だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

2017年07月

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  百二十  元禄模様の流行(上巻415頁)


 私は以前にフランスのパリに旅行したとき、洋服店が毎年のように洋服の新作を出し、単にパリだけでなく、ヨーロッパだけでもなく、遠くアメリカの流行にまでも影響を及ぼしているということを聞いた。祖母の着たものを孫娘が受け継いだりすることさえあるわが国では、まったく考えも及ばないことだった。貧富の度合いが違っているからでもあったからかもしれないが、世界の競争から取り残されたような島国の日本では、人はそのようなことに無頓着で、のんびりしているためだろうと思われた。
 もっとも徳川幕府の盛時には、おりおりで衣服の流行が変化し、人気俳優や、評判の妓女たちがその手本になったということはある。あの市松模様(注・江戸時代の歌舞伎役者、佐野川市松がはやらせた)であるとか、菊五郎格子であるとか、何々絣という名前があることからもわかる。
 しかし維新の変動は、極端にひとびとの気持ちを萎縮させ、かんたんにはもとに戻らず、そんなわけで衣服の流行などを気にする者はいなかった。
 しかし日清戦争後の景気拡大で世間では好況が来たと騒いでいたから、私は、あの伊達模様というものを染め出して、はやらせてみようと試みた。だがまだ時期が早すぎて、そのときはあまり反響がなかった。
 そんななかで日露戦争が始まった。まもなくこの戦争は大勝利のうちに終わり、今度こそ三井呉服店が奮発し、明治ごのみの新しいもので衣服の模様の流行のさきがけになり一世を風靡してみようと思い立った。
 それに先だち私が三井呉服店を改革し始めたとき、新たに意匠係というものを設置していた。そこに何人かの画家を招き、新しい模様をデザイン(原文「立案」)してもらうと同時に、古い絵画を残らずあたり、優れた衣服の模様を収集していた。古いところでは古土佐、住吉派にはじまり、又平(注・岩佐又兵衛)、宗達(注・俵屋宗達)、光琳(注・尾形光琳)、新しいところでは、師宣(注・菱川師宣)、春章(注・勝川春章)、歌麿(注・喜多川歌麿)、雪鼎(注・月岡雪鼎)、栄之(注・鳥文斎栄之)にいたるまで、なんでも図柄のおもしろいものなら、風俗絵巻であろうが、小袖屏風であろうが、はては春画までをも、くまなく写して、模様集帖(注・デザイン帖)を作っておいたものがあったのである。これを実地に応用するのは、まさにこのときだと思われた。

 かねてより古老から聞くところによれば、世間の景気がよくなるときは衣服の模様が派手になり、不景気になるときは概して好みが地味になるという。日本は今や戦争に勝ち世界屈指の大国となり、好景気到来がしきりに叫ばれる時期だったので、世の人の好みも派手になり、自然に大がらな模様が歓迎されていた。元禄時代が再来することは、もはや疑いをいれないと思われた。
 そもそも徳川の元禄時代は、関ケ原の戦いが終わり、大阪も落城し、弓は袋に、刀は鞘に収まった元和元(1615)年(注・大阪夏の陣の年)から七十年の歳月がたったいる(注・元禄時代は、16881704年)。しかし明治はまだ四十年弱しかたっておらず、維新後まだ非常に日が浅かったが、鎖国をやっていた昔とは違い時代も駆け足で進み、このあたりで元禄時代が再現されてもいいころだろうと思われた。
 そこで私は、例の模様集帖から、もっともすぐれた模様を選び、まず十数種類の衣装をこしらえた。
 次に元禄花見踊りという曲を作り、新橋の人気芸者から踊り手と地方(注・じかた。音楽の演奏者)を選び、ひとつの舞踏団を組織した。その踊り手のなかでは、のちに伊井蓉峰の女房になった叶屋清香や、河合武雄の宿の妻となった栄龍などが光っており、たちまち東京中の大評判になった。のちにその当時のことを書いた実録に、つぎのような記事がある。(注・内容を多少わかりやすくなおした)
 「元禄衣装というのは、最初、新橋一流の歌妓である松寿、清香、五郎、栄龍、ひさ、実子などが、めいめいに別々の意匠をこらして、帯や紐はいうまでもなく、髷の結い方や、櫛、笄(注・こうがい)の好みまで、それぞれに昔の型を追ったものだった。その発表の方法としては、高橋箒庵の書きおろした新曲である元禄舞に、杵屋勘五郎が節を、藤間勘右衛門が振りをつけたものがあった。それが、三井呉服店が三越呉服店と改まった三十八(1905)年の春から、浮世絵そのままの姿で交際場に現れたので、雑誌も新聞も筆をそろえてこれを報じたのだった。戦争以来さかんに流行していた絵葉書の図柄にもなり、それが八方に飛んだ。また歌舞伎座の三月狂言の、大切の所作事(注・舞踏)にも元禄踊が演じられた。流行はほどなく大阪南新地にも伝染し、戦後には、人心が華麗で大きなものを好む傾向にあったから、元禄模様は、単に衣服や髪飾りだけでなく、調度器具、日常全般の品々にまでおよんだ。この流行に乗じて、元禄の名を冠するものは、元禄櫛、元禄下駄、元禄足袋、元禄煙管、元禄団扇、元禄手ぬぐい、元禄ネクタイ、元禄友禅などなど、数えきれないほどだった。そのうえ、元禄料理の再現が試みられ、元禄出版の古書籍が値上がりし、また元禄研究会が作られ、これに関する著書も刊行されるという具合で、このころの元禄流行は、実にすさまじいものだった。」

 
 元禄模様のはじまりは、私が三井呉服店の理事を兼任していた明治三十七(
1904
)年からで、翌年には同店が組織を改め三越呉服店となり、その翌年の三十九年に私が同店を去るまでも流行は一向に衰えなかった。戦後の景気拡大がようやく沈静化した四十年ごろまで、その勢いは継続したのである。これは明治時代の風俗を語るうえで特筆すべきことがらであると思う。


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百十九  箒庵と箒の歌(上巻411頁)


 私が明治三十一(1898)年に麹町一番町五十五番地に新宅を建て、京都大徳寺に塔頭(たっちゅう)のひとつである寸松庵の茶室を移築したということはすでに前に書いた(注・92「寸松庵開き」を参照のこと)

 もともと私の住まいに対する考えはちょっと普通とは違っている。なぜなら、私は旧水戸藩の貧乏士族の四男坊で宗家に対する責任が何もないし、足手まといになるような縁者もなく独立独行、勝手次第の身分なので、住まいについても非常に楽観主義だからである。

 第一には自己の趣味を満足させることが重要で、次に現在の社会的な身分に応じてそれに必要となる設備を整えようとしたかった。私が聞くところによると西洋の実業家は、全財産の三割を住宅に充てるのを原則としているそうだ。しかし私がもしこの基準どおりに自分を満足させることができるような住宅を造ろうとすると、一生かかっても実現不可能となってしまう。

 そこで私は、西洋の実業家の基準を逆にして、あえて借金まではしないとしても当座の持ち合わせの財布の底をたたいて、まず自分の趣味にふさわしい家を造り、かつそこに住み、かつ楽しむことにした。もし維持困難になったときにはただ処分すればいいだけというわけで、ほかの人の手本になるようなことは一切ない、のんき千万の箒庵一流の住宅経営法を採用したのである。
 このような楽観主義のもとに、私は自分の趣味を満足させるような様式を選んだ。皇居(原文「宮城」)
の森の一部を見渡す高台の、一千坪の四角い土地に家を建てたのである。当時の私の身分からすればほとんど不満のないものだったが、三、四年たつと物足りないような感じがしてきたので、西南の一画に三百坪の空き地があったのを利用し新しい茶室を建てることにした。

 寸松庵が三畳台目だったので、今度はもっと狭い侘茶の茶席を作りたいと思い、京都東山の西翁院のなかにある藤村庸軒ごのみの、淀見の席という三畳敷きの茶室を模造した。

 この席は洞床(注・床の間の間口よりも内部が広いもの)で、二畳を客座に、一畳を主人座とし、その間に、太鼓張り(注・骨組みを囲むように紙を張ったふすま)の二枚引きを立てた。炉は向切(注・むこうぎり。小間の炉の切り方のひとつ)で、左手の窓をあけると淀川の景色が手に取るように見えるので、この庵の名前がついたのであった。
 庭は、おおむね塩原箒川の景色の写しであった。奈良の古石、もしくは筑波山の山石を寄せ集め、大石のあいだから一筋の滝を落とし、京都から取り寄せた台杉で庭の半分を覆い、木の間がくれに、ちらちらと水流を見せる趣向だった。
 その後、ドイツ、ベルリンの博物館長キンメル博士が来庵されたとき、この築庭についての話になり、なぜ杉の木で滝の半分を隠すのかときかれたので、これが日本の築庭術で、ものを隠すことで、そのものを大きく見せ、かつ趣を添えることができるからだと説明した。また竹垣などで庭の一部を仕切ることもあるが、これも、世界ををふたつにわけて庭を狭くすることで、かえって広がりをもたせることになるのだと話すと博士は非常に感心した様子だった。

 さようなわけで、はじめは茶室に箒川庵と名前をつけたが、古色がかった円形の扁額にこの庵号を彫刻しようとする段になり、三文字では字形のおさまりがつかない。しまいに川の字をはずし、箒庵の二字としたのである。
 ところが、それがとうとう私の雅号となってしまったので、箒というものに興味を持つようになった。いろいろな関係をたどっていくと、箒に関する故事はとても多い。寒山の箒は言うまでもないが、禅宗では無形の箒で心の塵を払うというし、詩歌でも箒を詠じたものが少なくない。私が所蔵する幅の中にも蕪村の箒画讃があるし、また大口隆正の箒の讃には


   そのままにうちすてておかば掃ふべき 箒にもなほ塵やかからん


というのがある。
 そこで私は、山県公爵の主宰されていた常磐会という歌会で、箒という課題を出してもらったことがあった。そのとき私が詠んだのは  

 

   散る花も紅葉もはきて春秋の あはれを知るは箒なりけり


というもので、幸いにも選歌となることができた。
 このときの参加者諸氏の吟詠は四十八首にのぼったが、そのなかで主だったものは次のとおりである。


   たまさかに朝きよめする乙女子が もてる箒のおもげなるかな


   朝しめり土もにほへる広庭の 箒のあとのここちよきかな


   松かけの庭の苔生をいたはりて 箒は人にとらせざりけり


 第一首は山県公爵の詠じられたもので、これはそのときに満点で選歌になったそうだ。四人の宗匠の投票で、三点以上は選に入り、四点だといわゆる満点の名誉を得るのである。公爵は大喜びで、選歌の会場だった目白椿山荘の廊下に飛び出して夫人を呼び、「お貞、お貞、己れのが満点になったぞ」と報告されたそうで、ふだんは謹厳な公爵からすると、めったに見ることのできない図であったとは、宗匠のひとりだった井上通泰博士から直接きいた話である。
 さて箒庵であるが、私から中井新右衛門氏に譲り、大正癸亥年(注・みずのといどし。大正十二年、1923年)の震災の火災で寸松庵とともに烏有に帰した(注・全焼した)。しかしながら、私が丹精をこめたものだったから、ここにその建築の由来を語り、あわせて私の雅号と箒の歌の由来を付記した次第である。


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   百十八  

日露戦争の衝動(上巻408頁)


 維新後六十年余りにおいて何が一番激しく日本国民にショック(原文「衝動」)を与えたかといえば、誰もが異口同音に日露戦争と答えるだろう。
 しかし、その心配が一番強かったのはむしろ宣戦布告までのあいだで、旅順襲撃の口火が切られてからは、皇国一体、死なばもろともと覚悟したためか度胸が据わり、かえって気持ちが軽くなったようである。とはいえ実地戦局にあたっての国運を双肩にになっていた軍人の心境は、はたしていかなるものだったろうか。私はそのことを思うたびに、粛然として感激の念に打たれるばかりだ。
 日露戦争が、幸いにも海陸ともに勝利を得たからよかったものの、もし反対に敗北していたら、わが国は果たしてどのようになっただろうと想像すると今でも身の毛がよだつような感じがする。
 明治三十八(1905)年奉天戦争の直後、児玉(注・源太郎)大将が政府の要人と相談するためにしばらくのあいだ帰京されたとき、三井家のひとびとは慰労の気持ちを表すために、ある晩伊藤博文公爵らとともに大将を三井集会所に招待したことがあった。
 そのとき児玉大将が洋館の広間に入ってきてキョロキョロと席を見回したその目を見ると真っ赤に血走り、神経が極度に興奮している様子がうかがわれた。彼が日露戦争の参謀長としていかに心労したかを如実に物語っていた。
 当時奉天戦の前後の様子を熟知していた軍人から私が聞いたところによれば、総司令官の大山(注・巌)元帥は、奉天戦がいよいよ迫ってきたときになっても泰然として、まったく動じる気配がなく勝戦のことは、児玉さんに任せてあるから、俺どんは何も知らないが、しかし敗戦となったら、俺どんが出て引き受けるつもりだよと呵々大笑(注・高らかに笑う)されたということである。
皇国の興廃を決める大戦を前にして、大山元帥の沈着ぶりはいかにも見上げたものであるが、その作戦の全責任を負っていた児玉大将の心労は、はたしてどのようなものであっただろう。大将がその後まもなく脳溢血で急死したのは、まちがいなくこの過労の結果で、完全に国に殉じたといってよいだろう。

 その急死について杉山茂丸氏の語るところによると、当時杉山氏は大将に報告することがあって大阪から参謀本部に電報を打ったが、その文言に諧謔(注・冗談)をまじえてあったのを大将はベッドの上に寝転んだまま読み終わり、大笑いしたその瞬間に溢血(注・いっけつ=出血)したので、電報用紙を片手に大口を開いて、笑ったまま死んでいたのだそうだ。
 とにかく、この戦争の最初に国民の心配の程度が大きかった分、吉報が来るたびに喜ばしかったその度合いは無類に大きかったものだ。このような気分は、この大事件に直面した人でないととうてい感じることができないだろうと思うので、ここに書き残しておく次第である。



戦後の気分(上巻410頁)


 日露戦争が国民に与えた衝撃が特別に大きかった分、戦後の気分は、口では言い表せないほどにのどかなものとなった。とくにこの戦争中に参謀総長であった山県有朋公爵などは、その双肩にかかった重荷をおろした心地がして、さぞかし愉快な気分になったことだろう。
 明治三十九(1906)年七月下旬、大磯の別荘である小淘庵にいた山県公爵は、ある日夫人同伴で鵠沼の益田別荘に来遊された。私は主人の鈍翁に誘われて公爵と清談(注・趣味、芸術、学問などのおしゃべり)をともにしたあと、とうとう別荘に宿泊することになってしまったが、翌朝公爵は寝室にあてられていた二階の窓から富士山を見て、


   目なれてもめでたきものは朝窓に おちくる富士高根なりけり


という和歌を詠まれた。そのとき私が公爵に対して非常に強く感じたのは、そのきわめて謹厳な態度のことなのである。私たちは別荘に滞在しているのだから、風呂上がりには着流しに三尺帯などを締めているのだが、公爵はいかなる場合においても袴をつけていないことがなく、談話がどんなに長くなっても脇息に寄り掛かるくらいで膝ひとつ崩さないのである。これは持って生まれた人格というもので、努力しなくてもこうなるのだろうと思われた。
 このとき公爵には、小田原に隠居所である古稀庵を造る計画があった。明けて四十(1907)年の一月に私に手紙が届き、その後私がご覧にいれた家屋の図面が非常に気に入ったということ、また小出粲、高島九峰のふたりが来訪したので、新年の歌を二、三首詠みだされたことなどが書かれており、末尾に次に二首が書き添えられていた。


   去年も来て遊びしところ年立てば また新しき旅路なりけり


   つづみ打つ声面白し万歳の うたひ出でたる門松のかげに


 日露戦争後、古今にも稀なるおめでたい新年を迎え、門松のかげに万歳(注・まんざい芸人)の鼓の音を聞くのどかな気分は、私たちの生涯で二度と感じることができないものではないかと思う。


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百十七  目白椿山荘講評(上巻404頁)


 私は明治二十三(1890)年に山県公爵に初めて会ってから、ほどなく三井に奉公して多忙になり公爵をあまり訪問することがなかった。公爵も日清戦争から日露戦争にかけて種々の政務があったので、この間は双方ともに接触する機会が少なかった。
 明治三十五(1902)年の春、公爵は一番町(注・高橋箒庵の一番町邸)の寸松庵茶会に臨まれ益田克徳氏と同席された。そして翌年の同じころに克徳氏が鬼籍に入ったので、


   まとゐせし去年の数寄屋の物がたり おもかげに立つ花の頃かな


という一首をたむけられた。このとき公爵は益田克徳氏の設計した寸松庵の庭を見てさまざまな品評を試みられたので、私も同年の秋に目白の椿山荘を訪問し庭前の紅葉を愛でた。
 公爵が、この庭に対する私の所見を求められたので私は非常に当惑した。これはきわめてむずかしい役目なので、なるべく避けようとして椿山荘の秋景はすでに賞玩したけれども、まだ春の様子を拝見していないので、追ってこれを拝見したうえで卑見を述べたいと言い逃れをしていた。ところが明治三十八(1905)年奉天戦が終わったばかりのとき、突然、私は次のような手紙を受け取った。


   花の頃山荘を訪ふべしとの約もあれば、昨朝風光真情を

   ここもまたなかば咲きけり我が山の 花こそ今は見るべかりけれ


など詠み出し、馬に鞍一鞭、直に走らせ可申と存じながら(注・馬に飛び乗って、うかがうべきところ)、軍務に取り紛れ、今朝に至ればすでに満開、急報に及び候、ゆるゆる御眺め講評を煩わし度、老生は残念ながら本営にまかり出で、御待ち致さず候、余事在面晤 早々不一
 四月十三日  椿山荘主朋
  高橋雅兄座下

 このころ公爵は参謀総長で、戦争関連の仕事でいつもに増して忙しく参謀本部に近い五番町の別宅を使い、椿山荘には帰らず、


   針金の糸のひびきに戦ひの つつの音さへ聞く心地して


と詠まれたような時節であったのに、椿山荘品評の約束を忘れず私にこのような風情ある書状を寄せられたという余裕しゃくしゃくぶりには、槊(ほこ)を横たえて詩を賦した(注・戦いのための矛を置き、詩作した)という古代の名将の故事も思い合わされ、いかにも風流であると感じたので、さっそく椿山荘を訪問した。

 公爵はむろんのこと不在だったので、勝五郎という公爵お気に入りの庭師(原文「槖駝師(たくだし)」)の老人が案内に立った。彼は私にいろいろな質問をし、この庭には、あの主人の気性もあって庭石らしい庭石も置いていないので、おそらくお気に召しますまいなどと誘い文句を発してくる。それで私もつい調子に乗り、橋もこれでは粗末である捨石についてももう少し奮発してほしい。」だとか、「書院に近い崖際に柿の木があるのは不似合いだが、もっとも目白の殿様だから柿がお好きなのも当然かなどと、駄洒落まじりの冗談を言ったりしながら、私が胸の内にしまっていたことも打ち明けてしまった。
 この日はなにごともなく帰宅したが、その後ひと月ばかり過ぎたころに偶然公爵と同席することがあった。そこで私の椿山荘評をしようとしたところ、公爵が手をふって遮り、いやいや、君の批評は残らず勝五郎から聴き取った、柿の木がだいぶ気に入らなかったそうだねと言い出されたので、私は、さてはあの老師こそが、公爵から差し回された軍事探偵であったのか、とハタと思いいたったのであった。背中に冷や汗が流れたが、最後にはとうとう大笑いになった。
 もともと山県公爵は趣味が非常に多方面にわたっていたが、なかでも築庭は青年時代からの趣味であった。奇兵隊長であったころに、萩城下の閑静な場所に、丸木橋を渡って門前に達するという趣向の小さな家を建てられたこともあるそうだ。
 公爵の平素の主張は、庭というものは、自然山水の縮図であるから、水がないことには趣が出ない、だからおれが造った庭で、天然の水がないところはないというものだった。その通りに椿山荘もまた水に富み、庭前の池からは天然水が湧き出て、池尻には一条の小滝がかかっている。公爵はあるとき都下にある富豪の庭園を評し、彼らは庭に水道の水を引きながら、客が来れば水を流し、客が去れば止めてしまうではないか、おれは貧乏人ではあるが、庭の水は年中流しっぱなしであるぞと気焔を吐かれたこともあった。
 そのような次第で椿山荘は天然水に富んでいるうえに、都下には珍しい老松が池をはさんで相対峙している。雑木がその間に点在し、春よりも秋の紅葉時が優れているようなので私はあるとき、


   此庭のあるじ顔なる老松も 紅葉に色をゆづる今日かな


と詠み公爵に見せたこともあった。公爵の庭園趣味についてはまだ多くの美談があるので、後段にて述べることにしたい。(注・245「古稀庵の石と竹」参照)


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  百十六 

明治大帝御製(上巻400頁)


 明治大帝の盛徳大業(注・すぐれた徳と大きな仕事。聖人君主の理想の姿とされた)はいまさら申し上げるまでもないことだが、和歌のことだけを見ても、古今の歌人のなかでも例を見ないほど多くの御製をお残し遊ばされたことは、まことに畏れ多いことである。
 私は田中光顕伯爵が宮内大臣であったころ、当時、所在のわかっていた紀貫之筆の寸松庵色紙十七枚を模写し一帖にしたものを、伯爵の手を経て、大帝に献納したことがあった。そのとき伯爵はこのように語られた。自分は大帝陛下が非常に御歌にご達者なことを聞き及んでいたので、あるとき御歌所に参り、その日に陛下から高崎御歌所長にお下げになった御歌を拝見した。すると、一日で百六十首あったので、ただひたすらに驚嘆するほかはなかった、ということである。
 陛下は、もちろん若年のころから御歌をお詠み遊ばされたようで、明治八(1875)年四月、向島の水戸徳川邸に御臨幸のときには、聖算(注・天子の年齢)二十四歳であらせられたが、当時水戸家に賜った御製は、


   花くはし桜もあれどこの宿の よよの心を我はとひけり


というものだった。若年のころから堪能であったことがうかがわれる。(注・163「明治天皇御宸翰」に画像あり)

 ある人から高崎御歌所長から直接きいた話だというものによれば、陛下の御製は、日露戦争のころから大きな御進境を示されたとのことだ。これは国家未曾有の大変に当たり、奮起遊ばされた異常なまでも勇猛心が自然に御製の上に現れたのであろうということである。その日露戦争中の御歌としては、
     

       よもの海みなはらからとおもふ世に など波風のたちさわぐらん


   敷島のやまと心のををしさは 事あるときぞあらはれにける


   子等はみないくさのにはに出ではてて 翁やひとり山田もるらん


などのようなものを次々にお詠み遊ばされたので、高崎男爵は感激のあまり、このような御製を臣民に知らせないのは道理でない、しかし、もし陛下にお伺いすれば、なんと御返事があるかわからないので、自分は御歌所長として責任を持ちこれを発表するのだ、ということで、ありがたい御製を世に知らしめたのである。拝読した者たちは聖慮の広大で深遠なことに感泣したが、これがいわゆる「天地を動かし、鬼神を感ぜしむる(注・「詩経」の一節。感ぜしむる=感動させる)ようなもので、国家の隆運に無限の影響を及ぼしたことであろう。


   言の葉のまことの道を月花の もてあそびとは思はざらなむ


とのたまったように、御製というのは、つまり陛下の直言であるから、国民は真の勅語としてこれを心にとどめて忘れず、万世の亀鑑(注・手本)として仰ぐべきものであると思う。


 

高崎御歌所長(上巻402頁)


 御歌所長の高崎正風男爵は薩摩の出身で、維新のときには西郷、大久保らと国事に奔走した志士である。同じく薩摩藩士で、香川景樹の流れをくむ八田知紀に学び、明治歌仙の中で随一の存在である。
 明治十六(1883)年、徳大寺侍従長が明治天皇の内意を受け、当時の歌仙十四人から近作の三十首を奉らせた。作者の名前をかくし無名投票をしたところ、その結果で最高点を得たのが高崎男爵、次点が伊藤祐命、その次が小出粲つばらだったという。
 当時の最高点を得た男爵の和歌三首は次のようなものである。
     馬上見花
  のどかにも見つつゆくべき花かげを いさめる駒に乗りてけるかな
     述懐
 
 言の葉の誠のたねとなりぬべきを さな心はいつうせにけむ

     晴天鶴
  青雲のかぎりも見えぬ大空に つばさをのべてたづ鳴わたる


 聞くところによると、男爵は明治天皇の御製を拝見するようにという仰せをこうむったとき、みずから御前に伺候して、和歌をつれづれの友と遊ばされることは、まことにありがたいことだけれども、御嗜好のあまり、ご政務の差し障りにならないように、あらかじめ願い上げ奉ると申しあげたうえで、それをお受けしたのだそうだ。

 私は明治十七(1884)年ごろ、親友の渡邊治とともに、「仮名の会会員に伊沢修二、後藤牧太氏などがいたと記憶している」にはいり、当時その会場になっていた数寄屋橋外の地学協会に出入りすることがあった。高崎男爵もときどきこの会に臨席されたので、さいわいにその謦咳に接する(注・声を聞く)機会を得た。私の目に映った高崎男爵は、威厳があるが荒々しさはなく寡黙で上品であった。かの俊成卿(注・藤原俊成)という人は、このような人ではなかったろうかと思われ、詠みだされる歌にも正統的な雅びさがあるにちがいがいないと思われた。
 私は明治三十一(1898)年に、はじめて栃木塩原に遊んだ。そのとき高崎男爵が、奥藍田、益田無為庵(注・益田克徳)と並んで、東都紳士として、この地におよんだ草分けであったということを知った。
 男爵の別荘は箒川の上にあり、そこで男爵が詠まれた即興の歌は今では世間に伝唱され、塩原の風景に一段の光彩を添える趣がある。全景を詠じたものでは、


  もみぢ葉のさかりに見れば常盤木は まばらに立てり塩原の


というものがある。また、兄弟の滝の歌としては、


  いつ来ても同じ声してむつましく 語るに似たり兄弟の滝


というものがある。これらの示す典雅の格調を見ても、おのずとその作者を見るような心地がする。明治時代に、このような歌仙が御歌所長としてその歌壇を荘重にしていたということは、まことに聖世の偉観であったと思うのである。


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百十五 茶人失策談 下(上巻397頁)


 茶人のナンセンス珍談はいくつもあるのだが、あまり一度にご覧にいれると食傷気味になるかもしれないので、次の一篇をもって、しばらく打ち切ることにしよう。


 掛物の売り損ない


 故益田紅艶(注・益田英作)は多聞店という道具店を経営していたほどだから、相手を見ての道具を売りつける呼吸には、なんともいえない機敏さがあった。
 彼は、松平不昧公が、大阪の道具商の戸田露朝の先々代にあたる宗潮をある大名に紹介した手簡(注・手紙)を所蔵していたので、これを茶席に利用し露朝にうまく売りつけようとたくらんだ。そこであるとき大阪の紳士茶人連とともに露朝を茶会に招き、その不昧公の消息文(注・手紙)を掛けた。その文になかに、
 「谷松屋宗潮と申す者、大好事家にて随分御用も弁ずべく大方目も利き申候、但し左る怖ろしき風聞の男に御座候間、必ず必ず御油断遊ばされ間敷候云々」(注・大意は、宗潮は目利きだが、悪い噂があるので、絶対に油断しないでください

とあった。この掛物を見た同席の茶人が、怖ろしき風聞の男という文句に驚き、胸にぐっと警戒心を抱いたらしいことを戸田が見て取って、なんとも迷惑なことだと思った。そんなことも知らずに主人の紅艶はひとり大得意で、今日のようにぴったりとはまった掛物はふたつとないだろう、殿様の中でも油断ならない不昧公が、宗潮をおそろしき男だと畏敬しているこの手紙は、戸田に対する不昧公の感状(注・上位にある者が下位にある者の功績に対してあたえる賞賛の書きつけ)とみるべきものなので、戸田家における伝家の宝にしないわけないはいかないはずで、茶事がすんだら、代金は問わず、是非とも譲り受けさせてくださいと申し出てくるだろうと待ち受けていた。しかし戸田から音沙汰がないのを不審に思い、内々に大阪方面を探ってみると、戸田は、自分のお得意様の前で、あのような手紙を掛けられたことを非常に迷惑がっているというので、紅艶はハタと思い当たり、あの掛物は、掛ける前に売ってしまえばよかったのだと、おおいに後悔したという。



 藪蛇庵の命名


 益田紅艶には茶事の上での数々の珍談がある。その中のひとつは次のような話だ。
 あるとき紅艶は、小田原と箱根の中間にある風祭というところに非常に安上りの茶室を作り、それまでの長いあいだに借りがたまってしまっていた茶債(注・返礼の茶事のこと)を償おうと思い立ち、ほうぼうの名家を招待した。

 さてその茶室がどのようなものであったかというと、風祭神社に隣接している竹やぶのなかにニョキニョキと立ち並んでいる大竹を柱にして臨時の茅葺きをした茶室を作り、周囲に蛇がのたくったような一筋の流れを作ったものだった。その流れの中に置いた新しい手桶を当座のつくばいとし、席中には大囲炉裏を切って窶れ釜(注・やつれがま。口縁部に欠けがある)を掛けた。また、田舎家風の張りまぜ屏風に、さまざまなポンチ画が貼り付けてあった。その中には来客のポンチ画も少なくなく、山県椿山公の歯をむきだした漫画などもまじっていたので来客一同は抱腹絶倒し、とうとう椿山公までも引っ張り出して、その漫画をお見せすることになった。

 そのときの紅艶は有頂天になり、どうか、庵の命名と、その扁額のご染筆を願いたいと所望した。公爵は即座に快諾されたので、紅艶は、きっと風雅な庵名をつけてくださるにちがいないと一日千秋の思いで待っていた。
 ところが公爵から贈られてきた扁額を見てみると、なんたることか藪蛇庵という三字が書いてあったせっかく公爵から賜ったものを採用しないわけにもいかす、なまじっか公爵などに命名を頼んだものだから、かえって藪蛇になってしまったと、その後二度とふたたびこの庵室を使わなかったそうだ。



 無関税の名銅器


 益田鈍翁が日露戦争後間もなく、故三井三郎助(注・三井高景)氏らとともに清国の巡遊を思い立ち、長江沿いから北京に行き、やがて長崎に帰ってきたときのことである。
 ひとつ非常に気懸かりなことは、シナの某大家から出たという古銅の花入を買い求めてきたが、長崎税関を通過するにあたり、出どころは名家、買い手は鈍翁、というこの品物を、税関ではどれほどの評価額にするだろうか、ということだった。
 鈍翁はまず旅館にはいり、税関からの報告を待っていた。そこへ、随行のひょうきん者が得意満面で帰ってきた。そしてあの花入の関税の件では、褒めてもらいたいだけでなく、一度くらいはご馳走も頂戴したいくらいだと言う。鈍翁は相好を崩してにこにこ顔になり、ではいったい関税はいくらになったのかときいた。するとその者は、驚くなかれ、タッタの一文もありません、税関吏がただいま申されるには、近年シナから、にせものの銅器が輸入されているが、この花入なども、そのなかでも最も拙作な部類で、刀の先で少し触ってみるだけで、すぐに地金の新銅が出てくるので課税するに及ばない、ということでありますと答えた。その報告をきいた鈍翁は、「税関の役人などに、古銅のことがわかってたまるか」と、ただ一笑に付したが、その後何年たっても、ついにこの花入を使われたことはなかったということだ。


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百十四  茶人失策談 中(上巻393頁)


 茶室の中では、主客のあいだで思いがけない馬鹿げたことが起こり、頤を解く(注・おとがいをとく=あごがはずれるほど大笑いをする)ことも少なくない。どのような大家であっても、猿が木から落ちるような失敗がない、ということはない。そうしたことが世間に知らされたとしても、別段、人格に傷がつくわけでもないし、聞いた人は哄笑し当人は苦笑する程度の一座の座興になるに過ぎないので、ときどきはこうしたことを書いてみようと思うが、一度にやろうとするとあまりに煩雑なので、ここではまず、明治三十五(1902)年から四十四(1911)年までの十年間のエピソードから、なるべくおもしろいものをすっぱ抜くことにしよう。



 馬越化生翁の口禍


 明治三十八(1905)年、馬越化生が還暦を迎えた祝賀茶会が、そのころ根岸の御行の松(注・おぎょうのまつ)のかたわらにあった流水庵で開かれた。そのときには、東方朔(注・前漢の政治家)の長寿にあやかり、交趾桃の香合使われた。

 その香合がすこぶる名品なため、ある来客が翁にその伝来を尋ねた。すると翁は、「これは以前に益田鈍翁から贈られたものだが、いままで使用する機会がなく、今日はじめて取り出したのである」と言われた。座客一同は大いに驚き、「このような名品をむざむざとあなたに贈られた鈍翁の心中は、はたしてどのようなものだったのでしょう、さぞかし名残惜しかったでありましょう」と言い合った。翁は得意さのあまり、つい口をすべらし、「いやいや今の鈍翁ならばそうかもしれないが、そのころは彼もまだ『コレでゲスからネ』」と左手で両目をかくす仕種をした。
 それを面白半分に鈍翁に密告したものがあり、鈍翁は胸に一物(注・秘めたる計略)を持った。そして、これは聞き捨てならない化生翁の一言ではないか、あの香合が貴重なものであることを知らなかったはずがなかろう。無二の親友に対し、粗略な贈り物もできないからと、あのような名品を譲り渡したのに、その好意をくみ取らず、さような放言をするとはもってのほかである。今後茶道上の交際は、断然お断りしなければならないと馬越に言い送った。馬越翁もこれには困ったが、さりとて、どうすることもできず、一年あまりをむなしく過ごした。
 碁敵、ならぬ茶敵とでも言おうか、憎さは憎し、しかし会いたし、ということで、馬越翁はある機会をとらえて和解を試み、失言の代わりに、鈍翁に何なりとも一品を譲りたいと申し込んだ。
 すると鈍翁は、待っていました、とばかりに、それでは相当な代価を払うことになるが、当方の望む一品をお譲り受け申す、もともと口の罪から起きたことだから、口のある品物がふさわしいだろう、ということで、馬越家の有名な粉引の徳利を、と所望された。馬越翁も、さては一本取られたか、と一時は驚いたが、茶人の一言は金鉄のごとしであると、とうとう承知して、ふたりはふたたび無二の茶友となるに至ったのである。



 小倉色紙の用法


 小倉色紙が天下の重宝として、千鳥の香炉や菊一文字の短刀とともにお家騒動のたねになるようになってからというもの、茶人のあいだでもそれを愛でる気運が高まった。
 昔から、この色紙のじょうずな使い方により非常な名誉を得た者もある。利休がある茶会に招かれたとき、まだ待合にいたときに相客との会話がその日の掛物のことになった。「今日の露地の風情が、落ち葉をそのままにしてあるところを見ると、前から聞き及んでいた小倉色紙の八重葎(注・やえむぐら)の歌を掛けられるのではなかろうか」と言われたが、入席してみると案の定そうであったそうだ。

 明治三十八、九(19056)年ごろ、故加藤正義翁は元園町の半蔵庵の茶会で、小倉色紙の一種であるといわれる類色紙を使われた。この歌は、例の有名な、


  八重葎しげれる宿のさびしさに 人こそ見えね秋は来にけり


であったから、一座の賞玩もすさまじかった。さて中立のときに露地に出て、茶室の屋根を見上げると、ピカピカとした銅瓦で葺かれていたので、これでは八重葎が茂ることもできないだろうにとささやく者があった。すると客のひとりが、紅塵十丈(注・ほこりっぽい都会、わずらわしい世俗)の市中を野原に見立て、銅瓦葺きの茶室をあばら家と思わせるのが、主人の趣向である小倉色紙の功徳も、このあたりにあるのではないかと弁護した。一同は顔を見合わせ「なるほど」とは言ってみたものの、果たして心から納得したかどうかはさだかではない。


 完全無欠居士


 加藤翁についてはもうひとつの有名なエピソードがある。翁の茶器の好みはきわめて潔癖で、疵物(注・きずもの)は一切買わないという主義だった。青磁、祥瑞、仁清といった綺麗物を好み、所持品のほとんどが完全無欠であったことから、ある人が翁に対して「完全無欠居士」の尊称を奉った。
 その後翁が茶会を催したとき、なにがあったのか、左の親指を怪我し、白布で包帯をしておられた。それを見た茶客の中のひとりが茶目っ気を出し、


   完全無欠ただ指にきず


と一句、口ずさんだ。これがいよいよ居士の尊称を裏書きするものだとして、この話は当時の茶人のあいだに広く伝わっていったものだった。


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百十三  茶人失敗談 上(上巻389頁)


 私は明治二十五(1892)年、初めての茶室入りを果たした。それから昭和七(1932)年の今日までの四十一年間つねに茶室の中の人となっているので、あまりに慣れ過ぎて最初のような好奇心も湧かなくなりがちだ。だが明治三十六、七(19034)年ごろは、私が自分でも茶事を初めてから五、六年というころで非常に気分が乗っていたし、当時は茶友のなかにも一風変わり者が多かったから後日の語り草になるようなことがよく起こった。
 茶人の失敗というものは、だいたいにおいて茶礼中のきわめてまじめなときに起こってしまうので、その人物と場面を想像するだけで、なんともいえないおかし味が出てくる。この「箒のあと」でも、おりおり、茶室で起きた珍事を披露していくことにしよう。



 感服七種 


 茶人というものは人の前では物を褒め、蔭に回って悪く言うものだと相場が決まっているようだ。、褒められて喜ばないということはない。ゆえに、茶客としての第一の心得は、物に感服するということである。
 その感服の秘訣は、対象物に応じて、またその場面にふさわしく、その日の主人が、いかにもそのとおりであるとみずから感服してしまうようやり方でなければならない。これには、七種の方法があると言われている。私の経験から、ためしにこれを分類してみよう。
 第一は、唸り声をあげて感服すること。
 第二は、しばらく目をつぶって感服すること。
 第三は、顔を見つめて無言で感服すること。

 第四は、ヘッヘッヘーとお世辞笑いをして感服すること。
 第五は、フ―フーと鼻息を荒くして感服すること。
 第六は、尻餅をつきグニャグニャになって感服すること。
 第七は、品物を頭上まで差し上げて感服すること。
これが、いわゆる「感服七種」である。

 さてこの七種の感服の方法を、随時随処(注・いつでもどこでも)活用することのできる極意皆伝の腕前を持っていたのは、今はすでに故人となってしまったが、明治三十年代に茶人仲間のあいだで盛んに活躍した浅田正文氏である。馬越化生恭平翁もまた感服上手のひとりで、浅田氏の生前は、ふたりは東都感服係の両大関といわれたほどだった。
 浅田氏には、とくに感服に関するエピソードが多かったようだ。氏は社交辞令が非常にうまかった。それほどのことでもないのに全身を揺り動かしてカラカラと感服の高笑いを上げる声は遠く茶室の水屋にまでも突き抜けてくるので、たいての主人はこれを立ち聞きして、まずほくそ笑まざるを得ない。

 しかし時として、この感服が度を越して失敗を招いた例がないでもない。あるとき浅田氏は根岸の吉田楓軒丹左衛門氏の茶会に赴き、感服上手であるからというので、みなに推されて一座の正客になったことがあった。ここ一番と感服ぶりを発揮して、さていよいよ香合拝見となった。染付形物香合松川菱を何度か眺めて、何度か感服し、一同も見終わったあとに正客から主人に返す段になった。浅田氏は開き直って威儀を正し(注・重々しく姿勢を整え)、これは極めて珍しく、かつうるわしく、同じ形物のなかでも比類ない稀な作行きであると縷々述べ立てて、頭を畳にすりつけていた。だが、楓軒はせっかちな性分で、寡黙なばかりでなく当時は茶事についても初心者だったから、正客の挨拶には委細構わず、香合を持ってはやばやと勝手のほうにひっこんでしまった。
 一方の浅田氏は、十分に長口上を続けておもむろに頭をもたげてみると、当の相手はすでに立ち去って、主人の座にはただ炉の中の釜だけが残っていたので、さすがの感服家もあっけに取られてしまったということだ。そのようすに、ある狂歌の作者が悪口に作った、


 ほととぎす啼きつるあとにあきれたる 後徳大寺の有明の顔(注・後徳大寺左大臣は、ほととぎす…の本歌の作者)


も思い出されて、一同ドッと噴き出すことになった。これは浅田の感服損として、当時の茶人のあいだでは有名な笑い話であった。



 褒めて叱られる


 明治三十五、六(19023)ごろは、薩摩の伊集院兼常翁が赤星弥之助氏の後見役になって、茶人のあいだで大いに気勢を張っていた。私の寸松庵に茶客として訪れたある日のこと、翁が正客となり、亡くなった大元こと伊丹元蔵が末客おつめをつとめ、最初のうちはすこぶる意気投合していた。
 ところが翁が宗旦の茶杓を鑑定し、みごとに言い当てたとき、大元はここぞとばかりに感服の舌鼓を打ち、「さてさて、ご鑑定(注・鑑識眼)がお上がりになりましたナ」と言った。そのとたん伊集院翁は予想外の不機嫌となり、鑑定が上ったとはなにごとぞ、おれは自ら茶杓をつくって、大家の茶杓にどのような癖があるかは、十分にこれを会得している。四十年来斯道(注・この道)に苦労したこの拙者に、今さら、上がるの下がるのなどと、貴公の批判を受くべきやとの鋭い言葉を発した。予想がはずれた大元は、小さくなって縮み上がり、褒めて叱られるとは、感服もなかなかむつかしいものだと、他日、人にこぼしていたそうだ。


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百十二  長唄研精会来歴(上巻386頁)

 明治三十五、六(19023)年ごろ、東京で長唄研精会が発足した。これは邦楽復興の黎明期におけるひとつの大きな警鐘だったと思う。従来わが国の音楽はたいていの場合、演劇の伴奏をつとめるものだったから、長唄、義太夫、豊後節の諸流の専門家は、いずれの場合も劇場に出演していた。
 しかし研精会が発足したころの長唄界では杵屋正治郎が大きな勢力をもっており、芝居に出演しようとする者はまず彼の指示を仰がなくてはならなかった。従って家柄、年功などが重視され、嚢中の錐(注・才能のある人)も、その鋭い刃先を見せる機会とぼしかった。
 そのような情勢に不満を感じていた長唄青年新進組が研精会の発起人になったのである。吉住小三郎、二十六歳、稀音家六四郎、二十八歳で、その傘下に集まった小三蔵(注・吉住)、二十五歳、小四郎(注・吉住)、十七歳というのを見ても、長唄界に新しい旗幟を翻そうという年少気鋭の意気盛んなようすを知ることができるだろう。
 しかしながら、この運動は必ずしも上記のような有志の青年のアイデアによるだけでなく先輩の中にもすでに大勢を達観したののがあったとみえる。小三郎の父である三吉住小三郎が、稀音家六四郎少年が三味線を弾く左の指が非常に巧みなのを見て将来かならず名をあげることになると見抜き、小三郎に向かって「今後、彼と芸術上の夫婦になれ」と言い渡したということもあった。このような先輩の意向もあり、演劇の伴奏であった長唄曲を音楽として一本立ちさせ、その特色を発揮させようと思いついたのではあるまいか。この長唄研精会の来歴について稀音家六四郎は、次のように語っている。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いに直したほかは原文通り)

 「研精会の第一回は、明治三十五年八月十九日で、日本橋倶楽部開きました。このときの出演者は、唄が七人、三味線が六人、囃子が八人、あわせて二十一人でありましたが、聴衆が一向集まらぬので、第八回目には大会と称して余興を交え、踊りや義太夫や三曲(注・琴、三味線、尺八、胡弓など三種類の楽器の合奏)を加えて、人気を引き立てようと思いましたが、もともと資力がないところに、余興の礼金が多いので、勘定には赤字が出る、催主の顔には青字が出るという騒ぎで、研精会はたちまち受難時代に出会い、第十一、二回頃には、囃子方にも逃げられ、唄が四人、三味線が四人という小勢にはなったが、私共の意気はますます盛んで、曲目六番を語り続けたその時、今の和三郎がひとり三味線方に飛んできたので、私共は勇気百倍、初一念を貫ぬかずんばやまぬという決心をしたのであります。
 研精会は十三回頃から、新曲を発表することに申し合わせましたが、これが世間に認められて、研精会発展の端緒となりました。もしこのときに古曲のみに頼り、昔のままに唄い、昔のままに弾いていて、囃子もただテンテケテンテケとやっていたなら、当会が三百回の演奏を重ねて、今日まで発展することはできなかったろうと思います。しかしてこの新曲が、今日当会で演奏する演目の、ほとんど半数を占めている次第なので、音曲もいつも進歩を心がけなければならないと思います。このようにして研精会は第百回記念会(注・明治44年)に中井桃水(注・半井桃水)、幸堂得知の合作である「百夜草」今日の神田祭を上演し、第二百回には、佐佐木信綱作の「菊の宴」を出し、第二百五十回には、中内蝶二作の「相生の松」を披き(注・披く=ひらく。新演目を上演する)、昭和六年第三百回には、中内蝶二作の「魚籃観音」を出して、このとき唄二十二人、三味線三十人、囃子十六人あわせて六十八人の多人数大盛会になりました。
 このような次第で、今昔を思いあわすと、ほとんど夢のようなことでありますが、さて頭ばかり増えたと申して、決してめでたいことではなく、このなかから名人上手が出てこそ、研精会も将来ますます栄えて、邦楽のために貢献することができるのでありますから、新進の若手連は、私共の少年時代より以上に、今後おおいに奮闘せんことを希望する次第であります。」

 以上の六四郎の述懐のように、長唄研精会の努力は、今日おおいに報われている。しかしながら後進の顔ぶれを見渡して、はたして誰が今の小三郎、六四郎になるだろうかと思うと、いささか心細い感じがしないこともない。新進の人たちも、このへんで緊褌一番(注・きんこんいちばん。気持ちをひきしめて)、時代に合った新運動を起こしていく意気込みを持たなくてはならないだろう。
 


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百十一  東明流発端(上巻383頁)

 平岡吟舟翁を家元とする東明流(注・三味線歌曲の流派)は、明治時代に一流派をなした唯一の家庭音楽として最近だんだん世間に広がりを見せていている。派手で上品で変化に富み、しかも大曲よりも短篇のほう気がいている曲目が多いところが当世風であるといえよう。育て方次第では、将来的にも、おおいに発展の望みがあるだろうと思う。
 さてこの流派の家元である平岡吟舟翁は、宝生晋作を師として宝生流を謡われた熈一翁を父に持つ。母は都以中の妹で、一中節はもちろん、薗八、端唄その他の俗曲にも堪能だった柴崎はる女であった。この両親から音楽好きが遺伝し、少年時代にアメリカにいたときには当地の歌曲を口ずさみ、帰国後には本業の余暇に、謡曲や各種の邦楽を究めた。なかでも河東節は、家元の山彦秀次郎についてほとんど全部を習いつくした。そのうえ自ら三味線を弾いたり、諸流の節回しを真似したりして、自分でも作詞作曲を試みたり踊りの振付までもやるという器用さだった。
 そんなわけで、翁が作った小唄で現在も世間に流布しているものも少なくない。毎年の新年には新曲を作り、それを披露するというのが常だったが、それはある時に、某新聞社の依頼で向島八景という新曲を作ったのがはじまりだった。その後、大磯八景、産屋、月の霜夜、三番叟、松の功、石橋、海人、檜垣、紅葉狩、三九年川などに、得意の自己流の節付けをしたものが、いまではほとんど五十曲ほどに達し、東明流の一派をなすことになったのである。この東明流とはいかなるものか翁は次のように説明している。
    
 東明流端書(注・
最初にわかりやすい表現になおしたもの、次に原文を記す

 「自分は、生まれつき音楽が好きで、これまでずっと聞いたり、人に習ったりしてきた。そしてつらつら思う。
 わが国の音楽は、はじめ京都で生まれ、それが次第に東に移ってきた。そのなかで、いろいろな流派に分かれていくにつれ、曲節もさまざまに変化し、それぞれの特徴を持つようになった。しかし、そのなかで、聞いて楽しいものには品がなく、品のいいものには面白みがない。渋すぎたり、甘すぎたりと、一長一短で、全曲を通じて自分の気持ちにぴったりくるものがほとんどなかった。

 そこで、試しに各流派から自分の好きな節だけを寄せ集め、さらに自分で工夫した曲節を加えて、自己流の新曲を作ってみたのである。それを、他流派と区別するために東明流と名付けてみたが、自分は浅学で才能もなく、一流派を創始するなどという、おこがましい野望を持っているわけではない。ただ、自分が好きで、楽しめるような曲を、花晨月夕(注・かしんげっせき。春の朝、月の夜)の自分の楽しみのために作っているに過ぎない。どうか、お手柔らかに願いたい。江児庵吟舟


(以下原文。ただし、旧字を新字になおした)

「おのれ天性音曲を嗜み、年頃聞きもし習ひもして、つらつら惟ふに、我国の音曲は、当初京洛の間に起り、其後次第に東漸して、門流ますます分かるるに随ひ、曲節も亦様々に変化し、おのおの其特長を現したれども、趣味あるものは品あしく、品よきものは面白からず、或は渋すぎ、或は甘すぎ、互に一長一短ありて、全曲悉くおのが心に協ふ者稀なり、因って試みに、各流に渉りておのが好める節のみを寄せ集め、更におのが新に工夫せる曲節を加味して、茲に自己流の新曲を作り、他流と区別する為め、之を東明流とは名けたり、おのれ浅学短才にして、烏滸がましくも一流を創むるなど云ふ野望あるにあらず、唯おのが好みおのが楽む一曲を、花晨月夕の独楽に供するに過ぎず、世の人幸に咎め給ひそ。  江児庵吟舟」


 すでに紹介したように、東明流に、「月の霜夜」という一曲がある。荒木古童の弟子、鎗田倉之助という天才的な尺八奏者がおり、吟舟翁が非常にひいきにしてその人のために作って与えたものだった。処女作でしかも短いものだが、東明流の代表作として同好者にもっとも愛好されているものである。その歌詞を次に掲げる。

    月の霜夜
 小夜ふけて衣うつなり玉川の、岸の枯草さらさらと、霜にふぜいをなやまされ、やるせなみまに生ひ茂る、短き蘆のふしのまに、昨日鳴く音もけふ(注・今日)はせず、妻こ鹿の声さへも、いとどあはれ(注・哀れ)に聞こえける  〽アレあの雁は、何所尋ねてナア、行雲のかげとおもてに姿をうつし、羽袖に月をかくしつつ、顔は見せねど便りはままと、翼にほこるにくらしさ  〽アラ面白の浮世かな、かの邯鄲(注・かんたん)は夢さめて、栄華のほども五十年、年立ちかへる春あれば、又来る夏に秋やきて、冬の寒さに(注・きぬた)うつ、水の流れと清き瀬に、かわるまもなき楽さは、賤が伏屋と人ぞしる  〽さらす細布手にくるくるくると、月の霜夜にわが家をさして、望み叶ひて帰りゆく


 さて音楽はこのところ和洋ともに非常に勢いよく流行してきたが、徳川の末期に清元が起こったあとは、明治の太平の世に新しい流派が生まれたといえるのは、この東明流だけである。

 最近この流派が、家庭音楽としてようやく世間に流行してきた。今では、長唄、常盤津、清元、新内などの、徳川時代から残っている曲が唄い尽くされ、弾き尽くされ、どれも行き詰まりの様相を見せ、新しいもの好きの人情として東明流を習ってみようとする人が多くなっているからである。諸流の専門家の中にも、自流の行き詰まりを感じて、新作に節付けするときに東明流を利用しようとする傾向がままあるので、いたるところで東明流が発展する余地がありそうだ。なのに家元になんの欲望もなく、気の向くままに、ただみずからの楽しみのためにやっていてあまり多くの人に伝授したがらないので、今では、習い手は多いのに教え手が少ないというのが実状で、それがこの流派があまり広がっていかない理由なのである。すこしでも早く、よい専門家の第二世代が生まれ、東明流を広く宣伝し、かつ、続々と新曲を作っていくようになれば、明治時代に生まれた邦楽の一派として、東明流はながく後世に伝わっていくことになるだろうと思うのである。


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百十  道具買収の大手筋(上巻379頁)

 根津嘉一郎氏道具買入の陣頭に立ったのは、明治三十六(1903)年の大阪平瀬家の道具入札のころからである。それから三十年あまりこれを続けたのだからそのコレクションは豊富になった。氏は、たとえ天下第一とは言わないまでも、たしかに五指に数えられるほどの大家となりすました。
 維新後に道具の買入を行い天下屈指のコレクターになった人達は、その道具の半ばをたいてい二束三文時代に手に入れているから、道具の点数は同じでも購入額は割合少ない。しかし根津氏の出陣は割合おそく、道具がかなり値上がりした明治三十年代から買い始めているので、その購入費は意外に多い。根津氏が今日までに支出した金額は少なくとも一千万円を下ることはあるまいというのが、岡目八目の定評だった。この点においては、まさに天下の第一人者といえるであろう。
 氏の道具買入がうまくいったのは持って生まれた大物狙いの気性によるものだろうが、その初陣のときからの参謀長になり仲介役を果たした、大阪の道具商の春海藤次郎(注・はるみとうじろう)という人がいたことが非常に大きかったと思われる。いかなる道具戦陣に臨むときも雑兵原には目もくれず、必ず御大将の首を狙うというやり方によって根津氏のコレクションは豊富になったのである。明治三十九(1906)年の大阪平瀬家の入札で、一万六千五百円の八幡名物(注・やわためいぶつ、はちまんめいぶつ。松花堂昭乗の所持品)の「花の白河硯箱を獲得したというのもその功名の一例である。
 この硯箱は維新後の道具相場のレコード破りで、このときまでは、この半額にさえも達することはなかったのである。私の知るところでは、明治二十(1887)年ごろ、大善こと、伊丹善蔵が、河村家旧蔵の早苗の硯箱を六千円で森岡昌純男爵に売り込んだのが当時の最高値で、その次は、明治三十四(1901)年の加賀本多男爵家の道具入札で川部利吉が落札した遠州好みの蒔絵香棚に、七千円というのがあっただけである。

 それまで道具に一万円以上の高価なものはなかったのに、根津氏が処女的道具買収においてこの記録破りを作ったことは、氏がのちに大コレクターになる前兆となるものとしておおいに祝福すべき出来事だった。根津氏の道具談についてはほかにも数々のエピソードがあるので、また後段にて述べることとしたい。


生涯貧乏の道具商(上巻381頁)

 根津嘉一郎氏の道具買入の先陣においてつねに参謀長を勤め、根津氏をあのような大家にならしめた春海藤次郎は、先々代の戸田弥七露吟、先代の山中吉郎兵衛とともに、大阪道具界の三傑と言いはやされた人である。一風変わったところのある人物だったので、この際その一端を物語ることにしよう。
 春海藤次郎の父は、通称を藤作といった。文政六(1823)年に伏見町五丁目に道具店を開いたのが春海商店のはじまりである。藤次郎は幼いころから道具の鑑定に秀で、茶事についても各流を相伝した。癡漸、綽々子、祐叟、喝山、聞濤軒、一樹庵など、いくつもの号を持つ。機敏かつ胆略(注・大胆で計略に富む)で、伏見町に店を構えていた伊藤勝兵衛、通称を道勝といった当時大阪第一の道具屋があったが、藤次郎がまだ若いころに、そこの番頭と道で行き会ったのに気づかず挨拶をせずに通り過ぎたというので、道勝の機嫌を大きく損ねてしまったことがあった。彼はやむなく道勝のところへ無礼を詫びに出かけたにもかかわらず、番頭が傲然とした態度で応対したため彼の心中は憤慨にたえず、道勝の店先を睨みつけ、この店はいつか必ずおれのものにしてみせるぞ、と言い放って帰宅した。維新後にこの店が売りに出たとき彼はこれを買い取り、その長年の志を果たしたのだという。
 彼はこのような気概を持つ人物であったにもかかわらず金銭についてはつねに淡泊で、蓄財をするといった考えは一切なかった。しかし気に入った道具があるとどうしても買い取らなくてはおさまらないので、年中、金銭に行き詰まっていたので、豆のさやの形のなかに「生涯貧乏」の四文字を彫った実印を所持していた。
 根津氏もそのような面白い気性に惚れこんでこれは春海の親爺が買っておけと言ったから買っておいたというような品物は、ことごとくが名品なのであった。根津家の有名な大津馬なども、松花堂昭乗筆の米俵を背負った馬を曳く馬子の図に沢庵和尚が讃をした掛物で、当時の人がびっくりするような高値で買い入れたのであるが、それも春海の推薦によるものだったのである。(注・298「大津馬茶会と新曲」も参照のこと)
 根津氏はひごろ彼に感服し「藤次郎はいたって淡泊で実直で、しかも磊落なところのあるおじいさんであった。禅を学んだためか、なんとなく落ち着き払った態度があったが、道具の鑑定にかけては当時、関西にて彼に及ぶ者がなかった」と語られた。
 春海は、根津氏のような道具鑑賞家を養成した。また、ほかにも彼に導きによって茶人となった紳士は少なくなかった。明治中期において、彼が道具界に果たした功績を決して忘れてはならないであろう。


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  百九  
道具界の大鰐
(上巻370
頁)

 日露戦争前後において道具買入の大手筋(注・高額購入者)になり、後年、日本屈指の大コレクターになった二大豪傑がいた。赤星弥之助氏と根津嘉一郎氏である。もっとも赤星氏は明治二十四、五(18912))年ごろから道具収集に着手し、根津氏が台頭してきた明治三十五、六(19023)ごろにはすでに大家になり道具界の大鰐魚とさえ言われていたほどなので、まず赤星氏から書き始めよう。
 赤星氏は明治二十四、五年ごろから道具買収に取り掛かった。世間一般では道具購買力がひじょうに弱い頃のことだったので、前記のように大鰐の異名を取るにいたった。氏がいかにしてその軍資金を得たかというと、日清戦争の前に氏は軍艦の大砲に関するある種の専売特許を得て、これをイギリスのアームストロング社に売り込み、日本から同社に注文する大砲から一門ごとに若干の専売料を徴収した。これで当時の大砲成金となったのである。
 大正中期には船成金、鉄成金、株成金といった人が続出して成金もあまり珍しくなかったが、明治二十年代においては大砲成金が唯一の成金であった。しかも道具の値段が安く、名品があちこちにごろごろ転がっていたから、氏のコレクションがすぐに旧大家を追い越すことになったのははじめからわかりきった勢いだった。

 赤星氏は薩摩人で、一見するだけでは粗野で豪快な感じで道具などに趣味を持っているとは思われないような人だったが、同国出身で当時かなりの大茶人だった伊集院兼常翁などの勧誘もあったらしく、なんといっても資力が潤沢だったので、ただ大口をあけて待っていれば名器は自然に流れ込んできたので、手を濡らさずにたらふく呑み込むことができたのである。道具買入の最高の好機をつかんだ幸運児だったといえるだろう。
 氏の嗜好は、いわゆる八宗兼学(注・分野を問わず多彩)で、仏画でも、古画でも、古筆でも、茶器でもほとんどなんでもこいだった。後年になり、氏は私たちに「おれの家には名物茶入が二十八あるよ」と、こともなげに語られたこともある。
 氏は麻布鳥居坂の井上侯爵邸を買い取り、自分で大徳寺孤蓬庵の山雲床(注・さんぬんじょう。四畳半台目の茶室)の写しを作り、おりおりに茶会を催した。そこで豊富な宝庫の名器を手あたり次第に飾り立てるので、当時の東京では赤星の茶会のように立派な道具が揃っているところはなかったのである。


青磁香炉の裁判(上巻378頁)

 赤星氏は背はあまり高くなかったが色黒で頑丈な体格の持ち主で、こと道具談になると、いつも相手を下に見るような、すこし憎らしいところ(原文「憎っぷりの態度」)があったので、当時、土物の鑑定においては東都紳士中のピカ一を自任していた日本郵船会社副社長の加藤正義氏と、ときどき意見が衝突することがあった。
 明治三十六(1903)年に大阪平瀬家の蔵器入札があった直後に、赤星、加藤のほかに朝吹英二、山澄力蔵が私の一番町の寸松庵に集まった。茶事も終わり広間で雑談をしているとき、加藤氏が赤星氏に向かって君はこのまえの大阪平瀬の入札で、飛青磁袴腰香炉を落札したそうだが、君、あれは二度窯であることを知っているかと遠慮もなく言ったところ、赤星氏は鼻の先でこれをあしらい君などに青磁のことがわかるものか、あれが二度窯であったなら、おれは君ら目前で真っ二つに打破ってお目にかけようと言った。すると朝吹氏が横鎗を入れ、これはおもしろくなってきた、しからばここに控え居る山澄を審判官として、さっそく法廷を開こうではないかと言い出した。赤星も無論承諾し、四、五日後、山澄が審判官、朝吹が立会人として赤星邸に乗り込んだ。この二度窯というのは、色が悪いとか、あるいは釉切れがあるとかいう場合に、再び窯にいれてこれを補修することで、今回の香炉もこの方法で不備な点を補ったのだというのが加藤氏の主張なのであった。

 さてこの場合、非常に難しい立場に置かれたのが山澄力蔵だった。松王丸の菅秀才の首実検(注・菅原伝授手習鑑の一場面)のように、金札か、鉄札か(注・閻魔様の裁きで、善人には金札を、悪人には鉄札を渡される)、ためつすがめつこれをねめつけた。そばにいた朝吹氏は春藤玄蕃、赤星氏は武部源蔵といった様相で、一座の緊張は極点に達した。
 ややあって山澄は、この香炉は二度窯と思われる点もないことはないが、それはこの香炉の出来上がった際に行われたもので、日本に来てから二度窯にはいったものとは思われない、どちらの言い分にも、それぞれ道理があるので、引き分けということでいいでしょうという審判を下した。
 これで命拾いした飛青磁香炉は、ようやくその身を全うすることができたが、後年行われた赤星家の蔵器入札の際に、原価とほぼ同額で誰かが落札していたので、赤星氏もさだめて地下で満足していることだろう。


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百八  天下仏画の圧巻(上巻373頁)

 明治初年からいあいだ紙屑同然の安値に沈んでいた古書画の値段は、日清戦争後のインフレ(原文「膨張」)によって、たちまち画期的な値上がりを見せた。そうはいっても、まだまだ高の知れたもので、明治三十四、五(190102)ごろまでは一幅が一万円という書画は世間に出ていなかった。ところが明治三十五年になり、初めてレコード破りの一万円の相場が出たのである。
 それは私が、井上世外侯爵の依頼で横浜の原三渓富太郎氏にあっせんした孔雀明王の一幅であった。このころ井上侯爵は、例の書画骨董好きで明治初年から買い集めていた八宗兼学の(注・多彩な)品々が、すでに鬱然たる大量のコレクションになっていた。なかでも仏画は、ほとんど天下一睨みの位置を占めるほどだった。
 ところがまたしても某氏が所蔵する古仏画の虚空菩薩を買収したいというので、それまで所蔵していた孔雀明王を売り払いたいから誰かに世話してもらえないか、というのであった。

 私は虚空菩薩がどれほどの名画であるのかは知らなかったが、仏画として天下屈指の孔雀明王を手放されるのはなんとも惜しいことだと思った。しかし、侯爵からのせっかくの依頼なので委細承知し、まず相談をもちかけたのは益田鈍翁であった。
 鈍翁は、もちろんこの名画の価値を知っているから譲り受けたいのはやまやまだったが、当時としては破天荒の一万円という提示額にいささか尻込みせざるを得ず、ほかに買い入れる人がいなければもう一度考えることにしようという返事だった。

 そこで次に、明治三十一(1898)年ごろからそれまでの文人趣味をやめて、ようやく古画あるいは仏画の分野に足を踏み入れられていた横浜の原氏に交渉してみた。すると原氏は、とにかく一覧してみたいと言われたので、私はかの孔雀明王を井上家から借り出し、麹町一番町の自宅に持ち帰り、原氏が見にられるまでの三日間、広間の床に掛けておいた。
 この仏画の彩色には、すべて鉱物の粉末を使用してあり、夜に電灯の光が当たると五彩絢爛まばゆいばかりになる。その荘厳美麗なさまは、この世のものとも思われないほどだった私は自家の所蔵品のすべてを売り払って、この一幅を所持しようかと考えてみるほどだった。しかし井上侯爵に対する思惑もあり、また商家の使用人の身分として、あまりにも僭越なことだと思いなおし、とうとう原氏を勧誘して井上侯爵の希望どおりに一万円で買い取ってもらうことになった。

 さてその顛末を鈍翁の令弟、英作がききつけた。彼は、兄貴はなんという意気地のないことか、いやしくも数寄者として、あれほどの名画を見逃すことがあるだろうか、こうなったからは、なんとしても、井上侯爵家にある、あれ以上の仏画である、十一面観世音を、この機会に譲り受けるほかはないとうとう鈍翁を説得したのであった。
 英作はみずから井上侯爵を訪問し、孔雀明王を原氏に譲られたのなら、十一面観世音を兄貴に手放してほしい、ただし、代償は、ウンと奮発いたします。きくところによると、あの観世音は三百五十円でお買入れになったそうだから、拙者はそれを百倍にして、三万五千円で引き受けようと思いますが、いかがでしょうかと持ちかけた。
 これには侯爵もびっくりして、それほど熱心に言うなら、ほかでもない益田のことでもあるから望みどおりに任せよう、ということになった。英作は、そのひと言を聞くなり、井上家の道具係に頼んで、さっそく十一面観世音を取り出してもらい、それを小脇に抱えて、芝居がかりの「だんまり」そのままに、「奪い取ったるこの一軸」というような見えの構えをしながら井上家の門を駆け出したという。
 これが、現在益田孝男爵が所蔵する十一面観世音幅である。絹本の画面の長さ五尺五寸五分(注・170センチ弱)、幅二尺九寸六分(注・90センチ弱)、仏体二尺六寸(注・80センチ弱)の、仏画としてもっとも優美なものである。気格が崇高で、筆致も霊妙、いったんこれと向き合ったら、たちまちにしてその威厳、霊感に打たれて、目前に観世音の出現を見るような感覚を生じるのである。

 頭上の正面の三面は寂静の相、左側の三面は威怒の相、右側の三面は利牙出現(注・鋭い牙を見せる)で、後方の一面は忿怒の容、最上段の一面は如来の相をなすという配置になっている。その表情の巧緻なことや、色彩の艶麗なさまから、絶世の作品というべきものである。
 この画幅はもともと大和国(注・奈良)の伝燈寺にあり、龍田新宮の本地仏だったが、のちに法起寺の所有するところとなり、さらに井上家の所蔵になったという。
 この十一面観世音と、かの孔雀明王の二仏画は、いずれも藤原盛時の名画で、後年、上野帝室博物館付属の表慶館で全国十大仏画展覧会があったとき、ともに出品され、ともに天下仏画の五指に数えられ好評を博した。
 このような名幅が、あのような値段でレコード破りとなったのを見ても、当時の状況がおのずと知られるのである。また偶然にも、このような名画の授受に私が関係したことも二度と得難い思い出であるから、ここにこれを記録しておく次第である。


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百七   益田無為庵の茶風(上巻369頁)

 益田克徳氏は非黙と号した。無為庵、撫松庵の別号もある。兄が孝男爵、弟が英作氏で、兄弟三人とも非凡な人物ぞろいだった。みな数寄者であったが、なかでも克徳氏は茶人として、また趣味愛好者として非常な天分に恵まれた人物だった。私が生まれて初めて茶席入りをしたのも彼の茶室だった(注・59「最初の茶室入り」を参照のこと)し、また一番町の自邸に寸松庵を移築したときの指揮をとってもらったのも彼だったので、私にとっては常に茶事のうえでの先輩であり、彼から感化を受けたことも少なくない。明治時代において、彼は忘れてはならぬ一大茶人であった。
 彼は東京海上火災保険会社の支配人だったので、かつて欧米諸国の保険業の視察に行き、その帰りにカルカッタに立ち寄り、同地の古物商から一種の広東縞を一巻買ってきた。これは、国王が象の背中にかけたものだと言い伝えられており、それまで日本に渡ったことのないものだったので、益田広東(注・ますだかんとん)と名付けられ、今日でも茶人のあいだで珍重されている。
 また彼はいかにも洒落もので、温和で趣味に富み、工夫が多く、しかも世話好きだったので、彼によって茶味を刺激されて知らず知らずのうちに茶人の門にはいった紳士も少なくない。渋沢栄一子爵、近藤廉平男爵、馬越恭平、加藤正義氏などはみなそうした連中で、兄の孝男爵、弟の英作氏の物数寄も、彼に負うところが少なくないようだ。

 彼は根岸に住み、その本邸の庵を撫松庵といい、別邸のほうは無為庵と号していた。どちらもおもしろい構造だった。渋沢栄一子爵の王子邸茶室も彼の縄張りにかかっていた(注・設計であった)。また、近藤廉平男爵の牛込佐内町の其日庵、品川益田孝男爵の幽月亭、眞葛庵などもそうである。
 彼の茶風は大侘びのきわみで、所蔵の道具は、雑器にいたるまで一品たりとも凡物がまじっていなかった。
 その道具を愛好する熱烈さは、いったん気に入った器物を見ると、五両一分の借金をしても獲得しなければすまない、という感じだった。また、非常に巧思(注・すぐれた発想)に富み、みずから手びねりして作った茶碗の中には、気韻(注・気品、趣がある)のあらわれている名品も少なくなかった。一時期梅澤安蔵が所持し、のちに益田孝男爵に譲った「翁さび」という黒楽茶碗などは、大正名器鑑にも収録されたほどの傑作である。
 彼は、侘び茶の工夫がうまく、毎回おもしろい茶会を催した。それが余りに行き過ぎることなく、茶番狂言になってしまわない範囲で行われるところに、ほかの人には及びもつかない軽妙さがあったのである。

 あるとき撫松庵で、瓢箪茶会というのを催したことがあった。床に掛けた花入は、千宗旦所持の瓢(注・ふくべ)で、その横手には、朱漆で、
   けふはけふ明日また風のふくべ哉
と書きつけられていた。それを見たときには、なにやら彼の人となりを、まざまざと見た(原文「道破した」)ような心地がした。

 そのほかにも、香合、水指、向付、徳利などの点茶懐石道具の一切が瓢箪だった。なかでも瓢箪模様を織り出した有栖川切の袋を掛けた瀬戸大海茶入が使われていたのが、おおいに連客の好奇心をそそった。当時の評判の茶会であった。

 無為庵は、茶道だけに秀でていただけでなく築庭術にも長じていた。彼の根岸御隠殿の庭は、上野の山を庭内に取り入れ、松原の下草に一面のすすきを茂らせていた。これは、彼が所蔵していた寂蓮法師筆の右衛門切に、

       小倉山ふもとの野辺の糸すすき ほのかに見ゆる秋の暮かな

とある歌意を取って、上野の山を小倉山になぞらえ、その趣を現わしたものだった。その侘び趣向が、いかに徹底していたかをうかがうことができるだろう。
 無為庵は明治三十六(1903)年四月、大阪平瀬家の蔵器入札の下見に行こうとして新橋駅に向かう途中、ある旗亭(注・料理屋、宿屋)で休息しているときに突然脳溢血を起こし、五十六歳で死出の山路に旅立ったのであった。私は、

    極楽や花見がてらのひとり旅

という一句をささげた。彼はどこまでも風流な男で、西行法師の「願わくは花の下にて春死なむ」という理想をそのまま実行したのである。
 彼はなにごとにおいてもとても器用だった。字が上手で漫画もうまく、狂歌にいたっては優に堂奥に入っていた。ある年の大師会に模擬店が出ているのを見て、

    おん菜飯天ぷら蕎麦か芋陀羅尼 あな飯うまや何を空海

と口ずさみ、大いに喝采を博したこともあった。
 彼が没した翌年、日本橋の福井楼で遺品の入札会が開かれた。すこぶる名品が多く、現在は兄の孝男爵が所蔵している絵瀬戸茶碗、松虫蒔絵香合、雲鶴女郎花茶碗や、益田信世氏が所蔵している八幡文琳茶入などはその優秀品であった。
 時あたかも日露戦争の勃発する直前で、このような名品ぞろいの入札にもかかわらず、一品で二千円以上になったものがなく、後年の好況時代ならば、おそらく数十万円の売り上げになったであろう売立が、わずかに四、五万円で終わってしまったことは非常に残念なことだった。
 しかし、彼がいつも道具買いの金に行き詰っていたことを知っていた友人たちは、生前にこの金でも持たせてやりたかった、と言い合ったほどだった。私は今日までいまだ、彼のような恬淡にして面白い茶人には出会ったことがないが、今後もまた出会うことはないと思うのである。



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百六  道具争奪戦の勝敗(下)(上巻366頁)

   
前項(注・105を参照のこと)で、井上世外侯爵が、福地桜痴の考えた策略で益田鈍翁の牧谿筆の蜆子図を巻き上げようとしてまんまと失敗したこと、また馬越化生翁所蔵の赤絵徳利を徴発しようとしてとうとう目的を果たせなかったことを記述した。これらは井上侯爵の完全な敗戦である。一方、今度は反対に侯爵の作戦がうまくいって、鈍翁、化生翁が敗者になって指をくわえてその奇勝をうらやましがることになったエピソードがある。
 それは明治三十四、五(19012)年ごろのことだった。深川木場の鹿島清左衛門家で、同族の誰かが三井銀行から借金した手形の保証に立っていたため、その支払いのために道具を処分する必要が生じた。そこで人を介して馬越化生翁に相談したところ、化生翁はかねてより鹿島が道具持ちであることを知っていたので、山澄力蔵(注・道具商)を、鹿島のところにやって下調べをさせた。すると、道具の点数が非常に多いだけでなく伝家の名品が少なからずある。そのうえ、質草に取ってそのまま流れ込んだ大名道具も少なくないことがわかった。

 やがて山澄による道具の調査が終わりその評価が定まったところで、化生翁はまずこの宝の山に乗り込むことにした。そして、なかでもいちばんたくさんあった宋、元時代の書幅をはじめとして、名物の勢至茶入(注・遠州蔵帳に掲載)や釘彫伊羅保茶碗などという、かずかずの名器を獲得した。
 ところで、そのころ同人のなかで馬越翁が桜川宋元の異名で呼ばれていたのは、翁が芝桜川町に住み、しかも鹿島家伝来の宋元の名幅を多数手に入れたからであった。しかし道具があまりに多すぎてひとりでは買いきれず、かつ自分には不向きなものもあったので、道具数寄仲間の益田鈍翁に耳打ちをし、山澄を手引きにして鈍翁を鹿島家に乗り込ませた。するとこれまた数々の名品を選んで手に入れることになり、両翁とも道具運に恵まれた幸運児になったと有頂天になっていた。
 しかし鹿島家には先代からの申し伝えで、名器のなかの名器と言われる三十六点を非売品としこれには初めから手を触れさせぬことになっていたため、両翁ともこれはいかんともしがたく、高嶺の花だと眺めるだけでこれを摘むことはなかったのである。
 そんなときに、横から飛び込んでその非売品をひとつかみにして去った者があった。両翁はトンビに油揚げをさらわれたように開いた口がふさがらず、山澄までもが骨折り損のくたびれもうけに終わってしまったのである。その大トンビはほかでもない、井上侯爵なのであった。

 それはこうだ。益田、馬越の両翁は鹿島家の宝蔵に飛び込み、たらふく名品を頬張ったが、最初から非売品と決定していた名物の三十六点についてはどうすることもできず、ただ舌なめずりするだけであった。でも、それ以外で自分が欲しかったものはすでに手に入れたということで、もう秘密にしておく必要もなく、化生翁はある日井上侯爵を訪問し、のろけまじりにことの次第を話したのである。
 侯爵はその話を何気なく聞いていたが、さて、鹿島家の道具処分に関して、ほかにもうひとり有力者がいることを知って、その人を案内人にして、化生翁らに気づかれないように、みずからも鹿島家に乗り込んだのである。
 井上侯爵の機敏なことといったら、あの賤ケ岳の合戦で豊臣秀吉が、佐久間盛政がまだ陣地を引き払っていないのを聞いて小躍りして進撃したのと同じであった。侯爵は鹿島の主人に面会し、家政整理の状況から不要道具の売り払いの事情までを尋ね根本的な家政立て直しを勧告したものとみえる。とにかく主人も承服して、例の非売品のなかから若干を手放そうと申し出たのである。

 つまり、益田、馬越の両翁が高嶺の花と眺めた唐代の絵画の最高の絶品である、東山御物の徽宗皇帝筆桃鳩図や、大名物木津屋肩衝茶入や、瀬戸伯庵茶碗、名物包丁正宗など、稀代の名品がたちまちのうちに内田山に移動して、侯爵が手ずから活ける花となったのである。これらは侯爵の従来のコレクションに加えられて、ここに一段と光彩を添えることになり、侯爵を一躍天下の大コレクターの巨頭にならしめたのである。
 この非売品の中には夏珪(注・南宋の画家)の山水堅幅があったそうで、あまりに名品が多かったために井上侯爵が見逃されたということを聞き、私もすこしばかりちょっかいを出してみたが、このとき藤田伝三郎男爵が井上侯爵の許可を得て、四千円内外で買収されたとのことがわかったので、私は遠くから匂いを嗅ぐだけで引き下がることになった。この幅は後年、藤田家道具入札で十余万円の高値を呼んだものである。
 とにかく、この一戦においては、井上侯爵に作戦の裏をかかれて、益田も馬越も顔色なかった。惜敗どころか、まったくの惨敗だったといえよう。道具争奪戦における三雄の一勝一敗で、今振り返ってみると非常に興味深いエピソードだと思う。  


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百五  道具争奪戦の勝敗(上)(上巻362頁)

 道具鑑賞家というものはひとりで道具を楽しむだけでは満足せず、同好者を集めてこれを展示したり、その批評をきいたりして自分の思うつぼにはまったときには、隆鼻三千丈(注・鼻たかだか)でたちまち大得意となるのは昔も今も変わらない。
 だがこの鑑賞家が、たまに争奪戦を演じることがある。たとえば、某家から某品を譲り受けようと内々に手を回し、抜け駆けの功名をなそうとすることがある。そういうときに他に競争者がいると、親しい仲間同士で密約して連合軍を組織する場合もある。
 このような興味をそそる争奪戦のエピソードは昔から数限りなくあるが、太閤秀吉(原文「豊太閤」)が神屋宗湛の博多文琳現在、黒田長成侯爵所蔵】(注・現在は福岡市美術館蔵)を彼から奪おうとした策略計画は、そのもっとも有名なものである。
 それは天正十五(1587)年の太閤秀吉の九州征伐のときのことだった。博多の神屋宗湛の茶会に臨み、宗湛秘蔵の博多文琳を奪おうと、随行の石田三成に言い含めて一計を案じた。急に帰ると申し出るから、宗湛が玄関に送りに出た隙をうかがって三成が博多文琳を懐中におさめて立ち去る、という策略だった。

 太閤は打ち合わせどおりに茶室から立って玄関に向かった。そして三成が来るのを今か今かと待っていたが、すんなり出てこないので、しきりに気にして待ちあぐんでいた。その様子を見て宗湛は、懐の中に入れた博多文琳を見せびらかし殿下の待ち受けておいでなのは、これではございませんかと言ったので、どうやら、この自分をもってしても奪うことはできないようだと太閤は笑って立ち去られたという話である。
 明治の世になり、不思議なことにこれに酷似した出来事があった。ある日、井上世外侯爵が福地桜痴、小室信夫らとともに品川御殿山の益田鈍翁の茶会に臨んだ。床の間に掛けられていた一軸を見ると、それは牧谿筆の蜆子の図だった。これは最近まで福地桜痴の所有だったものだが、彼が金に窮して、残念ながら鈍翁に譲り渡したものだった。その日これを見た桜痴はいまいましさのあまり、なんでもいいから一計をめぐらして持ち主の鼻をあかしてやろうと思った。そこで、内々に侯爵と小室と示し合わせ、侯爵が帰るときをねらってこの掛物を取り外し、その馬車に載せて持ち帰らせてしまおうとした。

 鈍翁は、桜痴の様子がふつうでないのではやくも計略に気づき、侯爵が席を立つと同時に、まず掛物を外して、倉庫の奥にしまってしまった。さて玄関に駆けつけてみると、桜痴は途中で引き返し、いそいで床の間の前まで行ったが掛物は影も形もない。さては小室が気を利かして自分より先に持ち去ったのかと急いで玄関に行ってみると、井上侯爵は馬車の中から覗き見るように福地、小室を待ち構えている。そこでおもむろに鈍翁が馬車のそばに進み出て、閣下の待ち受けられている品物は、先刻土蔵に納めて、今日は間に合いませんので、とくとくお帰りなされませと言った。侯爵は何度かため息を吐き、益田はさすがに素早い奴だと感心されたとか。福地の策略も無念、とうとう失敗に終わったのであった。
 井上侯爵に関する道具談には、もうひとつよく似たエピソードがある。明治四十(1907)年前後、侯爵が内田山の八窓庵でしばしば茶会を催されていたころのことである。今度は赤絵揃いで茶会を催そうということで、向付、肴鉢、水指、建水、花入、小皿、香合などの一切を赤絵だけで組み合わせた。ところが、ただひとつ徳利だけが不足していた。こんなに赤絵が揃ったのに徳利がないのは残念であると、いろいろ出入りの道具屋などに聞いているうちに、馬越化生翁が天下一品の赤絵徳利を所持していることを告げた人がいた。侯爵は非常に喜んでさっそく化生翁を呼びつけ、赤絵揃いの茶会の計画を話した。そして、こうなったからには君の徳利を譲ってくれ、もし譲ることができないなら借用させてもらうだけで差し支えない、と談じ込んだ。

 化生翁の当惑は、ひとかたならなかった。ほかでもない、その徳利は、形といい模様といい寸分も非の打ちどころがない品だったからである。白地の部分は玉のようで、赤絵は花のよう。しかも口縁にすこしゆがんだところがあって、いわゆる綺麗さびの最上の絶品なのである。たとえ世外侯爵の不興を買い、茶道上での絶交になったとしても、これを手放すわけにはいかない。そう決心の腹を決め、この一品は旧持ち主とのあいだで、他に譲渡すべからず、という約束もあり、門外不出としているので、どうか切にご勘弁くださいと、苦しい断り状を出した。化生翁は当分のあいだ、内田山にイタチの道をきめこんで(注・交信を絶つこと)、一年ばかりたって、このやりとりが侯爵の頭から消えた頃から、また出入りするようになったのである。
 それ以来、化生翁は茶会でこの徳利を取り出すたびに、必ず当時の危機一髪状況の演説をして、あやうく鰐魚(注・ワニ)の口をのがれましたと一笑したのであった。私たちも、この徳利のためなら、いかにも、ごもっとも千万と、相づちを打つのを常としたものであ


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第五期 実業 明治三十五年より明治四十四年まで

 百四  杉聴雨先生(上巻359頁)

 杉聴雨【孫七郎】先生は長州藩の名門の出身で、井上侯爵とは莫逆の交わり(注・非常に親しいつきあい)があった。長州人は総じて文学趣味に富み、書道に秀で、詩文を巧みに作る人が多いが、先生はそのなかでも抜きん出ていた。詩や書についてはほとんど専門家をしのぐほどの技量の持ち主だった。
 私は井上侯爵の家に出入りするようになってから、三日にあげず侯爵家を訪問されていた先生と親近した。文学の趣味を持つ同好の士であったことや、私の岳父の長谷川秋水(注・前妻千代子の父長谷川方省)が先生の詩友であったことから、初めて会ったときからまるで旧知の仲のようで、わたしはほどなくして平河町にあった杉邸に足しげく出入りするようになった。
 先生は大柄で、頑丈な骨組みは武道家のようだった。容貌は雄偉、色黒で眼光が光り、いったん怒ると鬼でもやっつけるような威厳を持つが、いったん笑うと子供もなつくような柔和さを持っていた。いたって寡黙で、長州弁で要点だけを口早に言い終わるや、また黙々として人の話に耳を傾ける、という風だった。それは大悟徹底した禅僧の趣で、何事にも控えめで、いかにも沈着な態度でありながら行動するときには動じない気迫を内に秘めていた。

 その一例をあげる。維新前後の長州の志士が国事に関して京都に赴こうとし、便船が鞆之津(注・とものつ)に近づいたときのことである。激しい暴風雨に遭遇し、船頭ももはや転覆沈没するほかはないと乗客一同に警告を発した。そこで同行の七、八人は覚悟を決め、遺書をしたためる者、辞世を書く者など、みな顔色を失って悲惨の極点に達していた。先生はその光景を寝転びながら見ており、やがて船が沈没するという刹那に猛然と立ち上がり、真っ裸になって同行者の前に立ちはだかった。そして、「おれの辞世は、これじゃ、これじゃ」と、その勃々たる勇気の勢いを示したので、今まで悲惨な顔つきをしていた同行者も、さすがにこれには笑い出し、船頭までもが元気づき、とうとう荒波を乗り切って鞆之津に着くことができたという。この逸話は先生が死生の際で見せた泰然とした態度を語るものとして、非常に有名なものだそうである。
 先生はかつて皇后宮大夫の重職にあった。書道にきわめてすぐれていたので、大正天皇がまだ東宮であられたころ習字の手本を差し上げて、おりおりご教授申し上げたそうである。また深い漢学の素養もあり、時々詩文を作られた。なかでも詩はきわめてうまく、数々の感吟がある。西郷隆盛の城山に立てこもった当時の状況を詠じた詩は、次のようなものである。


  百戦無功半歳間 首丘幸得返家山 笑儂向死同仙客 日洞中棋響閑


 ところが、はなはだおかしなことに、この詩が西郷の詩と誤って伝えられてしまった。現に、簡野道明氏の和漢名詩類選評釈の中にも西郷の作として掲載されている。その他の大家の著作でも同様の誤りを見受けたので、私は聴雨先生にこれは世間で西郷の詩と言い伝えられているが、貴方のお作でありますかときくと、先生は微笑なさりおれの作も西郷のとなってしまえば名誉であるよ、実は西郷が岩崎谷に立てこもった時の心境は、このようなものだろうと思って、彼に代わって作ったものであるが、西郷の作だといえば、それでもよいわァハハハハハと笑われた。これには、いかにも聴雨先生らしい雅量がうかがわれたものだ。
 そこで私は、では後日の記念のために、その詩を書いてくださいと所望し、さっそく半切(注・画仙紙などの全紙の半分サイズの紙)に揮毫していただき、頂戴したようなことがあったので、ここにその顛末を記して世間の誤伝を正すことにした。
 先生の性格は井上侯爵と正反対である。侯爵は雷伯といわれたほどで、ときどき大きな罵声を発せられることがあるのに対し、先生はいつでも沈黙して、静かなること山のごとくである。それで井上侯爵とは漆膠のごとく注・不可分に)親密で、侯爵は先生がいなくては夜も日も明けず、なにかあるとすぐに杉を呼んで来いというのが侯爵の常だった。
 ところで、井上侯爵がなにかのことで癇癪を起こすと、先生はいつのまにかその場をスルリと抜け出して、挨拶もなしに帰ってしまったものだった。その呼吸がいかにも巧妙なのだった。あるとき興津の別荘で井上侯爵の落雷が激しかったとき、先生は例のとおり泰然として座敷中を眺めていた。侯爵が鉈豆煙管(注・なたまめギセル、短いキセルの種類)で灰吹をポンポン叩くので、あちこちに焼けほげを作っているのを見つけると、そばにあった紙に、

  焼ほげがところどころに出来にけり 畳がへなら献金をせん

と書いて机の上に置き、フイと立って旅館水口屋に引きあげてしまった。あとで侯爵がその紙きれを取り上げて見て思わず噴き出し、いままでの大雷がたちまち収まった、などということもあった。
 杉先生については、まだ多くの奇談があるので、また後段でも語ることにしよう。(注・154「杉老子爵の逸事」などを参照のこと)


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百三  中上川の業績(上巻352頁)

 中上川彦次郎氏が三井銀行の副長になりその手腕を振るい始めたのは、明治二十五(1992)年の初めからである。二年たって日清戦争が起こり、戦勝による景気でいろいろな計画が持ち上がった。

 朝吹英二氏が整理にあたっていた鐘ヶ淵紡績の株は、一時、十円台にまで下がっていたのが、たちまち払込で五十円の倍額までに値上がりした。
 渋沢子爵の手で三井に移した王子製紙会社や、三井工業部の所管になった富岡製糸場なども、それぞれ隆々たる盛況を呈しさらに規模を大きくした。
 さらに、北海道の事業にも着目し北海道炭鉱会社の株式を大いに買収した。
 東本願寺への百万円をはじめとする貸金についても、とうてい完全には回収することはできないだろうと思われていたものを案外すんなりと回収し終えることができたため、各地方に散在していた多数の支店を閉鎖し銀行の実力をおおいに充実させ、抵当流れの土地なども、たちまち数倍に値上がりした。
 このような好都合がさらなる好都合を呼び、三井の成長の勢いは予想外に大きなものだった。神戸の小野浜で十万坪の抵当流れの一坪一円の地所が、後年に一坪百円以上に値上がりしたというような例も少なくなかった。

 かくして中上川氏の画策は着々と成功し、ほとんど後光が射すような勢いだった。それが明治二十七、八(18945)年から三十一(1898)年いっぱいのことで、彼の業績の全盛期であった。日清戦争後、中上川氏の三井整理がうまくいったことと、戦後の景気拡大が合わさり、計画は着々と成功したため一時は全盛の極点に達した。

 しかし三十二(1899)年ごろから反動が見られるようになり、やがて急転直下の苦境に陥ることになる。これは財界波乱が引き起こしたことで、まったくやむを得なかったと言わなければならない。
 それ以前に、中上川氏は三井の事業統一を提唱した。それまでの三井商店は、銀行、物産、鉱山、地所、工業と、それぞれの部門に分かれ、益田孝男爵のような大人物といえども、その手腕が及ぶのは、物産もしくは鉱山という一局部に限られ、三井全体に及ぶことはなかった。それを中上川氏の入行後、各商店理事を一か所に集め、各自それぞれの議案を持ち寄り、各部の連絡を保ち、これを統一協定とすることになった。益田、中上川の両雄も毎回会議に同席して営業方針を定めたので、当分のあいだはどこにも溝はなかった。
  
しかし戦後膨張の反動が起こったとき、その影響は、まず物産の商売に現れた。大阪支店において原綿の暴落の損失が出ると同時に金融はますます急迫を告げた。
 その救済のために、井上侯爵の口添えで九州方面に三井銀行が貸し出した金を回収しようとしたところ、たちまちにして九州炭鉱業者の不平を招いた。それは、中上川氏と井上侯爵のあいだに自然と溝ができることを意味し、そればかりか、益田氏との関係も絶頂時代のようにはいかなくなった。ここへきて中上川氏を攻撃する声が四面に湧き起こったのである。
 折も折、中上川氏は三十二(1899)年ごろから腎臓病が悪くなり、機嫌も非常に悪く、ややもすると他人の感情を害するような行動も見られるようになった。
 事態が重ね重ねも難局なことに加え、長崎あたりの新聞が三井に恐慌来たるといった内容を掲載したため、関西地方のひとびとが不安視し、明治二十四年の二の舞(注・取り付け騒ぎのこと)が起きそうな状況に陥ってしまった。そこで日本銀行の総裁と協議して、取り付けはほどなく鎮静化した。しかしこのような情勢では各自がその位置を守ることばかりに必死で、他者を非難するというのが人情というものである。それで内部においても、ややもすれば悪口が広がって反中上川の情勢がみなぎるようになっていた。 

 そんなときに、折悪しく、二六新報の三井銀行攻撃事件が突発した。この事件は、かつて三井と取引関係があった三谷三九郎という人の遺族に対し、三井の待遇が非道であるという理由で攻撃の矛先を向けたものだった。しかし三井銀行が簡単には応じなかったため、秋山定輔氏が、「将をたおさんとすれは、まず馬を射よ」の戦法をとり、三井主人の人身攻撃を始めたのである。やがてその攻撃の材料が尽きると、今度は伊藤博文公爵を動かし、伊藤公爵はさらに井上侯爵を動かして、三井と二六の仲裁談が持ち上がった。中上川氏は、ついに城下の盟をなす(注・敵に首都の城下まで攻め込まれて講和の約束をする)ような苦境に陥り、まことに気の毒な状態だった。
 そのころ三井銀行で中上川氏の次官格だったのは波多野承五郎氏であったが、じっさいに各部の重役間の潤滑油になってその調和をはかる役割を果たしたのは、すでに三井工業部の理事になっていた朝吹英二氏だった。外見は磊落で無頓着のように見えるが、実は非常に敏感で苦労性なこの人は、自分が歳(注・まんざい。基本は太夫と才蔵の二人組の芸能)の才蔵役になり、八方融和のために円転滑脱の働きをしたのである。その苦心は非常に大きなものだった。
 このように、中上川は時勢が自分の不利になり、四面楚歌の中に置かれることになったが、このようなときに尻尾を巻いて逃げたり責任を他人に転嫁するような人物ではなかった。最期まで堂々とその運命を自覚し、明治三十四(1901)年十月、四十八歳にして、ついにその短い生涯を終えた。
 しかし彼の没後数年での日露戦争を経て、一陽来復の景気がやってきた。彼の施策が効果を現わしはじめ、今更ながら彼の卓見に感服した人もあったのではないかと思うものの、死者の功績を回想して、これに感謝した者があったかどうか、それはわからない。しかし三井中興の基礎は、彼の三井入りから死去にいたる、この十年間に築きあげられたものなので
ある。彼も地下にあって、みずから慰めるところがあるのではないかと思う。


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百二  大家の主人公(上巻349頁)

 井上馨侯爵が三井家の家憲を制定するにあたり私たちに向かって口癖のように述べられたことを要約すると、三井のような大家の興廃は、単に一家の問題ではなく国家の利害に大きな影響があるということだった。封建時代、鎖国時代には、豪族の兼併(注・他人の土地、財産を併合すること)の弊害などという議論があったが、今日のような世界各国間の経済競争の世の中では大資本家の力で対抗するほかはない。大家は国家の機関として健全な発達を遂げてもらわなくてはならない。大家に家憲が必要なのはそのためである、というのが侯爵の論点だった。
 このような見地から考えると、創業者である祖先や、国家からの信頼に対して重大な責任を背負わされる大家の主人は、世間からは栄耀であると見られ悠長なものだと思われるだろうが、じっさいにはその反対で非常にありがたくないことなのかもしれない。現今の日本の二大大家として知られている三井家、岩崎家の主人について私の知る限りでは、三井の総領家八郎右衛門男爵(注・北家10代三井高棟たかみね)は伝統的な特質を受け継ぎ芸術的才能を備えている。能楽にあってはほとんど専門家をしのぐほどであるし、絵画を試みては、その父である福翁(注・北家8代三井高福たかよし)の遺風を受け継いで四条派の絵画に巧みな才能を示し、茶事では表千家の堂奥に入り、建築、築庭についても並々ならぬ意匠の持ち主である。長兄の高朗(注・北家9代たかあき)氏の没後に三井総領家を相続した最初のころは折々に能楽などを催し同族と娯楽をともにすることもあった。しかし明治二十四(1891)年の危機に際し自らも深く考えるところがあり、家憲制定に関して主人側を代表し井上侯爵、都築男爵もしくは家憲起草者の穂積陳重男爵らとの研鑽、研究が数年間に及んだ。そしてこれを実行するにあたり、同族統率の任に当たるために自分の責任がいかに重大であるかをはっきりと自覚しそれまでの態度を大きく改めた。自分の趣味、嗜好が同族や使用人に感染する影響をおそれ、家憲擁護のために自分の享楽を犠牲にすることも辞さなかった。その後、夫人を同伴して団琢磨らとヨーロッパ諸国を巡り、そこでの大家の行儀作法などについて研究し帰国した。その後は、営業方面においては勤勉に手腕を発揮し、家庭においては家長としての模範的な行動を示した。みずから慎重に行動し、かつて批判されたような行動をつつしみ、この三十年間まったく変わらずにそれを続けたことは、三井総領家の主人が身をもって家憲励行の責任を全うしているからにほかならない。

 世の中ひとびとは、ややもすれば大家の主人を見て羨望の的にするようだが、自分がその立場に立ったならば話はさほど簡単なことではないだろう。私は近くでよくそれを見てきたから、大家の主人になるのははなはだ大変なことだとひそかに敬服している次第である。
 大家の主人というものが、はたで想像するような安逸悠長なものでないことの例をあげる。日本の大家の横綱として三井家と相対している岩崎家においても同じようなことが言えるのである。私が明治二十一(1888)年にアメリカ、フィラデルフィアを訪問したときのことである。岩崎久弥男爵は同地の学校に遊学中だった。それ以前、男爵の厳父である太郎君は、わが子の教育のために非常に厳格な方法をとっていた。男爵の少年時代には、同郷の有望な子弟といっしょに書生部屋で寝起きさせ、大家の令息的な扱いを一切しなかったそうだ。私がアメリカを去りイギリスのロンドンに滞在中、久弥男爵が来遊されたということをきき、どこのホテルに滞在されているのか問い合わせると、三菱の仕事で滞英している和田義睦氏の下宿に泊まっているということだった。ところがその下宿がいたって粗末だったらしく、ある人が岩崎男爵を訪ねたところ、男爵は南京虫に刺されて頬のあたりが腫れあがっていたそうだ。そんな話をきいたあと、ある日、日本領事館で領事の園田孝吉氏のち男爵と会ったときにその話になった。園田氏は非常に謙虚でまじめな人だったから粛然とした面持ちになり、そうだからこそ岩崎家は代不易(注・いつまでも変わらない)なのだなあと大いに敬意を示していた。

 私は大正の中頃に、京都祇園の杉の井旅館で故朝吹英二氏といっしょに、ちょうど入洛中(注・京都に滞在中)だった岩崎男爵とおしゃべりをしたことがある。そのとき男爵は「僕はいたって無風流で、もはや親父の逝った歳に近づいたが、これまでなんらの趣味もなく、おりおり牧畜場を見廻って、牛の成長を見守るくらいのものである」と呵々一笑(注・かかいっしょう=はははと笑う)された。男爵の無風流ぶりは男爵が言われるとおりの天性のものかもしれないが、しかし幾分かは身分を顧みて謙虚にしているためで、すすんで趣味的な娯楽に触れないようにしているようなところがあるのではなかろうかと私は朝吹翁と語り合ったものである。
 かつて益田英作氏が東海道の汽車のなかで、柏木貨一郎そして岩崎弥之助男爵と乗り合わせたことがあった。そのとき、柏木と弥之助男爵が居眠りをしていたが、片方は非常にのんきで大いびきをかいているのに、もう片方の男爵は心配ありげな顔つきで眠っていたそうだ。「僕らは金持ちの弥之助男爵よりも、貧乏な柏木のほうが、はるかに気楽なことを発見した」と益田氏は言ったものだ。これなども、大家の主人に対するひとつの見方であるかもしれない。


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百一  三井宗竺遺書(上巻345頁)

 前項(注・100を参照のこと)に記述した三井家憲は、今日の情勢と法律に適応できるように規定された。その根本は、三井家が二百年あまり守り続けた同家の家憲である「宗竺遺書」に準拠した内容になっている。そこで、今回はその宗竺遺書について述べてみたい。
 三井の祖先は近江源氏佐々木族である。元亀、天正のころ(注・16世紀末の室町時代)近江鯰江の城主だった三井越後守高安という人が、織田信長に追い払われて伊勢の雲津に落ち延びた。ここに土着し則兵衛高俊を生み、高俊は八郎兵衛高利を生んだ。この高利が商家としての三井の先祖である。高利は元禄七(1694)年七月に七十三歳で死去し、法号を松樹院長誉宗壽居士といい、京都の真如堂に葬られた。
 この人こそが、伊勢から江戸に出て越後屋呉服店を開き、ついで三井両替店を始めた当家の創業者である。実子が十五人いた中から正腹の男子六人を選び、嫡男を総領家とし、他の五人を本家として三井六家を立てた。
 嫡男であった八郎右衛門高平は宗竺と号し、二代目として非の打ちどころのない守りの才能、器量に恵まれていた。同族の長久繁栄のために、その父である宗壽居士の遺訓により宗竺遺書と名付けた掟の書を作り、享保七(1722)年に家法として厳守することを決定した。
 この遺書は同族の処世法、商売上の措置、奉公人に対する注意、財産の分配および子孫の教育法など、永世にわたっての容易ではない訓戒規律を網羅したものである。時勢の違いから今日には相容れない法律的規定を別にすれば、これ以上周密で適切な家法を作ることは現代人であっても誰もできないだろうと、穂積陳重博士でさえもが感嘆するほどのものだった。三井家が二百年余りにわたり、ますます繁盛を続けているのも、この遺書の精神に基づき子孫がよくその家業を継承してきたからにほかならないと思われる。

 宗竺遺書は、そのような家法であったが、明治三十四(1901)年にできあがった三井家憲も、だいたいにおいてこの遺書によっている。子孫に対する訓戒の中には、現代の実業家に対してもすこぶる適切なものがあるので、その二、三の興味深い例をあげてみよう。(注・難しい漢字をひらがなにしたりしたほかは、原文通り)
 一、同苗(注・同族)共益々心を同じうし、上に立つ者は下を恵み、下たる者は上を敬うべし、吾々は兄弟にして睦ましけれども、この末はまた左にあらず、しかればいよいよ心を一にし、立て置く家法礼儀をみださず、よくつつしみ守る時はますま栄ゆるの理なり、人各その心あり、彼れが心を酌み、われを図ってことをなさばよく整ふべし、己を立て人を図らざれば、外整ふとも内和せず、よく服せざる時はみだるるなり、その旨よくよく心得べし、驕り長ずる時は家業を忘れ、その商に疎かなる時はなんぞ繁昌せん、ただ一家親しく身を慎み、私なくよく眷族
(注・一族)を恵み、家業に怠りなき時はいよいよ繁昌相続いたすべき事

 一、商人は不断の心がけ薄き時は、他よりその商ひを奪はる、これ戦ひの理なり、多年心に懈怠(注・けたい。怠けること)なく、商ひの道をよく勤め、眷族(注・一族)を養ひ、内を修め、家業を怠らざれば家栄ゆるなり、大工の家を造るに、棟梁ありともそれぞれの大工なくんば成らず、棟梁良き時は好く出来(注・しゅったい)す、皆これ諸共にして棟梁よく下を使へばなり
 一、異国の国王に十人の男子を持てり、その親末期に及び、十人の子供を各々枕元に呼び寄せ、一人に矢一筋づつ持たせ、右の矢を折り候へと指図の時、十人ともに矢を折る、また矢を十筋一緒に束ねて、総領より折り候やうに申渡され候とき、右の矢かつて折れず、次男に申付られ候とも折れず、十人共に一人の力にては及ばざる由申せし時、親遺言として十人共兄弟へ申置かれ候は、われら相果て候以後、兄弟一致に睦ましく諸事相励むべし、右矢のごとく一本にては折れやすく、十本束ね候ては折るることなし、兄弟各々心をあわせ候ときは、国に危きことなしと申置かれ候由、手前家の掟これに相適ひ候
 

以上は、宗竺遺書の一部に過ぎないが、一家を永続させようとする深謀遠慮は、このような一片からでも容易に想像できるだろう。
 こうして今から二百十一年前にあたる享保七(1722)年にこの家法を制定し、これを子孫に守らせた祖先の力もすごいが、また大事に家法を守り、同族一致して今日までますます家名を盛り立ててきた子孫も感心なものである。単に日本において例が少ないだけではなく、世界を見渡しても、きわめてめでたい家柄であろうと思う。
 しかし大家は大木のようなもので、林に大木があるということで、その林が貴いものになる。国に大家があるということは、国が重要であるということになる。
 最近流行している悪思想では、むやみに大家を目の敵にするが、三井のような旧大家は、個人の私有物というよりも、むしろ国家の公有物であろう。その繁昌が、同時に国家の繁昌を意味するのである。今、かりに三井が所有財産を売り払い、実業界から引退することになったら日本の財産にどのような影響がるだろうか。国家の大局から見てのその損益については多くを語る必要もあるまい。
 このような大家は、主人も勝手にこれを私有してはならず、ながくわが国の商業界に立ち、国家大衆とともに栄枯苦楽をともにする運命を持っているのである。よって、この一家が雪ころがし方式に世を利し、我を利しながら、ながく繁栄していくことを私は心から願ってやまないのである。



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 百
三井家の家憲
(上巻341
頁)

 井上馨侯爵は三井主人側から財政整理を依頼されており、明治二十四(1891)年、私が三井入りしたころから一家整理の根本方針として同族が厳守するべき家憲を制定することを計画していた。しかし、ボアソナード、ロエスレルなどにフランスやドイツにおいてすでに実行されている家憲を調べてもらったが、同族内の一部で破たんが起きた場合に、それを他の同族に及ぼさないですむような方法をどうしても見つけることができなかった。考えあぐねてそうこうしているうちに日清戦争が勃発し井上侯爵は朝鮮公使になり朝鮮に赴任したので、それから数年間は三井の財政問題について世話を焼く機会がなかった。また三井のほうでも、中上川氏の整理が着々と成果を上げてきたので、そのまま放置されていた。
 しかし侯爵が東京在住となった明治三十(1897)年ごろから、三井も戦後の景気拡大からの反動に襲われ、営業上にさまざまは支障が起きてきた。それにともない、各方面からいろいろな建言が集まってきたので、井上侯爵もとうとう腰を上げ、家憲の制定に着手することになった。
 前回のときは私が侯爵の伝令役となって各方面に奔走したが、今回は都築馨六男爵が補佐役になり穂積陳重男爵に家憲の草案を委託することになった。
 穂積男爵は、三井の元祖である宗壽居士高利の遺言をその長男である宗竺居士高平がまとめた「宗竺遺書(注・101を参照のこと)」を基本とすることにし、それに時代に即した法律の思想を加味し、明治三十三(1900)年中に草案作りを終えた。
 三十四年にはいり、いよいよ家憲制定の披露式があり、三井同族の代不磨の(注・長く価値を持つ)家憲が制定されたのである。
 営業店が繁盛はもちろん大切なことだが、同族各家の基礎がしっかりしていなければ、のちのち混乱が生じるかもしれなかったのが、ここに厳粛な家憲が定められ同族が従う基本が示されたわけである。これは当家にとり永遠の幸慶であった。これを祝福するだけでなく、井上侯爵の尽力が大きかったことを忘れてはならないであろう。

 

穂積男の苦心(上巻343頁)

 私は三井家憲の制定後その起草者であった穂積男爵を訪問し、その成立までの苦心談を聴き取った。そのときの談話の概要をここに掲げる。
 「自分が家憲を起草することになった発端は、明治二十五(1893)年ごろのことで、ある日、井上侯爵から招かれ、三井は日本商人の旧家で、同族が非常に多いので、時勢の変化に応じて、この同族の結合を緊密にし、将来の一家の悲運を防ぐ方法を講じなければならない、しかし同家は他の家と違い、第一に総領家というものがあり、次に本家、連家というものがあり、その家格、収入に差があるので、情勢を考慮して、うまい具合にこれをまとめていくには非常に複雑な工夫が必要になる。聞くところでは、君は渋沢家、亀井家の家憲を作ったそうだから、三井のものもご依頼したいと思うと言われたので、いったんは辞退してみたが、侯爵が例の熱心さで何度も懇請されるので、とうとう引き受けることになった。
 さて、家憲の制定であるが、まず、主人を主とする同族会を組織した。次に、従来は元方と称していた番頭と主人の連合の重役会を作った。さらに、これを指導する顧問役を置いた。
 つまり、主人と番頭と顧問の三つの力を集めて、家憲の本体をなすようにしたのである。しかし本来、家憲というものは同族内の契約であるから、これを破ろうとするものがあれば、いつでも破ることができるわけで、いかなる国の法律であっても、それを防止することはできないのである。
 そこで、こうしたことが起きた場合の制裁として、この契約を破った者には、破ったことで生じた損害を償わせるということにした。そうすることで、将来もしも家憲を破ろうとする者が出てきたときも、それによって生じる損失の負担をしなければならないことを考えることで、自然とその気持ちを慎むようになるわけである。これ以外には、なんら法律上の制裁はない。だいたいこのような趣旨で三井の家憲を制定した。
 井上侯爵も、死んだ家憲よりも生きた精神を重視し、各家の主人が心から同族に一致を図り、営業の分担をし、また子弟の教育を奨励して、主人自身にも財産管理を監督できるだけの能力を備えること、旧来の番頭専制体制を打破すること、主人みずからが業務を統括することを主眼にしたのである。
 主人の頭の中に不文の家憲を作り上げ、それを実地でも実現するという考えであった。井上侯爵のような、人望も地位もあり、しかも世話好きで自分の考えを貫徹するまでは熱心に、執拗に、何年かかっても飽きることなく事の当たることのできる精力家でなけれは、三井の家憲を作り上げることは、とうていできなかったであろうと思う。」


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九十九  中上川の半面(上巻238頁)

 中上川彦次郎氏はなんといっても明治中期の実業界の偉才だった。私は不思議なめぐりあわせで明治十四(1881)年十一月に初めて氏と面会して以来、時事新報で六年間、三井入りしてからも十年間、机を並べて事務をにしたので、彼に関する思い出は非常に多い。その中で、今回は風雅的な方面のことを記すことにする。
 私が明治十四年十一月に三田四国町の中上川家を訪問したときは、酒井良明氏に駄々をこねて、どうしても貰ってくれとせがみにせがんだ江川氏(注・江川常之助)の娘である新婦(注・勝)と結婚したばかりで、夫婦がお雛様のように並んでいるところは、そばで見ていてうらやましいほどだった。
 その当時の中上川氏は色白の長身で、後年のように肥満していなかったから、当世風ハイカラの美丈夫だった。体格の割に声が小さく、ふだんの話し声も喃々(注・小声)として女性のようだった。

 社会問題を恋愛関係の例を使ってたくみに解説する傾向があり、あるとき、私とふたりで埼玉の久喜町の演説会に呼ばれたとき、来会者の多くが小学校の教員だったのに、いつものように恋愛的な説明をふりまわした。傍聴者は煙に巻かれたようになって、不思議な演説家がいるものだと唖然とした顔になっていたのがおかしく、また気の毒だった。
 氏はまた、ときどき狂歌を詠んだ。このときもまた、往々にして例の恋愛的な傾向が出てきた。一例をあげると、

   名古屋の旅宿にて川島某の情妓小六に与ふ
     川といふ字を横ちやうに寝かせ 二つ並べて六とよむ

   米子と云う歌妓を愛する山田某に与ふ
     野に山に選り食う物は多けれど 山田の米にます味ぞなき

などがある。また、三井銀行員の高野栄次郎が鰻飯の重箱を三年間毎日食い続けたと自慢するのを聞いて、

     重箱を三年かじる歯の強さ さすが三井の白鼠なり

と詠んだ。これは氏の狂歌の中で、第一の傑作だろう。
 氏はまた、ときどき詩を作ることもあって、明治十四(1881)年十月、官を辞めたときの作に次のような一首があった。

   面壁知可九年 此身況又髪猶玄 城南夜々無人到 火蒲団学座禅

これには、達磨の「面壁九年」に学んで、十年後の国会開設を待とうという含みがあり、氏の作中ではいちばんおもしろいものである。
 中上川氏はユーモアとするにはすこし毒気の多い警句を吐き人を驚かす傾向があったが、ある場合には相手を必要以上に刺激して、はからずも敵を作ってしまうこともあった。

 あるとき蜂須賀茂韶侯爵から招かれ、同家自慢の刀剣小道具類がところせましと並べられているのを見て、「さすがにお家柄だけに、たくさん集められましたね」と言ったのは、当家が山賊の親玉、蜂須賀小六の子孫だからだという風刺なので、侯爵は少しも意に介されなかったが、同行した者たちは内心手に汗を握ったそうだ。
 また三井家において宮内大臣の土方久元伯爵を招待したときのこと、伯爵の話がたまたま家系図のことになり、三井家は近江源氏佐々木の支流だということだが、吾輩の先祖は戦国時代に遠(注・現在の静岡)土方村の城主だったということだ、ところで中上川君の系図はときかれたとき、中上川はまじめな顔をして、私の先祖はなんでも相撲取りで、中上川といったそうでありますと言い放った。せっかくの系図談も、このひとことで腰を折られてしまったとのことである。
 また中上川氏が永田町に新宅を建てられたとき、岡本貞烋氏が、ある一軸を持参し、「私はおもしろいものだと思うが、一応、朝吹に鑑定させてからお買いになったらどうですか」と言ったところ、中上川は、「骨董品を買うのは妾を置くのと同じで、他人に問うべきものではない、この掛物は、私が自分で見て、自分でよいと思うので、さっそく買うことにしましょう」と答えた。
 またある人が中上川氏に対し、「あなたは非常に聡明で、八面玲瓏(注・どこから見ても無傷)で、ほとんど取りつく島がないが、水清ければ魚棲まずで、あまりに智恵づくめだと人が寄り付かないのではないか」と忠告したところ、いかにももっともだとして、例の恋愛談だけは自分の暗黒面であると言ったそうだ。人は氏を訪問して、話の種が尽きることがあれば、この方面に水を向けて取りつく島を作るのを常としていた。
 氏は酒豪で、また例の恋愛談の実行者でもあったから、日本人には稀に見る体格でありながら腎臓病にかかり、働き盛りの四十八歳で早逝した。これはまことに惜しむべきことではあったが、普通の人間が七十、八十までのあいだにやるだろうという仕事を短い年月のあいだにやり遂げたのであるから、自ら振り返っても別に遺憾でもなかったのではないかと思う。


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九十八  福澤先生礼讃(上巻334頁)

 私は明治四十五(1912)年に実業界を引退し、閑雲野鶴の(注・束縛のない悠々自適な)身となった。そのときに、福澤先生の伝記を書いてみようかと思い、その後約一年間にわたり、先生と生前に交際のあった大隈重信、山本権兵衛、後藤新平、北里柴三郎、森村市左衛門、足立寛、中村道太、犬養毅、尾崎行雄、鎌田栄吉ら数十人を訪問し、先生に関する談話の聞書きを行った。これはかなりの大部な記録となったので、後年、福澤諭吉伝の著者である石河幹明氏にも見せて参考にしてもらった。今回は、その談話記録の中から、全体として福澤先生を礼讃した二、三の例をピックアップ(原文「摘録」)してみる。(注・読みやすいように、一部の表現をなおした)

犬養毅氏談
 「福澤先生はもともと自由主義の人で、一切の差別をしない。爵位や俸禄、階級、勲位を持たない。あるときなどは、席次の上下ができないように、客室に床の間を作らなかったこともある。
 慶應義塾において一目置かれ重んじられるのは、学問、知識、人格であり、役人の肩書などは、尊敬されるというよりはむしろ卑しまれるくらいだった。

 しかし明治十(1877)年の西南戦争により日本の封建的なやり方が打破されると先生は考えを改め、交詢社を作るなどして、さかんに実業論を唱えるようになった。それを見て世間には拝金宗だと言う者もあった。
 ところが晩年には、ふたたび穏健な考えに戻り、あの「修身要領」を作られたりした。これは、釈迦が最初に出山(注・釈迦が修行を終え雪山をおりたこと)して華厳を説き、その後世間に触れて小乗を説き、最後には法華、涅槃を説いたのと同様である。釈迦における法華と涅槃が、福澤先生にとっての独立自尊主義にあたる。だから吾輩は、三田山の学風が福澤先生の功績を伝え、ながくその特色を失わないようにと望んでいる。」
 

尾崎行雄氏談
 「吾輩は明治七(1874)年に慶應義塾に入門し、あるとき教授のひとりが癪にさわったので翌年にとうとう退学してしまい、福澤先生に対しても、おうおうにして反抗的な態度を取った。
 しかし先生は私を見捨てることはなく、陰にまわって家族の心配までしてくださった。そういう先生の気質を考えてみると、人の感謝するようなことは表面にあらわさず、いわゆる陰徳を施すのを常としたのである。
 あの榎本武揚を助けたり、朝鮮の金玉均を助けたり(注・一例として20「金玉均庇護」を参照のこと)して、なにも知らないような顔をしておられるのがそれである。
 先生が亡くなられてから考えてみると、明治の社会に、先生ほど度量がありすべてを兼ね備えていた人はいなかったように思う。 世の中ではとかく西郷隆盛を大人物を言うが、それは一面的なことで、先生のように広くなにごとにも行き届いた人はほかに例がないと思う。仮に今、明治の大人物を有形的、無形的に粉々に砕いて、その長所短所をまぜこぜにして団子を作ってみたら、福澤先生の団子が、誰のよりもはるかに大きなものになると思う。」


鎌田栄吉氏談
 「維新前後の政治家に『西洋事情』がどれほど大きな効果を及ぼしたかということを考えてみると、すぐに福澤先生の偉大さがわかる。
 勝安房(注・かつあわ。勝海舟のこと)が、維新前に西洋から帰ってきて幕府の老中からその事情をきかれたときの答えが、西洋の事情はちょっと見聞きしたってわかるものではない、まず私の見たところで、ただひとつ日本と西洋で違っているのは、西洋では利口な人が上に立って政治を執っているということであります、というものだったので、馬鹿なことを言うなと、老中からひどく叱られたという奇談がある。もちろんこれは、勝が老中を風刺したものであろうが、しかし実際、西洋の事情に通じて、これを書物に書き表すことができたのは当時、福澤先生以外にはいなかったのである。
 維新前後に西洋に行きいろいろな研究をしてきた人はいるが、それはだいたいがひとつの局面のことである。たとえは中村敬宇が書いたものはと言えば、自助論のような一部のものでしかない。銀行、会社、郵便、学校、政治、軍事、暦、その他全般のことを勉強して大要を教え広めるためには非凡な知識が必要であり、その点が他の誰にも真似できない福澤先生の偉大さなのだと思う。
 また福澤先生は、最も自分の力が発揮できる場所において一生働いたということが偉い。先生は決して政治家ではない。人柄が君子なので、嘘をついたり策略を用いたりすることが絶対にできない。学者として思い切った説を吐き、いつも世の中よりも一歩進んだところから天下に警鐘を鳴らし、ひとびとを覚醒させるのが先生の得意とするところである。
 先生は晩年に自伝を書き、病後には『修身要領』をまとめ、最後まで完全に学者としての生涯を全うされた。それは、いわゆる適材適所ということで、非常に幸運な人であったと思う。」


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九十七  大隈の福澤評(上巻331頁)

 福澤先生は稀代の偉人で稀有の時代に生まれ合わせ、しかもよく自分を知り、その時代に適応しようとして最善の働きを尽くされた。このことは新しい日本文明にとり大いなる効果をもたらした。
 先生の功績には慶應義塾、交詢社、時事新報を創立したことをもちろん数える必要があるが、わが国に西洋文明を輸入した大恩人としての業績を長く礼讃しなくてはならないだろう。
 弘法大師が唐の仏教文明を輸入したのと同様に、先生は日本開国した最初の時期に、まったく流儀の違う西洋の文明、思想、文化、社会のしくみを研究し、ほどよくかみ砕き、わが国民にもわかりやすいように「西洋事情」や「学問のすゝめ」などに著述し、当時の文明、思想の問屋となって新しい為政者にも模範を示し方針を与えた。その努力はながく記憶されなければならない。
 先生の没後、私は先輩諸氏より先生の偉業について直接の談話を聴き取った。順番は前後するが、まずは大正はじめに私が早稲田に大隈侯爵を訪ねたときの話を摘録することにしよう。(注・句点がないところを切るなどして、わかりやすい表現になおした)

「福澤先生は親切で、かつ注意深い人で、吾輩などの乱暴なやり口を危険に思って、たびたび忠告してくださったものだった。しかし明治十四年の国会開設論については、いつもと違って非常な勇気をもって賛成された。
 木戸が明治十年に死んで、大久保がその翌年に世を去って、あとは吾輩がその後を引き受けたようなありさまになってしまった。さて政治上の改革をやらなくてはならないので、吾輩は福澤先生と協議し、伊藤、井上の二人を加えて、まずは世論の力で、当時政府の中でがんばっていた頑固な連中の矛先を挫き、いよいよ国会を開設するという相談になった。これには有栖川宮(注・熾仁親王か?)殿下、岩倉、三条公爵もみな賛成し、実行に移すことになった。

 しかし明治十四(1881)年の夏に東北に御巡幸があって、吾輩も北海道まで随行(原文「供奉」)し、帰り道に福島に到着したときに、東京からの連絡を受けた。それによると、吾輩が、福澤と謀反を企てたということで、薩摩の連中が怒り出し、伊藤、井上は腰を抜かして手を引いてしまい、岩倉もへこたれてしまったというのである。それで吾輩がひとりで責任を背負うことになってしまったが、政府の連中は、なにか吾輩の落ち度を見つけて罪に陥れようとして、三井銀行に行って帳簿を調べたり、岩崎の帳簿を調べたりした。しかし、吾輩には一銭一厘の関係もなく、かえって当時の政府の役人の貸借が明からさまになってしまい、おかげで吾輩は、完全に潔白を証明され、ただ職をやめるだけにとどまったのである。 

 福澤先生は、父君もまた漢学者で、若いころには漢学で頭脳を作り上げた人であったから、世間が言うような唯物主義者ではない。むしろ唯心論者として、立派に世に立った人であるといえる。しかしその後十分に蘭学を勉強し、万延元(1860)年には木村摂津守らとアメリカへ、そして文久元(1861)年にはヨーロッパへも行った。このときは、1884年のフランス大革命のとき(注・原文のままの年を記す1848年の二月革命のことであろう)で、ミルの自由論、ベンサムの功利主義といったものが流行しており、全土に革命思想がいきわたっていた。このような自由な議論が盛んにおこなわれていたところに先生は飛び込み、現状を目撃したのだから、日本の漢学者の議論が実にばからしいものだと思い、根本的に改革しなければならないと気づいたのであろう。
 いつだったか先生は吾輩に向かって、俺は議論によって、なにからなにまで古い物を一掃しつくしてみせる。その後の建設をするのは政治家の仕事で、それはあなたたちにやってもらうしかないので、とにかく建設は誰かに頼むとして、俺は、破壊専門で行く、と言われたことがあった。

 それが、あの楠公権助論などになって、世間の人の考えを刺激し、ずいぶんと大きな敵を作ったりもした。しかしそれに動じることがなかったのも、福澤先生ならではだった。しかしながら、功利主義一点張りではなく、漢学の素養があって忠孝仁義道徳といったことにも十分に考えがある人だったので、世の中が落ち着くにしたがい、もともとの穏健な色合いの思想に立ち戻られたのである。」


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  九十六  
先師の捐館(注・えんかん。死去)
(上巻327
頁)

 福澤先生は明治三十一(1898)年九月に脳溢血を起こし一時昏睡状態に陥った。この知らせをきいたとき私もちょうど東京にいたので、さっそく三田邸に駆けつけたが、東京中の名医という名医がかわるがわる来診していた。その中にはドイツの名医ベルツ博士もいた。

 ベルツ博士は帰り際に、私や中上川彦次郎氏が集まっていた座敷に立ち寄ったので、中上川氏が回復の見込みがあるかどうか尋ねたところ彼は手を左右に振って、生命は一時取りとめるかもしれないが、His career is over.【彼の功業は、はや終わった】(原文「ヒズ・キヤ-リヤ-・イズ・オーバー」)と宣告して、悄然と立ち去った。
 先生の病勢はすこしずつ収まり、二、三か月後には片言交じりのおしゃべりをするようになられた。しかし古いことはかえって記憶しているのにひきかえ新しいことは忘れてしまい、特に人名が思い出せないようになっていた。
 ある日、山本権兵衛伯爵に会いたいと言い出されたのだが、その山本という姓が出てこず、ほかの事情から推察して、ようやく同伯爵のことだとわかったというようなこともあった。
 翌年の夏ごろから気力がかなり回復し、記憶もまた復活し、自身で筆をとった大字に「病後之福翁」という印を押されたこともあった。あの「修身要領」というのも病後の産物で、この宣言によって福澤先生のいわゆる「独立自尊宗」が大成を見たといってもよいのである。

 そしてついに、足かけ四年の三十四(1901)年一月に病気が再発し、二月三日に長逝された。
 小幡先生をはじめ塾員総出で準備を整え、同八日に福澤邸を出て麻布の善福寺で葬儀を行い、府下大崎の墓地に葬った。
 それはいかにも厳粛な葬儀であった。福澤邸から善福寺までの随行者は全員徒歩ということになったので、馬車で福澤邸に乗りつけた人はその様子に驚き、すぐに下車して葬列に加わるというありさまだった。先生の葬儀でなければ、このような例を見ることはないだろうと思われるようなもので、会葬者一同は感激したものである。
 私は明治十四(1881)年から先生の庇護を受け、翌年に時事新報の記者になってからは先生の社説の口述筆記をしたり、自説の執筆をしたりするときに先生の検閲を受けるために、ほとんど毎日机のそばにいて文章の書き方をいちいち教わった。幾千もの門弟があるなかで、私は渡邊治、石河幹明の両氏とともに、例を見ない幸運にあずかったのである。
 その後はそれほど近くにはいなかったが、交詢社その他で拝顔する機会は少なくなく、なんとなく厳父のように思っていた。社会に出てさまざまな働きをするにあたっても、先生がどう思われるだろうということを念頭に置き気持ちのうえの励みにしていた。先生が亡くなられたことで、その目印(原文「目当」)を失ってしまったようで、善いことも悪いことも報告する場所がなくなってしまったような気がした。
 顧みて思うに、私の一生のうちで、このような稀代の大人傑のそばで特別の教訓を受ける機会があったことは二度と得難い幸運であったと思う。いまなお、ありがたく感謝している次第である。


稀代の偉人(上巻330頁)

 私は福澤先生と同時代に生を受けただけでなく、浅からぬ師弟関係を結び長年にわたりそばに仕えた。そのような教えを受けたことは、ほんとうに一生の幸運であった。昔から禅宗では、かんたんには世に出てこない名僧のことを五百年間出」などというが、福澤先生は、五百年間出か、一千年間出か、とにかく稀代の偉人であったことだけは確かで、わたしが云々する必要もないことである

 日本という国が始まって以来多くの偉人はいたが、同時代に生まれて親しいつきあいをしたら、さぞかし面白いにちがいないと思うほどの人物はそれほど多くはない。

私は個人的には、学問もあり、趣味もある、話のおもしろい人に会ってみたいと思うので、その筆頭にあげたいのは、唐の仏教文明を日本に輸入した弘法大師である。そしてその次が、鎌倉幕府の創立を計画した大江広元である。また、同じく僧侶で、禅宗を大衆化させた一休和尚にも会ってみたい。そしてさらに近いところでは、なんといっても、太閤秀吉の天空海闊な(注・度量が大きく、こだわりのない)大きな肝っ玉にぶつかってみたら面白いだろうなあと思う。徳川時代では、炒り豆を噛みながら英雄を罵ったという荻生徂徠に会ってみたいと思う。
 そして維新以後の人物で誰に会ってみたいかというと、それは福澤先生ということになるのではなかろうか。ところがなんの幸いか、私はこの千年間出の大先生にお会いし、親しくそばに仕える機会を得たのである。考えてみれば、これこそこの世に生まれた甲斐があったというものだ。
 しかしながら、先生の一代の業績について語ろうとするとほとんど際限がない。それに、門下生の身分では、あまり立ち入って評論するのも得策ではない。よって次項においては、先生にじかに接しその性向をよく知っておられる諸先輩のご意見を摘録することにさせていただきたい。


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 九十五  
尾崎紅葉の述懐
(上巻324
頁)

 私が三井呉服店の改革を始めて約三年のうちに、各部署の施設が西洋の百貨店にやや近づいてきた。まだもちろん百貨を扱うには至っていなかったが準備はようやく整ってきた。
そこで今度は営業宣伝の方面に力を入れることになり、明治三十一(1898)年末に「花衣」という冊子を発行することになった。
 はじめて発行する冊子なので内容を豊富にしたいと思い、私自身も「模様の説」という一篇を執筆した。また大槻如電翁作の「江戸の風俗衣服のうつりかはり」という、百二十ページにわたる長編を掲載した。

 さらに尾崎紅葉氏に依頼して「むそう裏」という短編小説を執筆してもらった。この小説は、紅葉とその弟子の白峰(注・中山白峰)という人との合作で、上中下の三篇に分かれ、紳士、貴女、芸者など各種の人物の衣服模様や風俗を描写するというのが主題だった。
 その後も紅葉は私の依頼に応じて一、二回小説を寄稿した。またあるときは、巻頭を飾るめに自筆で次のような一句を題したこともあった。

    この巻のはじめに物書けとありけるに、唯凉しからば題意にもたがはざらんとて
     青すだれちよと恋草の透模様         紅葉山人

 

 紅葉は生粋の江戸っ子だった。一種の奇人で、幇間の真似をしたり、緋縮緬の羽織を着て回向院の相撲場をうろついたり、そうかと思うと提物(注・さげもの。根付、印籠など)の象牙彫りに非常な天才を見せたりした。

 彼は尾崎谷斎坊のせがれとして生まれ、親父の天才と江戸っ子気質を受け継ぎおもしろい気風を持った人だったから、来訪するたびに長時間おしゃべりをしたものだ。
 あるとき彼は私に、文士の生活の困難な事情を訴えたことがある。日中は家の中がザワザワしているので、夜更けに人の寝静まったころに起き出して執筆することにしているその不摂生の結果、とうとう胃腸病にかかってしまい、消化不良のため、ご覧のように顔色もまったくすぐれないのである
そのころ紅葉は、あの金色夜叉の執筆に没頭しておられたころのようで、なるほど目の縁が黒ずみ病が悪化しているようすだった。
 さらに言葉を継ぎ、
僕などはそれでもまだ上等の部類であるが、弟子などは、出版社から前借りをし、その金額が三百円にもなると、もやは彼らに首根っこを捕まえられたも同然で、一生うだつのあがらない境遇に陥ってしまう次第である、日本でも文士の報酬がもう少し向上して、力作を一篇執筆すれば一年くらいは遊んでいられるようにならなければ、われわれの境遇は哀れなものだと述懐された。これには、いかにも同情にたえないものがあった。


岩下清周の晴着(上巻326頁)

 私は少年時代に田舎の呉服店に丁稚奉公をしていたことがあるので、衣についてはすこしばかりの経験がないこともなかったが、いよいよ三井呉服店の理事になり営業全般を指揮する立場になったときにいちばん困ったのは、やはり衣のことだったのである。
 私が呉服店の改革を始めてから一、二年たったころだった。ある日、岩下清周氏が来店し、「君は非常に呉服店を改革したそうだから、僕は今日、君に向かってお祝いのために、衣服一組を注文しよう。金はどれほどかかってもよろしい。模様や品柄も一切君の思う通りでいいから、さっそくこしらえてもらいたい。」ということであった。このような大任を負うことにはとても閉口したが、ここは商売柄、二つ返事で引き受けることにした。
 そのころの着物は、三枚重ねが流行っていた。そこで、桐生の最高級の御召を三つ重ねにし、袴には最上の茶宇(注・茶宇じま。袴地にする薄地の絹織物)に、甲斐絹の裏をつけ、羽織には最上の長浜縮緬の黒紋付に、緞子裏をつけるという、費用おかまいなしの上等づくめ、文句なく当世随一の出来のものをこしらえて鼻高々で岩下家に届けた。
 ところが数日後に、ある茶屋で岩下氏に会ったところ、氏は三枚重ねのうちの上衣一枚だけしか着ていない。不審に思い詰問してみると氏はおおいに不満を述べた。「君がせっかく作ってくれたものだが、目方が重くって、全部あれを着ていては、肩が張って身動きもできなくて、堪えきれなくなって一枚脱ぎ、二枚脱ぎ、この通り、一枚になってしまったのだ」と言われてしまった。
 これには私も困り果てた。ただ無闇に上等上等とばかり考えて、衣服の重量に注意を払わなかったのは、新米の呉服屋の失敗だったと兜を脱いで降参するしかなかった。学卒あがりが呉服屋の番頭に早変わりして、大改革をしようとして、ときにはこういう頓珍漢を演じることになり、われながら苦笑を禁じ得なかった。この失敗は私の大きな秘密で、今日まで誰にももらしたことがなかったが、岩下氏もすでに他界され私も七十を超えたので、もう時効であろうと思い今回はじめて白状する次第である。



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  九十四  

新旧思想の過渡(上巻320頁)


 私の三井呉服店改革は単にこの一店だけのものにとどまらず、一般小売店に対しても新しい方式の模範を示そうとするものだった。従って、その方法にはかなり奇抜なものも含まれていた。
 これに先立ち私がこの仕事を引き受けたようと思ったとき、長年の習慣を改めることはなかなか簡単なことではあるまいと思った。改革が進むにつれ必ず苦情が百出するだろうから、あらかじめ承知しておいてもらいたいと三井の主人や重役たちに伝え、ついては三越などというあいまいな名義ではなく、はっきりと三井呉服店と改称し、三井が率先して小売業の改革を断行するという意気込みを示すべきであろうと主張した。こうして、即時に三井呉服店と名称を変更し、丸越の商標を、丸に井桁三に改め、はじめから思い切った改革に取り掛かった。
 この改革は、これまでなんの経験も持たないおおぜいの学生あがりが、年季奉公出身の番頭、小僧と一緒になって仕事を進めるのだから、当然のことながら相性がよいわけはなった。東京高等商業学校出身の滝沢吉三郎氏が主任になり帳簿の改正を行うことになったが、そのひとつには、さまざまなトリックを使って商品をごまかし、それで薄給の埋め合わせをするという習慣があったのをストップ(原文「杜絶」)させるということがあった。これまでは反物を背中に入れて店の外に出ると、その反物がさっそく金銭に変わるルートがあったのである。
 これでは古い店員の中から物質的、感情的な両面からの不平が出てくるのは当然だった。そこで私は店員全員に向かい、大幅な増給をするかわりに不正は絶対に許さないので承知しておいてほしいと宣言した。一方で給料を上げ、一方で不正を禁じたのである。
 しかし長年のうちにしみ込んだ悪習を簡単になくすことはできなかった。さまざまなトリックが使われるたびに、その尻尾を捕らえるということが続き、彼らはついには改革に反対し、さまざまな悪い宣伝を行うようになった。またかつて店員として勤務したことのある三井の老主人などに訴え、多数の者が一丸となって同盟ストライキ(原文「罷業」)を決行するに及んだ。
 ここにおいて私はきっぱりとその関係者を免職し、新規に採用していた学卒者に一時期事務をとらせることにした。しかし定規の持ち方も知らないような新参者が、複雑な顧客の注文に応対することの困難は並大抵ではなく、いわば言語道断だった。

 私はこのとき、この問題が非常にデリケートなもので画一的に処分を断行するのでは解決できないと判断し、遺憾ではあったが滝沢氏を三井銀行に転勤させ、かわりに日比翁助氏を連れてきて局面打開に当たらせることにした。ストライキをやった番頭たちにも復職を許し、いわゆる妥協解決をはかったのである。これは非常に姑息な手段であったかもしれない。しかし、もともとが人気商売である呉服店で長い混乱状態が続くことは顧客に対して申し訳が立たないことだと思い、なまぬるいやり方でケリをつけしまったのである。
 それでも店舗改革の方針については一歩も引かず、のちの百貨店の基礎を築くことができたという点で不幸中の幸いであったというべきだろう。



実業奉公の覚悟(上巻322頁)


 私は明治三十一(1898)年から三井鉱山の理事に任命された。当時の本業は三井呉服店の理事であったが、今回さらになじみの薄い鉱山会社の理事を兼任することになったことには理由があった。
 当時、三井の整理に成功してほとんど全局面を支配するかのような勢いがあった中上川氏が、戦後の膨張の反動で三井営業店での利益が減少し銀行の金融が逼迫したことを受けて、突然、貸金の回収を命じた。すると中上川の勢力を牽制する動きが暗黙のうちに起きてきたのである。たとえば、大蔵省の役人だった早川千吉郎が三井元方に採用されたのを手始めに、官吏の天下りが続々と増員されるという気配が見えてきた。
 私が鉱山理事に任命されたというのは、中上川氏がこうした動きに警戒し、気心の知れた人物を要所に配置することで天下り組の侵入者を防ごうとしたためだろうと思われる。
 私としては、三井呉服店の整理が終わったら当然三井銀行に復帰することになると思っており、またそれを希望していた。しかし私の実業奉公に対する覚悟は、三井のような大家の使用人になった以上、ただ主人の命ずるところで働き、その仕事が自分に適しているかどうかを問うべきではない、というものだった。鉱山理事になれば、もっぱらその業務にあたり、その職分を尽くせばよいのだと思い二つ返事で応じることにした。
 三井呉服店の仕事はおおかた支配人の日比翁助に委任し、私は鉱山専務の団琢磨氏のち男爵を補佐することになり、明治四十二(1909)年まで鉱山事務に当たることになった。その間、三池築港事業が進行中だったのでしばしば九州に出張することになった。(注・日比翁助の三井呉服店改革については122を参照のこと。三池築港については123を参照のこと)
 明治四十二(1909)年に三井内部の組織改革があり、王子製紙会社の社長職を打診されたときにも二つ返事で承諾したのは前述したとおりの私の覚悟によるものである。職務はただ主人の命じるままに自分は最善を尽くすのみ、適職かどうかを自分で判断してはいけないという考えを実行したまでである。


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  九十三  

福澤先生の来店(上巻317頁)


 私が明治二十八(1895)年から改革に着手した三井呉服店は日清戦争後の膨張に乗じて大きく発展した。百貨店の卵ともいえる「陳列場」の試み(注・76「呉服小売法の変改」を参照のこと)が非常に好評だったために旧店舗の西側に増築した二階建ての陳列館は、明治三十(1897)年ごろの東京において、ほかでは見ることのできない壮観を呈していた。
 そのころある日、私は福澤先生を訪問し次のよう述べた。
 王政維新後の日本の政府の事業はおおむね西洋文明流に変わってきた。しかし民間の商業では、小売店での販売業の歩みは遅々として旧態依然だ。それを改めるために、今度三井呉服店で西洋流のデパートメント・ストアの販売法を試してみるつもりである。当分のあいだは呉服以外のものを陳列するにはいたらないと思が、呉服についていえば、和洋の一切を網羅するに至ったので一度ご来観願いたい。
 すると先生はいつものようにニコニコされ、それはさぞ面白かろう、さっそく拝見しましょうと言って、日付は忘れてしまったが、ある日の午後二時ごろから来店された。

 まず西館の客室にはいり私の説明を聞いてから、新旧の売り場、意匠部、そして仕入部と、店内をくまなくご覧になった。そして再び客室に戻られたとき、鳥尾小太子爵が偶然来店しており同じ部屋で対面することになった。このとき鳥尾子爵はヨーロッパ諸国を巡回しての帰国後まだ間もない時であったようで、洋行前に先生と話した何かの事柄についてオーストリアの某博士のところで質問してきたが、その意見はかくかくしかじかと、滔々と述べ始めた。先生は最初から気のなさそうな顔できいていたが、話があまり長引いて非常に迷惑に感じたらしく、そのような話をいたしましたか、一向に記憶していないのですが、などといかにも不熱心な様子なので、鳥尾子爵も手持無沙汰になってしまったという一幕だった。
 さて先生は私に対し感心と激励の言葉をくださった。慶應義塾を出た者は学者であるにもかかわらず俗務に就いて、旧来の商工業者に劣らぬ働きをしている。例えば、あの荘田平五郎を見てみよ、在塾中は、いつも折り目正しく袴をはき謹厳な学者風であったのに、三菱会社にはいってからは汽船の運行に関する激務に携わり、さっさっと事務処理をし立派な会社の重役になっているではないか、呉服店の営業というのは、汽船会社よりもなおいっそう煩雑な事務なのに、そこに学卒者(原文「学者」)が飛び込み、二百年間そこで事務に慣れた番頭の仕事を引き受けて、さっさっとその改革をしていくとは、なんと痛快なことだろう、と非常に喜ばれたのである。
 それで私の肩身もなにやら広くなったものだった。時事新報に在社中に論説の執筆をして、先生のお気に召したときにはずいぶん褒められたこともあったが、このときほどに褒め言葉をもらったことがなかったので、私はそれまでの生涯で覚えがないほどに嬉しかった。先生はその後も人に会えば私を例にひいて、学者にできないことは何もない、と説明されていた。それを私自身も聞いたし、また人からも伝え聞き、非常にありがたいと思ったことだった。



染織業の大進歩(上巻319頁)


 私が三井呉服店を改革し始めたのは、日清戦争の終わった明治二十八(1895)年八月からである。戦後の景気拡大の機運がめきめきと盛り上がり、呉服の商売にも発展の兆しが見られた。
 しかし何分にも染織業者が保守的なので進んで改革を試みることがない。新しいものを製造しても問屋や小売店の好みに合わなければ、みすみす損失を招くということで、どれもこれも同じような、まったくの紋切り型の製品しか作らないのである。
 私は染織製品の産地を巡回視察して製造業者に面会し、これからまさにやってくるであろう新しい時代の要求にこたえるために新しい品物を生産してくれるように勧告することを思い立った。

 そこでまず京都西陣の染織工場、丹後宮津、近江長浜のちりめん織元を視察した。東北地方では桐生、足利、伊勢崎の御召糸織銘仙(原文「銘選」)、仙台、米沢、越後の各地では袴地縮(注・ちぢみ)の製造場を歴訪した。そして、春秋二期の染織展覧会に優秀な作品を出品してもらうようにした。こうして彼らも大いに活気づき、製品の品目を一新した。
 私は国内だけでなく、シナ(原文「支那」)の機業地も視察し、もしも輸入するのに適当な品があればその織元と契約をかわそうと思い、三十一(1898)年の三月に、仕入方の山岡才次郎を伴いまず上海を訪れた。ここでは三井物産支店の仲買人である袁氏に世話してもらい、蘇州、杭州、その他付近の織物工場を巡回視察した。しかし康熙、乾隆時代以降、シナの工芸美術がいちじるしく堕落した結果、織物もまたまったく進歩していなかった。あるのは簡単な緞子織物だけで、採用するに足る品物はないという実況を見きわめたうえで帰国した。
 そのころは戦後の景気拡大が世間にみなぎり呉服関係の売れ行きも非常に増加した。時勢とはいいながら、私の染織業界の奨励活動により、この産業が画期的ともいえる進歩を見せた。これは、まことに予想を超える成績だったと言えるのである。


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九十二  寸松庵開き(上巻313頁)


 私が明治二十八(1895)年に大阪から東京に呼び戻され三井呉服店の理事になると、仕事柄それまでの書生生活から抜け出し、ひとかどの紳士になりすますことになった。書画、骨董、茶事、音楽、演劇、相撲、はたまた花柳界にも手を伸ばすことになり、その勉強や道楽でいくら時間があっても足りないほどだった。
 その中でも、まず茶道について話そう。三井家の主人はもともと本拠地が京都だったので、茶道の流派はたいてい表千家であった。その好みは番頭たちにも伝染し、益田孝、馬越恭平、木村正幹、上田安三郎はすでに相当の数寄者になっていた。旧番頭のなかにも齋藤専蔵、今井友五郎らの茶人がいたので、朱に交われば赤くなるのたとえのとおり、私もしばしばこの人たちから招かれることが重なると天性の嗜好油を注ぐことになり、彼らとの交際に忙殺されるようになっていった。
 これに先立ち、私は益田克徳氏の茶会を皮切りに(注・59「最初の茶室入り」を参照のこと)大阪にいるあいだにもしばしば茶室入りしていたが、明治二十八(1895)年に東京に移ってからは病みつきになっていったのである。
 明治三十一(1898)年に麹町一番町に新宅を建設したときには茶室、露地の設計を益田克徳氏に依頼した。そして、あの五か条の御誓文の起案者として有名で、当時新宿御苑の一部に住んでいた由利公正子爵から、その邸内にあった寸松庵という三畳台目の茶室を譲り受けることになった。

 この茶は寛永の昔、徳川三代の将軍の茶道師範だった佐久間将監真勝が京都紫野大徳寺境内に創建したものである。小堀遠州の孤蓬庵の向かいにあり、開基は江月和尚、初住は翠巌禅師で、異彩をはなつ唐門をはじめ建築上のさまざまな趣向が施されていたという。
 この寸松庵が明治十二(1879)年に維持困難になり、ついに取り壊されたとき、石山子爵がその茶室を引き受け東京の新宿御苑の一部の土地を借りて移築された。茶席のほかに、二畳敷、中二階式の袴付席があり、庵に付属していた播知釜(注・織田信長が佐久間信盛に与えた釜)や、与次郎(注・千利休の釜師、辻与次郎)の五徳なども一緒に、杉孫七郎子爵の仲立ちで私が譲り受けることになった。そのとき杉子爵から私に送られた狂歌は、


 お値段はたかはし【高橋にてもよしを義雄かへ 袴つけたる佐久間将監


というのであった。
 益田克徳氏は、この袴付席を、邸内の東南寄りの竹林中に建てることにし、露地の設計に非常に苦心された。私は大阪に滞在中に毎日曜日ごとに寺院を巡っているうちに伽藍石に対する愛好心を持つようになり(注・72「古社寺の巡礼」を参照のこと)、その熱が充満している時期だったので、奈良地方を中心に畿内各地にある千年以上の古寺院にあった蹲踞【つくばい】石、伽藍石、石塔などを物色し、法華寺の大伽藍石七個、海龍王寺の団扇形蹲踞石、法隆寺の煉石十三重塔などを買い取っていた。それを庭の要所要所に配置した。
 益田氏は、栃木塩原の景勝の縮図を庭園内に写して作庭を行った。わずか千坪の小さな庭ながら、奈良の古石を東京に持ってくるのは、この庭が初めてだったので、東京の好事家の目を驚かすことになった。井上侯爵が内田山邸に奈良石を搬入されたのは、このあと一、二年後のことだった。

 こうしてこの席は、旧名である寸松庵を襲名し、席開きの茶会のときには床の間に紀貫之筆の丹地鼈甲紋寸松庵色紙の、


 年ふれはよはひはおいぬしかはあれと 花をし見れは物おもひもなし 


というのを掛けた。
 この色紙は、古来、古筆家が紀貫之であると認定したもので、同筆として高野切、家集切【いえのしゅうぎれ】などがあるが、この色紙が最高傑作であるとされている。最初、和泉の堺の南宗寺にあったものを、初代の古筆了佐の鑑定を経て、烏丸光広卿が買い取った。そのときには三十六枚あったが、その後、佐久間将監が中から十二枚選び出し、色紙の歌に相応する図柄の古扇面を取り合わせ、色紙を上に、扇面を下に貼りまぜて一帖を作り、寸松庵の備品にしたのである。それを世間で寸松庵色紙と呼ぶようになったために、この名前がある。
 その扇面帖は、その後一枚一枚に分散し、現在の所在がわかっている二十九枚のうち扇面まで揃っているのは、わずか四、五枚に過ぎない。
 私は寸松庵開きのために是非ともこの色紙がほしいと思い、三十一(1898)年に一枚手に入れた。それは千円ほどであったが、それから二、三年後にまた手に入れたときには三千円にまで値上がりしていた。その後も大正五(1916)年には二万二千円というものがあり、同十四(1925)年ごろには五万三百円というレコード破りがあった。
 私は明治四十二(1909)年に、この色紙のうちの十七枚を模写して一帖を作り(注・模写したのは田中親美)、田中(注・光顕)宮内大臣の手を経て明治天皇皇后陛下に献上した。その後十数年たってから名古屋の森川勘一郎氏が模写させたときには多数の新発見があり、総数は二十九枚に達していた。
 私の寸松庵開きには、例の播知釜を用い、東久世通禧、松浦詮伯爵、三井(注・松籟か)、石黒(注・忠悳)、益田(注・孝)、赤星(注・弥之助)、安田(注・善次郎)、馬越(注・恭平)などの当時の長老茶人を招待したので、たちまちこの方面の評判になり、さっそく推薦されて和敬会の会員になった。いわゆる十六羅漢の一員になり、それから今日まで茶人仲間として在籍することになったのである。これが、私の三十七、八歳のころのできごとである。


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  九十一 

相撲の躍進(上巻310頁)


 日清戦争後の膨張の影響は社会の各方面に波及した。相撲もそのひとつで、ほとんど空前絶後といえる活況を示した。
 明治三十一(1898)年の一月場所だったと思う。両国の回向院で常陸山と梅ケ谷が同時に幕内に進み、今度の勝敗次第でどちらが先に大関になるかと注目され、相撲始まって以来の人気が湧き起こった。

 私はもちろん常陸山びいきだった。というのは、彼の父は市毛高成という水戸の士族で、通称河岸通りという那賀川に近いところに住み、その家は私の生家からも近かったからだ。
 高成の弟はのちの内藤高治で、あの武徳会の剣道師範である。私とは親しい友達で、そのころは季吉といったので、私は季公、季公と呼んでいたが、これがすなわち市毛谷右衛門こと、常陸山右衛門の叔父さんだった。そのうえ私の兄弟以上の親友だった渡邊治に彼と姻戚関係があったので、明治十七、八(18845)年ごろ常陸山が東京に出てきたときに、渡邊に力士になりたいと相談に来たことを私は渡邊から聞いてもいた。
 それから約十年のあいだに彼は都の人気を背負って立つ大力士になった。渡邊はすでに故人となったので彼は私を叔父のように思いときどき訪ねてきたりもしたので、最初に話した大勝負の前日に私は彼に会い、おおいに激励した。

 当日も彼の一世一代の出世相撲を見物しに出かけた。もともと豪胆な男なので気力はすでに敵を呑み込んでいた。そして梅ケ谷との取り組みが始まり堂々と彼を土俵の外に押し出した。
 そのときの場内の歓声はしばらくやむことがなかった。これほど観客が熱狂したことは、あとにもさきにも例を見ないのではなかろうか。そのころはまだ大鉄傘(注・鉄骨ドームの国技館)ができておらず小屋掛けの土俵だったが、勝ち力士めがけて羽織や帽子を投げ出すというならいがあったので、私もかぶっていた山高帽を土俵にむかって投げつけたものだ。しかし両力士の仕切りのあいだは胸が高鳴るのを止めることができず、勝負の間際には正視に耐えず目をつぶってしまった。
 こうして常陸山は、梅ケ谷よりひと足先に横綱になり、近代まれに見る名力士とうたわれることになった。そればかりか角界の経営面でも大手腕を発揮し、出羽の海部屋を今日のように繁栄させ、彼の生存中もずっと全盛を維持することに成功した。これは時代のなりゆきということもあったかもしれないが、やはり彼の努力に負うところも大きかっただろうと思う。
 当時、時事新報社長だった福澤捨次郎氏が常陸山びいきで、私と一緒にいつも彼を招いて会食を行った。あるとき彼の身長体重を公表するため、彼を交詢社に呼びくわしく調べたことなどもあった。彼の祖父は水府流水練の達人で、父は弓の名人、叔父は剣道師範だった。一族のいずれもが頑丈な体格の持ち主だったような家柄の出身なので、彼の存命中は角界が武士気質を帯び、なんとはなく気品も高かったように思う。
 いずれにせよ、私がこのような名力士と同郷なばかりでなく、きわめて親しい関係を保ったことはとても愉快な思い出である。 

   


常陸山談片(上巻312頁)


 前項で常陸山の話が出たので、彼が力士を引退後に、年寄として朝鮮満州巡業の監督で出かける前に私の四谷伝馬町の家を訪ねてきたときの雑談の断片をここに記す。
 「私も今度、年寄になりましたが、力士は盛りが短く、四十を越えたばかりで、はや隠居です。しかし私が年寄としてなすべき仕事はたくさんにあります。出羽の海部屋は、はじめ三人ばかりの弟子であったのが今は百人以上になって、一部屋で巡業相撲ができますから、私の言い分は相当に通用するつもりであります。ところで私が第一に改良したいと思うのは、例の物言いで、先日の相撲には、物言いが四時間以上も続いて、観客に迷惑をかけました。これも土俵の上の問題ばかりならまだよろしいが、平常の感情が絡み合うので、かような不体裁ができますのは、協会という大局より見渡して判断せぬからであります。私は今後、苦情が長引けば、取り直させることにいたす決心であります。また私は高砂家という相撲茶屋で、一年に、二、三千円の収入があるそのうえに、相撲年寄は平年寄が一場所十日間で十円、役員が三十五円くらいの給料で、本場所の配当は、ひとりあたり四百二十円でありますから、生活に困難なことはありません。ただいま年寄は八十八人ありまして、協会で身元金として五百円をおさめ、年寄の株を買うのが、約千五百円でありますから、年寄になるには二千円いる都合なのであります。私のこれからの仕事は、第一力士の養成であります。およそ、芸事はこども時から仕込むものでありますが、相撲ばかりは少し違い、まず早くて十八、九歳ころからで、色気が出て、負けては恥ずかしいという心持が起こらぬ間は、いかに仕込んでも本気になるものではありませんから、相撲の修業の年月は短い、それだけ一度に熱心に稽古をつけねばならぬわけなのであります。云々」


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