の儀式・法制・作法などの決まりや習わし)を調べようとしても不便きわまりなく、非常に遺憾なことが多かった。
 たとえば、かつて穂積陳重博士が、民法上で隠居について考証しようとしたとき、日本古来の法令式目を参照しようとして材料を探したが非常に困難なことだった。そこである日自分に相談があったので、以前に調べてあった「隠居」の項目を博士に見せたのである。博士はその幅広い調査に驚き、自分でこれを調べていたら半年以上もかかることが、わずか五分で明らかになったととても喜ばれたのである。
 今や、東京の図書館に出入りする学生や学者の数は一日平均で三千五百人程度だと思うが、三千五百の読書人が、かりに一日二時間を読書に費やすとすると、七千時間になる。この七千時間を有効に費やすか無効に費やすかで能率に大きな違いが出るが、現状では群書索引がないので、当てずっぽうで手当たり次第に書籍を探しても結局答えに行きつかないということが多々ある。
 もし索引が出版されれば、それによってあらかじめ目標を定め、調査の鍵を握ってから図書館に向かうことができるので、簡単に用を済ませて読書の時間を有効に使うことができるわけだ。われながら、これは社会にとってかなり有用なものなのではないかと信じるのである。」

 
 それからおよそひと月たち、物集翁が再び私のところにやってきた。そのときには、群書索引の「コ」の部と、「キ」の部を持参し、それらについて自ら説明してくれた。

 なるほど精密な調査ぶりで、この編纂にはさぞかし苦労されただろうという思いを深めた。
 私は、広文庫と群書索引の出版について気づいたことを述べ、かつて「大日本史」のかな文翻訳を出版したことがある安藤守男氏に相談してみたら、よいアイデアが出るかもしれないと思い、翁を安藤氏に紹介した。

 出版までには、いろいろな経緯もあったのであるが、その後相談が進んだとみえて、翁の生前だったか死後であったかは私は正確なことを知らないものの、とにかく翁の大著が刊行されたのである。(注・大正5~7年にかけ、翁の生前に全20冊で刊行された)


 この書物が、読書界に大きな利便を提供していることは私にとっても非常にうれしいことであるから、それが出版されるにいたる前に、翁からじかに聞いた編集についての苦心談の一端をここに記述して、今後の参考にしてもらおうとする次第である。


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百七十六  銅像に就ての所感(下巻101頁)

 東京に初めて建てられた銅像がはたしてどこのものであるのか、私ははっきりとしたことを知らないが、明治二十四、五(189192)年ごろに九段の招魂社の社殿前に建立された大村益次郎氏のものはかなり早いほうだっただろう。
 その銅像は、大熊(原文「大隈」)氏広氏の製作によるものだが、私は明治二十二(1889)年の秋、ヨーロッパから大熊氏と同船で帰国したので、この銅像製作の最中にはしばしば氏と面会して製作に関する苦心談をきいたことがある。
 大村氏には満足のいく写真がなかったので、氏の知人や親族によってその容貌を研究したそうだが、非常に額が長い人で、眉毛を中心にその上下がほとんど同じ長さだったという。銅像の片手に双眼鏡を持っているのは、九段の高台から彰義隊の立てこもっていた上野方面を観望したときの姿なのだそうだ。
 その後大熊氏は、福澤先生の座像も作られた。このときは私も共同世話人のひとりで、銅像ができあがったとき大熊氏から、先生の容貌が普通の人とはかなり違っていて写実をするうえで非常に扱いにくい顔だったという理由も聞かされたが、とにかく先生の気に入らなかったので、私も非常に当惑したということがあった。
 その後いろいろな場所に建立された銅像の中には、だんだんに出来のよいものも出てきたようだが、日本では、製作する者も製作させる者も概して不慣れなために、これは、と感心するようなものが非常に少なかったものだった。
 しかし、大正元(1912)年十月十二日、品川の海晏寺で除幕式を行った梅若実の銅像は、それまで東京の各所に建てられた銅像の中で、その姿はほとんど無類の上出来だった。それもそのはずである。翁が右の手に扇を持ち今や踊り出さんとするところであり、長年鍛えに鍛えたその芸術的な態度が普通の人には及びもつかないものだったからだろう。
 この銅像の建立については、私も発起人のひとりとして当日式場列席した。その高さは五尺四寸(注・約163センチ)で、台石を合わせたら十一尺(注・3.3メートル)だった。その台石の背面には股野琢氏の撰文(注・文章を作る)で、次のように刻印されていた。

  翁少壮遇世変 独力維持能楽 演習弗懈(注・弗懈=怠らず) 遂克挽回頽勢 其功其技 古今希匹 因同志胥
(注・胥=助ける) 茲表彰之云


 本像の製作者である沼田技師が語るところによると、この銅像は当然翁の没後に設計したものだが、万三郎の姿が翁にほとんど生き写しなので、それをモデルに三回ほど写しとり、その容貌体格はもちろん、袴のひだにいたるまで、生前の翁そのままを表現することができたことは非常に幸せだったということであった。
 とにかく、銅像というものはのちのちまで残るものなので、姿かたちが似ていることだけに囚われて、実物よりも劣っている物体を遺してしまうのは、故人にたいしてまことに気の毒だ。上野台の西郷の銅像なども、ふだんの生活の様を写そうとする意匠に囚われたばかりに、陸軍大将だったこの人の威厳を顧みることがなかったのは、おおいに考えものではなかろうか。
 また、数年前に、目黒の恵比寿ビール会社の構内に馬越恭平翁の大銅像を建設してその除幕式が行われたとき、清浦奎吾伯爵が演説をして、「自分は従来銅像を好まぬ一人である。東京市中に於ても、建設その場所得ずして、頭に鳥の糞が掛かっている銅像を見受け、思わず顰蹙(注・ひんしゅく)するものがないでもないから、後来、銅像建設を発起する人々は、かような失態を招かぬよう、大に注意しなくてはなるまい。もっとも今度の銅像は当社構内に建てられて、その保護についても、大に他と異なるものがあろうから、これはまったく例外として、その他一般の銅像はなるべく必要やむべからざるものに限り、粗造濫設を戒めざるべからず」という趣旨を述べられた。
 私は、清浦伯爵の意見に同意すると同時に、銅像製作者に対してさらに希望したいことがある。先ごろ、陸軍省構内に建設された山県有朋公爵の騎馬銅像の鋳造の前に、その石膏の段階で、それぞれが所見を述べよということで、委員となっていた人たちが工作場に集合した。その際、故人の特徴を表現しようとするあまり、かえってその欠点がきわだっていることがなきにしもあらずだったので、なるべく長所や美点を目立たせるようにして、似姿とともにその品格風貌を伝えるよう特に注文をしておいたが、これ山県公爵のものにとどまらず、銅像一般についてそのような点に留意されるよう願っている。
 というのも、あるところで背の低い実業家の銅像を見かけたことがあり、小高い台の上に載っていたので、下から仰ぎ見るとまるで奇形の大黒天を見るようで、このような銅像ならむしろ作らないほうがよいのではないかと思ったことがあったからだ。
 日本では昔から、碑文によって故人の遺徳を称揚するという方法がある。中途半端な銅像を作るよりも、石碑のほうがかえって崇敬の念を深くすることがあるということは、かの清水谷公園内にある大久保利通卿の記念碑などがよい例である。
 私は、将来の参考のために、ここにいささかの所感を披歴する次第である。


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百七十五  東京の庭石(下巻97頁)

 小石川後楽園の話が出た(注・174「小石川後楽園について」を参照のこと)ついでに、東京の庭石についての所感を若干述べてみたい。
 東京は武蔵野の原で、もともと石類にとぼしいところである。徳川氏が天正十八(1590)年八月に江戸に入府し、江戸城を築くためにほかの地方から石類を取り寄せたのをはじめに、ほうぼうに続々と建設された大名屋敷に遠国から庭石を運び込んだ。その数は相当多く、費用も多額にのぼったであろう。
 しかし交通が不便な時代であったから、たいてい運搬は海路で伊豆石や房州石を取り寄せたのである。かの根府川石のような、すべすべして雅趣に乏しいものや、磯石のような粗くて(原文「粗鬆」)打ち水が乾きやすいものが多かった。奈良や京都の庭石と比べて、一見してきわめて殺風景なのはそのためであった。
 その中にあって、小石川後楽園の庭石がほかの庭園より幾分優秀だったのは、その築庭者に石に対する造詣があったからであろう。
 この庭のあとは、徳川時代を通じて江戸府内に築造された庭園のいずれを見ても、駄石ばかりで見るに値するものはない。有名な本所の佐竹侯爵の庭でさえ、ただ大きな石があっただけで雅趣のある石は皆無だった。
 さて、どのような庭石を上等とし、下等とするのか。どこにある庭石を標準にして、その優劣を判断すべきなのか。
 私は、奈良、京都の石をもって、その答えにしたいと思う。
 明治二十七、八(189495)年ごろ、中上川彦次郎氏が永田町に邸宅を新築したとき、そのさきに、ボテボテした新造の大石灯籠を据え付けた。するとある人が、こんな新しい石灯籠は、ありがたくありませんねと批評したのであるが、中上川氏は例の調子で、「君はこの石を、古いの、新しいのと言われるが、これが果たしていつごろできたものであるかを知っているか」と言って、相手を大いに困らせたということだ。しかし、本来、庭石の新古というのは庭に移されてからおよそ何年と数えるべきものなのである。
 日本で一番古いものは、奈良、京都を中心とする五畿内(注・山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国)の神社仏閣や古宮殿にあるような庭石のことをさすのである。なかには千年以上を経ている古いものも少なくない。
 私は明治二十六(1893)年から大阪に滞在した三年間に、五畿内各地の古社寺、名所旧蹟を歴訪し、その庭さきにある飛石、捨石、つくばい、石灯籠、塔石などを見てまわった。そしてそれらの研究をするなかで尽きない興味を感じたので、明治三十一(1898)年に麹町一番町に家を建てたとき、奈良法華寺の大伽藍石を七個、法華寺形石灯籠本歌、鶴石、亀石、法華寺十三重煉石塔を一基、海龍王寺の団扇形つくばいなど、奈良にある数多くの古名石を買い取り、七トン貨車で東京に取り寄せたのである。これがおそらく奈良石を東京に移入した始まり(原文「嚆矢」)だろう。
 その後、向島徳川邸内の嬉森庵、四谷伝馬町の天馬軒、私が現在住む赤坂一ツ木の伽藍洞の庭園築造のときには、奈良の法隆寺、栄山寺、久米寺、山田寺、秋篠寺など、十七の寺の伽藍石を集め、飛石、捨石用に使った。
 それ以前に、岩崎弥太郎氏が深川清澄町の庭園を造られたときは、お手のものの船舶を使い伊豆地方から非常に大きな石を取り寄せた。それは現存する庭を見てもわかるように大勢の人の知るところではある。しかしながらそれらの石は、ただ大きな石というだけで。奈良石などに比べると、羊の皮千枚でも狐の皮一枚に及ばない(注・「千羊の皮は一狐の腋にしかず」)という、たとえの通りになってしまっているのである。


 私が一番町邸のために奈良石を取り寄せた約一年後、井上世外侯爵が内田山邸を築造するために奈良石を取り寄せた。横浜の原三渓氏が、桃山旧構の移築をしたときにも、同地方の石を搬入した。
 また大阪でも、藤田香雪男爵が網島邸の造営に当たり最大規模の蒐集を行ったので、古い庭石がほとんど底をつくという事態が起きた。
 そのときに至り、各地方自治体が史蹟保存の名目で、庭石、伽藍石の譲渡を禁止する方針を採り始めたため、もっとも雅趣に富む古名石は、もはやほとんど手に入れることができなくなったのである。
 このように奈良、京都の石が欠乏したので、私は、石理(注・せきり。石の構成組織)が細かく打ち水の乾きが遅い山石を探すことになった。
 関西においては、それまでに若干東京に搬入されていた鞍馬石、貴船石などのほか、新たに生駒石を採用した。関東では加波、筑波の山石が生駒とやや類似しているのでそれを東京に運んだ。
 その後、田中平八君が葺手町(注・現虎ノ門)邸の築庭を行う際、実に貨車七千トンの筑波山石を取り寄せたということだ。
 またほかにも、甲州石を取り寄せた者もあった。故村井吉兵衛氏の永田町邸のいくつかの大石などがそれである。
 このようなわけで、徳川初期以来現在にいたるまで、武蔵野の原に、他の地方から庭石を搬入した数量は、実に大きな石山をひとつ築くくらいはあっただろう。原っぱのどこにそれらの石が隠れているのかほとんど人目につかないのは、武蔵野が広いからでもあるが、庭石というのは使用するとき半分以上を土中に埋めてしまうからでもあろう。これからもどれだけ搬入されても特別に目立つということはないだろう。
 ただ、私のような庭石そのものを鑑賞の対象にする者が鑑賞者として希望を述べるとすれば、今後石を運び入れる人々が、石の質をも十分に研究してくだらない駄石を大量に搬入することがないようひとえに願いたいものである。


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百七十四  小石川後楽園に就て(下巻94頁)

 明治天皇の御大葬に参列するためにフランス政府から派遣されたルボン将軍は、明治初年には陸軍顧問としてわが国の軍制に貢献するところがあったそうだ。また、政府が小石川の水戸徳川邸に砲兵工廠を設置しようとして後楽園取り壊しの評議があったとき、ルボン将軍が自国の例をひいて大都市に名園が必要な理由を説き、とうとうその提案を中止させたという伝説がある。
 だからかもしれないが、御大葬の使節として来日すると、さっそく後楽園に出かけたそうだ。そして昔のおもかげの残る部分だけを撮影し、帰国後に日本庭園の典型としてフランスで紹介するつもりだったようだ。
 ところで私は、大正元(1912)年十月二十六日に、所用で向島の水戸邸を訪問したが、そのときついでにルボン将軍のことを手塚家令に話してみた。
 すると家令は、「それで思い出したが、先ごろ陸軍省から、後楽園の旧園に関する記録や古記録を借覧したいと申し込んできたので、水戸の彰考館から同園関係書類を取り寄せて陸軍省に回付したが、それが二、三日前に戻ってきて、そのまま手元の留め置くように言われたので、ためしに一覧してみると、多数の書類の中に、元文年間(注・1736年~1741年)の、水戸藩臣の額賀信興(注・ぬかが)の手になる『後楽園記』というものがあった。それは当時の同園築造の状況をこまかく記した文書だった」ということだったので、ここに、その大要を記すことにする。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらため、適宜句読点をつけた)

  「後楽園記事」
 威公【水戸藩祖頼房卿】かつて山水を好ませ給い、江府(注・こうふ。江戸のこと)の御邸に、山水を経営せんとおぼしめし給い、徳大寺左兵衛に命ぜられ、よろしき地形を選ましめ給うに、小石川本妙寺、吉祥寺の辺、山水の営み、しかるべき地形なりといい、すなわち将軍家へ請わせられければ、台命(注・たいめい。将軍などの命令)ありて、やがて本妙寺を丸山(注・現在の巣鴨)へ、吉祥寺を駒込へ移させ給いて、本藩の御邸となる。その時この地、数百年の喬木(注・高い木)生い茂りて、人力の及ぶべからざる形勢なり、そのうえ大猷(注・家光)公いろいろ御物数寄(注・ご注文)ありてできたる御園なれば、威公にも甚だ御心を尽くさせ給いて潤色(注・整備)せさせ給い、自然のことをよろしとし、古木を伐らず、凹凸の地形に任せて、山水を経営す。伊豆の御石山、その他の山々より、奇異なる大石を取り寄せ遊ばされ、これをもって荘厳(注・飾り)となし給う。これもとより、大猷公の御心なるべし。地形によって、まず大泉水を開く。大泉水より東の方は、御屋形(注・館)に当たる。喬木繁茂して、棕櫚山に続きて、御屋形の見隠しとなれり。南に棕櫚山、木曽谷、竜田川、西行堂、桜馬場。西にまわりて、一つ松、硝子の茶屋、大井川、西湖堤、渡月橋、丸や、小盧山、観音堂、音羽滝、琉球山、大黒堂、得仁堂、通天橋、円月橋。北に当たって遠山あり、松原、福禄寿の堂、不老水、八つ橋、水田。そのほとり、稲荷の社、文昌堂、小町塚、河原書院、御能舞台あり。北西の隅に菓木の御園、内に庚申堂、萱御門の外、水車の楼あり。楼上に小廬山へ懸かれる水の筧(注・かけい)あり。大泉水に長橋かかれり。橋より西に蓬莱島、島の中に弁才天の祠あり。すべて園中の山水、喬木、老石、自然の形勢を備えて筆力の尽くすべきところにあらず。ひとたびこの御薗に遊ぶときは東西南北を分かつものなし。実に千山競秀、万壑争流(注・壑=谷)というべし。東福門院(注・徳川秀忠の五女で後水尾天皇の中宮)聞き召し及ばせられ、図に写して献ぜらるべき命これあり、進上おわしましければ、やがて後水尾院にも叡覧ましまして、御感斜ならず(注・感激もひとしおで)、これより天下の名園となる。大猷公の仰せに、水などは御心次第に引かせらるべしとて、親(注・はじめ)から御泉水の御指図どもありてければ、威公にもかたじけなく思し召されしが、義公(注・水戸藩二代藩主光圀)もまた、その御志を継がせられ、潤色もなし給えども、一木を伐り、一石を動かし給うことはなかりける。明の遺民(注・明国の遺臣)朱舜水、御園の名を選びし時、宋の范文正公の「士当先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」の語を採りて、後楽園と名づけられ、御屋形より御園への唐門にも、右の三字を書して、扁額となせり。得仁堂、文昌堂、円月堂の類は、義公の御経営なり。ことにより改めさせ給いしものあれども、一木なりとも枯れたるは、年々御植え添えこれあり、大木を伐らせられたることは、かつてこれなかりけるぞ。松は別して御当家にいわれあることなれば、一枝をも伐られ給わざりけり。


 小石川後楽園は前記のように、フランスのルボン将軍の忠告によって、さいわいにも破壊を免れたという説がある。しかし一方で、山県有朋公爵が、例の築庭数寄のためにその破壊を惜しみ、保存することが決定したという説もある。
 私はいつかそのことを公爵に質問しようとして、ついに果たせなかったことが残念だが、いずれにしても、歴史的な名園が一部分だけでも東京に保存されたことは、まことに喜ばしいこと(原文「欣懐の至り」)である。
 震災後に、はたしてどのような様子になっているか、その保存や、利用について、今後識者が大いに考えるべきことであろう。よってこの機会にここに言及した次第である。


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百七十三  伊東茂右衛門参禅談(下巻90頁)

 大正二(1913)年十月六日の午前、私は伊東茂右衛門氏から福澤先生の経歴談を聞くために、大久保百人町にある氏の住まいを訪問した。
 伊東氏は豊後(注・現大分県)中津の人である。仙骨飄然とした(注・仙人のようにひょうひょうとした)変わった人だったが、福澤先生にかわいがられた。
 明治十四(1881)年に福澤先生が東京で起きた政変を東北御巡幸に供奉(注・お供)して福島まで帰ってきていた大隈侯爵に内報するための使者に、氏を選んだことを見ても、彼がいかに先生に信頼されていたかがわかる。
 伊東氏は、千葉の近くにあるある寺の住職だった大徹和尚の会下(注・えげ修業)に参加し、この道についての造詣が非常に深いそうなので、私はついでに彼の参禅経歴についても質問した。以下はそのときに氏が語ってくれた一場の物語である。(注・わかりやすい表現になおした)
 

 私は興津の清見寺の住職、真浄(注・坂上真浄)老師が、あるとき上京して碧厳の提唱(注・中国の仏教書「碧厳録」の講義)をしたのを聴いて非常に感ずるところがあったので、大徹和尚とも相談のうえ、その添え書きを懐にして、直接清見寺に出向いた。すると、この寺には見晴らしのよい広い座敷がいくつもあるのに、なぜか私を、三畳ばかりの、ねずみの糞がいっぱいある部屋に通された。食べ物は、朝が麦粥とケンチン汁、夜は、また冷たい麦飯と香の物というような具合で、毎日同じごちそうばかりなので、私はたまりかねて、そっとたもとに入れて持参した鰹節を食べていた。
 さて、ときどき老師に会うと、老師はただ暑いとか、寒いとかいう挨拶をするだけで、なんの話もしてくれない。私もまた、座禅しようというような考えも起こらなかった。
 あるとき、老師の部屋で雑談をしていたところ、ふと座ってみたいという気が起こったので、挨拶もせずに自分の部屋に戻り、いよいよ取り掛かったのは「一指の禅」という公案だった。それより前に、老師が、私に「貴方は座禅の復習に来たのだから、なんでも自分の気に入った公案を選ぶがよろしいと言われたので、それほど難しくないこの公案を試してみたのだった。
 だが、それから四、五日考え続け、老師に考えを述べると、ちょっと聞いただけで、まだまだと言われる。
 それでまた、さらに数日間座り続け、あるときは裏山の上に登って工夫(注・座禅に集中)したりして、もうだいたいよいだろうと思って老師の部屋に行くと、私の足音をきいただけで、障子の中からまだまだと言われる。
 それでさらに考えてから出直していくと、今度は大きな声で、この部屋にはいっちゃならぬと言われる始末だった。

 最初は二、三日滞在するだけのつもりだったのが、もはや三週間過ぎても、簡単には通ることができそうになかった。そのうえ食べ物が悪いので、もううんざりしてきた。
 そのとき、私がかつて大徹和尚のところに行ったとき、和尚が、ある僧のために執筆していた、おもしろい偈(注・げ。仏の功徳をほめたたえる詩)のことを思い出した。せっかくここまでやってきて、なにも得ることなく逃げ出すのも残念なので、最後の一日は大死一番(注・一度死んだ気になって奮起)の覚悟で座禅しようと、むこう鉢巻(注・額のところに結び目を作る鉢巻)を固く締め、腹がちぎれるほどに腹帯を巻き、どっかりと座禅して考案していた。
 すると突然、ねずみが一匹、天井から私の肩に飛び降りてきて、さらに膝の上に飛んできた。そのとたん、今まで考えていた公案のことなど、どこかにすっかり忘れてしまい、再び、大徹和尚の所で見た偈のことを思い出した。
 そこで、さっそくそれに次韻(注・他人の詩と同じ韻字を同じ順序に用いて詩を作ること)し、疲れ果てた気持ちを取り直し、持ち合わせの矢立の筆で、この偈を自分の扇子にしたためた。そして、ふらふらとその部屋を出たときには、もう夜明け方だった。
 とにかく三週間このかた、ろくろく眠っておらず、家に帰って体重を計ってみると一貫五百匁(注・約5.6キロ)減っていたようなところだったので、ふらふらしながら洗面所に出かけていくと、早起きの老師が盥漱(注・かんそう。身を清めること)をしているところだった。
 そのとき老師は、めざとく私が偈を書いた扇子を見つけ、ははあ、次韻ができましたなと手に取り、ちょっと見て、よいとも悪いとも言わずに私に返された。
 しかし私は修行のことなどすっかり忘れてしまっていて、老師に向かい長々とご厄介になりましたが、今から帰京いたしますと言った。すると老師はそれがよかろうと言うだけで何もほかには言わなかった。それで私はそのまま清見寺を退出したのである。
 もともと禅学の修業というものは、言うに言われぬ不思議な仕事で、だんだんと鍛錬するにつれて、スリが他人の財布の中にいくらくらいの金がはいっているかを見てとるように、人が何を考えているかということを、すぐさま見てとることができるようになるのである。つまり、これは考えをひとつにまとめてしまう修業である。
 だから私などは、いますぐに寝ようと思うと、すぐに寝ることができる。これはいつでも雑念を断ち切ることができるためで、修行が進んでくると、そこになんとも言えない無限の面白味があります。


 以上の伊東氏の参禅談は、私にもなにやらサッパリわからないところもあるものの、またなにやら面白そうなところもあるので、ここに記して、読者の判断にお任せしようと思う。

 


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百七十二  光琳月豆幅の余興(下巻87頁)

  
大正二(1913)年五月二十五日のことだった。下條正雄、朝吹英二の両氏が、大阪府知事の高崎親章氏の依頼で、大阪天満の天神社内に貴賓館を建設する計画賛助のため、都下の紳士数十名を築地瓢家に招請した。その席上、私は参加者に向かって緊急動議を提出した。
 「数日前に両国美術倶楽部において道具入札会があった。そのとき、今夕出席している馬越恭平君が、光琳筆の有名な、月豆の一軸を獲得されたことは、まことに慶賀の至りである。元来、豆は馬の好物であるから、馬越大人が月豆の幅を手に入れたのは、まことに当然のことではあるが、私が探知したところによると、この幅の獲得には競争者がいたのである。それは古河男爵家の代表の中島久万吉男爵であった。男爵は、古河家のためにこの幅を得るため大枚五千円で入札し、これでもう月下の豆は、間違いなくわが手中のものであると安心していた。
 一方、馬越大人は、豆と見ては、なんの猶予があろう、この幅をぜひとも獲得せよと、出入りの道具商である山澄力蔵に命じ、その相場を尋ねた。すると山澄は、まずもって三千円くらいではないかと言う。
 そのとき大人は、頭を左右に振り、いやいや君、それは、時勢遅れだろう、光琳の豆は、満州の豆(注・「満州大豆」は当時の満州開墾の主力農作物だった)とは違い、天下唯一の豆である。自分は前々から光琳の絵を愛して、河秡の図、紫式部の図など、「光琳百図(注・尾形光琳に私淑した酒井抱一が光琳百年忌に編集し出版したモノクロの絵画集)」にもなった優品を持っているが、それらはどれも真面目な図柄なので、かねてから、草体(注・硬派でない、の意か?)の画の一幅を欲しいと思っていた。この月豆の図こそ、まさに自分の理想にかなっているばかりでなく、「光琳百図」の中で、紫式部と並んで掲載されている(注・刊行された「光琳百図」の同じ頁に印刷されている。下の参考写真を参照のこと)もので、離れるべきでない姉妹幅なのだ。ぜひとも、確実に落札できる札(原文「やらずの札」)をいれたいということで、最初から五千円と決め、その上にさらに端数をつけ、結局五千百十円で入札した。
 開札の結果、豆はわずか十円の高値をつけた馬大人の手に落ちた。このような深い情を持つ知己に身請けされた月豆は、さぞかし満足したことだろう。
 それにしても、わずか十円の差でこの名幅を勝ち得た『馬運長久』にいたっては、同好の友を招き披露の祝宴を催すだけの価値があるのではないかと思うが、満座の諸君にもご同意いただけるのではないだろうかどうだろうか。」

と述べたのである。
 すると一同が大賛成したことはもちろんのことだったのだが、このなかには杉山茂丸君のような大豪傑もおり、「自分は月豆問題以外にも、馬大人に対して晩餐を請求する外交問題を抱えている」と言い出す。
 ここで返事にもたもたしていると、旧悪露顕か、はたまた新罪発見か、いずれにしても事は面倒だと見て取った馬大人は機先を制して一座を見回し、「諸君、よろしゅうげす」と快諾したのであった。その期日は六月十五日と決まった。
 さて六月十五日がやってきた。馬大人は前回の出席者十数人のほかに、十円違いで月豆競争にしくじった中島久万吉男爵も招待していた。会場は同じ瓢家で、寄付き(注・はいってすぐの部屋)の床には、光琳の有名な河秡の図を掛けてあるほか、馬越家の秘蔵中の秘蔵である、師宣(注・菱川師宣)と長春(注・宮川長春)の風俗絵巻が陳列され来客は魂を奪われた。
 そのあとには、本席に光琳筆の月豆の図が飾られるという、実にいたれりつくせりの待遇であった。来賓の代表として、金子渓水(注・金子堅太郎)子爵は、懇篤な謝辞を述べた。また大倉鶴彦(注・大倉喜八郎)翁は、

   友どちのまるきまとゐ枝豆の さやけき月を見する掛物

という狂句を披露した。その後、花柳小夏の手踊りなどがあり、めでたく月豆会は終了した。
 そのとき馬大人が、益田紅艶(注・英作)に次のようなひとことを洩らされたのである。
 「東京は真の闇でげす、月が出ているのに、アノ豆が誰にも見えませんよ」
つまり、世人はみな盲目で自分ひとりが具眼である、と言うに等しい啖呵を切ったわけだ。
 そこでこの晩に招かれた客側が七月二十二日に返礼の会を開くにあたり、その幹事を引き受けた私と、益田紅艶、野崎幻庵の三人で協議のうえ、加納鉄哉老人に釈迦如来が緋の衣を着て意気揚々と馬にまたがり、まわりには十六羅漢が群衆している絵を描いてもらった。その釈迦如来の容貌は、夜の主賓である馬大人にそっくりで、群衆の羅漢もまた当夜出席する人々の顔をしているのである。豆の枝と掛物をかついで先導している眉の太い人は、間違いなく山澄力蔵で、ひげに鯰の特徴があるのは加藤正義尊者、土左衛門のように太っているのは益田紅艶童子、頭髪がまばらなのは野崎幻庵、金縁の眼鏡をかけているのは箒庵(注・高橋義雄)というような図柄であった。しかしはなはだ不思議なことに、この絵では馬上の釈迦だけに目があり十六羅漢は全員盲目なのである。
 やがてその理由が明らかになると、主客ともに顔を見合わせて抱腹絶倒するしかなかった。無眼の羅漢を代表して金子渓水(注・堅太郎)尊者の挨拶があり、ついで近藤廉平尊者がこの新作の一軸を馬大人に贈呈した。

 余興には、清元の「彩色間刈豆【いろもようちょっとかりまめ】」を語らせ、晩餐の献立も豆にちなむなど、ずいぶん薬の効きすぎた趣向だった。
 ところで、わずか十円の差で月豆を落札できなかった中島男爵は、むしろその幸運を祝する意味で、八月十五日すなわち仲秋の夜を選び会を催した。
 そこにおいては、古河家が最近譲り受けた、水野子爵家伝来の元暦万葉十四冊が参加者一同のために展示された。とかく下品になり下がることの多いこの種の会合が、もっとも上品な形で千秋楽を迎えることができたことは、まことにありがたき幸せだった。

  この会合は、月豆会」という名で当時非常に有名なものだったので、ここにその大要を記しておく次第である。



 ◆参考:国会図書館デジタルコレクション「光琳百図」より
 (月豆の図と紫式部が同頁に掲載されている )

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百七十一  名器調査と雲州土産(下巻83頁)

 私は大正二(1913)年五月十一日京都を出発し、雲州(注・出雲国、現在の島根県地方)への旅に出た。その途上で、

  天涯新樹雨余稠  晴日風薫欲麦秋  笑我一禅参白足  青山影裡入雲州
  (
注・稠=茂る)

という一首を作ったことから、そのときに旅行記を「入雲日記」という題にした。旅行中のこまごましたことは省略し、なぜ雲州を訪問することにしたのか、その理由を今回は記してみたいと思う。
 明治四十五(1912)年初めから私が閑雲野鶴の(注・仕事をせず自由な)身となったひとつの理由は、東山の時代(注・足利義政の時代)以来、幾多の好事家が何度も試みながら、ついぞ完成したことのなかった全国の名器の調査をするということだった。
 この事業を完成するためには、現在日本の国中でもっとも多くの名器を所有している松平直亮(注・なおあき)伯爵の宝蔵でその調査の方法を研究し、いかにして実物を撮影するかということや、いかにして色彩を模写するかということ、また、いかにしてその付属品などをもれなく記述するかということを試験的にやってみるしかないと思った。そこで私は、松平伯爵の許しを得て、まず雲州の宝蔵を拝見することになった。
 松江には速記者の山口鉄市を伴い、松平家宝蔵主任である故米村信敬氏らの助けを借りて、器物のなかでも有名な油屋肩衝をはじめ、大名物、中興名物(注・大名物は利休時代までに知られた名物、中興名物は小堀遠州が選定した名物)の茶入や茶碗の数々を拝見した。絵画では梁楷の李白、徐熈の梅鷺、門無関の布袋などの多数の名品があった。
 これらはいずれも有名な不昧公の遺愛の品で、中興名物の茶器だけでも四十点余りある。大名物や中興名物の書画、器具を合わせれば、その数は実に百点余りになるだろう。それは、ひとつの家で、全国の名物の一割以上を所持していることになるのである。
 よって、もちろん一朝一夕で全部を見るわけにはいかない。拝見は三日にわたり、それで約三分の一程度を調査し、これで幸いにも雲州訪問の第一の目的を果たすことができたのである。
 雲州松平家の所蔵名器がこのように豊富なのは、言うまでもなく、不昧公の熱心な注力(原文「丹精」)によるものである。
 そもそも公は、徳川家康の子(注・次男)である越前秀康(注・結城秀康)の、三男直政から六代目の天隆公【宗衍むねのぶ】の第二子である。宝暦元(1751)年の生まれで、諱を治郷といい、一々斎不昧、未央庵宗納と称された。
 明和四(1767)年、十七歳で襲封するが、そのときの松江藩の財政は極度の窮迫に陥っていた。父公が隠居しその職を新しい藩主に譲ったのも、結局のところそのせいだったので、不昧公はただちに藩政立て直しを志すことになった。そのために朝日丹波茂保を抜擢して後見、兼、執行役にし、大改革に当たらせた。
 丹波は非凡な財政家であった。華奢を戒め、殖産を勧め、七万人余りを動員して、佐陀川に幅二十間(注・一間=約180センチ。20間=約36メートル)、長さ二里(注・約8キロ)の運河を造り、湖水が北の海に注ぐようにすることで、六万石の新たな耕田をひらいた。
 また幕府が経営していた日光人参栽培所からその秘法を習い、雲州人参の生産に成功した。それを長崎に送り、シナ貿易において巨額の利益を占めたのである。
 このようにして不昧公は着々と多くの成功をおさめ、在職三十年余年のあいだに、天下屈指の内福(注・みかけよりも豊かな)大名になった。五十歳で家督を子息の月潭公(注・松平斉恒)に譲り、六十八歳で薨去するまでの隠居生活十八年間は、茶事三昧に暮らした(原文「消光」)ばかりでなく、かねて蓄積してきた財力で名品名宝の買収につとめた。まるで、夜の庭でガマガエルが蚊をパクリパクリと呑みこむように、公の魔力に引き付けられた天下の名器は、争うように公の口へと向かい腹を満たしたのである。
 これが、今日、松平家に現存している不昧公の遺愛の品なのである。
 こうして私は、それらの品々を拝見して、名器の調査についての方針を決定した。そこから、松江市外の菅田庵(注・かんでんあん)やその他の茶室を次々に訪れたり、出雲大社に参拝したりなどして、漫遊の日程を重ねた。
 ある晩には、旅宿の皆美館で、例の安来節と、どじょうすくい踊りも見聞した。安来節には、

  嫁が島外に木はない私が心いつも青々松ばかり
  安来せんげん名の出たところ、社日桜に戸神山、戸神山から沖見れば、いづくの船とも知らねども、せみのもとまで帆を巻いて、ヨサホヨサホと鉄つかんでかみのぼる

というのがあって、この「鉄つかんでのぼる」というのは、不昧公時代の製鉄工業の盛況を詠み込んだものだそうだ。
 また、この土地で行われている、どじょうすくいという踊りは、いかにも素朴で愛すべきものである。ざるで、どじょうをすくう身振りをして、

  私や出雲の浜さだ生れ朝の六つから鰌(注・どじょう)や鰌

といいながら踊るのである。これにはいろいろな替え歌がある。
 私はいつも地方に旅行するたびに、必ずその土地の俗謡を聴くことにしているが、この安来節とどじょうすくいは、東北地方の追分節に匹敵するもので、その他のいろいろな地方のものと比較して、はるかに群を抜いていると思う。これを東京で宣伝したら、かなり興味を持たれるのではないかと思い、帰京後に友人に語り伝えたのだが、それから数年後には安来節が東京に進出し、茶屋小屋から浅草あたりの小劇場にいたるまで、いたるところで唄いはやされるようになった。そして、しばらくのあいだ大いに流行したのである。マサカ、私が宣伝したから、というわけではあるまいが、このことについては、いささか伯楽(注・
すぐれたもの、特に名馬を見抜く能力のある人のこと)の名誉を担ってもよい理由があるのではないかと思っており、自己満足している次第なのだ。


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百七十  顔輝の寒山拾得(下巻80頁)

 私は、大正二(1913)年五月十日雲州松江に出かけるついでに、その日に臨時で展覧された神戸布引の川崎美術館を訪問し、他の陳列物とともに同館の第一の重宝である、顔輝筆、寒山拾得二幅対を再見するという好機会を得た。その日川崎美術館では、別棟である長春閣の正面の床にその名軸が掛けられていた。
 私は明治二十六(1993)年に当館で初めてこれを見て以来二十年余りのあいだ、人物画を見るたびに必ずこの掛物を連想したもので、宋人の人物画の白眉として寝ても忘れることができない(原文「夢寐(むび)之を忘るる能わず)ほどである。今回参観したというのも、まったくのところ、これを再見するためだった。
 そもそもこの二幅対は、言うまでもないが東山御物で、その後織田信長に伝わった。
 信長はひごろからこれを愛玩して座右から離すことがなく、近侍の者に向かって、「この画中の人物は何やら物を言いそうなり」と語られたことがあった。あるとき、森蘭丸が、信長の癇癪(原文「癇癖」)が極度に高まったのを見て、「殿は、かの画像が何か物を言うようなりと仰せられたが、昨夜私が、かの幅の前を通りがかるや、画中に声あって、近頃殿の御短慮もってのほかの御事なり、かくて御用心これなきにおいては、いかなる変事の出来(注・しゅったい)も測られずというかと思えば、そのまま沈黙いたし候」と諷諫(注・遠回しにいさめる)したところ、信長はこれをきいて激怒し、「余の愛玩の恩も忘れ、無礼な諌言、聞き捨てならず、汝すみやかにかの画像を引き裂いて、火中に投ずべし」と激しい表情と怒声で命じたので、蘭丸は「仰せ畏まりぬ」と、ただちにかの画像のところへ向かったあと、また元に戻り、「ただいま、かの画像を引き裂かんと存ぜしに、彼らは殿の御威光に恐れ、もやは何事も申し出ざれば、ひらに御容赦相成りたし」と詫び入ったので、信長もたちまち機嫌を直し、画像は危うく一命をとりとめた、という伝説があるそうだ。
 これはもちろん好事家の作り話(原文「戯作」)であろうが、東山御物の中でもこの幅が昔から有名だということは、こんな話が伝わっているというだけでわかるというものだ。
 その後信長は、今大阪城のある石山城を根城に十三年間彼に対抗していた本願寺の顕如上人と講を結ぶにあたり、この幅と、かの有名なる一文字茶碗、そして古金襴の三点を贈り、修好(注・親しくつきあう)の意を表した。
 本願寺においては、大切な寺宝として代々守り続けていたが、安政年間(18551860)に西本願寺の困窮が極まったとき、当時、同寺の世話方で、石田小十郎あるいは小兵衛という乾物屋、通称「大根屋」として知られた者が、金千両の身代わりの品として本願寺からこの幅を預かることになった。
 ところで、そのころ道具にかけては「大鰐」として名高かった京都所司代の酒井忠義がそれを聞き込み、人を介して何度も大根屋に所望したそうだ。しかし、預かり物なので、ということで応じず、本願寺にとっても手放し難い事情があったので、維新の前にはそのままに経過した。
 しかし明治の初年に大根屋の代替わりがあり、この幅の処分を本願寺に迫ったが、当時のことでもあり本願寺も金千両を賠償することができず、ついに世間に流出することになってしまった。
 そのようなわけで、池田某の手に渡っていたものを、明治十七(1884)年に先代の山中吉郎兵衛が引っ張り出してきて、まずは藤田伝三郎男爵に勧めた。しかし男爵が見向きしなかったので、貿易商会(注・起立工商会社のことであろう)の若井兼三郎氏が仲介を引き受け、松方海東(注・松方正義)公爵その他に当たってみたが誰も応じなかった。
 そんなときに川崎正蔵氏がその写真を一見し、狩野探美に鑑定を頼んだところ、探美が古今未曾有の逸物なり(注・いまだかつてない逸品だ)と証明したので、一も二もなく買い求めたのである。そのときの代価は、わずかに千五百円であったという。
 川崎氏はそのころ築地に造船所を所有し政府筋に用向きが多かったので、もしこのことが貴顕(注・身分の高い人、政府高官など)の耳にはいり、犬骨を折って鷹に取られては一大事だということで、それから三年間極秘にして誰にも見せなかった。
 しかしいつしか同好者のあいだで評判になり、川崎氏ももう隠し立てすることができなくなり、この名幅が手にはいったのは美術の神の引き合わせなので、どのような貴顕の懇望があっても断じて徴発に応じることはできない、という条件つきで、ある日、築地邸に賓客を招いてはじめて披露したのだそうだ。
 この二幅対は、顔輝筆のなかでは試金石というべきもので、画面も非常に綺麗であり、これに対面すると、絵の中から抜け出してきた、にこにこ顔の人を迎えるような気分になる。私が二十年余り前にこの幅を見たときには、かなりの大幅だと思っていたが、今回再見してみると、巾は三尺内外(注・一尺=約30センチ。実物の大きさは、じっさいには、二幅合わせた横幅が約85センチ、縦130センチ弱である)で、いたって小幅であることに驚いた。
 私の経験から言えるのは、名画というものは実物よりも大きく見えることがよくあるということだ。最初に見たときに大幅だと思ったもので、再見したときに意外と大きくなかったときは、たいていの場合、名画である。道具でもなんでも、名品と言われているものには概してこの傾向が見られるようだ。
 目下(原文「方今(ほうこん)」、世に知られている宋画は、いったい何点あるのかわからないが、人物幅において、この顔輝の右で出るものがあるとは思えない。徽宗皇帝の桃鳩図に相対し、かたや人物、かたや花鳥の、双絶(注・この上なくすぐれた二つのもの)であるから、この機会に、私の感想を発表した次第である。(注・寒山拾得図は現在は東京国立博物館蔵の重要文化財。徽宗皇帝「桃鳩図」は個人蔵で国宝)


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百六十九 石黒子(爵)談片(下巻76頁)

 子爵、石黒忠悳(注・ただのり)翁は、明治、大正、昭和の三朝歴事(注・三代の主君に仕えた)の長老である。
 日清戦争のときの陸軍軍医総監として、広島の行在所(注・あんざいしょ。天皇の外出時の仮御所)で奉仕した経歴も持つ。明治天皇陛下の御逸事に関して、翁ほど資料を持っている人はいないのではないかと思う。
 あるとき翁は次のようなことを語られた。(旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字にあらためた)
 「明治天皇陛下の御倹徳については、さまざまの美談がある中に、天皇崩御後、森林太郎(注・鷗外)氏が御所(の)衛生のことを担任して、御座所の跡片付けをなしたので、自分は森氏に依頼して、御学問所の欄間の紙と襖の腰張とを、少々頂戴したのである。頂戴といっても、もとより伺い出でたわけではなく、ただお取り捨てになるべき廃物を、係の者より手に入れたまでであった。聞くところによると、御座所の欄間は、皇居御造営後、ただ一度御張替えになったのみだということで、年経るままに真っ黒く煤けているので、係の者より時々張替えのことを伺い出づれば、陛下はいつでも、それには及ばぬとのみ仰せられて、長年張り替えなかったのであるそうだ。さて大正二年には自分も古稀になったので、亡父が出張中に自分の誕生した福島県伊達郡柳川村に罷り越し、いささか懐旧の情を慰めたついでに、土地の父老を集めて一場の講話を試みた。その講話前において、同村の小学校を訪いたる帰途、その村中で一番貧乏なる百姓家というのをたずねて、その障子の一小間を切り抜き、張替料にとて二十銭銀貨を与えて持ち帰り、その百姓家の障子紙と、かねて持参した、かの御学問所のとを比較するに、百姓家のほうがむしろ綺麗であったから、今さらながら恐れ入り、講話中、このふたつの紙を取り出して、これを来会の父老に示しつつ、陛下が世界第一御倹徳の帝にましますことを物語り、独逸(注・ドイツ)では帝室費として、一年に一千八百万円を計上され、その他欧州諸国の君主は、みな巨額の帝室費を消費しているのに、わが帝室費の年額は、僅々四百万円である、しかして国民が水火難災厄の場合に、恩賜せらるる金額は、かえって欧州の帝室に勝っているのは、畢竟、陛下が親から倹徳を守らせ給うおかげであるから、国民は肝に銘じて、その御恩徳を忘れてはならぬと述べたところが、父老の中には、声を放って泣き出した者もあった云々。」

石黒翁の談話中には、さらに次のような一節もあった。

 「日清戦争中、広島行在所において、旧八月十五夜の晩、自分が御前に伺候したところが、天皇陛下には至極の御機嫌で、自分に向かわせられ、今夜は十五夜であるが、十五夜に月を見るの法を知っているかと仰せられたので、自分はこれという思いつきもなく、御所においては高殿にのぼるか、または窓など開き給いて、御覧遊ばされ候にやと申し上げたるに、陛下は微笑を含ませられて、イヤイヤ月を見るには、苧殻(注・おがら。皮をはぎ取った麻の茎。盂蘭盆(うらぼん)の迎え火・送り火にたき、供え物に添える箸にする)にて茄子をえぐり抜き、その穴より見るものであると仰せられたれば、自分は陛下が御戯れに斯様(注・かよう)のことを仰せられたのだと思い、やがて御前を退下するや、その足にて有栖川大宮殿下(注・日清戦争中に広島大本営にいたのは参謀総長の熾仁(たるひと)親王)を訪い参らせしに、またまた月見の話が出て、ただいま陛下がかくかくと仰せられましたと申し上げたところが、殿下は打首肯せ給いて(注・うなずかれて)それはいかにもその通りである、堂上(注・公家)にては、茄子の穴より月を見るのがならいにて、十五歳にて元服する者は、その茄子の穴より月を見ているあいだに、袖を切り詰めるのが、旧来の慣例なりと仰せられたので、自分は初めて雲上方の月見の故実を承知したのである云々」

石黒況翁は官民の各方面での経歴豊富で、茶道においては、明治初年の茶道復興の黎明期から関与していた先達なので、この方面に関するエピソードは際限なくあるが、それらについては後段に譲ることにする。翁は談論の名手で、ふつうの世間話でもウイット(原文「ウエット」)に富み、ユーモアに長じ、私の記憶の残っているものの中にも、おもしろい談片は少なくない。次のような笑い話もあった。
 「先日明治四十五年、桂公爵の西伯利亜(注・シベリア)経由でヨーロッパ行きしたとき、桂公爵を見送るために新橋ステーションに出かけたら、ある人が、山県公爵は最近とても痩せられそうだから、元老は「ダシ」に使われるから、鰹節のように削られて、痩せてしまうのだと言ったら、その人が目の前に立っている桂公爵を指して、桂公爵は元老でも、あの通り太っているではないかと言うから、桂公爵も「ダシ」に使われるが、アレは昆布ダシだから、煮出されるほど、ますます太るのだよと言ったが、どうだねアハハハハ。」


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百六十八  乃木大将追懐茶会(下巻73頁)

 子爵石黒忠悳況翁氏は乃木大将とひごろ親密な交際があったので、大正二(1913)年四月に牛込揚場町帰雲亭において、大将のために心をこめた追善茶会を催された。
 床には大将の歌入り書簡を掛け、古銅薄端花入に杜若かきつばた】を活け、屈輪ぐりん大形の香合に名香「初音」を薫じた。茶入は、明治三十七(1904)年の冬、大将が戦地から況翁に送られた敵弾二個を寄せ合わせた中次を使い、茶碗は二百三高地の土で作り、有名な大将の詩である

  山川草木転荒涼 十里風腥新戦場 征馬不前人不語 金州場外立斜陽

を彫りつけたものを使い、また、旅順攻略のときに使ったという鉄条網の火箸などを組み合わせられた。
 況翁が古銅薄端の花入に杜若を活け、手向けの香に初音を選ばれたことには深い寓意があった。
 況翁は、乃木大将の最期を、万治年間(注・16581661)年間に細川三斎の十三回忌に割腹した興津弥五右衛門に酷似していると見ており、上に挙げた縁故の品々を使うことで、それとなく追善茶会に歴史的な感興を添えられたのである。その興津割腹とは、次のようなものだった。
 寛永五(1628)年五月、長崎に到着した安南船が珍しい伽羅の大木を舶載してきた。この時細川三斎は、興津弥五右衛門ともうひとりの相役を長崎に差し向け、その伽羅の大木を買い取らせようとした。
 この伽羅には本木と末木があった。伊達政宗の使者が、本木のほうを獲得しようとしたので、興津は、これを我が手に入れようとし双方の争いとなった。
 そのとき彼の相役は、香木のような玩物のために過分の大金を投げうっては、細川家のためによろしからず、として、興津とのあいだに意見が衝突した。激しい口論の末、相役は一刀を取り上げ、抜き打ちで興津に切りかけた。
 おりしも五月のことだったので、床の間には杜若を活けた薄端の唐銅花瓶があった。興津はそれを取り上げてハッシと受け止め、続いてさっと飛びしさり(注・後ろ向きに飛んでさがり)刀を抜き、ただの一打で相役を討ち果たした。
 こうして興津は、目的通り伽羅の本木を買い取り、当時細川の居城のあった杵築に帰り、事の次第を三斎に報告した。主命を果たすためとはいいながら、お役に立つべき侍ひとりを討ち果たしてしまったことに対して、まことに恐れ入る次第であるので、切腹を仰せつかりたいと言上した。

 三斎は委細を聞き終わると、主命を重んじて稀代の名香を買い求めたことは、あっぱれの手柄なので、相手の子孫も遺恨を抱かないように余の面前で盃を取らせ、互いに誓言させようとの主命をもって一切を取り計らわれたので、事件はすみやかに落着することになった。
 この名香は、細川家では、

    聞く度に珍しければ郭公 いつも初音の心地こそすれ

という古歌にちなんで、初音の香と名づけ、それは天下の名香として知られている。
 さて興津はというと、その後、寛永十四(1637)年に忠利の旗下に属して島原に出陣し、抜群の戦功をあげて恩賞をこうむるなど、ついに戦死の機会を得ることもなく、心ならずも余生を保っていた。
 細川家はほどなく肥後に転封し、忠利がまず逝去し、三斎も薨去し、今では肥後守光尚の世になっていた。
 ちょうど三斎の十三回忌に当たり、興津も時節到来と思ったのだろう、万治元(1658)年十二月二日、三代相恩(注・三代にわたって恵みを受けた)の殊勲に対する遺書をしたため、腹一文字に掻き切って、熊本城下の寓居において自尽(注・自害)したということである。
 興津弥五右衛門が自刃を覚悟したのは、長崎で相役を討ち果たしたときであったが、主人の三斎の寵遇が厚かったため、ついに三代にわたって仕え、二十代のときから三十年余りがたっていた。三斎の十三回忌を選んで、遅れ馳せながら宿志を果たしたのである。
 乃木大将が一死を覚悟したのもまた、あの西南戦争中に軍旗を喪失したときであったということである。しかし大将もまた死に場所を得ることができず、隠忍して歳月が過ぎるうちに、ちょうど旅順の戦争がやってきた。
 眼前で多数の兵卒を殺してしまい、愧我何顔看父老(注・乃木の漢詩「凱旋」の一部)の感慨もまた切なるものがあっただろう。
 二児の戦死によって、かえって自ら慰められるところがあったようだが、明治天皇の崩御に至り、今こそ死ぬべき時が来た(原文「正に是れ其死を致すべき秋なり)と決心し、ついに宿志を果たしたのであろう。
 大将を、興津に比することについては、人物の大小、事態の軽重ももちろん同様ではないが、義のために死を軽んじ、あくまでも所志を達せんとした高潔な心事については、古武士の面目躍如として、両雄を対比して、断じて、千歳の知己(注・生きた時代は違うが、通じるところがある)と言うべきだろう。
 況翁は、いつのことにか両者が酷似しているのを見つけた。まず、興津の買い求めたというあの初音の香木を薫じ、また彼の相役の一刀を受け止めたという唐銅の花瓶に擬して古銅の薄端花入を使い、生け花までも同じ杜若を選んだ。
 その心配りは、情義と感興とを兼ね備え、名教(注・人が行うべきすぐれた教え)として役立てることもできよう。大正の劈頭(注・へきとうはじめ)の、一種の出色の茶会であると思われるので、ここにその顛末を記した次第である。


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百六十七  乃木大将の殉死(下巻69頁)

 大正元(1912)年九月十三日、御大葬の御見送りのため私は帝国劇場前に出かけた。
 午後八時半ごろに、霊轜(注・れいじ。霊柩車のこと)の御通過を拝観したが、土佐絵の絵巻物に出てくるような装飾した牛がひいていく御轜車の哀しい音と、先頭の笙(注・しょう)、篳篥(注・ひちりき。縦笛)の響きが相和して、言いようもない神々しい光景であった。私は感動のあまり、

   御者の牛のあゆみもなほ早き 心地せられぬ今日の御幸は

   今はとて涙ぬぐひて見おくれば 大御車ぞ遠ざかりゆく

と口ずさんだ。
 帰宅してから、一晩ほとんど眠ることもできなかった十四日早朝、まだ布団から出てもいないころ、新聞の号外があわただしく昨夜の乃木大将夫妻の自刃を報じた。取るものも取り合えず読んでみると、

   うつし世を神去りましゝ大君のみとしたひて吾はゆくなり

という辞世が載せてあったので、まぎれもなく殉死であることがわかったものの、いわゆる晴天の霹靂の思いがけない出来事であった。私は茫然自失し、ほとんど言うべき言葉が見つからなかった。
 その後新聞紙上に発表された諸大家の感想は後日のように一定したものではなく、東京朝日新聞などは、「大将の行為は、常軌を逸したる者なれば、武人の道徳は別として、一般の道徳に於て、其人に同情するの余り、一概に之を賞讃して、後世を誤る可らず」という一説を載せていた。
  一方、万朝報の黒岩周六氏は、乃木大将を楠木正成公に比して、「楠公も大将も、ともに死なんとして死したもので、その死は生よりも貴く、遺烈を千載に留めたり」と論じ、その結末には、

   今まではすぐれし人と思ひしに 人とうまれし神にぞありける

という一首を付け加えてあった。
 大将の殉死についての所見は、日本人のあいだですら以上のようにまちまちだったのだから、西洋諸国の人々では、かりにおざなりに賞讃する人があったとしても、彼らの道徳観念においてこの事件を理解することができなかったのはまったく無理もないことだった。
 ロンドン・タイムズの東洋部長であったチロール氏(注・Valentine Chirol 18521929)が大将殉死の翌日にタイムズに寄せた一文には、「私は乃木大将とその夫人の最期について、東西の思想上に深いみぞがあるのを発見し、古い記憶を思い出さざるを得ない。十五年前、ロンドン駐在のシナ公使の羅豊禄が、シナ人としてはまれに見る欧化主義者でありながら、彼が不治の病にかかった時、シナの医師に呪文を唱えさせて、祈祷のための灰を五体に振りかけさせたのを見て、私は東洋人の心理を理解することができなかったが、今回のことも同様である」という一節があった。この見解は、ただチロール氏だけでなく、欧米人ならばきっと同じように持つものだろう。(注・瞥見では、日本在住の親日家の記者ブリンクリーが「古風な武士道精神の復興」とタイムズ916日号に書いた)
 このようなわけで、九月十四日の早朝に、乃木大将の思いがけない殉死の報を耳にした一般国民は、驚くやら戸惑うやらで、このことに対しての決定的な観念を持つまでには、いろいろと思いを巡らしたようだった。なかには、最初にこの報を聞いた時には、あまりに過激な行為なので、これが欧米各国に伝わったらどのような反応になって現れるだろうかという不安を抱いた者もあったようだ。

 また大将は旅順で二児を戦死の犠牲で失い、今では学習院在学中の三人の皇子とともに華族の子弟を預かり教育の任に当たっているという大切な立場の人間である。当然のごとく、余生を国家に尽くすべきはずなのに、その生を捨てて死を選んだのははなはだ遺憾であるという意見もあったようだ。
 また一方では、この行動によって日本国民がいかに忠君の一義において熱狂的であるかということを各国の人が知り、彼らを心底震えあがらせ、彼らは今後日本人に畏敬の気持ちを持つようになるだろうと見る者もあった。
 さて私はある日、犬養毅氏と話しているときこの話題になった。同氏の説は次のようなものであった。(注・わかりやすい表現にあらためた)
 「余は西南戦争のとき、新聞通信班として九州に出張し、乃木大将と知り合い、詩作を見せ合ったこともある。大将が、かの軍旗をなくしてしまったという苦戦の状況についても余はよく知っているが、あれはやむを得ない出来事だった。わずか百人ばかりの小倉兵が、賊軍の主力軍に遭遇して、旗手も戦死し、旗を奪われてしまったのだ。これは大将の責任として、それほどには重大なことではなかったのに、謹厳な大将のことで、ずっと気ににしていたようだ。そして、今回の殉死は、乃木大将だから意義のあることで、もちろん他人が真似するべきことではない。坂井虎山が、赤穂四十七士を詠じた詩に、
    
     
若使無茲事
     臣節何以立
     若常有茲事
     終将無王法
     王法不可廃
     臣節不可巳 
     茫々天地古今間
     茲事独許赤城士

(注・この詩は、「臣節」「王法」とはなんであるかを赤穂浪士は示したとして、作者は評価している)

とあるが、この最後の句の赤城士を乃木将軍とすれば、この詩が今回の大将の行為に対する適評になるだろう」
と言われた。私は犬養説が、大将の殉死に対する決定案(原文「鉄案」)として、動かしがたいものだと信じる。


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百六十六  井伊伯家の什宝(注・じゅうほう。家宝)(下巻66頁)

 私は旧彦根藩の人で帝国大学歴史編纂部に勤務する文学士の中村勝麻呂氏の紹介で、井伊大老自筆の茶書の数々を借覧した。
 そのなかには「茶の湯一会集」、「古茶人逸話集」、江戸石州流宗匠片桐宗猿との問答書、「披の間廃止論」など、この道での参考にするべきものが少なくなかった。鉄血の宰相として幕末の恐怖時代の主人公たるこの人が、こうした半面を持っていることは非常に興味深いことなのであるが、それはしばらく置くことにし、今回は、その縁で同家に伝わる数々の書画や名物茶器を拝見することになった時の話をしたい。
 大正元(1912)年九月五日午前九時、三井守之助(注・高泰)、朝吹英二の両氏と三人で、麹町区一番町の井伊伯爵家を訪問した。
 書院の大広間に向かうと、主人の直忠伯爵(原文では「忠直」)も羽織袴で出座され、いんぎんに私たちに挨拶をなさった。
 この日、大広間に、所せましと並べられた御蔵器は、さすがに大老家の所蔵品だけあり、広間の床には、大名物の牧谿筆「松に鶴」、「岩に猿猴」の二幅対が掛けられ、その前には大名物の宮王肩衝茶入が飾られていた。
 牧谿幅も宮王茶入も、当家の先祖の井伊直孝が大阪の陣の戦功で家康公から賜ったもので、どちらも大名物中の白眉である。また茶杓では珍作が数本あるうちの、小堀遠州作百千鳥の銘のものがもっともすぐれていた。
 香合は、祥瑞しょんずいの横瓜蜜柑、交趾の紫鹿。その他にも、堆朱、堆黒など名品が多く、とくにノンコウ(注・楽家三代目道入)作の菊蟹香合の写しは、いかにも珍しい逸品だ。
 釜もまた数多かったが、津田宗及が北野大茶の湯で使ったという古天明常張釜があった。また大老がことに愛玩したという車軸釜、卍字釜など、いずれも凡庸でない。特に、萬年春の三字銘釜は太閤秀吉が所持していたそうで、いっぷう変わった珍品である。

 雑器のなかでは、野老ところの碁盤というものがあった。野老というのは蔓の一種で、珍しい四方杢(注・将棋盤、碁盤などの盤という意味か?)である。世に将棋盤はあっても、碁盤としては天下一品(注・この世にひとつ)だということだ。
 屏風では、元信筆の山水中耕作がもっともすぐれていた。そして、宗達の三十六歌仙、近衛三
院(注・さんみゃくいん。原文「院」。寛永の三筆のひとり、近衛信尹。のぶただ)公が和歌を題した六枚折一双(注・屏風)もまた、絶品にちがいない。

 その他、大老ごのみの茶器、和歌発句の掛物、湖東焼の各種の陶器など、ほとんど枚挙にいとまがなかった。
 それらの一覧を終え別室にはいると、ここには井伊家歴代の甲冑が並べられていた。このなかで井伊直孝が着用したというものは、鉄骨を赤漆で塗ってあった。いわゆる、井伊の赤隊というのはこの甲冑を指したのだろう。
 その甲冑は大きいのはもちろんのことだが、全部が鉄でできているので胴の重さだけで十六貫目(注・約60キロ)あり、両手でわずかに持ち上げることができるというくらい重い。それに縦長の鍬形をつけた鉄兜やら、小手臑当(注・腕やすねの防具)を合わせたら、その重量は、無論、二十貫目(注・約75キロ)に達するはずだ。
 このような重量を身にまといながら、両刀を帯び、さらに槍などを持って千軍万馬のあいだを行ったり来たりしたとは今では想像もつかないことだ。昔の武士は戦争が商売で、常に重たい甲冑を身に着けられるように身体を鍛錬したのである。今日の力士が稽古を重ねて強健な体格を作るように、一種の養生法によって、こうしたことに耐えられるようになったのだろう。
 しかし、直孝よりあとの代々の甲冑を見ると、鉄は皮に変わって重さが非常に軽くなり、鉄砲が盛んに使われる時代が近づくにつれ甲冑の重さは目立って減っていった。それは、人間の体質が軟弱になったのと同時に戦術が大きく変化したためでもあろう。
 こうして数々の宝物を拝見し終わったあと、最後に、あの「彦根屏風」を一覧することになった。これは世間でもよく知られた名画なので、いまさら説明するまでもないだろう。聞くところによると、井伊大老は、ひごろ非常な道具数寄者で、大老になったあとは、千代田城から帰邸すると、玄関から居間にいたるまでの廊下に、毎日のように出入りの道具屋が持参した道具を陳列しており、それをひとつひとつ見ていくのを楽しみにされていたという。この彦根屏風なども、その陳列された中の一品だったとしたら、まさに大物の掘り出し物であったにちがいない。(注・現在では、直弼の兄、12代当主の直亮(なおあき)が購入したことがわかっている)。
 ところで、大正十二(1923)年の地震で、無残にもこれらの名物宝庫は火災に襲われた。しかしすべてが灰燼に帰する寸前に、今回私たちの案内役になってくれた中村博士らが駆けつけ、かねてから熟知している彦根屏風、宮王肩衝、その他十数点を外に運び出した。これは、井伊家にとっての、はたまた国家にとっての、偉大な殊勲だったと言わなくてはならない。
 今回私たちが拝見したその他の数々の至宝の大部分が、猛火に舐めつくされて烏有に帰した(注・「灰燼に帰す」「烏有に帰す」ともに、火災で燃えてしまうこと)ことは、史上とりかえしのつかない遺憾である。私は、拝見の折の眼福を長く記念するため、ここに、そのときのことを記した次第である。


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百六十五 井上角五郎氏と初桜歌集(下巻62頁)

 人間には偶然とは思えないほど不思議な巡り合わせがある。
 私が明治三十一(1898)年に麹町区一番町五十五番地に住居を定めた(原文「卜居(ぼっきょ)した」)時には、南隣りに米倉一平氏が住んでいたが、その後何年かたって、慶應義塾の同級生だった井上角五郎氏が引っ越してきて門を並べて住まうことになった。
 私が井上氏と慶應義塾に在学したのは明治十四(1881)年から十五年までの一年間で、氏は私の親友の渡邊治とともにクラスの中の二駿足(注・ふたりの秀才)だった。
 十五年に私は、渡邊とともに卒業して時事新報の記者になり、井上氏は一時、福澤家の家庭教師になっていたが、ほどなく朝鮮に出張し、朴泳孝、金玉均らとともに京城の政治舞台で活躍した。同時に、時事新報の通信員としても明治二十一(1888)年ごろまで大いに手腕をふるった。
 その後、氏は衆議院議員になり、最後には北海道炭鉱会社社長まで出世したが、私の隣家に越してきたのは、おそらく同社の社長時代だったと思う。
 井上氏といえば、口さがない京童(注・噂好きな人のことをさす)が、蟹甲将軍、などと言いはやしたほどで、鉄骨銅心の木強漢(注・無骨で一徹な人)かと思いきや、明晰な頭脳の持ち主である。いつのまにか和歌を吟詠し、自作の百首を集めて「初桜」という題名の歌集を作ったから、と言って、大正元(1912)年八月、私に一本寄贈してくれた。そして、同じ月の二十八日には、わが紅蓮軒にやってきて、その歌集を出版した由来について話された。

 「僕は一昨年、ある結婚披露宴の席で、高木兼寛氏とともに祝賀の席上演説をしたが、井上通泰氏が同席のある人に、井上の演説は自然と歌になっている、もしその一部を取って三十一文字に綴ったら、全部歌になるだろうと言っていたと聞いた。その後、目の治療のために同氏を訪問したついでに、このことを確かめたところ、いかにもそのとおりだと答えられたうえに、さかんに入門をすすめられた。また、御歌所の遠山英一氏を師にして学ぶのがいいだろうといって、その後遠山氏を紹介されたので、昨年の四月十日から詠歌を始めて、今日までに、およそ百六十首を詠んだ。そこで、この中から百首を選んで、今年の議員選挙のときこれを出版し選挙区民に配った次第である。歌はまず遠山氏が加筆し、さらに井上氏の意見をきき、両氏の熱心な指導によって、あの「初桜」の出版に至った。このほど井上氏を訪問したところ、先帝の崩御について氏が詠み出た十首の歌を示された。そして、この歌を見たままの感じを歌にせよ、と言われたので、次の一首を即吟した。すると氏は、そのままで申し分ないと非常に称賛してくれた。それは次の歌である。

   月見るも虫の音聞くも此秋は ただあはれをぞますばかりなる
 

 井上氏の談話は以上のようなものだった。私は井上氏が帰ったあとに、すぐに初桜集をひもといて一気にこれを読み終えた。井上、遠山両人の添削が少しばかり親切すぎたようで、どれもが歌人の調子になっていて率直な井上氏の面目が現れていないような気もしたが、そのなかに、

    福澤先生の嘗て(注・かつて)給ひし消息文を見て
   いくたびも読まんとしてはためらへぬ 落つる涙にぬれもするかと

の一首などは、問題が問題だけに、作者の真情をうかがうことができるものだった。
 そこで私は「初桜歌集を読みて」と題して所見を述べた一文をしたため、末尾に次のような腰折(注・自分の歌を謙遜して言う表現)を添えて、井上氏の一粲を博した(注・いっさんをはくした。お笑い種にしてもらった)。

   まなびやに机ならべし友と又 門をならべて住むが嬉しさ

   思ひきや門を並べて住む友の またの言の葉の友ならんとは

   言の葉の道に匂へる初ざくら 奥ある花のさかりまたるる

 もともと井上氏が朝鮮入りしたのは、福澤先生が西洋文明を日本に移入して人民の叡智を開発しようとした運動と同じことを、朝鮮にも広げ、半島人民の利益を増進しようとする使命を帯びたものだった。
 前後数年間にわたって井上氏が試みた数々の事業の中で、もっともめざましかったのは、明治十九(1886)年一月に発行した漢城周報に、漢文と、朝鮮のハングル(原文「諺文(おんもん)」)を混合した文体を使用したことだろう。
 朝鮮には、むかしから、漢文、諺文(注・ハングル)、吏文(注・朝鮮の外交文書の文体)の三種類があったが、そのままでは読みにくく、また使いにくかった。新聞用の文として広く民衆に普及させるにはこれまで非常に不便だったので、漢文とハングルを結びつけて、日本の、漢文かなまじり文と同じような文体を工夫して、その文法書までも作成したので、この文体は、それ以降朝鮮で一般にも流行し、政府の法令でも使用するようになったそうだ。
 福澤先生も、生前にその話をきいて、たいそう喜ばれたそうで、このことは井上氏の功績として長く半島の文化史に残るべきものであろう。


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百六十四  明治天皇御宸翰(下)(下巻59頁)

(注・163「明治天皇御宸翰(上)からの続き)

 藤波言忠子爵は明治天皇陛下の御学友として御側近くに奉仕し、引き続き宮内省の要職を歴任されたから、陛下の御行実についてはもっともよく知るひとりで数々の思い出話がある。そのなかには次のようなものもあった。(旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字にあらためた)

「明治天皇陛下の御在世中、重臣大官より、しばしば御詠の御下賜を願い出たこともあったが、さる場合にはただうち笑ませらるるのみで、かつて御筆を執り給わず、先年高輪なる後藤象二郎(原文「象次郎」)伯邸の御臨幸のとき、庭前の池殿に御着席あり、月に対して、夜更くるまで御機嫌斜めならざりしかば(注・ごきげんよろしかったので)、後藤伯は何か御染筆を願わんとて、自分にも御執奏を依頼せられたから、侍座の人々ともども御勧め申し上げたが、ただうち笑ませらるるのみ、御当座(注・歌会の題に即席で作った歌)もすでに御出来になっていたようだが、ついに御筆を執らせられなかった。自分は今や御記(注・「明治天皇紀」)編纂の事にあずかっているから、なるべく御遺蹟を探究して拝見もし撮影もする考えであるが、小松宮彰仁親王家には、御直筆の会津攻めの感状を下し給わったということであり、また有栖川家にも何か御宸筆があるだうと拝察すれば、追って参殿して、その実否を伺い定めんと思って居る。」

 聞くところによると、山県有朋公爵は、明治天皇陛下の御宸翰を得ようとして、その機会を待ち望んでいたが、御生前にはそれを果たすことができなかったので、崩御後に御学問所を整理したときに、諸官省からの奏請(注・天子に願い出ること)書類のの状袋(注・封筒)の裏に御製(注・ぎょせい。天皇が作った詩歌)を書かれた草稿があったということを聞き、せめてそれでも拝領したいと皇后陛下のちの昭憲皇太后に願い出た。
 皇后陛下は、さらに思し召すところがあったようで、山県がそれほどまでに熱望するというなら、毎年の勅題の御短冊の中から一枚を分け与えようと仰せられたそうだ。しかし山県公爵は、勅題御製の全部が揃っている中から一枚を拝領するのはあまりに畏れ多いことだとして、結局拝辞したそうである。よって、天皇陛下から臣下に給わった宸翰は、前条に記した藤波子爵のもの以外はおそらく皆無であろうと思う。
 また子爵の談話の中には次のような一節もあった。(注・旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字にあらためた)

 「明治の初年、自分は陛下に供奉して東京に出てきたが、陛下はそのころなお御髪を垂れて緋の袴を御着遊ばされた。しかるに同五年九月、九州御巡幸を機として、はじめて西洋服を御着用あり、大西郷(注・西郷隆盛)の注意で、実際軍隊を御統率遊ばさるべく、御教育申し上げんとて、あるとき習志野の原に御臨幸を仰ぎ、天幕の中に御露営を請いたる折しも、大雨降り来たって、御座所に雨漏りの懸念さえあったので、大西郷は例の率直な態度で、天幕の幕間より御座所を覗き込み、「いかがでごあります」と御機嫌を伺いたるなどの奇談もあった。またそのころは、陛下御教育のため、宮中に侍補という者を置き、土方久元、吉井友実、佐々木高行らが一等侍補、元田(注・永孚ながざね)、高崎(注・正風)、米田(注・虎雄)、鍋島(注・直彬)の諸氏が二等侍補で、もっぱら匡補(注・きょうほ。非を正し、及ばないところを補う)の任に当たられたが、中にも佐々木侯は真摯剛直の人であるから、奏上の事を御採用なき間は、断じて御前を退かぬというありさまで、まことに古忠臣に恥じざるのおもむきがあった。しかるに侍補の権力があまりに増大してきたので、内閣においても大いに考慮するところあり、ついにこれを廃するに至ったが、その後副島種臣、加藤弘之、西周、西村茂樹、本居豊穎(注・とよかい)らの和漢洋の諸学者が、陛下の左右に参候して侍講侍読を怠らず、あるとき西周が西洋諸国演説のことを奏上して、御前において演説の仕方を演じたるなどの奇談もあった。これら名臣賢士の啓発は、叡聖文武なる陛下の御天性と相まって、古今に冠絶する御盛業を樹てさせ給うに至ったのである。」
(注・侍補の人員については、以下が正しい。元田永孚の提議によって西南戦争後の行財政改革の一環として発足した。一等侍補は徳大寺実則(宮内卿兼務)、吉井友実、土方久元、二等侍補は元田永孚(侍講兼務)、高崎正風、三等侍補は米田虎雄、鍋島直彬、山口正定の計
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人が任じられ、11月に建野郷三が三等侍補、翌明治11年(1878年)3月には佐々木高行が一等侍補に追加され全部で10人となった。)

 私が、藤波子爵から以上の明治天皇の御宸翰、御事蹟に関する談話を聴聞した飯倉藤波邸の客間は和洋折衷で、床の右端に高く明治天皇の御肖像を掲げてあった、その御肖像は毎度拝見するお姿と違い、正面から竜顔(注・天皇の顔)を写されたもので、おそらくは御晩年の尊影であろうと思われる。鬚髯(注・しゅぜん。あごひげと頬ひげ)豊かで、御威厳がますます崇高に拝されたので子爵に尋ねてみると、この御肖像は自分が特に写生させて、何度かの修正を加えて自分がよいと思うまでに仕上げたものなので、世間に類例がない唯一の御尊影であるということであった。


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百六十三  明治天皇御宸翰(上)(下巻56頁)


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 明治天皇陛下は、御書道についてはふだんからお考えががあったようで、あまり多くの御宸翰(注・天皇の直筆の文書)を残されることがなかった。
 私は明治四十四(1911)年、大正天皇陛下がまだ皇太子にましまして北海道を御見学になったとき、その下検分のために王子製紙会社の苫小牧工場に来臨された子爵藤波言忠氏と一晩ゆるゆると清談を交わした。そのときに子爵が明治天皇陛下から特別に御短冊を賜ったときのことをきかせてもらい、いつかそれを見せていただく約束をした。
 その後子爵は明治天皇御記(注・明治天皇紀」のこと)編纂事業に関与し、大正六(1917)年四月七日、向島の水戸邸を訪問され、かの「花くはし」の御短冊(注・明治8年に徳川昭武邸を訪問したときの「花くはし桜もあれどこの宿のよよの心を我はとひけり」の短冊。116「明治大帝御製」を参照のこと。)を拝見して、宸筆であることは間違いないだけでなく、特にすばらしい出来栄えのものだと讃嘆された。
  その翌日の午後、私は麻布飯倉の子爵邸を訪問し、以前からの約束もあるのでご所蔵の御宸筆を拝見したいと申し入れたところ、子爵は非常に気の毒がり、御宸筆は万一の危険をおそれて他の安全な倉庫に預けてあるので今日お見せすることができないということだった。しかし子爵は、この御宸筆を賜ったいきさつをさらに詳しく話してくださったので、すこし時間的には先になるが、その話の大要をここに披露することにしよう。(注・旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字にあらためた)
 「自分は広橋胤安の子で、祖父を広橋大納言光成といったが、やや長じて藤波家を相続することになり、明治元年、賢所付きとして京都より東京に移り、同六年明治天皇の御学友に召し出され、爾来、宮内省の諸職に歴任して、ことのほか御寵遇を蒙り、御内儀にも出入りする身分となった。かつて聞くところによれば、亡父胤安は有栖川流の書道を究め、孝明天皇の御命により有栖川幟仁(注・たかひと)親王が明治天皇の御書道教育の任に当たられたころ、父は親王の仰せを受けて、明治天皇の御手を取りて、以呂波を御手ほどき申し上げたことがあるというので、あるとき自分は陛下に対して、このことを伺い出でたるに、朕は自らこれを記憶せざれども、中山一位局(注・明治天皇の生母、中川慶子)などより、たしかにさることありと聞き伝えていると仰せられたので、明治十年ごろであったが、ある夜陛下が、表御所において御酒宴の席上、御機嫌ことにうるわしかったので、自分は再びこのことを申し出でて、父が以呂波を御手ほどき申し上げたる御縁もあれば、何にても一筆書き下し賜われかしと願い上げたるところが、陛下は暫時御考え遊ばされたのち、はや御製のできあがりたりとおぼしく、さらば書きて遣わすべしと仰せられたので、とりあえず女官に短冊を乞いしに、これを預かる者が、既に御局に下がったというので、やむなく皇后陛下の御座所にまかり出で、一枚の短冊を拝領して、有り合う硯箱とともに、陛下の御前に差し出せば、陛下は筆取り上げて、左の御製を物し賜うた。

   かけ渡す板間も広き橋の上に 色あらはして咲ける藤波

と、広橋と藤波とを一首の歌に詠み込ませ給うたのは、自分の身に余る光栄とて、ありがたく御短冊を頂戴して、大切に秘蔵しおる次第であるが、このほど、水戸徳川家に賜った御短冊を拝見すれば、彼はまた格別の御出来で、墨黒々と立派に御したためあり、ことに桜という字など、畏れながら、もっとも見事な御出来なるのみか、歌も徳川家にとりてはたとえ難なき光栄で、他に比類あるべしとも思われず、自分拝領の短冊は、御即興にて渡らせらるれば、墨色も薄く、水戸家のとはいささか相違するところがある。自分が拝見した陛下の御宸翰にては、水戸家に賜った御短冊が、畏れながら、もっとも優秀なるものと拝察し奉る。また陛下は御思し召しあって、多くの宸翰を留めさせられず、平常国風の御詠は、諸省より奏上の状袋裏に御下書き遊ばされたのを、税所(注・税所敦子)、小池(注・小池道子)など、和歌に堪能なる女官に拝写せしめ終われば、その草稿を御前にて寸裂するを常とし、年々の新年の勅題御製、および招魂社の勅額は、無論御宸筆であるが、臣下に賜ったものは、三条家に御短冊一枚あり、岩倉家には明治三年、島津、毛利の一致協同を、岩倉具視公に取り計らわしめんとの思し召しを伝えたる宸翰あり、これは同時に島津、毛利両家へも勅諚ありしものだが、御宸筆はただ岩倉家の分のみである。このほか同家には三回御臨幸があったので、その中にいつか庭前の景色を詠み出で給うた御短冊がある。このほかには中山一位局に賜った御短冊が一枚あり、また徳大寺(注・実則さねつね)公が御筆の大字を所蔵せらるるやに聞き及ぶが、自分はいまだ拝見していない、その他には自分が拝領したのと、水戸家に賜った御短冊のほか、御宸筆は絶無といってもよろしかろうと思う。」(注・次ページにつづく)


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百六十二  明治大帝の御性行(下巻52頁)

 明治大帝陛下の崩御から御大葬までは、新聞の記事は言うに及ばず、人が二人、三人寄ると触わるとこの話で持ち切りになったものだ。しかし時がたてばこの話も消え失せてしまい語り継ぐ者もいなくなってしまうと思うので、当時私が耳にした二、三の興味深い話を書き留めておくことにしよう。(注・以下、旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字にあらため、一部の漢字をひらがなにした)

子爵、石黒忠悳氏の談話。

「大帝陛下が日清戦役中、広島の行在所(注・あんざいしょ。天皇の外出時の仮宮)に在せしとき、十畳敷きの二室にて軍務を聞き召され、隣室が御寝室となっていて、あまりに端近く外間の物音が騒々しいので、事務官らが心配のあまり、あるとき御座所と離隔するため、新たに板塀を造って置いたところ、陛下はこれを御覧みそなわして、元のままにて苦しからねば、塀は取り払ったが宜いとの御沙汰であったから、事務官は仰せ畏みて、早速その塀を取り払ったが、由なきことをしでかして、なんとも申し訳なき次第なりと、恐懼措くところを知らざりしに、その夕刻、何方よりか献上の鮎を、供御の余りなりとて、この塀を造りたる事務官に賜わりければ、事務官は案に相違して、はじめて安堵の思いをなしたりという。これを伝え聞いた人々は、陛下の大御心の隅々までも行きわたらせられて、臣下に対する思いやりの深きに、感泣せざる者はなかった。」
 

御歌所の大口鯛二氏から直接きいた話。
「陛下は宮中において、一度定めたること、一度用いたるものは、すべてこれを変更することを好ませられず、たとえば御膳部にても、時候のものは毎年先例どおりにして、さらに新しきものを差加うるを許さず、また宮中の御召使は、本人より願い出づるのほか、一切罷免の御沙汰がなかったが、陛下が政務上必要のほか、容易に宮城を出でさせられなかったのも、また皆、この変更を好ませられぬ御性格によるものであろう。しかして唯一の御楽しみは、和歌を詠じ給うことで、この最も多き時は、一日に百六十首にのぼりたることあり、あるとき宮内大臣田中光顕伯が、御歌所に来たりて、陛下よりその日御下付になった御製を拝見せしに、やはり百首以上に達していたので、かつて聞き及びたるとおりなりとて、大いに驚かれたことがあった。かく御多作のため、高崎御歌所長も即座に拝覧することあたわず、時経て遅れ馳せに拝見の分を差し出すものが多かった。そのころ御製六万首にのぼりたりといい、のちまた、七万首にのぼりたと聞きたるに、今度ある新聞には、九万首の多きにのぼれりと記したるものあり、事実如何は知られざれとも、とにかく日本開闢以来、一人にしてかくのごとき多数の和歌を詠み出でられた事例なく、御歴代においても、天皇歌を詠じ給えば、皇后に御詠なく、皇后和歌を嗜ませ給えば、天皇に御製なきが多く、明治大帝のごとく、皇后陛下とともに国風に御堪能なりしは、実に前代未聞である云々」

 

また、ある宮内官の話。
「大帝陛下の御晩年、ある者より熱帯地方の果物マンゴスチンを献上せしに、陛下はその形を愛でさせられ、中味をえぐり抜きて、外部を陰干とし、やがて固く干しあがりたるところを、漆にて塗りつぶし、みごとに蒔絵して刻みたばこ入れを作らせられ、のち、これを侍臣に賜ったことがあった。ところでその後、前例にならい、大きな西瓜をえぐり抜きて、陰干となさんとて、御学問所のひさし先に吊るし置かれしに、おりからの霖雨にて、その西瓜が腐敗せしものと見え、陛下が縁先を御運動の時、御沓の響きにて、その西瓜が地上に落ち、めちゃめちゃに砕け散ったのを、御覧になった陛下は、平常あまり笑い声などを発し給わぬのに、このときばかりはカラカラと笑わせられ、幾回も思い出しては、笑い止め給わざりとなり。」
 

御歌所長高崎正風男爵から直接きいた話だという、ある人の話。
 「明治十年ごろ、自分は岩倉右大臣に申し出でて、明治大帝御教導のため、夜話ということを始め、副島(注・種臣)、吉井(注・友実)、土方(注・久元)その他、時の老臣を御前にして、夜話の会を催すこととした。その因由いわれは、人には五倫(注・「孟子」の守るべき五つの道としての、君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の親)あれど、天皇陛下だけは四倫なりというのは、陛下には朋友というものがないからである。ところで今やその欠陥を補うがため、陛下の御前に老臣を集め、畏れながら友達同士のごとき気持ちをもって、夜話会を始めた次第であるが、陛下が御座に着かせらるるや、いずれもその御威光に打たれて、老臣共もなんとなく打ち解けることができないので、つい一、二回で中止してしまった。そのとき岩倉右大臣は高崎男に向かって、君は非常に心配するようだが、陛下は大器晩成の御性質で、やがて必ず御名君とならせらるるから、永い眼で見ておられよと言われたそうで、高崎男はその後岩倉公のこのひとことを想い起こして、公の眼識の非凡なるを感嘆しておられたという。」



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 百六十一   

明治天皇崩御前(下巻48頁)

 明治四十五(1912)年七月二十日午後、新聞号外が聖上陛下の御病状を報道した。その記事には「去る三十七年末より、陛下には糖尿病に罹らせられ、三十九年一月より更に腎臓炎を併発、岡(注・玄卿)侍医等、御療養に手尽し居りしが、去る十七日より御容体宜しからず、今日に至りて、四十度五分御発熱あり、一同驚愕、三浦(注・謹之助)、青山(注・胤通)両博士をして拝診せしめしに、御病状は尿毒症なり」とあり、日本国民は初めてその報道を耳にしたその日から、同三十日早朝の「聖上陛下には、本日午前零時四十二分崩御せらる」という新聞号外を見るまでの十日間、一同憂愁に満ちて食事も喉を通らず物も手につかず、御容体書の号外が出るたびに胸をどきどきさせながらその御経過を懸念した。全国いたるところで神社仏閣に祈誓をしたり、宮城前で参集したりしてただたた御平癒を祈願するなど、見る者も聞く者も涙ぐましい光景を展開したのである。
 私はそのころに時々来宅された宮内省侍医の鈴木愛之助氏から陛下の御容体を伝聞していたが、二十六日午後の氏の話は次のようなものだった(注・文体を現代文になおす)。 
「聖上陛下の糖尿病と腎臓病は、四、五年来の慢性で、毎日大小便の分析を行わない日はなかったが、去る十九日にはどうしたことか、終日便の御下付がなかった。これは、その日に御便通がなかったためで、その晩からいよいよ御重患となられたのである。聞くところによると、日露戦争間際には、陛下の御心配は非常なものだったものとみえ、戦争がまさに起きそうになった十日ほど前から、御食事がほとんど御平常の三分の一に減ったために、侍医は御病気ではないかと、しきりに案じたが、女官から御病気ではないとの忠告があった。これは、国事に御心配の結果で、国交断絶の当日には、終日まったく御食事なさらず、侍医局でも非常に御案じ申し上げた。事が決定した翌日からは、もはや御安堵遊ばされたのか、御食事も元どおりになったが、腎臓病は非常な心配の結果で、また心配によって、その病勢が増す例が多いので、日露戦争は陛下の御健康の上に、非常に影響を及ぼしたものと思われる。今回の御病源も、おそらくそのときに萌したものだと思われ、まことに恐れ入ることなのだ云々」

私は、この話を拝聞し、いよいよ恐懼したものだったが、同二十八日に鈴木氏が来宅し、今朝、御所にて玉体の御模様を拝したとき、御容体が非常に険悪であったというのを聞き、早くも御大漸(注・帝王の病気がしだいに重くなること)なのかと失望するあまり、

  明らけく治め給へる大御代も 今がかぎりとなりやしぬらん

と口ずさみ、ただ痛嘆するほかなかった。

 

崩御後の感慟(下巻50頁)

 七月三十一日の新聞紙上は聖上御崩御に関する記事で満ちていた。その一方で改元について、公羊伝に君子大居正とあり、また易経にも大享以正天之道也とあることから、本日より大正と改元される、という記事もあった。
 陛下の盛徳大業は御一代を通じて数限りないので、今後、御大葬まではこれに関するさまざまな記事が続くだろうが、人のなすことの大小というものは世間に及ぼす反響の大小によって判断することができるものだ。池に小石を投げ込めば、その波動はわずかに一部分にとどまるが、もし大石を投げ込めば、ただ池の全面が動揺するだけでなく波は何度も繰り返し長いこと停止することはない。
 今回の御事のような、わが国においてほとんど比類のない大変な事態では、ひとびとの心に及ぼす波動の大きさは多くを語る必要もないことなのである。
 先帝は御幸運で、御聖寿(注・ご寿命)にも恵まれ(原文「万々歳」)私などは、明治の年号のあいだに一生を送ることになるのだろうと思っていたのに、今や明治は過去となってここに大正の年号を迎えたのである。古歌に、

   さくら色に染めし袂の惜しければ 衣更へうき今日にぞありける

とあるように、私たちは、明治の古い衣を脱ぎ捨てて大正の新しい服に着替えるのをとても名残惜しく感じたものである。このような感覚は、実際にあのときに出くわした人でなければ感じることができないものだと思う。
 大帝崩御の数日後に山県含雪公爵を訪問した友人の話では、ふだんは気丈な老公も今度は非常に落胆し、伊藤などは早く死んで、今日の悲痛を知らなかったのはしあわせ者であると言われたという。御大喪の歌は、普段の公爵に似合わず、

   ましまししそのおもかげは老の身の 夢にうつつにはなれざりけり

の一首だけだったということである。
 


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百六十  高野山霊宝館の発端(下巻45頁)

 私は明治四十五(1912)年から趣味に生きる人間になったので、美術、工芸、文学に関する各種の事業において、みずから進み出たり人から推されたりして奔走することになったそのようなもののひとつに、同年の六月から発足して約十年後にようやく完成した高野山霊宝館の建設事業がある。
 そもそもこの事業は高野鉄道の発起人である根津嘉一郎氏らが、この鉄道を繁昌させる方策として高野山に宝物館を設けようと提唱したことに始まる。ひとつには一般人に観覧の機会を与えようということと、もうひとつには火災の危険を防ぐ必要があると提唱したのである。弘法大師の信仰者であり、また同山の宝物の真価を知り尽くしていた益田孝、朝吹英二、高田慎蔵の諸氏が賛成し、彼らが私に趣意書の起草を非常に熱心に依頼されたので、次のような大要の一文を作りその求めに応じることになった。これが高野山霊宝館の建設のはじまりだった。

   高野山霊宝館建設趣意書(注・旧字を新字にあらためたほかは原文通り、なお、「萬象録」明治45年6月29日にも同趣意書が掲載されているが、文言が微妙に違っている。後者は、たとえば「本邦名刹はと問ふ者あれば人先づ指を高野山に屈せん」で始まっている)
 

人あり若し本邦の名刹を問ふ者あらば、必ず先づ指を高野山に屈せん、此一事開山大師の徳業が、如何に当山に集中せるやを示すと同時に、之を永遠に保存するの必要も、亦自づから明白ならん、而して此保存事業中、即今一日も捨て置く可からざるものは、高野山霊宝館の設立即ち是れなり、由来当山の宝物は、大師の唐朝より請来したる書画、法器、歴代聖僧の手に成れる仏体、仏具、各種の図像、詔勅、官符、衣裳、刀剣、凡百器具書類に至るまで、歴史に於て信拠すべく、法儀に於て尊重すべく、美術に於て鑑賞すべき者にして、既に国宝に指定せられたる者、百数十点の多きに及べりと云う。然るに此等の宝物は、総本山たる金剛峯寺の所管に属する一部分の外、或は各寺院、或は各個人の名義に属して、統一集中の道を得ず、第一火災、第二湿汚の危険あるのみならず、其取扱の不完全なるが為め、毀壊相継ぎ、遂に宝物たるの真価を失ふの恐なしとせず、聞くが如くんば高野鉄道は、早晩其工程を進めて、汽車の山頂に往来するに至るも、亦応さに(注・またまさに)遠からざるべしと。果して然らば、山上の人煙更に加り、参詣の群衆更に倍する事必然にして、此際因て生ずべき不慮の災難を防ぎ、因て要すべき観覧の便宜を謀り、茲に高野山宝物館を当山内に設立するは、豈に焦眉の急事業にあらずや。是れ啻(注・ただ)に祈願報恩の為めのみにあらず、今後永く大師以下諸名僧の遺烈を仰ぎ、又平安朝文献の余影を留め、本邦歴史文学美術の参考に資する所以にして、其関係する所重大なりと云べし。大方の諸賢、冀(注・こいねがわ)くは某等の微志を賛助せられ、速に浄財を喜捨して此発願を成就せしめ給はんことを、熱願渇望の至りに堪へず、某等敬白。
 明治四十五年六月吉祥日


 この趣旨については、高野山金剛峰寺の管長、密門宥範大僧正らももちろん大賛成で、宝城院住職の佐伯宥純師を全権委員に任命し、いよいよ資金勧化にとりかからせた。佐伯師は、僧侶の中では稀に見る敏腕家で、しかも非常に熱意をもってこれに当たられたので、事業は非常に進行した。
 ところが大正七(1919)年七月に上京のおり、腸チフスにかかり突然遷化されたので、ここでいったん頓挫することになった。その時、馬越恭平翁は非常な義侠心を発揮し、この事業を完成させなければ死んだ佐伯師に対して合わす顔がないとして、私と野崎広太氏を補佐役にして、三人が協力して資金を募集することになった。
 当時は好況な時代だったので、諸大家の蔵器入札会が頻繁に行われたのを幸いに、その入札に関係した札元などを説得して、その手数料の一部を何度も喜捨に回してもらった。そしてとうとう十二万円ほどの資金を集めることに成功したので、今回は、最初から縁故が深かった益田孝、朝吹英二、馬越恭平、根津嘉一郎、原富太郎(注・三渓)、野崎広太と私の七名が、不足分を各自七千円ほど出し合って建設費の十七万円とし、さらに高野山から補給された十万円余りと合わせて霊宝館建設に着手した。
 木材はすべて高野山から伐り出したため費用を大きく減らすことができ、結果としては五十万円程度で霊宝館ができ上ったのであった。
 なお、佐伯師遷化のあとは、金剛峯寺執事の藤村密幢師のちに大僧正大覚寺門跡がかわって尽力し、大正十(1921)年五月十五日に、ついに開館式を挙行することができた。この開館前後の様子についてはまた後段において叙述することにしたい。(注・261「高野山霊宝館落成式」を参照のこと)
 


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百五十九 女流常磐津(下巻41頁)(注・原文では「常盤津」となっているが、ここでは以下「常磐津」に統一する)

 明治末期以降の東京の花柳界において各種の音曲芸能がいちばん発達した場所は、誰がなんと言おうと新橋である。
 新橋には芸人の頭数が多く、またやってくる客層がよいだけでなく、そこで指導的立場にいる人たちが芸道を奨励することが土地の繁昌の良策であるとして、最近ではその機関として演舞場(注・新橋演舞場)を設立するなど、各種の施設が、比較的よその土地よりも完備しているのである。清元、常磐津、長唄などのすぐれた女流芸人が揃っている(原文「顔揃い」)という点で、新橋は東京一、つまり日本一だと言わなくてはなるまい。
 新橋に清元を発展させたのは、前項(注・139「清元師匠お若」を参照のこと)でも述べたように、清元お若の力だった。それに対し常磐津を今日のように盛んにさせたのは、老妓、お粂の熱心な努力によるところが多いということだ。
 もちろん、お粂ひとりの努力だけではなく、先代の常磐津文字兵衛が、長年、親切に稽古をつけ、今の文字兵衛もそれを熱心に継続し続けたことが、年がたつごとに大きく報いられたということは言うまでもないことであろう。
 それより以前は、新橋の女流芸人では清元が一番の粒ぞろいで、常磐津よりもずっと上を行っていた。木挽町の田中家を会場としていた若葉会は、東京の紳士連中を聴衆に毎月一回の演奏会を催していた。
 これは、お若仕込みの節回しで、聴衆の人気は長く続き、会を重ねること二百回以上になったというだけで、このときの隆盛をうかがうことができる。
 しかし、大正十二(1923)年の地震火災で田中家が焼失してしまったあと、ほどなく同家は再興したにもかかわらず、あとに続く者が出てこなかったために、若葉会もいつの間にか解散してしまった。

   また、お若も病気がちで稽古を辞めることになってしまい、清元はだんだんと衰えを見せるようになった。
 それと反対に常磐津の勢いが大きくなり、例のお粂の努力がそろそろ効果を現わし始め、長年押されぎみだった清元に対抗しようとする一致協力の努力も加わり、唄には今栄、小助、駒代、綾治など、三味線には小春、若龍、稲奴など、いずれも女流芸人として一騎当千の面々が、それぞれの特長もって陣頭に立つようになった。
 築地新喜楽を会場に毎月一回開催する常盤会は、いまでは百数十回を重ね、常磐津全盛の観を見せるようになった。
 その常磐津連中は、先輩が後輩のことをよく引き立て、さかんに流派の発達につとめているから続々と後継者も現れてくるのではないかと思う。
 しかし今の花柳界の風潮は、時代の流行の影響で、茶屋、料理屋にダンス場を新設するところさえもある状況である。指導者がよほどしっかりと決心して一致団結して流派を守っていかなければ、大きな濁流に押し流されてせっかくの女流芸術もあとが続かなくなるかもしれない。
 私は、今の女流常磐津の先輩たちが、お粂姐さんらの遺志をしっかり継いで、せっかく新橋に成長した江戸伝来の芸術の花を衰えさせることがないよう一層努力することを切に希望している。

  

日本の女優(下巻43ページ)


 日本には昔、阿国(原文「お国」=おくに)歌舞伎といって、女優もいたのである。しかし徳川時代を通じて東西の劇場には、いわゆる女形の男優が跋扈(注・ばっこ。のさばること)し女優の役目を占領した。

 瀬川菊之丞だの、岩井半四郎だの、最近では中村歌右衛門、尾上梅幸などという名優を輩出したためか、今日に至るまで西洋諸国のような女優の発達が見られないのは非常に遺憾なことである。
 ただ明治中期には、市川九女八という女優がいた。川越の郷士である横田彦八の娘で、弘化元(1845)年に神田豊島町に生まれた。生まれつき踊りが好きで、六、七歳のときから坂東三枝八の弟子になり、のちには岩井半四郎に入門して岩井九女八(注・粂八)と名乗った。
 また市川団十郎の芸風を学び、しまいにはその門弟にもなり市川升之助(注・升之丞か?)と名乗っていたこともある。いわゆる「団洲張り」の勧進帳を演じ、一時は女団洲と呼ばれるに至った。(注・団洲とは団十郎の号)
 私も何度か、彼女の山姥、鷺娘、保名などを見物したが、男女の役をどちらもこなし、なにをやってもうまかった。
 六、七歳から七十歳まで、ずっと舞台の人であり続けたが、大正二(1913)年七月に浅草みくに座で保名と山姥を毎日三回ずつ繰り返していたときに、ついには舞台の上で力尽きたということで、これなども明治の演劇界における女優第一人者たるを示している。
 なお彼女の下には演技力抜群の女優がおおぜいいたが、なかでも米花(注・べいか。岩井米花)というのは、男役をやるときに驚くような技量を示した。九女八や米花は、長い間、神田の三崎座でかなりの一座を形成していた。しかしその後は彼女らに匹敵するような女優が出なかった。
 明治末から大正にかけては松井須磨子が、やや将来のある女優と思われて、カルメンやカチューシャなどの翻訳もので独特の気迫あふれる芸風を見せていたものの、惜しいことに若死にしてしまい、その熟欄期を見ることができなかった。(注・カチューシャとは、トルストイ原作「復活」の主人公名。劇中歌「カチューシャの唄」が大流行する)
 また明治の末期に帝国劇場が建設されると、そこで何人かの女優を養成した。その第一期生の中には多少の頭角をあらわした者もあったが、際だった異彩を放つような者をついぞ見受けることがないのはなぜであろうか。それは、日本の劇場には、今でもなお男性の女形が跋扈しているので、それを蹴落とすほどの女優が出現する余地がないからなのだろうか。
 私が生きている間には、日本にはサラ・ベルナールもエレン・テリーも、見ることはできないのかと思うと、まことに残念でならない。女流芸術家たちには、ここで奮起してもらい、あまり遠くない未来に世界的な大女優の二人や三人は出て、わが国の劇場を飾ってほしいものだと思うので、ここにその希望だけでも述べておくことにしよう。


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百五十八  五世清元延寿太夫の生立(下)(下巻37頁)

(注・157・五世清元延寿太夫の生立(上)からの続き)
 

 斎藤家の主婦、お藤は、庄吉の教育についてひそかに心を配っており、高田馬場のような片田舎に長いこと置いておくのは本人のためにならないとして、庄吉は十一歳のころから神田皆川町の親戚のところに預けられることになった。
 ここでいろいろな修業をさせ明治九(1876)年、庄吉が十五歳のときに、そのころ兜町に創立された三井物産会社の小僧として住み込ませることにした。
 当時小僧はひとりだったから庄吉は、三井物産における小僧の家元だといってもよかろうと後年、本人が冗談で言っていたものだ。
 十九歳で、庄吉は三井物産の横浜支店に転勤した。そのため当時支店長だった馬越恭平氏との親密な関係がうまれた。弟の兼次郎が富貴楼の養子になっていて、またそのころの富貴楼には伊藤、井上、大隈をはじめとする高官や紳商の会合が頻繁におこなわれていたので、庄吉もしじゅう富貴楼の家に出入りしていた。
 あるとき、琴の名手だった中能島松声と清元お葉とが、「お菊幸助」を掛け合いで語ったことがあった。あの「白山さんに願かけて」のくだりに来たとき、甲高いほうを中能島が、低いほうを、お葉が唄った。その美声といい節回しといい、得も言われぬ妙味があったのに感じ入り、庄吉自身も清元が大好きになり、このときから清元の門にはいったのである。このときさかんに研鑽したことが、後年に家元になる素地を作ったということである。
 庄吉は二十四歳になるまでの足かけ十年、三井物産会社で奉公していた。そのころ横浜ではドル相場が流行し、多少の山っ気があれば、ほとんど誰でも相場に賭けてみるという状況だった。それで庄吉もたまたまやってみたところ、とんとん拍子で当たりまくり、一時は五、六万の大金を握るまでになった。
 それで奉公しているのが馬鹿馬鹿しくなり、血気盛んな年ごろだったこともあり、それから二十九歳までは、あらん限りの道楽をやり尽くしたそうだ。そのころは、一年に一万円も使えば大尽風を吹かすことができた時代だったので、自分の好きな清元お葉や先代梅吉などをひいきにして、彼らを座敷に招いたりもした。
 ある晩、お葉、梅吉などの清元連中を誘って高島町の某楼で遊んだことがあった。そのとき何かのはずみから、お葉が清元家の現状を話し始め借金はあるは、後継者はないはで、このままではどうにもならないので、あなたが養子になってくれませんかと言い出したそうだ。

 一方、庄吉はというと、二十九歳とき「座して食らえば山も空し(原文「山をも尽くす」)」のたとえにもれず、その後すっからかんの一文無しになってしまった。自分は三十までは勝手気ままに遊んでいるが、三十になったら必ず身を立てなければならないと決心していたことをそのときになって思い出した。それが来年には三十になってしまう。ここでなんとか身の振り方を決めなくてはならないと気づいたそのとき、以前お葉から養子にならないかと言われたことを思いした。
 そこで、そのころ浜町の花屋敷に住んでいた清元家を訪ねたところ、お葉はその日、浜町の岡田家の店開きの余興に呼ばれたという。そこで続けて岡田家のほうに押しかけたところ、玄関で客と間違えられてしばらく滑稽な展開となったが、とうとうお葉と梅吉が休んでいるところに乗り込むことができた。
 そこで、いつだったか自分を養子にすると言ってくれたことがあったが、私も持ち金を使い果たしてしまい一文無しになってしまったので、あなたの養子になる気になったので、どうか承知してくれないだろうかと相談した。
 そのときお葉は、しっかりとした女であるところを見せた。亭主の四代目延寿太夫にさえも相談せずに、それはありがたいことだ、でも清元の家には今、三千八百円の借財があることを承知してもらいたい、それから、あなたを養子にもらったら富貴楼から苦情が出るので、あなたは三年間ばかりは富貴楼に出入りしないという決心をしてもらいたいと言ったのだった。

 庄吉はこの条件を承諾した。そのかわり、婿養子にはなりたくないので岡村家に女子がいても、自分の妻は自分で選ばせてほしいと言った。この双方の意見が一致したので、庄吉はいよいよ清元の養子になることが決まったのである。
 さて、清元家に養子ができたということを聞いて、十一人の借金取りが一度にどっと押しかけてきた。そのときお葉夫婦はそれを庄吉に任せて、どこかに身を隠してしまうという始末だった。庄吉は、前から懇意にしていた浜町の待合である弥生の主人から、若干の金子(注・きんす)を借り受けて、借金整理に取り掛かることにした。
 ところが、最初は三千八百円と言っていたのが、だんだん増えて、四千二百円ほどになっていたので、さらに調べてみると、某高利貸しの借金など、初めは五十円だったのが、今では三千円余りになっていたのだった。そのほかは米屋、酒屋といった小口ばかりだったので、その人たちを集めて、全額の二、三割に当たる金額の金を財布ごと彼らの前に投げ出した。そして、まず、これだけを受け取ってほしい、その分配は、よろしく頼むと言った。
 そのやり方が債権者たちの気に入り、みな庄吉のことを信用した。そこで庄吉もさかんに金策に励んだ。返済するたびに若干の割引をしてもらえるようになり、半額くらいの金額で全部の借金を返済することができたのだという。
 こうして岡村家の債鬼を追い払った庄吉は芸道に一意専心精進し、明治三十(1897)年には五世延寿太夫となった。その披露のときに発表された青海波そして柏の若葉の新曲は、今でも清元の曲の中で人気のものになっている。お葉の高弟であるお若を妻にし、清元の至芸が一家に集まり、近世における清元興隆の気運を開くことになったのである。
 


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百五十七  五世清元延寿太夫の生立(上)(下巻34頁)

 私は大正初年に同好者とともに麻布狸穴に清元倶楽部を設け、五世清元延寿太夫を招聘して数年間、清元の直伝を受けたことがある。そのため延寿太夫の人となりや芸風について語るべき多くの材料を持っている。だがここではそれを語る前に、まずはその生い立ちの一端を物語ることにしよう。
 五世清元延寿太夫岡村庄吉は祖父を斎藤彦兵衛、父を萩原平作といった。祖父の斎藤彦兵衛についてはおもしろいエピソードが伝わっている。
 徳川十一代将軍家斉公時代に、三河島に住んで御城付御庭番の親方を勤めていた伊藤三郎兵衛という者が、盆栽好きの将軍から何かの盆栽の御用を仰せつかった。彼はとくに考えもせずにお受けしたのだが、さてこれを手に入れようとすると府下のどこの植木屋を探しても持ち合わせがない。困り果てて切腹してお詫びするほかはないという苦しい状況に追い込まれた日、足をすりこ木にして、ほうぼうを回った帰り道に、飯田橋の植木屋、斎藤彦兵衛の前を通りがかった。手下の者を振り返って「ここにも一軒植木屋があるが、こんなケチくさい植木屋にあの盆栽があるはずもなかろう」と言って通り過ぎようとしたが、その手下の者にいさめられ、では念のためにと斎藤の店に立ち寄った。
 するとそこの主人である彦兵衛は自身が非常な盆栽好きで、いろいろな珍木を集めていたのである。伊藤が血眼になって探していた盆栽も一鉢持っていたので、伊藤の悦びははかり知れなかった。即座にその盆栽を譲り受け、首尾よく将軍家の御用を果たした。そして、その礼の気持ちから、斎藤を幕府御庭番に推挙したのだそうだ。

 斎藤という人もひとかどの器量を持つ人物だったので、ここから出世の糸口をつかみ、非常に裕福になったということである。というのも将軍家斉の豪奢は有名で、毎日のようにお居間の庭を改造させるのである。だから御庭番は夜間に大勢を率いて池を掘り、築山を造り、樹木を植え替え、翌朝までにお庭の景色を完全に一変させるのが常だった。その経費が莫大な分、御庭番の収入もまた莫大だった。しかも毎日のことだったため、一回使用した樹木や石材を再三利用するという方法が取れたので、そのために斎藤家はたちまちのうちに大金持ち(原文「大富限者」)になったのだそうだ。
 実子が三人いたなかで、長男は家を継いで父の名の斎藤彦兵衛を名乗り、次男は亀次郎といって、横浜富貴楼の女主人お倉の亭主になった。三男は、向島の三囲あたりの植木屋萩原家の養子になって、萩原平作となった。それが、五世延寿太夫の実父である。
 さて斎藤彦兵衛は、今話したような幸運から大金持ちになり、高田馬場近くに広大な地所を求めて飯田橋から移転したが、そのとき縁の下に埋めてあった金銀入りの大甕を運ぶことになった。物が物なので、子供達の目に触れさせないようにと配慮して、三人を一時的に倉庫の中に閉じ込めた。しかし子供たちは倉庫の窓から覗いて見ており、甕の中には金貨があることを知った。そのとき、「うちにはあんなにお金があるから、みんなで十分に使おうではないか」と三人で申し合わせたということだ。
 こうして、斎藤家は長男が家を継ぎ、萩原家の養子になった三男の平作は同じく三人の男子を得た。
 さて、五代目菊五郎がこの平作と親しく、ときどき萩原家を訪ねてくる仲だった。そんなとき菊五郎は、植木屋の半纏を身に着け、剪定の刀を持って刈込をしたりするのがうまかったのだそうで、そんな関係から、萩原家が窮乏したときに一番下の息子の菊之助を菊五郎が養子にもらうことになった。そして、次男の兼次郎は、横浜富貴楼の養子になった。

 平作の長男の庄吉、すなわち、のちの五世延寿太夫は少年のころから乱暴だったので、とうとう売れ残りになっていた。萩原家は維新の前後に「軍用金」と称してしばしば浪士たちの強盗にあい、そのころまでには見るかげもない困窮に陥っていた。平作も病没したため、庄吉は、明治元(1868)年七歳のときに伯父である高田馬場の斎藤彦兵衛のところに引き取られ居候になった。
 さて、この伯父彦兵衛の妻は、元猿若町の芝居茶屋である松川屋のお藤といい、昔は一枚看板の美人(注・「一枚絵に描かれたくらいの美人」の意だろう)だったが、庄吉が居候になったころには斎藤家の主婦として家事一切を切りまわしていた。庄吉の目から見ればほとんど鬼婆のようであったが、しかしながら後年振り返ってみると、その思慮深い振る舞いにずいぶん感心するべきところがあったということだ。
 たとえば、我が子には白米の飯を食わせながら、庄吉には他の職人と同じ麦飯を出した。田舎だったので味噌搗きがあったのだが、背が届かない子供のためにわざわざ高下駄を作り、その味噌搗きの仲間に入れさせた。また七歳の子供が運べるくらいの弁当籠を作り植木職人の仕事場に運ばせるなど、預かった子供を厳しく教育する見地からこのような扱いにおよんだのだという。
 そのころ庄吉が通っていた近くの手習師匠が斎藤の家に来て庄吉を養子にくれ、と懇望したとき、お藤はきっぱりとこれを拒否した。私の実子はどうなってもよろしいが、庄吉は預かり子で、一人前に育て上げなくてはならないので、養子など、もってのほかでありますと答えたのを、庄吉は物陰から立ち聞きした。さてはこの鬼婆、心あって自分を酷使していたのかと悟り、はじめてそのありがたさに気付いたということである。


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百五十六  藤田男と大亀香合(下巻30頁)

 大阪の大実業家である藤田伝三郎男爵は、明治四十五(1912)年三月三十日、藤田組の経営する小坂銅山が成功し家運隆々の真っ最中に、その波乱多き七十二年の生涯を終えられた。実業家としての男爵についてはすでに以前に記述したことがある(注・69「藤田伝三郎男」を参照のこと)ので、ここでは美術品鑑賞家そして美術品収蔵家としての男爵について語ってみることにしたい。
 藤田男爵は美術品の鑑賞、収蔵において、明治時代の第一人者であるとは言わないまでも、まさに傑出した一人であることはまちがいない。
 コレクションは多岐にわたって(原文「八宗兼学」)いた。天平時代の品物から宋元の古画、和漢の仏画、古筆、古墨蹟、陶器、銅器、蒔絵、近代の各流の書画にいたるまで、類別的に収集した品数の多さでは全国でも肩を並べる者はないであろう。
 あるときに、私と益田男爵とが藤田男爵に所蔵の宋元の古画を一覧させていただきたいと申し込んだところ、男爵からの答えはご覧には入れるが、ただ、宋、元とだけ言われても困ってしまう、宋元の馬氏とか、夏氏とか、李氏とかと分類して御所望願いたい」と、このように大きく出たので、ふたりとも実に驚いたものだった。
 男爵が私たちにこのような大言を放ったのは、少しばかり相手を見損なっていたからだともいえるが、とにかく、男爵のコレクションがいかに豊富なものだったかを証明するに足る話だろう。
 男爵が大阪の網島邸に宝蔵を建てるとすぐに内部一面には木版を張り合わせ、その間には乾砂を詰め込み、さらに銅板を張り巡らすなど建設の最初の段階から完全に湿気防止をした。この宝蔵が落成したときには私たちに向かって拙者の倉庫は即日名器を入れても差し支えないように構造したと、その苦労談を語られていたものだ。
 男爵は、名器を購入するにあたり一度もその値段をきいたことがなかった。道具屋が品物を持参すると、それを見て、ただいるとかいらないとかと言うだけなので、出入りの道具商はその買いっぷりを喜んで、名品が出てくるや必ず藤田家にそれを持参し、まずはいるかいらないかを確かめた上で、はじめて他家に持ちまわるようになったのだそうだ。
 ところで男爵の道具鑑定においての天狗ぶりは天下無敵で、誰をも眼下に見下すような傾向があった。たまたま上京したときに好事家の道具を鑑賞するようなことがあっても、この品はかなり上手ではあるが、俺の家にはもっと出来のよいものがあるとか、この品は無傷だが、俺の家のに比べたら、少し見劣りするところがあるなどと言い、どんな品物でも俺の家にないものはなく、俺の家のものより好きになるものはないというのが男爵の器物鑑定における建前なのだった。

 そういうわけで、私はいささか小癪にさわる思いもしたものだから、その揚げ句にいたずらっ気を出し、あるとき男爵を牛込矢来町の酒井忠道伯爵邸に案内し、同家の道具の虫干しを拝見させてもらいに連れて行ったことがあった。
 このときに酒井家の書院に陳列されていた品物には、次のようなものがあった。
 茶入では、飛鳥川、橋姫、畠山、国司茄子、木下丸壺、利休鶴首、寺沢丸壺、玉柏、北野肩付、羽室文琳の十点があり、天目には、油滴、虹、夕陽。花入には、青磁吉野山、古胴角木があった。墨蹟には、無準(注・ぶじゅん。牧谿の師、無準禅師)、兀庵(注・ごったん)。絵巻物には、伴大納言、吉備大臣入唐があった。
 このような銘器、名幅の三十六点が、所せましと並んでいたものだから、さすがの男爵も唖然として、世間には「俺が家」以上のコレクターがいることを初めて知ったのであった。また、大阪に住んでいるためふだん大名道具を間近に見る機会がなかったので、自分のコレクションに宋元、あるいは、日本の古画が不備であることを自覚したのだった。
 このときから、この不備を埋めるために急に私などにも依頼が来たので、私の手だけでも、前後、数幅を周旋したし、また男爵が井上侯爵に頼んで深川鹿島家所蔵の夏珪の山水幅を譲り受けたのもこのような動機から出たものだったのである。(注・106にこの経緯の短い説明あり)
 藤田男爵の道具好きについては、ここにもっとも有名なエピソードがある。明治四十五(1912)年の三月末大阪で行われた、生島家蔵器入札のときのことである。
 出品されたものの中に交趾焼の大亀香合があった。この香合は、名物香合番付で昔から大関(注・横綱はなく大関が最高位)の位置を占めているもので、松平直亮伯爵所蔵の不昧公遺愛の同香合と、天下の双璧として知られているものである。それに先立つこと藤田男爵は、道具好きの割には、みずから茶会を催すことがあまりなかったので、適当な名品が揃ったら生前に一度は会心の茶会を催してみたい、ということで、だんだんに器物を集め始めた。そして、あとは交趾の大亀香合さえ手に入れたら、思い通りの道具仕立てができるからといって何度もこれを所望したのだが、生島氏がこれに応じることはなかった。そんなことで、なすすべもなく月日を送るうちに、藤田男爵は大病にかかってしまった。
 生島家蔵器入札の当日は、まさに、男爵の臨終の日だった。男爵は、前々から欲しくてたまらなかった(原文「兼て執心の」)大亀がいよいよ入札市場に出たので、是非ともこれを買おうとしたが、その入札金額が、生島氏の希望額に達していなかったために、親引(注・売立を請け負っている道具商に戻ること)になってしまった。
 そこで藤田家のお出入り道具商であった戸田弥七露朝は、藤田男爵の病床に進み出てその指示を待った。そしてとうとう示談で、当時のレコード破りの九万円で売買の相談がまとまったのであった。

 この吉報のたずさえて戸田が男爵の病床に駆けつけたときは、今や男爵が最期の息を引き取らんとする時だった。耳元で声高に大亀を取りましたから、ご安心なされませと伝えたところ、その声がよく心根に徹したとみえて、男爵はニコリとして安らかに瞑目されたという。
 この一事は、男爵のふだんからの道具への執心が臨終の際までも変わることがなかったことの証拠で、後世にも伝えてゆくべき美談である。藤田家が大正時代において天下屈指の大コレクターになったのは、男爵にこの意気があったからであろう。


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百五十五  井上侯爵と雁取茶碗(下巻26頁)

 井上世外侯爵は明治四十一(1908)年に加賀金沢に遊び、同地の名家の書画、茶器を巡覧された。しかし一度ですべてを見尽くすことができなかったので、同四十五(1912)年五月二十日に京都から金沢に再遊しようということになり、私もその一行に加わることになった。
 金沢に到着してみると、本多(注・政以まさざね)、横山(注・隆俊)の両男爵をはじめ金沢の諸大家が総動員で迎えてくれた。彼らは宝庫を開いて見せてくれたほか、兼六公園の成巽閣に展観のための席を設けて侯爵の臨席を願い出る人もいた。
 特に今回は、加賀出身の三井銀行専務の早川千吉郎氏が案内役(原文「東道」)で、また日本銀行副総裁の高橋是清男爵のちに子爵も一緒になったので、滞在の数日のあいだに名器、名物を、いったいいくつ実見したかわからない。
 世外侯爵もことのほか満足したようだったが、その数々の展観物のなかで侯爵の注意をいちばんひいたのは、能久治氏所蔵の、利休が銘をつけた、長次郎作の茶碗「雁取」(注・東都茶会記には「がんどり」のルビ)だった。

 この茶碗に雁取の名があるのは次のような次第だ。あるときに利休がこの茶碗を芝山監物に寄贈したところ、その返礼として鷹野の雁をつかわした。すると利休が、

  思ひきや大鷹よりも上なれや 焼茶碗めが雁取らんとは

という狂歌を書きつけたものを、また返事として送った。それが一軸になり、この茶碗に付属しているので雁取と呼ばれるのである。
 しかしいつのころからなのか、この雁取の文と茶碗とが離れ離れになってしまった。文のほうは、かなり昔から加賀の本多男爵家にあり、茶碗のほうは京都の某家にあった。
 その茶碗を能氏が買い取った。このとき文と茶碗とは、同じ金沢でわずかの距離(原文「咫尺(しせき)の間」)に接近したのに、ついに対面することはなかった。
 そして本多家蔵器入札の時、その文だけが井上侯爵の手に落ちたのである。そして、例の同情深い老侯爵は、今度の加賀行きに際して、みずからこの文を携え、能久治氏の家で文と茶碗を一緒にして飾り、絶えて久しき両者の対面を遂げさせたのである。
 能氏の驚喜もただごとではなく、老侯爵もまた非常に満足した。そして心中には、いつかは一度この文と茶碗を一緒にしないわけにはいかないという希望を抱かれたことだろう。
 井上侯爵が加賀金沢で、雁取茶碗の文と茶碗を対面させたのが明治四十五(1912)年五月だったが、それからわずか二年半後の大正三(1914)年、能氏は京都において他の蔵器とともにこの茶碗を入札売却に出した(注・5月京都美術倶楽部にて)。しかしその値段が予定に達せず、親引(注・入札者に戻ること)になってしまったのを京都の道具商の林新助氏が調整して古河虎之助男爵に納め、男爵は世外侯爵の八十のお祝いとして、これを老侯爵に呈上(注・さしあげる)することになったのである。

 このときの、古河家(注・古河財閥)の重役だった中島久万吉男爵のちに商工大臣から世外侯爵に送られた書簡には次のような一節がある。(注・旧字を新字になおしたほかは原文通り)
 
(前略)利休雁取の文は御縁有之候て、夙(つと)に侯爵閣下の御手に帰し、文と茶碗とは相添ふべくして、竟(つい)に相添ふ事を得ず、然るに先年侯爵加州御行の砌(みぎり)、親ら彼の文を御携帯ありて能家に於て絶えて久しき両者の対面を遂げしめられ候段、侯爵閣下御風流の御襟懐、当時茶界の一佳話として伝へられ候。其後内田山八窓庵の大茶の湯に於て、文と茶碗との再会有之候由、伝承仕候処、爾来茶碗は復た加北の地に去りて、再会期し難く、真個蘇武朔地の歎茶界終天の恨事とこそ可申候、惟ふに両者は竟に久しく相離るべきに非ず、実に箒庵高橋義雄氏の申され候如く、茶碗が文を取るか、将又文が茶碗を取るか、茶道の結ぶの神の胸秘の程、偲ばれ候次第に有之候。然る所、其結ぶの神の手引なれや、今回故ありて彼の茶碗、古河家の養女となりて引取られ候に就ては、同家より不遠黄道吉日を卜して、彼の文の許に入輿為致可申都合に付、爰(ここ)に結納の一札、小生より差入申候、何卒千代万世の行末かけて、御納被成下度奉願候、謹言

 大正三年臘月(注・12月)二十九日
                             中島久万吉
 井上侯爵閣下

 このような次第で、雁取の茶碗と文はついに一緒になった(原文「比翼連理の契りを結ぶに至った」)。日ごろから世話好きで、私などにさえも結婚媒酌の世話を焼いてくださった世外侯爵が、他の媒酌人によって雁取の文と茶碗との結婚を見るにいたったのは、つまりは侯爵の長年の世話好きの報いというべきだろう。
 こうして雁取茶碗は純黒の、長次郎特有のカセ(注・釉薬の一部がはげ落ちること)も少なく、胴が少し締まり、口は少しすぼまり、外面は胴からその下にかけて飛雲のような横一寸(注・約3センチ)、縦四分(注・約12ミリ)ほどの景色があるのみ。濃茶茶碗として大きすぎも小さすぎもせず、その閑寂幽玄の趣は長次郎の作の中でも白眉と称するべきものである。今でも侯爵家の宝蔵の奥に収まっているので、いつか一度はその姿を現して茶人を喜ばすことがあるだろうと思う。(注・現在はサンリツ服部美術館蔵)
 


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百五十四  杉老子爵の逸事(下巻22頁)

 老子爵、杉聴雨(注・杉孫七郎)先生のエピソードはすでに以前に紹介したが、先生は長州人のなかにあて一種独特な人で、禅僧のような脱俗(注・俗気のなさ)ぶりが私のもっとも敬服するところである。前項
(注・104「杉聴雨先生」参照のこと)では言い尽くせなかったことをここで補ってみることにしよう。

 明治四十五(1912)年、先生が七十八歳のある日、私は先生の平河町の家に訪ねたことがある。
 書斎の机の上に異様な硯があったのでその来歴を尋ねてみると、「れは弘法大師が唐から持ち帰ったもので、硯面の上の端に蓮花が彫刻してあるので、俺はこれを君子硯と名づけたが、発墨(注・墨のすれ具合)の見事さと言ったら、俺が長年のあいだに手にした幾百の硯の中で最高なので、非常に愛蔵しているということだった。
 そこでこれを手に取ってみると、縦八寸(注・一寸は約3センチ)、横四寸五分くらいの大硯で、石理いしめの細かさは驚くばかりである。私は、たちまちのうちに欲しくてたまらなくなり(原文「食指忽ち動いて」)譲っていただくことはできないかと盛んにお願いしたが、先生は頭を振り、これは俺の目の黒いうちには誰にも譲ることはできない、ということでこの談判は不調に終わった。
 ところがそれから一週間ほどたったとき、先生が突然、一番町の私の紅蓮軒に訪ねて来られた。例の硯を持参され、君があれほど懇望するので、よくよく考えてみれば、俺ももはや七十八歳で、余命いくばくもないから、思い切って割愛(注・惜しいものを手放す)することに決めたよと言い終わりもしないうちに、机のそばにあった巻紙を取り上げて簡単な一筆画の自画像を描き、

 とる年をかぞへてみれば七十八 おひおひ近くめでたくもなし

と自讃して、呵々一笑(注・はははと笑う)された。
 杉家は長州藩の名門である。この藩では、歴代の中に大将の首を幾つか揚げた者でなければ名門に列されることはないそうだ。先生の家では大将の首を七個揚げた名誉の経歴を持ち、代々武芸を重んじたので、先生もはやくから槍術を修め少壮のころには他流試合のために九州諸国を遍歴した。そのときには、柳河藩の道場を除いて一度も後れを取らなかった(注・負けなかった)ということだ。

 そのため先生は秘蔵の名槍を相伝しておられたが、晩年にはその穂を取って仕込み杖を作り外出の際には必ず携帯していた。それを、茶目っけがあることで有名な、同国の友人である児玉少介氏が見て、ある日のこと先生をそそのかして賭け碁をやり、児玉は、先生がかねてから垂涎(注・ほしがる)していた谷文晁の青翠山水額を提供するかわりに、先生には例の仕込み杖を賭けさせた。その一戦の結果は、マンマと児玉の勝ちとなり、児玉はあっという間に玄関へ飛び出して仕込み杖を持ち去ったので、先生はおおいに困惑された。だが児玉はもともと、いたずらの一芝居を打ったに過ぎなかったので、その杖はその後、同国人の瀬川某に与え、某はそれを仰木魯堂に贈り、さらに魯堂はこれを先生に返納した。そのときの先生の驚喜はたとえようもなく大きく、まるで多年失踪していた愛児を迎えるようだったので、魯堂はその純情にとても心を動かされたということだ。
 先生の詩作は非常にまじめで、その傑作のなかには作家の域にはいるものもある。しかしながら三十一文字のほうは、大部分が例のとおりのアソビ(原文「狂言綺語」)で、その脱俗ぶりを見せているものが多い。
 あるとき島地黙雷が、先生が洋服のチョッキに毛皮をつけたのを見て、その皮はなんですか、ときいてみると、

  ジャによつてわしが言ふ事あてにすな 表は狸裏はかはうそ

と答えられた。さすがの黙雷師も、一本取られて黙って苦笑するしかなかったという。
 またある人から、鬼の絵の讃を乞われたとき、

  追ひ出しし鬼もこよひは寒からむ 虎のふんどしよくしめて行け

としたためた。翁はその閻魔のような顔に似合わず、内面には無量の慈悲の心を持っている証拠だろう。
 また私と一緒に鎌倉に転地中の井上侯爵を訪ねたときには、「君、これはどうじゃ」と言いながら巻紙に書いてあった狂歌を見せた。
 

  稲村が崎で釣りたる太刀の魚 義貞どののかたみなるらん

  大仏のお腹の中のひろきこそ 本来空といふべかりけれ

  鎌倉は政子静の古蹟にて 山の腰にも穴のかずかず

というもので、井上侯爵も、読んで噴き出されたものだった。
 先生は下関で、福岡出身の建築技師である仰木魯堂と知り合った。魯堂が上京して初めて建築したのは、平河町の先生の臨終堂だった。
 このとき先生は、ある所蔵品を処分して金一万円を得たので、魯堂に向かって俺はこの金で棺桶を置く座敷を造ろうと思うが、設計は一切君に任せるからと言われたので、魯堂は、上段十八畳、次の間八畳の大書院を建てることにした。ところがその建築場所が、たまたま鬼門に当たるというので、杉家出入りの熊谷鳩居堂が迷信を気にした(原文「御幣をかつぎ」)。直接申し入れても取り合ってもらえないと思い、植木平之丞夫人、つまり先生の長女にさかんにやめさせるように進言したが、先生は、よしよし、俺が自分でめてやるから、決して心配せぬがよいと言って、自分でその場に行き、鬼門のほうに向かって立小便をし、これで残らず(原文「悉皆」)悪魔を祓ったよと呵々大笑され、魯堂に向かっては、予定通りさっそく工事を進行するようにと命じた。
 仰木は、いささか懸念しながらもその工事に取り掛かったところ、その後一週間過ぎて、先生に鬼門除けを忠告した京都の熊谷鳩居堂が、自店からの失火で全焼したという知らせが届いた。先生は呵々(注・大声で)と笑って、俺のほうは、俺が浄めたので、鬼門は京都に移ったのだよと言われた。
 その時建てられた臨終堂は、別名を古鐘庵ともいい、今なお平河町の杉子爵邸に現存している。(注・残念ながら屋敷は現存しないが、郷里山口県のふぐ料理店春帆楼が跡地に出店している)

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百五十三  裳川詩老の俳味(下巻18頁)

 私は岩渓裳川(注・いわたにしょうせん)翁の詩の作品について前項(注・152)においてだいぶ述べてみたが、このほかにもう少し、私と翁がなぜ知り合うことになったのかといういきさつや、翁の余技である俳句についてここで余談として述べてみようと思う。
 明治四十(1907)年ごろ、私は同県人の塚原夢舟(注・塚原周造)翁のすすめで、そのころ星ヶ岡茶寮で毎月一回開かれていた森槐南氏の杜詩講義(注・杜詩=杜甫の詩)を聴講したことがあった。
 槐南氏は四十前後と見受けられたが、色白の黒ひげで名古屋タイプの風采をしており、非常に雄弁な講義ぶりだった。
 そのうえ通俗な漢学先生じみた口ぶりではなく、博引傍証(注・広い範囲から例をひき証拠を示す)、自由自在で、詩格、用字の説明にはじまり、杜甫がその詩を作ったときの境遇や時勢の変遷、交友の状態などを説明するときの面白さは、まるで歴史小説を聴いているかのようだった。
 私の経験では、槐南の詩学講義と大内青巒の仏教講義は、非常に似ているところが多い。難解な意味を誰にもわかりやすくかみ砕き、誰にでも理解できるようにする力量が優劣つけがたいほどに両人ともすぐれていた。もしこの槐南が長生きしていたならば、ここでの縁で私は彼の門を叩くことになったのではないかと思うが、この人は割合に早く病没してしまった。
 そこで私は、上海で知り合った永井禾原(注・久一郎)を訪ねて、拙詩の添削を乞うたのである。しかし禾原もまた、ほどなく物故したので、あるとき石黒況翁(注・石黒忠悳)の早稲田多聞山茶会で同席した永坂石埭(注・せきたい)に依頼してみようと思い、茶友の松原瑜洲(注・新之助)氏に相談したところ、石はもちろんよいのだが、老年でしかも多忙なので、もう少し若くて気力のある人がいいのではないかという。そこで私は、松原氏の紹介で裳川翁を訪ね、ときどき自作を添削してもらえるよう、また詩歌談を聴かせてもらえるように頼んだのである。

 さて岩渓裳川翁の詩についてであるが、簡単に説明することができないので、それは別の機会に譲ることにして、ここでは翁の余技、あるいは隠し芸とでもいうべき俳句について一言述べてみる。
 前項でも述べたように、翁は豊かな詩情で俳句を吟出される。着想は軽妙、しかもそこには深い含蓄がある。それがおのずから独特の風格をそなえることになり、私などにはとても面白く感じられる。私がそう感じるだけでなく、翁の俳句は早くから専門大家の間では知られていて、しばしば敬意を表されたことがあったということだ。
 その一番の例に、このようなものがある。かつて正岡子規が新聞「日本」に寄稿していたころ、「旅の旅の旅」という、発句(注・ここでは俳句の意味だろう)入りの紀行文を書いたことがある(注・「旅の旅その又旅の秋の風」が最初の句)が、たまたま翁がこの文を見て、即座に無遠慮な評論を書き送った。子規はそれを読んで、ことのほか感服し、ある日、自身の写真を裳川翁に送ってきたその手紙に「自分は非常な肺病であるから、面会は此方より遠慮致す其代り写真をお送りするにした、而して此写真は十分に消毒したであるから、決して懸念くださるな、そして爾今音信はすべて手紙を以てするから、左様御承知下されたい」とあったそうで、子規も翁に対しては、この道の知己としておおいに敬意を表していたことがわかるのである。
 裳川翁の俳句は非常に数が多いようだが、私が翁からおききして、ときどき書き留めておいたなかでいちばんおもしろいと思われるのは次のようなものだ。
 まず春の句では、

  桜かな散るを盛りの初めにて
  似た人に呼びとめられて朧月
  遠近のけしきまとめる柳かな


夏の句では、

  五位の行く闇を追ひけりほととぎす
  稲妻にぽつかり出たり夜の山
  一つ来て藺の闇ほごす蛍かな


秋の句に、

  竜胆(注・りんどう)に砕けて白し蛇の衣きぬ
  門川や家鴨の覗く崩れ簗


そして冬の句に、

  鯨取り小さな家に帰りけり
  鶏の嘴はしあてて見る霰かな
  寝返れば鼠の逃げる寒さ哉


などがある。しかしながら私がいちばん好きな翁の句は、元旦の句で、

  今日ばかり鶴は物かは初烏
  (注・ものかは=ものの数ではない。初烏は元旦の季語)

というのと、春の句の
  分別のついた途端や落椿


である。そのほかで、すこぶる面白いものとして、

  持ち得たる闇潜り入る鵜舟かな


という句もある。これは、久須美双柳軒という旧幕府旗本出身の宗匠が、久須美は本姓を曽我といったことから、毎年、曽我兄弟の忌日(注・命日)に点取り俳句(注・点者が評点をおこなう)を集め、それを献灯にしたためて優劣をつけるという会を催したときに詠み出されたものである。
 曽我兄弟が、待っていた五月の闇に潜りこみ仇討をしたその意気を、鵜舟という語で表したところに、翁のセンス(原文「敏感」)がひらめいている。
 このほかにも俳句の専門家に負けない翁の句について検討を加えてみたら、まだほかにも多数の名句があることだろう。
 要するに翁は詩博士であると同時に句博士でもあった。その詩風に、一種、言い難い趣味があるのは、おそらく俳想を含んでいるためではあるまいか。とにかく、わが国の詩壇において、青厓、裳川の二翁が健在であることは、まったく現代の壮観であろうと思う。


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百五十二  岩渓裳川翁の詩品(下巻14頁)

 私は少年時代から漢詩が好きで、「唐詩選」「詩語碎金(注・しごさいきん)」などをひねくりまわし、折にふれ吟詠をしてみることもあった。和漢古今の詩を愛読し、気に入ったものは長編のものでもかなりたくさん暗記していたくらいである。しかしなにかに取り紛れて、不惑の歳(注・数え四十歳)に達するまで師について学ぶところまでに至らなかった。ただ明治三十一(1898)年にシナに赴いたとき、上海で日本郵船会社支店長だった鷲津毅堂門の、永井禾原(注・かげん。永井荷風の父、久一郎。久一郎の妻が鷲津毅堂)氏と知り合い、その後まもなく氏が帰国して隠居するようになってから、ときどき拙詩の添削を乞うたことがあったのと、森槐南氏が星岡茶寮で開いていた杜甫の詩の講義を、あるときに二、三回聴講したことはあった。
 さて大正の初めから私は東都茶会記の記述を始めたので、自作の詩を記事の中に挿入する必要から、岩渓裳川(注・いわたにしょうせん)翁に学ぶ(原文「叱正を乞う」)ことになり、それからというもの、今日にいたるまで、おりおり翁を煩わしている次第である。
 裳川翁は丹波福知山の朽木侯の藩臣であったが、五代前の祖には、通称が帯刀で、嵩台と号した、鴻儒(注・えらい儒者)がいた。この人(注・
https://kotobank.jp/word/巌渓嵩台-1056842は京都の吉益東洞に学び、池大雅らを友に持ち、早くから京畿間で名声が高かった。当時の福知山藩主は朽木昌綱であった。古銭の収集で名高く、茶道を松平不昧公に学び、不見庵龍橋と号して深く嵩台先生の人物を敬愛した。

 そこで朽木侯は、嵩台先生を禄高二百石え召し抱えようとした。するとそのとき、高松の松平家では五百石で召し抱えようと言い、松平不昧公は千石で、と申し込まれたのだそうだ。すると嵩台先生は憤然として、「士はおのれを知る者のために死す、と言われるように、俺は禄の利益のために動く者にあらず」と言って他を断り、一番小禄だった朽木家を選んだのである。それからというもの岩渓家は、裳川翁にいたるまで五代の間、同家に仕えた。

 こうして裳川翁は、先祖からの遺伝を受けて若年のころから詩の才能を発揮し、森春濤先生に学んで、永坂石埭(注・せきたい)、森槐南らとともに、森門下の逸足(注・逸材)と呼ばれ、今ではよわい喜寿(注・77歳)を越えて、ますます詩境は進み、私の卑見をもってすれば翁と国分青厓翁とは、現今の詩壇における双璧である。不心得(原文「不倫」)なたとえになるかもしれないが、青厓が宝生九郎ならば、裳川は梅若実、また、青厓を九代目団十郎とすれば、裳川は五代目菊五郎である。さらに、明治の歌人とも比較してみると、青厓が高崎正風、裳川が小出粲というところであろうと思う。
 裳川翁は詩学への造詣が深く、才調絶倫、長作、短篇のどれをとっても、まずい作品が見当たらない。
 翁から私に贈っていただいた大作だけを見ても、伽藍洞歌、白紙行、贈箒庵長篇、読入雲日記七絶十五篇、などがある。
 そのため、翁の詩について全貌(原文「全豹」)を批評しようとすると、この場の短い文章で言い尽くすのは無理なのでそれは別の機会に譲り、ここでは翁の小品について、翁の才調がどのようなものであるか、その一端(原文「一斑」。「全豹一斑」=豹のひとつの斑を見て豹全体の姿を類推する、の意から)を示すことにしよう。
 翁の詩に、雨後凉夕と題する七言絶句がある。

  不是西風枕上伝 月明露白已凉天 中庭樹竹参差影 閉目秋声来四辺

 これは、翁がたまたま手に入れた、俳人芹舎(注・八木芹舎。やぎきんしゃ)の短冊に、「錠させば四方になりけり秋の声」という句があったので、それを転結二句に翻案したものだそうだ。

  翁がそれを森槐南に見せたところ、槐南が構想が非常に俳句に似ていると評したので、翁はしまいには種明かしをして、槐南がそうと見破った慧眼に驚きつつ敬服したそうだ。
 また、翁が穉梅(注・穉=稚。若い梅の樹?)について詠じた詩がある。
 
  曾見幺苗掀土生 数花竹外一枝横 可憐笑倚黄昏月 未解風前有笛声
  (注・曾=かつて。幺=小さい。掀=覆っているものをめくる。倚=寄りかかる。黄昏=たそがれ)

 この詩の転結は、紀貫之の「今年より春知りそむる桜花散ると云いふことは知らずやあるらん」の歌意を借用したもので、井上通泰氏もこれを見て、うまく意訳したものだと嘆賞したそうだ。
 また翁が鎌倉で作った詩に、

  春風何処訪遺蹤 唯有残僧撒手逢 花落鎌倉星月夜 五山齊打一声鐘
   注・蹤=跡)

とある。鎌倉山の星月夜というのは、昔からありふれた言葉だが、これを詩の中に挿入したのは、実に、翁が初めてだろう、
 この詩が初めてある新聞に載せられたとき、翁がたまたま別の用があって初めて渡邊国武子爵、つまり無辺侠禅(注・原文では、以下もすべて禅侠になっている)を麻布の蝦蟇池邸にたずねたところ、侠禅は、その詩が載っている新聞を手にして出てきて、花落鎌倉の星月夜は妙ですね(注・絶妙ですね)と、初対面のあいさつもまだ済まないうちに、まず感嘆の言葉を洩らされたということだ。

 また、翁が私に贈ってくださった読入雲日記十五首のうち、菅田庵を詠じた詩がある。

  壁幅瓶花賞意幽 焉知清濁有源流 一庵茶事自然趣 聞説雲州出石州
   注・焉=いずくんぞ)

これは、私が入雲日記(注・箒庵が大正259日から18日まで、松平不昧の事跡を求めて出雲に旅したときの記録。東都茶会記で発表された。管田庵は、松平不昧の指図で作られた風呂場付きの茶室。不昧が放鷹のときに使った)に、松平不昧は、片桐石州の流儀を伝えた伊佐幸琢(注・
https://kotobank.jp/word/伊佐幸琢%283代%29-1052823)に学び、別に雲州流を開いた人であると書いたのを見て、聞説雲州出石州、の句を入れられたのである。しかし雲が石から出たという言い回しは、たまたまの自然の巡り合わせで、しかもなんという絶妙な表現だろう。

 以上のように、これらの短篇をいくつか見るだけでも、いかに気が利いて軽妙な江戸趣味を含んだ才調があるかということを窺い知ることができるのである。当然ながら、それは性格から流れ出てくるもので、他人の追随を許さない翁の独擅場といってもよいだろうと思う。
 


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百五十一  茶道記と萬象録(下巻10頁)

 私は明治四十五(1912)年の初めから閑散の身(注・仕事がなくひま)になると、第一に茶会記録を作ること、第二に感想日記を書くことを思い立った。
 茶会記録作ろうとした動機であるが、明治時代も四十四年を過ぎ、今や、いよいよ文化の熟欄期に入ろうとしているのだから、文学、美術、工芸、茶事風流の諸道も今後一層、複雑で込み入ったものなっていくだろう、そのようなときに、その方面に直接関わりを持つ者がその実状を記録しておいたならば、後世から今日を観察しようとする者のために、きわめて有力な材料となるだろう、ということだった。
 私自身が桃山時代の茶道文化を研究しようとするとき、当時の太閤秀吉を中心にした英雄豪傑や、利休を囲む茶道宗匠の行動を詳細に記述したものがあったら、どんなに面白い歴史的な好資料になっただろうと思うのである。たまたま茶人の手で書かれた簡単な記録でさえも、それが実際を目撃した者の筆になったものであれは、当時の情景を想像するのに非常に便利なものであることは、博多の茶傑、神屋宗湛の宗湛日記にある天正十五(1587)年正月三日の大阪城大茶湯の記事などがその好例である。ここからは、太閤みずからが大茶湯を指揮している情景を、眼前に実際に見るようにうかがい知ることができるのである。
 私たちが今日過ごしている明治の時代にも、後世から振り返ってみたら太閤時代にひけをとらない人物が大勢いる。特に、茶人は知識階級に属し一代の風雅を背負って立つ人が多いから、これらの人々に関する実写的な記録を作っておいたら、後世の人が現代の半面を想像することができるにちがいない。その上に、この茶会記によって、すこしでも茶道の興隆に寄与するところがあるならば、まことに望外の幸せであると思いついたのである。そこで、二月初旬(注・明治45から茶会記録に着手することにした。
 最初は「東都茶会記」と題し、その後「大正茶道記」と改め大正十五(1926)年までずっと時事新報に掲載し、昭和二(1927)年以降は「昭和茶道記」と改題して、昭和七(1932)年六月まで国民新聞上で継続し、合計二十一年間分を記録したので、のちの人がこの間の消息を知るのに多少は参考になるだろうと思う。

 第二の感想日記であるが、それは明治四十五(1912)年の五月中旬から執筆し始めた。
 私の考えでは、時代の事相というものは映画のように日々目の前に展開していくが、その幻影が去ってしまうと、もうそれを留めておくことがことができない。実際を目撃した者がそれを記述しておかない限り、後世の人がこれを後追いすることはできないのである。そこで、日々の事相をありのままに筆記して当時の実況を知らせることは各時代を通じての学識者のつとめだと言えるはずだが、日々見慣れ聞き慣れた事柄は、そのときには別に珍しいと思わず、わざわざ筆記しておくほどの価値もないだろうと思ってこれをなおざりにしてしまうのが、いつの時代にも起きてしまう弊害である。
 ここで、ある人が日々見聞した事実を採録しておいたならば、その人の地位や見識次第で、その記事が事実に対する証拠となる。現時点ではそれほど重要視されることはなくても、後世には、それがその時代を判断する得難い指針(原文「金科玉条」)にならないとも限らない。それが、各時代の目撃手記が大切な理由なのである。

 しかし文筆が達者な人は見聞に乏しく、見聞に富んでいる人は文筆がつたない。昔から、そのような記録を後世に伝える人がきわめて少ないということを、私はいつも遺憾に思っている。
 近代にはいってからは新聞や雑誌が盛んに発行されて、日常的な全般について報道するようにはなっているが、これらの記事がすべて事実の真相を伝えているかどうか、という問題もある。中には思惑があって事実を曲げて書かれることがないとは限らないから、これによって時代の真相をうかがおうとするのは非常に危険である。公平で思慮のある目撃者による感想日記が必要なのは、そのためなのである。

 私は以上の趣旨で感想日記を書き始めた。普通の日記のように、気温、天候、生活一般、手紙などの音信や人の訪問について記すだけでなく、学者、政治家、実業家、文筆家、芸能人と会ったときの談話内容や、そのほかにも目に触れ耳に聞いた事柄について何から何までその中に書き記したので、これを「萬象録」と名づけた。明治四十五(1912)年五月から大正十(1921)年六月までの足かけ十年間これを継続したが、その日記が山のように大きくなり、ほとんど背の高さと変わらなくなってしまったので、せっかくこんなに骨を折ってもこれを読む人がいないに違いないと思い、本録についてはこのときで絶筆することにし、以後は普通の日記をつけることにした。
 茶会記のほうは毎年まとめて刊行してきたが、萬象録のほうはむろんそのままになっており、いつかどこかの図書館に寄託して、砂の中から金を拾おうとする好事家の材料にしてもらおうと思っている。
 


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