だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

2017年06月

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九十 美術鑑賞熱(上巻306頁)

 日清戦争の結果、世界が日本を大国だと認めたのと同時に、日本人もまた自分たちが大国人になったという気持ちを持つようになった。そしてそれまで劣等感を持っていた自国のあれこれが急にありがたいものに思えてくるようになった。なかでも維新後に瓦礫同様に扱われた道具(注・骨董)や、二束三文で売買された書画に対して、一時に鑑賞熱が高まったことはもっとも顕著なあらわれだった。このことについて少し考えてみたい。
 維新の変動は日本人の心を急速にかきみだした。ひとつには社会の不安定のために、もうひとつには古いものを破壊したために、ものごとを平静な気持ちで判断することができなくなってしまった。
 昨日までは、お家の大切な宝だった「小倉色紙」も「千鳥の香炉」も、猫に小判だかなんだかのように顧みる者がなくなってしまった。
 そのようなときに、アメリカからフェノロサらがやってきて日本の美術品が非常に優秀であると説き、その当時二束三文で売買されていた数々の書画骨董を買い集め、ボストンその他の美術館に送り始めていた。
 ここで日本人もはじめて目が覚め、明治十一、二(18789)年ごろ、この世界における先覚者と言われていた佐野常民のち伯爵、塩田真、下條正雄(注・桂谷)の諸氏が、「龍池会」という書画鑑賞会を設立した。そして折にふれて展覧会を開催し、共鳴する人々を集めていった。
 その努力が実り、だんだん世間で美術の鑑賞熱が高まっていった。そこに、ちょうど日清戦争後の景気拡大の勢いが加わり、いろいろなところで美術的な会合が開催されるようになっていった。なかでも一番有力だったのが「大師会」である。
 そもそも大師会は、明治二十四、五(18912)年ごろから書画、茶器を購入しはじめた益田孝男爵が、同二十八(1895)年ごろに狩野探幽が所持していた弘法大師の真蹟の座銘断片十六字の一巻を得て、翌年の三月二十一日大師の命日に、御殿山の自邸においてその披露の会を催したのが発端である。
 それから三十年あまり、この回は連綿として継続し、最初は御殿山の益田邸でのみ開催されていたが、近年では音羽護国寺に場所を移している。毎年四月にその座右銘を本尊として、和漢の仏画、古書画など、だいたい上代の美術品そろえて陳列披露し、全国の愛好家の会員を集めることになった。このため、この会がいろいろな方面の美術鑑賞熱を喚起することになり、同時に、ひとびとの鑑識眼を向上させることになった。そうした効果については決して忘れることはできないのである。

 このころに、また別に「天狗会」という会も発足した。これは近藤廉平、加藤正義、赤星弥之助、朝吹英二、馬越恭平、浅田正文らの同人が、時に茶会的に、時に宴会的に、各家で順番に持ち回りで会を催したのものだった。名器、名幅を陳列して、集まってくる大天狗、小天狗どもを驚かそうという魂胆で、趣向もさまざまだった。
 近藤廉平男爵が牛込の佐内坂邸で開いた会では、鞍馬山というのが大まかな趣向だった。座敷の中に杉の大木でセットを作り、つぎつぎにやってくる大小の天狗が、あぜんとして目を見張っているところに、木の葉天狗の装いできちんと化粧をした者が目八分の高さにお膳を掲げてお給仕に出てきたので、一同、高い鼻を砕かれて、これはこれは、と閉口するばかりだった。
 また明治二十九(1896)年ごろから「二二会」という会も発足した。これは、会員の各自がすこしずつ書画や骨董を持ち寄り入札をする。そして、二番札の者に賞与を与え、最低額の者には罰金を課すというものだった。日本橋区浜町の常磐屋、京橋築地河岸の壽美屋などに会合したのは、鳥尾小太、富永冬樹、馬越恭平、赤星弥之助、加藤正義、近藤廉平、浅田正文、益田英作、朝吹英二の顔ぶれであった。

 私は当時、三井呉服店の理事で、仕事上の関係もあったため毎回これらの会合に出席した。あるときは鳥尾小太子爵が出品した仏画を落札し、たいそうお礼を言われたこともあった。
 このころまでは、道具がまだたくさんあったから、会員がなんの気なしに持ち寄った出品物が、後年におおいに出世して数万円の高なることもあった。
 最初のうちは出品が名品揃いだったが、だんだん品位が落ちてきたので、二二会というのは、もともと二十二日に開かれるのでそういう名前がついたのだが、がらくたの荷に、荷が重なる会だ、などという悪評が出てくるようになり、ついには崩壊することになってしまった。
 さて、茶事方面を見てみよう。当時「和敬会」という会があった。会員を十六人と定め、欠員があると補充するという仕組みになっており、別名を十六羅漢会ともいった。この会の主なメンバーは、松浦詮伯爵、東久世通禧伯爵、石黒忠悳子爵、三井八郎次郎男爵、同高保男爵、益田孝男爵、安田善次郎、加藤正義、吉田丹左衛門、馬越恭平、大住清白の諸氏であった。この会は明治中期から大正初期まで続き、東京の著名な茶人はだいたいこの会に加わっていたため、この会が原動力になり茶道の盛運が促進されることになった。その効果は、じっさいのところ非常に大きなものだった。
 このようにして、美術鑑賞熱が高まっていったが、それにともない美術品が非常に値上がりしていった。その顛末については、また後段で取り上げていきたいと思う。


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八十九  下條桂谷画伯(上巻303頁)

 私は、明治時代随一の画伯である下條桂谷(注・げじょうけいこく)翁と明治二十九(1896)年ごろに知り合いになり、翁の人柄に惹かれ、またその画風を愛したので、翁の逝去まで非常にちかしい交際をした。そのため翁について語るべきことも非常に多いが、ここでは初めて会ったころのことを記してみたいと思う。
 翁は米沢藩士で名を正雄といい、桂谷、雲庵などの号がある。絵を描くことが幼いころから好きで、寺子屋に通っているころ読書、習字はほったらかしで、いつも何か絵を描いていた。武士気質の父親がこれを嘆き、懲らしめのために菩提寺の和尚に預けられてしまった。ところがそこでも絵好きの性質が増すばかりで悔い改めるようすもないため、和尚も匙を投げて実家に帰らされてしまった。
 ところが実家が貧乏なので、翁は玩具店の主人に相談して凧の絵を描くことになった。その鯉や金時や雲竜などの絵が抜群にうまいために人目をひき、凧の売り上げが非常に好調だった。そしてその代金収入も上がっていった。

 そこで両親もとうとう折れ、翁に絵画を習わせることにしたのである。十二、三歳のときから同藩の目賀田雲川先生のもとで修行することになった。この雲川先生というのは、米沢の片田舎に住んでいたために世に名が伝わることはなかったが、遺品を実見してみると、筆力雄健、画想高邁で、谷文晁に比肩する腕前を持つ画家だったことがわかる。
 桂谷翁はそのような良き師を得て、少年時代に腕を上げたわけである。翁が後年において、日本絵画の過渡的な時期に、黄河に立つ石柱(原文「中流の砥柱」)のように毅然としてそそり立ち、その見識を保ったのも、このような教えが基礎にあったからである。明治の絵画界は、下條翁を通じて目賀田先生に負うところが少なくなかったと言わねばならない。

 翁は維新の初めに朝廷に召し出され、まず若松軍務監出張所に出仕した。次いで東京に出て、市中取締を命じられた。その後海軍に歴任し貴族院議員となった。このように、中年の時代に官界に身を置いたというのは、翁が世渡りに長け、文筆も立ち、どこに行っても通用したからであった。そのために、本来なら絵画の大作を残すべき二十五歳から五十歳までの二十五年間を、それ以外のことに使ってしまったことは非常に残念ではある。
 このように、翁の絵画は、二十歳前後と、五十歳以降の二十年余りの間に生み出されたものである。安政六年の、翁が十七歳のときに描いたという「趙盾図」(注・趙盾(ちょうとん)は、晋の政治家)などは、自分で構図したものではないだろうが、その筆はのびのびとして、ぎこちなさは感じられず、趙盾の着物を描くしなやかな細い線は、後年の老熟の域に達したときの翁の作品を見ているようである。これが十七歳の手になるものかと思うと、いよいよその天才には敬服せざるを得ない。
 下條翁の師である目賀田雲川先生は狩野派の画家であった。その見識は高邁で、雪舟のような風格があったということだ。下條翁も師にならい、ひごろから宋、元の筆使いを究めていった。夏圭、馬遠、牧谿、梁楷を総合して自分のものにし、その雄健な筆遣いには限りない味わいがあった。

 図柄については必ずしも新案というわけではなかったが、少年時代から練磨を重ねた筆の力は、その一線一画の中に、すなわちワン・ストロークの中に、なんともいえない風情が見られた。
 画風はというと、宋元、狩野、土佐、四条、あるいは文人画にいたるまで、なんでも来いであった。また特に席画が得意で、とっさに描いた作品のなかに、かえって得難い逸品が含まれていたものだ。
 そのかわりに、ときおり出来のよくないものもあって、同じ人の作品だとは思えないくらいの違いがあることもあったが、傑作のほうを見れば、古今を見ても不朽であると認めざるをえないものが少なくない。
 そもそも、維新後の学問や芸術の各分野において現れたすぐれた人材は、おおくの場合、旧幕時代の遺産であるといえる。そのなかで、名人の域に達している人も多く、ほかのどの時代と比べても、けっして遜色のない多士済々である。しかし絵画の分野だけでは、他の時代に比べて傑出した大家というのが見られなかったようなのだ。
 ためしに明治時代を見渡してみると、その初期における狩野芳崖は、たしかに当時の第一人者ではあったが、しかし稀世の偉才というほどの画家でもない。
 野口幽谷も相当に有名になったが、この人も一国一城の雄であるに過ぎず、天下の才とは言えないだろう。
 橋本雅邦はたしかに大家と称してよい一人であるが、絵の主題に筆の力がついていかないことがあり、言うならば、意余りて技足らざる、の観がなくもない。
 川端玉章にいたっては、その絵と、友禅染のあいだに、どれほどの差があるのかがわからない。
 この際、古今無類の野口小蘋女史がいたことを明治時代の誇りとすべきなのかもしれないのだが、これまた、女流としては無類であったとするしかないのである。
 以上のことから、わたしは下條桂谷翁が、維新後の絵画界における彗星であり、その傑作においては狩野探幽を優に超えるものもあることを断言してはばからないのである。
 残念なことに翁は、はじめ海軍軍人、次いで貴族院議員として政治方面に力を散じてしまったために、画伯として古今に知られるような業績を残さなかった。しかし、明治画檀を席けんした洋画模倣の波にのみこまれることなく毅然として自分の主張するところを守り、東洋伝来の画風で、今日もなお
完全なる地位を保っているのである。これは下條翁が遺した威光であると言っても過言ではあるまい。


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八十八   明治能楽界の三傑(上巻300頁)

 明治時代の能楽界には宝生九郎、梅若実、桜間左陣という三傑がいた。これは演劇界に、菊、左の三優がいたのに相対し、まったく世にもまれな壮観だった。
 宝生九郎は梅若実に比べ人物も気質もやや大まかなところがあった。芸風でいうと、九郎が十郎ならば、実が菊五郎、左陣が左団次だというところか。
 実ももちろん美声で、独特の人をひきつける謡いぶりだったが、九郎は、最高の美声で名高かった。私は彼が明治二十五(1892)年ごろに芝公園内の能楽堂九段の招魂社境内に現存花筐を勤めたのを見たが、揚幕の内側から「いかにあれなる道行人、都への道おしえてたべ」と呼びかけるその声の朗々として満場に響き渡る心地よさが、今でも耳の底に残っているほどだ。
 もともと宝生流には美声家が多く、昔から地宝生といわれている。九郎が地頭(注・地謡の統括者)に座るときには、他流で聞くことができないくらいに地方(注・じかた)が揃っていた。彼は、実が円満な体格であるのに対し痩せて長身だったが、姿勢が整然として、舞ぶりも堂々として舞台を圧倒していた。
 どれかを選ぶとすると、鉢木、景清、高野物狂というような、武張った渋い型が優れていたように思う。芸の名に傷がつかないように芸人的な利欲から離れたところにいた点で、頑固で妥協を知らない古武士のようだった。
 彼はあまり多くの素人弟子を取らなかった。ただプロだけを養成して自流を後世に伝えようとしていた。そうしたところがなんとなく禅宗の僧に似ていた。
  六十一歳のときに安宅を勤めたあと、きっぱり舞台から引退したということも、彼の芸道における意志の固い信念を裏書きしている。
 私は幾度となく九郎と対話する機会を得たが、あるときに九州の安川敬一郎男爵が、山県有朋侯爵を有楽町の三井集会所に招いた席上で九郎が仕舞を舞われたことがあった。その仕舞を見終えた山県公爵は、いかにも整然たる姿勢ではないか、二個の茶碗に水を盛って、彼の双肩に載せておいても、あまりこぼれないだろうと思うがどうだろうと、そばの人に話されていたのを九郎は黙って聞いていたが、その眉間には我が意を得たりの深い満足の様が見えた。
 梅若実は、人となりが非常に怜悧で世渡りたけていた。思慮がすみずみに行き届き、単なる能楽者として群を抜いていただけでなく、何をやってもひとかどの成功を収めるだろうと思われた人だった。
 彼は座談がひじょうにうまく、話が芸道のことになると話の材料が驚くほど豊富で、とうとうと語り続けたものだ。
 あるとき時事新報に談話の連載をしたことがあった。能楽、謡曲について、これまで誰も語らなかったことについて詳しく論じた。この世界を知る参考として当時の人の大きな注目をひいた。

 彼は芸について非常に工夫をこらし、彼によって梅若流の演能に改良を加えられたものが多々ある。とくに、他流の演能では男女の差をあまり緻密に表現せず、たとえば三番目の鬘物(注・五番立ての演能で三番目に演じられる女性がシテの演目)を演じるときも、武張った型になっていたのを、けなげに両足を揃えることにしたり、女物を演じるのにときどき毛ずねが見えていたのを、ももひきをはいて隠したりした。つまり、老若男女や貴賤に応じてそれぞれの性質をあらわすことに苦心したのである。今では他流でもまねするようになった。
  かつて明治天皇の仰せを蒙り、観世流の謡曲本にみずから節付を書き入れてお手元に献納したこともあるそうだ。
 婿養子の清之(注・のちの観世清之)、実子の万三郎、六郎に対して流儀のすべてを伝え、八十二歳の高齢で没する二年前まで舞台に立った。維新後に衰亡の極致にあった能楽界においてその復興に果たした苦心の数々については、また別項を設けて記述することとしたい。
 桜間左膳とは私は深く交際しなかったので、実や九郎と同じようには、その人となりを語ることはできない。しかし芸に忠実で、それが長年にわたり洗練された結果である足さばきはみごとであった。その堅実で渋みのある芸風は他のふたりに実力肩を並べていたと思う。
 私は彼の芸風が好きで、彼の出演する舞台なら、いつでもどこでも参観するようにしていたが、彼は、特に四番目物に秀でていることと、老人物が得意なのが特徴だと言えた。
 晩年、模範的な松風を演じるという評判があったので興味を持って見物に行ったことがあった。しかし老体のため、首が肩の間に落ち込んでいる松風であった。十郎の晩年の道成寺と同じく、いくら名人とはいえ不自然なのは免れないようだった。
 実も晩年に、若手たちに手本を遺すということで、先代の観世銕之丞と蝉丸を演じたことがあったが、よせばいいのに、と思われたものだった。
 その点で、九郎はその名に傷をつけぬようにと、還暦後に舞台に立たなかったのは、ひとつの見識というものであろう。
 私は自分が明治時代に生まれあわせ、演劇界の菊左とともに能楽界の三傑を目撃することができ、芸術鑑賞のうえで非常に幸福なことだったと思うのである。


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八十七   梅若流稽古 (上巻296頁)

 私は、自分が梅若流の謡曲稽古し始めたのがいつだったかということをはっきりとは覚えていなかった。最近別の用があって梅若六郎氏を訪問したついでに、そのことを話してみたところ、六郎氏は、父上、実翁の直筆の門入帳を出して見せてくれた。その記録によると私のは、明治二十八年十月二十八日三井支配人高橋義雄とあった。
 この門入帳を最初から見てみると、明治十三(1880)年に益田孝、三井八郎次郎(注・松籟三井高弘)、十四年に古市公威、鳩山和夫、十六年に団琢磨、十七年に馬越恭平が入門している。それには驚かなかったが、十四年三月二十三日に元老院権大書記官金子堅太郎とあったのが意外だった。
 その後偶然に金子子爵に面会することがありこのことについてきいてみると、子爵は今昔の感にたえないという面持ちで次のようなことを語ってくれた。

 当時は能楽界が悲惨きわまりない窮状を示しており、厩橋の梅若能楽堂の一部を借家にでもしないと家計もまかなえない状態にあったが、「たとえ道端で謡を謡うことになるとしても、能楽堂を手放すことだけは祖先に対して申し訳が立たないという翁の嘆息をきいて同情にたえかね、ひと月にいくらあればよろしいのかと訊くと、三十円で足りるというならばわれわれが門弟になって、それに相応する月謝を提供しようということになった。僕は自宅に来てもらい、ほかの人たちは九段下の玉泉堂を稽古場にして出稽古をしてもらったのだ、ということだった。
  さて私が梅若流の稽古を始めたのは、前述のとおり明治二十八(1895)年からだった。(注・73「謡曲稽古の発端」を参照のこと二十六年の大阪滞在中に宝生流の謡曲と仕舞を習い始め師匠はそのとき大阪にいた名古屋人で、木村治一という六十歳前後の老人であった。この老人はすこぶる美声で相当な能楽の心得があったので、謡曲とともに仕舞も教授していた。

 当時まだ二十代だった、木村の息子の安吉は、以前に宝生九郎の内弟子になり、今の松本長、野口政吉らと同輩であったが、怠け者で師匠のところにいることができず、やがて老父のもとに戻ってきた。私は老父の依頼で安吉を一時三井銀行に採用してやったが、私が大阪を去ったのち今度は東京に舞い戻り、ほどなくして若死にしてしまったという。
 このように私は最初に宝生流を習ったが、明治二十八(1895)年の東京移住後には三井の主家では全員が観世流なので、わたしもさっそく改宗することになった。そのころ神田小川町に住んでいた観世清廉のところに入門した。
 そのころの清廉は三十歳くらいだったであろうか、とてもよい声で、厩橋の梅若舞台にも出演することがあったが、もともと自由気ままな性格で、能役者としての作法を守ることがなく、女房と雑談しながら、ときどき振り向いて謡曲を教授するといった不謹慎さがあった。それで私は二、三度稽古に行き、班女一番を習っただけで、弟子のほうから破門ということにしてしまった。

 そして今度は観世清之のところへ行った。この人はすこししゃがれ声で渋味のある芸風だった。梅若実の婿養子であり、万太郎、六郎がまだ生まれる前には実の片腕となって働いていたそうだ。しかし私が行ったころには梅若家を離れ、元の観世姓に戻っていた。その晩年には謡曲本を発行し、この世界における功労者であったとのことだ。
 私は明治二十八(1895)年に東京に戻ってからは、麹町上二番町四十二番地の、加藤弘之氏の隣りに住んでいたので、三井呉服店に出勤する前に隔日くらいで謡曲の稽古をした。あるとき清之が病気し梅若万三郎と六郎が交代で来てくれることになり、進歩もあまり遅いほうではなかった。
 清景を稽古していたころのある日、その日は万三郎が来宅する番の日で、朝食をとるあいだしばらく座敷で待たせておいたことがあった。そして悠々として行ってみると、なんということか、梅若実翁が師匠の風格を示して正面にどっしりと座っていた。私はおおいに恐縮し、清景の「松門ひとり閉じて年月を送り」というところを稽古してもらった。年老いた盲目の清景が孤独の庵の中でひとりごとを言う場面である。その心境の説明後、発声の練習となった。その教授法が丁寧で、かつ徹底していたためか、それからというもの自身で謡っても、または清景の能を見ても、この一段のところに来ると翁の面影が目に浮かび声がはっきりと耳に聞こえる。これが名人の芸力というものなのだろう。
 私の梅若入門は、前述したとおり明治二十八(1895)年の十月だから、翁が来宅されたのは、たぶんその十二月ごろだったのではないか。それは翁が六十八歳のいまだ壮健なときで、私は三十五歳だった。
 その後私は、謡曲とともに仕舞も稽古し、さらに、猩々をはじめ、花筐、弱法師、三井寺、弦上、百萬、松虫、鉢木、盛久、俊寛、隅田川などの演能を試みた。そのときのことについては、また追って記述することにしたい。
 


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八十六   明治中期の芸人(下)(上巻293頁)

  明治中期の東都(注・東京)音曲会の第一人者といわれたのは常磐津の林中である。彼は常磐津の家元と喧嘩してしばらく盛岡に引っ込んでいたが、明治の中期にふたたび東京に舞い戻り、その豊富な声量と巧妙な節回しで、たしかに群を抜いていた。
 ある年に彼が歌舞伎座で「関の扉」を語ったことがある。そのとき私は、関兵衛をつとめた十郎に向かって林中の地語りは、君の所作と科白に相応して寸分の隙もなく、ほとんど一人の人がやっているようで、実に驚くべき技能ではないかと称賛したことがあった。すると団十郎は「仰せのとおり、よく語りますよ、まず現今、語り物では、西に越路太夫のちの摂津大掾】(注・竹本摂津大掾)、東に林中でありましょう」と答えた。
 林中は生粋の江戸芸人肌の持ち主で、大酒をたしなみ、座敷に呼ばれて芸が上手にできたときには相棒を引き連れて一晩喜んで飲み明かし、反対に芸のできが悪ければ、やけ酒を飲んで胸のうっぷんを晴らす、というふうで、いわゆる宵越しの銭は持たぬという江戸っ子であった。年がら年じゅう貧乏でも平気だった。

 当時は林中が最高給だった。それでも、お座敷が一席につき三十円くらいのものだったので、配下の太夫たちにも貧乏人が多かった。芝居に出演していた一座の人たちが、あるとき林中に給金を五円あげてもらいたいと言い出したことがあった。林中はこれをきいて、よしよし、望み通り上げてやるが、そのかわり五円分よく語ってくれるか、と言われたので、その人たちは二の句が継げなかったとのことだ。
 清元では、四代目の延寿太夫が美声ではあったが名人という域には達していないように思われた。しかしその妻、お葉は、清元を流行させた太兵衛と称する第二世延寿太夫の娘で、女流ながら実に稀代の名人だった。
 お葉は、先代の清元梅吉を相手に清元を上品に唄い出した。女流のため、劇場で語ることはないかわりにお座敷で演じた。金屏風をうしろに立てまわし、きわめて上品に語り始めたのはこのお葉が最初であり、それを継承したのが五代延寿太夫の妻、お若だった。
 お葉は喉がよかっただけでなく、その語り口にもおおいに研究を重ねた。たとえば、山姥の山巡りの段の「桃は気ままに山吹も」という甲高く派手なところでは、湯を飲むようにサラサラと語る。そして、かえって人があまり注意を向けないような「つくろう花のあだ桜」というあたりでは、なんとも言えない妙味をたたえて玄人たちを感服させるのであった。お若は、実は私の師匠で、そのことについては後述するつもり(注・139「清元師匠お若」を参照のこと)なのでここでは省略する。

 河東節の家元であった山彦秀次郎(注・山彦秀翁、11代十寸見河東ますみかとう)も私の師匠であったので、ひとこと言っておこう。彼は一種の奇人だった。ものごとに無頓着であることこの上なく、しかも近眼であわて者(原文「粗忽者」)でもあったから数多くの滑稽談を残している。せっかちな男だったので、新橋あたりを稽古で回るときも、弟子の前に座って帽子も取らずに尻端折り(注・しりはしょり)のままで稽古を済ませると、フイと立って次の家に行ってしまうという不精さだった。

 私の四谷伝馬町の家に稽古に来たある時のことだ。帰りがけに汁粉を出したところ、その膳に箸がなく、女中が箸を持ってくるまで待ちきれず、かたわらの火鉢にあった火箸を取って、これを食い終わるや、そうそうに立ち去ってしまったこともあった。
 彼の才能は唄よりもむしろ三味線のほうにあった。掛け声が遠くまで力強く響き渡っていたことがいまでも人の記憶に残っている。
 さて関西方面では竹本摂津大掾、すなわちもとの越路太夫が、先代津太夫(注・三代目竹本津太夫)とともに名人の域に達していた。津太夫は非常にききとりにくい声で、最初はほとんどきこえないのだが、しばらく我慢してきいているうちにだんだん妙味を感じるという芸風だった。これに対し摂津大掾は、古今に例を見ない美声の持ち主で、詞からいつのまにか節に移っていくときの、その息が長かった。節回しも自由自在で、それに魅了されない者はなかった。
 明治二十八(1895)年の夏だったと思うが、私が有馬温泉に滞在したとき彼も同宿で、十日ほどのあいだ毎日のようにおしゃべりをしたことがある。彼はそれほど大柄ではなく、やや浅黒く、顔のパーツ(原文「顔の道具」)がよく整っていた。眉毛が太くて黒いのが特徴で、しゃべり方は重々しいが、故人の芸談などを思い出すままにポツリポツリと語るところをきくと、さすがに一流の重鎮であると思われた。

 彼よりちょっと年上の女房が、赤子を扱うかのように彼の身の回りの一切を世話し、彼には金銭的なことには一切関わらせず芸道一筋に全力を打ち込めるようにしたそうで、彼は、少し前までの大名のように悠然としていかにも上品な物腰であった。

 彼の稀代の至芸はもちろん彼の天分によるものであるが、環境もまた、その大成を助けたということができよう。そうだとすれば、これから先、彼のような名人が生まれることはきわめて難しいことだろうと思うのである。


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八十五   明治中期の芸人(上)(上巻290頁)

 市川十郎についてはすでに少しばかり語った(注・38・下村と団十郎75・九代目団十郎などを参照のこと)が、彼の全盛時代には演劇、講談、落語家などに稀代の名人が輩出し、じつに一時の盛観だった。これらの芸人は、もちろん一朝一夕に生まれたのではない。徳川時代からの伝統を受けて師弟間に継承してきたものが、このときにいたって発現したわけで、徳川時代の名残とでもいうべきものなのだ。世の中が世知辛くなり芸術の領域にパンの問題がつきまとうようになると、このような芸人を見ることは容易ではなくなるだろう。
 芸人といっても大勢いるので、私は、明治二十四、五(18912)年ごろからの十数年間の、自分でも交流があって、その芸の力を知っている芸人だけについて多少の所感を書き残しておこうと思う。
 まず俳優であるが、十郎を除くと五代目菊五郎を第一に挙げなければならない。私は彼とは友人の家で二、三回同席したことがあるだけで、ふだんのことをあまり知らない。しかし彼は十郎と違って如才なく、人の持ち物をほめて喜ばせたりする巧みさを持っていた。また座談がうまく得意の芸談を披露するのが好きだった。

 芸にかけては苦心惨憺して、徹底的に自分の満足するところまで到達するのが彼の性癖だった。彼ほど芸に凝った俳優は近代にはほとんどいなかったのではないか。彼が十郎と肩を並べたのもそのためだったろう。
 当時、世間では菊左といって、市川左団次も併せてこう称した。ただ、いかに左団次が、押し出しもよろし、調子もよろしのさっぱりした芸風で、丸橋忠弥や高野長英を演じるとき、こせこせせずにまことに清々しい気分があったからといっても、、菊には一歩譲らざるを得なかったのは事実だ。しかしまあ、三人三様の特色があるということで、こう並び称したのであろう。
 私などは、とかく故人を褒めるようでいけないが、この三人の俳優の全盛時代を見ているため、幸か不幸か、その後の歌舞伎役者を見ても眼中に残っている、菊、左と比べてしまいどうしても彼らに匹敵するような会心の至芸を見ることができない。思うに、彼らは、徳川時代から伝わってきた歌舞伎役者の最終幕を飾ったのだと言い切ってよかろう。
 明治中期の芸人のなかでわたしがいちばん傾倒したのは、人情話では三遊亭円朝、講談では桃川如燕と松林柏円、常磐津では林中、清元ではお葉であった。

 円朝は若いころ、赤い襦袢を来て寄席の壇上で踊りを踊ったこともあったそうだが、中年以降は自ら人情話を組み立て、自己の工夫によって老若貴賤の男女の声色を使い分ける巧みな技で、きく人の喜怒哀楽をそそり大きな感動を呼んだ。彼のやった塩原多助、牡丹灯籠、荻江露友などの人情話は芝居にまでなり、菊左が演じたことさえあった。
 彼はおりおりに地方を旅行して、こまかに田舎の情景を観察した。そして、茶店の老婆の言動やその店に並べてあった駄菓子の種類までを、ことごとく出し物の中に織り込むので、実際の情景を見ているように切々と人を感動させたのである。
 ある時五代目菊五郎が塩原多助を演じたとき、その芝居と円朝の話のどちらが面白いかと私に質問した人がいた。私は、むろん話のほうが面白いと答えた。なぜかといえば、芝居では、多助だけが菊五郎で、そのほかはみなそれ以下の役者だが、円朝の話では登場人物の全員を円朝ひとりでやるのだから。
 井上馨侯爵も円朝びいきでよく彼を呼びよせられたので私も幾度となく同席したが、彼は茶人でもあり、所持品の中には後年に入札市場で高価に売れたものもあった。そんなことからもただの平凡な芸人ではなかったということがわかる。
 円朝はスラリとしたやせ形の男だったが、桃川如燕は引退した力士のようにデクデクと太った大入道だった。得意の水戸黄門仁政録などを演じるときは野太い声で堂々と語り続け、万座を圧倒する力量があった。

 明治二十六(1893)年ごろ、大阪の外山修造氏が、中之島に建てた新宅披露に彼をわざわざ東京から呼び寄せたことがあった。そのころが如燕の全盛時代で、彼は大阪行きの条件として身のまわりの世話をする若い女性をつけるように言ったそうだ。そのいかに気力旺盛であったかがうかがえる。
 松林伯円は色が黒く、頬骨が高く、しかも頑丈な骨格で、よく泥棒の話題を演じたので「泥棒伯円」とあだ名されていた。容貌もまた、人殺しでもしそうな険悪さだった。だみ声で、最初は聞き苦しく思えるのだが、だんだん演じ進むにしたがって顔色と声があいまって、いかにもものすごい感じを起こさせた。これは彼独特の芸の力だった。


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八十四   助六の古式(上巻286頁)

 平岡吟舟翁が平岡大尽と呼ばれるようになったのは、江戸気分がたっぷりで、文化文政のころ(注・文化180418、文政181831の江戸で大通ぶりを見せた浅草札差旦那のように、みずから作詩、作曲、振付までやり、新柳二橋(注・新橋と柳橋の花柳界)の茶屋という茶屋で何年にもわたり遊興し、自作の新曲を謡わせ舞わせるということがあったからでもあろう。しかし大尽の名に一番ふさわしかったのが次の一事である。
 九代目市川十郎が歌舞伎座で助六を演じたときのことである。文化年間に、抱一上人(注・酒井抱一)がみずから興行を行ったと言い伝えられている古式にならい、助六地方(注・じかた)河東節連中を繰り出させたのである。抱一上人は姫路酒井家の次男ながら、大名家の窮屈さを嫌い、浄土真宗の僧籍にはいり、上手に琳派の絵を描くかたわら河東節も好んでいた。

 文化年間に助六の興行があったとき、自画の牡丹の花を表紙にした助六の歌本を発行し、谷文晁といっしょに、真ん中が助六、左右に富士山と筑波山という三幅対を寄せ合い描きした。その幅はいまでも好事家の手元に残り当時の豪勢ぶりを伝えている。
 明治二十九(1896)年の助六には、当時の古式をそのままに採用するというので、その手始めが、十郎から平岡の旦那に河東節御連中の依頼状を送る、というものだった。連中会場として歌舞伎座の茶屋、三洲家を使い、その二階に陣取っている吟舟翁のもとに、助六芝居の頭取である八がその依頼状を持参する。するとそこで吟舟翁が「願是通聞届候(注・願いの通り聞き届けそうろう)」という指令を発するという、まことに豪勢な威光を示したのである。
 こうして平岡の選抜した、いわゆる河東節連中には、三味線方の河東節家元、山彦秀次郎をタテとして、そのほかに婦人が二名、地語りは芳村伊十郎、都魚中、清元弥生太夫、清元魚見太夫など。それに素人連中として、のろま人形頭取の三富、浜町の小常盤主人の依田らが加わった。

 指物師の浪花家も三洲家に陣取り、興行中には連日、抹茶のお点前を引き受けることになった。
 また総ざらいは築地の瓢家で行った。連中それぞれの語り場所をすべて吟舟翁が指示し、いよいよ万端の準備が整った。
 この連中一同には、魚葉牡丹(注・杏葉牡丹、ぎょようぼたんのことか。杏葉牡丹は、助六で用いる成田屋の替え紋)の紋付に、金色とお納戸色の市松模様の帯を配り、楽屋入りのときには高さ四寸(注・約12センチ)の草履をはかせた。
 ここまで古式そのままを採用したのは、このときの狂言が最後だったと思われる。これまた江戸気分の最後の名残りだった。
 このときの歌舞伎座の座主は田村成義で、二番目狂言では、五代目菊五郎が斗々屋の茶碗(注・三題噺魚屋茶碗)を出した。福地桜痴居士がその摺り物の讃を書いたのに対して、吟舟翁は十郎に次のような新作の端唄を贈った。

 春霞たつや名に負ふ江戸桜、だてな姿に鉢巻を、すぎし頃より待ちわびし、甲斐ありておちこちに、噂もよしやよし原に、思ひそめたる仲の町、箱提灯も色めきて、ぬしのゑがほを三升うれしさ


富永の毒舌(上巻288頁)

 富永冬樹氏は旧幕府旗本の家系で、この人もまた生粋の江戸っ子だった。明治四(1871)年に平岡吟舟と同船でアメリカに渡り帰国後は長年裁判官を勤めていた。一族には、東京高等商業学校の初代校長で銅像もできている令弟の矢野次郎(注・二郎とも)氏があり、令妹は、内助の功の多かった益田孝男爵夫人(注・益田栄子)である。みな江戸前の才子肌で、口から生まれたような人間だったが、なかでも富永氏は皮肉な批評の名人で、すこし毒を含んでいるのだがあとあとまで話のたねになる名言が多かった。
 明治三十(1897)年私が麹町区一番町に住んでいたとき、隣家の米倉一平氏を見舞っての帰り道に私の家に寄られたことがあった。そのときも、まじめな顔をして私に、今、米倉を見舞ってきたが、からだじゅうに毒気が回っているので、蛭を掛けてもその蛭がみなポロポロと落ちてしまう、ところでその蛭を顕微鏡で覗いてみたら、みな鼻をつまんでいたそうだ、と言って、からからと笑われた。
 また、大江卓、加藤正義、近藤廉平、益田克徳などという連中が、自宅で一品持ち寄りの会を順番にやっていたことがあったが、あるとき木挽町の梅浦精一氏の会に出席した富永氏は声をひそめて私たちに向かい、「梅浦の家の玄関には、なにやら仏像が一体飾ってあるが、その印の結び方がどうも変だ。右の手は親指と人差し指で丸を作り、左のほうは手のひらを前に差し出しているので、なんとやら、丸をくれろと言っているようだが、君たちはどう思うね」と言い終わるや、微苦笑を洩らされた。ほかにも、富永氏には数々の名言があるが、この二例は富永流の毒舌として、もっとも有名なものであった。
 


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八十三  江戸気分の名残(上巻283頁)

 吉原謳歌の名残りが維新後に薄れてゆき明治中期についに失われたのと時を同じくして、江戸気分もいつとはなく運命を共にして消散してしまった。
 吉原謳歌の末尾に線香花火のような光彩を添えたのが川田小一郎男爵であるとすれば、江戸気分の名残りに江戸っ子然とした景気を示したのが、そのころ平岡大尽と言いはやされた吟舟翁だった。川田氏については前にすでに記した(注・
66「吉原謳歌の名残」を参照のこと)ので、今度は平岡大尽について物語ることにしよう。

 平岡吟舟翁は、名は熈(注・ひろし)、江児庵と称し、号は吟舟。先祖代々の幕府御家人で生粋の江戸気分を持って生まれた人物である。聞くところによると平岡の祖先は河内国の出で、同国に平岡大明神という神社があるのでそれを姓にしたという。初代は庄左衛門といい、徳川家康の江戸入国のお供をしてきたということで、代々御庭番を勤めた。大崎に賜った地所は今の池田侯爵の邸内で、そのあたりは字平岡といっていたそうだ。幕府の制度で御庭番というのは十五俵十人扶持、帯刀御免の御家人で、身分は決して高くないが将軍の命によって諸国の藩情を偵察する役目が与えられていて、将軍がお庭を散歩するとき、じきじきにお目にかかり秘密情報を差し上げることができるという一種の特権を持っていたという。

 この庄左衛門から十二代目が、平岡熈一、すなわち翁の実父であり、翁はその一字を取って、その名とした。熈一翁は後年、田安中納言(注・亀之助、のちの徳川家達)の家老となり、慶応四(1868)年三月に中納言(注・当時満4歳)が主任となって江戸城を西郷隆盛に引き渡すときに、一切の用務を処理したのである。そのほか、上野に立てこもった彰義隊に時勢を説いて退散を勧めたり、上野の大混乱の際に輪王寺宮に対してさまざまなお世話を申し上げたりした。そのために維新後は同宮より、尾張徳川家が献上した大金灯籠一対を賜ったというようなこともあった。
 さて吟舟翁は、明治四(1871)年十六歳(注・満14歳)のときに、当時アメリカ公使として赴任した森有礼のち子爵氏と同船して渡米した(注・じっさいには森に半年遅れて出発)。サンフランシスコに到着したときに、浮きドックの上を汽車が走っているのを見て、まだ少年だった脳天に大きなショックを受け、後年、鉄道機関車の車両製造に従事することになったという。渡米後はボストンに行き、小学校から高等学校に進んだ。のワシントン大統領の誕生日に、校長から何かワシントンを礼讃する演説をするようにと命じられたとき、僕は日本人だからワシントンを褒めることは真っ平ごめんだと断ったので校長から大目玉を食らい、ここぞとさっそく学校を飛び出して、キンクリ―という機関車製造所にはいることになった。

 そこで一職工として三年間勉強しているあいだに、ホワイト・マウンテンという高山に汽車を走らせるという計画が起こった。そのときには翁機関車を工夫して、ニューハンプシャー機関車製造会社社長からほめられたそうだ。

 少年時代から英語が達者だったので、明治四(1871)年の末に岩倉大使の一行が渡米されたときには英語通弁方に雇われ木戸孝允侯爵の通訳を勤めて、教育制度を取り調べたこともあった。大久保利通、伊藤博文らの大家たちと知り合いになったのもこのときのことであったという。
 また翁が明治十(1877)年に帰国したときには、日本に初めてベースボールを輸入した。そのときの工部卿だった伊藤公爵の推薦で工部省三等出仕に任命されると、同省の官舎で周囲の人にベースボールを教えはじめ、同僚たちにユニフォームを着せて、はじめてひとつのチームを作った。そのときはまだヘルメットやマスク、プロテクター、グラブを使わず、素面、素手でやっていたので、競技中にあやまって右の小指を骨折したことがあり、それがいまでも当時の記念だそうだ。
 その後、日本でベースボールのチームができたということで、その写真をアメリカに送った。すると先方から、今度はじめてベースボール用のマスクやグラブ類ができたといって、わざわざ何組かを送ってくれたそうで、それを慶應義塾その他の学校に寄付したそうだ。このように、日本に最初にベースボールを輸入したのは平岡翁なのである。
 平岡翁は本業が汽車の車両製造で、明治二十(1887)年、砲兵工廠の一部を借り受け車両製造を始めた。ほどなく日清戦争が勃発した(注・1894年)ので、さらに軍器製造にも従事した。木工、鉄工、鍛工を指揮して、職工たちには一切の外出を禁止し、かたく軍器の秘密を保ち製作に極力従事したので、陸軍省から特にその功労を賞されたという。

 すでに本所に車両会社工場を始めていて、最初は組合事業だったが、その後独立の平岡工場を経営し、大尽と呼ばれるまでに茶屋遊びにふけりながら工場への指図も抜け目なく行き届いているので、あるとき渋沢栄一子爵が、平岡は夜中にでも工場に出向いて仕事の指図をするのであろうか、と言っておられた。
 当時の工場は非常に利益が上がり、翁は伝統的な音曲の世界で天才的才能を発揮し、歌詞を作り、節付けをし、振付けまでするという三面六臂の働きをした。その江戸っ子気質と、金離れのよさと、芸術趣味が豊かなことがあいまって、平岡大尽の名が喧伝されることになったのである。 
 


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 八十二 
生兵法の側杖
(上巻279
頁)

 明治二十八、九(18956)年ごろから私は、仕事上のことがらで朝吹柴庵英二とたびたび会う機会がふえた。用件以外でも、私と柴庵は、たがいに道具道楽の駆け出しの意気盛んなで、寄ると触わるとしまいには道具の話でしめくくるのが常だった。
 柴庵はもともと頭もよく世渡りもうまい人だったので、明治十(1877)年前後に紳商のあいだで花がるた(注・花札)がはやった時には、いちはやく練習を積みたちまちその道の達人となった今度、三井財閥の一員になってみると主人も番頭もみな美術好きである。ならばさっそくこの道を研究しなくてなるまいという気持ちも強かったのかもしれないが、とにかく熱心に道具漁りを始めた。
 そういうところが私と一致し、日曜日になると本町の田澤静雲という道具屋に押しかけたりした。そこで最初に目をつけたのは応挙筆の松鶴図六枚折屏風一双だった。当時ひとりで買うにはあまりにも荷が重すぎるのでふたりで共有にしたのだが、これが偽物とわかったことがあった。だがこれですっかりへこたれるかと思いきや、ふたりともより一層熱心になっていったのである。

 明治三十(1897)年ごろには、ふたりとももうひとかどの鑑定家になったつもりでいた。
 さて、その二、三年前から三井鉱山会社の理事になり赤坂丹後町に住んでいた団琢磨氏
のち男爵が、遅れ馳せながら美術に関心を持ったらしい。われわれから見れば最近田舎から出てきた後進で、美術品の鑑識にかけてはわれわれはふたりともはるかに大先輩であると信じていた。

 団氏が、われわれに多少はお世辞のつもりだったのか、何かおもしろい絵画があったら僕にも知らせてほしいと言われたので、ちょうどそのころ大阪のある道具商が持ってきた宋の李迪(注・りてき)筆だったと記憶している】の山水中鷺図の二幅対が最近ではあまり見ない珍品だということでふたりの鑑定が一致したので、これを団氏に勧めることにした。
 団氏は両先輩の保証付きということで一も二もなくこれを買うことにした。ところがそれから二、三か月して大阪から続々と怪しげな宋、元の絵画が到来し、あちこちでわれわれの目に触れることになった。よくよく考えてみれば、このまえ団氏に勧めた品もやはりこの手のものなのである。柴庵と私はこっそりと顔を見合わせ非常に恐縮したものの、先輩大鑑定家としての手前、団氏に対してかくかくしかじかと打ち明けるわけにもいかないのであった。
 ふたりはしっかり口をつぐみ、団氏もこのことについては一言も語らず、最近までは三人以外にこのこと知る者はなかったのであるが、柴庵翁もすでに亡くなり、団男爵も不慮の兇変にたおれ、今は私ひとりだけが残ったから、このほど団男爵に関する座談会の席ではじめてこの話を披露したところだ狸庵(注・団琢磨)、柴庵(注・朝吹英二)の両老は、はたして地下で、どんな思いをされているだろうか。
 


道具の虎の巻
(上巻281
頁)

 朝吹柴庵翁が美術鑑定において、のちのちまでの語り草になるような数々の逸話を残したことはけっして偶然ではないのである。前項に記した宋画の偽物をあっせんしてしまったことも一層の研究意欲をかきたてたのであろうか、そのころから、私をはじめとする親しい友人にも一切無言で、両国橋近くの薬研堀の一角に住んでいた小川元蔵という道具商のところに出かけて研究に励むようになった。

 まるで張良が黄石公から兵書の六韜三略を伝授されたように柴庵は元蔵から道具鑑定の虎の巻を伝授されたのである。かたや橋、かたや両国橋の違いはあったが、その熱心さはなんら変わるところがなかった。

 この道具商の元蔵は姓を小川といい、通称は道元として知られ江戸っ子気性の強い人物だった。維新前には金座の誉田源左衛門のひいきを受けたが、その理由が普通ではない。浅草の道具市で、祥瑞沓鉢しょんずいくつはちの糶売(注・ちょうばい。競り売り)があったとき、売り手が五十両と言ったのを遠くから見ていた道元が、よしきたと競り落とし、やがてこれを手にすると、「なんのこんな偽物が…」と言うやいなや、大地にたたきつけて壊してしまった。それをひそかに見ていた誉田が気に入り、道元はそれから同家の出入りの道具商になったという経歴を持つのである。明治の初めには岩崎弥之助男爵の愛顧も受け、男爵は彼の鑑定を受けてから茶器を買ったので所蔵品には名品が多いと言われている。
 柴庵はそのような老道具商を見込んだのである。暇さえあれば同店に入りびたり、道元の講釈をきいた。そのうえ、柴庵は友人のあいだでも有名なほど記憶力がいいので、道元からきいた講釈を後日ほうぼうの茶会で実地に応用し、しばしば友人を驚かせたものだ。

 そのいちばん有名なのが、益田鈍翁【孝男爵の茶会でのことだった。その茶会で丹波焼の茶碗を出されたとき、柴庵は一見して、これは有名鬼ヶ城にちがいない、と鑑定した。鈍翁は非常に驚き、君はいかにしてそのようなことを知っているのかと尋ねると、これは前に道元に聴いたのであるが、丹波焼には、鬼ヶ城という頑丈な造りの名物茶碗が一点あるだけだということだったので、きっとそれに違いないと鑑定したのだといい、非常な名誉を博したのである。
 このような類の名誉談はいまでも友人のあいだに語り伝えられているから、またのちほどに追い追い披露させてもらうことにしよう。


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八十一  渡辺の鬼の腕(上巻275頁)

 渡辺(注・わたなべき、わたなべすすむ)氏は信州松代の出身で、明治のはじめに検事総長になり大久保利通卿の信任を得て飛ぶ鳥を落とす勢いを示していた。先代の安田善次郎氏と懇意で金銭的にも余裕があったようで、明治十二、三(187980)年ごろの茶道具買入れだった。茶道の宗流の大宗匠を気取り、骨ばったやせ形で精悍なようすが顔にも現れ、傲慢に人の上に立つというふうだった。
 取り巻きのひとりだった先々代の古筆了仲などは「御前(注・ごぜん)が当代の豊太閤ならば、拙は表向き、利休でげしょう」と持ち上げ、どこの茶会でも無条件に正客になるという豪勢ぶりだった。

 そういう渡辺に、いまに伝えられているふたつの逸話がある。
 ひとつは、彼が明治十三(1880)年に報知新聞社長の小西義敬の茶会に臨席したときのことだ。いつものように正客の座に着き、主人が、呉須赤絵四方入よういり椿という、ふたの四隅が内側に入り込んで、甲に椿の赤絵のある香合を取り出した。それを見た渡辺がすかさず、ぐっと反り身になって一同を見渡し、「諸君、これは呉須赤絵四方入よもにゅう椿という香合で、いたって稀なるものであるから、とくと見ておかるるがよろしい」と、ものしり顔に説明した。それを末座できいていた道具商の梅澤安蔵は吹き出したいのを我慢して、その場はことなく終わったが、そのあとたちまちうわさを流した。いつも憎らしいと思っている渡辺のことなので茶人どもはおおいに喜び、このときから渡辺のことを「よもにゅう先生」と呼んだそうだ。(注・「四方入」は、「よほういり」と呼ばれるようだ。通は、音をつづめて「よういり」と呼んだものか。https://www.gotoh-museum.or.jp/collection/col_05/02087_001.html )

 もう一つの話は、同じころに安田松翁【善次郎】の茶会に臨んだときのことだ。主人である翁が、当時の二百円で買いたてのほやほやだった染付張鼈甲牛の香合を一覧にいれた。すると渡辺は、主人とはとりわけ親しい間柄ということもあり、またいつものように悪態をつき、「ご主人、この香合は偽物だよ」と言い放った。それをきいた安田翁は静かに香合を取り戻し「さらばこの香合めが、ふたたび人を化かさぬよう、私が成敗いたします」と言うやいなや膝の下に敷き、粉々に打ち砕いてしまったそうだ。

 渡辺は前述したとおり明治初期における新進茶人の巨頭で茶器の大口購入者だったので、しぜんと名器を見せに行く者も多かったのだろう。明治十九(1886)年ごろ、小堀宗中の家に伝わった、いわゆる「遠州蔵帳(注・えんしゅうくらちょう)」の二つの長持を買い取った。

 そもそも小堀遠州の家は、五代目(注・じっさいには六代)の政方(注・まさみち)が伏見奉行の失敗(注・御用金を不正に着服)で、一時、闕所(注・けっしょ。領地財産を没収される刑)になっていた。(注・天明八(1788)年のこと

 それが、天保年間(注・じっさいには文政十一(1828)年に、政方甥の政優(注・まさやす)宗中の時代に幕府の旗本に召し出されてその時に伝家の名器も返還された。これがいわゆる遠州蔵帳品であった。
 渡辺はこの二長持を四千円で譲り受けたのである。そのときの気焔といったら、先祖の渡辺の綱が、羅生門の鬼の腕を斬り落としたのと同じくらいのすごさであった。このときから宗流を遠州流に改め、茶器収蔵家として世間を下に見おろす勢いを見せたものだった。

 さて明治二十九(1896)年、彼の臨終の間際になり、道具商の梅澤安蔵、池田江村が札元になり、星ヶ岡茶寮においてその蔵器の一部を売却することになった。その価格はまだ非常に安く、私の記憶するところでは次のような落札品が見られた。

 一、清拙禅師筆平心二大字    金弐千円
 一、牧谿筆青黄牛        金壱千参百円

 一、古銅雲耳花入        金五百余円
 一、雪舟筆竹に雀竪幅      金五百余円
 一、土佐光信下絵蘆屋霰馬地紋釜 金三百五十円 

これでも明治二十五(1892)年の河村家入札よりは三、四倍は値上がりしたようである。しかし大正中期に比較すると二十分の一にも満たない相場だった。(注・河村家入札については64に記事あり)
 

 この渡辺家入札で、染付大壺に納めてあった有名な初音の香木があり、これが一悶着をおこした。その香木は、大壺と別々に入札するようにと付記してあったのだが、井上馨侯爵が壺と香木を一品とみなして入札してしまった。それで札元と議論になり、最後には井上対渡辺の交渉に持ち越されるという道具界始まって以来の騒動になった。この事件について、札元だった東京の道具商梅澤安蔵はこのように語っている。
 「渡辺さんの道具売立は明治二十九年で、このなかに小堀遠州が秘蔵していた初音の香木がありました。この香木は藤四郎(注・瀬戸焼開祖)作の瀬戸水指の中に入れ、その香気の失せざるよう、さらにこれを染付の大に納めておきましたので、入札の際、染付大壺と香木入り水指を別々にし、香木に千六百円の止札(注・最低希望価格)を入れておいたところ、井上侯が染付大壺を七百円ばかりで落札し、香木もその中に含んでいるはずだと言い張るので、札元はその事由を弁明し、いかに井上侯のご請求でも、これに応ずるわけにはいかぬと跳び付くれば、侯は烈火のごとくに怒って、ここに大悶着が起こったのである。このとき益田孝さんが中に立って、調停を試みられたが、話が容易にまとまらず、大に閉口せられましたが、もともと井上侯の言い分が無理なので、ほどふるにしたがって、とうとう泣き寝入りとなり、染付大を札元方に引き取って、ようやくけりがつきましたが、このとき、かの清拙禅師の平心二大字幅を落札した益田さんは、私等にむかい、なにごとも「平心、平心」と言って笑われました云々」
 この渡入札は香木事件で一段と有名になったが、明治中期における唯一の大入札でもあって、維新後のわが国の道具移動史のなかで特筆すべきものであろう。


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八十 千葉勝と紅艶(上巻272頁)

 千葉勝と紅艶(注・益田英作。益田鈍翁の末弟)は、道具の取引における奇人どうしの鉢合わせともいうべきものだった。なかには今日もなお友人のあいだで思い出として残るエピソードがあるので、その最たるものをいくつか紹介してみたい。
 千葉勝五郎というのは、明治の初めから中期まで、先代の守田勘彌の資金提供者として新富座や歌舞伎座での興行を後援した高利貸のことだと思っている人も多いと思うが、じっさいには質屋もしくは金貸しであると同時に、押しも押されぬ相当の茶人でもあった。
 明治十三(
1880
)年ごろの茶道復興の黎明期に、小西義敬、安田善次郎、渡辺驥らと茶を介しての交際があった。
 質屋業で名器の質流れがあるとそれを自分で所蔵したため、おりにふれてこれを使用し、当時においては人が目をみはるような茶会を催したこともあった。
 この人がいっぷう変わっていたのは、質屋、金貸しという極度に俗人的な身分でありながら、あるときには悟りきった禅坊主のような行動がある一方で、金をためることにかけては、いわゆる爪に灯をともすようなやり方をすることだった。塵ひとつといえども無駄にすることはなかったし、奉公人にも非常にやかましくいさめていたということだった。
 金を借りに来る人があると、その望みをき、この人に金を貸すに足る資格があるかどうかを見極めたうえで承諾するのを常をした。

 その試験というのは、口の小さい菓子壺に金平糖をいれお茶といっしょに出す。事情をわきまえた客は絶対に手を出さないが、もしも金平糖をひとつでも食べたが最後、もはやその金貸談判は成立しなかったそうだ。
 また千葉勝は、ふだんよく土蔵にはいって、そのころたくさん流通していた一円紙幣のしわを伸ばすのを楽しみにしていたという。そして、しわを伸ばした紙幣は、ある名器のはいっていた鎌倉時代の蒔絵手箱のなかに積み重ね、それがいっぱいになるとまたその次にとりかかるのを日課としていた。その手箱というのが非常な名器なので、のちにある道具商が譲り受け、今の加藤正治君の先代である加藤正義翁におさめたそうだ。
 またすこし大げさな話をしよう。彼が大病にかかりほとんど死にかけているときに医者が注射をしようとしたところ、彼はむっくりと起き上がり、その注射代はいくらかと尋ねたところそれがあまりにも高いので見合わせてほしいと言い出したそうで、一同唖然として二の句が継げなかったという。
 このようにして彼は一代のあいだに何百万円という財産を積み上げたのであるが、これを継ぐ実子がいない。ある人が彼に向かい、君のように大金を残す場合、後始末について遺言しないのは賢明ではないのではないかと忠告したところ、彼は、いや、この金は私が楽しんだあとのカスなので、死んだあとは誰が取ろうと私は構いません、と平然としていたのだそうだ。
  
以上は千葉勝について、知人のあいだに伝えられているエピソードである。彼は質屋だったので、維新後に二束三文で売買された大名道具の質流れであるとか、今の大善の祖父にあたる当時の東京で一級の目利きだと言われていた道具商から買い入れた道具などを多数所持していた。(注・「今の大善」とは道具商、伊丹元七の子である揚山・伊丹信太郎のことだろう。その祖父とは、元七の父である大和屋・伊丹善蔵、通称大善。伊丹元七は、通称大元[だいもと]と呼ばれた)

 それを見込んだのがかの益田紅艶だ。彼は根っからの道具好きで、若年にもかかわらず名器にかけては大胆不敵な離れ業を演じいつも玄人を驚かせていた。彼は胸にある思いを秘め、へりくだった言葉で千葉勝に近づいた。それから何年にもわたり幾多の名器を譲りうけたのである。
 紅艶もまた一種の変人であり人の気心を非常に鋭く察することができる男だったから、例の金平糖などにはもちろん手をつけたりしなかった。着物もごつごつした木綿ものを着用し、言葉遣いや物腰などすべてにおいて千葉勝の気に入るようにして、ご所蔵のお道具を拝見したいと申し込む。そして、欲しくないものは非常にほめ、是非とも買い取ろうというものは鼻先であしらう、というような虚々実々の駆け引きをくりひろげ、さすがの千葉勝をも煙に巻いて、とうとう紅艶を養子にしたいと言わせるまでに惚れこませることに成功した。
 こうして彼が千葉勝から譲り受けた道具はほとんど数が知れないほどだったが、なかでも伊賀擂座(注・るいざ)花入は、この種類の品のなかでももっとも優秀なもので、紅艶は自分でも天下第一であると言っていた。
 この花入から思いついて、その後伊賀焼の陶器の収集に着手し、茶入、茶碗、水指、建水などのすべてを伊賀揃いにした茶会を催して、客に「伊賀にも」と言わせて感服させた。なんといっても主役にあの擂座花入が控えているのだから、これ以上の伊賀揃えはありえないだろうと思われたものだ。
 この花入は、紅艶が「わが魂」だとも見なしたほどの愛器だったので、相続した弘君もこれを大切に保存して長く家宝として伝えるということだ。
 この花入だけでなく、ほかに千葉と紅艶のあいだに授受のあった名器の数々は、明治中期における道具移動史を語るうえで、けっして軽く見過ごすことができないものであると思う。
 


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 七十九
恋の破産者(上巻270頁)

 益田英作は、長兄に孝男爵、次兄に克徳という大家を持ち、兄弟三人いずれも稀代の数寄者ぞろいである。中でも英作は駄々っ子で稚気に富み、若年のころから奇行が多く、その傑作に至っては人を抱腹絶倒させた。言ってみれば、明治後半から大正初期にかけて朝吹柴庵と負けず劣らずの愛嬌者の双璧であった。
 英作はかつて芝公園に住んでいたので、友人が公園、公園、と呼んだため、その音に因んでみずから紅艶と称した。茶事においてはふたりの兄にすこしおくれて出発したが、趣向においてはむしろ一歩先を行き、奇抜な茶会を催して人を驚かすことが多かった。しかしそのことは後段に譲るとして、はまず、彼が結婚前に起こした恋愛の失敗について一、二のエピソードを物語ることにしよう。
 紅艶は三十前後から非常に肥満し、腹はでっぷり布袋腹、盆の窪(注・首のうしろ)の肉塊は二段になり、色白で顔が紅潮し愛嬌たっぷりの目尻が下がっていた。極度の近眼で、非常なおっちょこちょいな性格のため、よくいろんなものを見間違えてとんでもない滑稽なことをやってしまうことがあった。

 ある実業家の次女を見初めたときには、おりおり彼女を訪問し、西洋風にバラの花などを贈っていい気になっていたのだが、その令嬢が逗子の別荘に避暑中、大雨で交通が途絶したことがあった。その報道を聞き、当時鎌倉にいた紅艶は、まずは逗子にいる令嬢を見舞わなくてはいけないと別荘のそばまで駆けつけたが、あたりは浸水して一面洪水のようになっている。やむをえず衣服を脱ぎ捨て頭上に載せ、真っ裸で洪水のなかを進んでいった。その姿は、布袋和尚の川渡りそのままだった。
 別荘の縁先に立ってこれを眺めていた令嬢は、それがまぎれもなく紅艶だとわかると、オヤと驚いた声を残して障子の内側に逃げ込んだ。その後、紅艶から正式に結婚を申し込まれたとき令嬢は目を伏せて涙ぐみ、「わらわ(注・わたし)は尼になります」と言い出したとのことで、この恋愛はとうとう失敗に終わったのであった。
 もうひとつの失敗は、明治二十九(1896)年の歌舞伎座で十郎が助六を興行したときのことである。新橋烏森の濱野家という茶屋の主婦の養女に、おきんという美少女がいた。まだ歳は十四歳くらいだったのを紅艶が見初め、僕は今からあの娘を自宅に引き取って自分で一切の教育をし、日本において新しい結婚の手本を作ってみせよう、ということで濱野家主婦に頼み込み、とりあえずおきんを浜町の自宅に引き取って懇切丁寧に三拝九拝のごきげんとりをして手なずけるつもりだった。ところがおきんもなかなかのわがまま者で紅艶は大弱りしたという。

 これを、ある江戸っ子の通人が見て、まだそのころまで江戸趣味の名残りで残っていた悪摺(注・あくずり。戯作者や好事家が、事件をネタにしてからかいをこめて流した印刷物)にした。大きな象の形をした紅艶の背中に普賢菩薩のようなハイカラ娘が馬乗りになっている絵の上に「今ぢゃ普賢も開化してザンギリ頭の象に乗る」といれて、硬軟とりどりの各方面にばらまいたので一時期大評判になったものだった。
 この小普賢はいつしか象を置き去りにして、とうとう濱野家に逃げ帰った。それが、後年の日向きん子夫人(注・のちの林きむ子)なのである。
 しかしながら、紅艶が最後には駒子夫人を得てかえって恋の大成功者になったということは、ここで付け加えておかなくてはならないだろう。


紅艶の暹羅
(シャム)土産(上巻270
頁)

 益田紅艶は若いころ長兄がやっていた三井物産会社にはいり、ロンドン、上海の支店などに勤務していた。奇矯飄逸な人となりだったので、几帳面な会社員の仕事を続けることをよしとしなかった。ほどなく退社し独立して商売口を見つけようと、明治三十一、二(189899)年ごろに一商人としてシャム(注・現在のタイ)行きを試みた。

 その目的は、むかし「南蛮もの」と総称されて日本に輸入された器、道具、織物のなかに産地の不明なものがあるので、それを特定したいということや、徳川時代の初期には一時伝来していた香木が、その後なぜかまったく途絶えているのは遺憾であるということで、これまで気にかかっていたそのような疑問点を解決することにあった。
 さてシャムにわたり、いろいろ探ったところ、香木は現地においても非常に貴重とされているが、だいたいが沈香の類で、昔日本に渡来したような伽羅の種類は非常に少ないということがわかった。
 織物のほうも、紅艶の次兄の克徳氏が少し前にヨーロッパからの帰り道にカルカッタで見つけた掘り出し物で、その後、益田広東【かんとん】と名づけたような時代ものの広東縞はほとんど一点も見つからなかった。
 以上の点では失敗だったわけだが、ここにひとつの大きな発見があった。昔、茶人が宋胡録すんころくと呼んでいた南洋伝来の焼き物があった。土の地肌が粗く、鼠色の地に黒い釉薬が大雑把にかかって模様を作っている焼きもので、それまでこの器の産地がわかっていなかった。ところが今回、紅艶がシャムで調査したときに、同地にスンコロ―という地名があり、そのころこのあたりの古陶窯の址から宋胡録と同じような陶器が発掘されていることがわかったのである。紅艶のシャム入りのおかげで長年の疑問がついに解決を見るという偉業がなされたわけだ。

 こうして鬼ヶ島に渡った桃太郎のように、かずかずの土産物を持ち帰った紅艶は、根岸の御隠殿(注・ごいんでん。輪王寺宮の別邸があった)にある次兄、克徳の無為庵において大茶会を催した。床の間には清巌筆の地獄の二字を掛け、天狗の鼻になぞらえたのか、銘を鞍馬山という茶杓を使ってさかんに気焔を吐いた。これも紅艶の独壇場で、他の追随を許さないものがあった。


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 七十八
美人立看板(上巻264頁)

 私が三井呉服店の改革を始めて内部の仕事が軌道に乗り始めたので、今度は広告の方面に力を入れることになった。欧米を遊歴した際に見聞きしてきたアイデアを日本風に焼き直したものが多かった。 
 私が洋行中だった明治二十一、二(18889)年ごろは、あちらでもその後のような広告の方法がまだ発達していなかったそれでもロンドンの目立つ場所で建築中の店は、通りに面した空き地を広告屋に貸して、その料金で建築費の一部がまかなえると言われていた。
 そうした広告にはいろいろな工夫が見られた。私が今でも覚えているのは「ペイヤス・ソープ(注・現在もつづく石鹸メーカーPears Soapーペアーズ・ソープーだろう)」という石鹸屋の看板で、とても愛嬌のある金髪の青年が青い服を着てシャボン玉を吹いている図だった。綺麗で斬新だったから普通の人の目にとまった。
 私はこれを三井呉服店の広告に利用しようと思った。呉服店の看板なので、美人が正装している図柄でなければならない。そのモデルを誰にしようかと探したところ、そのころの新橋に、小ふみという芸者がいて、ほっそりとした昔の辰巳芸者のようである。つぶしの島田に、着物にも髪飾りにもはやりを取り入れてどこからみても完璧な身なりをしていた。

  それであるとき、小ふみにその話を伝え、凝りに凝った衣服を作らせた。それを、呉服店意匠部の美人画担当、島崎柳塢氏が、彼女の等身大の立看板に描き、それを新橋駅の客室の壁に飾ることにしたのである。これこそが、東京、いや日本に出現した、初めての広告立看板だろうと思う。
 小ふみは、日清戦争後の好景気の時代に、新橋でいちばんの売れっ子だった。細くすらりとした粋な姿に加え、一種、江戸っ子風な気性の持ち主で、ある銀行重役のひいきを受けて、着物や髪飾りなどは思いのままに贅沢三昧できたので、こうしたことで当時の新橋の仲間うちで肩を並べる者はなく、まだそのころは年頃だった桂公爵ごひいきのお鯉なども、小ふみ姐さんの好みを目標としてまねをしていたということである。
 小ふみは尾上梅幸のことが好きになり、一時は妻も同然になったが、性格が合わなかったのか「落花心あるも、流水その情なく(注・一方の気持ちが他方に通じないことのたとえ)」、彼女のほうがやがて肺病にかかり臨終のときまで愛人の名を呼んで死んだという。この劇的な最期も、いよいよ美人薄命の見本だと評判になった。
 すこし不謹慎かもしれないが、私はいつも彼女のことを、九条武子夫人とよく似ている点が多いと思っている。その容貌が、またその好みや境遇が非常に似ているだけでなく、若くして亡くなり、人から惜しまれたという点も同じで、一方は華冑(注・華族)界、一方は花柳界という違いはあったものの、ともにいつまでもひとびとの印象に残る麗人であった。身分においては雲泥の差があるが、ちょっとついでに私の感想を記しておく次第である。

 

伊達模様踊り(上巻267頁)

 世間の景気がよくなれば衣服の模様が派手になり不景気になれば地味になるということは、呉服商が長年の経験から明言するところである。明治二十九(1896)年ごろは、日清戦争後の景気膨張時代だったから、むろん世の中の人の好みが派手になろうとしていた。この機に乗じ、私は「伊達模様」という名前をつけた揃いの衣装を作って、新橋の若手の売れっ子芸者たちに贈った。
 この模様は、黄色地に柳桜と胡蝶を染め出した柄で、これを贈ったのは、おきん、きや、清香、五郎ら五人だった。彼女たちは高島田にこの衣装で着飾り、地方(注・じかた=舞いを踊る立方に対し、音楽の演奏者)には、そのころの姐さん格で幅を利かせた喜代治を首席にして、ほうぼうの座敷で踊りまわった。

 そのときの「伊達模様」の一曲は、次のような文句だった。(注・旧字を新字になおした)
 

   「伊達模様」
「これやこの盛り久しき三つ組の、小袖模様の蝶桜、朝な夕なに乙女子が、心の錦身に飾り、裾ふきかえす春風に、誘うて出づる初駒の、勇めば花や匂うらん
「時を経て開くや花の山続き、四方の恵みもいや高き、富士の根仰ぐ駿河町、朝日にうつる白雪は、田子の浦わの水鏡、四海波風おだやかに、鄙も都もおしなべて、つけて目出度くまい納む伊達の模様の数々


 以上の文句は、私が立案したものに平岡吟舟翁が加筆し、節付けも振付も翁が担当した。そういう時代の成り行きだったのか、山室保嘉検校がこの歌に琴の旋律をつけて、ひところ非常に流行しただけでなく今日でもときどき演奏されることがある。当時の記念として私にはもっとも興味のある思い出である。
 また三越呉服店が日露戦争後に元禄踊り、元禄模様を流行させ、明治風俗史にもっとも華やかな一ページを飾ったが、これもこの伊達模様の延長上に位置するものにほかならないのである。


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七十七  東北機場廻り(上巻261頁)

 私は明治二十八(1895)年の八月から三井呉服店の改革に着手し、約一年間で店内の整理も一段落した。そこで、東北の織物の産地まわりをすることにした。私のような学生上がりの人間が何らかの意味ある仕事をしようと思うとき、金儲けのことだけでなく、なんらかの理想を持つものである。私も今、そうした理想を胸に東北の織物産地を見渡してみたのである。
 これまでの呉服問屋、小売店は産地から商品を仕入れるとき、縞柄や模様柄を一から注文して製造してもらうのではなく、ただ出来合いのものからほしいものを選ぶというだけだった。すると産地の織物業者としては失敗を恐れて、どれもこれも同じような平凡な品物を生産するばかりで新しいデザインに挑戦するということがなくなってゆく。そのうえ、呉服店は織元と直接取引をするのではなく、織物業者と呉服店のあいだにはいる織物仲買人の手を経て買い取るので、仲買人は手数料をより多く得るために織元を苦しめることになる。すると織元はこの苦しみから逃れるために粗製濫造に走るという弊害が現れる。これが東北の織物産地における一般的な問題だった。

 私は織物仲買人によらず、織者業者と直接取引することにした。また、こちらから新しいデザインを提示し、かれらが安心して優良な品を製造できるようにすることが小売業者のためにもなり、多数の機織り業者のためにもなり、ひいては国家の利益のためになるだろうという理想を実行しようとしたのである。仕入係の山岡才次郎と、意匠係の福井江亭、調査係の中村利器太郎を連れ、明治二十九(1896)年七月二十八日に、まず仙台に向けて出発した。
 仙台の主要な織物といえば、言うまでもなく仙台平である。藩祖である伊達政宗が、京都の職工の弥左衛門という者を呼び寄せて織らせたのを始まりとする。最初のころ、品質が精巧なため、精巧平と呼んでいたが、その後仙台で生産されることから仙台平とも呼ぶようになった。
 封建時代に伊達家がこの袴の生地を珍重したのは、参勤交代の久々の江戸入りのとき、国産品を土産物にしたからである。それは当時の大名の習慣だったので、交際術に長じた政宗や、そのほか、伊達姿、伊達模様などと形容されるような派手を好む藩主たちが、仙台平を贈答用に使ったのはまったく自然なことだったにちがいない。

 ところが維新後に、新潟地方に村上平、五泉平などという類似した割安の品が出てきたため、そのころの仙台平の一年間の産額はわずか七千反にも達しないという衰退の極致にあった。そこで私は、機元である伊藤清慎、藤崎三郎助の二軒と取引契約を結び、ついでながら松島見学で、あの瑞巌寺も訪れ、伊達政宗の木像を拝観し、そのとき次の七言絶句二首をなした。

 

        瑞巌寺謁貞山公像

    軍装凛々見威容 鵬翼図南独眼 縦不雄飛伸大志 猶余六十万提封

    奥州草木挟風雲 独眼竜名天下聞 試較群雄胸量大 猿郎以外我推君


 われわれはその後、仙台から福島を経由して米沢に赴き、同地の糸織の機場を視察した。糸織というのは、有名な上杉鷹山公が丹後の商人である山家屋清兵衛という者に命じ久六という機職人を連れ帰り、横麻裃地の竜の模様を織らせたのがはじまりだそうだ。このとき、高橋嘉右衛門、中村伊右衛門のふたりが、さらに進んだ縞物を織ろうとし、久六との熱心な話し合いの結果、丹後から縮緬織りの機械を取り寄せ、そのころ甲州で生産されていた双糸織【もろいとおり】の模造をした。その成績が良好で、しまいにはここの産物になるにいたったのだそうだ。

 このころ山形県の書記官をつとめていたのが、今日政友会の長である床次竹次郎君だった。私は米沢の機業の振興について彼と懇談したことをすっかり忘れていたが、このとき同行していた中村氏が記した紀行文によって偶然にもその記憶がよみがえった次第である。
 米沢から人力車で山形と新潟の境の山道を越え、途中一泊して山辺里(注・さべり)に行き、小田長四郎氏の袴地工場を視察してから、小田氏とともに瀬波から小さな蒸気船で新潟に出た。
 新潟では、そのころの便船の関係で、同地の花柳界の衣服や髪飾りがすべて京都風をまねていることに驚いて、二泊して、また改めて三井呉服店から出張販売する計画を立てたりもした。さすがに北越の歓楽街のことだけあって、鍋茶屋、行形などという旗亭(注・料理店)に、綺麗に着飾った娘子軍(注・じょうしぐん。中国の女だけの編成部隊。転じて風俗業の女の群れ)の行進するさまは、韓愈(原文「韓退之」)がいうところの「越女一笑三年留」さながらの趣だった。近頃ときどき名前をきく舞踏家の藤蔭静江老嬢なども、当時は十七、八の売れっ子だった。ここで一首なくては始まらないと思い、戯れに次のような七言絶句を作ってみた。

         新潟竹枝

   扶郎無力下紅楼 話別喃々如有愁 万代橋頭分手処 秋潮空送遠帰舟


 かくして、われわれの一行は五泉、加茂、見付、栃尾などを経て
小千谷に行った。どこでも機業者と直接に交渉して織物改良をお願いした。また、三井呉服店で開催する織物展覧会に優良品を出品してくれるように約束を取りつけてから帰京した。
 この旅行が訪問先に与えたインパクトは予想外に大きかった。そういう時勢であったとはいいながら、東北地方の機業がこのころから目に見えて発展したことからも、この旅行の意義を検証することができたのである。



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七十六  呉服小売の変改(上巻257頁)

 私はかねてから西洋の百貨店方式を用いて日本の小売業の商法を一大革新してみたいという理想を抱いていたが、維新後、明治中期にいたるまでに日本に輸入された西洋文明は、政治、軍事、教育などの分野に限られており、まだ民間の商工業にまではいきわたっていなかった。
 呉服やそのほかの雑貨の小売りの商売においては徳川時代そのままの状態を続けていたから、三越とてご多分にもれず、番頭といえば「しらくも頭の、はな垂れ」のころから店に雇われている小僧が年季の順に出世するだけだったし、例の、帳場での座売りという方法にどっぷりつかって改革など夢にも思っていなかった。そういう彼らから見れば、呉服小売りになんの経験もないモダン書生が突然店に飛び込んできて自分たちに指図するとはなにごとだと、心中おだやかでなかったのは当然である。
 このころの店の最長老は山岡正次という六十前後の老人だった。その次が、専務兼支配人の藤村喜七、その次が、森本半次郎、井上嘉四郎、山岡才次郎という面々だった。前述(注・74を参照)のとおり私の改革は帳簿の改正と売り場の変更が二大ポイントだったので、まずは簿記の知識のある人が必要だった。
 そこで、東京商業学校出身の滝沢吉三郎を三井銀行から連れてくることにし、また慶應義塾出身の中村利器太郎、藤田一松、東京工業学校出身の笠原健一、アメリカ帰りの田中忠三郎などという学生上がりを次々に採用し、これまでの大福帳を簿記法に改めた。同時におおぜいの学生を見習いとして売り場や仕入れ場へ配属し、彼らに少しずつ事務に精通してもらい、各方面での改革に手を伸ばそうとした。
 もっとも仕入れの仕事は何年もの熟練を必要とするので、番頭のなかでいちばん穏健で妥協性に富んでいるうえ、商品の取り扱いについても店内一の玄人と呼ばれていた藤村喜七氏を見込んでその一切の責任を任せた。

 売り場の変更については私自身が工夫を凝らした。当時の三越の建物は総二階建てで、二階は何部屋かに区切って、お得意様や地方から婚礼の支度の買い物に来るお客様に食事を差し上げる場所になっていた。その仕切りを取り払って二階全部をひとつの四角い部屋にしたのである。天井が低く光線の具合があまりよくなかったが、とにかくここを陳列場にして十数台の飾り箱を並べることにした。そのなかにいろいろな呉服を陳列し客が自由に選べるようにしたのである。

 はじめのうちは従来の売り場はそのままにしておいたのであるが、一度でもこの陳列場にやってきた人たちは、今までのように框のへりに腰かけて番頭の取り出す数点の商品で満足するということがなくなり、またたくに陳列場のほうが大繁盛したのである。

 ここを開設する前には、品物をあまりたくさん見せると客は迷って選ぶのに苦労するとか、品物をあまり日光にさらすとローズ物(注・ろうずきずもの、不良品)が多くなるとか、そのほかにもいろいろな反対があったのだが、いかんせん「論より証拠」である。客が喜ぶのだから、この点について反対意見を言う余地はない。それを見て私は、以前洋服部だった西洋館と日本館のあいだに西館という名前の木造二階建ての陳列場を造り、ひとまず売り場の改革を終えた。
 さて帳簿改革のほうも人員が揃うのを待ち着々と改革を進めていたが、もうひとつ、営業面で至急の革新が必要だったことがあった。それは、呉服の模様デザインの改良である。それまで東京の各呉服店では婦人服の裾模様を注文する場合、模様見本帳というものを用意して、そのなかから選んでもらう方式をとっていた。あるのは、こぼれ松葉、松の実散らし、折鶴、七宝尽くし、つなぎ麻の葉といった、徳川時代からずっとわらないものばかりで、その染色や織り方の見本を見て作るだけなのである。また、夏服と冬服に特別な差があるわけでもない。そして年頃の令嬢と中年の婦人がほとんど同じ裾模様を使っている。しかも模様が地味なので、着物の下の低いところだけに柄があり、せっかく着物を新調しても他人の印象に残るわけでもない。どれを見ても同じなのだ。今のような、人がなんでも新しいものを競って求める時代にこのような流行遅れのやり方ではまずいので、さっそくこれを打破しようと思った。

 そこで私は、染織物の模様改善を目的とする意匠部という部門を新たに設けることにした。そこに、住吉派の老画家である片山貫道や、当時の新進画家の福井江亭、島崎柳、高橋玉淵らを雇い入れ、新たにいろいろな裾模様や長襦袢の模様などの見本を作った。あるいは客の好みに応じてその場で新デザインを作成できるようにした。
 また、染織物の生産地にも奮起をうながし、新デザインによる作品を奨励し、春と秋の二回、織物展覧会を開いてその技巧を競わせた。
 以上が改革の概要である。その他のこまごましたことは省くことにするが、とにかくも、旧式の呉服店に対し破天荒な改革を行い、そのうえに例の女子店員も採用するなど、呉服小売り業界に大革命を起こしたのである。それゆえ、いっときは古くからの店員を驚愕させ、その反抗を招くことになったのは、まったく当然の成り行きであったといわざるを得ない。


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七十五 九代目十郎(上巻254頁)

 私は九代目団十郎と、明治十八(1885)年から彼が死去するまでのあいだずっと交際を続けていた。いわゆる合縁奇縁(注・不思議な縁のめぐりあわせ)というのだろうか、彼も私の訪問を喜んでくれて、しばらくご無沙汰するとすぐに伝言をよこしてくるので、は折にふれて彼の楽屋をたずねたり自宅をおとずれたりして芸談の交換をしたものだった。
 彼が芝居に出演するのは年に四、五回で、今日の役者が年中休みなしに出演があるために、色々な役の研究や工夫を積む余裕がないのとはずいぶん違っていたものだった。
 彼は芝居に出ていないときによく品川沖に出かけて、釣りをしながら役の演出方法を研究していた。その中から後世に残った型も少なくない。
 最近、古市公威男爵の話をきいたところによると、十郎の大星由良之介は、男爵の父上である藤之進翁をモデルにしたのだそうだ。翁は姫路藩の江戸御留守居で、浅草の札差や諸藩の御留守居役との交際が広く、いつもひいき役者をかかえ特に成田屋(注・十郎のこと)を愛顧していたのだそうだ。明治八、九年ごろに七十歳余りだったその古市翁の姿に十郎が目をつけたのである。五万五千石の城代家老と、十五万石酒井家の御留守居には、姿、身なり、人との接し方などに類似する点が多かったのであろう。十郎は翁の話し方や立ち居振る舞いに注目して、それを理想の由良之助像としたのだそうだ。
 これは十郎から直接話を聴き取った小室信夫氏と、十郎の弟子である新蔵からまた聴きした光妙寺三郎氏から、古市男爵が伝え聞いた実話だということだ。
 現在の古市男爵も威厳がありながら温和で、得意の能楽でも七騎落ち(注・源頼朝の敗走)の土肥次郎実平などをつとめるとまるで本人そのものになってしまうことから考えても、男爵の父上の藤之進翁の在りし日も、おそらく大石(ママ)由良之助のモデルとしてぴったりだったに違いなく、十郎がそれに着眼したとは、さすがに目が高かったというしかない。
 彼はまた、役ごとの衣装、その模様、持ち物などにも留意し、有職家(注・ゆうそくか。朝廷や公家の儀式や行事の典故に通じている人)に、十分に故実について質問しなければ気がすまないという意気込みを持っていた。助六狂言では、帯地を黄色とお納戸色(注・灰緑がかった青色)の市松模様にし三井呉服店に注文したのであるが、彼ほどに有職模様や衣装、持ち物、小道具についての広い知識を持っている人はいなかった。
 座談に関しては舞台上でせりふを言うようには流暢ではなかったが、話好きで、自分の研究したことをぽつぽつ話し出したりすると、楽屋で次の幕の支度にかかるのを忘れてたびたび番頭から注意されたりしていた。
 彼には特別に学問があったわけではない。しかし俳画を描き、俳句を作り、記憶力がよく、歴史上の人物の性格やエピソードなどを話すときにとても豊富な材料を持っていた。
 またこんなこともあった。「高時」の天狗舞の場面で、天狗に引きずり回されて、しまいに気絶するところがあるが、その気絶して倒れているあいだに、見物席の二の側にいた観客がなにかおもしろそうに話しているのをきいていたら、多分蛎殻町あたりの米相場師だったらしく、「してみれば、北条の家は今のおれたちの相場のように、安い時に儲かって高い時に損したというわけだな」とけらけら笑っていたそうで、「なるほど北条は、泰時に始まり、高時で滅びたので、これはなかなかうまいことを言われるな、と思いました」などと言っていた。私はそんなことにまで気がついているのかと感心してしまった。
 あるとき、私は十郎を有楽町の三井集会所に招いたことがあった。時事新報社社長の福澤捨次郎氏や下村善右衛門氏も同時に相客として招いた席だったのだが、十郎は、弟子の八、升蔵のふたりを連れてきており座興として即興芝居を見せてくれた。これではどちらがご馳走したのかわからないといって、一同大笑いになったものだ。
 彼は、役者の習慣なのかそれとも性格的なものかは知らないが、貧乏にまったく頓着しなかった。明治十七、八(18845)年ごろ、新富座の頭取であった守田勘弥が借金で首が回らなくなっているのに加えて、そのころ十郎が創意工夫した活歴芝居がさんざんな不入りのため金が完全に底をつき、十郎が毎日はいりにいっていた木挽町の塩風呂の銭湯代のつけが、たまりにたまって三十六円になってしまった。そのこと評判になっいたのだが、彼はその話をある芝居のせりふのあいだに披露して観客をおおいに笑わせたのである。
 その後、井上馨侯爵が彼をひいきにし、例の世話好きを見せて借金を整理し、金銭のうえで守田らと縁を切らせて彼の家計を立て直したので、晩年は余裕のある生活になったようだ。とくに大阪北の新地で劇場の新築開きのときに、当時としては破天荒の五万円という出演料を勝ち取ったので、茅ケ崎に別荘を建て安泰のうちに大往生をとげることができた。それもこれも井上侯爵の世話の力あってのことだったのではないかと思う。


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七十四  三越呉服店の改革(上巻251頁)

 明治二十八(1895)年日清戦争が大勝利で終わったあと、例の三国干渉で一時国内の士気を腐らせることもあったとはいえ、とにかく二億円の賠償金を得たので、戦後膨張の機運が全国のいたるところでみなぎり始めた。まるで、これまで頭上におおいかぶさっていたシナ(原文「支那」)からの圧迫という雲を払って晴天を見るような心持ちになったのである。事業が勃興し株式は騰貴し好景気の時代がやってきた。
 そのころ三井の幹部内に三越呉服店をどうするべきかという議論が持ち上がった。先祖伝来の事業ではあるが、三井ほどの存在がいまだに呉服小売業を続けているのは少し時代遅れではないかというのである。
 しかし当時の三井の老主人のなかには、少年時代に呉服店に勤め、お茶くみからはじめて手代、番頭までの仕事をのぼってきた者もあったので、廃業するのはもってのほかだということのようだった。
 しかしながらこのままで存続するのはどうもいただけないということで、大阪三井銀行支店ではじめて女子店員を採用するという新しいアイデアを試みたあの高橋を呼び寄せて改革に当たらせたらよかろうという誰かの提案が通り、中上川氏から委細の事情報告があった。私が二つ返事でそれを引き受けたことは言うまでもない。

 私にしてみれば三井銀行に勤務しているほうが仕事も立派だし世間体でも格上になるのだろうが、かつて「拝金宗」だの「商政一新」だのという商売論を著述した手前、新時代にふさわしい日本の小売業の革新に自分の力を試してみたいと思ったのだ。
 こうして足かけ三年住み慣れた大阪三井銀行の社宅を去って東京に戻り、加藤弘之博士の西隣りの麹町区二番町四十二番地四百五十坪ほどの邸宅に住むことになった。
 私が三越呉服店の改革を引き受けてすこしばかり自信があったのは、かつて茨城県多賀郡相田村の福田屋という田舎呉服店の丁稚として三年間奉公した経験があることと、明治二十一(1888)年にアメリカのフィラデルフィアのワナメーカー百貨店の組織研究をしたときに、日本の小売業でも最終的にはこの方法を採用しなければならないという考えを持っていたためだった。そこに偶然にも三越改革の話がきたのでこの分野で腕試しをすることになったわけだ。まことに奇遇であったと言わざるを得ない。
 当時の三越呉服店に乗り込んでその改革をするにあたり、店主は三井得右衛門(注・高信の次男)氏から源右衛門(注・新町三井家七代高辰か、未調査)氏に交代し、私は三井の理事という資格はそのままで三越呉服店の主任となった。
 さて、どこから改革の手をつけるかであったが、まず店のようすを見まわしてみた。今の三越本店と同じ場所の駿河町一番地の角に二階建ての店舗があり、丸に越の字の紺のれんが掛け連らねてあった。店の中には頑丈なけやきでできた框(注・かまち)が鍵の手(注・L字かコの字か?)型にめぐらしてあり、番頭が受け持つ売り場が十一か所ある。来客がなじみの番頭を見つけて注文を出すと、番頭はそこから大きな声を出して小僧や、なになにを持って来いと言う。すると小僧は倉庫から品物を四角い平板の上にのせて売り場に持ってくる。番頭がそれを受け取り顧客に見せる、という手順だった。
 なぜ紺のれんで店内を薄暗くしているのかというと、品物の見た目をよくするためだという。また、見せる品数をなるべく少なくして客を満足させることができるのが、有能な番頭だと言われていた。このあとにに実行した商品陳列方法から比べると、客にとっても店にとっても非常に不便きわまりない方法であるが、当時は買う側も売る側もそのような習慣をおかしいとも思わずこれを変えようなどとは思いもしていなかった。そこで私はまずこれを改革することにした。

 次は、あの大福帳を用いている帳簿の問題だった。大福帳では仕入れと売り上げの計算がはっきりせず、どれくらい仕入れてどれくら売ったのか、また半期末の在庫がどれくらいで、差し引きはどれくらいかということが一目瞭然にはわからない。紛失品があってもそれを知ることは難しかった。番頭の給料が少額なため、実生活の埋め合わせをするために商品をごまかすということも常習化していて、文明時代の商売方法としてはとても見逃すことができなかった。
 最初に改革の鉄拳をくだすのは、帳簿と店売り方法の二点であるということがはっきりした。そこで、着々とそれに取り掛かったのである。

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 七十三
謡曲稽古の発端(上巻243頁)

 三井銀行大阪支店長として足かけ三年間大阪にいたときに、私は二種類の道楽に入門した。ひとつは能楽で、もうひとつは茶道である。
 まず謡曲のほうから話すと、それは明治二十六(
1893
)年の暮れのことだったと思うが、岩崎久弥男爵三菱銀行支店の視察のために来阪したときのことだ。当時の支店長の荘清次郎、同理事の寺西成器、日本銀行支店長の鶴原定吉氏と私が、大阪の料理店、灘万楼に招待された。
 寺西氏は加賀の出身で加賀宝生流の達人だったから、宴もたけなわになると、久弥男爵が寺西氏に何か一曲謡ってはどうかと言われた。しかし寺西氏がしきりに謙遜しているので久弥男爵は高圧的な態度に出て、拙者の命令なのだからとくと謡われよ、と言い出される。そこで寺西氏は「松風」のロンギを謡ったのであるが、加賀流の少し鼻にかかる癖はあるものの、梁の上の塵も動かすようなすばらしい美声だった(注・中国の故事。魯()の虞公(ぐこう)という声のよい人が歌をうたうと、梁(はり)の上のちりまでが動いたという)。これには一同みな感心して喝采し、このときから私と鶴原氏、荘氏も謡曲を習ってみようという気になったのである。
 このころ大阪に、宝生九郎の門下で名古屋出身の木村治一という六十歳くらいの専門家がいたのですぐに入門し、鶴原氏は謡曲だけを、私は仕舞も併せて稽古することになった。
 それからは寺西氏を先生格にして、私、荘、鶴原の三人の自宅で順番に、約一年間練習を続けもした。そのあいだに、だんだんうまくなってきたと天狗になっていったが、松風のロンギのなかの「灘の汐くむうき身ぞ」というところを、宝生流では甲繰り(注・かんぐり高音)で謡うので、初心者にはなかなかむずかしい。さすがの大天狗どももこれには閉口で、松風の謡曲が始まると、うまく灘を越せればいいのだがと、食べるものにまで注意し、前もって喉の養生をするというような大騒ぎだった。
 私はこれをきっかけとして、謡曲から仕舞、仕舞から能楽へと深入りすることになった。その後東京に移ってからは、三井一家がみな梅若流なので、私も宝生から梅若に改宗することになった。
 なお、このころに大阪の紳士のなかで謡曲を好まれたなかでは平瀬亀之助氏が群を抜いてすばらしく、氏は金剛流の家元を補佐したほどの玄人だったが、痩せぎすの体格に似ず、勧進帳などを謡えば、音吐朗々として一座を圧するほどであった。

 藤田伝三郎男爵は、小柄で身長も五尺(注・約150センチ)に満たない小男だったので、その声もか細い低音で、あるときに平瀬亀之助氏と同席で「景清」の「松門ひとり閉ぢて」の一節を謡ったときなどは、平瀬の耳をつんざくような大声に対し、藤田の蚊の鳴くような低音が両極端の対照をなしていた。
 藤田男爵はまた好んで仕舞を舞い、あるときに私が益田孝男爵と一緒に男爵の網島邸を訪問したとき、大得意で「遊行柳」の曲舞を見せられたものだが、地を謡っていた生一佐兵衛という先生の声が非常にききとりにくくほとんどきこえないところにもってきて、藤田男爵の声もまた例の蚊声であるから、一生懸命ふたりに耳を傾けても何を謡っているのやらわからず、藤田の門を辞しての帰り道、今日は親戚以上のおつとめをさせられたと、顔を見合わせて笑ったなどということもあった。


道具道楽の萌芽(上巻250頁)

 
 私は母方の血筋を受けて子供のころから文学を好み、書画もきらいではなかったようで、十一、二歳のころ、生家にあった唯一の宝物だった立原杏所(注・たちはらきょうしょ。江戸後期の水戸藩の南画家)の秋山独歩の着色図が大好きで、これを床の間に掛けるときにはその前に座ってじっと見つめていたことがあったことを覚えている。
 その後イギリスのリバプールに滞在中、名誉領事だったボウズ氏の日本美術館で、日本の書画骨董を勉強したことで絵画が非常に好きになった。十分とはいえない旅費の中からいくらかを割いて、イギリス、フランスの骨董店で油絵を三点買い、今でも記念に持っている。
 明治二十三(1890)年三月ごろにはじめて井上馨侯爵の麻布鳥居坂を訪問し、床の間になにやら極彩色の仏画が掛かっていたのを熱心に見入っていた私を侯爵が見つけて、君はそんなに仏画が好きなのかと、怪訝さ半分、うれしさ半分の顔できかれたこともあった。
 二十四(
1891
)年に三井銀行にはいり、東京本店で河村伝衛家の骨董品を処分する機会があったときに、そうしたものに一層の興味を覚えると同時におおいに鑑識眼も養うことができた。
 その後大阪三井銀行支店長となって平瀬、藤田、鴻池などの旧家に出入りするたびに、床の間にめずらしい幅が掛かっているのをみると自分でも欲しいと思うようになり、ソロソロと骨董狩りへ乗り出すことになった。
 給料の余りでぼつぼつ絵画を買い始めたが、最初は当たり前に
四条派のものから始めた。よく好んで藻刈舟を描き「儲かる一方(一鳳)」の語呂合わせで喜ばれて大阪で人気を博した森一鳳の「岩上の猿猴落花を眺むるの図」の、尺五絹本極彩色の
またとない傑作を四十円で手に入れたのだから、そのほかの道具の価格は推して知るべしであった。見つければ買い、見つければ買いしているうちに大阪滞在中にいっぱしの書画鑑定家になり、またコレクター(原文「収蔵家」)にもなったのである。


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 七十二
古寺社の巡礼(上巻244頁)

 私が大阪に滞在した三年間の毎日曜日の日課は、畿内各地の古寺社を巡礼することだった。「是は東国方より出でたる者にて候、我未だ何々社寺を見ず候に、此度思ひ立ち一見せばやと存候(注・能「田村」の「是は東国方より出でたる僧にて候、我未だ都を見ず候・・・」のもじり)と、お能ばりに見物してまわろうとして最初から計画を立て、まず聖徳太子の法隆寺から始めることにした。

  続いては天平時代の奈良諸寺院、その次には弘仁時代の室生寺などと時代順にまわった。大和の国の古刹では、薬師寺、秋篠寺、東大寺、法華寺、当麻寺、唐招提寺などに行き、旧社では春日、三輪、多武峯など、山間の僻地であっても厭うことなく巡礼を続けた。
 河内の国では、観心寺、道明寺、誉田八幡など、和泉の国では堺の南宗寺、塩穴寺、摂津では勝尾寺、四天王寺、住吉神社。山城では洛中洛外の社寺をいちいち数えていたらきりがないほど。そのほか江州(注・近江)、紀州におよんで、一日で二か所以上は回った
 まずは建築からはじめ、仏像、仏具、絵画、彫刻など装飾関係にわたり詳細に研究していくと、時代によってその気分や特徴がはっきりしてきて、千年以上の古物に触れてその古色を味わうことになった。
 その間にふつふつと湧き上がってくるのは、まずはわが国の国体のありがたさであった。いちばん上に万世一系の天子をいただき、かつて外敵に侵入を受けたことのない国でなければ、火災に弱い木造建築が千年以上ももつことは考えられない。内地での戦乱は、武人同士の争いであって民衆のあずかり知らぬことなので、こうした惨禍は寺の塔や伽藍には及ばなかった。それで、祖先が代々残した工芸美術が完全な形で残り現在国民の模範になっている。

 このようなありがたい霊境浄土は世界のどこを探したとしてもふたつとないものだ。そう思えば、誰しも尊王愛国の気持ちを持つのではなかろうか。
 最近の悪い思想の蔓延を防止するために政治家の苦慮が大きいということには、私も非常に共鳴するのであるが、私は、学校の生徒たちの遠足の目的地を、ときどきは古社寺に向けるということが一石二鳥の妙案ではないかと思う。
 今の人たちが古社寺の境内にはいると、なんとはなしに敬虔な気持ちを持つものである。私はあるイギリス人が法隆寺の金堂の前に立ったとき、ギリシャの古い建築物に対するのと同じように、身を二千年前に置いたような感じを覚えたと言われるのをきいたことがある。またアメリカ婦人が高野山に登り弘法大師が唐から請来した金鈴を打ち振り、一千百年前に大師が聞かれたその音と自分が今聞いている音がまったく同じかと思うと、なんとなく大師に出会っているような気がすると言われたことを伝え聞いた。そのように、古寺社の巡礼はわれわれにいろいろな霊感を与えるのである。
 私は奈良地方の古寺院でいわゆる伽藍石の趣味を覚え、これをはじめて東京に運びこんで好事家たちにこの趣味を伝えた。私の現在の赤坂一ツ木町の伽藍洞でも、南都(注・奈良)における千年以上の伽藍石を数十個保有している。それは、古社寺巡礼のたまものにほかならないので、また後段でも伽藍石について語ることにしようと思う。(注・92「寸松庵開き」を参照のこと)


渡邊治の死去(上巻246頁)

 私の親友であり畏友であった渡邊治は、明治二十六(1893)年十月に肺疾患に倒れ、播州須磨の別邸で息を引き取った。三十三歳だった。渡邊は私と同じく水戸下市の士族で住まいも近かったので、幼いころからのいわゆる竹馬の友だった。彼は私より三歳年下で、才学夙成(注・幼くして学業ができあがること)、少年のころから大人びた言動をし、しかも負けず嫌いでよく勉強したので、上市の漢学先生だった寺門謹(注・会沢正志斎の甥)氏の塾に出入りするころには神童だという評判だった。彼の父親は小柄だったが剣術の達人で、仙台藩の道場破りをしたときには天狗の再来だと言われて、小天狗と呼ばれたそうだ。
 明治十一(1878)年に私と一緒に茨城中学予備校に入学し、予備校が中学となってからは同学年で三年間のあいだ彼がつねにクラスの首席を占めていたので、私はなんとか一度でも彼を越えようと必死で勉強を続け、知らず知らずのうちに得たものは大きかった。
 明治十四(1881)年には松木直巳氏のあっせんで、ふたり一緒に福澤先生の保護下に置かれることになり、翌十五年にはふたりとも慶應義塾を卒業して時事新報の記者になった。そこでまた競争になったが、私は明治二十(1887)年に時事新報を去って洋行することになり、このときだけははじめて彼に先んじたが、彼も長くは時事新報にとどまらず、翌々年の明治二十二(1889)年に山県公爵に親近し、その第一歩を政治の世界に踏み出したのだった。
 また東京では朝野新聞を乗っ取り、ついで、当時は小さかった大阪毎日新聞を買収していまでは隆盛を誇る同新聞の基礎を作ったのである。
 明治二十三(1890)年の衆議院選挙のときにはまだ三十歳に達しておらず、議員候補の資格を持たないにもかかわらず、どうにか工作したようで、うまいこと水戸市から選出された。
 議会においても、すぐに大成会を組織し、四十人あまりの議員を集めて、天下をおさめるための方策を練り、山県公爵からも将来を期待されていたものだ。
 しかし肺疾患がすでに進み、復活することなく志なかばで亡くなったことは非常に残念なことだった。それでも、短い時間のあいだにほとんど超人的ともいえる働きをし、もしももっと長く政界にあれば、大臣はもちろん、あるいは首相の任もまかされることになったのではないかと思わせたことは、病的なまでの天才のなせる業であったということだろう。

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 七十一
名家に名器保蔵(上巻241頁)

 われわれの先祖が数百年来保存してきた名物といわれる道具類は、じっさいどのようなものなのだろうか。難しく言うなら、わが国の国体に関連し、祖先崇拝の上での標的になり、国民道徳を維持するうえで欠かせないものだと思うが、いかがなものであろう。だがその辺の解説はしばらく置くことにして、今はわかりやすい説明をしよう。
 名物道具はだれが所有しているかにかかわらず、すべて国家の工芸美術の模範である。国民がこれを重要視せずに、これらの大切な見本を失うことになれば、単に国宝が消滅するだけでなく、その国の工芸美術が衰亡してしまうということは当然の帰結だ。
 維新の前には将軍家や三百の大名家がこれらの名物を保護してくれていたが、将軍や大名がなくなってしまった今、誰がこれを保護するのであろうか言うまでもなく国家、もしくは富豪や名家のほかにはそれができるものはないだろう。
 私は欧米を巡歴している最中に各国の実状に触れてこの意見を持つようになった。そして今、規模は小さいながら、この主張を実現する機会に遭遇したのでそれをここに紹介してみることにする。
 私が大阪の三井銀行支店に在勤中、三井家と姻戚関係のあった長田作兵衛の所蔵する道具が抵当流れになり、同店の二階建ての大きな土蔵に足の踏み場もないほどに詰め込んであった。この道具をどのように処分するかということが、私の赴任後まもなく持ち上がった問題だった。
 私は名家の道具について前述のような意見を持っていただけでなく、本店にいたときに河村(注・64に前出、第三十三銀行の河村伝衛)の道具を処分して、例の田村文琳が三百五銭に過ぎず、これらの名物を含んだ道具数百点の売上高がわずか数万円であったことから、長田の道具も今すぐに売却するとせいぜい十万円前後にしかならないだろうと思った。

 三井も今では整理が軌道に乗り始め二十四(1891)年の恐慌のときとはだいぶようすが変わってきているので、わが国の名家であるという家格から言ってもそれ相応の書画骨董を所蔵すべきであると思った。
 ついては、この抵当になった美術品を売却せずに全部三井に引き取り、同族十一家に分配するのが名器を保存する上策だとして長々とした意見書を書いた。これを中上川には送らずに、美術品についてもっとも理解のある物産会社首脳であった益田孝男爵に送ったところ、それが三井重役会の議題にのぼり全会一致で賛成を得た。
 そこで道具を全部、京都の三井呉服店の倉庫に移し、三井八郎次郎男爵(注・南家、高弘、号松籟)が取り仕切り、抽選で十一家に分配することになった。
 その抵当品のなかには、砧青磁袴腰香炉、応挙の郭公早苗三幅対、直径六寸(注・一寸は約三センチ)の水晶玉など、稀代の名品の数々があり、また藤田伝三郎男爵がかつて長田家で見て非常に称賛していた倪元璐(注・げいげんろ。明末の政治家、文人画家)の書幅もあり、今日の相場で見れば、おそらく当時の数十倍にはなっていることだろう。

 幸いにも分散することもなく三井同族のなかにとどめておくことができたのも、そのころ私のなかに芽生え始めた道具愛好の気持ちが動いたもので、偶然のことではあったが今思っても快心の出来事だったと思うのである。


銀行に女子採用(上巻243頁)

 私は明治二十七(1894)年、大阪の三井銀行支店に女子店員を採用するというアイデアを試験的に実行した。これは、前にアメリカのフィラデルフィアのワナメーカー百貨店を訪問したとき多くの女子店員を採用しているのを見て、日本でも商店で婦女子を採用する習慣を作らなくてはならないと思ったことがきっかけだ。その後、ヨーロッパ各国の商店でも同じような状況であったので、当時の日本においてはすこしばかり突飛な考えではあったが、まずは三井銀行で試験的にやってみようと思い立った。
 年齢十六、七歳から二十五歳までの女子で、小学校卒業以上の学力のある者を募集し、まず勘定方に入れて、そろばん、紙幣の勘定に熟練させることを目標に、最初は七、八名採用し約一か月訓練を行った。その成績は予想外によく、紙幣の勘定などは男性店員に比べてもはるかに正確で速かったので、いよいよ実務にもついてもらうことになった。
 ところが、公然と言う者はいないが、男性店員の中に女子の髪の毛のにおいが鼻について困るというような苦情が出てきた私は店員全員を集めて欧米諸国の実状を説明し、日本においても国家経済の見地から女子の就業をすすめていかなければならないとして、断固として女子の雇用を進めた。
 しかし女子店員の多くは未婚で、婚期が来ると退職してしまう者が多く、私が大阪支店を引き揚げたあとはあまり長く続かなかった。
 しかし私がこのアイデアを大阪の三井銀行で試みたことは評判となって、高橋は西洋帰りの新知識人でいろいろな工夫をやるようなので、そのころ問題になっていた三越呉服店改革の適任者だということで三井幹部の意見が一致し、私は三井理事の資格で三越呉服店の改革の任に当たることになったのである。

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七十 在阪知友の思い出(上巻237頁)

 私が三井銀行支店長として足かけ三年間大阪に仮寓していたとき、歳のころが三十前後で元気はつらつな知友が少なからずいた。今日から振り返ってみると、高青邱の詩に「十載悲歓故旧分、或帰黄土或青雲」とあるように、この栄枯盛衰の変転はきわまりなく実に感慨無量とならざるをえない。
 私らが発起人となって創立した大阪紳士社交団体の二水会というのが、昭和七(
1932)年に創立四十年を記念して会をやるというので私も参列するよう頼まれたが、当時の会員で東京に残っているのは私と岩原謙三君のふたりだけなので、私が東京を代表して出席したところ、同会員は四十年間に五十六人亡くなったのだそうだ。そういうなかでこの祭典が行われたことに私は驚き、霊前に腰折(注・自作の短歌を謙遜するときに使う)を一首捧げるとともに、昔の思い出のために次の七言絶句を口吟した。

なき友のみたま祭りて月花を 共にながめし春をしぞおもふ
 
  鴻爪留痕四十春 重遊今日感前塵
  鬢華怕照澱江水 曾是尋花訪柳人


 それらの知友のなかで非常に毛色が変わっていたのが、私の後任として三井銀行の大阪支店長になった岩下清周氏である。
 
 氏は信州人で、鼻っ柱が強く、とかく人を怒らせるような言動が少なくなかった。高等商業学校出身で、まず三井物産会社にはいってパリ支店に勤務、帰国後にも非常に突飛なハイカラぶりを見せて物産会社の重役が持てあましていたのを中上川彦次郎氏が引き受けて、この暴れ馬を御してみせようというつもりらしく、私の後任として三井銀行大阪支店長に採用したのである。
 氏は非常にシャープかと思うと、またオネストなところがあり、剛情かと思えば非常に親切なところがあるという矛盾した二面を持つ合金のような人柄だった。
 支店長になった披露に大阪の経営者たちを招待するときにも、それまでの慣例に従えば、堺卯楼などで饗応の宴をもつのが通例なのに、中之島ホテルに彼らを招待し、晩餐の席上で楽隊による演奏を行うなどのハイカラぶりを発揮し、最初から大阪人を驚かせた。
 暴れ馬には自分のほうから人を蹴る癖がある。ほどなくして三井銀行を飛び出し、藤田伝三郎男爵と握手して北浜銀行を設立した。そのころは一時的に大阪を制覇したように見え、また大阪、奈良間の電車鉄道敷設のような永久に残る事業も残したが、大胆で突飛な性格がとうとう失敗の原因となり最後まで事業の面倒を見られなかったのは気の毒であった。
 しかし彼はそれほど落胆するでもなく、引退後は富士の裾野で農園を経営し、死ぬまで鼻っ柱を曲げなかったというような一種の変人であった。
 武藤山治君。後年、鐘淵紡績会社社長として紡績王の栄冠を得るが、彼も当時交流のあった一人である。彼は当時、神戸の三井銀行から鐘淵紡績の神戸支配人になりたてのほやほやで、現在の令室である千勢子夫人と結婚されたのは明治二十七(1894)年ごろであったろう。夫人は、当時京都に閑居していた長州の詩人である福原周峰翁の孫娘で、私の前妻と友達だった。日清戦争のさなかに、日本軍がいまにも北京を占領しそうだという噂があったとき、千勢子令嬢はある会合の席で杉の箸をふたつに折って「これをペキン(北京)と折れば二本(日本)になりますよ」という洒落で喝采を博したことがあるという。いかにも朗らかな女性で、私たち夫婦が媒酌人になり大阪の堺卯楼で結婚披露宴を催したときには朝吹英二翁も東京から参会されたものだが、その武藤君が今日のような大物になられるまでのことを思い出すといろいろなことがあり非常に愉快でめでたいことである。

 また、当時の旧友の中でもっとも出世のめざましいのは、今の阪急社長、東電(注・のちの東京電力の前身のひとつである東京電燈)副社長として東西の実業界を股にかけるもうひとりの猛将、小林一三君である。
 彼は当時、三井銀行大阪支店に勤務していたが、明治三十一(1898)年に岩下清周君の北浜銀行に招かれ、まさに同行に移ろうとした直前にたまたま上京し私を訪ねてこられたので、私は彼に、今後もしも実業界に雄飛しようとするなら、あまり急がずに翼が十分に整うまではしばらく安全な場所にいるほうがいいのではないか、という意見を述べたのだが、そのひとことで彼は北浜銀行行きを思いとどまったということだった。 

 私はそのことを忘れていたが、古い付き合いを大切にする小林君は昭和六(1931)年の暮れに、私がそのときに彼に送った意見書の手紙を表具して麹町永田町の仮住まいの弦月庵の床の間に掛け、きわめて味わい深い記念茶会を開かれた。そのとき、拙者がもし、当時ご忠告によって三井銀行にとどまることをせずに、北浜銀行に転職していたら、岩下氏の部下と運命をともにしただろうことは当然の成り行きで、私が今日あるかどうかわからない、それを思うと、人生の岐路に立ったとき右に行くか、左に行くかの吉凶は、あとになってわかるもので、拙者などは幸いに魔の手を免れることができたような心持ちで、実に感慨無量である、と述懐された。これは、後進者にとっても非常に有益な体験談ではないかと思う。
 当時の大阪で私と親しくしていた友人のなかで、日本銀行支店長の鶴原定吉、三菱銀行支店長の荘清次郎のふたりはすでに亡くなり、三井物産支店長の岩原謙三だけが健在である。なお、今の東拓(注・東洋拓殖株式会社)総裁の高山長幸君も三井銀行支店に在勤していたと思うが、ともかくも、暁天の星のようにまばらに残っている友人たちが現在大物として存在していることはとても愉快なことである。


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 六十九
明治中期の大阪(上巻233頁)

 私は三井銀行大阪支店長として、明治二十六(1893)年五月から足かけ三年間大阪にいたが、そのころの大阪の財界はいたって小さく、工業といえば大阪紡績その他二、三の紡績会社があるだけで、金融界はわずかに百万円くらいのレベルで、コール(注・金融用語)の利息が二、三厘も上下するというありさまだったし、旧家の鴻池、平瀬、加島などが経営する銀行の預金はそれぞれ数百万円に過ぎず、そうした家の資産も、これに応じて手薄なものだった。
 そ
のころ住友の広瀬宰平が牛耳っていた修齊会【しゅうせいかい】という会合があった。これは大阪の富豪のあいだの親睦を深めるための組織で、それらのひとびとで方針を決めるために話し合いの場を持っていたが、会員資格は十万円以上の資産を持つ者だけに与えられており、その会員数がわずか数十人に過ぎず、当時の十万円長者が大正中期の千万円長者の数よりもはるかに少なかったことを見ても、そのころの大阪の財界がいかに小規模であったかということがわかるだろう。

 また中上川彦次郎氏が鐘ヶ淵紡績会社を経営する上で、大阪紡績会社と方針が食い違い、松本重太郎氏らとの確執が生まれたとき、両者が面目をかけて一歩も譲らない状況になり、中上川氏は大阪勢を圧迫するために大阪、神戸の三井銀行支店からの貸出金を回収するという手段に出たので、松本氏らは慌てに慌て、東西両軍の仲裁役として藤田伝三郎氏をにわかに立て、中上川が紡績の喧嘩に銀行を引き入れたのは非常に卑劣な手段であるとほうぼうに触れ回ったが、貸金を引き上げるという戦法を前にしてはひとたまりもなく大阪方面の降伏で終わったということをもってみても、大阪の財界の資力がいかに貧弱であったかを反証することができる。
 当時の大阪一番の活動家だった松本重太郎は第百三十銀行を、田中市兵衛氏は第四十二銀行をよりどころにして、さかんに新事業を計画していたのであるが、日清戦争が迫りくる時期であり、金融上の逼迫から事業にもいろいろな障害が出てきていた。当時の日本銀行総裁の川田小一郎氏にお百度参りをして、大阪支店での貸出の手加減を緩和してもらえるように三拝九拝するありさまだったので、川田氏が大阪に来るときは連日連夜下にも置かない歓待を繰り返していたものだ。これなどは、大阪商人のはらわたがいかにも薄っぺらであるかということが見え透いて、むしろ気の毒に思われるほどだったこのよう貧弱な大阪が日清戦争を過ぎ日露戦争を経て大正時代の大発展を見ることになろうとは、だれひとり思っても見なかったのではなかろうか。


藤田伝三郎男爵(上巻235頁)

 明治中期における大阪商人の傑物といえば、藤田伝三郎男爵を第一に数えなければならない。男爵は五尺(注・約150センチ)に満たない小柄ながら、体全体がエネルギーに満ち溢れているという感じだった。体にくらべて大きな顔に赤茶けた頬ひげをたくわえ、人を冷笑しているかのような涼し気な目には一種の愛嬌をたたえ、如才ない人の対応で一目で人を魅了するようなようすをしていた。
 道具数寄で、金融逼迫のときにあっても名器を見れば見逃さないのが常だった。小坂銅山の経営のために井上馨侯爵を介して毛利家の金を借り受けていたので、侯爵に対しては表面的には道具買収を遠慮していたが、井上には内緒だと言って道具道楽をやめなかったので、いろいろやっているうちに大コレクターとなっていった。
 私の大阪時代には、男爵は高麗橋の天五(注天王寺屋五兵衛)の旧宅に住んでいたが、やがては網島に本宅を構え、伊藤、山県、井上の公爵侯爵らと同県人の縁故のためか、大阪人も彼には特別の地位を与えていた。
 はやくに小坂その他の鉱山を開発し、また、備前の児島湾の開墾事業にも従事し、後年には台湾での木材伐採や樟脳の製造にも関係して、長兄の鹿太郎、次兄の久原庄三郎と三人兄弟共同で藤田組を経営していた。日露戦争後には小坂銅山の繁盛のおかげで家運も大きくふるい、三家が分立して財産を分け合うことになった。
 そのとき男爵の事業がすべて大阪以外のところにあったので、私はあるとき男爵に向かって、あなたはもう大阪に住む必要がないと思うけれども、なぜ東京に移らないのですかときくと、いやもっともなお尋ねである、自分は大阪にいる必要はない、しかし大阪というところは商工一方の土地柄で、それよりほかに気が散らないということが自分が大阪を去らない理由である、またもうひとつの理由は、自分がもし東京に住んでいたら、政府にいる友人たちからいろいろな世話事を頼まれて、それに奔走して疲れてしまいそうだからだ、と高くとまって他人を見下ろしているようなところに一種の気骨が感じられた。
 彼は晩年、網島に長男、次男、三男のための三邸宅を建て、ほとんど太閤秀吉の桃山御殿に匹敵するような勢いを示していたが、大正末年に起きた財界の変動によって、各事業にガタがきて、後継者もまた静養中だということだ。しかし、維新後の大阪に現われた財界の傑物として記憶され、また男爵の道具のコレクションに関しては、まださまざまな珍談や逸話があるので、これについては別項で記述することにしよう。(注・156「藤田男爵と大亀香合」など)

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六十八 大阪の商傑(上巻230頁)

 維新の前まで諸国大名の蔵屋敷を相手に封建的な商取引を長く続けていた大阪町人の大店が、維新の変動で将棋倒しに崩壊すると、一般の大阪人の元気も衰えてしまった。
 明治の初めに大阪で起業、興産ののろしをあげたのは、五代才助、中野梧一、藤田伝三郎、磯野小右衛門などの薩長人だった。また短い間ではあったが、井上世外侯爵が明治六(1873)年に下野したあとに藤田伝三郎、益田孝、木村正幹、馬越恭平らを取り込んでできた先収社という商会が大阪にあったこともこの情勢を物語るものである。
 それから十数年後にあたる明治中期の、私の三年間の大阪滞在中に接触した商工業界の巨頭には、以前からずっと続いて活動していた先輩あり、あるいは近年に台頭してきた新顔もあったが、とにかく近世大阪の財政史に特筆されるべき人物たちなので、ここで、もっとも傑出している数名についての短評を試みたい。
 明治中期における浪華財界の花形は、なんといっても第百三十銀行頭取の松本重太郎である。丹波間人町の出身で、頑丈な作りの身体はさながら力士のよう。顔つきもまことに大づくりで、眉毛が太く目も大きいといった感じで、それが大声で話をする、そのさばさばとした中に機略を感じさせるものがあった。第百三十銀行をバックに、大阪紡績をはじめとする新規の工業のほとんどに手を出し、大阪は一時、松本氏の天下のように思われた。しかしあまりに手を広げ過ぎたため、日露戦争の反動でまず銀行が破たんし、最後はあまり振るわなかった。養子の松蔵氏が後継者になり、それほどまでには零落の憂き目を見なかったことは不幸中の幸いだったと思う。
 次に、この松本氏のワキ役というべき存在は田中市兵衛氏であった。白髪巨眼に一文字の大口という、人形浄瑠璃に出てくる鬼一法眼そっくりの容貌だった。大阪旧大家の旦那であったため、どことなく鷹揚なところがあり、義太夫は堂にいり、玄人はだしであったそうだ。有望な市太郎という子息が早死にしてしまい、遺った事業を継続する人がいないようだが、干鰯問屋が本業で大阪米穀取引所の頭取をつとめ、大阪築港地付近に所有する土地が十万坪あり、のちに値上がりしたので遺族は裕福であるという。娘は中橋徳五郎夫人になっており、父の血をひいたためか長唄やその他の音曲に堪能だそうだ。
 もうひとり、大阪の大家を背景にして当時の重鎮のひとりだったのが、住友の広瀬宰平氏である。そのころ六十過ぎくらいだったが、維新のときに住友家が別子銅山を失わずにすんだのはこの人の尽力であったというから、住友家の今日があるのは彼に負うところが大きいのだろう。この人もまた大柄で、老体の紳士風に見える人だった。
 鴻池家の顧問だった土居通夫氏は伊予伊達家の藩士で、鴻池家と伊達家の関係から、同家の顧問になり、外交上の代表となっている人だった。この人もまた大きな身体で、素人としてはかなりうまく義太夫を語った。しかし田中市兵衛氏のような老巧者ではなかったので、聞き苦しいことがままあったらしく友人たちはできる限りこれを避けようとしたそうだ。しかしながら本人だけは大天狗で、「義経千本桜の熊谷を語らせたら、先代の津太夫よりも俺のほうがうまい、なぜなら、津太夫は努力して熊谷になろうとするが、俺は自分がすでに熊谷だからだ」と主張したのを摂津大掾が持ち上げて、「素人義太夫には玄人の及ばない特色があって、熊谷のようなものはまったく仰せの通りでございます」と言ったものだから、土居老人は鼻高々で、毎度のようにこれを自慢していた。
 大阪の旧大家である平瀬亀之助氏は当時五十歳あまりの旦那衆だった。この人は能楽、茶事、書画、骨董、音曲などの幅広い趣味を持ち、妙な習慣で昼間は寝通し、午後四時ごろに起き出して南地の富田屋はじめ一流のお茶屋に赴き、自分は一滴の酒も飲まず、取り巻き連中に芸尽くしをさせて長夜の宴を張るのを常とした。茶器の鑑定にかけては一見識を持ち、維新後に二束三文になっていた名器を多数買い込んでおいたために、明治三十五、六(19023)年ごろに同家の番頭の失策で家政が困難におちいったとき、所蔵の道具を売却することでみごとその欠損を埋め、ひごろは道具旦那と軽蔑していた番頭どもの失敗を、その道具旦那が尻ぬぐいすることになったというのは、まったく驚くべき話だったといえよう。
 鴻池善右衛門男爵はそのころ三十前後で、ときどき銀行業者の宴会などに出席されたが、その後はほとんど社交を絶ち、業務は番頭まかせであった。しかしきわめて器用な人で、自分で押絵を作ったり、古扇面の収集でもその数は二千本に達したという。
 私は大正十(1921)年五月に「大正名器鑑」編纂のために、同家の茶器の一覧させていただくお願いをし、鴻池新田の別荘で久しぶりに男爵と会見したが、新聞などで世間の動向をよくご存じで、道具入札の話になるとその記憶が確かなことには実に驚かされたものだった。
 以上の何人かは、明治中期における大阪大家のなかの主だった人物である。


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 六十七
関西探題(上巻226頁)

 私は明治二十六(1893)年に、三井銀行支店長を命ぜられて大阪に赴任することになった。これはただ大阪の一支店長ということではなく、じっさいには名古屋以西の京都、大阪、神戸、広島、下関、福岡、長崎の諸支店の総監督であって、いってみれば三井の関西探題(注・探題とは鎌倉、室町幕府時代の地方長官)というべき任務を帯びた仕事だった。
 三井銀行には、明治二十四(1891)年八月に中上川彦次郎氏が入行した。彼は二十五年一月(注・じっさいには2月か?)からは三井銀行副長になり、三井高保男爵を補佐して着々とすぐれた手腕を発揮していた。私も本店での滞貨整理の事務がようやくほぼ片付いてきたので、中上川氏が、東京のほうは自分が引き受けるので君は大阪三井銀行支店長になって関西方面の采配を振るってほしいということであった。そこで五月の末だったと思うが、妻を連れて大阪高麗橋の三井銀行社宅に引っ越した。
 当時の三井銀行は、今の三越大阪支店がある場所にあった。木造二階建てで、正面の間口が三十間(注・約54メートル)、奥行も同じくらいの非常に大きな建物だった。
 当時の日本銀行支店長は鶴原定吉、三井物産会社支店長は岩原謙三、三菱銀行支店長は荘清次郎氏で、大阪の実業家たちとは、明治二十二年の暮れから翌年はじめにかけて吉川泰次郎氏と同地を訪問したときの顔なじみだったから、あのときは半人前の貧乏書生だったのが、たちまち三井銀行の支店長に早変わりしたのを見てみな非常に驚き、また同時に歓迎してくれたので、職務のうえで非常にありがたかったものだ。
 しかし日清の関係がそのころまでには非常に険悪になっており、戦争が時間の問題になったので金融の状況は極度に緊張していた。そろそろ始まったばかりの諸工業も青菜に塩の状態で、わたしの「関西探題」の仕事にも単純にはいかない重要性が加わったのである。私は京都をふりだしにして長崎のはてまでを巡回し、非常時における応急策を講じた。
 滑稽なことには、下関から尾道まで乗船した汽船のなかで、まんまと携行品を掏られてしまい、尾道で上陸したあとは自分自身が荷為替(注・荷物を担保にすること)になって、ほうほうの体で大阪に帰りついたのであった。当時は探題殿の威厳にかかわることなので知らん顔の半兵衛で澄ましていたが、おかしくも忌まわしい大失敗というものだった。

 

生仏の雨曝(上巻228頁)

 私が三井入りした明治二十四(1891)年のころには、京都の東本願寺に、ある政府の高官の口入れで三井銀行が貸した百万円の借金があった。当時の百万円といえば今日の一千万円よりもはるかに高額で、私が三井銀行に滞貨整理部を設けて貸金回収を図ったときにも、この半額でも回収できればまあ上出来だろうと思っていたものである。
 さて私は明治二十六(1893)年五月に大阪支店長になり、その百万円は本店の貸金ではあったが、関西探題であることの手前、私がその回収談判を引き受けなくてはならないことになった。そこで同年の十月ごろであったか、私は田宮貸付課長を連れて京都の東本願寺に乗り込んだ。
 当時の本願寺の執事長は渥美契縁、出納長は小早川銕僊だった。渥美のほうは小柄でやせぎす、機敏な顔つきをしている一方、小早川のほうは六尺(注・約180センチ)くらいもある大坊主で、いかにも動じない人を食ったような感じだった。
 百万円の金主の代理でやってきた私の身体からは、まばゆいばかりの光明が発していたのであろう、彼らは平身低頭で私を出迎えいちばん正式な大広間に案内し下へも置かぬ接待ぶりだった。
 私の談判の内容は、すでに中上川と打ち合わせ済みだった。それは、返金がいつになるかわからない以上は、枳殻御殿を抵当として公正証書に記入させよ、というのだった。
 これには渥美も小早川も驚いた。それは無理もない、枳殻御殿というのは、むかし源融の大臣(おとど)が、塩釜の浦の風景を模して造営した六条河原院の遺跡であり、その後、石川丈山が作庭を指揮したという伝説もある、東本願寺門主の隠居所である。これを手放すことになったらたいへんだ。今後返金が期限に間に合わず、枳殻御殿が抵当流れになったならば、それは生き仏が雨ざらしになるのと同様だ。それは宗門の一大事だ、ということで、彼らははじめて真剣に目を覚ますことになったであろう。
 「生き仏の雨ざらし」という標語が、非常に檀家衆を刺激することになった。そのあとただちに加賀、越前、越中、越後、能登方面や尾張地方に派遣された役僧たちの活躍で予想外の浄財が集まり、まだ半年にならないあいだにきれいさっぱり百万円の借金の返済があったので、今度驚いたのは私たちのほうだった。浄土真宗の信仰の力はまことに偉大なのであった。ある人が、本願寺にお金を納めようとしていた老婆に、お前がせっかく貯めたへそくりを差し上げても、なまぐさ坊主の酒宴の代金に消えてしまって、なんの甲斐もないだろうと忠告したところ、それでは御門主様がお気の毒なので、もっと納めなくてはなりません、と答えたという。
 こうして当時は私たちも驚いたものだが、この信仰がはたしていつまで続くだろうかということを今後も興味深く眺めていきたいものである。


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 六十六
吉原謳歌の名残(上巻222頁)

 徳川時代に紀文(注・紀伊国屋文左衛門)や奈良茂(注・奈良屋茂左衛門)が全盛をきわめ、高尾だの玉菊だのという名妓が美談を残して軟派芸術の繁栄の中心となった吉原も、その全盛は維新の変動とともに下火になり、一年一年とその影が薄くなっていった。それでも明治二十年代まではさすがにその名残をとどめ、芸者や幇間の達人が残っていた。
 なかでも、おりゑ、お直、お〆、おちゃらなどは一騎当千の老妓とみなされ、それに山口巴の女将おしほを加えて、東京の高官紳商のお座敷にはおうおうにしてそのような人たちがはべっているのが見られていた。
 吉原というのは、昔、浅草の札差の旦那衆が、流連(注・いつづけ=連夜遊行にふけること)して伊達を競った不夜城であるから、一時期彼らのあいだで全盛を誇った河東節のなごりをなおとどめていた。老妓のなかにはまだこれを上手にやれるものも多く、おりゑ、お直はその道の達人であったし、おちゃらは新内節、お〆は吉原名物の木遣で有名だった。
 とくにお〆は、相撲取りのような大きな体をしていて、それが閻魔大王が顔をほころばせたようにして大声で木遣りを歌いだすと、いかにもはつらつとして吉原らしい元気さに満ちていたものだった。
 吉原の芸者や幇間というものは、もともと太夫のワキ、ツレとして座敷を取り持つのが仕事である。また夜桜祭りや灯篭祭りのときに、あの二輪加(注・にわか=即興芝居)を演じるためにいつもその技術を練習しているので、芸の面で当時東京では匹敵するものがなく、どのような座敷に臨んでも、彼女たちは姐さん格で仰がれ一目置かれていた。
 しかし明治二十年代になりその老巧者が凋落していくとそのあとを継ぐものもなく、一方で新橋や柳橋で芸道が奨励された結果、優者生存のならいで、明治中期を最後にして北の廓が挽回することはなかった。
 しかしその最後にあたり、たとえ線香花火のようであったとはいえ目をひく火花を加えたのが、ときの日本銀行総裁で旧式の大尽風を吹かせて豪勢な磊落ぶりを見せた川田小一郎男爵であった。
 川田男爵の全盛時代には、昔から芸者に美人なしと相場が決まっていた吉原に、いとめずらしいことに吉次という美しい芸者がおり、川田大尽の勢力をしても、かんたんにはなびかすことができないのであった。
 それを、例の老妓連中が画策して、北廓(注・吉原のこと)繁盛のためのいけにえとして、吉次を明治の仏御前(注・平家物語の白拍子)として差し出したので、大尽は布袋腹をかかえて有頂天になり、それから一層吉原のパトロンになっていったのである。
 川田大尽はもともと舞踏や音曲を好み、見巧者、聴巧者として芸術の奨励を標榜し、吉次をはじめとする東京芸者を京都に連れてゆき、関西風の舞を習わせたりもした。
 また将来に見込みのある女流芸人を庇護し、おりにふれてその芸道の進み具合を確かめるのを楽しみとするような人でもあった。
 後に清元延寿大夫の妻となった清元お若なども少女時代にその天性の歌声を愛され、養母のお葉とともに川田の愛顧にあずかったことはよく知られている。
 川田氏にこのような因縁や志向があったために、吉原謳歌の時代の最後にひと閃きの光が添えられたわけであるが、それがとうとう繁栄のなごりとなってしまったのは、明治中期以降に世相が一変してしまったその象徴だったと見てよいかもしれない。


応挙屏風の割愛(上巻225頁)

 全盛時代の川田総裁の性格がよくあらわれたエピソードがある。そのころ日本銀行の監事をつとめていた森村市左衛門のち男爵氏が円山応挙の「早苗時鳥屏風」一双を持っていたが、川田氏は茶碗や書画のコレクターというほどではなかったにしろ、書院の飾りには相当の書画骨董を陳列されていたから、すこしはそちら方面の趣味を持っておられたにちがいない。あるとき森村氏所蔵の応挙を見せてもらい、うらやましくてたまらなくなった。しかしさすがに譲ってくれとは言い出しかねたらしく、いろいろ考えた末に、得意の知恵を絞ってハタと一案を思いついた。
 それは、江戸川町の自邸に東京の名士を招待する席上、「目に青葉、山ほととぎす」の季節でもあったので、家の裏庭にある水田の早苗が青々と風にそよぐそよぐ五月の夕べの席に一興を添えたいので、どうかあの屏風を貸していただけないだろうかというものだった。森村氏としても、これを断る理由もなく、頼まれるままにさっそく屏風を貸し出した。
 森村氏も招待客のひとりだったので当夜川田邸に行くと、例の屏風が客間の一方に立てられ、郷里の土佐の国からは、ほととぎすを二、三羽取り寄せて、招待客が客間に集まったころに鳥を鳴かせるという趣向であった。

 ところがほととぎすがその注文のとおりに鳴きださないので、主人はじりじりと焦りはじめ、今にも癇癪玉が破裂しそうになったその時、屏風のかげから裂帛(注・れっぱく。声などが鋭いの意)の一声が客の耳をつんざいた。
 これには列席のひとびともすっかり感心して、主人の考えた珍趣向を口々にほめたが、森村氏もまた、主人がこれほどまでに凝りに凝ってこだわったことに感じ入り、即座にその屏風を寄贈し、川田氏の執着心を満足させてやったのだそうだ。 
 明治二十年代には、まだこのような好事家(注・趣味人)がいて、はなしのタネを蒔いている時代だった。今日の目から見るとなんとも昔懐かしい気持ちになるのである。


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 六十五
両川の智恵競べ(上巻219頁)

 明治二十五(1992)年ごろは、日本銀行の川田と三井銀行の中上川が対峙して、貫録という点ではすこしばかり不釣り合いではあったものの、なんとなく敵国同士の観があった。その一方である三井銀行の中上川は、官金中毒の治療のためにまずは滞貨金の回収などの整理に没頭していた。
 そのなかに、三井銀行の横浜支店長から正金銀行貸付係長の角堅吉に預け入れした三十六万円に関する係争問題があった。正金銀行にはこの預かりの事実がないということなので調査してみると、角が、私用で競馬などにつぎこんでしまったものらしい。角は金を預かったとき、細長い手形のような紙に預金高を書き入れそのつど三井銀行の支店に渡していたらしく、法律の上でなかなか複雑な問題になってしまった。
 しかし中上川はその紙手形の中に正金銀行の便箋があるのを発見してこれを重要視し、岡村輝彦を弁護士として訴訟を開始しようとした。
 そのとき川田総裁が、正金と三井の両銀行が法廷で争うのは非常によくないので、自分に仲裁を任せてもらえればなんらかの力になれると思うと言い出した。
 正金も三井も、これ幸いと異存はなかったが、川田がどのようにこれに裁きをつけるのか、その手並みにみなが注目することになった。
 川田が双方の代表者に提示した仲裁案は、正金銀行が海外為替用に日本銀行から年に二朱(注・未調査)で融通している資金のなかから百万円を割き、二年間、三井銀行での使用を許可せよ、というものだった。 
 正金銀行でも損にならず、三井も横浜支店長に多少の手落ちがあったわけだから、この仲裁案を双方が受け入れ円満に解決した。

 それにしても、中上川が手形の紙のなかから正金銀行の便箋を見つけた目のつけどころと、川田が双方が受け入れる可能性のある裁断を下したところには、さすがに当時の財界の両巨頭の知恵比べの観があった。いまではこのときのことを知る人も少ないので、両雄の面影をとどめるためにここに書き留めておく次第である。


渋沢の八方美人(上巻220頁)

 渋沢栄一は、明治、大正にまたがり、わが国の財界にもっとも偉大な足跡を残した大経世家であるばかりでなく、学識や経験にも富み、智徳円満な君子である。福禄寿(注・子孫、財産、長寿)のいずれにも恵まれ、維新後のわが国の商工業の草創期にその発展を助けた功績は、どんな讃辞をもってしても言い尽くせないほどである。
 ところで、明治中期以降の渋沢子爵だけを知る人は、子爵を円満で老熟した、いわゆる八方美人の見本のように思うかもしれない。しかしそれ以前の渋沢子爵は、必ずしも浜辺の貝殻のようにすべすべして尖ったところがないというわけではなかったのである。
 子爵が明治の初年に大蔵省に出仕したときはかなり気骨のある議論家だった。大久保利通卿らとも相当の議論を戦わせ、結局井上侯爵とともに連帯辞職するに至ったのである。

 民間にくだってからは第一銀行の頭取になり、その翼を財界に伸ばすことになった。三菱の岩崎弥太郎とその一派に対峙し、さながら敵対国同士のようになっていた。
 共同運輸会社と三菱汽船会社の競争では、渋沢子爵が正面に出ていたわけではないが、三菱一派と、渋沢、益田らとが対決の情勢を見せていたことは誰の目にも明らかだった。 
 そういう渋沢子爵の世渡りぶりが、明治中期以降に目だって変わってきたように見えたことについては、なにか理由があったにちがいない。
 私の見るところでは、前述した明治二十四(1891)年四月(注・じっさいは七月か?)に起きた三井銀行、第一銀行の恐慌に際し、渋沢子爵が第一銀行に対する責任上やむをえず川田総裁に頭を下げて援助を請わなくてはならなかったことがあったと思う。

 この事件は渋沢子爵にとり、一生でも一、二を争う不愉快な出来事であったと思うが、同時におおいに悟るところがあった事件でもあったのではなかろうか。
 実業家が、銀行や会社などの事業に当たり責任のある地位にある場合には、なによりもまずその仕事に対する責任を負わなくてはならない。自分の権力を増大させようとか、名声に注目してもらおうなどという自己本位の考えは一切投げ捨てなけれはならないものなのだ、というような、子爵の覚悟ができたのではないだろうか。
 渋沢子爵が関係した事業は非常に広範囲にわたっているので、子爵の利己的な意地だとか好き嫌いが原因で財界有力者と衝突を起こしたり事業になんらかの損害を受けるようなことは、事業の従事する人間として申し訳が立たないという考えが、このときに子爵の胸中に湧き起こってきたのではないかと思うのである。
 もちろんそのとき渋沢子爵は五十歳を過ぎ、いずれにせよ老熟円満の境地に達する年齢ではあったけれども、このことが一層、子爵の心境に変化を及ぼしたのではないかと、私は当時見ていて思ったものだった。むろんこれは、凡人の浅はかな観察に過ぎぬかもしれない。記して識者の教えを待ちたい。


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 六十四
道具入札の嚆矢(上巻215頁)

 東京において道具入札売買が始まったのは明治二十五(1892)年のことで、それには私も実は密接なかかわりを持っているのである。それはほかでもない、前記のように私が明治二十四(1891)年から三井銀行内に整理係を設けて、貸金を整理したり担保の品を処分することになったりしたことと関係する。こうしたなかに、堀田瑞松という塗物師が、その地所と家屋、道具類を抵当として六万円を借りているケースがあった。
 その抵当物のなかには、今日三井家の所有になっている三万坪の大崎別邸なども含まれていたが、彼の自作による黒塗の書棚が十数個、また中国の黒檀紫檀枠の織物張交ぜ屏風などの数々の道具類も含まれ、それらを処分することになったのである。
 また第三十三銀行頭取の河村伝衛氏の抵当だった道具の処分にあたり、その一部は、当時、山城河岸にあった堀田瑞松の住宅に陳列して三井内部の人間に売却し、その他多数の茶器は星ヶ岡茶寮において売却することになった。
  そのころ三井に出入りしていた加賀金沢出身の徳田太助という人がいて、兜町の角で鬼の念仏を看板にして薬種の店をやっていたが、この人が道具の売買にも心得があるということでその売却を任せたところ、彼は東京での従来の道具売却の方法だった競売法を使わず、加賀の入札売却法を採用したので、それからこれが東京での道具売却は入札法になったのである。そのときの荷主(注・売却主)には、三井を代表して私がなり、徳田を札元にして入札に当たった。
 このときの道具相場は驚きにたえないほど安かった。田村文琳という有名な名物唐物茶入に対して、岩崎弥之助男爵の注文を受けた小川元蔵が三百円、馬越恭平氏から依頼された山澄力蔵が三百円五銭の入札で、わずか五銭の差で馬越氏に落札した。これは維新後のわが国の道具移動史において、特筆すべき一事件だと言えよう。
 このとき出た道具の数が何百点だったのか記憶しないが、売上高が約四万円前後だったから私はとてももったいないと思い、のちに大阪三井銀行の支店長になったとき、同行の抵当になっていた長田作兵衛家の道具を処分するときには、この時の経験から思いついてそのとき売却することはせず、全部を三井各家に分配することにしたのである。

  こうした経験から私の道具鑑賞眼はおおいに培われ、茶事に対する興味も増して、とうとう病みつきになることになったのである。


東京地面の価格(上巻217頁)

 維新後明治中期にいたるまで、東京市内の地価は驚くほど安かった。維新直後には、高輪の毛利邸が二万坪以上でたったの八百円、明治四年に慶應義塾が買い取った芝三田台の島原藩邸が一万三千坪で五百円あまりであった。
 小石川の水戸藩邸は、維持困難というのでみずからすすんで政府に献納したなどというあきれるような話や、明治十年前後に馬越恭平氏が本郷弥生町の宅地八万坪を坪一円で政府から払い下げられたが、ほどなくして銘を龍田という柿のヘタ茶碗の購入資金に困り、土地をほとんど原価でほかの人に譲り、のちにその地所が坪五十円に値上がりしたときに、この茶碗は四百万円の身代わりだと言って披露したなどという奇談もある。
 番町あたりの宅地はだいたい千坪で二百五十円くらいだったので、政府の高官たちは月給の余りで買い入れ、後年の財産になった場合が少なくない。
 私が三井銀行内に貸金整理係を設け、抵当流れの地所を処分しつつあった明治二十五、六(18923)年ごろは、地価も非常に高騰して昔のような安さではなかったとはいえ、まだまだ高の知れたものだった。現在都新聞などがある五千坪のひとまとまりの土地は、小野金六氏が経営していた東京割引銀行が持て余していたのを、私が三井銀行に持ち込み一坪八円で買い取らせたものだ。
 またそのころ政府が、丸の内の土地十万坪を、一坪十六円で払い下げることになった。私は三井がこれを引き受けるかどうか三井銀行の幹部会にはかったことがあったが、同行は当時官金返却に専念している際中で中上川氏はまったく賛成しなかった。
 これを買収したのは三菱だったが、ここで思い出されることがある。明治二十二(1889)年に私がロンドンに滞在中のこと、長崎造船所建設の下調べのためにイギリスに来ていた荘田平五郎氏をサヴォイ・ホテルに訪問したことがある。そのときに、イギリスの貴族が年利2パーセントの利回りにもならないロンドンの土地をひとりで多数所有しているのは経済上の利害から見てどのように説明されるのだろうか、という話をしたとき、荘田氏は、富豪の財産はなるべく種類を多くして、ひとつのものに集中させないほうが安全だ、土地は利回りは小さいが財産品目として非常に大切なものである、と言っておられた。三菱が丸の内の土地を得たことは、堅実さで知られる弥之助男爵の考えではあったろうが、当時洋行帰りの荘田氏の提案の力も大きかったのではないかと思う。


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 六十三
三井整理の進捗(上巻212頁)

 三井革新の大会議のあと、私はその会議で決まった整理係をさっそく銀行内に設置しようとしたが、前述のとおり西邑、今井などの現重役陣はしぶしぶ同意していたので、とにかくぐずぐずして実行するまでには約一か月かかり、七月四日になってついに滞貨整理係が成立した。三井三郎助(注・高喜は当時総長なのでおそらく高景)が係長、私が次長になった。
 この整理係の仕事は、東京三井銀行本店の貸付係の帳簿のなかから不健全とみなされるものを選び、これを整理係の帳簿に移し、回収がもっとも困難だと思われる貸金から、債務者に事情を告げて催促しあるいは協議する。抵当を差し出す場合は引き取り、ほかに借り換えをする場合はそのようにしてもらい、かたっぱしから順番に回収作業を行うというものであった。
 この実務にあたるために専属の貸金催促係を二名置いた。ひとりはのちに原田電気商会主になる原田金次郎氏の実父だった。
 このときの不良貸金の相手に堀田瑞松という人がいた。軍艦の底に漆を塗り、貝殻の付着を防ぐという発明を実施するための資金を貸し付けたもので、現在の大崎の三井控え邸の三万坪はこのときの抵当流れである。

  また官吏の邸宅を抵当として貸し出してあったものも多数あった。例の官金出納に影響を及ぼさないように西邑氏らの意向を考慮したので、回収に時間のかかるものをあったが、抵当の時価が貸金と大差ない場合には利息を払わなくてもよくしたりしたので、案外多額の不良貸金を整理することができた。これが、私が銀行実務にあたって最初にやった腕試しというものであった。


三井資力の消長(上巻213頁)

 明治二十四(1891)年四月、三井銀行が恐慌に遭って当惑していたとき、いったい三井全体の資産がどれほどあるのか、貸借対照はどのようになっているのかが明確にはわからなかったので、ある日井上侯爵が私を自邸に呼び、西邑にきいても三井の財産がどのような状態なのかは、ただ大丈夫だと言うだけで要領を得ないので、まずこれを調べ、その結果が他人に見せられるような状態なら、大蔵省や日本銀行やその他財政関係の要職にある人達に打ち明けておくほうが三井のために安全だと思うので、君が主任になってさっそく調査してほしいと言われた。
 そこで私はさっそく調査にとりかかった。これにはおよそ一か月半もかかったが、なかなか複雑な作業だった。たとえばある貸金があったとして、それを全部回収できる場合、七割あるいは五割回収できる場合、またはまったくの貸し倒れになる場合などと見込みを立て、回収見積高を資産に編入するのであるが、東本願寺に貸した百万円、第三十三銀行に貸した七十五万円、角堅吉氏から未返済の三十六万円、神戸支店で嘉納某氏から引き取った小名浜の土地、または三井元方に支出した三池炭鉱入札の即金払いの百万円などを、どのように見積もったらいいのかほとんど見込みがたたない。まず元金だけ取り戻せれば上出来だろうくらいに考えて、その財産と政府預金、民間預金、その他の借方勘定と差引計算した結果が、クレジットのほうが少しデットを上回ったくらいで、だいたい貸借がどっちもどっちくらいの勘定になった。
 今日から見るとじつに馬鹿馬鹿しいお笑い草のような計算だが、その調査ができ上ったときには三井の主人がこれを見ても驚かず、井上侯爵なども、これならそれほどまでに悲観することもなかろうとむしろ満足したような次第で、隔世の感があると言わざるをえない。
 さてこの調査表を十数部作り、井上、渋沢、その他に提出しておき、ほどなく山陽鉄道の引継ぎを終えて上京した中上川彦次郎氏を新橋の停車場に出迎えたのであるが、三井銀行のほうでは中上川氏に知り合いはおらず、また氏の入行を歓迎していたわけでもないので、私以外に出迎える人もなかった。とりあえず調査のできあがった例の調査表を氏に示すと、これなら思ったよりも結構ですね、と言われたような次第だった。
 中上川氏がいよいよ三井銀行にはいり、各方面にあいさつ回りをしたときには、井上侯爵とも相談のうえ日本銀行の川田小一郎氏にもこの表を見せ、このような状態なので以後よろしくご援助を願いたいと述べたそうだが、中上川が日本銀行から帰ってきたとき私に向かって、今後三井の改革を行うにあたり、再び川田などの前に頭を下げたくないから、たとえ利益は少なくても、まずは堅実を心がけて進まなくてはならない、と述べられた。例の傲慢な川田の態度に憤慨したのであろうか、あの感慨深い顔つきを今でも印象深く覚えている。


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六十二  後の相馬事件(上巻208頁)

 以前、別項(注・29参照のこと)で相馬事件について取り上げたので、今回はその後の相馬事件について述べる。この事件は私の身にはなんら関係がないが、後藤(注・後藤新平)伯爵から私はじかに話をきいている。自その困難に対応した本人から話をきいておきながらそれを聞き流すだけでは、宝物を泥の中に投げ捨てるような気がするので、後藤伯爵の語った内容をここにそのまま叙述することにしてみたい。(注・内容についても現代文に意訳している)
  

 相馬事件については不思議な事実があった。最初は相馬誠胤に同情した陸奥宗光が、相馬事件の後半では反対に後藤に圧力をかけ法廷に立たせるに回ったことである。これは相馬家が古河銅山に出資していることと関係があった。
 のちの相馬事件、つまり事件の後半がどういうものであったかというと、明治二十五(1992)年に錦織剛清が相馬誠胤の死因が毒殺であると告訴したので、死体を発掘して大学で検証したところ毒殺の事実についてははっきりしなかった。そのために、錦織は誣告罪(ぶこくざい。注・虚偽告訴罪)、後藤はそれを仕向けたという罪で投獄されることになった事件である。
 その当時後藤は衛生局長であったから、監獄にはいっているあいだは休職扱いとなった。その六か月と二十日のあいだ、検事と激論をかわしその後の公判で無罪になったのを検事がさらに控訴した。控訴院でふたたび論争が続き、ここでもついには無罪になり明治二十七(1994)年に終わりを告げた。
 後藤は拘引される四日前に、医師の長谷川泰の訪問を受けた。長谷川は、たった自由党の本部で陸奥の働きかけでとうとう後藤を入獄させることになったと、星亨がある人に話しているのをきいたから、君は十分に用心しなければならないと忠告したそうだ。 

 そのころ相馬家には多量の金塊があったが、それを当時の家職(注・執事)が売り払い、その金を古河銅山の資金に投じたので、古河と相馬のあいだには密接な関係が生まれた。陸奥の子(注・次男)は古河の養子になった古河潤吉であり、古河市兵衛の相続者であったから、陸奥が後藤を入獄させるようにいろいろ図ったというわけだった。
 ところで、後藤が錦織に虚偽の告訴をさせた証拠とされたのは、後藤が引っ越しをしたときに錦織が手伝いに来て、懐にしていた相馬誠胤毒殺事件の控訴状の原稿を違い棚の上に置き忘れたのを家宅捜索のときに発見されたということと、錦織が入獄したときに生活費として三千五百円を置いていってほしいと希望したのに対して、後藤が錦織の借用証文に印を押したことのふたつである。
 しかし後藤にはなにもやましいところがなかったから、最初から検事を抑えてかかったが、その検事は西村伝西川漸だともいうという福島出身の非常に意志の強い男だったから、熱心に後藤を取り調べ、五十銭、一円の金を憐れんで与えたというのであれば関係はなかったと思えるが、三千五百円という大金の証文に印を押すとは、その意味するところは明白ではないかと迫った。
 後藤はそこで一首の古歌を口ずさみ、花は散り方を見るのが情けであるという意味をほのめかしたそうだが、彼はこのことがよほど印象深かったとみえ、その後、後藤が福島に行ったとき、彼は福島で弁護士をやっていたが、いちばん先に出迎えて、名刺の裏にその歌を書きつけて見せたとのことだ。彼もなかなかの人物だったのであろう。
 さて後藤はそれから監禁十七日に及んだが、そのとき牢番が後藤に同情し、世間のことを語ってきかせながら、あまり検事と争うのは身のためではないと忠告すると、後藤は一首の歌を詠んだ。

    なかなかにけふは見られて面白し 人の心の裏と表を

そのころ後藤は思いつくままにたくさんの歌を作ったが、多くは忘れてしまったそうだ。
 後藤は検事に対し、僕が錦織をそそのかすはずがないことを示す理由がある、と言ったという。今日では毒殺の方法が非常に進み、一か月を経過するとその痕跡がわからないようになる。そのことは、僕が医学の上でもよく知っていることだ。それなのに、一年を過ぎた遺体を解剖して毒殺の検証をするなど、到底無理な話である。それを熟知している僕が、益のないことをそそのかすはずがないではないか、これが学問の真理というものだ、と説明し、検事がいろいろと追及しても平然として、入獄の日数が長引くのを不満として、世間のひとびとに知ってもらいたいと思ったのである。

 しかし不思議なことに、このほど磯部四郎が、あの相馬誠胤の妾の口述筆記をしたのであるが、そのなかに、誠胤は確かに毒殺されたとあったそうで、これはさらに調べてみなければならない事実ではないかと思っている、とのことだった。
 以上が後藤伯爵から直接きいた話である。この当否について私は何事も語らない。ただきいたままを伝えるのみである。


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六十一

君臣共栄(上巻204頁)

 私がイギリスに滞在していたときヴィクトリア女王はまだご在位中で、のちのエドワード七世陛下はプリンス・オブ・ウェールズ(注・皇太子)だった。この皇太子の人気も高かったが、その妃殿下がまた絶世の美女で、私が住んでいた下宿屋のおかみさんなどが、いつも「なんというきれいな天女でしょう」などという称賛の言葉を自分のことのように自慢する言葉をきき、イギリスの君臣がうちとけあっていることをうらやましく感じたものだった。
 そのころ、皇太子と妃殿下が毎週日曜に市内のある小さな教会に行かれていると聞き、一度拝観にでかけたことがある。その日妃殿下のご礼拝はなかったが、皇太子がみえていた。皇太子はやや肥満気味で、背はそれほど高くなく、血色がよく、女王によく似たご容貌であった。教会の入り口をとり囲んで見ている群衆に軽く会釈をしながら、にこにこして教会の中に進まれた。
 その人懐っこい殿下の姿を拝観し、なるほどイギリスだけでなくヨーロッパのいたるところで非常に人気があるのも、たまたまというわけではないのだと思った。
 イギリスは日本のような万世一系の皇室ではないから、君主と人民の関係を同列に論じることはできないが、世界の趨勢を考えると君主と人民のあいだは、理屈を超えて感情的な親しみを持ってうちとけることが必要なのではないかと思い、帰国後には会う人ごとにこうあるべきだと話していたものだ。
 そんなとき、英照皇太后陛下が前々より能楽を好まれ、明治天皇がご孝行のために造られた青山御所内の能楽堂で毎年一、二回能楽の催しを行うたびに、各流派の能楽師だけでなく身分のある素人の能楽家たちも舞台にあがらせているということを知った。
 そのために、玄人はもちろん素人も大きな光栄を感じて芸道に励んでいるとのことだ。この能の催しが、君主と人民とがともに楽しむ契機になったことを知り、私は、太平の世の美談でまことにありがたいことであると心からうれしく思ったのである。

 

御前素人能(上巻205頁)

 英照皇太后陛下は以前から能楽を好まれその道に精通されていらしたそうで、その一例としては、青山御所で催される能のおりに皇太后亮の林直庸を呼び、ご自身でその番組をご指名なさったことをあげることができる。あるとき、今度の狂言は「サクカ(原文「サククワ」)」にしようと仰せられたが、林氏はそのような狂言を前に見たことがなかったので、「サクカ」とはどのように書くのでしょうかと伺ったところ、陛下はホホとお笑いになり、サクカは咲く花と書くのであるとご教示してくださったので林氏はたいへん恐縮したのだということを古市公威男爵に話されたそうだ。
 このように、皇太后殿下は能の鑑賞の眼識がきわめて高かった。素人能で、シテなり、ワキなりが揚幕から一歩踏み出す姿勢を見るだけで、陛下はその技量をすぐに見てとることができたそうだ。
 古市男爵の懐旧談によると、男爵は青山御所の能舞台での御前能に二回参加したことがあるそうだ。最初は明治二十三(1890)年四月十二日で、望月をつとめた。二回目は同年の十一月十八日で歌占の囃子を舞った。
 さらに二十六(1893)年六月六日には、芝の能楽堂で行われた御前能で、天鼓、弄鼓之楽を演奏されたそうだ。そのときの番組はのとおりであったということだ。
 この番組を拝見すると、当時の素人能の権威が誰であったこということがわかるばかりでなく、玄人能楽師や囃子連中がいかに名人ぞろいであったかということをうかがい知ることができ、現今の能楽界と比較して、今昔の感にたえないものがある。

  

 御能組 明治二十六年六月六日

 松本忠恕
須磨源氏 福王繁十郎 津村又喜  黒田長知

           大倉六蔵  平田亀次郎
 間 茂山忠三郎
東北   中川久成  津村又太郎 一噌米次郎

           三須錦吾  
 穂波経           度
満仲   春藤六右衛門 小杉本祐  森田登喜
            大倉和三郎
 間 野村捨五郎
松虫   津軽承昭   津村又喜  森田登喜
            三須錦吾
 前田利鬯
三山   竹中俊太郎  南部利剛  一噌要三郎
            松平容保
 間 野村捨五郎
弦上   梅若実    植田源蔵  森田登喜
            三須初太郎
 子方 観世織雄
 林直庸
隅田川  宝生金五郎  石井一斎  一噌要三郎
            三須錦吾
  彩色之伝
  鉦之拍子
野守   宝生九郎   小杉本祐  一噌要三郎
            大倉利三郎
 飯田巽
重盛   福王繁十郎  津村又喜  一噌要三郎
            大倉六蔵
融    前田利聲   植田源蔵  森田登喜
            三須初太郎
 古市公威
天鼓   鈴木誠    津村又太郎 増見仙太郎
            三須錦吾  一噌要三郎
  弄鼓之楽
  間 山本東次郎 
    付祝言



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