だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

2017年08月

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百五十 茶道十六羅漢(下巻7頁)

 私は明治四十五(1912)年の初めから無職自由の境涯にはいり、もっぱら茶事風流に没頭することとなった。
 そのころまでには東京に茶道の古老大家がうち揃い、いたるところで茶煙が上がっていた(注・茶道が興隆し茶会が開かれていた)。
 例の和敬会という順会(注・会員宅で順番に開く会)なども、十六人の定員が満員の盛況ぶりだったので十六羅漢会の異名で呼ばれていたが、その会員の顔ぶれは次のとおりであった。(注・90に関連記事あり)

  東久世通禧伯爵 竹亭(注・みちとみ)
  久松勝成伯爵  忍叟
  松浦 厚伯爵  鸞洲(注・まつら)
  石黒忠悳子爵  况翁(注・ただのり)
  伊藤雋吉男爵  宋幽(注・しゅんきち)
  三井八郎次郎男爵 松籟(注・三井南家高弘)
  三井高保男爵  華精
  益田 孝男爵  観濤(注・かんとう)
  安田善次郎氏  松翁
  馬越恭平氏   化生
  瓜生 震氏   百里
  青地幾次郎氏  湛海
  吉田丹左衛門氏 楓軒
  竹内専之助氏  寒翠
  金澤三右衛門氏 蒼夫
  高橋義雄    箒庵

 十六羅漢は上の通りであったが、一月四日(注・上に同じく明治45年)に東久世通禧伯爵が八十歳で薨去されたためひとりの欠員が生じた。その補充として、加藤正義欽堂氏に白羽の矢が立ち、十六羅漢が再び満員になったことは、東都の茶道界のためにまことに喜ばしいことだった。

 ところで、これらの茶人のことを十六羅漢と言い始めたのは、例の富永冬樹氏(注・84「富永の毒舌」を参照のこと)だった。和敬会の連中は、どれを見ても羅漢面だねと言ったのが、ついに異名になったのである。
 これより以前、氏は本所の横網に新居を造り、吉野吉水院の書院写しの茶室を作った。その新築開きに十六人の客を招き、これを十六羅漢に見立てた。大倉喜八郎男爵に鶴彦尊者、益田克徳氏に克徳尊者、また私には高義尊者などという席札をつけて、托鉢坊主の鉄鉢形応量器(注・てっぱつがたおうりょうき。飯鉢のこと)で、客にインド式の斎食(注・さいじき。食事)を配膳されたことを思うと、富永氏は、よくよく羅漢に因縁のある人なのだろう。
 このときに招待された人たちは、富永の新築開きとあっては、例の口の悪さに合わないためには大いに奮発しなくてはならないと、いずれも喜捨物(注・お布施)をはずんだ。すると益田英作(注・益田孝、益田克徳の末弟)氏がそれを見逃さず、こっそりと新築費用と喜捨物の評価計算に着手したところ、喜捨物のほうが、はるかに新築費用を越えていたという結果が出た。そのとき、飄逸なる克徳尊者は突然立ち上がって一座を見回し、諸君、ひとつできましたから、ご批評願いますと言って、

    「主人は欲阿弥陀(横網だ)、お客は皆尊者(損じゃ)」

と披露したので、さすがの富永氏も例の気焔はどこへやら、ただ微苦笑を洩らすのみだった。
 十六羅漢について、このような因縁のある富永氏が、和敬会員に対して十六羅漢の称号をつけたことはまことに不思議な巡り合わせなので、ここでその由来を記録しておく次第である。


久世通禧伯(下巻9頁)

 東久世通禧伯爵は、和敬会十六羅漢の白眉(注・特別にすぐれた存在)であった。伯爵は維新前、幕府の圧迫を逃れて京都から立ち退かれた、かの七卿の一人で、その勤王尽国の事跡は歴史にはっきりと刻まれ(原文「炳焉(へいえん)として青史に在り」)、余技である詩歌、管弦、書道などでも、またそれぞれの特長を持っておられた。
 茶人としての伯爵は、まことに真率洒脱(注・飾り気がなく洗練された)で、器具の品評をするでもなく、その組み合わせを研究するでもなく、淡々として湯を呑むがごとくに、物にこだわらない流儀だった。
 しかし生け花には深くこだわりを持ち、自邸に各種の植物を植えた。椿などは、ほとんど十数種類に及んだそうだ。
 明治四十一(1907)年ごろから、伯爵はしばしば私の寸松庵(注・高橋の一番町邸にあった茶室)におみえになったが、たいてい静淑(注・物静かでしとやかな)で上品な伯爵夫人を同伴された。
 その客ぶりは、いたって平民的で、談笑中には時々、諧謔(注・気のきいた冗談)などもまじえられた。寸松庵の露地や庵室が、いかにも質樸(注・素朴)で古雅(注・みやびやかな)なので、自分が京都にいるような心地がするといって、とても愛されたのであった。
 またあるときには、七卿が西に下ったのち太宰府にあって、しばらくさすらいの身となられた時のことに話が及ぶこともあった。初めて会ったときから旧知のようで、宮中(原文「雲井」)に近い身分の方に対座しているように感じられなかったことは、非常に奥ゆかしい限りであった。
 公卿から華族になった方には、もともと、案外率直で質素で平民的な態度の人が多いが、伯爵などは、そのなかでももっともその気風を代表する一人であろう。その痩せぎすで、あまり風采のあがらない中に、なんとなく深い印象を秘めていた。
 伯爵の薨去後に、たまたま寸松庵に出入りすると、伯爵が悠揚として(注・ゆったりと)正座されている面影が、ありあと眼前に現れるような心地がしたものだ。私は追憶のあまりに次の二首を口ずさんだ。

    とはれにし葎の宿に思出の 種をのこして君逝きぬはや

    国の為心づくしの物がたり 聞きしも今は昔なりけり



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百四十九  実業界引退後の感想(下巻3頁)

 私は前述した通り、明治四十四(1911)年末をもち二十一年間打ち込んできた実業界を引退し、いよいよ閑散の身(注・仕事がなくひまな人)となった。このような境遇に行き当たった人のことを、文人風に形容すると「閑雲野鶴」と昔から言いならわされている。自分自身を鶴になぞらえるのは少し僭越の嫌いがあるとは思うが、とにかく、自由の身となった感想を詠じ次の一首ができた。

   飲啄樊籠二十年 老来夢到来丸皐天 一朝振翼去何処 不是雲中已即水辺
   注・樊籠=はんろう。鳥かご 丸皐天=詩経「鶴九皐に鳴き声天に聞こゆ=深い谷底で鳴いても、鶴の声は天に聞こえる」から)

 さて、実業界を引退したことにつき、多年深く世話になった(原文「厚誼を辱(かたじけ)なうした」)井上侯爵夫妻に感謝の気持ちを示したいと思い、明治四十四(1911)年も終わりに近づいた(原文「年の尾も早や二、三寸に迫った」)十二月二十九日に、侯爵が避寒されていた興津の別荘に夫婦そろって訪問し、先だって男の子が生まれたときに名前をつけていただいたお礼も述べた。その足ですぐに京都に向かい、祇園鳥居前の杉の井旅館に宿を取り、大晦日には次の一首を口ずさんだ。

   入相の鐘のひびきも身にしみて 真葛ヶ原に年暮れんとす

 明けて、明治四十五(1912)年元旦、勤めのない身の気楽さから、日が高くのぼってもまだ起き出さない(原文「日高きこと三竿(さんかん)、猶ほ未だ起きず」)といったありさまだったので、

   旅人の心のどけき東山 朝いの床に年立ちにけり

という一首を詠じた。
 それからゆるゆると起き出して朝食をとると、年頭にはまず嫡男の息災を祈願するため、夫婦連れだち車を男山八幡宮(注・石清水八幡宮)に飛ばした。
 そこでほがらかな日光を浴びつつ社殿に参拝後、私がかねてから隠者の見本、風流の本尊として、わが後半生のためにもっとも多くを学びたいと思っていた真言密教の隠者である松花堂昭乗の遺跡をたずねた。
 ところが維新直後の神仏分離の嵐が、瀧本坊、萩の坊をはじめとする三十六坊を吹きまくり、松花堂のありかさえも人に尋ねでもしなければわからないという状態だった。
 もともと松花堂は真言宗の僧正であるが、晩年、松花堂に引き籠り風流三昧の生活にはいった。興がわくと大師流の筆をふるい、牧谿風の絵画を描いた。また、後年「八幡名物」と呼ばれるようになった数々の名器で交流茶事を催し、遠州(注・小堀遠州)、江月(注・江月宗玩)、光悦(注・本阿弥光悦)、沢庵(注・沢庵宗彭。そうほう)、長嘯(注・ちょうしょう。木下勝俊)などの名流(注・有名人)と深く文雅(注・詩文を詠んだりする風雅な道)の交わりを行った。彼の遺した風雅の余韻を私は常に欽慕(注・敬い慕う)してやまない。あまりの惨状に茫然とし(原文「俯仰感慨のあまり」)、

    男山松吹く風にうそふきて 心澄ましし人をしぞおもふ

の一首を書き留めるだけで帰ることにしたが、後年、私たちが松花堂会を発足させて八幡山下の竹やぶの中に散乱していた墓石を拾い集め、松花堂の師である実乗のものも一緒にして今日のように修理したのは、このときに私の頭の中に湧き上がった理想が実現されたものなのである。

 翌二日には武藤山治夫妻を、播州(注兵庫県)舞子の仮住まいに訪ねた。そのときにも、次の腰折(注・自作の和歌を謙遜する言い方)を詠んだ。

    蘆田鶴の舞子の浜に住む友と 年のほぎごとかはすめでたさ

 このようにして三が日を京畿の旅で過ごして帰京した私は、それから後半生の門出を迎えることになった。
 もともと私は実業畑の人間ではない。ただ、持って生まれた趣味的な性分を満足させるためには、一時実業界に身を置き家計的な安定の基礎を作り、その上でゆるゆると趣味の林に遊ぼうという二股根性を持っていた。それで心ならずも踏み入った実業界に二十一年間を過ごし、今ようやく本街道に這い出したところなのであった。それでしばらく身体を休めて、安閑とした月日を送っていたのだが、その心境は宋の陸放翁が、家から遠く離れた成都での七年にわたる官吏の仕事をやめて郷里に帰ったときに、

   遶檐点滴和琴筑(檐=のき、遶=めぐる、点滴=雨だれ、琴筑=ともに弦楽器)
   支枕幽斎聴始奇(幽斎=静かな部屋 )

   憶在錦城歌吹海(錦城=成都の別名、歌吹海=歓楽街) 
   七年夜雨曾不知(曾=かつて)
 

(注・大意「静かな部屋で枕にもたれて雨だれの音をきいていたら、成都の歓楽街できいた弦楽器の音にきこえた。七年間、雨だれの音をきいたことがなかった」)

と詠じたのと、やや似ているところがあると思う。私はすぐに「夜の雨」という題名の新曲を作ってみた。次のようなものである。
 
  「夜の雨」
本調子玉水の軒端をつたう声すなり、琴からあらぬかほどぎにも、似たるしらべの面白や、昔陸放翁は、蜀の都のつかさを罷め、我が故郷にかえり来て、寝覚の床のつれづれに、七年知らで過ごしつる、雨の音色を愛でしとかや。
世の中の有情無情の物の音は、自からなる調べあり、峰の松風、磯の浪、枝の鶯、田の蛙、千草にすだく虫の音や、妻恋う鹿の声までも、宮商呂律の外ならず、ましてや是れは天地の、情を籠めてふる雨の。(注・宮、商は、雅楽の音階)
二上り春辺にきけば、しめやかに、鳥のねぐらをうるして、花を催すのどけさよ、又五月雨はふり暮し、或る夜ひそかに松の月、晴るる間もなく、サラサラと、小笹にそそぐわびしさも、何時か薄ぎり、うちなびき、桐の一葉に秋の来て、ころぎなきつ、村雨の、音聞く夜半に、独りかもねん。
三下りさんさ時雨か、茅野の雨か、音もせで来てぬれかかる、ヨイヨイヨイヤサ、実にりがたや、天が下、賤が伏家も、百敷の、大宮人の高殿も、へだてはあらじ、雨の音、四季りの夜の窓、心ごころに、聞くぞたのしき。

 この「夜の雨」には、平岡吟舟翁が東明流の節付けをしたので、それ以来同流の一曲となり、自分でも唄いまた人が謡うのを聞いて、自然とその年の思い出としている。


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百四十八  実業社会に告別(上巻513頁)


 私は前述したような次第で、明治二十四(1891)年から実業界に身を投じ三井銀行にはいった。同二十八(1895)年からはさらに三井呉服店の改革に当たり、三十二(1899)年に三井鉱山会社理事を兼任し、三十七(1904)年三井呉服店が株式会社三越になると、ほどなく三井鉱山会社の理事専任になった。同四十二(1909)年、三井営業店の組織変更後、三井を代表して王子製紙会社社長を引き受け、四十四(1911)年、同社苫小牧工場の完成を機に、予定した期日どおりに引退することに決め、同年初めの冬に、藤原銀次郎氏に後任を譲り、いよいよ実業界に告別した。(注・箒庵の実業界時代については、54596794146などを参照のこと)
 私は明治二十四(1891)年から四十四(1911)まで満二十一年間、三井営業店に奉公していたが、本当のことを言うと、そろばんよりも筆を取る方が得意なのだった。まさに越鳥南枝に巣くい、胡馬北風に嘶(いなな)くのたとえどおり、自分の居場所に戻りたい気持ちが強かった。
 つらつら考えるに私は比較的金銭に淡泊で大金持ちになるような資質に乏しい。いつもあまり金をかわいがらないので、金のほうでもあまり私を慕うということがないのは当然のなりゆきだ。この点については、はじめから大きな欲望もなく、自分の生活に不自由がない程度の資産をためて悠々自適、なにか興(注・おもしろみ)を感じたときには筆をとり、古人が、いわゆる五日一石、十日一水で絵を描いたように、(注・「十日一水五日一石」で、画家が一つの川を描くのに十日かけ、一つの石を描くのに五日かけるように、ものごとを丹念に仕上げるの意)心のおもむくままに文芸を楽しみたいと思っているに過ぎない。私の心がけ次第で、もう少し早く引退することもできたかもしれないが、例のごとくの趣味的な性格が障害になり、実業界にいながらにして、さまざまな道楽にも手を出したため知らず知らずのうちに奉公生活が長引き、やりかけの仕事に対しては結末をつけなくてはならず、そんなこんなで五十の坂に達するまで実業界の厄介になってしまっていたのである。

 だが幸いに好機が訪れ、特別な手柄は立てなかったとはいえ、そのかわりに特別なあやまちもなく、五十一歳で首尾よく実業界に告別することができたことは、私にとり非常に幸せなことであった。
 私は井上侯爵の紹介によって渋沢、益田の両先輩の推挙を得、最初三井銀行にはいり、しかも同行にはいった学生のうち、急先鋒(注・先頭の切り込み隊)であった割には同僚にも主人にもかわいがられた。
 また、その主人となる家が、日本における第一流の旧大家であったため、同勤務者の多くは修養のある士人(注・徳の高い人)ばかりで、この年月を比較的純潔な境遇の中で送ることができたことは何よりもありがたいことだった。
 二十一年間の奉公を回顧してなにひとつ不足に思うことがないので、私はいつも人に向かって、学問をして福澤を師に持ち、奉公して三井を主に持ったことは私の生涯における大きな幸運だったと誇っている次第である。
 三井の奉公中にもっとも気持ちのよかったことは、主人が全員、温厚の紳士で、きわめてよく部下を待遇してくださったことである。なかでも三井銀行総長の三井高保男爵は旧大家の主人には珍しい賢明な人物で、私はいつも人に向かって、男爵のような人は、大家の背景を取り除いて裸一貫で世の中に出しても相当の位置を獲得すべき人傑であると評したほどであった。私は引退後に男爵を訪問し多年の恩義に感謝したところ、男爵は前もって用意されていたようで、私は小色紙にしたためた次の一首を頂戴したのである。


   
末遠くきえじとぞ思ふ事しげき 年をもあまたつみしいさをは


ここにおいて、私はすぐに次の返歌を呈上(注差し上げること)した。


   久しくも汲みなれて知る弥増(注・いやまし。いよいよ増すこと)に みつ井の水の深きめぐみを


 このような次第で、年来の奉公先から首尾よく骸骨を乞う(注・辞職する)ことができただけでなく、さらに和やかなあいさつを交わして袂を分かつということは、私にとり、まことに嬉しい思い出である。
 私が王子製紙会社を辞めると同時に三井の方までも退いたことを、予定の行動であると知らずに、親切にも私を訪ねて、他の実業方面の仕事の口を世話しようという友人もあった。だが私の考えでは、少し大げさな言い分かもしれないが、これは人間の配材における経済的見地から非常に得策ではないと思うのである。理由を言うなら、私が五十一歳以降の全生涯を実業界で過ごしたならば、そのためには相当の報酬も得られるだろう。したがって養老金も貯めることができるだろう。それに一口に実業といっても、それほどドライな仕事ばかりでなく、私が苦痛を感じるほどでもないかもしれない。しかし、ひるがえって世の中を見てみると、高等学府から毎年有為の人材が輩出して常に就職難が生じている時代に、実業家としてはありきたり(注・原文では「升で量るような」)な私が、いつまでも後進の進路をふさいでいても、それで得ることのできるもの高は知れている。自身が、やや得意だと信じている他方面において、より有効な仕事を見出し、そこに後半生を託すほうが、はるかに得策でないだろうか。そのように思い定めて明治四十四(1911)年の末、五十歳を一期として実業界に告別した次第である。


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百四十七  明治実業の六雄八将(上巻510頁)


 私の二十一年間の実業生活のあいだに知り合った先輩実業大家について見聞した事実を述べたり、その批評をしてみたいと思うが、「箒のあと」の体裁としてあまり一方に偏ることもできない。そこで、ひとりひとりについてではなく、何人かを古人に比較してその輪郭を示してみることにしよう。
 私がひごろ日本の歴史を読んでつらつらと考えることは、天正時代(注・信長、秀吉の時代)の英雄豪傑が、強い意気込みで(原文「手に唾して」)諸侯に列せられて封土を得ようとしたのと、明治時代の実業大家が時運に乗じて資産を作ろうとしたのとには、非常に類似するところがあるということだ。
 ならば天正と明治の人物について、その出身や成功失敗の足跡を対照してみれば、その人物像を想像することができるであろう。
 そこで今回は、水戸の儒臣、青山延光著「六雄八将論」を使わせてもらい、明治の実業大家と比較対照してみることにしよう。だいたい次のような顔ぶれになるのではないか。
 
 まず六雄は、


    上杉謙信    渋沢栄一
    武田信玄    大倉喜八郎
    毛利元就    安川敬一郎
    北条早雲    安田善次郎
    織田信長    岩崎弥太郎
    豊臣秀吉    藤田伝三郎


 そして八将は、
    蒲生氏郷    中上川彦次郎
    佐々成正    松本太郎
    小早川隆景   益田孝
    加藤清正    森村市左衛門
    加藤嘉明    近藤廉平
    黒田如水    川田小一郎
    前田利家    古河市兵衛
    伊達政宗    浅野総一郎


 さて以上のように見立てたところで、この比較の理由を説明しようとすると、あまりにも冗長になってしまう。そこで、主だった四、五人についてごく簡単な短評を試みてみよう。

 明治時代、わが国の実業界に雄飛した渋沢栄一子爵は、資産はあまり大きくなく、もしも富だけを比較するならば、世間にはその何倍もの資産を持つ者もあるだろう。しかし、その徳望が大きいことにかけては当世の第一人者であり、まるで上杉謙信が領地もあまり広くはなく、人数もそれほど多くはないのに、侠名義声(注・義侠心が強いという評判)が天下を動かし、隣国もみな畏敬していたのと非常に似通ったところがある。敵の塩がなくなったときいて車に積んで送り、敵の大将が死んだときいて箸を投げて泣いたというほどの義侠心を現代の実業家に探してみるならば、渋沢子爵をおいてほかにはいないと思う。

 織田信長に見立てた岩崎弥太郎氏は、人となりが闊達果敢(注・大胆でのびのびとしている)である。相手の機先を制することに長け、かの共同運輸会社との競争で、ついにはこれを三菱汽船会社と合併させるに至ったときの作戦ぶりなどは、信長が桶狭間の夜襲で今川義元を打ち負かし、浅井、朝倉を滅ぼして京都に攻め上がった軍略と非常に似通っている。また、酒をかぶって意気込み、古今の英雄を睥睨(注・へいげい。にらみまわす)するあたりもほぼ同じだ。信長がとんだ災難で身を滅ぼし、弥太郎が胃癌にかかって早死にしたのも多少似ているところがあるかと思う。

 豊臣秀吉に藤田伝三郎を比較したのはいささか不真面目かもしれないが、藤田が大阪を根城に、網島に桃山式の大伽藍を造営し、書画骨董品の富で天下に匹敵する者がなかったこと、また太閤秀吉の豪奢を明治に継いで、五尺の小柄な体は一見したところ子猿のような見かけでありながら、その胆力の天下を圧するところも、いささか秀吉公に類似していると言えようか。

 八将のほうでは、蒲生氏郷を中上川彦次郎に比擬した。蒲生が群雄の中にあって、人品骨柄が一段とすぐれ、いったん采配を握ったならば百万の大軍をも指揮するというその大将ぶりと、中上川が白皙長身(注・色白で背が高い)の堂々とした風采で、明治実業家の中で異彩を放っていた点に類似点があるからである。氏郷が信長を舅に持ち、名門の威力で諸侯を圧倒したことも、中上川が福澤先生を叔父に持ち、背景に一層の重みが加わったことに似ている。また氏郷と秀吉の遭遇は、中上川と井上侯爵との遭遇に、やや似ていると言えないこともない。氏郷の述懐に、


   限りあれば吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風


と詠じたものがあるが、これは中上川の心境とまさしく同じだったのではないだろうか。

 明治実業界の六雄八将については、拙著の「実業懺悔」に詳述してあるので今はこの辺でやめることにし、その他はすべて読者の比較研究にお任せする。なお、以上の六雄八将のうちで私がまったく会うことのなかった人物は、岩崎弥太郎のひとりだけである。


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百四十六  王子製紙の二年半(上巻506頁)


 私は明治四十二(1909)年の秋、三井を代表して王子製紙会社社長に就任することになった。そのいきさつを記す。
 明治四十(1907)年、益田孝男爵が三井三郎助(注・小石川三井家高景)とともに欧米諸国を巡回して商業大家の情勢を調査し、帰国後に三井営業店の組織変更をすることになった。その結果、人員のやりくりの関係で、それまで三井鉱山理事だった私が、王子製紙会社の社長に任命されたのである。
 そもそも王子製紙会社は、明治初年に政府の事業として成立している。その後、日本の新興事業の発展に全力を注いだ渋沢栄一子爵が継承し、谷敬三氏を社長に、大川平三郎氏を技術長として一時は相当の成績をあげた。
 明治二十五(1892)年ごろには三井の所有株が多数を占め、また融通資金も巨額のぼったので、中上川氏が三井に引き取り藤山雷太氏に経営の任に当たらせた。
 ほどなく鈴木梅四郎氏がそのあとを継ぎ、北海道官有林の木材で新聞用紙を製造するため苫小牧に分工場を設けた。そこでは支笏湖を利用し、水力発電事業を計画し、取締役の前山久吉氏が現場監督の任に当たっていたが、三井の出資はおよそ一千万円以上にのぼっていたので、三井家において、この際私を社長にしてこの計画を完了させようとしたのである。
 このとき私は四十八歳で、三井家に奉公してから早くも十八年が経過していた。本来私は文筆の世界に生息するべき人間だと自覚していたので、五十歳になったら実業社会から身を引くことが、この社会に身を投じた最初の時からの予定だった。ところが王子製紙会社の苫小牧工場はこれから二年半で落成するという計画だったので、この仕事を私の最期の奉公にして、工場が完成次第、実業界から身を引くということを思いつき、こころよく任命を承諾したのである。
 このような次第で、私が王子製紙会社社長になってから、明治四十四(1911)年末に、今の王子製紙会社社長である藤原銀次郎氏を後任として同社を辞し同時に実業界を退くまでの期間は約二年半だった。

 苫小牧工場の建設監督には前山氏が、製紙機械の据え付けには現在重役である高田直屹氏が当たった。アメリカから製紙技術者一名を雇い、みごとな新聞用紙を生産できるようになった。
 その一方で、山上に周囲四里(注・一里は約4キロメートル)の湖水をたたえ、一か所だけに落下口があるという水力発電にとっての天然の利を持つ支笏湖において発電事業が完成した。これは、王子製紙会社の基礎を盤石にするものであったと思う。
 さてこの事業が完成した明治四十四(1911)年の夏、当時皇太子でましました大正天皇が北海道に行啓された。宮内大臣の波多野敬直子爵、北海道長官の石原健三氏らの随行で、苫小牧工場に台臨(注・皇族が来ること)の光栄をたまわったので、私は社長としてつつしんでご案内の役目を勤めた。
 私は明治三十二(1899)年ごろ、皇太子殿下が富岡製糸場に行啓されたとき、三井源右衛門(注・新町三井家8代高堅)氏とともにご案内申し上げたことがあった。そのときには、ほかにご覧にいれるものもないので、製糸場の一室に生糸を積み上げ富士山の形にしたものを用意したところ、殿下が物珍しくご覧遊ばされたことがあった。今回再び殿下をご案内申し上げることになったのは身に余る光栄で感激の至りにたえなかった。
 殿下は新設の工場をくまなく御巡覧遊ばされ、第一室では木材が機械で粉砕され、次室ではそれがたちまち抄紙(注・紙をすく)台の上に流れ出て、やがて純白の新聞用紙になる様子を興味深く思われたようで、いろいろなご下問があった。その晩は工場内のクラブにおいてご一泊されたので、私は次のような腰折(注・へたくそな和歌と謙遜するいいかた)を懐紙にしたため、畏れ多くも殿下の台覧の記念にしたのである。(注・原文では「涜(けが)し奉る」)


   白妙にすき出す紙を時ならぬ 蝦夷の雪とやみそなはすらむ


 このような次第で、王子製紙会社の心臓ともいうべき苫小牧工場ならびに支笏湖水力電気事業が完成したのは明治四十四(1911)年の上半期の終わりだった。その下半期において、私はいよいよ引退の決心をした。
 後任者については、当時本社の事業に大きな関心を持たれていた井上世外侯爵や三井幹部の意向を察して藤原銀次郎氏が適任であるということになり、私をはじめとするそれまでの役員は総辞職し、藤原氏を新社長と組織する新内閣が組織された。
 藤原氏はそれまで三井物産会社の小樽支店長を勤め、北海道の木材の海外輸出事業などに当たっており長年の経験を積まれていた。その実業的な才覚で着々と本社事業を拡大して、今日見る大会社を作り上げたのであるが、私がわずかな期間なりとも足跡をとどめた会社がますます隆盛を誇っているのを見るのは、まことに欣快の至り(注・気分がよい)である。


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百四十五 北海道の雪見(上巻503頁)


 私がはじめて北海道に旅行したのは明治四十(1907)年のことで、三井鉱山会社理事の時代に、現在同社で専務をしている牧田環君のほか二、三人と一緒に五月初旬に函館に渡ったのである。そこでは桜、桃、藤、その他さまざまな草花がどれも一度に開いて非常に見事だったので、私は次の一首を口ずさんだ。


   たちかへり都の友にほこらばや 年にふたたび花を見てけり
 
 このときの仕事は、三井にもっとも関係の深い北海道炭鉱会社の実況視察と、そのころ三井でに獲得した石炭山を踏査することだった。これに二週間かかったので夜分のつれづれを慰めるために牧田君に謡曲の松風を伝授し始め、帰り道に青森に戻ってきたときに初めて卒業免状を渡したなどというようなこともあった。
 それから一年たち、私は四十二(1909)年に王子製紙会社の社長に就任したので、苫小牧工場の建設工事の監督のためにしばしば北海道に往復することになった。
 あるとき東京から青森行きの汽車の中で、そのころ旭川師団長だった上原勇作中将のちに元帥と同車した。別れ際に中将は「この冬は是非とも旭川に来遊せられよ、北海道に来て雪を見ざる者は、共に北海道を語るに足らず」と言われたから、私はその言葉に興味をそそられそのうち仰せに従って、雪見の人となりましょうと答えておいた。
 そして明治四十四(1911)年、私は仕事で北海道に行き、旭川を経て沿道の積雪を見物しながら鵡川(注・むかわ)の山中に分け入り、上原中将は訪問しなかったが、とにかく以前の約束を果たすことができたのである。
 私が二月の酷寒の時期を選んで北海道に山中に分け入ったというのはほかでもない、王子製紙会社苫小牧工場の仕事であった。この工場では北海道の官有林から、エゾ松、トド松を払い下げて、随時、輪伐(注・森林の樹木を毎年順番に一部分ずつ切っていくこと)を行っておき、春の初めの雪解け前に積雪の上を滑らして海岸方面に運搬していた。その終点から軽便軌道によって工場に運搬するので、製紙原料木材の搬出を実地検分するには厳寒積雪中を選ばなければならないのである。
 私は二月上旬に東京を出発して苫小牧に赴いた。同行者三、四人と一緒に石狩平原を通過して、まず旭川に向かう途中、その年は特に積雪が多かったのでかつて想像もしなかったような珍しい光景を見ることになった。
 たとえば、石狩平原の民家はひさしの上まで雪に埋もれているので、かまどの煙が地下から立ち昇っているという面白い光景だった。またある家のひさしの上には、アヒルが並んで日向ぼっこをしていたが、これは池の水が雪に埋もれているので身の置き場がないからだろう。

 ところで、私はひとつ大きな思い違いをしていた。以前に新年の河という勅題が出たことがあった。そのとき私は旭川の名を材料に取り入れようと思い、いくら北海道でも石狩川のような大河が全部氷に閉ざされることはあるまいから、中央には一筋の青き流れがあるだろうと思って、なにげなくその意味を詠み込んだことがあったのだ。ところが今回実際に来てみると、カムイコタンのあたりでは、川の全面がカンカンに凍っており牛馬がその上を通行するというありさまなので、これは大失敗だったと一笑したのである。
 さて旭川から落合に向かって汽車の旅を続け、その途中で鵡川の山中に分け入った。大木の林立している間の部分は積雪が割合に浅いので、わらぐつ(注・藁沓)をはいて、やっとのことで鵡川の木材伐採所に到着した。その木小屋の中で一泊し、大囲炉裏のほた火(原文・榾柮火。枯れ枝や小枝を燃やしたたき火)に当たり、遠く浮世を離れたときには、得も言われぬ一種清浄の気分を感じ、次のような腰折(注・へたくそな和歌と謙遜するいいかた)三首ができた。


   あしびきの山静かなり杣(注・そま)が家を めぐれる水の音もこほりて


   あたたけきほた火あたりて山賤(注・やまがつ。きこり)と かたる今宵を我が世ともかな


   おそろしき熊ものがたり聞く程に 夜や更けぬらし寒さ身にしむ


 そのような次第で、この晩は、ほた火をストーヴがわりにして炉辺にごろ寝し、翌朝は持参した缶詰や雑炊で腹ごしらえをすると、木材運搬道を視察しながら緩い勾配の山腹の下って行き、いったん木材集合所に立ち寄ったあとに夕刻に苫小牧に戻りこの行程を終えたのである。
 北海道の見ものは雪景色である、という上原将軍のひとことが私を裏切らなかったことはもちろんだった。世の中に、もしもこのことを知らない人がいるならば、一度試してみることをおすすめする。


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百四十四 帝国劇場の使命(上巻500頁)


 日露戦争後、それまでわが国の頭上を覆っていた暗雲が吹き払われて日本晴れの気分になった国民は、明るい方向に向かってさまざまな文化事業を思い立った。
 そんななか、海外の文明国からこれからはどんどんと貴賓が来遊してくるにあたって、それを接待するための大劇場を持たないというのは一等国である大日本の国辱である、という議論や、かのフランスで国がパリの大劇場を保護しているように国賓を接待するために特殊な劇場に相応の保護与えるのが、いわゆる時代の要求であろう、というような議論が私の周囲でも闘わされていた。すると時事新報社長の福澤捨次郎氏が非常にこれに賛成し、当時、宮中方面に大きな勢力のあった伊藤博文公爵に同意を求めたところ、公爵もまたこの説に共鳴され、渋沢栄一、大倉喜八郎、近藤廉平、藤山雷太、田中常徳、手塚猛昌らの実業方面の人々の賛同を求めた。井上馨侯爵はこれに対し比較的冷淡だったが、伊藤公爵の口添えがあり、最後には反対しないということになり、三井、三菱もそれぞれ千五百株ずつ引き受けるということになったので、明治四十二(1909)年二月二十八日に創立総会を催し、百二十万円だったと記憶しているの資本金で丸の内に三菱が所有する二千坪の敷地に一劇場を建設することになった。
 私が明治十八(1885)年ごろに末松謙澄子爵らとともに演劇改良論を唱えていたころ、伊藤博文公爵が私たちの集会にみえて意見を一度述べられたということはすでに記述したとおりであるが(注・21「演劇改良の発端」を参照のこと)、それから二十年あまりが過ぎ、今また公爵がこの運動の助成をされたのは、まことに奇縁だと言わざるを得ない。
 こうして、私が執筆した創立趣意書には、「帝国劇場創立は、現代緊急の文化事業で、一等国なる大日本が、大に外賓を歓迎するには、この設備なかるべからず、そのほか、芸術奨励の意味においても、皇室より若干の御保護あってしかるべきことであろう」というようなことを書いたと思う。
 当時私は三井鉱山の理事であったから、その内規に従い発起人や役員にはならずに、ただ文芸顧問としてすこしばかり参与しただけだった。
 さて帝国劇場は、明治四十四(1911)年二月十日に落成を告げた。この工事中に、不幸にして伊藤公爵の薨去があったので、当初私たちが希望していたような皇室との関係もまったく絶えてしまい、従ってその御保護を仰ぐことはできなかっった。
 しかしとにかくこの劇場ができあがった時には、東京、いや日本における、第一等の劇場として帝都名物の随一に数えられた。大正十二(1923)年の震災までは、所属の俳優も一流クラスの者をまんべんなく揃えたほか、劇場が自家養成した女優もいた。また海外の芸術家を招聘する際にも非常に便利な劇場施設となった。
 堂々とした陣容他を圧していたから、興行はだいたいにおいて毎度好成績を収め、その積立金が一時は資本金の倍にまでなるに至った。
 しかしその後、歌舞伎座のようなより大きな劇場が現れ、東京第一の値打ちは失われ、また、特に癸亥(注・干支の、みずのとい。この場合、大正12年)の震火災に遭い、復旧後の経営が思わしくなく、ついには貸劇場の悲運を見るに至った。これは創立当初の意気込みからするとまことに遺憾と言わねばならない。
 昭和五(1930)年、帝劇は十年の期限で劇場を松竹合名会社に賃貸し、松竹は最近ではこれを活動写真小屋(注・映画館)として使用している。このことにつき私は、あるとき松竹社長の大谷竹次郎氏に意見をきいてみたところ、氏は「帝劇は開設当時、東京随一の劇場として、満都の人気を集め、経営者各位がいずれも紳士の顔揃えなので、演劇の品位を高めると同時に、俳優の地位を引き上げ、一応その使命を果たしたのである。しかるに、その後、東京により大きな劇場が出現したので、松竹はこれを借用して、東京第一の活動小屋にした。ところがこの後に新設される活動小屋は、どれもがこれに対抗して、より大きな設備をつけるようになったので、帝劇はさらに、第二の使命を果たすにいたるだろう」ということであった。
 もちろん、演劇と活動写真に、どちらが高級かいうような特別な軽重があるわけではない。帝劇が活動小屋になったからといって、それほど悲観することはないかもしれない。しかし帝劇発起当初の抱負を回想してみると、気持ちの上で満足しがたいものがあるので、私は少しばかりの卑見を述べることにする。
 今日の日本の劇場では、一流の俳優が自己の面目を賭けて独自の技芸を熱演する機会がないように思う。二年か三年に一回くらいの順番を決めて、月並な出し物ではなく、前もって入念に研究した(原文・「工夫に工夫を凝らした」)独自の型を後世に残そうという意気込みを持たせて俳優たちに登場させるようにしたら、必ずや芸術的な向上に貢献することになるだろう。俳優の声量には限りがあるので、西洋諸国の実例に照らしても、演芸に適度の余裕をもたせるためには、現在の帝劇くらいの大きさがもっとも適当だと思われる。もしできることなら、今後そのような目的のために帝劇を利用する道はないだろうかと大谷氏に提言したところ、氏も一概にはこれを否定されず、一応考慮してみようということであった。
 いつか私たちの希望が実現し、帝劇がさらなる新しい使命を負うことになるのかどうか、今後刮目して(注・目を見開いて)見守りたい。


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百四十三  音羽護国寺(上巻496頁)


 私は、新義真言宗(注・原文では真義真言宗になっている)護国寺とだんだんに深い関係を結ぶようになり、今では同寺の檀徒総代、そして護国寺維持財団理事長になっている。

 この関係が生まれた因縁は、明治四十二(1909)二月ごろ、その前年に長逝された小出粲翁のために、山県含雪公爵が篆額を、高島九峰氏が碑文を書いて記念碑を建立することになったときにうまれた。その候補地を選定している最中に、御歌所寄人の加藤義清氏が、護国寺境内にちょうどよい場所を見つけたと言われるので関係者一同で実地調査をした。相談の上で観音堂前の老松としだれ桜の間が適当だろうと決定し、加藤氏の紹介で護国寺の許可を得たのである。
 同年四月、小出粲翁一周忌の直後に現存する大石碑を建て、「寺郭公」を兼題(注・あらかじめ出された和歌の題)にして門下一同の和歌をつのったりもして首尾よく建碑式を終えることができたのである。
 そもそも護国寺は天和元(1681)年、上野国碓氷八幡宮の別当、大聖護国寺亮賢が幕府の帰依を受け、ここに伽藍の建立を開始したものである。
 その後元禄十(1697)年に、五代将軍の母、桂昌院の祈願所としてさらに観音堂(注・本堂)を建立することになり、同年五月に上棟式を終えたことが、かの有名な隆光僧正の日記に記されている。
 ところでこの観音堂は、当時全盛を誇った紀伊國屋文左衛門が、いつでも三つの寺院を建立できるだけの木材を所有していたというその木材を使って、わずか数か月の間に建て終えたという伝説が今でも寺に残っているそうだ。

 さて当寺は境内が五万坪、千代田城の西北に位置し最高の景勝地を占めていたが、維新後に二万五千坪を皇室御用墓地に召し上げられ、五千坪を陸軍共同墓地に編入されたので、今では約二万坪を有するに過ぎない。しかし東京市内にあって老樹が鬱蒼(注・うっそう)と茂り境内清浄な寺院といったら、この護国寺のみと言ってもよいくらいであろう。
 徳川将軍家が単独で建立した寺院であったから、維新前には墓地もなく檀徒もいなかった。そのために維新後はまったく維持の道を失ったが、ほどなく三条実美侯爵が亡くなり(原文「塋域を卜され」)、山県、大隈、田中(注・光顕)、山田(注・顕義)ほか、南部、酒井両伯爵家などが陸軍墓地をこの境内に定められたので、それ以来よくやく檀信徒が増え、観音堂裏手の空き地も今ではすき間もないほどになってしまった。そこで昭和六(1931)年に陸軍省から、以前に納めた五千坪の中から六百坪を分割してもらい今後の墓地の需要に応じることになったのである。
 このような次第で当寺の境内は名公巨卿(注・身分の高い著名な人々)の墓所が並んでいることから、ここを、いわゆる墓地公園とみなし、その後、宝物館も建設された。ここでは境内に埋葬される名公巨卿の遺品を陳列し、学校の生徒などが墓参をしたあとにこの遺物の参観をして広く追悼修養の助けにする目的で提供されたのである。



高城大僧正(上巻498頁)


 私は前に記したように、明治四十二(1909)年、歌人の小出粲翁の記念碑建立の際に発起人の一人として、しばしは護国寺に出入りしているうちに、護国寺第四十五世住職である大僧正の高木義海老師に拝謁する機会に恵まれた。
 老師は福井県今立郡新横江村大字横越の生まれで岡田仁兵衛の長男だが、十九歳のとき郷里を出て千葉県松戸村宝光院にはいり、文久三(1863)年、同郡根本村吉祥寺の住職となり、その後、明治三十四(1901)年に真言宗各派分立の際に護国寺に移った。ここではもっぱら自門の興隆のために尽くし、同四十四(1911)年、衆望により豊山派の管長になり、同年五月、七十六歳をもって遷化された高僧である。

 さて、私が初めてお目にかかったのは老師が七十四歳の時だった。その風采は、田舎の人のように身体が頑丈な作りで、なんら飾るところがなかった。言葉にも国なまりがあり、いかにも朴実(注・律儀で誠実)な性格をあらわしていた。率直で、「赤心を推して人の腹中に置く(注・他人を疑わず誠意をもって接する)」のおもむきがあり、私は一目で非常に敬服したものだ。
 ある日のこと、老師は真心をこめて、つくづく次のように述懐された。
 「愚僧(注・僧が自分をへりくだっていう)は久しくこの寺に住持しているが、いかんせん幕府の一建立とて檀家がはなはだ少ないため、一度本堂が破損すれば、本尊を雨ざらしにするのほかないので、愚僧は多年、食う物も食わずに倹約し、今日までに四万円ばかりの資財を蓄積したが、愚僧の余命いくばくもないから、今後この資財は僧侶よりも、むしろ俗家の手で保管してもらいたいと思う。聞けば足下(注・あなた)は、三井家につかえているそうだから、今より当寺の檀徒となって、ながくこの資財を擁護していただきたい」
 このように言われたひとこと、ひとことに誠意がこもり、その熱心さに私は非常に感激したので、さっそく墓地を購入して檀徒の列に加わった。ほどなく前妻が死亡したので、とりあえずこの墓地に埋葬し、その後護国寺維持財団が設立されると、老師の高弟であった佐々木教純師が執事になられたので、ともに老師の遺志を守り財団理事になることを承諾された鍋倉直、池田成彬の両君とも協力して財産を増殖することに助力した。
 その結果、今では十七、八万円の巨額に達したので、高城老師もさだめて地下で満足なさっていることだろうと思う。
 昭和七(1932)年五月、第四十九世護国寺住職の小野方良行大僧正が遷化されたとき、佐々木教純師がすぐに次の住職に任ぜられたことは、護国寺の将来の隆盛のためにまことに慶賀のいたりである。


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百四十二  家族の消長(上巻492頁)


 私は明治四十(1907)年に老父を失い、四十二年に前妻を亡くしたが、同四十三年に後妻を迎え翌年に初めて嫡男を得た。つまり四年のあいだに、ふたりを失い、ふたりを得たというわけで、人生の加減乗除からは逃れられない運命だと思われた。
 老父と前妻についてはすでに触れた(注・140「老少無常」を参照のこと)ので、その後の私の家庭生活に関することに、些事であるがちょっとだけ言及させていただくことをお許し願いたい。
 私の前妻は子宝に恵まれなかったので、晩年に横浜貿易商会常務の山田松三郎氏の三男を養子にもらい、その寂しさを慰めていた。しかし前妻が早世したので、私は麹町区一番町の比較的規模の大きい家に養子とたったふたりで住むことになり、家事の面で非常に不便を感じたので、翌年の十一月に、平岡熈翁の次女、楊子を後妻に迎えた。
 媒酌は井上馨侯爵夫妻で築地精養軒で結婚披露宴を催した。そのときには清浦奎吾伯爵が祝辞を述べてくださった。
 このときの余興で青海波を舞った藤間政弥の地方の唄い手は清元お若であったが、これがお若が公開の場で唄った最後になった。
 その翌年四十四(1911)年十月二十六日に、私は思いがけなく一男児を得た。媒酌人だった井上侯爵は、一昨年、伊藤がハルピンで亡くなった日に、君の息子が生まれるというのも妙なので、自分が名付け親になってやるが、君が義だから、せがれは忠として、忠雄というのがよろしかろうということで、奉書に麗々としたためて届けてくださった。相も変わらない徹底的な親切で、まことにありがたく思われた。

 私の兄弟は六人で、私を除くと、みな子福者が多く、なかには七、八人の親となっている者もあるのに、私は妻帯以来約二十年たっても、まだ一子も得ていなかったので、もはや子供はないものと思っていた。だから忠雄が誕生したときにも満足な子供が生まれるとは思えなかったのに、その子が幸いにも男子であったので、いつもながらの腰折(注・へたくそな和歌という謙遜表現)を口ずさんで、自分のために祝ったのである。


  国の為めつはもの一人捧げ得て 人数に入る心地こそすれ



家庭の音曲(上巻494頁)


 私が明治二十四(1991)年に前妻を迎えたときは、なんの考えもなかったのに彼女が音楽好きで、琴を弾き、胡弓を引き、謡曲を謡い、鼓、太鼓を打ち、しまいに三味線曲もやって河東節まで練習したというのは、もちろん夫唱婦和で趣味を同じくするためであっただろう。ところが私がまたこの上なく音楽好きであったので、一家で共に楽しみ慰め合う趣味を持てたことは人生における幸福のひとつだったと思う。
 そのため後妻を選ぶにあたっても、第一条件としてまずは音楽の趣味がある者ということで、伝統的な音楽の家庭に育った平岡熈の次女が、いいなずけの相手が病気で亡くなったことで偶然にも婚期が遅れていたのを迎えることにしたのである。それ以来、それまで以上に家庭が音楽的になることになった。
 音楽が風俗や習慣を良い方向に導いたり(注・原文「風を移し俗を和げ」=詩経の一節「移風易俗」から)、社会の融合させるのに役立つということは今さら多くを語る必要もない。シナの聖人も口を開けば礼楽(注・れいがく。礼儀と音楽。中国で尊重された)ということをうんぬんしたほどだが、私の生まれた水戸においては儒教主義が盛んだったにもかかわらず音楽を悪魔の声として嫌悪したので、私の少年時代は家庭内で音楽を聞くなどということは夢にも思わなかった。はじめて東京に出て宴会の席で三味線を聞いたときには、何やら座っていることに耐えられないような気持ちになったものだった。

 しかしその後洋行し、ホームというものを知り、中流階級の家でピアノなどの楽器が置かれていないところはなく、どうということもない近親者の集まりにもおしゃべりのほかに音楽が加わり家の中に和気あいあいとした雰囲気が漂うのを見て、なるほど家庭に音楽が必要なのはこういうことだと認識し、帰国後にはみずからの家庭でもそれを実現しようとしたのである。
 私の岳父の平岡翁が東明流の家元であり、その娘である楊子、つまり私の妻が、父親の嗜好を受け継ぎ、時には作曲をすることもあるので、私も調子に乗って(原文「興に乗じて」)ときどきそれに詞をつけたりした。
 またこれを演奏することも楽しみ、その後、稀音家六四郎にいて長唄を稽古するようになると、私の作詞したものに節付けをしてくれるよう彼に頼んだものも十曲くらいになった。私はこの世を去るまで自分が音楽を楽しむだけでなく、歌詞も節付けも、わが国の上流階級に適し品行に悪い影響を及ぼさないような新しい曲を作って、これまで夫唱婦和でともに楽しむということがなかったために無味乾燥に陥り、ひいてはさまざまな不幸が起こってしまう日本の家庭の欠陥を匡正(注・きょうせい。正しくすること)することにつとめたい。
 僭越ながら、私の家庭を見本にして、近いところから始めて、ゆくゆくは、家庭で音楽を楽しむ趣味を、遠く全国までにも普及させたいと思っている次第である。


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百四十一  京都祇園の名花(上巻489頁)


 京都は昔から美人の多い場所で、遠く藤原時代から歴史に名をとどめる女性が少なくないが、維新後、光一ぴかいちとして無競争の位置に立つほどの美人は非常にまれである。たとえて言うなら、天体には数限りない星があっても北極星とか宵の明星とかという誰にでもその名を知られている星がきわめて少ないように、ぴかいち美人もまたきわめて稀有だということだろう。
 明治初めの京都祇園では、お嘉代という美人の名が高かった。私は、この女がある名家に落籍されて何人かの子供の母になったあとに見て昔の色香をしのんだに過ぎない。
 それから十数年後の日露戦争前後に祇園町でぴかいちの名声を担ったのは、おそらく池鶴のお政だろう。この婦人は嵯峨の里に生まれ、加茂川の水にさらしたような雪の肌で、色があくまでも白く、うりざね顔で明眸皓歯(注・美しい瞳と白く揃った歯を持つ美人)。しかも中肉中背で気立てもいたってやさしく、また頭もよかった。接客術もたくみで、舞の手も相当に鮮やかだった。ただし、その玉にキズ(原文白璧の微瑕。陶淵明集序から)ともいえるのは、笑ったときに、より器量良しにはならないということで、むしろ無心で人前に立ったときに極上の美貌を発揮するという特徴があった。
 とかく美人には薄命がつきもので、遅くとも三十代で人に惜しまれる間に白玉楼中の人となる(注・死ぬ。本来は、詩人に対して使う)のがお定まりである。そのいい見本は、桜時雨という狂言になった吉野太夫である。彼女を妻にした灰屋紹益はその死をいたんで  
 

    都をば花なき里となしにけり 吉野を死出の山に移して


という弔歌を詠じ、荼毘にふした遺骸の灰を酒に浸して飲んでしまったということである。吉野が死んだのは、実に三十一歳であった。

 ところがお政のほうは、幸か不幸か「すこぶる」つきの健康体で、今や六十路の坂に到達しようとするまで生き延び、出会う人に今昔の感を抱かせているところが少々桁外れであるが、私の知る限りでは、まずこの人をもって近代京都のぴかいち婦人であると認定しなければなるまい。


  

大阪南地の明星(上巻490頁)


 前記のお政から少し遅れて、大阪南地に富田家八千代という美人が現れた。お政に比べると、だいたいにおいて小づくりで、色もお政ほど白くはなかったが、鼻筋の通った美形の顔に一目で人を悩殺するやや大きな目がいわゆる千両の働きをなしていた。
 非常に頭がよく、きわめて明るく、かつ玉を転がすような美声で対話する客にさまざまな話題を提供し、座を見て法を説くこと(注・釈迦が、相手を見て説法の内容、方法を変えたように、相手に合わせること)にかけては他の追随を許さなかったので、一時は南地の人気を背負って立つの観があった。
 もうひとつこの婦人が珍しいのは美貌の内側に負けじ魂を秘めていたことで、当地の習慣である正月の今宮詣りの宝恵駕籠(注・えべっさんの、ほえかご)を派手に興行するぜいたくぶりには仲間の中で肩を並べる者がいなかった。

 そのうえ、舞踏にかけては、はっきりと群を抜き、南地温習会(注・ミナミの舞踏発表会でも彼女の出番には観客が倍増したということだ。
 しかし、この負けず嫌いの芸妓気質が彼女の暮らしぶりにも影響したばかりか、両想いの紳士が事業に失敗して、ついに落籍の機会が失われたことは、典型的な美人薄命のようにも見えた。
 しかし頭のよい彼女は、ほどなくして画家である菅楯彦の世話女房となり、大正の終わりに菅氏が東京で自作の展覧会を開いたときなど、病気ながら上京してこれを助けていた姿には同情を禁じ得なかった。
 八千代は、いつのころからか、私の亡妻の千代子と知り合い同士になった。早世する女性のあいだにはなにか気質が似通うものがあるのか、あるいは、その名前の似ている偶然もあったためか、生前は互いに音信を絶つことがなかった。
 明治四十二(1909)年に千代子が永眠すると、彼女は心のこもった供物を贈ってきてくれたので、私はそのやさしさを愛でて、


   妻琴の音にかよひたる友千鳥 八千代と聞くもなつかしきかな


という腰折(注・自作の和歌をへたくそと謙遜するいいかた)を一首送り、そのあたたかい気持ちに感謝したことがあった。
 しかし八千代はお政とは違い、ほどなく所天(注・ここでは夫のこと)の熱愛をよそに、さびしくこの世から旅立ったので、いっそう彼女の薄命に同情せざるを得なかった。

 さてまた大阪南地には、八千代と同時に大和家お染という美人もいた。これは八千代とはタイプが違い、大柄で宮川長春の浮世絵の上品な御守殿上臈(注・ごしゅでんじょうろう。大名家に嫁いだ将軍家の娘に仕える高級女官)のようで、小袖幕(注・元禄時代の花見で、桜の木と木の間に綱を張り小袖を掛け連ねて幕の代わりにしたもの)の中から抜け出て桜の花の下に立ちそうなようすをしていた。
 彼女は、大阪の銀行家であった野本驍氏に落籍されたが、氏の没後は南地に帰り大和家の女主人になっていたこともある。今でもまだ健在だときいているので、同じ美人ながらあまり薄命ではないかもしれない。
 こうして、明治の後半から大正にかけて、京阪の臙脂界(注・えんじかい。花柳界のことか?)を見渡して私の記憶に残るのは、まずこの三人くらいである。こうしてみると、天下の美人もまた少ない哉、と言わざるを得ない。


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百四十  老少無常(上巻484頁)


 私は明治四十(1907)年に父を失い、二年過ぎた同四十二年に妻を失った。これはもちろん全く私の家まつわる私事であるが、私にとっては生涯にかかわる一大事で、これについて一言述べておくべきであると感じるので今回言及することにした。なお当時、数多くの大家から亡妻に寄せられた追悼の美辞麗藻(注・詩や歌など)をなにもかも死蔵していることにもたえがたく、ついでながらこの紙面で使わせていただいたので読者にもどうか諒解を願いたい。
 私の父は名前を常彦といい、その四代前から水戸藩に仕えていた。維新前に、藩主の順公(注・水戸藩10代藩主、徳川慶篤よしあつ)に従い禁裏守護のために上洛したことがる。また、矢倉奉行を勤め、水戸藩の武器倉庫を整理したことがあるというのが藩士としての履歴である。
 刀剣の鑑定については一隻眼(注・独特の批評眼、見識)を持ち、時には自分でも砺(注・まれい。刀を研ぐこと)した。また水戸家の名刀について何から何まで記憶しており、それを語ることを楽しんでいた。
 居常恬澹(注・きょじょうてんたん。いつも平静)で物こだわらず、悠々自適して世を終えた。享年八十九歳であった。
 私の亡妻は、長州藩士、長谷川方省の次女で、千代子といった。明治二十四(1991)年に二十一歳で私に嫁ぎ、十八年間生活をともにし三十九歳で早世した。
 彼女の性質や行いについては、私が選定した戒名である幽芳院貞文妙覚大姉の文字にほぼ言い尽くされている。短い生涯は文芸と音楽とで始終した。
 和歌を小出粲つばら、大口鯉二に、琴、胡弓を山登萬和、川口玉栄に、茶道を青木政子に、小鼓を大蔵利三郎、山崎一道、三須平司に、太鼓を観世元規に、仕舞を梅若六郎に、河東節を山彦秀次郎に学んだ。また自己流で絵画を描き、写真を撮り、趣味の上において私と共に楽しむことを心がけた。
 だがこれらの諸芸のなかでも、もっとも琴に長じ、習った年月が短いわりには和歌にもやや見るべきものがある。次の四首などは、その一端を知るべきものだ。


      春雪
   梅が枝にそれかとまがふ花はあれど 消えてあとなき春の雪かな

      野蝶
   春の野のすみれつみつつ行く我を 道づれがほに蝶のおひくる

      夜春雨
   はしためがささやく声もたえはてて 雨しづかなる春の夜半かな
 
      秋暁
   寝覚してきく鐘の音も身にしみて あはれ催す秋のあかつき


 千代子がみまかった時、山県含雪(注・有朋)公爵は常磐会の幹事に時雨という題で会員一同に追悼歌を詠出するように命じられた。また大口鯛二氏は春雪という題で、その門流である「ちぐさ会」から同じように和歌を募集された。その他の先輩や友人たちから寄せられた和歌は二百首余りにものぼり、翌年の春、岡田八千代女史に託して、「ありし世の巻」を執筆してもらい、「言葉の友の巻」「時雨の巻」「春雪の巻」「なきあとの巻」の五巻を併せて一冊にし「小夜ちどり」と名づけ、知り合いに配った。
  この中にある、名家の追悼歌首を以下に掲げる。


      寄時雨追悼  山県有朋
   さびしさのかぎりも見えてひとめさへ かかる野末にふる時雨かな

        吉田貞子
   はれ曇る時雨の空に似たるかな おもひいでつつぬらす袂は

        益田 孝
   小鼓にまひつる夢やむすぶらん 時雨の音の窓をうつ夜は

      寄雪追悼   大口鯛二
   花とみし春の淡雪人みなの たもとの露となりにける哉

        三井五十子
   八千種の園の姫松雪折れの なげき見んとは思ひかけきや


 このほかにも、数々の追悼歌があった。

        三井高保
   飛鳥川かはるふちせの友千鳥 しぐるる夜半の声のかなしさ

        高島張輔(注・九峰。高島北海の兄で漢詩人)
   かをりのみ世にはとどめて春風の 吹くをもまたず散りし梅かな

        大倉鶴彦(注・喜八郎)
   さまたげの多きうき世や花さけば かならずすさぶ隅田の朝風

 私の実家には長寿の者が多く、明治四十(1907)に父が没したとき私は四十八歳ではじめて葬儀というものに出合った。ところがそれから二年で今度は年下の妻を失い、このような場合の心境を痛切に実感するにつけ次のような歌を詠んだ。

   程ふれば忘れんと思ふ面影の などさやかにはなりまさるらん

 また、ある日墓参りをしたとき、雪が深く積もっていたので、箒でみずからそれを払いながら、

   行吟又到墓門辺 髣髴音容在眼前 手掃墳頭三尺雪 峭寒或怕透黄泉
  (注・峭=険しい 怕=おそれる)


と口吟した。
 こうして四十九日を過ぎ、翌年の二月中旬に寸松庵で茶会を催し、床には寂蓮法師の筆になる
   無明轉為明 如融氷成水 
   注・轉=転)

の一軸を掛け、追悼の意を表した。

 回顧すれば、今ではすでに二昔半(注・25年)が過ぎ、鬢絲禅榻(注・びんしぜんとう。白髪まじりになる。唐の杜牧の詩の一節)、唯隙駒(注・月日がはやく過ぎること。荘子の一節)のはやさに驚くのみである。


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 百三十九 
河東節稽古初め
(上巻481
頁)

 私は前にも述べたように明治二十六(1893)年ごろから謡曲を習い、ついで能楽におよびそれから十数年間継続したが、同四十(1907)年ごろになり合方(注・あいかた。三味線を弾く人)のいない謡曲だけでは満足ができず、なか三味線曲を稽古してみようという気になった。
 何を稽古しようかと考えてみたが、義太夫は家庭の音楽ではないし清元、常磐津も最初から習おうという勇気は出ない。そこで、少し活気には乏しいがシンミリとして上品な河東節に狙いをつけることにした。そして、そのころまだ元気だった同流の家元であった山彦秀次郎を頼りにし、亡妻もまだ存命中だったので、妻は三味線、私は唄の稽古を始めたのだった。
 最初に習ったのが熊野(注・ゆや)」だった。そもそも河東節というのは、江戸時代の中期に吉原謳歌芸術として出現したもので、浅草の札差旦那衆に歓迎された。したがい、吉原廓内で流行し、有名な玉菊太夫などはもっとも堪能だったと伝えられている、
 そのころの粋な遊客が、流連(注・いつづけ。家に帰らずに遊び続けること)の間のつれづれに渋い喉をきかせようとするときに、撥(注・ばち)の当たる音の騒々しい長唄でもあるまい、というところから廓において歓迎されたのである。後年、荻江節が吉原に流行したのも、また同じ理由によるのだろう。

 このような事情なので、河東節というのは旦那芸であって、その人にみ合った力で唄うものだから、節回しものらくらしていてタイミングを取るのがすこぶる難しい。これには閉口して、私は次に取り掛かった邯鄲の途中でいったん稽古を中止することにした。
 さて、師匠の秀次郎のことであるが、以前に、すでに簡単に説明したように、一種風変りの奇人である(注・86「明治中期の芸人」を参照のこと)。彼の晩年に歌舞伎座で演芸会があった時、演奏の途中で便意をもよおしてしまい、合いの手が長いところを見計らってそっとその席を立ち、用便のあと再び元の座にもどって平気でその曲を終えたということだ。このような奇行において、彼は神武以来ほとんど比類がなく彼の独擅場であった。
 そのかわり稽古にかけては、だれかれの区別なくズケズケと小言を言い、どこか気骨があるのが面白かった。またその掛け声の立派なことといったら、あの「助六」のときに、ハヲ―という声が劇場の隅々にまで響き渡った、というような話が伝わっている。
 ともかくも、私の三味線曲の口開きはこの河東節にその端を発したのであった。


清元師匠お若(上巻482頁)

 私が河東節を習い始めてから二年ばかりたった明治四十二(1909)年の暮れに前妻が没したため、稽古もしばらく中止していたが、翌年の十月に迎え取った現在の妻の実家が音曲の家であった関係で、私はまたしても三味線の修養にとりかかった。
 陰気な河東節には閉口していたので今度は思いきって清元を選んだ。そのころの女流清元の第一人者であった、五世延寿太夫の妻であるお若を一番町宅に招くことにした。そして夫婦いっしょになって最初に習ったのは山姥の山巡りの段だった。
 そのころは河東節でいくぶん喉が開いていたから、その分進歩は早く、一段を上げるともう人前で唄ってみたくなってしまった。 
 そこで、まずはその試験官として先代の清元梅吉と延寿太夫に来宅してくれるよう頼み、おじけることもなく(原文・おめず臆せず)彼らを前に発声してみた。そして、とにかくその試験に合格したので、今度は浜町の常磐屋(注・本文中、常磐屋、常盤屋、常盤家などの字が用いられているが正式には常盤屋のようだ)に、お若の女流の高弟(注・優秀な弟子)を十数人招き、はじめて同門の衆評(注・おおぜいの人の批評)を求めた。
 その結果がすこぶる良好なので、以降だんだんに深入りして、大正二(1913)年ごろからは麻布狸穴に清元稽古所を設け、お若に稽古をつけてもらう一方、延寿太夫にも出稽古に来てもらい、桧垣、浅間、夕霧、隅田川、お菊幸助などという当流の奥伝物(注・奥義の伝授にかかわるもの)をも伝習するにいたった。
 延寿太夫の劇場への出演がこのころから非常にひんぱんになったので、私はお若にいて、もっぱらお葉(注・四世延寿太夫の妻で、本人も清元の名人)直伝の節回しを研究したのである。
 お若は中年まで非常な美声であったそうだが、その後すこし喉をいためたため、明治四十三(1910)年に私が後妻を迎えた披露宴で、妹である藤間政弥の青海波踊りの地を唄ったのを公開演奏の最後に、その後はもっぱら女流門弟の育成に没頭した。
 新橋、日本橋の歌妓のなかから、〆子、丸子、利恵治、小花、綾子、おしん、れん子など何人もの歌い手を育て上げ、これらの女流が組織した若葉会という清元の演習会は百回以上も続き、一時は新橋が清元一色になったのは、まったくのところお若の献身的な努力によるものだった。
 お若の語り口は、いたずらに華美をてらうことなく、鼻におもしろみがあって、節回しの細かなところに得も言われぬ妙味があった。稽古中に喉の調子がいいときには思わず聞きほれてしまい、一人で聞くのはもったいないと思うことさえあった。
 夫の延寿太夫(注・五世)は大器晩成で、大正中期以降はほとんどわが国の音曲界の第一人者になるにいたったが、お葉の遺調をよく伝えて女流清元を育てたお若の功績は、ながく忘れてはならないものだろう。


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百三十八  桂公のニコポン(上巻477頁)

 桂太郎公爵にニコポンという異名をつけたのは誰だか知らないが(注・東京日日新聞記者の小野賢一郎と言われる)、これほどよく公爵にあてはまる尊称はないのではなかろうか。
 公爵は背はあまり高くないがデップリと太っており、見るからに健康そのものという感じである。面相はむしろ丸顔のほうで愛嬌があり、切れ者だが融通が利きそうに見受けられ初見の印象がとてもよい人柄だった。
 公爵が政党員を操縦するときに、ニコニコと微笑んで肩のあたりをポンと叩くと、たいていの硬骨漢もグニャグニャになってその統制に服するという塩梅(注・あんばい)なのだが、それをずばり言い当てたのが、ニコポンという異称だろう。

 明治時代を通じて宰相になる人の数は多かったが、伊藤公爵も決して愛嬌がなかったわけではないが、桂公爵ほど愛嬌に富んだ人は他に例がないと思う。
 このようなニコポン的容貌と、あくまで辛抱強い性質を持っていたので、後輩のなかから抜け出して高い位をきわめた。先輩である長州三尊(注・伊藤博文、井上馨、山県有朋か?)さえも凌いで三回までも内閣の首班に立ち、しかももっとも重要な責任を果たすことになったのである。(注・じっさいには伊藤5回、井上0回、山県2回首相になった。桂がもっとも重要な仕事をしたかどうか疑問)

 私は桂公爵とあまり頻繁に接近する機会はなかったが、明治四十三(1910)年の王子製紙会社の社長時代、外国製の新聞用紙の関税引き下げ案が帝国議会の議題にのぼるというときに製業者として国産擁護運動に加わり、渋沢栄一子爵、大川平三郎氏と三人で桂公爵を三田邸に訪問したことがある。そのときには用件のほかにいろいろな時局の問題についても話した。公爵と要談らしい要談をしたのはこのときだけで、これ以外はたいてい風雅遊戯の会合で接触したのである。

 あるとき私は浜町の常盤屋で宴会のあと、実業家の三、四人と公爵を囲み雑談をしたことがある。この夜、公爵は特別に上機嫌で、しまいには身の上話にもおよんだ。(注・一部を読みやすい表現になおした)
「人はなんでも辛抱ということが肝腎である。それについて吾輩が大に感じたのは、東北戦争(注・戊辰戦争)のとき、会津の近くに至って賊軍の重囲に陥り、非常な苦戦でしきりに援軍を待っていたが、糧食も次第に尽き果てたので、今は戦死を覚悟して、敵軍中に斬り込まんとした時、軍中に一人の老人某という者名前忘れたがあって、今突出(注・突撃)すれは九死に一生を得ることもできぬから、辛抱せぬということはないと、切に吾輩らを制止したので、やむを得ずしばらく猶予している間に、包囲していた敵軍がなぜか次第に他方面に動き始めたから、そのまま形勢を観望しているところに、さいわい援軍が到来して、蘇生の思いをなしたのである、このとき吾輩は、しみじみと辛抱の大切なることを感じ、爾来(注・それからというもの)困難な場合に遭遇すれば、常に当時のことを想い出して、できるだけ辛抱するのを吾輩の主義とするに至った古人の歌に、

  すなほなる竹の心にならへ人 うきふししげき世には住むとも

というのがあるが、これも同じく辛抱の心持を言い現わしたもので、吾輩はこれを座右の銘と思っているよ」
と語られた。
 私は、なるほどおもしろい教訓であると思った。さっそくそれを書いていただきたいと思い、女中に命じて短冊を取り寄せ即座にその歌を揮毫してもらったものだった。
 公爵が日露戦争時代から時局多難の中でしばしば苦境に陥りながら、余裕しゃくしゃくとしてこれを切り抜けた手際を見ると、この談話に思い当たる節が少なくない。公爵の場合、例のニコポンに加えてこの辛抱があったので、あのような大成功をすることができたのだろうと思う。
 桂公爵が愛嬌に富み、人の心をつかむ術にたけていたことは人のよく知るところであるが、ふだんの事務を処理するときには、いかにもテキパキと要領を得ていたのも、なかなか真似できないところであった。
 些細な例になるが、明治四十(1907)年前後に井上世外侯爵が発起人になり、木挽町の田中家という旗亭(注・料理屋)で政治家実業家の数十人の会合を開いたときのことである。この会合は、清元延寿太夫(注・五世)の内儀(注・妻)のお若が、最近、声を痛めて公演壇上に立つのをよしとせず、今後はもっぱら清元の師匠になるらしいということを聞いた世外侯爵が、例の世話好きが高じて集まった紳士連中から若干の寄付を集め、お若を後援するための資金を提供しようとしたのである。そのなかには、桂公爵、杉(注・孫七郎)子爵、園田幸吉男爵、高橋是清子爵、早川千吉郎、馬越恭平、加藤正義の諸氏がいた。

 このときに桂公爵は女中に命じて半紙を数枚持ってこさせ、手ずから横とじの帳面を作った。そして自身が書記役になり、筆はじめに、二百円、と書きつけて、そのほかの人は、五百円くらいを最高額に、あちらはいくら、こちらはなんぼと、いちいち承諾を求めてまわり、たちまち七、八千円の勧化(注・かんげ。もともとは寺の建立のための寄付のこと)を取りまとめてしまった。その手際のあざやかなこと。あっという間に勧化帳を完成させて世外侯爵の手に渡したので、侯爵もニコニコとして、満足の意を表された。
 このとき杉子爵だけは、俺は三百円を寄付しようと思うが、金はないから半切(注・全紙の縦半分サイズの紙)に詩を百枚書くことにしよう、これを一枚三円で売って、三百円にまとめてほしい、しかし絶対に三百円以上に売ってはならんぞ、と言われた。その後ほどなく約束を守られたが、いかにも杉子爵らしい行動で、私は桂公爵の機敏さに感心すると同時に杉子爵の脱俗(注・俗事から超越しているようす)にも敬服したものだった。


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 百三十七
伊藤公の文藻(注・文才)
(上巻474
頁)

 伊藤(注・博文)公爵は長州出身の高官のなかでももっとも文才に秀でたひとりであった。詩を作り書も巧みで文章も達者なほうであったが、特に書簡文は群を抜いて立派なものだった。素人のことでもあり詩も書も出来不出来がおおいにあるようだが、その傑作ともなれば持って生まれた春畝山人(注・春畝は伊藤の号)の気分が発露して、他人の追随を許さぬものがあった。
 詩については、秘書役である森塊南が多少の添削を加えたかもしれないが、非常に緊張したときの作品はことさらに面白いように思う。明治二十(1997)年前後の、内閣が始まった時期だったと思うが、官邸から芝山内の末松謙澄子爵の家に立ち寄り所感(注・気持ち)を綴った作を示されたということで、その後ほどなく私が末松氏から伝承した七言絶句は次のようなものであったと記憶している。

  騫凌霄志己非 老来豈復憶高飛 孤雲一片秋天外 満目江山帯夕暉 
 (注・騫=傷つく。鳥の翼。霄=空。暉=輝く)

 この作品などは、割合に野心が感じられなくて、公爵の詩としてはもっとも老熟しているものではないだろうか。
 公爵はまた時々、戯文(注・ふざけた文章)を試みられることもあったが、半分以上は漢文の思想で和臭がはなはだ少ないため、とにかく堅苦しい感じからは逃がれられなかったものの、そのなかに幾分かは洒落っ気が感じられたのは、さすがに公爵の快活なうまれつきから来るものだったのだろう。

 明治三十五、六(19023)年ごろ築地瓢家の楼上で長夜の宴を張られたとき、公爵が巻紙を取り上げてすらすらと書きつけられた俗謡は次のようなものであった。

 「位置(一)は固より高く、荷(二)は甚だ軽し、産(三)は営む所に非ず、詩(四)碁(五)二つながら学ばず、禄(六)は今受けず、質(七)も亦(注・また)置かず、蜂(八)には時々藪の中にて刺され、苦(九)も亦免れず、住(十)は大磯の辺に在り。」

 公爵はこの文句を同席していた平岡吟舟に見せ、君、この唄に節付けができるかと言われたので、翁が手に取ってこれを見てみると、俗謡としては堅苦しいし語調もはなはだ悪いのでこれに節付けするのは難題だったが、翁も例の負けん気からお安い御用でございますと三十分で節付けをしたばかりか、その唄に踊りの手もつけて、侍座(注・じざ。貴人のかたわらに控えている)の若吉(注・33に既出した名古屋出身の芸妓と同一人物か?)が三味線で弾けるようにし、藤間政弥に振りつけを教えて即席料理の舞踏を演奏したので、伊藤公爵も吟舟翁の音楽的奇才には感心したそうだ。これがおそらく公爵の俗謡の絶品で、短いながら公爵の身上をきっちり表現しているところに、公爵の文才(原・文藻)の一端を見ることができるのではないだろうか。

 

小村侯爵の警句(上巻475頁)

 小村寿太郎侯爵は五尺(注・約150センチ)に満たない小男で、しかも痩せぎすだった。身体の割に頭が大きく、頬はこけ目はつりあがって、西洋人の漫画に見受けられる東洋人の顔ソックリであった。
 しかし「蛇(注・じゃ)は寸にして物を呑むの概あり」(注・人を呑むが普通。蛇は一寸の幼いときから人を呑みこもうとするように、若いころから気迫があること)というたとえにもれず、外交上の駆け引きにおいては土俵際で人を驚かせるような技量を持っていたそうだ。
 明治三十三(1900)年の北清事変の際、シナの外交団のなかでその技量をおおいに発揮し、そのきびきびした言動は各国の外交官の肝っ玉をくじき、彼らに日本に小村という外交官あり、ということを初めて知らしめたということである。

 侯爵は無愛想な顔つきで談話中に皮肉な警句をまじえ、それが往々にして毒舌となってしまうのだが、これにショックを受けて相手が驚くのを見て呵々と(注・ワハハと)笑うところは、いかにも人を食ったような様子であった。
 ポーツマス条約締結後のことであったが、三井銀行専務の早川千吉郎が小村侯爵を主賓として実業家連中を十数名浜町の常盤屋に招待したときのことである。早川氏は酒を飲むとかなり酔っぱらって同じことを繰り返す癖があったので、その晩も主人役をがんばって勤めたあと例の繰り言のメートルを上げ(注・激しくなり)主賓の小村氏の前に進み出た。「私は無遠慮に談論はするが腹には何もありませんから、決してお気遣いなされように願います」と言ったのだが、小村氏は侯爵の左右を見ながら、腹だけでなく、頭にも何もないだろうとはっきり言って(原文「喝破して」)例のごとくにからからと笑われたので、一座の人間は冷や汗を流して危ぶんだが、当の早川氏はすでにお酒が回っていたのでその意味に気づかなかったようで、一緒にからから笑って事は終わったものだった。しかし小村氏が外交談判では往々にして相手の武器を奪って逆に刺す、というような辣腕ぶりを発揮したことが、この一事をもっても推し量れるだろう。
 日本の政治家では、小村侯爵と犬養毅氏は小男の二幅対であるが、いずれ劣らぬ弁論の雄で、時に毒舌を吐いて人を罵殺するあたりが非常に似ているところは一種の奇観であるといえそうだ。


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百三十六  大日本史の完成(上巻470頁)


 大日本史は、第二代水戸藩主である光圀卿すなわち義公の創撰(注・発案して編集)されたものである。明暦三(1657)年(注・江戸で明暦の大火が起きた年)、義公が三十歳で駒込別邸に修史局を開かれてから代を重ねること十二代、年を閲する(注・けみする。年月がたつ)こと二百五十年にして、明治三十九(1906)年に、記、伝、志、表の三百九十七巻ならびに目録五巻を明治天皇皇后両陛下に献納し、全部の完成を告げたのである。
 そもそも大日本史は、水戸義公が、大義名分(注・人、臣民として守るべき事柄)が世の中で明確になっていないことに憤慨し、皇統を正閨(注・天皇の血統を正統であるとする)し、人臣を是非し(注・臣下のあるべき姿を議論し)、春秋厳正の筆法で(注・「春秋」に孔子の意見が加えられていたように、「正邪の判断を加えた方法で」の意)、乱臣賊子の心胆をくじき、国体の尊厳と皇室の崇高であることの理由を祖述(注・先人の説を受け継いて述べる)されたものである。その影響は、勤王と斥覇(注・武力で政権をとるを卑しむ)の思想を全国に醸成し、ついには王政維新の大業を完成させたと言ってよいものである。

 その効果が大きかったこともそうだが、その編集の規模も非常に大きかった。伝え聞くところによると、義公が史館を駒込から小石川邸に移し彰考館と名づけ、天下の学者を招いて全力を修史事業に傾けたとき、その総裁の禄高が四百石、次の人が三百石、二百石といったかんじで、編集員が六十人以上もいたのであるから、その俸禄だけでもたいへんなものだったのである。このほかにも、史臣(注・もともとは記録にたずさわる官職のこと)を各地に派遣して資料収集に当たらせたその経費などがいくらかかったのか知れない。もちろん二百五十年にわたる大事業なので、時には汚職が行われたことがなかったわけではないが、水戸の歴代の君臣がどれほどこの事業に精進したかということは、およそ推しはかることができるであろう。
 さて大日本史は、義公の在世中に、安積あさか澹泊(
だの、栗山潜峰(だのというような大学者が多大な精力を費やして編集に当たったので紀と伝の大部分は脱稿したが、まだ志と表には手がまわらなかった。

 その後、寛政年間の文公(注・水戸徳川家6代藩主治保はるもり)の時代になって、修史の機運が復活し、その結果、文化年間の武公(注・7代藩主治紀はるのり)時代に、はじめて紀、伝を朝廷に献納し、書名も大日本史と勅定(注・天皇が定める)された。
 それ以来、志、表が成立するたびに続々と献納をしたが、王政維新の前後は国事に事件が多発したこともあり、やむをえず一時編集を中止しなければならなかった。
 そして明治四(1871)年ごろ、以前に志と表の編纂に大きな功労のあった豊田天功の門人の栗田寛氏が、志と表を完成させることが自分の任務であるとして、ある時には水戸に滞在して専心これに没頭したり、あるときは東京で大学教授などの余暇を利用してこれに従事したりして四十年間ものあいだ拮据経営(注・仕事に励む)したので、明治三十二(1899)年に彼が永眠したときには、十志のうちの最後の国郡志と、あとの三表を残すだけになるほどに完成していた。

 栗田氏は、もう自分では起き上がって完成することができないとわかったときに、養子の勤氏を枕元に呼び、これを完成させてほしいと切に遺言したほどで、栗田氏がいなければ大日本史の完成はほとんど期待することはできなかったであろう。
 後年、彼の高足(注・すぐれた弟子)である清水正健氏が、その功績をたたえ、
 「先生の進退は、日本史の志類と相終始し(注・大日本史のの編纂と重なり)、先生の学術は志類の編輯と相伴へり、日本史紀、伝、その編輯に従事せし者幾十家(注・編集に携わった人の数は多いが)、そのよくこれを大成せしは、澹泊先生一人のみ、日本史志、表その纂録に拮据せし者幾十人、そのよくこれを集成せしは、栗里(注・りつり=栗田寛)【寛】先生一人のみ、前に澹泊先生あり、後に栗里先生あり、義烈両公の志願、ほぼ果せりというも、敢えて溢美の言には非ざるべし(注・ふたりの先生のおかげで義公[水戸徳川家2代光圀]、烈公[同9代斉昭]の念願が果たされたといってもほめすぎではないだろう)。」
と道破(注・きっぱりと言う)された。まさに簡潔に要点をついたものだと言えよう。
 こうして、栗田寛氏の没後明治三十六(1903)年になって、国郡志と三表を完成させるにはまだしばらく時間がかかりそうだが、できれば少しでも早くこれを完成させ義公の宿願を果たしたいというのが当主の圀順(注・水戸徳川家13代くにゆき)公の志願だったので、同年の二月二日、私の一番町宅でそのための評議会を開くことになった。このとき出席したのは家令の手塚任、家扶の古川哲、福原脩、香川敬三伯爵、石河幹明、佐藤奉、川崎八右衛門の諸氏であった。
 ここで編集経費を大幅に増額し三年半のうちに完成させることが決議された。栗田勤氏が部下を督励して仕事に当たってもらうようにして、予定通り三十九(1906)年十二月に全部の進献(注・天皇に献上)する運びとなったのである。
 このときの宮内大臣は田中光顕伯爵だった。大日本史の各一部を、天皇、皇后両陛下へ献納したところ、両陛下はとてもご満足に思召され、大日本史の資料として彰考館の蔵書を永世保存するようにとの思し召しによって、天皇陛下から金一万円、皇后陛下から金三千円の御下賜の恩命があった。そこで圀順公は常磐神社のそばに堅牢な書庫を建設し、ありがたい天皇のご意向に沿うことにした。
 私も水戸藩臣として、少年時代から自分のことのように関心を持ってきた大日本史の完成を目前に見届けることができよろこびにたえなかった。そこで、ここにその完成の顛末を略述した次第である。


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百三十五 小出粲翁の和歌(上巻466頁)


 小出粲翁は明治時代における天才的歌仙であった。「難題であれば難題であるほど詠みやすい」と本人が言われたほどだから、その歌集を読んでいると着想がいかにも気が利いているし、垢抜けしていて、なんだか小説でも読むよう面白いだがそれだけに上品というわけにはいかなかった。すこし不真面目(原文「不倫」)なたとえでいうと、高崎正風男爵を団十郎とするなら、小出翁は菊五郎、また、男爵を宝生九郎とすると、翁は梅若実というような趣があった。
 京都の歌人である須川信行氏の話であるが、ある夏京都で木屋町の某旅館に泊まられている小出翁を訪問した。これまで先生の書かれた歌はたくさんあるが、詩を書かれたものがないから何か一筆願いますと唐紙の半切を持参したところ、翁はさっそく筆をとり得意の蛍の詩を書かれた。やがてその詩の中の、光という字を書き落としたことに気がつき、蛍には光がもっとも大切なので、これは、はなはだ粗相をしてしまったと言われるので、かたわらに光という字を書き添えるのだろうと思っていると、翁はしばらく考えて、紙の中に即吟で一首を加えられた。その歌は、


  なほざりに書きけちたりと思ひしは 光かくして飛ぶ蛍なり


というもので、書き損じられたのがあやまちの功名で当意即妙の一首ができ上ったので、この幅が一層おもしろくなったということである。
 翁の歌は天才肌で、ふつうの人では簡単には思案がつかないような題を即座にすらすらと詠んで、しかもおもしろい名歌ができ上がるところが他人がいくらがんばっても追いつかないところである。
 翁の歌集を見ると、いかにも軽口で戯談まじりのような歌もあるが、そのなかに翁の独特な天才が認められるようなものが数々ある。たとえば、

 

     鶴久子の会に己が歌を元子と米子と二人して上下を代筆したるを
   たをやめのふたつの筆を杖とし かきおこされぬこのこしをれも


     京都にかりの住ゐしけるころ
   ふぢばかまたたむばかりの女郎花 ひとりはほしき草のいほかな


     おなじ頃女をやとひて
   朝夕のけぶりの為めのふししばを かりの妻木と人やみるらん
 
といったもので、口にしがたい事柄を、無造作に、かんたんに、面白く詠み出すところが、天才でなければ真似できないところだと思う。
 あるとき小出翁は私に、歌人は思いやりということが大切である情のあるなしにかかわりなく、すべて同情の眼でもって観察すれば、そのなかにおもしろい歌の材料がたくさんこもっているものだたとえば、野分というのは秋の半ばに来る嵐だが、この嵐の吹いた跡を注意して見回すと、おもしろい現象を見つけることができる。雲を突くような大木が、根こそぎ吹き倒されているかと思うと、その下に吹けば飛ぶような小さな草が、倒れもせずに平気で花を咲かせているというようなことがある。これを情けのある人間社会のことに引き比べてみると、大いに悟るところがあるものだ。これらの機微を察し、歌の材料にすれば、もしかしたら、古人がまだ言い及んでいないことを詠み出すこともできるだろうと言われた。
 翁の野分の歌に、


   うつばりのゆらぐ野分を床下に しらず顔なるこほろぎの声 


とあるのは、まさにかつての話どおりの独特の観察であると感じた。
 小出翁の歌への批評は、明治三十三(1900)年に山県公爵「梔くちなしの花」後編の序文で書かれた一文が、いかにも適評であると思う。その一節に、
 「梔園しえん翁(注・梔園は小出粲の号)の和歌に妙なるは(注・詠歌にすぐれているのは)、世の人のよく知るところなり、その集を読むごとに、手に巻をおくことあたわざらしむ(注・その歌集を読み始めると、途中で巻を置かせてもらえない)。いわゆる出塵言語(注・俗世間の汚れから逃れた言葉遣い)、必ず新奇なるものにあらずや(注・どれも目新しいものではないか)、然れども、世の中にありとあらゆるもの、目に入り、歌をなさざるなきをもて(注・歌の材料にならないものはなく)、時に薪をおへる山かづの、花の陰にいこへるさまなきにしもあらず(注・薪を背負った山人が花の陰に憩っているように見えなくもない)、古人いへり(注・昔の人は言った)、楊誠齋(注・南宋の政治家、歌人)の詩は、細大の光景見るがごとく写し出さざるはなし、その長処も此にあり、短処もまた此にあり云々(注・小さなものも大きなものも見たままを写すように書かれているが、それが長所でもあり、短所でもある)」とある。 

  この序文で、紀貫之が大友黒主(注・六歌仙のひとり)の歌について「薪負へる山人の花の陰にやすめるが如し」と評した一句を借りて翁の歌を概評されたわけで、これはまさに至言とういうべきだろう。
 翁は明治四十一(1908)年に七十五歳で亡くなられたいつも闊達な気分で、酒を飲めば陶然と佳境に入り、歌姫の絃曲をきいて喜ばれるようなこともあったから、晩年までその歌に活気があり、また艶気もあったのだろう。とにかくも、この明治時代の大歌仙に、みじかい年月ではあったが修学することができた私はまことに幸せであったと思う。


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百三十四  和歌修業の端緒(上巻463頁)

 私は十歳ごろから古歌を記憶するようになり諷詠(注・詩歌を作ること)もすることがあったが、特に師について学んだことはなかった。ところが明治三十九(1906)年七月の下旬に益田鈍翁の鵠沼の別荘で山県有朋公爵と同宿し、主人と三人鼎座して話題が歌のことに移ったとき、公爵は詠歌に関する感想を述べられ「俺の父は国学者で、おりおり和歌を詠んだので、俺もその感化を受けて少年時代より和歌を好み、維新前、国事をもって京都に赴いた時、詩歌入りの『葉桜日記』を物した(注・書いた)こともあり、その後も折に触れて和歌を口ずさむことがあるので、近頃は小出粲【つばら】翁に添削してもらうことにした。君ももし歌を習うつもりならば、一度小出翁に逢ってはどうか(原文「如何」)」と言われた。

 私はもともと歌が大好きで前から習いたいと思っていたところだったので、仰せに従い、さっそく小出翁に入門して、おそまきながら稽古してみましょうと答えると公爵はとても喜び、君がそのつもりならば、近日、俺が小出に引き合わせてやろうということになった。
 こうして十日ほど過ぎたある日、公爵から小石川水道端町の別宅に招かれた。夕刻から参上すると、相客は田中光顕伯爵、鳥尾小弥太子爵、小出粲翁、井上通泰氏などの大家ばかりであった。
 この別宅は、新々亭【さらさらてい】という名で、公爵が貞子夫人のために建てた(原文「構築した)ものだった。庭は益田無為庵(注・益田克徳)と老公とが相談して造られ、神田上水が南下がりの庭を流れ去って池に注ぐという趣向だった。公爵には次のような歌がある。

  
  さらさらと木隠れ伝ひ行く水の 流れの末に魚のとぶ見ゆ


 当時は日露戦争のあとだったので、日本の国運が末広がりに発展するようすを示されたものらしく、その晩、池辺に焚かれたかがり火が青葉隠れにちらちらと水に照り添う光景を眺めながら、一代の歌人政治家が風雅な談話を交換するという、非常に愉快な会合だった。
 このとき私は、主人である公爵の紹介で初めて小出粲翁に対面した。翁は旧小浜藩士で、酒が好きなせいか鼻の先が赤く、目は象のように細く優しく、このとき七十三歳だったが、座談に長じて非常に快闊(注・快活、さっぱりした)老人と見受けられた。
 この晩もいろいろな話をしたが、歌というものは、いつも思っていながら、ちょっと口に出せないようなところを言い表すのが妙所(注・表現できない味わい)で、小池道子(注・明治、大正期の御歌所歌人)の「程ふれば忘るるばかりの憂きことを嬉しく人にいはでやみにき」などは、そのよい一例であるなどと語られた。

 こうして私は、山県公爵の厚い心遣いを感じ、二、三日後、水道端町の小出翁の閑居をみずから訪ね、「小出大人【うし】の和歌を乞はんとて詠める」という歌二首を持参して添削を願い、その日から贄(注・にえ)を取ることになった。(注・小出翁に入門した、の意であろう)
 そのとき翁は、歌人になった来歴をみずから語ってくれた。「自分は少年のころ漢学を学び、好んで詩を作ったが、その後、歌を詠むことを習い、試作数十首をある歌人に示したところが、お前は自然の歌口があるから、歌を詠めば必ず上達するぞと言われたので、これより別段師匠にもつかず、ほとんと独力で勉強したが、本来、人には歌口というものがあって、学問の有無にかかわらず、詠み出づる言葉が、自然に歌になる人は、いわゆる歌口を持っている者である。ゆえに自分は歌を学ばんとする人に対して、まずその詠んだ百首ばかりを持参せしめ、その中にひとつでも二つでも歌口の調子があればよし、もしそれが見当たらなけれは、遠慮なく教授を断るのである。とにかく兼題(注・前もって与えられる題)をお渡しするから、ひとつ詠んで見られるがよろしい」ということで、船納涼、林蝉、蚊遣火の三題を渡された。
 それから私は、翁が組織していた梔陰社しいんしゃという歌の会に入り、その当座はなかなか勉強したものだ。
 明治三十九(1906)年の末に、翌年の御勅題が新年の松というので、そのころ日露戦争がめでたく済んで日本は一等国となり、世間の景気も非常によいというめでたいことばかりが重なっていたので、私は、

  よろづ代を経し老松もかくばかり 目出たき年はむかへざりけむ

と詠んで小出翁のもとに持参したところ、稽古が浅い割には、なかなか面白い詠みぶりだといって思いのほかの賞賛をいただき、それから先、私の一番町宅で、たびたび梔陰社の例会を開くことになった。
 私の亡妻の千代子も会員に加わり詠歌の稽古をすることになったが、あるとき「森鶯」という題で、
  
 
 鈴の音もたえて聞えぬうぶすなの 森の木がくれ鶯のなく

と詠み、そのときの秀逸となったことがあった。
 これが私の歌道修業の端緒(注・はじまり)であるが、師匠についてからまだ二年とたたないうちに小出翁の物故にあい、たちまち良師を失ってしまったのは、まことに残念の至りであった。


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百三十三  諸戸清六翁と穂積男爵(上巻460頁) 


 平沼(注・平沼専蔵。132を参照のこと)型の貯金家で、なお一層徹底しているのは、桑名の先代諸戸清六氏であろう。(注・先代18461906、二代目18881969
 明治二十八(1895)年ごろ、突然私を大阪の三井銀行支店に訪ねてきた彼は、体格が偉大で田舎びた容貌で、なんら飾り気のない率直さで私に大阪財界の実状を質問されたので、とにかく一風変わった男だと思い、とりあえずありのままに所見を語ったものだ。
 聞いてみると、彼は年中あちこちを駆け回り、卒然として(注・突然のように)来て、卒然として去り、貴顕紳士の門を叩いて自分の聞きたいことを聞いては、それを参考にするというやり方をするのだそうだ。大隈侯爵の早稲田邸などには月に何回となく現れて、その経済談を聴取するのを常としたという。
 私が東京に戻ったのちにも、知り合いであるという縁故をもってまたまた私を訪ねてきて、三井銀行の抵当流れになっている奥州の四竈村(注・現在の宮城県加美郡にある村)の野地の坪数はどれくらいなのかと問うので、さっそく銀行に問い合わせて返答すると、相変わらず風のごとく立ち去ったが、その後一週間ばかりたって飄然として例の巨体で現れ、さっそく四竈村の野地を見てきたが、その地勢はこれこれで地味はこれこれであると物語るので、その緻密さには驚嘆のほかはなかった。

 さらに彼が語るところによると、
「俺は全国第一の山林持ちになるつもりで、岐阜、飛騨、伊勢、大和その他全国にわたって多数の山林を所有しているが、ある華族で俺よりなお多く持っている者があるから、今よりも、モ少し買い入れて、是非とも全国一になるつもりである。
 俺の買う山林は、世間の人とは反対で、通常はすでに山林になってもはや手の入らぬものを所望するが、かかる山林は拓けるだけ拓けているから値段も相応に高くなっていて、なんの面白味もないのである。俺はヤクザの山林を安値に買って、これを盛り立てるのが楽しみなので、山林でも田地でも、とにかく出来上がらぬものを見つけようと全国諸所を駆け回り、どこにかくかくの山林、田地があると聞けば、即刻発足してこれを見届けるのが俺の常癖である。」
ということであった。
 私はこれよりも以前、諸戸氏について、すこぶる面白いエピソードをきいたことがある。氏の倹約は有名なもので、汽車はもちろん下等に乗って、途中で買い入れた茶瓶は、すべて持ち帰るのを常とし少しでも無駄をしないという流儀である。かつてロシアの皇太子が大津で遭難(注・日本人の巡査に切りつけられた大津事件)の際、彼は図らずも同地に立ち寄ったが、その刃傷事件の大混雑で町内に人力車が見当たらないため、彼はよんどころなくテクテク歩いていた。すると後ろから、いい客だと見た人力車夫がしきりに乗るようにと勧めるので、目的地までの賃銭をきくと、事件のせいで思っていたよりも十銭ほど高いので彼はこれを値切った。だが車夫も足元を見て簡単には負けず、そのうち雨が降り出して双方ビショ濡れになっても、負けろ、負けぬで、ついに目的地に達してしまったのだそうだ。それである人が、着物が濡れる損失を考えて、十銭高くても車に乗ったほうが得ではないかと言うと、彼は頭を振って、「いやいや、商売冥利はそんなものではない。代償が思うつぼにはまるまでは、どうしても動かないのが俺の掟じゃ」と主張したそうである。

 諸戸氏はまた例の早耳で、穂積陳重男爵が三井の家憲を作ったということを聞くや、誰の紹介もなく、ある日突然男爵を訪ね自家の来歴を物語り、なにとぞ諸戸家の家憲を作ってもらいたいと懇請した。その率直な態度と熱心な気魄とに穂積男爵は感じ入り、とうとうこれを引き受けることになった。ところが彼は、自分の書記を代理にして諸戸家に関する一切の書類を穂積男爵に提供し、その後一度も男爵に面会せず、ただ時々玄関までやってきて、よろしく頼むとひとこと残して帰るのを常とした。
 こうして穂積男爵が二、三年かかって諸戸家の家憲を作成して彼に手渡すと、彼は満面に感謝の意を浮かべて、「先生のご鴻恩(注・大恩)は子孫代々決して忘却は仕りませぬ」と、幾度か叩頭して(注・頭を下げて)引き下がった。しかしその後は、ただ毎年、桑名産の白魚を贈ってくるをの常例として、そのほかにはなんらの挨拶もしなかったそうである。
 穂積男爵はこのことを語り終えて、諸戸氏が自分の家憲起草に対してなんらの礼物を提供せぬことは、自分としていささかも遺憾とするところはない、あのような粒々辛苦をもって築き上げた一家が、自分が作った家憲によって長く存続することができるのなら、それが何よりの報酬である、と言われた。このふたりの人格を対照して、すこぶる興味深い逸話であろうと思う。


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百三十二  金色平沼の真相(上巻456頁)


 明治時代に横浜に盤踞(注・ばんきょ。根を張ること)して、その屈指の富豪と呼ばれた平沼専蔵は、一時、高利貸しだの華族倒しだのと非難された挙句、その高利貸し問題でとうとう獄舎の人となるに至ったので、彼のように世間から爪はじきになっては、金持ちといっても、ちっともその甲斐がないではないかと言う人もあったが、とにかく、天秤棒一本から何百万円の大身代に成り上がったその粒々辛苦を察しないで一概に悪魔視することを、私はしない。
 彼の金だって、やはり日本国の富の一部で、いかにたくさん貯まったとしても別に卑しむべきものでもなかろう。
 昔から日本には金を貯める者を卑しむ習慣があって、ややもすると、これを守銭奴と罵る者も多い。しかし金を貯めるのもまた、一種の趣味であろう。
 世間では往々に、あの男は子供もないのにむやみに金を貯め込んで、死んだあとにどうするのだろうというようなことを聞くが、この種の人物は金を貯めること自体が無上の趣味で、魚を釣る人が、釣るのがおもしろいので、その魚を食べるか食べないかは別問題であるのと同じく、金を釣る趣味がある人は、釣った金が貯まっていくのがこのうえもない道楽なのである。平沼氏などは、もっともこの種類に属する人なので、あまりに彼を憎悪するのはおそらく偏見ではないかと思う。
  わたしは明治二十二、三(188990)年ごろ横浜貿易新聞を監督した関係上、平沼氏と知り合いになり、会えば時候のあいさつをする程度の懇意になった。
 例の高利貸し問題で入獄した平沼氏が、ようやく娑婆の風に吹かれた当時、私は品川の益田孝男爵を訪問する途中に、新橋、品川間の汽車の中で平沼氏に邂逅したので、「貴方は先ごろ、とんでもない災難に出合われたそうだが、本来、東京だの横浜だのは、貴方のような商人の住むべき場所ではあるまい。納得ずくで金を借りながら、そのあとで貸した人を憎むというのは、借りた方が卑怯である。仮に貴方が大阪にでも住んでいたら、岡橋治助翁のような、貴方に一層輪をかけたような豪傑が控えているから、貴方などは一向に目立たず、したがって人からの指斥(注・非難)も受けなかっただろう。貴方はもはや関東を見限って、河岸を関西に替えたほうがよろしいのではありませんか。」と冗談半分に話したところ、平沼氏は、ただ「なるほどな」と言ったばかりで、別に異存も言わなかった。
 私はその足で益田邸に赴くと、富永冬樹(注・益田孝の義兄)氏が来ていたから、たった今汽車のなかで平沼氏とかくかくしかじかの話をしてきたと語ると、富永氏は例を毒舌をふるい、「それは平沼が頭を横に振っただろう、なぜなら、大阪には華族がいないではないか」と言って呵々大笑するのだった。
 私と平沼氏とは、このような通りいっぺんの関係だけであったが、明治四十三(1910)年ごろ、平沼氏が非常に大きな菓子折をたずさえて私の一番町宅を訪ねてきた。なにごとだろうと怪しみながら来意を聞くと、彼が抵当に取った木材を王子製紙会社の製紙用材に使ってくれないかという相談であったので、一応その用談を片づけたあと、かねてからきこうと思っていた彼の立志談を話してもらった。その大要を次に記す。(注・一部をわかりやすい表現にかえた)

 「私は若年のころ、渡邊治右衛門のところで奉公しておりましたが、身体が強壮なので、非常な勉強家(注・勤勉な人)でありました。酒はもとより飲まず、朝飯は味噌汁と煮豆を菜(注・おかず)にしてすまし、朝は四時ごろから起き出して、井戸端で水を浴び、神信心をすましたあと、夜遅くまで働くというところを主人に見込まれ、少し元手ができたので、そのころ黒船が横浜に来て石炭を買い取るのを幸いに、茨城地方から常州炭を仕入れ、小船で横浜に廻送し黒船に売り渡すのです。当時天保銭二枚くらいで仕入れた一俵の石炭を一朱で売ることができたので、実におもしろい商売でした。またそのころ生糸輸出が始まって、間もなく一時幕府でそれを禁止したとき、私は生糸を石炭箱の中に入れ、その上に石炭を盛り上げて外国人に売り渡し、これでは大儲けをいたしたのであります。」
と、平気で秘密を語ってしまうところに、平沼氏の面目躍如たるところがあった。
 彼は一時伊藤博文公爵に接近して、その愛顧を受けたこともあり、その後、彼が従五位に叙せられると、従五位ということが、なにやら彼を卑しむ一種の標語であるかのようにききならわされたこともあるが、このような平沼氏から私は菓子折ひとつを貰いっぱなしになったままで、今でも気の毒に思っている次第である。
 


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百三十一   安田松翁出世談(下)(上巻453頁)
 
(注・130「安田松翁出世談(上)」からのつづき)


 安田善次郎翁が一代で億に達する大富豪になるにいたったその経歴は、勤倹力行(注・勤勉倹約)の継続で、実業を志望する若者にとってはもっとも安全な処世訓であろう。
 さて翁が十九歳のときに江戸に出て玩具屋に奉公したのちの経歴談は次の通りである。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらため、一部の漢字をひらがなにしたほかは原文通り)


「私は玩具屋に奉公中、二十一歳ごろであったか、例のごとく旅行して、大和まわりをし、多武峰(注・とうのみね)の談山神社(注・たんざんじんじゃ)に参った時、矢立の筆で、御堂の柱に落書きしていたのを番僧に見つけられ、ことがはなはだ面倒になったので、懐中にあった一分二朱の中から二朱を罰金にして、ようやく無罪放免になった。そこにひとりの老僧が出てきて、仔細をきいて気の毒がり、番僧どもから二朱を取り戻してくれたうえに私に向かって諄々と教戒されたその言葉に、『お前さんもまだ年若であるから、以後はよく心得るがよい。楽書きというものは、昔シナで賊が官軍に追い払われて、右往左往に散乱するとき、神社仏閣の柱や塀に楽書きして、どこで重ねて廻り逢おうとか、または、再挙を謀ろうとかいうような、隠し言葉を書きつけるのが始まりで、本来、賊のし始めたことであるから、いやしくも未来の希望ある青年のなすべきことではない。以後は、きっと無用(注・やらないよう)にせられたがよろしい』と申されたので、これがしみじみと骨身に感じ、名を尋ねれば、村田亮順という老僧なので、その後五年ばかりを経て、村田上人の隠居された九州天草の寺院を訪ねると、惜しいかな、先ごろ遷化されたというので、泣く泣く墓掃除をして、いんぎんにその跡を弔ったのである。

 さて私の玩具屋奉公も、満三年になったので、今度は丸屋松兵衛、通称、丸松という両替店に奉公した。この丸松の店は、今の海運橋四日市にあったが、私はこの店にもまた、丸々三年奉公して、江戸の商売見習いが前後六年になったので、商店奉公は、まずこれで卒業として、今の日本橋新乗物町の十五銀行の支店になっているところに、借地ではあるが、間口二間、奥行五間半の家屋があったのを四十三両で買い取って、ここに安田善次郎独立の両替店を開いたのである。
 このころの両替賃というのは、当百(注・天保通宝。一枚で百文)、青銭(注・あおせん。寛永通宝四文銭)、文久(注・文久永宝)、錏(注・しころ。室町時代の銭)という四種類の銭を金銀に替え、また金銀を銭の換えるので、その切り賃(注・両替手数料)が、普通一両につき一文、仲間取引は八毛ないし七毛というようなことであった。
 このようにして私は両替商を始めて、ほどなくこの仲間の肝煎(注・世話役)となり、すこしは幅が利くようになったが、その当時、本両替屋というのが七軒あった。
 
 さて幕末の財成家の小栗上野介が、貨幣制度を改革することとなり、旧二分金を、新二分金に引き換える計画を立てられたが、そのとき沼間守一氏の父が御勘定方に勤務していて、旧二分を新二分に引き換えるため、旧二分金の集め方を(注・旧二分金を集めるように)例の七軒の両替屋に申し付けたが進んで応じるものがなかった。そこで沼間氏は私を呼びつけて相談されたので、私はさっそくこれに応じ、旧二分金の買い集め費用として沼間氏から金三千両を借り受けることになった。私が三千両という大金を見たのは無論このときが初めてで、餅版(注・トレイのようなものか?)が百二十あって、一つの重さが二百三十目(注・目=文目、または匁。一匁は約
3.75
グラムなので、230匁は約0.86キロ)というのであるから、それを受け取り自宅を持ち帰り、毎晩奉公人が寝静まったあと、家内とふたりで、あるいは屋根裏にかくしたり、縁の下にいれたり、いろいろ工夫をしたが、賊は両替屋に金があることを承知しているから、もし踏み込まれたときに手ぶらで帰すわけにもいかない。その時のためにということで、私はあるとき錏銭やら何やらを取りまとめて、金二十五両の包みと同型のものを三つ作り、ほかに五、六両の金を添えて、金銭出納帳とともに、これを用箪笥の中にしまいおき、賊来たらばこれを渡さん、と待ち構えていた。すると果たして、ある晩に強盗がはいったので、例の帳面とともにこの金を渡したが、翌日になってつくづく考えてみると、強盗が小判の包みを開けて中から餡(注・見かけとちがう中身)が出てきたら、きっと立腹して、復讐に来るであろうと、その心配は大変なものだった。しかしほどなくこの賊が捕縛されて、伝馬町で処刑されたと聞いて、はじめて安堵したようなこともあった。」


 以上、安田翁の出世談は、太閤秀吉の日吉丸時代から木下藤吉郎時代を彷彿とさせ、勤勉力行が、だんだんに人の信用を得て、着々と成功の機会を作りつつ、後日の大成を期したものである。その堅実なやり口は、これから実業界に立って大望を成就しようという有為の青年にとっては、最良の教訓だろうと思う。


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百三十  安田松翁出世談(上)(上巻450頁)


 日本開闢(注・かいびゃく)以来、明治大正の世にいたるまで、一代で大きな身代(注・資産)を築いた人は数限りなくいるが、その点においては安田松翁善次郎が断じて第一人者であると思う。徳川時代には紀伊国屋文左衛門が紀文大尽として名高いが、その当時の身代を今日の通貨に換算したとしても、何千万くらいにしかならないだろう。明治初期に三菱の基礎を築き上げた岩崎弥太郎氏も、死去された明治十八(1885)年ごろの資産は安田氏の晩年には大きく及ばなかったと思われる。
 私は安田善次郎氏と金銭上での関係を持ったことはなかったが、茶人の松翁に対しては、明治三十一(1898)年に彼が、わが寸松庵に来会して以来、あるいは本所横網の旧安田邸に出入りし、あるいはほうぼうの茶室で同席し、その交遊は二十年余りに及んでいる。
 また、翁の喜の字の祝い(注・喜寿、数え77歳の祝い)に茶友から祝歌をつのったとき、私は、


   君が身に集まる宝あまたあれど 羨ましきはよはひなりけり 


の一首を贈って、痩せ我慢を発揮したこともあった。
 翁は西洋人の、いわゆる、トップフロムボトム底より頭主義(注・底辺から頂点までのぼりつめる)で、石橋をたたきつつ一歩一歩その資産を築き上げた。その出世は、もっとも堅実な処世法をあらわしているので、私がかつて翁から聴き取った口述の内容をここに披露することにしよう。(注・一部現代的表現にあらためた


 「私は、越中富山の町はずれ、船橋向(注・舟橋=地名、の向かい?)で生まれた。父は安田善悦といって、御掃除坊主を勤め、城中に出仕し、主君の側から、家老、諸士の詰め所にいたるまでの掃除をつかさどり、五十人扶持、十両を頂戴していた。私は長子で、妹が三人もいたから、もちろん貧乏世帯だった。

 ところで私は、子供のときから手習い(注・習字)が好きで、また軍記物語を読むことが好きだったので、その軍記物語を写し取ってそれを読み、それをまた写し取るという写本を内職にしたほどである。その写本料が、半紙十行詰めで一枚三文、これを十枚写して三十文くらいの筆耕料を得るのであるが、日課としておおいに勉強したので、身の回りの費用は一切自弁(注・自己負担)で間に合わせた。その上に、いくらかの貯金ができると旅行に出かけるのが私の道楽であった。
 これよりも前、私がまだ八歳くらいの時、自分は何になろうかと考えて、はじめは職人になろうと思ったが、そのころ富山では千両の金持ちを田舎富限(注・田舎の富豪)として尊重したから、自分も一生のあいだに千両の身代になってみたいという希望をもっていた。
 ところがここに偶然私の奮発心を引き起こしたのは、私が父とともに富山の城下を往来する時、むこうから物頭、御勘定奉行などという役人が来るのを見ると、父は私の袖を引いて横丁にそれるのを例とした。これは、父が中以上の侍に出会えば下駄を脱いで土下座をせねばならないからである。
 当時、前田家では財産逼迫のあまり、東海道掛川宿の大根屋という大名金貸しから借金し、その主人が富山城下に来るときは、ひごろ私の父が土下座する物頭やら御勘定奉行やらが、うち揃って金主を町外れまで出迎えるので、これは侍になるよりも、金持ちになるほうが早廻りだと感じて、それで商人になろうと決心したのである。

 また私の奮発心を起こすのに大きく貢献したのは太閤記である。例のとおり、軍記物語が好きなので、しじゅう太閤記を愛読しているうちに、木下藤吉郎が後世に天下取りをするような大人物でありながら、草履取りから順序をふんで、だんだんに立身出世したのを見て、順序をふむ、ということは、すなわち成功の基であるとこの教訓を心に銘じ、終生これを忘れなかったのは、みなこの太閤記から得た教訓である。
 私は十九歳のときに、いよいよ江戸にでることになり(注・安政5年、1858年)、出府のあと、みずから好んで玩具問屋に奉公した。この玩具問屋には、軽子という、玩具を籠にいれてかついでまわる者がいるので、私はその軽子のところに住み込み、玩具を作る職人の宅を見まわって、できあがった玩具を取り集め、この玩具を卸すという仕事に当たった。軽子の年給は三両二分くらいであった。
 しかし商売見習いであるから、私は給料の多寡は問わず、二期の宿下がりにだけは、なるべく多くの休暇をもらって、諸国の商売視察のためおりおり旅行することを許してもらったのである。」


 以上の安田翁の直話はその出世物語の始まりの部分で、次回にはさらにこれを継続することにしよう。


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百二十九  東郷元帥の五字讃(上巻446頁)

 対馬沖大海戦(注・日露戦争の勝敗を決めた海戦)の勝利の知らせによって高鳴った胸の鼓動がようやく収まってきた明治三十八(1905)年の暮れに、私は三越呉服店意匠部の画家である島崎柳塢氏に、悪鬼が逃げていく絵を描かせ、それを東郷元帥に持参し、

  待汝之再来   乙巳冬 東郷書

という五字一行の揮毫を請うた。これに、鬼にちなんだ鱗形の裂と、追儺(注・ついな。おにやらい。節分の豆まきのこと)に縁のあるヒイラギの軸とで表装したうえで、わが寸松庵に掲げて歳暮茶会を催したことがあった。
 その後十九年が過ぎ、大正十四(1925)年十二月十日、私は元帥の麹町上六番町邸を訪問し、かねてより願い置いていた私の自作の茶杓の筒に元帥が「山桜」と書いてくださったことと、茶室掛けの横幅に「清寂」の二大字をしたためてくださったことへの謝辞を述べてから、元帥に次のように話した。(注・一部現代文になおす)
 「閣下はお忘れになったかもしれないが、バルチック艦隊全滅の年の暮れに、閣下にご揮毫を願ったことがあり、それは、閣下がロシアの艦隊を撃滅して、国家を富獄の安きに置かれた(注・「国家を泰山の安きに置く」の泰山を富獄=富士山に置き換えている。国家を安泰に導く、の意)ことは、私共がいくら感激してもしきれないことだが、勝って兜の緒を締めなければ将来どのような危険に出会うかわからないので、いったん逃げ出した鬼が、たとえ再び逆襲してきたとしても、いつでもこれを待つ用意があるぞという意味で、逃げていく鬼の絵に『待汝之再来の讃をお願いした次第であります」
 すると元帥は、そんなことがあったか、今はすっかり忘却しましたとのことであった。
 

 さて私は今回、元帥に対し、種々雑多な質問を行った。まず、茶祖の珠光(注・村田珠光)の標語である「清寂」の二字の揮毫をいただき、自作茶杓の筒に山桜の二字を書きつけていただいたのはなぜなのかということ、それからの会見の一時間のあいだにも、元帥は禅学を修められたことがあるのかどうか維新前後にはどのような行動を取られたのか明治四年から英国に遊学した七年間の経歴はどのようなものだったかなどなどいう質問をした。しかし元帥の応答については、後段に譲ることとし(注・284「東郷元帥懐旧談」を参照のこと)、ここでは、対馬沖海戦に関し元帥が私の質問に答えられた談話だけを記述することにする。
 明治三十八(1905)年五月、バルチック艦隊がウラジオストックに向かうにあたり、対馬沖を通過するのか、津軽海峡を回航するのかを予測することは、当時のわが国の海軍の作戦上、重大なことであったと思われるが、閣下はいかにしてあの艦隊が対馬沖を通過することを知り全力をこの方面に集中されたのかという私の質疑に対し、元帥は次のように答えられた。(注・一部現代的表現にあらためた)
 「バルチック艦隊が対馬沖を通過したのは、おのずからその理由がある。およそ軍艦が戦闘を行おうとするときは、長時間にわたって全速力を保持する必要がある。ゆえに長航路を続けて積載石炭の欠乏したときに戦争するのは、実戦上、非常に不利といわねばならない。これが、バルチック艦隊が当然、短航路を取らないわけにはいかない理由である。
 今もし、かの艦隊が津軽海峡を通過するとすれば、航路が非常に延長するから、途中において石炭の手薄になることは必然である。このとき、わが艦隊と衝突するのは不利なのは彼ら十分熟知しているはずだ。そのうえ五月ごろは、かの方面に海霧の多い季節で、敵地を航行する大艦隊は、これをもっとも避けなければならない。それらの理由を総合して、戦術上より判断すれば、かの艦隊は断じて津軽海峡を回らぬことを自分はかたく信じていた。
 そのうち五月二十五日、バルチック艦隊に付属していた運送船三艘が上海に入港したという報知を得たので、自分はいよいよその信念を強くしたが、これは彼らの大失策であった。

 あの艦隊が、もしその進路をくらまそうとするなら、この運送船をあと二、三日海上に留めて、上海入港を遅延させなければならないのである。運送船が上海に入港したということは、これに積載していた石炭を、台湾付近において全部バルチック艦隊に移し終わった事実を説明するので、この知らせを受けたあとは自分はあの艦隊が予想通り対馬沖を通過するものと見て、おもむろにこれを待ち受けたが、これは海軍の戦術上、当然かくあるべきはずなのである」
 私は、東郷元帥から親しくこの談話を拝聴し、ながいあいだ抱いていた疑問が氷解した。それと同時に、元帥が明治初年にイギリスにおいて海軍の修業中、最下級の仕事までも体験して石炭消費などのこまかい仕事もこなしたことが、主将としての実戦上の判断の役に立ったということに敬服せざるを得なかった。
 この日私は、ときどき東郷邸に出入りしている下條桂谷画伯の高弟である八木岡春山を同伴してうかがったのだが、最初に八木岡が元帥を訪問して私が揮毫を願い出た理由を説明したとき、元帥は私が旧水戸藩士だということをきいて、さては、聞き及ぶ高橋多一郎(注・桜田門外の変の首謀者のひとり)の一族ではないか、もしそうなら、日下部伊三治(注・原文では伊佐治になっているが伊三治が正しく、読み方は「くさかべいそうじ」)の縁続きで、あるいは自分と遠い親類になるのではないかと尋ねられ、さっそく私の訪問を許容されたという次第である。水戸藩勤王の目に見えない恩恵が、このような場合にも影響するものかと私は感激の至りにたえなかったものである。
 


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百二十八  能楽翁の神秘(上巻443頁)


 能楽では、「翁」を二百番中の首位に置き、舞台開きとか正月の舞い始めという場合に、きわめておごそかにこれを演じることとしている。かつて梅若実翁は、
 「この能は神体にかたどったもので、翁は天照皇大神宮、千歳は八幡大菩薩、三番は春日明神としてあり、また天下泰平、国土安穏の御祈祷を演じるものなれば、徳川時代には将軍家でさえ、いわゆる別火潔斎のうえで、これを演じるのを常とした。しかし時世の変遷で、近頃はだんだん簡略になってきましたが、私共は古風を守って、これを勤むる前には必ず精進潔斎いたします。旧幕時代には、将軍自身で勤めらるるほかは、観世太夫がこれを勤め、私共は家格として千歳を勤めましたが、かの天下泰平、国土安穏のところに至れば、将軍も両手を膝に置いて、少しく頭つむりを下げらるるのが常例で、能楽はこの翁によって、大に重きをなすものであります」
と語られた。
 その後、古市公威男爵から聞くところによると、「翁」という能は昔から神秘物とされ、これを勤める者は精進潔斎するのを常とするが、知らず識らずにこれを犯すことがあると不思議と何かの異変が生じるものだという。
 旧幕時代に、梅若実が観世太夫の翁のツレを勤めたとき、実夫人が当日に、翁が装束の腹巻を取り落としたことに気づき、実翁のところへ使者に届けさせた。が、その後、夫人が月経時であったことを思い出したが、もはやどうしようもなかった。いっぽうの実は、その腹巻を締めて千歳を舞ったが、大切(注・おおぎり。最後)の足拍子のとき、不思議なことにその足が大口に引っかかり拍子を踏むことができなかった。それで拍子の代わりに身をかがめて舞い納め、なんという失策をしたことかと思って観世太夫に詫びたところ、太夫はそれを咎めなかったばかりか、謹慎の形になっていてかえって上出来だったと褒めてくれたのでまずは安心しはしたが、いかにも不思議なことだと思った。帰宅して夫人から先の一部始終を聞き、実におそろしいことだと思いましたと、実翁からきいたのだそうだ。


 また私が、その後この話を梅若六郎氏に話すと、氏はさらに次のような実体験についてきかせてくれた。(注・現代表現になおし


 「という能は、私共にとっては実に恐ろしいお能で、これを勤めるときには、非常に心配になります。
 私の母が亡くなった大正五年の一月、私が翁を勤めまして、自分でも気づかずに一句飛ばして謡い終わり、あとから人に注意されて、そのようなことがあるばずなないと不審に思っておりましたところ、ほどなく母が死去しましたので、これがその前兆ではなかったかと思い合わされたのであります。
 また大正十二年、あの大震災の年に、私が翁で、梅若進が千歳を勤めましたとき、不思議にも、舞の間に、彼の差していた刀の柄が折れていたのを発見して非常に驚いておりますと、かの震火災の際に逃げ遅れて、家内と子供と三人ともども全滅しましたので、さては、と非常に驚愕したような次第で、翁ほど怖い能はありませんから、これを勤めるときは、精進潔斎して戦々兢々、舞い終わるまでは、少しも気を許すことができないものであります」
ということであった。


 以上の体験談を聞いて、おおいに思い当たるのは、古来、日本の芸術家が大切な仕事をするときには精進潔斎をして神仏に祈誓し、もろもろの不浄を遠ざけて身心を爽快にすることにつとめるということである。三日間の別火だの一週間の精進だのといって、六根清浄を旨とする習慣がある。
 刀鍛冶が名刀を鍛えるときには、仕事場の四隅に注連縄(注・しめなわ)を張り、その身も精進潔斎して鉄槌を持つということであるし、能役者が翁を勤めるときには、前記のように日を限って別火をするなどの習慣がある。これはただ、その仕事の神秘に対しての謹慎というばかりでなく、そのように身心を清浄にして十分に気根を養っておけば、意識も自然に明瞭になり、仕事を仕損じる危険率が減るはずだということからなされているのだろう。

 つまり昔の人は、神仏にかこつけてこのような習慣を作ったのだと思う。能楽のような芸術を演奏するには、謡といい型といい、また拍子といい、その関係がきわめて複雑なので、酒を飲んだり夜更かしをしたり、その他身心の倦怠を生じてしまうような不摂生があると、その結果が芸術の上に現れ思わぬ不覚を取ることになるのだろう。
 これは能楽の話というだけでなく、社会全般の仕事に当たる者がおおいに心得ておくべきことで、能役者が大切な能を勤めるときのような心をもって事に当たれば、必ず仕損じることがないはずである。上記の体験談は、誰にとっても非常に大切な教訓であろうと思う。
 


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百二十七  能楽実演の興趣(下)(上巻440頁)


 私が能楽の実演をするにあたり一番はじめに勤めたのは「猩々」だった。そのときのワキは大友信安で、明治三十五、六(19023)年ごろのことであったと思う。梅若舞台の鏡の間で面をかぶってみると非常に窮屈で、顔の中がむずがゆくなったり、ひげがさわって掻きたくなったり、そのうっとうしさはなかなか厄介だった。そのうえ、ふさふさとした猩々の蔓(注・かずら)を頭の上に載せられたときには、目がぐらついて気が気でなく、いよいよ舞台に掛かったら謡の文句や舞の手を間違いはしないかという心配も加わり、よせばいいのに、とんだことを始めたもんだと、いまさら後悔してみてももう間に合わない。是非もなく舞台に踏み出してみると脚元がふらふらして危なっかしくてたまらなかったが、そのうち少しは精神が落ち着いて、「枕の夢の覚むると思へば、泉はそのまま、つきせぬ宿こそめでたけれ」と舞い終わったときは、やれやれと思ってよみがえったような思いがした。それから楽屋に引っ込んで来ると、梅若実翁が例の調子で、最初としては上出来であると、そこここを褒めてくださった。
 褒められてみると二回目を試みたくなって、次第次第に深入りすることになったが、私が一番困ったことは、明治四十二(1909)年十一月に梅若舞台で「花筐」をつとめたときのことだった。王子製紙会社の専務取締役となって近いうちに北海道の苫小牧工場に出張することになっていたが、今や装束をつけてまさに舞台に掛かろうとしたとき、急用の電話が掛かってきたというのでその電話の内容を聞いてみると、工場におおいに関係した突発事件が起きたという知らせで、私は即刻北海道に出張しなくてはならなくなったのである。このとき、誰かが気を利かせて、しばらくこの知らせを差し控えてくれたらよかろうに、今や舞台に登らんとするときだったので、おおいに神経が乱されたばかりでなく、この能は、最近職務多忙となって稽古が十分でなかったので、あの最も難関の、「帝ふかく歎かせ給ひつつ」というクセのあたりから、われながら調子が悪くなったことを感じ出した。私は、かつて水戸黄門光圀卿が小石川水戸邸の能舞台の楽屋で、藤井紋太夫を成敗したあと五代将軍から賜った唐織の装束をつけて千手の舞を舞い、すこしも平常と変わるところがなく、ツレが絶句したときにも注意してやったということを聞いていたので、今さらのようにそれを思い出し、聖凡の差はこんなにも激しいものかと思い知ったのである。

 今のは私の演能の失敗段であるが、だんだん修業を積むにしたがって、必ずしも失敗ばかりではなかった。明治三十九(1906)年ごろ梅若舞台で「弱法師」を演じたとき、実翁の夫人が稽古中から気にかけて見ておられたそうで、この能が済んだあと稽古をしてくれた六郎にむかい、「万目青山は心にあり」というところで、扇をさっと胸に当てると同時に、二足下がって心持(注・ゆとり)のある工夫が、今日は稽古のときよりもズッとよくできました、と言われたそうだ。夫人は長年、良人や令息の演能を見ているので観能眼は非常に高く、実翁が何か難しい能を演じるときは、打合せの際、夫人に見てもらって意見をきかれたそうだ。そういうとき夫人は、どこそことは批評せず、ただ簡単に、上出来だとか、不出来だとかと言われたそうだが、実翁はこれをきいて、いろいろと工夫を凝らされたという。この夫人からこのような讃辞を受けたのは、私にとっては誠に満足なことであった。
 前に申した(注・126を参照のこと)ように、能は腹芸で、所作を簡単にして、ごく上品にその心を見せるもので、なにごとも腹の力が肝腎である。たとえば、物ひとつ見るにも、なにげなく、ただフイと見たのでは、何を見たのかその趣が現れないから、能楽において物を見るには、まず腹に力を入れて、見方がそれぞれに変化するのを見物人に見分けさせるのがもっとも難しいところである。

 葵上で「水くらき沢辺のホタルのかげよりも」と扇をやって、蛍の飛び行くさまを見るのと、松風で「沢辺の鶴こそ立ちさわげ」と、左右左と、弦の飛び行く態(注・てい。ようす)を眺めるのと、山姥で「峰に翔り(注・かけり)谷にひびきて」と、高山の峰から深谷の底まで見下ろすのと、景清で「ぬしは先へ逃げのびね」と、三尾の谷が逃げていく後ろを見送るのと、藤戸で「我が子返させ給へや」と、ワキの盛綱をにらめつけるのと、その見方はいろいろ違うが、つまり、腹に力がはいって、眼に移り、その眼の光が面から抜け出して見物人に伝わるので、ただうかうかと物を見てもその表情が発露されるものではないのである。
 私などはまだまだ未熟なものだ。ことに、一年に一度か二度の演能であるから、とうていその妙境に達することはできない。しかし、他人の演能を非常に興味深く見ることができるのは、能楽を実演をしたおかげだと思っている。
 


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百二十六  能楽実演の興趣(上)(上巻436頁)


  
私が謡曲を稽古しはじめたのは、前述(注・73を参照のことしたとおり明治二十六(1893)年からである。大阪滞在中に少し宝生流をかじり同時に仕舞も稽古し、多少は方向が見えてきたところで東京に帰ることになり、その後すぐに梅若流に改宗したのである。
 三井の同僚のなかには素謡(注・すうたい。囃子、舞をともなわず謡曲だけを謡うこと)の仲間が多かったので自然と稽古に励むことになり、明治三十六、七(19034)ごろには、重習物(注・おもならいもの。免状を得るための歌の等級のひとつ)もほとんど卒業したうえ、毎度、催能を見物しているので、素謡だけでは物足りなく感じるようになってきた。
 そこで、いよいよ能楽の稽古を始め、素人能の仲間入りをすることになった。「猩々」を演じて初めて舞台に立ったのが三十六年ごろだったと思う。
 それから一年に二、三回は演能を試みた。多くの場合は梅若舞台だったが、その後、私は、能楽会長の故蜂須賀茂韶侯爵の勧誘により能楽会役員の一員になったので、蜂須賀侯爵らとともに名古屋に赴き、同地の能舞台で弱法師(注・よろぼうし)」を演じたこともあった。

 とかく素人というものは大物に食ってかかりたいのが常で、私などもご多聞にもれず、これまでに、鉢の木、隅田川、俊寛、弱法師、井筒などという九番物を好んで実演してきた。そのほかにも、松虫、清経、女郎花、百万、三井寺、盛久、山姥、花筐、蝉丸、弦上などを勤めた。最初のうちは万三郎、六郎兄弟(注・両人とも梅若実の実子)の教授を受け、その後もっぱら六郎氏(注・のちの二世梅若実)について稽古することになった。
 さて、能楽を修業してみると、東洋術のならいで、その帰着点はいわゆる腹芸にあるということがわかる。もっと難しく言うと、能禅一味(注・能と禅は一体である)で、物我一如(注・他者と自己の境がない)であることを極致とするのだから、どこまでいっても際限がない。究めれば究めるほど、いよいよ難しくなるようである。
 もっともこれは、どんな芸道においてもみな同じである。しかし、能楽はとりわけ様式が簡単で練習によってその効果を現わすものなので、他の諸芸に比べて一段と難しいものだと思う。第一、能楽は、舞を構成している手振りが少なく、たとえば、左右、打込、披き(注・ひらき)、差廻し、差分け、飛返り、打合せ、身を替え、上げ扇、ユーケン、翳し扇、雲の扉、捲き返しなどという舞型が、全部で二十種くらいしかないので、これをさまざまに組み合わせたところで、普通の舞踏の手振りに比べれば、きわめて簡単なものなのである。
 また舞台には、芝居で使うような写実的な書割(注・舞台の背景画)がなく、たまに小道具を持ち出すことがあっても簡素な形式を示すにすぎないので、背景の力で演芸を補足する度合は芝居とは比較にならない。例えていうなら、芝居は、全幅にコテコテに描き詰めた彩色画であり、能楽は筆数が少なく一点一画に力のこもった水墨画のようなものである。彩画のほうは、画面に現れた形状によって、見る者は、その図が何を描いたものであるかを知ることができるが、墨画のほうは、その筆力ひとつによって、見る者の脳裏に、写実ではない真髄を感じさせるのである。だから、非常に多くの修練を重ねる以外には、その妙境に達するのは不可能だと思われる。
 能楽は、一口に、二百番というが、現在、各流派において通常出される演目は、おおむね五十番内外にすぎない。この道の専門家は、この五十番を少年期から老境にいたるまで、場合によっては一曲を数百回も実演するのであり、その時自分の身も魂も演じる人格になり切り、まったく物我一如となるのである。その心意気が観客の心眼に映り、大きな感動を与えることになる。これがいわゆる腹芸ということである。

 東洋の芸術の帰着点は、どれもみな同様であるが、能楽はとりわけその観が強い。つねに丹田に力をこめ、足ひとつ踏み出すにも、物ひとつ見るにも、まず腹から力が出るようにならなければ、その奥義に達することはできないのである。
 私の経験によると、一番の能には、必ず一、二か所の難関があり、これを通過するには何遍も丹念に稽古するほかはないが、練習の功を積み、その要領を会得したときのよろこびは、また格別なものである。思うに芸術とは、演じるたびに毎回同じにできることはなく、あるときには自分でも知らずにうまくできたことが、次に同じようにやろうと思っても同様の味わいを出せない場合が多い。
 かつて梅若実翁が、弟子の勇治郎が『東北』を稽古しているとき、池水に映る月かげといういうところで、扇を上げて下を見た形がいかにもよかったので、今一度そこをやってみろと申しましたところが、今度は私の思うようにいかなかった。この、いかにもうまかったのは自然にあらわれた妙所で、幾度でも同じうまさにできるようになれば、いわゆる名人となるのでありますと言われたが、能楽演奏の興趣は、このあたりのところにあるのだろう。
 


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百二十五  九州の実業大家(下)(上巻433頁)


 九州の炭鉱業者の中の巨頭といえば、なんと言っても亡くなった貝島太助翁である。
 翁は工夫(注・炭坑夫のことか)から成り上がった人で、体格が頑丈で親分らしい容貌を備えていた。非常に寡黙であるが真摯で誠実なところがあり、おおぜいの工夫たちから神のように崇拝されるだけの徳望を備え持っていた。
 私はあるとき直方町の貝島邸を訪問し、翁がみずからの好みで建てたという和洋折衷の三階建ての奇妙な大伽藍のなかで翁の懐旧談をきいた。
 翁は明治三十一、二(189899)年ごろ炭鉱不振で非常に困窮していたが、ある日のこと数台の人力車が門前に着いたので誰が来たかと出迎えてみると、それが井上(注・馨)伯爵馨夫妻であった。驚いたり喜んだりしながら座敷に招きいれ来意をきくと、「維新前、変名してこの辺を往復した昔を思い、久しぶりで再び旅行したのであるが、家内が不浄(注・洗面所)を借りたいというので、見れば不思議な家構えなので突然立ち寄った次第だ」と言われる。これは冥加至極な(注・ありがたい)ことと思い、問われるままに自分の出生から現在の炭鉱事業の状態を物語った。すると伯爵は非常に同情し、「今、資金がどれほど必要なのかをさっそく調べて山口の宿まで申し送るように」と言われた。これは地獄で仏に会ったような思いで詳しく計算して提出したところ、伯爵は毛利家に関係のある下関第百十銀行や三井銀行などに相談して、相当額の資金融通の道を開かれた。このときの拙者にとって、轍鮒(注・てっぷ)が水を得たような思い(注・わだちにはまってあえいでいたフナが水をもらって生き返るという故事)で、伯爵の恩義にたいしては終生忘れることはできませんと、翁は非常に感激して語られた。
さらに、世には不思議なこともあるもので、拙者の考案で作られたばかばかしい家が侯爵を引き付けて私と侯爵の関係が起こったのだから、この家は拙者にとって実に大切な建物でありますと最後は大笑いになった。貝島家は、井上伯爵の指示にしたがい立派な家憲を作成し、後継者にも恵まれ、今や九州の大家として隆々たる声望を博している。これも、太助翁の長年の誠実の報いだというべきであろう。

 九州の実業大家の中には、赤銅御殿で有名な伊藤伝右衛門氏もいる。氏もやはり炭鉱業でその富をなしたひとりで、腕一本からたたき上げた人物だから、この種の人に共通する粗豪なところがないわけではない。しかし、なんら腹蔵のない率直な気質で、いかにも男らしい男である。私は東京でしばしば氏に面談する機会があったが、あるときは、かの白蓮夫人の噂も出て、すこしばかり礼讃の口吻をきかされた(注・のろけ話をされた)こともあった。
 その後に破鏡(注・離婚)の事件が起こると、世間はかの才媛に同情し、大江山(注・酒呑童子のしわざで)さらわれた姫君のように言う者もあったが、才媛ともあろうものが先方の人格を見誤っていったん嫁いだとするなら、ただありふれた離婚沙汰として終わりにするべきだ。才媛がそれについて、なにか感想談を発表したともきいたが、私はそこになにが語らているのかを知らない。しかし、楽毅(注・がくき)は国を去って悪声を放たず(注・中国戦国時代の故事。絶交した人の悪口を言わない)ということもあるので、もしそれが少しでも前夫の名誉に関係するようなことならば、あまり感心したことでもないのではないかと思う。伊藤氏はこの事件では思わぬ噂の種をまいたが、とにかく九州の大実業家であることにかわりはない。

 次に、平岡浩太郎氏は福岡の出身で、実業と政治の両方面で活躍した。日露戦争後の炭鉱業の好景気時代には政治の世界でも相当の手腕を試みた。氏は豪放ななかに無邪気な面を持ち合わせ、日露戦争がはじまり旅順の陥落が心配されたとき、我輩の部下を別働舞台として、すぐに旅順を乗っ取る成算があると人に向かって大言壮語したこともあるなど、すこぶる愉快な人物であった。
 氏は宴席で興に乗ると、田村の謡曲を謡うのが得意だった。その朗々たる音声はいまでも耳に残っているほどだ。また羽振りのよかったころに買い集めた美術品のなかに、趙氏昂筆の陶淵明の絵巻物一巻があって、私は最初にこれを見たときにはまったく気づかなかったが、その後、松平不昧公が編纂した古今名物類聚のなかに名物としてこの一巻が載せられていることを発見したので、平岡氏に知らせようと思いながら氏の物故によってそれが果たせなかったことは残念だった。
 また氏の福岡の自宅には神屋宗湛の古茶室があったので、私は氏を訪問したときに親しくこの茶室を一覧したが、今日なお現存していることだろうと思う。
 氏の壮時には、玄洋社の遠山(注・原文ママ、頭山満)、杉山(注・杉山茂丸)らと肩を並べたほどで、おのずと国士の風があった。晩年の炭鉱不況時代に長逝されたことは、まことに遺憾であったから、私は翁の訃音をきいて、霊前に次の巴調(注・自作の詩歌をへりくだっていう)一句をささげた。


   国の為め心つくしのますらをに 手向くるぬさは涙なりけり
 


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百二十四  九州の実業大家(上)(上巻429頁)


 私は明治三十一(1898年に三井鉱山会社の理事を兼任し、この翌々年ごろから例の三池築港事業がもちあがったので、職務上、何回となく九州に出張することになった。そして同地の炭鉱業者や、その他の実業大家と接触する機会が多かったので、そのなかの主な人々について、きわめて簡潔な所見を述べることにしたい。
 私が九州に出張するようになり最初に知り合いになったのは野田大塊卯太郎】である。当時三井は、三池地方の有志者と密接な関係を結ぶため、また同地方の利益をはかるために三池に三池紡績会社を設立し、野田氏を社長とし永井純一氏を取締役とした。よって私が三池炭鉱に出張するときは、いちばんに三池紡績会社の社長である野田氏に面会するのが当然で、滞在中はほとんど毎日のように会談した。
 氏はもともとは豆腐屋のせがれで、二十貫あまり(注・一貫は3.75キロ)の大きな力士のようだった。九州訛り丸出しで一見気楽な人物のように見えて内部には機略を持ち、後年には政友会の領袖(注・副総裁になっている)となり、逓信大臣にまで出世した。もともとの資質において人よりすぐれたところがあったからであろうが、政党者に見られがちな持って生まれたぬーぼー式が、おそらくその境遇にうまく合致したためだろう。
 井上侯爵などは最初から野田氏を田舎者扱いにして、三池紡績会社が原綿の買い付けで大損失をこうむった時、あんな粗造な頭に計算などがわかるものかと口癖のように罵ったものだ。しかし、どこかに一種の禅気があって、円転滑脱(注・そつなく動きまわること)の妙をそなえていた。かつて鎌倉円覚寺の釈宗演に参禅したこともあり、大事にあたってもあわてず、「ソレでよかたい」を連発し、大口をあいてワッハッハーとわらいながら相手を煙に巻きながら用件をまとめていくところに、なんともいえない機知と策略があった。

 特別に学問をしたようすはないのに、ときとして発句を詠むこともあり、私が音羽護国寺で石灯籠供養会を開いたとき(注・270「名物形石灯籠供養」を参照のこと)には、大塊宗匠がひょっこり現れて芳名録に即吟一首を題した。それは、


   供養塔衆生済度の光かな


という句だった。しかし、宗匠一代の秀逸な句というと、


   天下取る子は大の字の昼寝かな


というもので、大塊がその名のとおりの大きな図体で、雷のようないびきをかきながら大の字になって寝ている姿が、なんとなく水滸伝の花和尚魯智深(注・かおしょうろちしん。全身に刺青のある怪力の持ち主)をしのばせるようで、九州の豪傑としてはまず第一にあげなければならない人物である。
 また永井純一氏は、その名のとおり純情一誠の人格者であった。かつて参議院議員にもなり九州自由党のなかで重きをなしていたが、いかにも謹言で重厚なその態度が野田氏の女房役としてもっとも似合っていた。
 安川敬一郎男爵も、九州の実業家では唯一の男爵であるということからも、ほぼその人柄を察することができるだろう。私が男爵と出会ったのは、明治二十六(1993)年ごろ、私が三井銀行の支店長として大阪に滞在中の、男爵がまだ資産家になる前のことだった。
 自家の石炭売りさばきの道を開くために来阪し、また山陽鉄道に目をつけて、その株を買収するために三井銀行と取引しようとして、その用談のために来店した時が男爵と私の初対面だった。

 男爵は、令兄の松本潜氏が福岡の儒者であっただけに、相当の漢学の素養もあり、後年、自分の部下にあたる使用人に論語の講釈をきかせたときの筆記録を私に見せてくれたこともあった。いかにも堅実で、円熟味のある君子であった。
 炭鉱の経営が本業ではあるが、国家的な見地からシナ方面の商工業にも関係し、九州随一の大家となって、三百万円の資金を投じて学校を設立するなど公共事業にも広く尽くした。そのために男爵に叙せられ、貴族院議員になり、九州地方に重きをなすにいたったのである。
 今では高齢の八十を超えて老健ぶりはさらに衰えず、事業の相続者も得て家業もますます繁昌しているというのは、さだめて積年の善行の余慶というべきであろう。
 貴族院議員の麻生太吉翁も私の知り合いの一人である。翁は福岡県嘉穂郡飯塚村の代々の庄屋の生まれである。少年時代より炭鉱事業に関係し、今日見るような地位を築き上げたセルフ・メイド・マン(注・通常は、貧しい生まれからみずからの才覚でたたきあげた人をさす)で、筋骨たくましく、運慶の彫刻した二王尊を見るようだが、思慮周密で、石橋を叩いて渡る流儀なので、今は九州でも屈指の大資産家になった。
 先年、百二十五万円で炭鉱のある山を三井に売却したとき、その記念のために、その高額の現金を座敷に積み重ねてみようと、門司の日本銀行支店から同額に紙幣を取り寄せ、蓬莱山(注・中国古代の想像上の神山。仙人が住み、玉の木がはえていた)のようにそれを飾った床の間の前で、めでたく祝宴を開いたという。いかにも代々庄屋の旦那らしい稚気に満ちたふるまいで、麻生翁の立志伝の一ページを飾るにふさわしいエピソードであろう。
 


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 百二十三 
三池築港の功徳
(上巻426頁)

 明治二十一(1888)年末、三井が三池炭鉱を落札したあと、団琢磨のち男爵氏が実際の経営に当たり、この炭鉱を三井の宝庫とするためにふたつの大事業を完成させた。
 そのひとつは、九州地震(注・明治22年)のために大きな浸水が生じた勝立坑に、明治二十三(1890)年に(注・詳細は未調査だが、史実は明治26年か28年ごろか?)、イギリスの、世界最大のデビーポンプ(原文「デビー卿筒」)を据え付け、その排水に成功したことである。
 ふたつめは、明治三十三(1900)年ごろから計画がはじまった、三池炭鉱から出炭した石炭を輸出するための大牟田湾の築港であった。
 私は勝立坑排水事業とはなんの関係も持たないが、明治三十一(1898)年から鉱山会社の理事を兼任したので、築港計画が起こってから完成するまでのあいだは団氏の助役になるという光栄に浴した。団氏がこの事業を成し遂げるまでにどれほど苦心したかということを十分に承知しているので、その大要をここに記すことにする。
 団氏は、イギリスから輸入したポンプで勝立坑の浸水の排除に成功したのち、さらに万田の竪坑の開削を行い三池炭鉱の出来高はますます増加してきた。この石炭を上海、香港などに輸出するには、まず小船で三池から長崎まで運び、長崎で汽船に積みかえるという二重三重の手間がかかっていた。一歩進めて、汽船を口ノ津港に寄港させて三池からの石炭運搬の距離を短縮してみたものの、例の青筒汽船(注・英国の汽船会社、ブルー・ファンネル・ライン。青い煙突のためにこの名がある)などの船がだんだん大きくなり一万トン以上になるものもあったので、三池の未来のためには大牟田港を築港することが利益になることは明らかだった。そして一万トン以上の大きな船をこの港に寄港させ、炭鉱から掘り出した石炭を港口で本船に積み込めるようにしようというのである。
 このあたりは潮流の干満が激しいというので、最初は水門を二重にする計画で予算を立てたが、費用の点を考慮し工夫を重ねた末に、最終的に一重の水門の案を採用することになった。築港費用三百万円で工事を進めたが、この港を石炭積み出し専用にしてしまうと九州全般にその恩恵が及ばなくなってしまうので、石炭は内港で積み込むこととし、外港は公共の貨物積み下ろしの便の供することになった。すなわち三池港の一部は公開港として、九州地方の運送業のために使用されることになったのである。そのため地元は繁昌し、三池町はほどなく市になるなど、三池港は公私にわたって貢献することになったのである。しかも築港の仕事は順調に進行し、なんらの支障も出なかったため、外港を築造するという臨時支出があったにもかかわらず、結局、予算三百万円の一割程度で落成した。じつに大成功であったと言えるだろう。

 団氏が技術的な知識と事務的な能力を兼ね備えていたために、第一の浸水排除事業、第二の三池築港の二大事業を完成し、三池鉱山を完璧な三井の宝庫になしとげたのである。この人材を経営者として得ることができたことは三井家の大幸運であったと言わざるをえない。
 私は以前にも、三井が三池鉱山の落札のときに団氏を併せて獲得できたことは非常に幸運だったと言ったことがある(注・57「三池炭鉱」を参照のこと)が、三井財国の総理となってからの団氏についてもまだまだ語るべきことがあるので、また後述することにしよう。


築港に対する感想(上巻428頁)

 三池築港は九州における一大土木工事だった。文禄征韓の役(注・16世紀末の朝鮮出兵)のときに太閤秀吉が肥前(注・佐賀)の名護屋(注・原文では名古屋)に施した出征準備の工事もおそらくかなり大規模であっただろうが、いまではその遺跡を確認することができない。
 そのほかの九州の大土木工事というと、その第一は熊本城になるだろう。これを三池築港と比較するとしたら、はたしてどちらが大がかりだっただろうか。私は、三池築港の工事中にたびたび三池に出張したが、そのついでにある日のこと熊本城を参観した。そのときふと頭に浮かんだのは、近代文明の施設と封建時代の事業とのあいだには、大きな違いがあるということだった。

 加藤清正が熊本城を築いたときの経費は、はたしてどれくらいだっただろう、もしかすると三池築港費以上にかかったかもしれない。しかしこの城は、築城されたのちにいかなる実効をもたらしただろうか。徳川時代には城主の威光を隣国に誇示するという功徳はあったかもしれないし、維新後の西南戦争の際に薩摩軍を食い止めるという効能も大きかったかもしれない。しかし一般の民衆に対してなにかの功徳を及ぼしたかどうかというと、かつて何一つ利益を与えたことがなく、今後もなおさらそのようなことはないだろう。
 この点にいたると、三池築港は単に現在だけでなく、炭鉱がことごとく掘りつくされたあとまでも、いや九州が存在する限り、利用厚生の恩恵を末永く子孫に残すことになる。この功徳の深さの違いは比較することすらできない。
 このように考えれば、たとえ最初の動機は利殖のためであったとしても、築港を完成させた資本主としての三井や、計画者としての団男爵の功績は非常に大きかったとしなければならない。私も、末席ながらこの工事の遂行に一員として加わり足跡を一隅に残すことができたことは、まことに望外の幸せであると思っている。
 


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百二十二  日本百貨店の先鞭(上巻422頁)


 越後屋は、元禄の昔に現金掛値なしだとか反物小切売り」だのという先端を行く呉服小売り法を始め、非常に繁盛するにいたった。
 「翁草(注・おきなぐさ。18世紀後半の神沢杜口による随筆)」には「越後屋の繁昌言はん方なく、芝居千両、魚河岸千両、越後屋千両と称へて、江戸の一所にて一日千両の商売あるものに数へらる」とあり、また新井白石の「紳書」にも「駿河町越後屋二の店にて、一日金千両平均の商あり、一年三十六万両越後屋に入る程に、夫れ程本町衰へたり」とある。また、俳人の其角(注・宝井其角)が、


   
越後屋が絹裂く音や衣がへ


と吟じたその越後屋は、二百十年あまりのちの明治二十八(1895)年から再び、私の手先端を行く改革を始めることになった。
 同三十七(1904)年には独立して株式会社になり、その後すぐに、さらに組織改革を行い日本百貨店の先頭に立つことになった。
 このときの組織改革で三越専務になったのは日比翁助で、常務は藤村喜七であった。百貨店としての完成は、このふたりの力に負うところがもっとも大きかったと思われる。
 日比は明治三十一(1898)年、私が三井銀行から連れて来て支配人にした男で、慶應義塾出身の久留米(注・現在の福岡県久留米市)の人である。正直で勤勉な人で、仕事に熱中するタイプであり、三越を百貨店にする準備のための調査で欧米諸国を視察してもらうことになった。その留守は藤村が守り、私も顧問として助けた。私は同三十九(1906)年、十二年の勤務ののち三越を退くことになった。

 日比氏は帰国すると着々と手腕の冴えを見せて百貨店を経営した。藤村氏も勤勉にそれを補佐した。このふたりの働きぶりにつき元三越常務取締役の林幸平氏は、新著の「続・予を繞る(注・めぐる)人々」の中で、非常に適切に批評しているので、抜粋して大要を記してみよう。(注・一部の表現を読みやすくあらためた)。

 まず日比氏については、
 「日比さんは三越の専務取締役になると、熱烈な意気ごみで全店員をひきいるとともに、なるべく店員を株主にして、多くの店員の中に隠れた才能を持つ人がいないかと、のどの乾いた者が水を求めるように目を光らせた。あるとき日比さんは店員を集め、このように言った。商店というものは、入口の管理が大切である、まず入口で、下足番が気持ちよく来客の下駄を預かり、出口の下足番がまた愛想よく客を送り出せば、その快感によって、多少の不愉快は打ち消されるものである。このように、まずはきわめて些細なところから注意をはじめ、一事が万事この調子で、すみずみにまで心を配っていた。また、「時好」、「三越タイムス」などという雑誌を発行したり、児童用品研究会を発足させて、将来の顧客となるであろう子供たちに対して、三越というものを印象づけようとするなど、百貨店主として、細心の注意を怠りなく行った。そのような氏は、ついに神経衰弱にかかり、まだ数年もたたないうちに病床につき、昭和六(1931)年二月、みずからが培って大成した花や果実を見ることなく逝去したことは、まことに痛嘆のいたりである。」
 また藤村喜七氏については、林氏はだいたい次のように記している。(注・同上)
 「藤村喜七氏は伊勢松坂の人で、十一歳のときに三越の小僧になり、六十一歳の還暦を迎えたとき、三越の常務取締役として、勤続満五十年を祝った。旧越後屋の大黒柱の古材で作られた厨司(注・厨子。扉付きの棚)に、純金の大黒天像を納めた記念品を、店員一同から贈られたという、実に模範的な商店員である。

 彼は小僧出身であるが、勤勉で、協和性に富み、またよく時勢の変化を理解して、それに順応する才能を備えていた。明治十八、九年ごろ、例の鹿鳴館時代の趨勢を見て、フランス国のパリに行き、洋服の材料を仕入れると同時に、フランス人のホフマン夫人と、そのふたりの娘を雇って帰国し、男女用の洋服店を開業して、当時の旧式な呉服業者を仰天させたこともあった。
 氏はまた、商品選びにすぐれており、仕入れ面で最大の功労があった。終生を三越の事業に捧げ、七十余年の高齢で世を去ったことは、東都呉服商店の中で模範的な人物として、おおいに敬意を表さざるを得ない。」
 以上の林氏の、日比、藤村両氏に対する観察は、長年、両氏の下で間近に仕えた人物だけに非常に適切なものである。なお私に対しては、先覚者の名のもとに、
 「高橋さんは明治三十一年ごろの、眠れるがごとき呉服商売の状態を達観して、一切過去の旧習にとらわれず、営業上、一歩一歩尖端を切って、同業者に多大な衝撃を与えたものである。ゆえに、日本における百貨店の発達史の基礎を知ろうとするものは、まず根本の基礎を築き上げた高橋さんの功績を没却してはならないと思う。」
とある。私は、百貨店事業を生涯の仕事としたわけでもなく、ただ、その黎明期に、通りがかりに少しの助力をしたにすぎない。言ってみれば、諸国廻りの武者修行の者が、途中でのある日に、猫退治をしたくらいの功労に過ぎない。したがって、これを誇る気持ちもないのだが、林君の高評に対しては、ありがたく感謝の意を表したいと思う。


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  百二十一 

製糸工場の処分(上巻419頁)


 三井には、明治二十四(1991)年よりも前に政府から払い下げをうけた富岡製糸場と、三十三銀行の抵当流れだった大嶹(注・おおしま)製糸場という二大製糸工場があり三井工業部の所管に属していた。(注・史実では、三井が富岡製場を手に入れたのは明治二十六年)
 中上川氏が鐘淵紡績や王子製紙を拡張したとき、製糸工場も三井の事業として大幅に拡張し、名古屋と四日市に二大工場を創設することになった。
 しかしこの計画は中上川氏のさまざまな拡張計画のなかで、いわゆる千慮の一失(注・思いがけない失敗)に終わってしまった。というのも、本来製糸の仕事は農閑期の工業で、農家が農間に養蚕をして、繭ができると自分たちで繰り上げるというのが従来のやり方だったからだ。上州(注・群馬)、信州、甲州(注・山梨)には多少は大規模な工場がなかったわけでもないが、言ってみれば一家の手内職であり費用のあまりかからないものだったのに、三井のような大きな会社が繭の買い入れから工場の操業までを給与の高い人を使ってやるしくみでは、結果として費用倒れになってしまったのである。
 特に明治三十二、三(18991900)年ごろは製糸の商況が悪かったので中上川氏も持て余していた。そこで私は中上川氏と協議したうえで、かねてから親しくしていた横浜の原富太郎(注・三渓)氏に交渉し、富岡、大嶹、名古屋、三重の製糸工場を、総額でいくらだったかははっきりとは記憶していないものの、とにかく十か年の分割払いで譲渡することになった。

 原氏は日露戦争後、この工場で大儲けをしたこともあったが、その後そうとうな損失を招いたこともある。大家が経営することが非常に困難な工業であるようだ。三井がこれを処分したのは私が三井呉服店在勤中で、中上川氏がまだ生存中のできごとであった。



絹糸工場の合同(上巻420頁)


 三井が三十三銀行の抵当流れとして引き取った物件のなかに、新町絹糸紡績工場と、前橋の同工場のふたつがあった。絹糸紡績というのは屑繭から糸をつむぐ工業のことで、日本においてはフランスの工場にならって建設したものである。中上川時代には、やはり三井工業部の所管に属しており、柳荘太郎氏が主任者として苦心して経営に当たっていた。
 その工業部が三井呉服店と合わさったので、私は明治三十五(1902)年ごろからその工業の全国的な合同計画に当たることになった。当時、経営が困難だった岡山、京都、程ヶ谷の三つの絹糸紡績工場をまとめ京都を本社にして団結する協定が成立したので、藤田四郎氏を社長に推し、私も取締役のひとりに加わった。
 それ以降かなりの成績をおさめ続けていたが、日露戦争のあとに諸工業が景気づいて、この合同絹糸紡績会社の株が払込の倍額以上に達した。もともと工業関連には執着をもたない三井では、これをだんだん売却し、約百万円ほどの利益が出るまでに売りつくした。
 この件が落着すると、私は三井から感謝状とともに金一封の褒美を頂戴した。そこで、当時の住まいであった一番町の家の東北部分に能舞台を造ることにした。それを稽古場、兼、運動場にした。しかしほどなく私の先妻が死に、ある人の説によると、これは鬼門に向かって能舞台を建設した祟りであるということであった。また私邸に能舞台を造るということは、昔であれば大名でなければなし得ないことで、三井の奉公人としては僭上の沙汰(注・身分をわきまえない贅沢)だと言いまわる人も出てきた。

 いずれにしても、あまりいい考えではなかったようである。しかし一生のうちに一度、自宅に能舞台を造ったというのも、私が趣味にふけった生活を送った一端を示すもので、必ずしも意味がなかったとは思わない。この舞台は、震災前に観世流の橋岡久次郎氏が引き受け、今でも赤坂榎坂町の橋岡方に残っている。



三越呉服店の独立(上巻421頁)


 上記の製糸、絹糸の両工場の処分に続き、私が三井在勤中にうまいぐあいに整理することができた案件は、三越呉服店のちに、三越と改称の独立であった。
 当店は明治二十八(1895)年に私が改革に着手したころから、三井営業店として経営するべきではない、という議論があった。しかし当時の老主人のなかには、少年時代から同店に勤めていた者もいたし、また先祖が始めた事業として二百年あまり継続してきたのだから、という意見もあり、いずれにしても一度改革したうえで、あとのことを決めようということになっていた。
 まずは販売法を西洋百貨店方式に改め、それから十年の歳月がたったので、主人連中の考えもすでに変化しており、今では、処分することに反対する者もいなくなっていた。そこで、当時三井管理部の首脳であった益田孝男爵からの発案で、三井呉服店を三井から分離し五十万円の株式会社にすることになった。そしてこれを、高橋、日比(注・翁助)、藤村(注・喜七)、益田英作の四人に、それぞれ五千株ずつ持たせ、他の五千株を三井関係者から募集した。
 店名も三越呉服店と改め、明治三十七(1904)年にはいよいよ独立して株式会社となり、日比翁助が専務として海外の百貨店の情況視察にあたった。そして同三十九(1906)年には、日本の百貨店の先鞭をつけて今や資本金三千万円の大事業会社になったのである。


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