だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

2017年05月

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 六十
明良遭遇(上巻200頁)(注・明良=名君と良臣のこと。書経から)

 明治二十四(1891)年は三井中興の発端で、同年十一月には三井銀行副長の西邑乕四郎氏が例の取りつけ騒ぎに恐縮して内閣首脳陣(注・三井大元方のことをさす)の更迭を承認した。
 西邑氏はもともと三井八郎次郎(注・三井南家)男爵家の家職(注・執事)の出身で、どこかの大藩の家老とでもいうような上品さと誠実さを兼ね備えた人だった。もし主人にあやまちがあれば身を挺してこれをいさめ、まかりまちがえば切腹さえもしかねない実直な人だった。私腹を肥やし権力を握ろうなどという非道な考えはなかったのである。
 だから今回中上川氏が自分に替わることになっても特別不満を述べるということはなかったが、井上侯爵は若干の手加減を加え、三井銀行総長である高喜氏のかわりに高保男爵を推し、中上川氏を副長にするとともに西邑氏にも副長の名を残し、また今井友五郎、藤専蔵をいままでどおりに元締に残して第一次三井内閣を組織することになった。急激な改革を避け次の人事改革を待つなど、このくらいのところで止めたのである。

 しかし結局のところ首脳となったのは、主人側では髙保男爵、重役側では中上川氏で、この両人による鋭意改革が断行されることになった。
 当時を思い出してみると、それまでどおりであればもっとも聡明な高保男爵を総長のような重要な地位につけることは、三井のような長年にわたり年齢順に地位を定める家族制度を守ってきた家においてはとうてい不可能だっただろうと思うので、それをなしとげて高保男爵と中戸川氏のふたりを組み合わせたというのは、まったく井上侯爵の力であった。
 このとき中上川氏は三十八歳の働き盛り高保男爵は四十二歳で、すこし前(注・明治20年)に益田孝男爵とヨーロッパ諸国をめぐり大きな決意を抱いて帰国されたばかりのときだった。このふたりが舞台上に上ってきたというのは、渠成りて水至る(注・溝ができると自然に水が流れてくることから、ものごとには順序があるということ)の勢いで、まさに適材適所であった。三井家の下降していた運はこのとき底を打ち、これから先は大きく反転する時期であったわけだ。


中上川の手腕(上巻201頁)

 中上川彦次郎氏は、明治二十四(1891)年八月に三井銀行にはいり、同年十二月に副長になるまで、飛び立つ前の鳥がまずは羽根をおさめるかのように、もっぱら三井の研究につとめた。(注・実際の役員改選がおこなわれたのは、明治25年2月?)
 十二月に副長に任命されると、翌年の一月から部署を決めるなど各方面の改革に着手した。この改革について、ここでくわしく論じることはできないので、主だったものだけをいくつか挙げることにする。

  一、学生を採用すること
  一、行員の給料を増額すること
  一、不良債権を整理すること
  一、官金取り扱いを辞退すること
  一、鐘淵紡績会社、王子製紙会社、製糸工場などを積極的に経営すること
  一、三井営業店を統一すること
  一、三井合同営業所を建設すること
  一、北海道炭鉱その他、同地の事業経営のこと

などで、中上川氏が二十四年に三井にはいってから三十四(1901)年に死去するまでの在職中に実現した改革の案をあげてみた。このなかには初めからすぐに実行したものもあれば、徐々に着手して数年以上かかったものもある。
 彼は三十八歳から四十八歳の壮年期のもっとも気力精力が充実している時期に、ときにははたから見ていてはらはらするくらいにかなり過激に前進し続けた。
 たとえば人間の採用については、従来の人材のなかでまだ役立つ者のほかは慶應義塾出身者をどしどし採用した。朝吹英二、藤山雷太、和田豊次、武藤山治、林健、矢田績、鈴木梅四郎、波多野承五郎、小野友次郎、金井又二、藤原銀次郎、日比翁助らはいずれも当時採用された。
 また採用するばかりでなく、藤山雷太氏を自分の夫人の妹と結婚させたり、のちに三井銀行取締役として重要な位置に立つ池田成彬氏に長女を嫁がせたりした。これは、部下に一心同体の人物を集めておくことが、ひいては自分が奉公する三井にとっての利益になるという考えによるもので、世間のうわさや評判を気にかけない中上川氏一流の見識だった。
 行員の給料を増額したのは、当時の三井のような家では、使用人に生活できるかできないかの少額の月給を与えるかわりに裏でさまざまの抜け道があったことを改正したものである。思い切って給料を上げるかわりに風紀を非常に厳粛にとりしまるという、非常に効果的な方法だった。
 また、三井が大株主でいつも資金を供給していた鐘淵紡績会社、王子製紙会社などを完全に三井銀行の管理下に移したことも彼のふるった辣腕のひとつである。
 王子製紙会社を、渋沢の配下だった大川(注・渋沢の甥にあたる大川平三郎)から取り上げ三井の配下にある藤山の手中に移したときには、大川と藤山のあいだに大きな衝突が起こり劇的な一場のシーンとなった。
 あまりにもきびきびと改革を進めることに対しては賞賛と悪口が相半ばした。後年、中上川攻撃が続出したときは、井上侯爵も反感に同調して攻撃の度合いが増したこともある。しかし、三井中興の基礎をわずかに数年間のうちに築き上げたその手腕はおおいに認めなくてはならないと思う。


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  五十九
実業生活の首途(上巻196頁)

 前述のように、私は明治二十四(1891)年一月から、役名はなかったが客分の資格で三井銀行にはいり、それまでの半人前の生活を終えて実業生活にはいった。そこで、家庭を構えるために妻帯の必要を感じ、四月二十四日に山口県人の長谷川方省次女の千代子と結婚した。これはまったく私事であるけれども、当時の私の生活状態がどのようなものであったかを次に少し記しておきたい。
 私は明治十四(1881)年に東京に出てきてから、このとき早十年になっていた。それまで実家から金の仕送りを受けたことがなく、友人から金を借りたこともなく、借金というものは私にとっては絶対に禁物だった。
 慶應義塾に在学のときは福澤先生から毎月七円五十銭を与えられ、約一年で卒業したあとは時事新報にはいり、最初の月給は十円、その後次第に昇進し、明治二十(1887)年に退社したときには、社員の中で最高給の百円くらいの月給をもらっていた。
 洋行時の前半は下村善右衛門氏から出資を受け、後半は旧藩主の徳川篤敬公爵からの臨時借用で間に合わせ、明治二十二(1889)年の帰国から三井にはいるまでの二年間は、前半は時事新報の社説執筆料で、後半は横浜貿易新聞の監修料で、生計には特に困るほどのこともなかった。
 三井銀行では百五十円を給与される内約であったので、築地三丁目に家賃二十五円の家を借り簡単な婚礼を済ませ、自宅で披露宴を行った。
 そのときに床の間にかけたのは、当時の都新聞社長で私の親友だった稲茂登長三郎氏から、偽筆と知りながら借りてきた松村景文筆の松に鶴の掛物で、その前には銀座の縁日で買ってきた万年青(注・おもと。葉を観賞する)の盆栽を一鉢飾って平気の平左衛門、そこに隣家の池田謙三夫妻や三井関係の実業家を招待したという、無頓着もいいところだった。
 後年、茶事を学んだり、美術品をひねくりまわすようになり、結婚当時のことを顧みて、その大胆さにわれながらあきれ果てたものだ。池田夫妻らとも、このことを話して毎度大笑いになるのであった。
 さて結婚したのは私が三十一歳、千代子が十九歳のときだった。千代子の父、長谷川方省は漢詩を作るのがうまく、同県人の杉孫七郎子爵、遠藤謹介、福原周峯などと親友のあいだがらだった。
小心翼々たる君子人(注・つつしみぶかい聖人君主)で、遠藤氏が造幣局長だったときに次長を勤め、小崎利準(注・原文では「尾崎」)氏が岐阜県知事だったときに書記官をつとめたという人で、明治二十二、三(188990)年ころには官を退き東京の飯田橋に住んでいた。これまた同県人で三井物産会社の重役だった木村正幹氏の仲介で婚約を結び、初代大審院長の玉乃世履の長女を妻としていた医師の片桐氏が媒酌人となってくれた。

 こうして千代子は十八年間私と生活をともにしたが、明治四十一(1908)年の冬に三十九歳で死去することになる。妻については、またのちに記すことにさせていただきたい。


最初の茶室入り(上巻198頁)

 私は明治二十五(1892)年十二月下旬のある日、益田克徳号を非黙、または無為庵氏に招かれて、生まれて初めての茶室入りをした。 
 東京では維新のあと一時期茶の湯が衰退し、どこにも茶煙があがるところはなく、名物といわれるような茶碗が二束三文で売買される状態だったが、西南戦争のあと社会の秩序もようやく落ち着き、明治十三(1880)年ごろからぽつぽつ茶人が頭をもたげるようになってきた。
 そのなかで益田克徳氏は、侘茶の数寄者で、その人間全体が非常に茶人向きにできていたので、兄の益田孝号、鈍翁男爵や弟の英作号、紅艶氏よりも数年はやく茶道にはいり、紳士の茶人の先輩として馬越恭平、加藤正義、近藤廉平らを感化するなど、大勢の友人を茶事に親しませたという功績を持っている。明治二十五(1892)ごろは、上根岸の、庭に老松のある邸宅の母屋につなげて建てられた、無為庵という茶室を持っていた。
 その田舎家風の休憩茶室で歳暮茶会が開かれた。牛小屋のように天井を見せた茅葺きの室内の壁床(注・床板、落し掛けのない床の間)に、張即之筆鬼の大文字と、福の一字を織り込んだ唐織裂とを継ぎ合わせた一軸を掛け、大炉には、煤竹(すすだけ)の自在鉤に大きな手取釜を釣ってある。五客には、それぞれ素焼きの焜炉(こんろ)を配り、青竹籠に、つごもり蕎麦と鴨の切り身を盛り合わせ、自分で調理していただくという趣向だった。
 この日の正客は加藤正義氏で、そのころ葭町あたりに太郎という名のひいきの芸者がいたのを克徳氏がいつのまにか察知して、さりげなくぎゃふんと言わせるつもりか、最近大阪で手に入れたノンコウ(注・楽家三代目、道入)作の茶碗で、銘を太郎というものを使ったので、正客は驚くは喜ぶはで、最後には大笑いとなった。
 克徳氏はつかみどころがないふわふわした客あしらいがうまく、いかにも無邪気で愛嬌に富む性格で、このようないたずらっぽさのある歳暮茶事に初めて出合った私は、すでに心の中にきざしていた茶の湯への好奇心の火に、一気に油を注がれたようなものだった。この夕べをきっかけにして、私は生涯茶煙に巻きこまれることになったのである。



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五十八  三井中興の第一歩(上巻193頁)

 三井銀行に取りつけ騒ぎが起きたあと、井上馨侯爵は、かねてより計画していた三井の改革案を実行するためにこの機会を利用し、麹町区土手三番町の三井八郎右衛門(注・高朗)男爵邸に三井同族、同重役その他の関係者をよんで、五月下旬か六月初旬ごろに大会議を開いた。(注・実際に京都支店で取りつけ騒ぎが起きたのは、明治247月なので、5、6月はまだ、新聞などで悪い風評が強まりつつある段階であった。本文では、そうした風評を含めて「取りつけ騒ぎ」と称していると思われる)
 井上侯爵は、三井家主人の依頼で三井家革新の任を引き受けてはいたが、三井銀行には西邑乕四郎氏が総長代理として席を占めており、井上侯爵も彼らの営業方針がすでに時代遅れであることがわかってはいても、これを抜本的に改革する必要があるということを口にする機会に恵まれていなかった。またかりに口にしたとしても、彼らがそれぞれの立場から反対してくるだろうと考え安易にはここに手を出さず、まず家憲の制定を先決問題にして好機到来を待っていたのであろう。
 今回の取りつけ騒ぎは現在の銀行幹部の大失態であり、西邑らは主人にたいして申し訳の立たないことをしたわけだから、ここで機敏な井上侯爵が好機を見逃すわけはなく、とうとう善後策の会議を開くことになったのである。

 さて、侯爵はこの会議に臨むにあたり、三井の改革実行者として、当時山陽鉄道会社の社長であった中上川彦次郎氏を推薦するという腹案をもっていた。中上川氏は明治九(1876)年ごろ井上侯爵とイギリスのロンドンで知り合い、侯爵が明治十一(1878)年に外務卿になったとき中上川氏を権大書記官公信局長に抜擢した。これはもちろん中上川氏の手腕を信頼したからであったが、同時に彼の叔父である福澤諭吉が背後にいるということも忘れてはいなかったであろう。
 その中上川氏は、当時大阪地方の山陽鉄道会社の大株主たちとのあいだに意見の不一致があり不愉快な立場におちいっていたので、井上侯爵は藤田伝三郎男爵と相談し、中上川氏を三井で採用することにしたのである。そして、そのことを三井の大会議で提案することにしたのであった。
 会議には、三井同族の最年長者である高喜氏をはじめ、高朗、高辰、高生、八郎次郎(注・高弘)、高保、三郎助(注・高景)、八郎右衛門(注・当時の八郎右衛門は上記の9代高朗だが、ここでは10代高棟をさしていると思われる)の諸氏と、同家の元老および関係者である渋沢栄一、三野村利助、益田孝、今井友五郎、石川良平、中井三平らが出席し、私もむろん末席に連らなった。
 井上侯爵は三井銀行重役にたいし、つとめておだやかな面持ちをくずさず、せんだっての取りつけ騒ぎのときにはさぞや心配されたと思うがさいわい大事にいたらずに済んでまことによかったと述べたあと、つぎのような提案を行った。
 「自分が明治のはじめから折にふれて三井家からの相談に乗ってきたのは、個人的な交際理由があってそうしたわけではない。三井の興廃が、日本の財政に影響を及ぼす問題であるということを考えてのことであった。現在、時勢が大きく変化し、ほかの銀行でも高等教育を受けた人たちを採用するようになっているのだから、三井でも昔からのやり方を守るばかりではいけないはずだ。そこで、まず高橋を入行させたが、三井のような大きな家の改革をするには、一人や二人の力ではとても無理だと思っていたところ、さいわいに山陽鉄道社長の中上川彦次郎が入社を承諾してくれたので、採用して今後の改革に当たらせたいと思っている。みなさんはどう思われるか。」
 これには当然ながら、西邑氏も異議を唱えることはできなかった。主人側もまた、非常によいではないかと賛成したので、中上川の入社が決定した。
 このとき私は、三井銀行に入社以来五か月にわたって調査した結果から、銀行の内部に整理係という一部門を設置することを提案した。その理由としては、現在の三井銀行のかかえる問題の病原が、全国各地にある支店で国庫の出納金を預かりながら、それを中央に集めて不良貸しを行っていることにあるから、病原を除去するためには、まずこの不良の貸金を回収することと、北海道にまでも増設のおよんでいる支店、出張所を撤廃して、現在見られるような重役による干渉を受けない新部門を置くことが必要なのである。そのために、貸金整理係を設置することが必要だとと述べ、これに関する十二条の規則を提案した。
 これに対し、西邑氏はだいたいにおいて同意したものの、現在の三井銀行の貸金は官金取り扱いと密接な関係があるので、そのような事情を考慮しないでむやみに新しいやり方を強要されるのは困る、特殊な事情がある場合には大元締の協議を経てから、という一項をつけくわえてほしい、と言い出した。
 そのとき渋沢子爵が私に加担し、そのような一項を設けてしまうと整理係が思うように働くことができないと反論したので、ここで押し問答が繰り返されたが、西邑氏が、万一の場合のためにこの一項を残すのであり、整理係に干渉するようなことは決してしないと誓ったので、ここは西邑氏の顔を立て、とにかく整理係を設置することが決まりこの日の会議が終結したのである。
 これが明治二十四(1891)年の恐慌に次いで起こった銀行改革で、三井中興の第一歩はこの会議より踏み出されることになった。



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 五十七
転禍為福(上巻189頁)

 明治二十四(1891)年四月、読売新聞に当時の経済界の内幕をえぐる記事が掲載された。そのなかで、三井銀行では滞貨が山積みで内状は危機に瀕している、また第一銀行も同様であると論評された。
 また、東京朝日新聞の前身でそのころ本社が京橋区新肴町にあった、末広重恭氏が主筆の国会新聞の、経済担当記者であった桜井駿(のち森本と改姓)が、「現今経済社会の変調」という論説で、おなじく三井、第一の窮迫を論じた。(注・記事掲載は1891年7月3日から7日)
 一犬虚に吠えて万犬実を伝えた(注・ひとりがいいかげんなことを言ったのを、おおぜいが真実として伝えること)というだけではなく、じっさい少なからず事実を含んでいたので、ほかの新聞も争うようにこれを取り上げ声を大にして騒ぎ始めたので、三井、第一は非常にあわてた。
 当時三井銀行は全国二十二支店から集めた官金を、東京支店から東本願寺に百万円、三十三銀行に七十五万円貸し出している事実があった。そのほか軍人や官吏を相手に、地所を抵当にした貸付が膨大が額にのぼっていた。
 第一銀行でも、渋沢喜作氏に七十万円、浅野総一郎氏に数十万円の、回収困難な貸しがあった。
 ここで取りつけ騒ぎが起これば事態は深刻なので、三井でも第一でも対策に追われ懸念するなか、京都三井銀行で、とつぜん取りつけ騒ぎが起きてしまった。
(注・7月6日にはじまり、9日に収束)

 とうとう日本銀行総裁の川田小一郎氏に嘆願し、取りつけ騒ぎがおさまるまで同行に援助してもらうことになった。これで当面は切り抜けることができたが、一日もはやくこの噂を根絶しなければという焦りは大きく、私は新聞記者出身であり、また四か月前に入行したてであったから、いまこそ本領発揮して手柄をたてなければいけないと思い、西邑に相談のうえ新聞各社とかけあい、首尾よく諒解にこぎつけるまで奔走した。
 これで三井に対する新聞の攻撃は下火になったものの、第一のほうに火の手が盛んにあがってきた。そのため、第一銀行の行員のなかには、三井ばかりがいい子になるのはけしからんと不満を述べる者もいたが、渋沢子爵がこれをおさえているうちに、ひどかった騒ぎもやっと鎮まり、第一のほうはどうであったかわからないが、三井のダメージはあんがい軽く、京都支店でわずかに二十万円前後の取りつけが起きたに過ぎなかった。(注・高橋が奔走を始めたのは、冒頭の読売の4月の記事が出たあとの、入行から4か月後の5月ごろであったと思われる。本文では「新聞方面に奔走して首尾よく諒解を遂げた」とあるが、実際には、それにもかかわらず7月に国会新聞の記事が書かれ、取りつけ騒ぎが起きてしまったのである。しかし、第一銀行に比べれば、ダメージは小さかった。なお、中上川彦三郎の三井入行は、同年8月である)
 しかしながら、この取りつけ騒ぎがきっかけとなり、禍が転じて福となった三井家は、どこまでも幸運な家である。

 

三池炭鉱(上巻191頁)

 三井が明治二十一(1888)年に政府から三池炭鉱の払い下げを受けたことは、同家の中興事業のなかでももっとも重要なものである。
 明治九(1876)年に益田孝のち男爵氏が三井物産会社を創立したときは、日本から海外に輸出する品物が少なく、印刷局の製紙をアメリカに輸出したり、三池炭鉱の石炭を香港のバターフィールド=スワイヤー商会やジャーディン=マセソン商会に売り込むくらいが関の山で、おおいに苦心していた。
 ところが明治二十一(1888)年になり、政府が三池炭鉱を民間に払い下げることになった。益田孝らの驚きはすさまじく、もしこれを三菱やそのほかの者の手に奪われることになったら物産会社の重要な輸出品を失うことになるので、なにがあっても三井が落札しなければばらないと思った。
 そのときの大蔵大臣は
松方正義公爵であった。政府のなかで、炭鉱払い下げが議題になったとき、公爵は内心それに反対であったため予定価格を四百万円として内閣会議に提示した。列席の大臣たちはひじょうに驚き、あの炭鉱にそんな高額の入札をする者がいるわけがないと言ったが、松方公爵は、ならば拙者が必ずその相手を見つけてみせようと猛々しく言い放った。

 その発表が行われたあと、公爵は三井銀行の西邑乕四郎と日本銀行の三野村利助を三田の私邸に招き、三池炭鉱が非常に有望であることを説明し三井に入札するよう説諭したそうだが、この話は私が松方公爵から直接いたことである。その日は、夕方から夜中の二時ごろまで協議を重ねたということであった。
 この入札では虚々実々のかけひきが繰り広げられた。三井も三菱もその他の入札者も、それぞれ代表者の名で入札を行った。それは明治二十一(1888)年八月のことで、この開札が行われるまで、益田男爵らは心配のあまり連夜一睡もできないほどだった。
 開札の結果は、三井の代表者である佐々木八郎が4555000円、ある大手筋の代表者である川崎善三郎が4552500円で、その差はわずか二千五百円で三井に落札したのであった。これは実に三井家にとっての幸運であったといえよう。(注・川崎善三郎は、川崎儀三郎が正しい。「ある大手筋」とは、もちろん三菱のことで、じっさいの入札額は、4552700円であった。)
 即金百万円、残額は十五年の分割払いで、明治二十二(1889)年一月に引継ぎをすませ、当時まで炭鉱の技師長だった団琢磨のち男爵氏が、炭鉱とともに三井の人となった。 

 当時の四百五十万円は、今日の四千五百万円にも匹敵する巨額である。三井がそれを大胆にも引き受けたのは、三井中興の土台が必要だったからであった。そのためにこの入札には、益田男爵の大英断があったのだが、この落札によって炭鉱とともに三井にはいった団男爵がその後炭鉱の経営にあたり、開坑、築港を完成させ、それを三井の宝庫にしていったのであるから、それはどこまでも三井家の幸運であったと言わざるをえない。


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 五十六
三井と井上の関係(上巻185頁)

 井上侯爵はひごろから、三井の興廃日本の財政に大きな影響を持つため、国家的見地から見ても三井の問題をないがしろにしてはならないと公言していた。
 明治の初年に、三井組が小野組、島田組と共同で政府の官金を預かっていたとき、小野と島田が危ないと見てとると、侯爵は三野村利左衛門に注意をうながし、早い段階で共同計算分を分離させ、小野島田の崩壊の影響が三井に及ばないように尽力した。
 その親切に、三野村らが厚く感謝したばかりでなく、三井の主人側にしても味方を得て頼もしく思い、侯爵こそがわが家の重大事の相談相手となる人物だと信じるようになったのである。
 明治二十二(1889)年ごろになり、三井が官金中毒病にかかり、当時の総理であった西邑乕四郎らではとてもその危機を収拾することができなくなった。三井物産会社には益田孝がいたが、当時は三井のほんの一部分を事業を引き受けていただけで、大元締の仕事つまり三井全体を率いる仕事をしていたのは事実上西邑だった。三井の主人の立場から見れば、この難局から逃れるためには井上侯爵に依頼するほかはなかったのであろう。
 山県公爵の前夫人の親戚の石川良平という長州出身者が、三井銀行の監事をつとめていてこの惨状を見ているにしのびず、これを山県公爵に訴えて助けを求めたのであるが、山県公爵は財政のことに詳しくないので、こういうことは世話好きで財政のことにも明るい井上に相談したほうがよいだろうと助言したにちがいない。それで石川が山県公爵の意見を主人たちに伝えたのだろう。
 それで主人たちもそれはもっともだと思い井上侯爵に家政改革を依頼したのであるが、侯爵はおいそれとは引き受けなかった。まず山県公爵をはじめとする政府の高官たちがそのことに賛成するのを見極めたうえで、井上侯爵ははじめてこれに応じるという用意周到なやり方をしたのである。


井上侯の三井改革案(上巻187頁)

 井上侯爵は世話好きの性分で、華族や実業大家の依頼を受けて、その家政を整理したことが何回もあった。代表的なところでは、旧主である毛利公爵家、九州の貝島家、大阪の鴻池家、東京の古河家、田中家がある。
 侯爵の整理案は非常に着実なもので、二宮尊徳流のものだといってもいいかもしれない。まず家憲を作って収支の分配の内規を設け、同族内の者はこれを遵守するものとするのである。
 侯爵は三井に対しても同様の方法をとろうとした。もちろん三井は商家であるから営業上の大改革が必要なのだが、なにしろ西邑乕四郎が全権を握っているので急に手出しをするわけにはいかない。やむをえず、まずは営業面はあとまわしにして家政改革に着手したのである。私が侯爵から三井の家憲制定に関する事務を命じられたのは、すなわちこの部分だった。
 三井の事業には銀行のほかに、鉱山、物産、工業、地所、呉服小売りなどの営業部門があり、そのほか多額の出資をしている会社も数多くあった。その営業損益は、そのときの経済事情によって変化するとともに、家政そのものにも影響を及ぼしていた。
 よって井上案は、三井同族の本体と、その営業部門とを切り離すというものであった。そうすれば、たとえば三井関係の、ある営業部門が失敗しても、その影響が三井同族の本体には及ばなくなる。
 しかしそのような理想的な方法が実際問題として行えるのかどうなのか。侯爵が私に調査せよと言ったのは、実はこの部分をみきわめることだったのである。
 私は、お雇い外国人の法律家で民法制定に功績のあったフランス人、ボアソナードを、そのころ神奈川高島台の貸し西洋館に住んでいたところに訪問し、井上侯爵からの紹介状を見せて来意を告げた。
 ところが、フランスではかつてそのような法規を見たことがないというのが答えだった。かつて、貴族の財産を保護するためにそれに似通った法律を設けたことがあったが、ずいぶん前に廃止されたとのことだった。
 ここではなんら収穫がなく井上侯爵に報告すると、かんたんにはあきらめず、では枢密院のお雇い外国人で商法制定の功労者であるドイツ人ロエスレル(原文「ロイスレル」)に当たってみようと言う。
 そこでまた私が使者に立ったが、今度はドイツ語なのでとうてい私の手には負えず、そのころ枢密院書記官だった本尾敬三郎氏がロエスレルの弟子にあたドイツ法律学者であったので、この人を介して井上侯爵からの質問の趣旨を伝えてもらった。
 さらに井上侯爵みずから面会したいということでロエスレルを井上邸に招き、私と本尾を含めて会見することになった。
 彼は、法律で一家族に特別の保護を与えることはできないが、ドイツの大貴族には、公的な法律ではないが、同族間で習慣的に効力を維持しうる財産管理規則があるから、それを調べて、なるべくご希望に沿うような回答をしようと約束してその日の会見を終えた。
 こうして井上侯爵はまず三井の家憲制定をいそぎ、もっぱらこちらに注力しようとしていたのであるが、そのとき、三井銀行に突然の大事件が降りかかり、家憲どころの騒ぎではなくなり、まずこの事件を解決しなければならなくなるのである。
 これが三井中興事業の発端となる事件で、私の三井銀行入行からわずかに四か月ばかりで私もこれに直面することになったのである。


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 五十五
三井の情勢(上巻182頁)

 私は明治二十四(1891)年の一月元日に三井銀行に出勤し、重役たちに年始のあいさつをし同六日から毎日勤務することになった。
 当時の三井銀行は東京で建てられた最初の木造西洋館だった。駿河町の表通りからすこし奥まって正面玄関があり、そこから営業部にはいるとその奥が大元締の部屋になっていた。大元締というのは現在の三井銀行の営業部にあたるもので、いってみれば当時の三井の重役室である。幅が三間(注・一間は約180センチ)、奥行きが四間ほどの大きさの部屋だった。その部屋の突き当りの正面に、総長である三井高喜翁の机と、副長である西邑乕四郎氏の机が並び、むかって左には中庭に面した明かり取りがあり、右手の壁には今井友五郎、石川良平のデスクが並んでいた。
 この部屋の前、つまり一段さがった営業室のところに、元締の三井元之助のち高生と支配人の斎藤専蔵が控えていた。
 さて西邑は私を別格の客分扱いにしたので、自分の机と直角(原文「鉤の手なり」)に私の机を置いて私を座らせた。私は、三井銀行が迎えたはじめての「学校」の若先生だったから、行員たちは、不思議な人間が舞い込ん出来たものだと不審げに私の行動に目を光らせていた。
 私は井上侯爵から、三井銀行にはいっても当分のあいだは、規則やその他の業務を調べることに注力して何事に対しても軽率に発言しないようにし、調査が終わったらまず自分に報告せよとかさねがさね言われていたから、出勤の初日から銀行の規則の研究に専心した。
 そしておよそひと月半でほぼ銀行の内情がわかったので、井上侯爵に私の改革の意見を述べようと思い侯爵を訪問した。するとそこで、私はもっと重要な調査の依頼を受けることになったのである。それは、侯爵がまえまえから計画していた三井家憲制定についてだった。


三井家の来歴(上巻183頁)

  明治二十四(1891)年私は三十一歳で三井の人間になった。以来二十一年間、同家に奉公したのであるから、まずこの三井家について述べておこう。
 三井家の祖先、八郎兵衛高利は、元禄七(1694)年に七十三歳で死去した。伊勢の松阪から江戸に出てまず呉服店を開き、つづいて京阪と江戸で為替業を始めたの万治年間(注・1658~61年)の三十代のときだというから、いまから約二百七十年くらい前ということになるだろうか。
 この二百七十年あまりという長い年月のあいだには、家も人と同じように病気にかかることがあり、かなり危機に瀕したこともあったのだろうが、幸運にして家業は栄え、明治維新の大変動のときにも、東西の大きな商家が将棋倒しのようにばたばたと倒れてしまった中で、三井は先祖の家訓を守り大名への金貸しを行わず、また同族の共存の主義を守っていたことや、本家が京都に住んでいたので率先して朝廷(注・つまり新政府)の御用をつとめたことで、維新後の羽振りが一段とよくなったのである。
 とくに総本家に三井高福という度量の大きな当主がおり、同族にも三井高喜という注意深く機敏な主人がおり、番頭のなかにも斎藤純蔵(注・「純造」の間違いであれば、前出の専蔵と同一人物か?)という老功者の下に、三野村利左衛門という腕利きの傑物がいて危機を乗り切ったので、財界における三井の評判はますます上がるばかりだった。三井は明治十五(1882)年に日本銀行が開設されるまでのあいだ、租税やその他、政府の一切の出納を取り扱っていたのである。
 明治六(1873)年に国立銀行の条例が発布されると、三井は第一銀行の大株主になり渋沢栄一子爵を頭取に推した。
 同九年には三井銀行を創立し、また物産会社をおこすなど、三野村の画策がすべてうまくいった。
 明治十(1877)年に彼が死去したので、養子の利助が利左衛門のあとを継ぎ、日本銀行の創立時には彼が同行の理事になったので、西邑乕四郎が利助のあとを継いで、明治十四年にいたるのである。
 しかし西邑は律儀すぎるきらいがあり、時勢の変化に対応する機知に欠けていた。三井銀行は多額の官金を預かっていたが、政府当局者の希望に応じて、商業とは無関係の情状貸しを余儀なくされることが起こっていた。また当時は民間に、そのような官金を健全に商業で運用する余地がなかったこともあり、政府から預かったものは返さなくてはならないのに、よそに貸したものをかんたんには取り戻せないという羽目におちいっていた。
 私が入行した明治二十四(1891)年ごろには、いわゆる官金中毒病がすでに骨の髄に達しており、銀行経営が危険な状態になりつつあった。
 この状況に気づきはじめた主人のほうは、維新後の三野村利左衛門との関係のために三井に好意的で、かつ財政上のもっとも有力者であった井上侯爵に依頼して、大事にいたる前に革新を実現しようとしていた。井上侯爵が私を三井に入れたのは、この革新の仕事に当たらせるためだったのである。


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 第四期 実業 明治二十四年より三十四年まで

  五十四
三井入りの経緯(上巻179頁)

 私が三井にはいるという話は、明治二十三(1890)年十月ごろに、その端緒が開かれた。それより以前、私は欧米商業視察の結果を「商政一新」という著書にして日本の商業組織革新を論じて発表していた。当時としてはかなり先端的な実業論だったが、それを井上馨侯爵が読んで共鳴され、しばしば私を自邸に招きわが国の財政に関するこれまでの経験や将来の方針について語られていたのであるが、もともと世話好きな侯爵であるから、まずはわたしの結婚相手に有名な実業家の娘を紹介しようと言い出して、その相談のために当時侯爵が建てられたばかりの上州(注・群馬県)の磯部の温泉別荘に呼びつけられたのである。
 この別荘は侯爵の気に入らなかったようで、ほどなく興津に移られることになり建物も移築したのだが、わたしの結婚問題も先方に先約がありそのまま立ち消えとなってしまった。
 しかし侯爵は私に何か世話してやりたいと思われたのか、そのころ侯爵が三井家の当主から同家の財政革新を依頼されていたのをさいわいに、私をこの任の先頭に当たらせるということで同家に採用してもらおうとしたのである。
 十一月上旬私は侯爵に招かれ、三井家の歴史や維新における同家の行動、また維新後に侯爵が大蔵大輔だったときの三井の大番頭だった三野村利左衛門との関係から現在の状況にいたるまでの話を、ほとんど三時間にわたってきくことになった。
 そして侯爵が「あまり思わしい働き場所ではないかもしれないが、とにかく日本屈指の旧大家であるから、君が一骨折ってみようと思うならさっそく三井家に交渉してみよう」と言う。侯爵が三井家のことを「思わしい働き場所でもなかろう」と言われたことからも、当時の三井が腐った大木のように、ともすれば崩壊してしまいそうな状態であったことがわかるだろう。
 私はこのような勧誘を受けて、日本の長者番付の横綱である三井の家運の挽回のために力を貸すのは非常におもしろい仕事だと思ったので、とにかくひと働きしてみましょう、と快諾したのである。

 井上侯爵は喜色満面で、ならばそのことを三井と深い関係のある渋沢栄一と三井物産会社の益田孝に伝えておくから、そのうちふたりに会見しなさい、ということになり、これでわたしの三井入りが決まったのである。

 

三井入りの試験(上巻180頁)

 井上馨侯爵は三井の財政革新の先頭に立つ者として私を三井に入社させようとした。さっそく私のことを渋沢、益田の両人に伝え、一度高橋の面接をし三井においてどのような仕事を担当させるかを考えてほしいと申し渡した。
 明治二十三(1890)十二月二十日ごろだったと思うこのふたりが焼失前の帝国ホテルで三井関係の実業家たち十数名集めて小宴会を開いた。その席で、欧米の商業視察報告をしてほしいと私に依頼されたので、だいたい「商政一新」の中で述べたことを話し、日本の各商業機が、その年に始まる議会政治と足並みをそろえて円滑に発展する必要がある理由を三、四十分演説した。
 渋沢、益田の両人をはじめ列席ののひとびとは、それはしごくもっともな話だと同意し非常に好感を持たれたようだった。こうしてこのふたりにより、私の試験結果が三井の主人やそのときの総理であった西邑乕四郎(注・にしむらとらしろう)らに報告されたようで、暮れも押しつまった二十七日の午前十時ごろだったと思うが、渋沢子爵が私を兜町の渋沢事務所に呼び、「君の三井入りがいよいよ決定したから、拙者が同道して紹介することにしよう」と言って、用意してあった馬車で、当時の東京で屈指の西洋館で「ハウス」と呼ばれていた駿河町の三井銀行に連れていってくれた。その二階の大広間で、私は総長の三井高喜、副長の西邑乕四郎、幹事の石川良平と今井友五郎、支配人の斎藤専蔵との会見を行った。
 そのときの渋沢子爵はいつもどおりの懇切丁寧な調子で、三井家の歴史から、自分と三井家、あるいは、同家の大番頭である三野村利左衛門と自分の関係などを説明した。また列席の重役に向かい、井上侯爵がわざわざ三井家のために洋行帰りの新人である高橋氏を入行させようと好意を示してくれているのだから、諸君は決して反感などを持たずに高橋氏が働きやすいようにしてほしいという希望を述べながら私のことを紹介してくれた。

 さまざまな協議の上、私は翌年の一月はじめから出勤することになった。そのことにより私はようやく職業にありつき、それまでの書生放浪生活を明治二十三(1890)末で打ち切ることになったのである。


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 五十三  
山県有朋公
(上巻172頁)

 
 私を井上侯爵に紹介したのは親友の渡邊治であったが、その後、井上侯爵から山県公爵に紹介してくれるよう取り持ってくれたのも渡邊だった。こうして私が山県公爵に面会したのは、公爵が欧米視察を終えて帰国した明治二十三(1890)年の春の、まさに内閣を組織しようとしていた直前の多忙な時期だった。今の帝国ホテルの一角の、日比谷公園の向かいにあった内務大臣の官邸である晩に会見することになった。

 食後の七時ごろに訪問し着座すると公爵はすぐに口を開き、
 「俺は軍人であるから、サーベルのことはいささか人に向かって談話する資格があるが、政治のほうはなはだもって不得意である。井上からきけば、君は西洋の商業を視察してきて『商政一新』という著書もあるそうだから、今夜はゆるゆるその所見をうけたまわりたい。」
と言われた。

 そこで私は、日本がいよいよ議会を開いて立憲政治を施行する以上、社会の諸機構もそれに応じてことごとく立憲的にならなければならない、しかし実態は政治だけが立憲で、その他の社会組織がそれについていけないおそれがあるので、少しでもはやくこれを改善しなければならないという見地から、実例をあげて、ほとんど二時間くらいしゃべり続けた。
 公爵はときどき相づちを打たれるくらいだったので、私は山県という人は、自分で言われるように、ただの武官(注・山県は自分のことを「一介の武弁だ」とよく口にしていた)で、政治問題などについてはあまり議論しない主義なのだと思ったのであるが、これは後年になって大きな誤解であることがわかった。
 こうして私が山県公爵と会見したあと、一日か二日して井上侯爵に面会すると、侯爵は、「昨日宮中で山県に会ったが、君のことを非常にほめて、一度で親しくなったと言っていたよ、山県は俺とは違って、人に会うときには軍人的な手順を踏んで、まず城門の前でいかめしく会見し、次に第一の砦を開いて引き入れ、次に第二の砦を開くというやり方をするので、腹の内を見せるまでには時間がかかる方なのに、君に対しては珍しくはじめから十分に話したらしい。」と語られ、侯爵自身も満足なようすだった。
 これが山県公爵と私の初対面である。最初の会見の感じがよかったせいか、その後公爵とは、公私ともに用があるというわけではなかったのに交際はずっと続き、晩年に近づくほど親しさの度が増したのは相性がよかったからだとしかいいようがない。
  


陸奥と山県
(上巻174頁)

 
 山県公爵は、明治二十三(
1890)年の最初の議会に当たり、伊藤公爵らの勧誘に応じて内閣を組織することになり、陸奥宗光のち伯爵を農商大臣に登用した。(注・山県が内閣を組織したのは明治22年の暮れ、最初の帝国議会開催は231129日)

 公爵は議会開設の前に商業会議所条例を発布しようとしており、私に対し「君はわが国の商業会議所組織を英国流にしようと言うのだが、陸奥の案はドイツの制度を多分に取り入れているから君のとは衝突するかもしれない。しかしこれを発表したあとにあれこれと議論があるのはおもしろくないから、その前に一度陸奥と会談して君も賛成してもらいたい」ということで、六月初旬だったかに夕食後椿山荘を訪問した。
 あの広大の庭に面した日本座敷に通され待っていると、公爵は陸奥氏といっしょにやってきて座られた。私は陸奥氏と初対面のあいさつをし、今度発布することになっている商業会議所条例についての陸奥氏の説明をきいた。その条例文も見せてもらったが、だいたいにおいて私の考えと大きく違うところはなかった。
 陸奥氏の条例案はドイツ流で、課税により会議所の費用を維持するしくみだ。私のはイギリス流で、商業会議所のある都市の有力者の寄付金で維持するというものだった。この点につき押し問答を重ねた結果、ようやく双方の意見が一致した。これが現行の商業会議所条例である。
 さてこのとき私の印象に残ったのは、陸奥、山県のふたりの対談のやりとりの態度だった。
 山県公爵は私などに向かっては非常にていねいな言葉を使うのに、陸奥氏に対してはほとんど親分と子分のような口調である。公爵が、「貴様はときどき約束をたがえるから油断がならぬ、今度のことその当時何かの懸案問題があったらしいでもそうではないか」と言うと、陸奥氏はさかんにに謝り「決してさようなわけはありません、閣下がご信用に相なる以上は、私は必ず精一杯にやりとげます」などという具合だった。それがとてもおかしかったので、私は、維新の前後の変化の大きかった世の中をくぐってきた人物同士の間には、今日の政府官僚の中では見ることのない一種独特の人間関係があるのだなあ、と思ったものだった。そこでは、陸奥氏が山県公爵のご機嫌取りをしながら自分の才能を発揮しようとして悲惨なまでの苦心をしていることを見て取ることができるのだった。
 このとき目をあげて広々とし庭を見ると、わざわざ放たれたとみえて、蛍が暗闇に点々と飛び交っていた。それは、こちら側で両雄が対座しているのと異様な対照をなす光景であり、これを絵巻物に描いたなら一幅の名画になっていたであろう。


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五十二  初見の井上馨侯(上巻169頁)

  私のことは渡邊治からすでに井上侯爵の耳にはいっていたが、まだ会見にはいたっていなかった。そのころ私は吉川泰次郎氏に連れられ、明治二十二(1889)年の暮れに大阪に赴いた。翌二十三年の一月、私は年初を須磨の保養館で四、五日休養しようと大阪か汽車に乗った。するとその汽車に偶然井上侯爵が乗っていたので、神戸までの車中で吉川泰次郎氏が私を侯爵に紹介してくれた。
 侯爵は何年か前に伯爵になったとき、藤田伝三郎、松本重太郎、田中市兵衛、磯野小右衛門ら、侯爵といちばん親しい大阪の会社経営者から、むかしの殿様が着ていたような鼠地綾形模様紋付と仙台平の袴、黒の五つ紋付羽織を贈られていた。それを今回、彼らに見せようということで着用されていたが、私に対してはいたってていねいに挨拶してくださり、かねてからお名前をきいているので腰をおちつけてお目にかかりたいと思っているが、これから三月ごろまで長州(注・現山口県)に行っているつもりだから、東京に戻ったらゆっくりお話ししましょう、と言われた。
 侯爵とは神戸で別れたが、その後予定通り三月になり帰京されたので、約束どおりに侯爵の麻布鳥居坂邸を訪問した。このときは鳥居坂西側の邸宅の改築中で、向かい側にある邸宅に仮住まいされていた。その庭は一面青々とした芝生で、客間の床の間に何やら大きな仏画がかかっていた。
 私はイギリス滞在中にボウズ氏の美術館で日本画の研究をしてきたので、さっそく、その仏画の前に座りそれに見惚れていた。するとそこへ井上侯爵がはいってきて、君はそんなものが好きなのか、と不思議そうな顔をされ、同時に、ずいぶん話のわかる奴ではないかと言わんばかりに、非常に好意的に私を迎えてくれたのである。
 侯爵は、自分はいたって単純な性格で、初対面のときから腹の中を打ち明けて話をする流儀なので今日もなにもかも隠し立てせずに話す、と言われた。
 「俺は、元来友人となれば、どこまでも親切にする。また敵となれば、これを打倒しなければすまないという、もって生まれた性質があって、いいのか悪いのか自分にもわからぬが、とにかく今日まで少しもかわるところがない。そのために敵から憎まれるばかりでなく、あまりに親切が過ぎて、こうだと思うと、口を割ってでも薬を飲ませるようにするので、味方からもよく嫌われるようなことがある。つい先ごろも、黒田(注・黒田清隆)が、酒に酔って俺のところに押しかけてきて、玄関で声高に、国賊と口走ったことを聞き、そのときは留守であったが、帰宅ののちさっそく短刀を懐にして、黒田のうちに押しかけていったが、実は彼と刺し違えるつもりであった。しかし彼が留守であったから、よんどころなく引き返してきたところへ、西郷(注・西郷従道)が中にはいってしきりに詫びを言うものだから、俺はとうとう容赦してやったが、相手が強ければ強いほど、俺はますます強く出るのが持って生まれた性癖である。」
というようなことであった。
 それから十日ほどのち、一度ゆっくり会いたいと言われたので再び侯爵を訪問した。すると、今日はすべての来客を断ったからのんびり話すことにしよう、君はすでに外国の商業事情を視察してきて、これから日本の経済界で活躍するつもりだろうから、俺が維新のはじめに大蔵大輔として日本の財政整理をしたときのことを詳しく君に話しておこうと言って、それから維新後の財政状況や、諸藩札の始末についての苦労談をきかせてくれた。
 また太政官札(注・慶應四年五月から発行された政府紙幣)が信用をなくして
紙幣同士に大きな価値の差が出てしまったとき、内閣会議の席上で三日以内に紙幣の相場を同一にしてみせると断言し、その夜、横浜から糸平田中平八を呼び寄せて、彼に内々に太政官札を買い上げさせ、同時にほうぼうに手を回して太政官札の取引に差つける者を懲罰する方法を考え、予言したとおりに
太政官札を額面通りの価値で流通させることに成功した苦心談を話された。
 その日は午前十時ごろから話しはじめ、昼食をともにしたあと再び話し続け、三時半になっても侯爵の談話はまだ終わらなかった。それを見て、私は侯爵の気力の旺盛さに感服したものだった。この時の侯爵は五十八歳で、これが私と井上侯爵とが知り合った最初のころの話(原文「序幕」)である。


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 五十一
大阪の紳商(上巻166頁)

 明治二十二(1889)年の暮れ、日本郵船会社副社長の吉川泰次郎氏は私を大阪の実業家(原文「紳商諸氏」)たちに紹介しようということで、私を連れて大阪に出かけた。
 そのとき私は北浜の花外楼に宿泊した。吉川氏は当時網島にあった立派な自邸のちに藤田伝三郎男爵の邸宅になるに宿泊したので宿は別だったが、毎日連れ立って諸氏を訪問した。
 ある晩吉川氏が大阪の経営者たちを招き、私のための、いわゆる顔つなぎの会合を北浜の専崎楼で開いてくれたことがあった。そのとき集まったのは、藤田伝三郎の三兄弟(注・兄藤田鹿太郎、弟・久原庄三郎)、磯野小右衛門、平瀬亀之助、松本重太郎、田中市兵衛、土居通夫、広瀬宰平、岡橋治助らだった。
 藤田氏は山口の出身で、井上馨侯爵とごく親しく、あの偽札事件で有名になったが、三兄弟の共同経営事業は当時まだ微々たるものだった。そのころ伝三郎氏は北浜の天王寺屋五兵衛、すなわち天五の旧宅に住んでいた。
 平瀬亀之助氏は大阪の旧家で、骨董の鑑賞に非常にすぐれ、金剛流の能楽に堪能で、当時の大阪旧大家の代表的存在とみなされていた。

 松本重太郎氏は丹波間人町の出身で、第百三十銀行の頭取。大阪随一の活動家として知られていた。
 田中市兵衛氏は、干鰯(注・ほしか)問屋が本業で、大阪米商会所の頭取で、松本氏とともに浪華(注・なにわ)実業界の両雄と称されていた。
 土居通夫氏は鴻池の顧問として評判が高かった。
 岡橋治助氏は質屋タイプの金融業と地所の所有で知られていた。 
 広瀬宰平は住友を代表して、維新の際の同家の危急を救った功労者である。
 

 当時の日本の経済界は非常に規模が小さく、日本第一の金蔵である大阪で十万円以上の資産をもっている者で組織した「修齊会」の会員がわずかに三十人前後に過ぎなかったことを見てもその状況はおしはかれるだろう。(注・修齊会については、69にも記述あり)
 こうして私は吉川氏のおかげでいっぺんに大阪の大会社の経営者たちと知り合いになることができ、数年後に三井銀行の大阪支店長になったとき期せずして非常に大きな便宜を得ることになった。これは予期せぬしあわせであった。
 


川田の漫画
(上巻167頁)


 私をひきたててくれた日本郵船会社副社長の吉川泰次郎氏は川田小一郎のち男爵氏の支持者だった。川田氏は新しく日本銀行の総裁になったばかりで、当時の東京の財界の覇権を握っていた渋沢一派に敵対する存在として対峙していたから、ひとりでも多く支配下に人材を集める作戦であったようだ。それで吉川氏は川田氏に私を推薦して日本銀行に採用してもらうように働きかけたのである。

 一度川田氏に面会するようにということだったので、ある日、小石川江戸川町の川田邸を訪問することになった。氏は大柄の肥満体で、相撲の親方のようだった。もともと難しい性格なのに、このころ腎臓病を患いときどき気分が悪くなることがあるため、いつ機嫌が悪くなるか予測できないようなときだった。私が訪問した日は特に気分が悪かったようで、いかにも無愛想で取りつく島もないありさまだった。
 私は外国で視察してきた商業上のしくみについて、いささかの所見を述べるつもりであったのに、その日はすっかり当てがはずれてしまった。それでどうにも癪にさわり不愉快で、こんな男のために働くものかと、初対面のあいさつだけ済ませてはやばやと退散したのである。
 ところが明治二十三(1890)年にはいり、私が横浜貿易新聞を主宰することになったときにこんなことがあった。当時の横浜では、地主と商人が二派にわかれて対立しており、この貿易新聞は商人派の頭領であった小野光景、安西徳兵衛、田中茂らの機関新聞になっていた。その主宰を頼まれたので腰掛け程度の気持ちではあったが引きうけ、東京から横浜に毎日出勤してその編集を指揮することになった。
 ある日のこと、大付録をつけることになり、私の考えた漫画を載せることになった。それは、日本丸という船に乗った船頭が、艪(注・船を操縦するへらのついたさお)にすがりついたまま首を垂れ途方に暮れているという図だった。以前、三菱汽船会社の大番頭だった川田が、勝手のちがう日本銀行という金融機関を操縦するのは大いに骨の折れることだろうと風刺したもので、これは日銀総裁になりたての川田にすれば非常に不快であったにちがいない。
 翌日、吉川泰次郎氏に呼ばれて向島の家を訪問すると、平家蟹のような顔を烈火のごとくいからせて、君はとんでもないことをしてくれた、僕は川田さんに対してなんとも申し訳がないではないか、と言う。言われてみれば張り切りすぎの若気のいたりで、すこし悪ふざけの度が過ぎたようだ。後悔したが、もうどうすることもできないので二度とこのようなことをやらないようにすると約束してほうほうのていで逃げ帰った。 
 川田という人は土佐風の政治家肌の人で、臨機応変な機知に非常に富んだ策略家だったが、私はどうも肌が合わなかった。のちに三井銀行にはいってからも用件以外のことではあまり近づくことはなかった。
 しかし明治二十四(1891)年に三井銀行、第一銀行に取付け騒ぎが起こったとき、川田氏は最後には渋沢さえも黙らせ、いっときは日本の経済界全体が川田氏の動向を注視するほかはないような状況になった。これなどは、やはり川田氏が偉才であったことを証明しているであろう。



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 五十
薩摩の豪傑(上巻162頁)

 私の海外視察の二年半の旅行中には、いろいろなところで日本人に出会った。海外で同国人に会うと互いになつかしく感じるもので、日本にいるときには親しくなる機会がないような人とでも古くからの知り合いのように感じるのが常である。ここで今、いちいち名前を挙げる必要もないのだが、そのなかで、薩摩の豪傑、奈良原繁【のち男爵】翁のことを記しておこう。

  氏がロンドンに滞在していたとき私が宿を訪ねてみると、ひとりの随行者はいたものの土地に不案内のため、ひまを持て余して「日本外史」などを読んでおられた。わたしは心の中でロンドンに来てまで日本外史を読むこともないだろうに、とおかしく、そのころ私はだいぶ土地に慣れてきていたので、この日から一週間ほどのあいだガイド役になり、いろいろなところに翁を案内し名所見物の手伝いをした。
 翁はそのことをとても喜び、私が明治二十二(1889)年の秋に帰国すると、翁はすでに帰国し日本鉄道の社長となり飛ぶ鳥を落とす勢いであったのだが、ある晩に私を芝の紅葉館に主賓としてむかえ、十数人の知人を招いて会合を開いてくれた。
 翁は維新の前、島津久光公の命令に従わない藩臣の数名を始末するため、伏見の寺田屋に行き、真っ裸で中に飛び込み彼らの肝をつぶし、うまいこと使命を果たしたという。これがいわゆる寺田屋の騒動で、翁がその豪傑ぶりを発揮した一幕だったそうだ。
 さて翁は、久光公のそばに仕える家来として非常に勢力があり、西郷、大久保にさえも、しばしば敵対するような力をもっていたということだ。そのせいで薩摩の長老でありながら維新後にあまり重用されることがなかったのを、松方正義公爵が後押しし翁を日本鉄道会社の社長にしたということであった。
 しかし翁には酒癖の悪さがあり、飲みすぎたときにそれが現れてしまうことがあった。この晩も、牧野信顕【のち伯爵、現内大臣】氏が宴会のあとに友人と碁を囲んでいたのをみて、客に対して失礼だろうと言い出し、コップを手にして今にも飛びかかりそうになった。そのとき牧野氏は、翁の怒鳴り声を神妙に聞き流し、やわらかな物腰で翁の攻撃をかわしていた。この落ち着き払った冷静さを見て、私は、さすがは利通侯爵の子だと思った。当時は外務省の局長くらいだったが、将来かならず大きな仕事をする人物になるだろうと思われた。
 さて翌日、奈良原翁は前夜の行いを後悔し、牧野氏に会いにいって何度も頭を下げてきたと後日私に話してくれた。酒癖は酒癖として、後輩に対して、迷わず自分の非を詫びるところに翁の純粋な誠意を感じる。
 翁はこの酒癖がいけなかったのかどうだか、その後松方公爵ともうまくいかず、最後には沖縄県知事となって晩年を送った。せっかくの能力を発揮しきれなかったようなところがあり残念だが、とにかくも、翁が薩摩隼人の面影を残す豪傑であることにかわりはない。


商政一新(上巻164頁)

  私はヨーロッパに滞在中に欧州諸国の商業組織を調査したが、日本ではいよいよ議会が開設され近い将来には立憲政治国になろうとしているのに、商業組織に関しては封建制度がそのまま残り、なんら改革の準備がなされていないことを憂えた。社会の組織は、さまざまな分野で互いに足並みがそろっていなければ順調に発達することができない。政治だけが立憲だと言っても、経済の各機関がこれについていかなければ国家が円満に進歩していくことはできない。私は、現在の急務は商業の一新である、という見地から、商業会議所、商工組合、信用興信所、その他の商業機関を改革する方針をくわしく述べた著作を出版した。(注・「商政一新」明治23年)
 当時、洋行帰りの新人と見られていた私の著述は、ちょうどわが国の経済社会の革新運動に向かおうとしていた時期に重なり各方面からかなりの反応があった。親友の渡邊治がこの本を井上馨伯爵に渡したところ伯爵はこれを通読され、いままでの学者の議論は、苦言の言いっぱなしで善後策が示されていなかったのに、「商政一新」は旧弊を説くと同時に救済の方法も示しており、わが意を得たりであるとことのほか称賛されたそうで、伯爵が私のことを知ってくださったのも実はこの著作のおかげだった。
 山県伯爵が明治二十三(1890)年に商業会議所条例を制定されたときに私に諮問されたのも、伯爵がこの著作のことを知られたためであった。この著作は私の一身にとり、非常に有利な働きをしてくれたのである。


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 四十九
副島種臣伯(上巻159頁)

  私は明治二十(1887)に渡米したとき、当時ロンドンの日本公使書記官だった鍋島銈次郎氏に連れられてイギリスに留学しようとしていた副島道正氏【のち伯爵】と同船した。道正氏はそのころ十五、六歳の少年だったが、私がその後ロンドンに滞在しているころは、ケンブリッジ大学への入学準備をしているときで、あの天文台で有名なグリニッチにある家庭教師の家に寄宿していた。
 私はある日、天文台の見学を兼ねてグリニッチに赴き、道正氏の寄宿先を訪ねて一日過ごしたことがあった。これは明治二十二(
1889)年の五、六月のことで、私はもうすぐ帰国するときだったので、日本にいる父君に手紙や伝言を頼まれた。

 そこで私は帰国後、当時京橋区越前堀に住んでおられた副島種臣伯爵を訪問した。はっきり覚えていないのだが、庭に池がある屋敷で木造の古い日本家屋の広間に通された。待つほどもなく出てみえた老伯爵は、ごま塩以上に白い頭髪で、いかにもいかめしい顔つきが絵で見る神農(注・医療と農耕の神)に似ていて、なんとなく古代の人に接しているようだった。あまり大柄には見えないが、そうかといって小柄でもなく、座られるやいなや私が持参した愛息の手紙を受け取り、また伝言を聞かれてとても満足されたようすであった。
 私はかつて、この老伯爵の詩を読んだことがあった。なかでも、

   金華松島奥東頭 自古風雲向北愁 日本中央碑字在 祇令靺鞨入何州


と言う作品が、いかにも規模雄大で感服していたので、この機会に老伯爵のお話を伺いたいと思い、西洋見聞のはなしからいろいろな時勢談にうつった。

 そのころ私は時事新報に「西尊東卑」という題の論説を書いていたが、その前には「男尊女卑」という、これまた私が作った題名で時事新報にいろいろと議論していたのであるが、近頃の欧化政策は勢い余り、ひとびとが、ややもするとヨーロッパに心酔しすぎて、なんでもかんでも東洋の習慣を蔑視する傾向があることから、男尊女卑から転用して西尊東卑という語を作ったのである。そして、新帰朝者として、むしろ逆に西洋の悪いところを攻撃していたのである。
 この論説に、老伯爵が非常に同感されていたようで、だんだん話していくうちに、あの論説はあなたが書いたのですか、ということになり、それからいよいよ真剣にさまざまな問題について議論されたのだった。
 しかしどんな豪傑でもわが子のかわいさにはひかれるようで、とくに遠国に留学中の愛児に対する心配は大きかったようで、話の切れ目切れ目に道正氏のようすについて根掘り葉掘り質問された。その愛情深さに私は感激し、氏に対するいっそうの尊敬の念を深めたのだった。私が出会った大家のなかで、この老伯爵ほど神々しく、古代の人に接しているような感じを抱かせる人物はいなかったのではないかと思う。
 


老伯の歌才(上巻
161頁)

  
 副島老伯爵の話が出たついでに、その文才についての名誉あるエピソードを記しておく。あるとき伯爵が、皇后陛下【のちの昭憲皇太后】の御前に出たとき、皇后陛下から伯爵に、さいきん天皇から「二人挽きの人力車に乗って早朝亀戸の梅見にでかける」という和歌のお題を賜ったが、ひどく難題なので、歌が詠めなくて困っている、とのお言葉があった。そのとき伯爵は、なんの躊躇もせずに、陛下に対し、歌というものはあまり深く考えずに、ただありのままにお詠み遊ばすのよろしかろうと存じます、と言い、ただいまそのような愚作を申し上げるなら、

       
   二人して挽けや車子亀戸の 梅の林の朝ぼらけ見む


となさってはいかがでござりましょうか、と即座に言上したので、皇后陛下もことのほか伯爵の歌才にご感心あそばされたそうだ。

 伯爵は漢学に造詣が深く、とくに先秦文学(注・中国の秦以前の文学の総称。詩経、書経、春秋左氏伝、孟子、老子、荘子、楚辞など)を究め、長編大作の詩をたちどころに作り、しかも一種の古調を帯びていたことは世間の定評になっていたが、和歌にもこのような素養があったことは誰も知らなかったので、これをもれきいた人は、いまさらながらに伯爵の文才に驚いたということだ。
 このエピソードは、かつて長く宮中につとめた薩摩の吉井友実翁から下條桂谷画伯が聞き、わたしに話してくれたことなので、事実に違いないと思っている。


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 四十八
洋行帰りの新人(上巻156頁)

 私は明治二十二(1889)年九月にインド洋経由で帰国すると、わたしのいないあいだに時事新報を去って山陽鉄道社長になられた中上川彦次郎氏に会い、また同じく時事新報を去って大阪毎日新聞を経営しつつあった親友の渡邊治に面会し、二年間の留守中にあったできごとについて話を聞いた。渡邊がすこしのあいだにひとかどの出世をし、山県有朋伯爵【のち公爵】と知り合い、政治的なことで意見の一致を見、毎日新聞の経営もじつは山県伯爵らの後援によるものであることを知った。
 また東京に帰ると、福澤先生からは驚くばかりの歓迎を受けた。私のロンドン滞在中の通信に対して非常なおほめの言葉をいただいた。先生のお宅で旧三田藩の九鬼隆義子爵を招いた席上で、とくに私を子爵に紹介してくださり、いつもは私たちのことを姓名で呼び捨てにせず「あなた」と呼ぶのに、このときは、いかにもかしこまった態度で、「これは今度ロンドンより帰朝した高橋義雄でございます」と、わが弟子らしく九鬼子爵に紹介していただいたことを私は非常にうれしく感じたものだった。こうして私はしばらくのあいだ客員の資格で時事新報に執筆することになった。
 このとき、外国からかえってきたばかりの新人の私にラブコール(原文「秋波」)を送ってくれたのが日本郵船会社の副社長だった吉川泰次郎氏だった。氏は、当時東京の財界を支配し一大勢力になっていた、渋沢栄一氏【のち子爵】、益田孝氏【のち男爵】らに対して、川田小一郎氏【のち男爵】を首脳とする一グループを作ろうとしていた最中で、そのグループに引き入れる目的で私に注目したのだろう。
 ところが私は、帰国後すぐに腸チフスにかかって帝国大学病院に入院し高熱が一週間おさまらず十一月末にようやく退院した。それまで待ちに待っていてくれた吉川氏は、欧米諸国の商業を視察してきた私を大阪方面の経営者に紹介しようと私に同行をすすめたので、私は十二月中旬から氏とともに大阪に赴いた。

 そして翌年の一月十日ごろまで大阪に滞在したり須磨に避寒したりしながら、大阪の経営者たちと交流した。また阪神間の汽車の中で、井上馨伯爵のち侯爵にも対面する機会があり、帰京後にまたゆっくりと会談することにもなったのである。

 

英国風俗鏡(上巻158頁)

  私は明治二十二(1889)年八月に帰国したあとも、イギリス滞在中に時事新報の記者をやっていた関係をそのまま継続し、客員の資格で社説を寄贈していた。そのあいだに、イギリスで見聞してきた風俗について記述して、「英国風俗鏡」という本を出版した。
 小著ではあったが、イギリスのすぐれた点について述べたものだった。たとえば、イギリス貴族の住居を訪問したとき、客間や食堂にその家の先祖の文勲武功を描いた油絵の額が掛けられ、いつも子供たちが教訓を得られるようにしてあること、またオックスフォード大学では一週間に一度の学生と教授の晩餐が、歴代の校長や同大学出身の偉人の油絵を掲げた部屋で行われ、知らず知らずのうちに先輩の感化を受けるようにできていたり社交上の礼法を見習えるようになっていること、さらにテンプルの弁護士協会では、三年間のあいだ仲間との定期晩餐会に出席しないと弁護士の資格をもらえないというような社会教育を重視している点が見られ、教育とはつまり英国紳士を製造することだ、という美風がある点を賛美したものだった。
 またイギリスの家庭は、いわゆる「ホーム」という言葉がそのままあてはまるように、中流の家庭には必ずピアノその他の楽器があり、家族に共通の音楽趣味ができあがるようにしてあるため、私などがヨーロッパ大陸を旅行してイギリスに戻ったときは、なんとなく第二の故郷に帰ってきたような心持ちがしたもので、そのような風習を日本にも移入したいという希望を書いてみたのである。
 なお私は、当時のイギリスを視察して、同国の貴族のなかの最高峰の本となっているウエストミンスター公の別邸を観たが、その広壮さにおどろいたものだ。またスコットランド地方を巡回しているときに、貴族が所有する別荘が何キロにもわたっているのにも驚いた。
 イギリスでは、日本の大名が明治維新のときに版籍奉還とともに私領地も奉還したのに対し、封建時代の貴族が所有財産をそのまま領有しているので、これがはたしていつまで続くだろうかと疑問に思った。いつか必ず社会問題になり、貧富の差が激しい現状の制度が崩壊する時期がやってくるに違いないと予想したものだが、欧州大戦(注・第一次世界大戦のこと)のあと、やはり予想どおりそれがようやく現実になった。これはむしろ、遅いくらいだったと驚いた次第である。


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  四十七
貧富問題(上巻152頁)

  明治十八、九(18856)年ごろに福澤先生が執筆された「貧富論」のなかで、江戸の祭礼を一例にひき、先生は次のように論じられた。
 祭りのときには町内の若者がまっ先に踊りだし、親しい者同士、知らない者同士でも気心を合わせて山車を引き、みこしをかつぎ、木遣り(注・掛け声)をかけて祝い酒を飲む。その費用分担は、金持ちが多く貧乏人は少ない。だが、いちばん楽しい思いをするのは貧乏人のほうなので、しぜんに彼らはひごろの鬱憤を晴らすことができ、その不平をしずめることができるというなんとも微妙なバランスの効能があるのである。
 いかにも人心の機微をうがった卓見だと思い、私はこのことをつねに心に留めていた。
 イギリスのリバプール滞在中に、この点について思うところがあったので、一意見としてまとめ福澤先生に送った。すると先生の序言つきで、これが時事新報の紙上に発表されることになった。そのなかで私はこのようなことを書いた。(注・意訳した)
「リバプールの知事であるクックソン氏は、クリスマスの夜に、靴もズボンも持たないような貧民の児童四、五百人を狩り集め、冬服を支給する会を開いた。それが行われたのは、ある教会の庭先で、子供たちの父母や親戚は、庭の内外に群集して見ていた。

 知事は、井戸綱のように太い金のチェーンにつけた、皿のように大きな印綬を胸にたらして現れた。そして、貧民の子供のなかから一番幼い子を抱き上げて支給服を着せ、三法師を抱いた秀吉さながらに周囲を見回し、冬服を支給する理由や目的について演説を行った。その姿は、見ている者に同情の気持ち(原文「惻隠の情」)を起こさせるものだった。
 このときリバプール大司教(原文「大僧正」)も、敬虔な声を張り上げ宗教的な説教を行い、満場の観衆は、声もあげずに感動の涙を流したのである。ああ、この涙こそが、無数の貧民の不平の気持ちをなだめ、ささくれだって曲がってしまった心をやわらげるにちがいない。
 リバプールは商工業の中心地で、貧民の数も多い一方で、財産を持つ家(原文「素封家」)も軒を並べているのであるから、他の都市に比べて、一層貧民の不平があおられることが多いはずなのに、そのころ、そうした様相がなく職工労働者の人心が意外に平和なかんじに見えるのが不思議だったが、年末クリスマスにあたり、市民が貧民を慰めることを忘れていないところを見ると、宗教的にも、市政的も、いつも、こうしたことへの用意周到な準備があるからにちがいないと思いとても感心した次第である。云々」


廃娼問題(上巻154頁)

  廃娼問題はどこの国においても、是か非かをめぐって決着のついていない問題である。名を取って実を捨てるか、実をとって名を捨てるかの一利一害が錯綜し、禁酒問題と同じで、いつまでたっても一致点を見つけられないようだ。


 中国の聖人が「飲食、男女は、人の大欲存す(注・礼記。食欲と性欲は人の二大欲だという意味)」と言ったように人間は食欲と色欲の餓鬼であるから、かげ(原文「陰」)かひなた(原文「陽」)か、公か私か、どのみちその欲望を満たさなければ済まされないものだろう。
 私は外遊中に、ロンドンとパリを比較して、この問題が簡単に解決するようなものではないことを実感した。ロンドンでは公娼が許されていないので私娼がひじょうに繁盛し、その不夜城をめざして人が押し寄せている。私娼たちは道端、あるいは劇場や寄席を徘徊して熱心に客引きをするので、良家の女性たちはもちろんこの界隈には近づかない。もし近づく者があったとしたら、それでもし職業婦人であると思われても、その無礼をとがめることはできないことになっているのだという。
 日本から旅行で来てこの界隈に遊び、それを詩にして詠じた人があるのを見て、私もそのひそみにならい、たわむれに俗謡を作り、二上り新内の達人、岡本貞烋氏に送ったことがある。
 「花の帽子を手に取りて、グードナイトも口の中、またの逢瀬をネルソンの、塔のかなたで待つぞいな」 
 これは、ロンドン中心チャリング・クロスの、ネルソンの塔あたりの夜景を詠じたのである。
 さてパリはどうかというと、世界からやってくる客を引き寄せて、絶えず黄金の雨を降らすのが国の伝統的な政策なので、カフェや劇場に化粧をした魔物が横行するのはもちろん、ひとたび花柳のちまたに足を踏み入れれば、赤い布を看板(原文「招牌」)にした妓楼が軒を連ねてひしめいている。この女護島(注・遊里)の一角は、世界の餓鬼を誘惑して、ながい夜の遊行に耽らせるのである。

 これが公娼制度の特色で、風紀をうんぬんする人びとの目から見れば文明国の恥さらしだと非難することになるのだろうが、ロンドンのような私娼が横行してしまうと、その結果は病気や害毒の蔓延だ。そしてそれを防ぐ手立てがなく、世界を股にかけて流れ渡ってくる質の悪い娼婦が、悪徳のタネをまきちらして旅人に極度の不安を与えることになるのだ。イギリスには公娼がいないという美名のかげに、きわめて陰惨な罪悪がひそんでいるのが、おおうことのできない事実なのである。

 日本においても、宗教家や女権論者がこの廃娼問題をさかんに取り上げているようだが、実際に即して人道上の問題を考えると、はたしてどちらが適切なのか。各国の実状を研究したうえで選択をあやまらないようにしなければならないと思う。


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 四十六
美術館の位置(上巻149頁)

  大都市において、どの場所に公共建築を建てるかということは、都市の運営にあたる者がおおいに考慮するべき問題だ。
 私はヨーロッパに滞在中、美術館や博物館が、繁華街のまんなかの人がいちばん行きやすい場所に建てられていることを非常に納得のゆくことだと思った。そもそも美術館や博物館というものは、特殊な研究者のためにあるだけではなく、なるべく多くの一般人が観覧し、自然に感化を受けられるようにするのが本来の使命にちがいない。たとえばロンドンのナショナル・ギャラリー、ケンジントンの博物館のようなものは、どこからでも行きやすい(原文「四通八達の」)場所に建てられいる。パリのルーヴル美術館、リュクサンブール(原文「ルクセンブルグ」)美術館なども同様である。
  それに対し日本の各都市では、こうした考えをはなから無視しているが、とくに東京においてそれがもっとも顕著なようだ。日本は世界の美術国と言われていながら、その第一の都市である東京にたったひとつの国立美術館もなく、ただ上野の山奥に小規模な帝室博物館があるだけでは、ほとんど都市の体裁をなしていないではないか。

 今もし、美術工芸館が一般の感化のために必要であるというなら、なるべく便利な場所にこれを建て、たまたまの雨宿りで美術館に飛び込み、はじめて美術に目をとめて感化されるというような利便があってこそ、その効果が広く一般にいきわたるのではなかろうか。特別に何かを研究している人達なら半日かけて上野の山奥にある博物館に出向くかもしれないが、それほどの必要もなく、またそんな熱心さをもたない人たちは、美術に一生接する機会がないだろう。
 昭和七(1932)年に亡くなった末延道成君は生前に、牧谿のヒゲ老子(注・現重要文化財、紙本墨画老子像か?)だの、瀟湘八景だのという、かずかずの名画を収集し、公共美術館に寄付するつもりだと言われたそうだが、さらに聞くところによれば、東京で一番便利な丸の内に美術館が建設されるなら、その資金として百万円支出してもかまわないと言われていたのだそうだ。私は末延君から直接この話をきいたわけではないから彼が本当にそう言ったかどうかを保証することはできないが、さすがは末延君らしいアイデアで、ものごとを見る目のある人は違うなと非常に感心したのだった。
 ヨーロッパの諸国が証明しているように、私はこのような信念を滞欧中から抱いていたので、それ以来この問題に触れることがあるたびにできるだけ宣伝をしているが、今日にいたるまでその実現を見ていないことは非常に残念だ。しかし日本においても、さまざまな事情で近いうちに国立美術館を設立する時期がやってくると思うので、そのときには私の意見を必ずとりいれてほしいと思う。都会のまんなかでは火災の危険があるだろう、という意見もあるだろうが、今日の建築技術には火災に対する万全の予防策もあるはずだから、そのような心配をして便利な場所を避けるのはせまい料簡ではないかと思う。


家宝の感化(上巻151頁)

  私はイギリス滞在中に貴族の家庭生活を知ろうとして熱心に研究し、有名なウエストミンスター公の邸宅をはじめ、だれそれ侯爵、伯爵の居城、〇〇キャッスルなどというところをいろいろ巡り、邸宅の広大さや建築の高雅さに感服した。
 なかでも室内装飾において注目したのは、歴代の祖先の文勲や武功に関する油絵を書斎か客間に並べて飾り、いつも家族の目につくようにしているということだった。それだけだけでなく、晩餐の前に子供たちに肖像画に一礼させるようしつけている家庭もあるとのことだった。
 またオックスフォード大学を訪問したときのことだ。学生が一週間に一度、教授たちと晩餐をともにする大食堂の壁には、同大学出身の偉大な学者、政治家などの肖像画がずらりとかけられていた。これなどを見ると、イギリスの大学教育というものが紳士の育成を目的とし、飲食交際のときにも自然に学生の気品を養成していることがわかり、この方法が非常に理にかなっていることに感心したのである。
 と同時に私は、日本においては名家が所蔵する家宝が、これと同じ効果をもたらすものであることに気づいたのである。すなわち日本の名家では、先祖の文勲や武功により天皇や将軍や藩主などから拝領した記念品を伝家の宝物として子孫に伝えている。子孫もまた、この宝物に恥じないようにみずから奮励し、みずからを戒め慎む風習があることは私などもよく知る事実である。
 かつて大名家には、いわゆる御家の重宝としてとくにあがめているものがあった。たとえば徳川将軍家では、本庄正宗、初花茶入、圜悟墨蹟の三点を重宝とし、出雲の松平家では圜悟墨蹟、油屋肩衝、槍の鞘茶入の三点を家宝の第一としている。
 これらの家宝には、一家の名誉を表彰する来歴があり、主人はもちろん家族も、これらを見て自分の身分を顧みないということは心情的に不可能である。
 絵画と器物という違いこそあれ、イギリスと日本の名家のあいだには共通する一種の伝統的な美風があることに気づき、私は今後とも、日本の名家がこの美風をながらく失わないようにしてほしいと強く希望している。


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 四十五

英国の美術家(上巻145頁)

  私はリバプールに滞在中に、名誉領事ボウズ氏の日本美術館で偶然にも日本美術を研究する機会を得て、このときから大の美術愛好者となった。ロンドンをはじめ、どこの大都市に行ってもかならず美術館を訪れ、油絵や彫刻を見ることがこの上ない楽しみになった。
 明治二十二(1889)年の春、リバプールで全英美術家大会が開かれた。その会長であるロイヤル・アカデミー総裁のサー・フレデリック・レイトン氏や、当時のイギリスで神のごとくに尊崇されていたアルマ=タデマ氏が来会し、私はボウズ氏に連れられてこの大会に出席することができた。
 このときの講演でレイトン氏は日本絵画についても言及した。日本画に描かれる人物はたいていデフォーム【奇形】だ、七福神などを見ると、頭が長い者、背が低い者、耳が大きい者などふつうの人間とは違っている、これはおそらく日本人がそもそも奇形なので、絵画中の人物もそうなるのだろう、と述べた。するとボウズ氏はぶつぶつとノー、ノー、を連発し、非常に不満なようすだった。当時は日清戦争の前で、一般的なイギリス人は日本についてなにも知らず、東洋にある中国の属国か野蛮な一島国かくらいに思っていたであろう。このようなことがありボウズ氏は怒りが心頭に発して、日本美術がどういうものであるかを彼らに見せようと、氏の美術館を開放して彼らを招待することにした。そこで私はフレデリック・レイトン氏やアルマ=タデマ氏とも握手する機会を得た。
 このときレイトン氏は日本美術館を見まわし、ふんと鼻であしらっていたようだが、アルマ=タデマ氏のほうは、当時五十歳前後の立派な容貌の人だったが、ボウズ氏の説明に耳を傾けていた。ボウズ氏も、この人ひとりが注目してくれればそれで十分だと言わんばかりに、アルマ=タデマ氏をメインに案内していた。
 アルマ=タデマ氏のロンドンの住居の各部屋の扉は、イギリスの有名な美術家が彼のためにデザインしたもので、美術界では有名な話なのだそうだ。
 サー・フレデリック・レイトンの描いた油絵を、そのころリバプール市が、市立美術館の収蔵品として、八千ポンド、つまり日本円で八万円で買い入れたそうだ。たて六尺(注・一尺は約30センチ)、よこ四尺の大作で、ギリシャ人の女性が楽器をかかえ岩に腰かけている絵で非常に有名なものだったが、私は彼が日本人を侮辱したような講演をして不快感を持ったためか、この絵を見て、なんとなく柔軟さに欠けているように感じた。
 私はグラスゴーでも開催されていた絵画展覧会を観たが、イギリス人の油絵はフランス、イタリアとちがい山水の風景画が多く、例の、裸体美人であふれかえっているヨーロッパ大陸の絵画展を見るよりも、私などはとても目に快いと思ったものである。


巴里の瞥観(上巻147頁)

 私は明治二十二(1889)年五月末にイギリスを出てパリに行った。三週間かけて、開催中の万博や市内の名所旧跡を見てまわった。
 そのときのパリ駐在の日本公使は田中不二麿子爵だった。名古屋人であり、かつて文部卿をつとめたこともある人で、豊かな立派な容貌の持ち主で、パリを訪れる日本人の世話を親切にやってくれるので評判がよかった。
 このときのパリ万博は、あの有名なエッフェル塔が建設されたときだが、私が行ったときにはまだ半分しかできあがっていなくて
300メートルの塔の180メートルのところまで登ることができた。

 パリの名所は、ノートルダム寺院、パンテオンのナポレオンの墓、オペラ座、リュクサンブール美術館、ルーブル美術館、ルイ十六世の旧跡が残るベルサイユ宮殿など枚挙にいとまがないが、私にとっては、例の観劇と美術館巡りが滞在中の仕事の半分以上を占め、リバプールで兆しを見せた私の美術鑑賞病は、このときすでに手のつけられない状態になり(原文「膏肓に入り」)かかっていた。そのことをくわしく話し始めるときりがないので省略する。
 ベルギーのブリュッセルに行き、そのころ益田太郎氏が在学中だった有名な商業学校や港湾の設備などを見学してイギリスに引き返し、あいかわらず、このヨーロッパ大陸旅行の見聞録を時事新報に通信していた。このロンドン通信は、当時かなり注目度が高かったらしく、帰国してからも、ときどきその評判を耳にすることがあった。
 ドイツ、ロシア、イタリア、トルコ、バルカン半島への旅行も考えていたのだが、あまりに多額の援助を徳川篤敬侯爵に願い出るのが心苦しく、また別のときに来ることを胸に秘め、八月の末に帰国することを決心した。そのときあるイギリス人の友人が、八月にインド洋を航海するのは、えらくたいへんではないかと言ったが、私は、トルコ風呂に一か月はいっていると思えばよいではないか、と笑って、いよいよ帰国の途につくことになった。


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 十四 外国名優の印象(上巻142頁)

  私はアメリカ滞在中は生糸直輸出の調査と都市の商業機関の研究に専念しほかのことに目を向けるひまがなかったが、イギリスに渡ってからは商業のことだけではなく、政治、社会、風俗にも目を向け、貪欲にそれらを吸収しようとつとめた。特に演劇にはもっとも興味を持ち、ロンドンはもちろんのこと、リバプール、グラスゴー、エジンバラなどいたるところで劇場に行った。
 当時のイギリスにはンリー・アーヴィングという名優がいた。芸術のためにナイトの称号を得た(注・アーヴィングがナイトに叙されたのは1895年。原文では男爵となっているが誤り)ほどで、その芸風がわが国の市川十郎に似ていたので、私は彼の演技をよく見て帰国後の土産話にしようと思い、滞在中にはアーヴィングの芝居は全部見た。
 アーヴィングの相棒にはエレン・テリーという大女優がおり、演技のうまさではもしかしたらアーヴィング以上であったかもしれない。
 このふたりはロンドンのライシャム劇場(注・ Lyceum Theatre)に出演していたが、わたしが観劇したのはシェークスピアのハムレット、ヴェニスの商人、マクベスや、ゲーテのファウストや、そのほか題名は忘れたが泥棒が仮装し宮殿の舞踏会にはいりこみ、賓客の身に着けていた宝石類を手あたり次第盗み取るという内容の芝居などであった。

 アーヴィングは、やせて骨ばっていて背が高かった。「ハムレット」でのハムレット役では背が高すぎてあまりさまにならなかったが、ヴェニスの商人のシャイロックやマクベスなどは適役で、眉間に八の字のしわを寄せて険悪な顔になると、鬼気迫るようなすごみを感じさせた。 
 彼は所作がすぐれているだけでなく英語のせりふが非常に洗練されていて、それが上流社会の好評を得る理由なのだそうだ。それに相当の学識もあり、ひごろから文学上の研究を積んでいるため、人格的にはっきり他から抜きん出ていたそうである。
 エレン・テリーは涼しげ(原文「薄手の」)な、いかにも気の利いた風貌で、マクベス夫人やポーシャなどに扮すると表情豊かでうまく、せりふもはっきりして、かつすがすがしく、当時私が見た外国女優のなかで彼女ほど魅力的だった人はいなかったと思う。その後フランスでサラ・ベルナールのトスカなどを観たが、サラは虎を飼っていたというくらいで気性の強い女性で、目が特徴的に鋭く、トスカがスカッピアを殺す場面などでは、そのすごみで観客を圧倒し息もつけないような緊張感を生み出した。しかしそれだけに女優としてのやわらかみには欠け、なんとなく余裕がないように感じた。だから私は、サラよりもむしろエレン・テリーに、より多くの興味を感じたのである。
 そのころアメリカに、年が四十くらいのマンスフィールドという俳優がいたが、ロンドンで「ジキル博士」という当時の新作を上演した。どういう芝居かというと、ジキルが自分の発明したある薬を飲むと、人間の善の部分が消滅して悪の部分だけの存在になり、同時に善の部分が減った分からだが縮んで非常に凶悪な容貌になるのである。この善相から悪相に変化する早変わりをやるのに、なんのしかけも使わず、ただ手のひらで顔をひとなでして前にかがむだけで、からだが収縮すると同時に顔も完全に一変するという巧妙な演技には、まったく敬服するほかはなかった。私は帰国後のあるとき、五代目菊五郎にこの話をし、一度早変わりをやってみたらどうかと勧めたことがあり、彼も非常に喜び、一度やってみましょうと言っていたのだが、ほどなく亡くなってしまい、ついに実現にいたらなかったことは残念だった。
 わたしはまたスコットランドのエジンバラに遊びにいったとき、興行中だった「湖上の美人(注・スコット原作のロッシーニ作曲のオペラか)」を観たことがあったのだが、これはスコットランド第一の人気詩人であるウォルター・スコットの傑作で、スコットランドのジェームズ王の事蹟を物語にしたものだった。湖上の景色をうまいこと宣伝するのに一役買い、この一作の出たあとは、スコットランドの地価がぐんと上がったという評判だった。スコットランド人はウォルター・スコットのことを神のようにあがめ、「湖上の美人」はわが国の「忠臣蔵」のように、これを演じればいつでも必ず大入りになるそうだ。私はスコットランドの湖水地方を巡歴し、ついでわが国の京都に似ていかにも閑静で幽玄風雅なエジンバラで有名なウォルター・スコットの銅像を見、そのあとで彼の傑作「湖上の美人」を見たので興味は一層強まったのである。
 このほかにもイギリスで観た演劇は無数にあるが、もうこの辺で、ひとまずやめておくとしよう。


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四十三  外遊中の知人(上巻139頁)

 明治二十二(1889)年ごろは、洋行するということが人に金箔をつける時代だった。そのうえまだ議会が開設される間のことで、国の費用で洋行をする官吏も多く、工業がそろそろ勃興する機運にむかっていたので各種工場を視察するために海外に行く人が非常に多かった。だから海外に滞在しているあいだに祖国の人に出会い、その後もながく知人としてつきあうことになった人も少なくない。
 わたしが在英中に出会った人たちのことを話そう。

 明治二十一(1888)年の何月だったろうか、ロンドンのハイベリーパークのある下宿屋に、石黒忠悳のち子爵】氏が森林太郎【鴎外】氏とともにドイツから帰国するついでに来泊したことがあった。私は数日間このふたりをロンドン見物に案内し、石黒氏はとても喜んで、これはいつまでも恩に着るよ、と言われたものだ。また森氏がのちに日本にドイツ文学を紹介するようになる大家であるとも知らずに、私の当時のなまかじりの文学論をぶったりしたのは、われながら無鉄砲なことだった。その後、森氏に会うたびに当時のことを笑い話にしたものだ。
 また、この下宿では尾崎行雄氏とも同宿したのであるが、尾崎氏は明治二十一(1888)年末に、例の保安条例(注・自由民権運動の弾圧を目的とする法律。施行は1887年末だが、ここでは渡英が1888年末ということか?)で追放されたのを機会に渡英され、政治研究に専心するということで議会の傍聴などに出かけていた。
 ところで、明治二十年の紀元節(注・211日)に森(注・有礼)文部大臣が暗殺されたという電報での知らせがロンドンの新聞に発表されたとき、尾崎氏は私にむかい、最近は日本があまりに西洋化し過ぎて国粋(注・その国に固有のよいところ)を忘れる傾向があるので、犠牲者には気の毒だが、これは世のひとびとに警鐘を鳴らし目をさまさせる効果があるかもしれないと言われたこのような場合において、尾崎氏が持たれている見識知ったのだった。
 島田三郎氏ともしばらく同居した。政治家として外遊している人たちにとって、日本で名の知られているその国の有名政治家のだれそれに面会したということが手柄になる。ある朝島田氏が、今夕イギリスの大政治家名前は忘れたに招待を受け、同家の晩餐会に出席することになっている、と言って意気揚々と出かけた。ところが、その日、私が外出してチェアリング・クロスのあたりをオムニバス二階つきの乗合馬車に乗って通過中、むこうから来たオムニバスに島田氏が乗っていたので、お互い「やあ」と声をかけあったが、島田氏はいかにもきまり悪そうで、翌朝の朝飯のテーブルで会ってもその話をすることはなく、その後もそのまま無言のうちに葬り去ることになってしまったという奇談である。
 マンチェスター視察中には、仙石貢、末広重恭の両氏に出会った。そのとき仙石氏とは一日連れ立ち、そのころマンチェスターとリバプールを結ぶための運河を開削する工事中だったのを視察したことを覚えている。
 スコットランドのグラスゴーを訪問したときには、真野文二、田中館愛橘、須田利信の三氏が滞在中だったので、約一週間ほどのあいだに何度か会って同地の事情を聴くことができた。
 また明治二十二(1889)年春に私がハムステッド・ヒル(注・ハムステッド・ヒースのことか?原文「ハンプステッド・ヒル」)というところに下宿していたときには末広重恭氏と同居だった。氏は朝野新聞の主筆として名声があり、大石正巳、馬場辰猪と三人で当時の政治論壇の三人男の観を呈していた。またわが国の小説の黎明期に「雪中梅」、「花間鶯」という政治小説を創作し文壇を騒がしたこともあった。その末広氏が、当時五十何歳かだったのにロンドンに来て下宿屋に閉じこもり、その家の娘に英語を習っていたのもおかしかった。
 あるときテムズ川の上流で舟遊びをしようといってふたりで出かけたことがあった。場所は忘れてしまったが、キューガーデンという帝室付属公園のあるあたりで、河岸には立派な別荘がたちならび、年ごろの令嬢たちが短いボートを操りながら柳の蔭をいったりきたりする間を、おもしろいガチョウが泳いでいるという景色は絵画でさえも及ばないほどの美しさだった。このとき末広氏は即席の七言絶句を二首作ってわたしに見せてくれた。その一首は、

   綺窓粉壁幾多楼 光彩射金碧流 一笑女郎能水 雪如繊手盪蘭舟


というものだった。
 末広氏は話好きで、夕飯のあとにはストーブの前で夜遅くまでいろいろな話をしたものだが、その多くは詩文に関する話だった。あるときは成島柳北についてこんなことを言った。

 彼にはあまり学問はないが天才肌で、詩が非常に得意だった、でも時々失敗することもあり、彼の外遊中の詩である「過落機山(注・落機山=ロッキー山脈)」の中に、

   怪獣有聲人不語 鉄輪軋上落機山

という部分があるけれども、これは仙台の斎藤竹山の「過鳴門詩」の、

   風力満帆人不語 一竿落日過鳴門

のひょうせつで、しかも出来に雲泥の差がある、汽車が轟音をたてて走るのを、怪獣有聲などと描写するとは、まったくなっていないではないか、アハハ…と大笑いしていた。

 
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   四十二
名誉領事ボウズ(原文「ボース」)(上巻136頁)
  
 
私は二か月ばかりのロンドン滞在ののち、ロンドンで知り合いになった河上謹一氏の紹介で、リバプールの羊毛商で日本名誉領事でもあったジェームズ・ロード・ボウズ(注・James Lord  Bowes1834-1899氏からの招待を受けた。

 ボウズ氏は大の日本好きで、日本人といえばよろこんで優待する人だった。当時五十五、六歳で、美しい夫人とのあいだに一男三女があった。リバプールのプリンセス・ロードというところに広大な邸宅を構え、バックガーデンに私立の日本美術館を作り、日本の七宝や陶器に関する大部の著作を持つ人だった。
 ボウズ氏が日本好きになったきっかけは、氏が語るところによると次にようになる。

 ナポレオン三世時代に開催されたパリ万博(注・1867年)で日本がはじめて古い時代の器物を出品したとき、三代将軍が所持したという幸阿弥作の蒔絵書棚を購入したが、その意匠の優美さに、このような名器を製作する日本の文化というもの非常に高尚にちがいないと思い、この蒔絵の棚を通じて日本人に親愛の情を持ったのだそうだ。当時の日本は極東の小さな島で、中国の属国であるとか、どんな野蛮人が住んでいるやら、などと言われ、イギリス人でこれを気にかける人はほとんどなかったのに、ボウズ氏は大きな敬愛の情を持たれたのだそうだ。

 私はこの話をきき、精神のこもっている美術品というものが、いかに未知の外国人を感動させたかということに思いいたり、このときから美術に興味を持ったのである。

 リバプールに前後二回にわたり数か月滞在するあいだ、私はボウズ氏の日本美術論の執筆の手伝いなどをし、その間にだんだん日本美術に興味を覚えるようになっていった。私がのちに美術の鑑賞家となったその芽生えは、実にこのリバプール滞在中に起きたことなのだ。だからボウズ氏がその友人に対して、この人は日本美術における私の弟子なのですと冗談交じりに言われたことは、事実その通りなのである。

 

折鶴の紋(上巻137頁)

 私が現在、家紋に折鶴を用いているのは、イギリスリバプール滞在中に起きたあるできごとから来ている。もとの高橋の定紋は、竹の笠で、二十四孝の話から思いついたものなのか、五枚の笹の下に笠があるというかなり複雑な構図だった
 さて折鶴のことである。明治二十一(1888)年十一月の天長節に、リバプールの日本名誉領事のボウズ氏がプリンセス・ロードの自邸において、天長節を祝賀するための盛大な舞踏会を開き、リバプール市内の名の知れた紳士淑女が何百人とやってきた。私も、ちょうどボウズ氏の客として滞在中だったので、この天長節夜会では主人を助けておおいに働かねばならないと思い、いろいろ考えた末に、岐阜提灯を各部屋の天井から何十個もつるし、色紙を使って自分で折鶴を折り、この提灯の底に結びつけてみた。

 するとこれが来客の間で非常に好評で、ある貴婦人などはボウズ氏に頼み込んでこの折鶴を持ち帰られたそうで、翌日の各新聞でそのことが取り上げられた。またボウズ夫妻もとてもほめてくださったものだから、私はこのことを記念するために、このときから紋を折鶴に改めたのである。

 ボウズ氏は羊毛問屋で市内に商店を構えアメリカ人相手に手広く商売をしていた。その商売において、イギリス人がいかに正直で懇切丁寧であるか、また取引先の便利になるように考えたり、荷物の倉庫代などにいささかのぬかりもない用意周到な姿勢を見せており、わたしは非常に敬服したものだ。

 ボウズ氏はみずから、私をリバプール市内の商業機関に案内し、説明をしてくれた。株式取引所、商業会議所、船舶ドック会社などの組織についても、私の研究のために多大な便宜をはかってくださり、その親切を忘れることは許されない。そのようなことから、私はボウズ家に滞在した記念として、ながくこの折鶴を定紋にすることにしたのである。


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  四十一
福澤先生の勧告(上巻132頁)

  私が明治二十(1887)年十月に渡米しまだ一年足らずのうちに、日本における私のスポンサーであった下村氏が生糸相場で失敗し、私に調査させていた生糸直輸出の実現がかなわなくなってしまった。そして、非常に気の毒なのだがこの手紙を読んだら帰国してほしい、という知らせがきた。
 さてこの事情を下村氏が福澤先生に話したとみえ、この手紙と同時に先生からも親切きわまりない長文の手紙が届いた。下村氏は財政的に行き詰ってしまい君の滞米費用をまかなうことができなくなってしまったのだから、この辺で外遊を打ち切り帰国し、前のように時事新報の記者に戻らないか、自分の見る限り君は実業家になるよりも、すでに何年かのあいだに習熟している新聞記者として世に立つほうが労力少なく効果が大きいと思う、もしあと半年くらいアメリカ滞在を希望するなら時事新報から通信費として若干の資金を送ってもよい、という勧告をしてくださっていた。

 私はもともと、時事新報の新聞記者になるという約束で福澤先生の補助で慶應義塾を卒業した。その後すぐに時事新報にはいり、足かけ六年の記者見習いをし、言ってみればようやくひとり立ちできる地点に立ったところだったのに、そこで福澤先生の保護のもとを飛び出してしまったので非常に心苦しく思っていた。

 だから本当ならばここで福澤先生の勧告に従うのが順当であったのだが、ふたたび文章書きの仕事に戻ることがなによりも苦痛だったので、私は先生のお気持ちは非常にありがたかったが、結局この勧告を辞退することにした。そのときの返事の最後に、次の一首を書き添えた。

   米国遊学中奉呈福澤先生
     師恩猶未報涓埃 忽接親書暗涙催 誰識天涯連夜夢 音容髣髴眼前来
    (注・涓=少し)

  さて下村氏の送金が絶え福澤先生の援助も断ったからは、なんとかしてこれからの海外滞在費をこしらえなければならない。いろいろ考えぬいた末に、当時全権公使としてイタリアに駐在中だった旧水戸藩主の徳川篤敬(注・あつよし)侯爵に手紙を送り援助を請うてみた。すると侯爵はすぐに快諾してくださったので私は喜びで天にも昇るような気持ちだった。

  こうなったうえは、日本とは非常に国情が違うアメリカに滞在するよりも一般的な商業視察を目的にしてヨーロッパに行き、イギリスを中心とした諸国を歴訪することにしようと決心した。
 

  して同じ年の四月末にニューヨークから七千トンのアンブリヤ号に乗りイギリスのリバプールに入港したのは、ロンドンシーズン(注・イギリス社交界のメンバーが夏のあいだ地方の本宅からロンドンのタウンハウスに集まる時期)の始まる五月一日のことだった。

  

倫敦(注・ロンドン)シーズン(上巻134頁)

  私がアメリカからリバプールを経てロンドンに到着したのは五月初旬のことだった。いたるところにある公園ではチューリップ、バタカップ、オールフラワーなどが咲き誇り、ロンドンのもっとも行楽に適した時期だった。
 ここのリージェント・パークの近所に自宅のあるサーン(注・原文ではセルン。
未詳)という学者が、アイルランド人の著名な文学者の某女史の娘と結婚してテムズ川上流にある別荘に住んでおり、そのころロンドンに遊学中だった金港堂の原亮三郎氏の長男の亮一郎がこの人について英語の勉強していたのを幸いに、私も彼といっしょにその別荘にしばらく滞在させてもらうことになった。

 テムズ川の上流は両岸にお金持ちの別荘が立ち並び、柳の下にはハウスボートという、日本の屋形船を何倍か大きくして内部に寝室や料理場までも備えてある美しい遊覧船がつながれている。別荘に住む家族は、この船で川を上下し、時々場所を変えて気分転換するという趣向である。別荘とこの遊覧船との往復には、一人乗りのカヌー(原文「カヌン」)という小さなボートの船尾に座り二本のオールで操縦する。

 私も毎日亮一郎君と、このカヌーでサーン家のハウスボートへ行ったりきたりしたが、河岸の平原は例の草花の咲き乱れるあいだに牛や羊の群れや遠くの教会の塔などが見渡せ、その風景はじつに絵画的なものだった。

 私はイギリスに到着そうそう、この光景をおもしろく文章にして福澤先生に送ったところ、先生はさっそくこれを時事新報に掲載し、これからの外国滞在中、時事新報記者として通信してほしい、といって若干の通信料をくださった。私はかさねがさねの恩恵に感謝し、それから二年間不自由なくイギリスに滞在することができたのである。これはほんとうに願ってもないしあわせだった。
 


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 四十
米国人の学問(上巻129頁)

 私ポキプシーのイーストマン商業学校に在学中、アメリカ人の学問に対する考え方が、われわれとはかなり違っているということを知った。
 学生たちは下宿屋に滞在するという方法のほかに、イーストマン商業学校がホプキシーの土地の繁栄に寄与しているため普通のお金持ちの家庭で縁故のある学生を紹介で二、三人下宿させるということが広く行われており、そのような家庭に下宿する場合も多かった。福澤一太郎氏の下宿していたオートンという未亡人のところには年頃の娘さんがふたりいて非常に上品な家庭だった。私の下宿していたところもそれなりの家庭で、もうひとりアメリカ人の学生がいた。
 この学生があるとき私にアメリカ各地の商業学校の事情について話してくれたところによると、ある学校では入学金に三十ドルから五十ドル取られる。またある学校では百ドル取られたうえに、月謝もちょっとした高額なのだそうだ。しかし、今入学金や月謝の安い学校を卒業してニューヨークなどの商店に住み込もうとすると、初任給がこれこれとなり、ほかの高等学校を卒業すれば、その入学から卒業までの学費が、しめてこれこれくらいの高額になるかわり、卒業後の収入がこれこれとなる。つまり、学費を多く払って卒業後の収入が多くなるか、学費は安いかわりに卒業後の収入も少ないかを比較して、どちらが得になるかについては学生の入学時のふところぐあいと相談し、また卒業後の収入の差などを検討して決めるべき問題であるという。
 この人の口ぶりから、日本で学問をするというのは自分自身の義務であって、はじめから利益計算は度外視しているのに対し、アメリカ人は学問を一種の商品のように考えて、価値の高いものや値段の安いものを選んでいることがわかった。これはまるで商品売買と同じで、使った金にたいし、どれだけの収入があるかを計算するのであり、つまり学問も買い物なのである。さすがに拝金宗の国だけあって、金銭に対する打算は日本人とは根本から違っていると思った。
 それからというもの、他の学生たちの考えにも注意していると、かれらはこれをふつうのことだと疑いもなく考えていることがわかり、学校に入学する者は最初から将来の計算をしていることがわかった。
 私のような日本流が正しいのか、それともアメリカ流が道理にかなっているのか。すなおに考えればアメリカ人の考えがむしろ妥当だと思ったのであるが、これは、私がアメリカでしばらく学校生活をしているときに得た感想なのである。


ワナメーカー百貨店(上巻131頁)

 私はポキプシー商業学校を卒業後、学校の先生でハスキンという親切な教授が各地の商業機関宛ての紹介状を書いてくれたので、これに非常に助けられた。
 明治二十一(1888)年三月にポキプシーからニューヨークに移り、ハスキンの紹介により株式取引所の調査をした。また生糸貿易会社の新井領一郎氏らの紹介を得て、生糸織物のいちばん盛んなパターソン地方を視察した。

 さらにフィラデルフィアに赴き、そのころアメリカ一とされていたワナメーカー百貨店を見学した。百貨店は当時アメリカでもまだ珍しい小売り業態であったが、これはそのうち必ず日本にもやってくるにちがいないと思ったので、私は四、五日にわたり調査を続けた。

 このころはまだアメリカでチェーン・ストアの仕組みが発達していなかったので、百貨店が地方からの注文を受けて荷物を発送するということがかなり多く、当時のワナメーカーの支配人の話によると、同店が一日に地方に発送する貨物は約三万六千個にのぼるということだった。
 今日ではあまり珍しくないことだが、店員が客に売った勘定書と現金を離れたところにある帳場に送り、その受け取りやつり銭などを、例の針金づたいにやりとりする方法を、当時非常にめずらしく思った。また、特に女性の店員が大活躍しているのを見て、これはわれわれがまだ見たことのない女性の職業で、いつかきっと日本にも輸入されるされるにちがいないと思った。私が明治二十六(1893)年に三井銀行大阪支店長時代にはじめて女性を銀行の金銭出納係に採用したのも、また三井呉服店改革して百貨店のはしりとなったのもみな、このワナメーカー視察があったおかげで、たまさか実現したものなのである。


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 三十九
洋行の準備(上巻126頁)

 私は新聞記者をやめて実業界に進むと決心したが、それと同時に、まず洋行したいという希望を持っていた。洋行は必要があってのことでもあった。というのは、明治初期の西洋文明輸入は洋学者の一手にになわれており、官吏の世界ではもちろんのこと、どのような分野においても、同じことを言っていても、一度洋行したことのある者でなければ人は耳を傾けなかったのである。また同じ学力で役人になったとしても、洋行者とそうでない者のあいだには月給の差が二倍あるというような時代だった。だから何をするのでも、一度洋行して箔をつけなくては始まらないのが当時の情勢で、わたしも是非とも洋行したいという希望を持ったのである。
 ところがここに願ったりかなったりの機会が訪れた。親友の下村万太郎君の父、善右衛門氏が、明治十九(1886)年ごろ生糸の商売で巨額の利益を得、当時の懸案であった生糸の直輸出を計画することになり、まずアメリカの状況を視察しなくてはならないというので適当な人材を選んで派遣しようとしていたのだ。そのとき万太郎が、父に私を推薦してくれたのだ。
 そのころの生糸の輸出業は維新以来すべて外国人の手に握られていた。わが国の生糸商は横浜に商館を構える外国商人に生糸を売り込むだけで、輸出に関してはすべて外国商人が行っており、日本人にとって不利益であることがだんだん明らかになっていたのである。
 明治八、九(18756)年ごろから商権回復運動というものが起き、日本の産物を海外輸出する場合には日本人が直接これに携わるという試みがなされたのであるが、なにかと失敗が多かった。最初に朝吹英二氏らが、大隈重信氏のち侯爵の大蔵卿時代に政府から資金を借り生糸の直輸出を企てたものの、時期尚早でさんざんの失敗に終わっていた。そのあとは、これを継続した日本生糸直輸出会社というところがわずかに残っているだけだった。
 下村善右衛門氏が今回、生糸の直輸出を企てたのも、このような欠陥を補うためのもので、私はその直輸出の事業視察使として渡米の相談を受けたのである。むろんのこと二つ返事で快諾し、福澤先生にそのことを話すと、先生は私を新聞記者としてとどめおきたい気持ちと、下村の資力が目的を達するまでもつのかどうかを心配する気持ちから、簡単には承諾していただけなかった。だが、私があまりに熱心で矢も楯もたまらないという様子なのを見て、とうとう許可してくれた。
 それで、明治二十(1887)年五月、私は時事新報社を退職した。渡米に先立って日本の生糸生産地を視察するため、群馬の前橋、富岡をはじめとして信州の上田、松本、諏訪などの製糸工場を訪問し、さらに横浜の生糸取引の実況も視察した。九月中旬に一応の調査を終え、同月末におおいなる希望を抱いて当時アメリカに就航していた3500トンの汽船、ゲ―リック号で渡米の途についたのである。

 

在米の本邦人(上巻128頁)

 私が明治二十(1887)年九月末にゲ―リック号で渡米したときの同船者には、印刷局長の得能通昌、同技師の大山某、在英日本公使館書記官の鍋島桂次郎(原文「次郎」)、寺島誠一郎寺島宗則伯爵の長男でのちに伯爵をぎ貴族院議員、副島道正副島種臣伯爵の長男でのち伯爵を、徳大寺公弘徳大寺実則公爵の長男でのち公爵を、など十余名だった。
 私は生糸直輸出業を視察するのに先立ちアメリカの商習慣を調査する必要があると思い、まずアメリカの商業学校にはいり、その原則を研究するのが早道だと思った。そこでニューヨークから七十マイル(注・一マイルは約1.6キロ)はなれたハドソン河上流のポキプシーというところにあるイーストマン商業学校に入学し、翌年三月ごろまで同地に滞在し、同月同校を卒業した。そしてニューヨークにうつり、いよいよアメリカの商業の状況を視察することになった。
 当時アメリカに滞在していた日本人には、ポキプシーに、川崎金太郎のちに八右衛門、大三輪奈良太郎のち名古屋明治銀行頭取、福澤一太郎のち慶應義塾塾頭などがいた。ニューヨークには正金銀行に山川勇木のち正金銀行取締役がおり、印刷業視察の星野錫、森村組の村井安固、生糸貿易商会の新井領一郎氏などがいた。またフィラデルフィアには、留学中の岩崎久弥、福澤捨次郎、福澤桃介らがおり、ワシントンには当時日本政府から圧迫を受けて渡米中だった馬場辰猪氏がおられ、日本公使館には海軍武官として斎藤実のち子爵、総理大臣が滞在しておられた。斎藤氏は当時、美青年将校だったので、ワシントンのモガたちのあこがれの的で、同地の交際場の裏の花形だという評判も耳にした。
 なおそのときには、日本から同船した得能通昌氏が、当地において造幣事務の調査中だったから、氏に日々随行して、私の視察のうえでも大きな便宜を得ことは好都合であった。


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 三十八
村と十郎(上巻122頁)

 
上州前橋の下村善右衛門氏は私と同年配で、明治十七、八(18845)年ごろ東京に遊学していた。正式には慶應義塾に入学しなかったものの、時々福澤先生のところに出入りして学校外の弟子としてその教えを受ける機会があった。当時は万太郎といい、厳父の善右衛門氏は前橋の生糸製造業者だった。父はそのころ相場でかなりの利益をあげ四十万円ともいう、当時の四十万円は相当の大金だったので、万太郎氏も大得意で市川十郎をひいきにし、十郎のほうもまた、彼が金持ちの若旦那らしい無邪気なかわいげがあることにほれ込み、下村さんのほうも金銭関係を離れてほとんど親類同様につきあっていたから、私も下村氏に連れられて築地の十郎の家によく遊びにいった。
 あるとき十郎が十八番の「暫」をやったとき、下村氏は十郎に顔の隈取りをしてもらい、彼の衣装を着こんで写真を撮った。撮ったはいいがあまりに着物が重たいので、非力の下村氏はよろよろして歩くこともできず一同大笑いになったのだった。
 このころ私は末松謙澄氏と話し合って盛んに演劇改良論を唱えていたので、十郎に面会する機会が多く、同時に先代守田勘彌氏とも懇意になった。

 あるときトルコの軍艦が紀伊半島沖で沈没したことがあり、それを守田勘彌が中幕物(注・第一、第二狂言のあいだに出される一幕の狂言)に仕立てたいということでに脚色を依頼してきたので、私は以前に福澤先生からきいていた、尺振八が渡米の際に暴風雨に遭い汽船から逃げ出そうとしたという逸話(注・23を参照のこと)をそのなかに入れ込んだ脚本を作り、おかしみを出したりしたのであるが、政府が外交上の問題があるということでこの上演を許可してくれず、そのまま中止になってしまったのは残念だった。
 私と市川十郎の交際はこのときから始まり、後年かなり親密に行き来することになったので、そのことはまた、おいおい記すことにしよう。


売文生活(上巻124頁)

 私は母に似て、容貌も性格もいちばん多く母からの遺伝を受けていたが、文芸好きという点でもその影響を受け少年時代から読書や作文にとことんの興味を持っていたので、新聞記者という職業は私の天職で、人から後ろ指さされるようなこと(原文「不倫」)ではないと信じていた。
 さて、私の時事新報在職もすでに足かけ六年、新聞の論説欄の執筆も福澤先生に指導され、今では先生の口述筆記でも自筆の論説でも、ほとんど先生の目を通さずに時事新報の社説欄に掲載されるようになっていて、俸給もかなり多額になっていた。
 何の不満もないというべきところだったが、私はうまれつき、よくいえば趣味、悪くいえば道楽が高じがちで、衣食住に関して贅沢をすることが多かった。そのため、新聞記者として文章書き(原文「売文生活」)を続けたのでは、とてもこの性分を満足させることができないことに気づき出した。また同時に、新聞記者として短時間にいそいで文章を書くということ快感を感じるというよりむしろ苦痛を覚えることのほうが多く、ときとして、明日掲載のための論説の内容を考えるために夜遅くまで頭を使わなくてはならないこともあり、健康にさわることも出てきた。

 文章を書くということは、衣食にこと欠かず、「五日一石、十日一水」(注・画家が五日かけてひとつの石を、十日かけてひとつの川を描くように、じっくりていねいに、の意味)というように、気持ち安らかにやってこそ趣味を感じるというもので、仕事に束縛され、いやいやながら筆をとるのはむしろ苦痛だと感じ始めていた。そこで私は、一時期実業界に寄り道して生活の安定を得てから、また文芸生活に戻って気楽に文筆の趣味を楽しまなくてはならないと、ここに新聞記者をやめる決心を固めるにいたったのである。
 私が福澤先生の勧告に従わずに、まず生活の安定に必要な資を蓄えるために新聞記者を早くにやめ、いっとき実業界に寄り道したということは、言うまでもなく失策だった。二兎を得ようとしている者さえ一兎を得ないのが世のならいなのに、には往々にして数兎を得ようとする悪い癖がある自己満足をすることはあっても、後世に足跡を残すような何ごともなしえなかったのはこのためだったのである。私がもしも先師の訓告に従って一心に文筆業者(原文「操͡觚業者」)として働き続けたなら、東京の文壇で、貧弱ながらなにがしかの者になりえたであろうに、実際にはなにをやってもそこそこ器用なせいで趣味は十個以上にわたり、実業界にはいってからも、銀行、紡績、鉱山、製紙、百貨店の各方面に身を置き、使う側からは重宝がられたが、さてなにが私の仕事なのかと問われると、これだ、と答えられるものがなにもない。結局人生の成功は自分の持つ力を一点に集中することで得られるもので、わたしのような八百屋主義では大成することはないのである。ここにこれを懺悔し、これからの人たちの参考にしてもらえればと思う。


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 三十七
客来一味(上巻119頁)
 
 明治二十(
1887)年、麻布鳥居坂の井上侯爵邸で天覧劇があったときのことである。井上侯爵は自邸に天皇陛下をお招きする光栄に際し各部屋ごとに最高の飾りつけをしたが、なかでも玉座の置かれる書院の床の間に東山御物(注・室町幕府の将軍とくに八代義正が収集した絵画や茶器などの宝物)の牧谿(注・13世紀中国の水墨画家)作「客来一味」の対幅を掛けた。

 明治天皇は、とくにこの幅に目を留められ非常にお気に召したご様子なので、井上侯爵この二幅のうちの一幅を献上し、一幅は自分の家に置いておきたい旨を奏上すると、さっそくそれでよいということになった。天覧劇が終わり夜もふけたころ、お帰りの際にさきほどの幅を宮中にお持ち帰りになったとのことだった。

 さて、この牧谿の手になる「客来一味」というのは、淡い墨で蕪を描いた作品である。貧乏な寺に客が来た時になにもごちそうするものがないので、裏の畑でとれた蕪だけで間に合わせる、というはなしにちなんで名付けられたのである。その図柄に味わい深い趣があるため、日本においてもこれにならうものは多く、元信、雪舟、探幽などにも同じ画題のものがある。この牧谿の作は東山御物のなかでも有名なもののひとつだが、維新のあとにある大名から売りに出されたときに二幅が分かれて、一幅が井上侯爵の、もう一方は神戸の川崎正蔵氏の所蔵するところとなった。しかし井上侯爵が、もともと二幅の対なのだから、ぜひともその一幅を自分に譲るようにと、川崎氏からほとんど強制(原文「徴発」)的に取り上げた品だったのである。
 さて、天覧劇から五、六か月たって、井上侯爵が家に残っているはずの客来一味の幅を取り出そうとしたところ、どこにあるのかわからず、よくよく調べてみると明治天皇がお帰りの際に二幅ともお持ち帰りになったということがわかった。
 その後侯爵は、参内のついでにこのことを申し上げ、あの掛物は、一幅を宮中に献上しもう一幅は自分の家に残すはずでしたので、どちらかの一幅をお渡しいただきたいと願い出た。すると陛下は、なにか思われたようで、声を立てて笑われ、せっかく持ち帰ったので二幅とも手元に置いておこう、と仰せになったため、そのまま宮中にとどまることになった。
 さて一方、この話をもれきいた神戸の川崎正蔵翁は、手をたたき鳴らしておおいに喜び、井上侯が拙者より取り上げたる幅を、今度は宮中に召し上げられたそうだから、これで拙者も大満足なり、と言われたそうだ。
 その後、皇后大夫の杉孫七郎子爵が皇后陛下に、そのことをよもやまばなしとしてお話ししたのであるが、杉子爵のことであるから、掛物献上の経緯をありのままにおもしろおかしくお耳にいれたのである。すると皇后陛下はこれを興味深くおききになり非常に気の毒がられ、さいわい手元に弘法大師筆の不動尊の一軸がるので、これを井上にやってください、と仰せられたので、杉子爵はありがたくお受けしさっそく井上侯爵に伝えた。
 この不動尊は弘法大師の直筆で、承和二年年於清涼殿画之という落款がある。(注・承和二年は西暦835年)。幅が一尺(注・一尺は約30センチ)、長さが三尺ほどのぶりな幅ではあるが、長く醍醐寺に伝わったものが宮中に献納されたものだったので、侯爵は皇后陛下の厚いご慈悲に感激し、その喜びもただごとではなかった。そしてこの不動尊を掛けるたびに、かならずこの経緯を物語られたので、井上侯爵と親しく交際した人のなかで、この話を一度二度聞かなかった人はいなかったであろう。


鳥差瓢箪
(上巻
121頁)

 井上侯爵の茶道具の話のついでに、もうひとつのエピソードを話しておこう。侯爵は生まれながらの道具好きとみえ、明治二(1869)年に長崎判事として九州に赴いたとき、福岡で、祥瑞沓形向付五人前をわずか数円で手に入れたのをはじめとして、名品を見つけるたびに買い集めたので、やがて蔵品豊富な大収集家になられたのである。
 明治十四(1881)年ごろ、侯爵は外務大臣として、外務省の権大書記官信局長だった中上川彦次郎氏をともない関西に出張した。大阪の旅館に一泊し、地元の道具屋(注・古美術商)が持ってきた染付鳥差瓢箪という形物香合を侯爵が喜んで買い取っているのを中上川氏が横でながめながら、そんなものに大金を投じて、なんとなさる思し召しか、私ならば糊入れ壺にでもするほかありません、と言われたので、井上侯爵は大声で笑い、君のような書生坊にかかっては、名器も三文の値打ちもない、といって、ちょうど訪問した藤田伝三郎氏にこのことを語り、「縁なき衆生は度し難いね(注・仏の慈悲があっても仏縁のないものは救えないことから、忠告に耳を貸さない者はしょうがない、の意)」とその話をして笑ったとのことだ。
 しかし中上川氏は晩年、腎臓病にかかり引きこもりがちになったとき、僕もすこし骨董いじりを覚えていたら、これほど無聊(注・退屈)を感ることもなかったろうにと、時々口にされることがあったので、私はいつもこの例を出して、友人に趣味を持つようにと勧めることあったのである。


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三十六 井上邸の天覧劇(上巻115頁)

  私は、明治十八(1885)年から、なにかのきっかけで演劇改良論を唱えるようになり、このときちょうどイギリス帰りの末松謙澄氏【のち子爵も同じ意見を持っていたので、私が以前から懇意にしていた先代の守田勘彌を通じて、そのことを市川団十郎(注・九代目)や、そのほかの俳優に伝えることになった。また芝居を改良するにはまず役者の地位を向上させなければならないということを末松氏が伊藤博文公爵に吹き込んだので、政府の高官のなかでとくに十郎をひいきにしておられた井上馨侯爵がこの機運を察して、明治二十(1887)年四月二十六日、鳥居坂の井上新邸に、明治天皇、皇后(注・のちの昭憲皇太后)、皇太后(注・英照皇太后)の三陛下の行幸を願いたてまつり、天覧劇を開催する運びとなったのである。私は一新聞記者であるから、もちろんこれに関与したわけではないが、当時のこのさなかに人一倍内情を聞き知る機会があったので、のちのちの参考にその大要だけを記しておこうと思う。
 井上伯爵が三陛下の臨幸をあおぎ、演劇(注・当時演劇といえば歌舞伎のこと)を天覧に供することが決まると、庭前の芝生に杉の皮葺きで間口七間(注・一間は約180センチ)、花道三間の舞台を作り、舞台から白洲をへだてて五、六間のところに青竹の手すりで囲んだ玉座を設け、背後には金屏風をたてまわした。

 天覧芝居は芝居の世界では前代未聞のことで、まことに畏れ多いことなので、末松氏は、まず出し物の脚本を選び、その中の文言を検閲し、勧進帳からは「御名を聖武天皇と申し奉る」という一節を削除したり、「固より勧進帳のあらばこそ」の語格が違うというので「あらばこそ」を「あらざれば」と修正したり、芳村伊十郎が勧進帳を語る時に「平家蟹」のような顔つきをして唄っては失礼になるから気をつけるようにせよ、などと猛烈な注意(原文「小言」)を連発して一同をふるえあがらせた。
  その日の時間は、午後三時から五時までで、番組、主役はのとおりである。

第一、勧進帳…≪富樫≫左団次【先代】 (注・初代市川左団次、団菊左の)
      ≪太刀持≫ぼたん【今の左団次】
      ≪義経≫】福助【今の歌右衛門】(注・5代目中村歌右衛門、戦後の名女形6代目の父)
      ≪四天王≫【亀井】金太郎【今の幸四郎】(注・7代目松本幸四郎)
      ≪弁慶≫
十郎【九代目】  
(注・9代目市川団十郎、団菊左の)

第二、高時…≪高時≫団十郎     
      ≪城之助入道≫左団次
      ≪長崎高貞≫松助【故人】  (注・4代目尾上松助)
      ≪大佛陸奥守≫菊五郎【先代】(注・5代目尾上菊五郎、団菊左の)
      ≪衣笠≫福助       (注・中村福助、のち2代目中村梅玉)

第三、操三番叟…≪翁≫芝翫【故人】 (注・4代目中村芝翫)
      ≪千歳≫家橘【今の羽左衛門の父】(注・14代市村羽左衛門、初代坂東家橘)
      ≪三番叟≫菊五郎
      ≪後見≫鶴蔵【故人】 (注・中村つるぞう?)
 

第四、漁師月見…≪漁師浪七≫十郎
       ≪こち≫升蔵【故人】 (注・市川升蔵)
       ≪ふぐ≫小団次【故人】(注・5代目市川小団次)

第五、元禄踊…≪立髪の侍≫家橘
      ≪投頭巾男≫小団次
      ≪頭巾冠職人≫松助
      ≪墨衣鉦叩坊主≫鶴蔵
      ≪茶筅売≫門蔵【故人】(注・不詳)
      ≪元禄娘島田≫福助
      ≪同≫金太郎
      ≪武家の妻≫秀調【先代】 (注・2代目坂東しゅうちょう)


このほかに、長唄連中がいた。

 さて天皇陛下は午後一時半ごろ鳥居坂臨幸になり、二十分に最初の勧進帳が始まった。ところが左団次の富樫が、ふだんの名調子とは似つかずなんとなく震えているようなので、番卒たちまでが緊張で動けなくなってしまい、守田勘彌みずからが燕尾服姿で揚幕を開けたというようなかなり滑稽な場面もあった。
 さて玉座の左右には、各宮殿下をはじめ伊藤、松方、山県、大山、榎本などの各大臣が大礼服を着て居並び、庭前の新緑と向き合って荘厳な雰囲気になっていた。

 この日は十郎でさえもがぶるぶると震えて、弁慶の大見得を切るときもなんとなく打ち沈んで見えたということだ。

 このとき二十三歳で義経の役をつとめた今の歌右衛門(注・五代目中村歌右衛門)に当時の模様を尋ねてみたところ、次のように語ってくれた。
 「私は第一の勧進帳で義経をつとめ、第二の高時で衣笠をつとめましたが、聖上陛下には、始終ご熱心に覧遊ばされ、最後の元禄踊が終わって、晩餐の際、『近頃珍しいものを見た』とのお言葉があったと洩れ承って、楽屋一同雀躍してよろこびましたが、団十郎のごときは、感極まってうれし泣きに泣いておりました。それから晩餐後、お好みとあって、山姥と曽我を叡覧(注・天子がご覧になること)にいれましたが、山姥は十郎、曽我は十郎を菊五郎、五郎を左団次、虎御前を私というような役回りで、終演後、俳優一同舞台に起立して、最敬礼を行いましたとき、陛下にはかしこくも挙手の礼を賜りました。それより二十七日は、皇后陛下の行啓があって、第一、寺子屋、第二、伊勢三郎、第三土蜘蛛(原文「土蜘」)を出、番外お好みとして元禄踊と、団十郎の忠信に、私の静で吉野山を上演いたしました。二十八日は各国大公使、内外の大官貴顕紳士方であり、二十九日は英照皇太后陛下の行啓があって、これは第一、勧進帳、第二、靱猿、第三、忠臣蔵三段目、第四、同四段目、第五、吉野落、第六、六歌仙という数々の番組を上演しましたが、この天覧劇に出演の光栄を得ましたのは、私の一世一代の光栄と思っております、云々

 以上のように、芝居の天覧というのはこれがまったく初めてのことで、その後も今日にいたるまで再び行われるにいたっていないのである。
 英照皇太后陛下は能楽がお好きであらせられたので、十郎が演じた勧進帳をご覧になったとき、その問答が喧嘩のようだと仰せられたそうである。能の安宅に比べてごらんになったとすれば、そのようにお感じになったかもしれない。
 とにかく、このことがあってから俳優の地位が一段向上したのであり、これは明治帝の御代における盛大な催しであったといえるだろう。


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 三十五
壮時の伊藤公
(上巻
112頁)

 私が時事新報に勤務していた明治十八(1885)年ごろ同僚の津田興二氏と連れ立って、当時イギリス帰りの新知識人(原文「新人」)だった末松謙澄氏を、同氏が滞在していた伊藤博文伯爵のち公爵の官邸に訪問した。
 われわれが末松氏と時事問題について議論しているとき伊藤伯爵が隣室からひょっこり現れて俺も仲間に入れてくれ、と言われた。ちょうど私たちが末松氏と論争中だった、日本に公侯伯子男の階級を設けるのは時代錯誤ではないかという問題について伊藤伯爵は、日本の皇室を守護するためにはどうしても爵位の必要があると力説した。戦国時代であれば、その功労者に一国一城を与えるなどの論功行賞があったが、今はそういう時代ではないのでなおのこと爵位が重要なのであると、年下でまだ駆け出しの新聞記者をつかまえて激しく論駁されたのである。
 そのときには伊藤巳代治氏のち伯爵も議論に加わったのでますます賑やかになり、伊藤伯爵は酒もはいって上機嫌になり、もっと別の難題はないのか、などとさかんに雄弁をふるいたいようすを見せた。そこで私たちも礼儀をわきまえない野人ぶりを発揮してさらに露骨に議論をふっかけた。末松氏が、なにか失言でもしないかとはらはらしているようだったので、私たちもこのあたりでやめにしようと退出したのだった。当時の伊藤伯爵はこのように元気はつらつで、

  豪気堂々横大空 日東誰使帝威隆
  高楼傾尽三杯酒 天下英雄在眼中

という傑作のなかにある抱負が実際の言論にも現れていた。後年私が出会った日本の政論家のなかには、当時の伯爵ほどきびきびした雄弁家を見かけないように思う。



著書の出版(上巻113頁)

 私は明治十七(1884)年から十九年にかけて、「日本人種改良論」と「拝金宗」正続編とを刊行した。「日本人種改良論」を執筆した動機は、井上外務卿が条約改正に先立ちしきりに欧化主義を訴えた時勢に感化されたからだった。日本人が一気に欧米人と肩を並べるためには、まず日本人の小柄な体格を改良すること、もっと進んで、日本人は欧米人と結婚して根本的に人種を改良すべきだ、という突拍子もない論説だった。
 また「拝金宗」は、明治十七1884年ごろから福澤先生が実業論をさかんに唱え、士族根性を実業主義に転換させようという論説を唱え私が代筆したので、自分でも一冊の書物として出版することにしたのである。
 金宗というのは、アメリカ人のいう「オールマイティ・ダラー(注・原文ではドルラル。全能のドルという意味)」という言葉を私が翻訳したものだ。この本では、河鍋暁斎という北斎風の絵を上手に描く画家に表紙の挿画を依頼し、釈迦と孔子とキリストを十字架の上に縛りつけた一方で、後光の射す金貨をひとびとが拝むという漫画で、内容もとても挑発的で奇抜なアイデアだったので、この本は上下二冊で数千部の発行部数となった。のちに司法大臣になった横田千之助氏なども少年時代に郷里でこれを読んでおおいに発奮したと私に直接話してくれたものだ。
 ところで「日本人種改良論」に対しては、当時の帝国大学総長だった加藤弘之博士がある雑誌で堂々と反論されたので、私は時事新報紙上でこれに対抗したが、そのとき福澤先生は、相手がおもしろいからきちんとやるがいい、なんでも議論というものは最後まで対陣して、最後に自分のほうで書いて終わらせなければならない、と応援してくれたものだった。福澤先生の論争はいつもこのやり方だったようで、かならず相手を降参させなければ気が済まないというようすだった。


河鍋暁斎(上巻114頁)

 河鍋暁斎の話が出たからついでに、彼のことを記しておく。私が彼に出会ったのは明治十七(1884)年ごろで、そのころ日本橋本町で岐阜出身の原亮三郎という教科書出版業者が、金港堂という当時第一級の書店を開いていた。私はある日、市外龍泉寺村にある彼の別荘に招かれたことがあった。そのときの余興に、河鍋暁斎が席画(注・即席で客の注文の絵を描く芸)をやったのだが、彼は六十前後で、でっぷりと太って頑丈そうな骨格の持ち主で、職人風の粗野なところがあり、すさまじい酒豪だった。そして席画の上手なのには驚かされるばかりだった。私たちに紙になにかひと筆墨でかかせ、それを花にしたり、ねずみにしたり、鳥にしたりと描いていくうまさは並ではなく、一同手をたたき、やんやと喝采する声はやまなかった。彼は鍾馗だとか鬼の念仏だとかの人物がいちばん得意で、だいたい北斎の流れをくんでいる。芸は達者だが、下品なかんじ(原文「悪達者の風」)で、気品が高いとはいえなかった。
 こうして席画がひとめぐり終わると、これから私の本芸をお見せします、と言って、能狂言の末廣狩を舞った。野太い声で、傘を持ちながら「傘を差すなら春日山」と座敷中を狂い舞ったのをいまでも印象深く覚えている。ちなみにこれが、私が能狂言というものをはじめて目にしたときであった。


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 三十四 明治十年代の新橋(下)(上巻109頁)
 
  明治十年代の新橋は芸妓の数も非常に少なかったし待合の料理も粗末なもので、今日とはくらべものにならない。東京の料理屋といえば、昔のなごりで
山谷の八百善、浜町の常盤屋などの名前が挙がり、新橋方面にはこれと肩を並べるものはなかったが、客層はだいたいが知識階級で、その遊蕩ぶりにもなんとなく雅趣があり後日の語り草になるようなことも多かった。

 そのような噂のタネになるのはまず朝吹君で、そのころお里というかわいい子(原文「婀娜者」)にぞっこん入れ込んでいたのに、そのお里がいつのまにか別の愛人のもとに走ったという事件が発生した。そのとき、萩の本の阿仁丸君は失望落胆のあまり、
  
  おさと
お砂糖なくてお萩あだ名やい焼いて悔い食い


と吐き出した
が、当時、これはうまいと評判になった。(注・「お萩」、「阿仁丸」というあだ名については、
25を参照のこと)
 もともと阿仁丸君は世話ずきで非常に親切だったので、廓の金には困っても親しい友人に対してはいつでも助け船の船頭役をつとめる性分だった。なかでもいちばんおもしろかったのは、長崎出身の秀才で美青年の笠野吉次郎氏が、阿仁丸君とは反対に美男なるがゆえにちょくちょく女難の祟りをうけ、夫婦の契りからも間もない阿久里という美人を振って、朝蝶という新愛人を作ったときのことだった。阿久里は激怒し、とうとう別れ話になった。そのときに、阿仁丸、犬養の両人が仲裁役になり、手切れ金の話し合いになった。笠野からは二百円を出させ、阿久里には半分の百円を渡した。残りの百円は小さなブリキ製の金庫にいれて、笠野がいないときに阿仁丸みずから笠野夫人に面会し、「この金庫には僕と犬養とご主人の三人の身の上にかかわる秘密書類がはいっていて、僕らの家に置いておけず、げんをかついでご主人にも知らせずに奥さんにお預けする次第なので、どうか秘密を守って保管してほしい、しかし後日、ご主人の身の上に何か困ったことがおきたとき、このなかの書類が物を言うから、そのときはじめてご主人に打ち明けてこの玉手箱を開けるように」と言い置き立ち去った。さてその後ほどなく、遊蕩の報いがめぐりめぐって笠野が困り果てていたときに、夫人がこのことを思い出して、朝吹さんから預かった秘密箱は、まさかのときに開けるように言われていたので今あけてみましょうと言って箱をあけてみると、なんと当時では大金だった百円札が目の前に現れたので、夫婦は喜びに喜び深い友情に感涙を流したという悲劇とも喜劇ともつかぬ話である。
 このころの新橋花月楼は平岡広高が経営者で、年が若いうえに自分自身も道楽者でいつも貧乏神にとりつかれていたから、妻のお蝶にも新橋で二度の勤めをさせるということがあった。しかし、女房がいなくては茶屋の営業も成り立たないだろうと阿仁丸君が同情し、それに馬越、犬養も同調して、とうとうお蝶をもとの花月楼に返らせたことがあった。その日、店先から大声で、「お蝶はおるか、モロ高はおるか」と呼びつつ飛び込んできたのが阿仁丸君だった。これは例のそそっかしやで、平岡の名の広高を、モロ高と間違えていたのである。それが悪友のあいだで大評判になり、このときから花月楼主人は、ヒロ高拾ったかモロ高たか】(注・貰ったか)と呼ぶようになったというおかしな話もある。
 また阿仁丸君が自分の貧乏もかえりみず道楽仲間を援助するので、悪徳新聞記者がそれにつけこみ、朝吹は貿易商会(注・25を参照のこと)の多額の金を隠匿しているのだろうと恐喝し、口止め金を出せと言って押しかけてきたとき、商会の荒川新十郎氏が憤慨して抗弁しようとしたところ、阿仁丸君はそれを制止し、君らは考えがまだ青臭い、僕が金をかくしていると言われれば、人も安心して金を貸してくれるから、ここは黙って逆に宣伝してもらったほうがいい、と平然として、いっこうに取り合わなかったそうだ。
 そのころは今日とは違い、花柳社会に出入りする者のなかには脱線者も多かったので数々の奇談が残っているが、そういうことを思い出すとなんとなく昔が恋しくなるような心地もする。

 

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三十三 明治十年代の新橋(上)(上巻106頁)

 吉原の全盛時代が、王政復古の明治維新ともに夢のように去ると、東京の花柳界はしだいに南のほうに移動した。
  
私が上京した明治十四(
1881)年ごろは、いまでいうなら神楽坂か道玄坂くらいの位置づけだった新橋がめきめきとランクを上げ、柳橋を越えるか越えないかという勢いを示しているときだった。これは主に政府の高官や中流以上の役人、あるいは地方の長官クラスの人たちが、地理的に便利だというので新橋に足を向けるようになったからである。
 しかし茶屋や待合の設備はいたって粗末なもので、当時料理屋としては売茶亭、花月楼くらいしかなく、待合は船宿の名残りで、三十間堀に大村屋、兵庫屋のほかに二軒あるのみ。新しく開いた待合は、出雲橋ぎわの長谷川すずが女将をやっていた長谷川の一軒だけで、あとは烏森に濱野屋という料理屋があるだけだった。
 この濱野屋の女将だったお濱は、明治はじめに井上世外侯爵(注・井上馨)がひいきにしていたころに、その後亭主にした隠密の親分とのあいだにおもしろいエピソードを残した人だ。彼女一種の侠気(注・おとこぎ)があったので、頭山満翁なども上京したころにはこの女将をひいきにして常宿にしていたものだった私も貧乏書生の新聞記者で、遊蕩の世界に足を踏み入れたばかりの遊蕩学校一年生だったのに、どうやらこの女将のお眼鏡にかなったようでいつも上客として扱ってもらい、まんまとこの学校を卒業させてもらうことができた。私にとってもこの女将はいくらお礼を言っても言い切れないほどの恩人である。
 さてこのころ濱野屋に出入りしていた婀娜者(注・あだもの。色っぽい女のなかでは、有名な「洗い髪のお妻」の人気がダントツだった。このころまだ十五歳で雛妓おしゃくとなった。

 木挽町「田川」の女将である石原半女は七十二歳の現在もなお元気はつらつで現役として活躍しているが、最近できあがった五階建ての近代的なビルである新橋検番ビルの開会式にあたり、昔を思い出して感無量の面持ちで、そのおしゃく時代の新橋物語を語るのをきけば、彼女と同時代の同世代には、玉八、幸吉、小徳、お里、おしんなどがいて、芸妓の送迎は最初は女中などが勤めていたが、当時なんとかどんという気楽な男がいて、その男に三味線の箱を運ばせたのが、いわゆる揚げ箱のはじまりなのだそうだ。この揚げ箱が発展して検番になり、その検番がいまや五層の大ビルディングになったとは新橋五十年の発展は夢のようであるとのことで、いかにもそのとおりだと思う。
 この揺籃期の新橋で、その名のとおりに光り輝いていたのが玉八で、色白の美人で頭もよかったから、一時全盛をきわめていた。あるとき伊藤(注・伊東)茂右衛門氏が玉八の手にほくろ(注・原文ではホソビ。北関東の方言でほくろのこと)があるのを見つけて、

   白魚の目は玉ちゃんの手のほそび

駄句(注・あそびの軽い句を作ったところ、当時、名吟であるとして友人のあいだに伝わったとのことだ。
 そのころの花月楼の主人は平岡広高といった。まだ年若い道楽者で、朝吹英二、犬養毅、岡本貞烋、笠野吉次郎などという連中が、ここをねぐらとして気安く出入りしていた。岡本は達筆なのを表の芸とし、二上り新内(注・江戸時代の俗曲。明治時代に再流行した)を隠し芸としており、一杯のんで上機嫌なときにはその美声を張り上げるのを常としたが、仲間はほとんど芸のない猿同然で、ただそれを拝聴する側にまわった。岡本のいちばん得意としていた二上り新内は、

 「私が風邪ひいて寝ていたら、枕のそばにそっと来て、飯ま】を食べぬか薬でもと、そのやさしさに引きかえて、今の邪見はエエ何事ぞいな」

というのであった。
 西園寺陶庵公爵が、パリ帰りの「ヤング・デューク」として粋人ぶりを発揮されていたのも
のころで、その作詩だと言い伝えられている小唄に、

 「風にうらみは待合の、軒端にそよぐしのび草、そよと音も人さんに、心をおくの四畳半。」

とあるのは、当時「警八風」といって風俗係の見まわりが、ときどき待合を夜襲することがあった世相をうたったものだろう。
 このころからだんだん名古屋出身の芸妓が新橋にもやってくるようになり、最初のうちはこの「そうきゃも連」は江戸っ子芸妓に蹴落とされていたが、芸道の力がまさっているのでだんだん幅をきかすようになった。

 なかでも須磨子、若吉のふたりは長唄の三味線が抜群にうまいので、新橋でなにかの演芸会があると、ふたりであの長唄「筑摩川」の大薩摩節を弾きまくったものだ。
 その芸の高さを別にすると、全体としては今日の芸妓と比べて、諸芸ともに、いたって幼稚なレベルで、常磐津にしろ清元にしろ、今は昔とでは雲泥の差があるだろうと思う。
 


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三十二 明治十年代東京の景物(上巻
103頁)

 
 西南戦争のあった明治十(
1877)年から、二十年ごろまでは、まだ維新からの日も浅く世の中が非常に単純で、今日に比べて明るい気分になることが多かった。

 私がはじめて上京した十四(1881)年か十五年の春であっただろうか、当時は三田にあった薩摩屋敷が空き地になっていて、ここが薩摩原と呼ばれ競馬などが行われていた。
 あるとき明治天皇がこの競馬場に臨幸になったことがあった。馬見所はかんたんな仮小屋で、私たちは、十間(注・一間は約180センチ)か十五間離れた場所から陛下がテーブルを前にして椅子に座られているお姿を仰ぎ見ることができた。当時満三十歳くらいで、色白のお顔の鼻の下に真っ黒なの字のひげをたくわえ、非常にお元気なようすでシガーをくゆらせながら、お伴の大臣たちとご談笑なさりつつ競馬を覧になっていた。
 今日から見るならば、警護などもほとんど信じられないほどに簡単なものであった。そんなことからも当時の世相がどんなであったかをうかがうことができるだろう。
 また明治十五、六(18823)年は人力車全盛の時代だった。銀座に秋葉大助という大きな人力車製造店があり、東京はもちろんのこと地方にもの車の販売を広げている時期だったそのなかに一割くらいの割合で二人乗りのものがあった。その背の部分には鯉の滝登りだとか、熊と金時だとかの色のついた絵が描かれていた。
 明治十六、七年ごろだっただろうか、時事新報社が日本橋三丁目のかどにあったときだったが、鶴のようにやせて馬のように顔が長い陸奥宗光氏のちに伯爵が、その二人乗りの人力車に年若い夫人と一緒に乗り、福澤先生を訪問されたことがあった。このときは五年間の禁獄から釈放されて、いろいろなところにあいさつ回りをされているときだったのであろうが、日本橋通りを夫人と相乗りで乗り回すなどというのは、なんだか人を食ったような行動だと思ったことだった。しかし今さらのように考えてみると、入牢中の長期間ひとりで家を守っていた夫人に対しその慰労の意味もあったのかもしれない。それでもやはり、そのときはずいぶん異様な光景だったと思われたものである。
 維新後に東京に移住した政府の高官たちは、田舎武士でないなら貧乏公卿にちがいないと言われたほどに、その邸宅はもちろんのこと室内装飾にいたってもかなり趣味が悪い場合が多かった。というのも彼らの家は、維新の前に彼らが集まって天下転覆の画策をめぐらした茶屋や待合の座敷がその見本だったのだからしかたがない。床の間には文人画の花鳥風水の軸を掛け、その前には真新しい花瓶を置き、部屋の隅には紫檀の机を飾るという具合だったのだ。
 明治十年代になってもこの状況が続いていた。大隈重信侯爵の雉子橋邸は当時もっとも豪壮な邸宅として知られていたが、明治十四(1881)年に侯爵が政府を追われて下野したとき、政府を擁護する御用新聞が侯爵の贅沢を攻撃し、座敷の壁に珊瑚珠を塗りこむなどというのは思い上がりもはなはだしいなどと批判したものだった。しかしその邸宅は、その後フランス公使館に譲渡され、私なども一、二度出入りしたことがあるが、二階建ての木造の洋館で、坪数はかなりあったが今日から見れば贅沢というほどの部分はなく、ここからも、個人住宅のその後の五十年の発展がいかにめざましかったかを知るのである。

 維新後の文化の発展は政府関係の方面で一番早く、それに比べると民間の組織の改良などは非常に遅い歩みで、小売店なども番頭や小僧が店頭で客の注文を受け、それをいちいち倉庫に取りに行くという具合だった。
 そんななか「勧工場」といって、ひとつの大きな店舗のなかに各種の雑貨を陳列し、客が自由に品物を選べるようにした小売り形態が生まれた。これはのちの百貨店の前段階と見るべきだろう。けれどもその陳列品を見ると、中流以下の生活者の需要こたえることを目的としており、俗に「勧工場品」といえば粗悪品の代名詞だった。それでも当時においては小売り方法の先端をいくやり方だったのである。
 これを見ても、町人階級の知識が役人階級の知識よりも一段低かったことや、そのころしきりに西洋から輸入されていた文化的施設にしても、政府に比べて民間では遅れがちになっていたことがわかるのである。


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 三十一
福澤先生の感情(上巻100頁)

 明治十七、八(18845)ごろ、時事新報は南鍋町二丁目のかどにあり北側の裏手が交詢社とつながっていた。時事新報社がどうにも手狭なものだから、福澤先生は交詢社の赤煉瓦の二階の一室を編集所と定め毎日そこに行って論説の執筆をなさっていた。
 さてこの部屋が当時「鶴仙」という寄席背中合わせになっており、しかもその舞台が交詢社がわにあったので、落語や音楽などの音が全部筒抜けになって交詢社に聞こえてくるのだった。
 当時は竹本摂津大掾(注・せっつだいじょう。義太夫の太夫)が、まだ越路太夫といっていた時代で、はじめて東京にやってきたか二回目くらいのときだったので、すごい人気だった。そのころの寄席の木戸銭(注・入場料)は三、四銭だったのに越路が出れば十銭取るというので、そのころは驚きの的だった。
 この越路が鶴仙の寄席に出演し阿波の鳴門を語ったちょうどそのとき福澤先生は編集所にいた。越路が美声を張り上げ十兵衛がおつるを殺して金を奪おうとする場面にいたったとき、先生は感激のあまり、「悪い奴だ…悪い奴だ」と繰り返してひとりごとを言った。これは越路の芸がすぐれていたので先生を感動させたということもあろうが、悪事に対する先生の憤りの気持ちが知らず知らずのうちに盛り上がったせいでもあろう。
 私は隣りの部屋にいたので盗み聞きしてしまい、あまりにおかしかったのでクスクスと噴き出してしまったが、考えてみるとこんなことからも先生の純粋な気持ちが見えてくるというもので、かえって非常に尊敬したのだった。

 

宇都宮の警語(上巻101頁)

 宇都宮三郎氏は福澤先生の友人で、先生がいつも敬い意見を重んじ学者だった。氏は世俗にまみれず飄々として禅僧のような風貌だった。南鍋町の自宅だった煉瓦の建物を交詢社に寄付し、自分は別のみすぼらしい家に引っ越した。肺疾患を持ち医師から死を宣告されたので自分で棺桶を作ったが、その後病気から快復するとそれを本棚に代用したというような奇談の持ち主だった。
 毎日のように交詢社にやってきては福澤先生と一緒に談話の中心になっていた。あるとき宇都宮先生は次のような話をされた。イエス・キリスト(原文「耶蘇」)が自分を神だと信じたのは無理もないことだ、生まれながらにして預言者などから「君は前世の約束でこの世に生まれたたったひとりの救世主だ」と宣告され成長するまで周囲のひとびとからも同じように生神扱いされたら、どうも自分は神らしいぞと信じるようになるのは当然だ、しかし最後に十字架にかけられ脇腹に槍を突きさされたときに神ならこんなに痛いはずはないと気がついて、はじめて人間だったことに気づいただろう。そう言って大笑いしていた。先生はやせぎすで、火薬の実験中に顔にやけどを負われたので、一見、異様な風貌であったが、座談がうまくとてもおもしろい科学者であった。


新聞の広告(上巻102頁)

 新聞の広告は新聞社の収入の大きな細目であると同時に広告の依頼者にとっても宣伝効果の高い媒体であるので、今日では双方ともにその利益を知り尽くしているが、時事新報の創立された明治十五(1882)年ごろは新聞というものは論説の内容のよさで売るものだとされていおり、広告などに着目する人は少なかった。
 そういうときに、発刊当時から福澤先生の片腕となり表面的には社長として時事新報を経営していた中上川彦次郎氏は、イギリス留学中に研究してきたらしく新聞の経営には広告を取るのが一番必要だということでいろいろな新しい工夫を生み出した。
 明治十六、七(18834)ごろに時事新報が一時日本橋三丁目のかどに移ったとき、中上川氏はその二階の窓から、風船に「広告するなら日本一の時事新報に広告するに限る」という宣伝ビラを結びつけて大空に放ったことがあった。これがかなり遠くまでまき散らされ、それからというもの東京の新聞のなかでは時事新報の広告が一番多かった。
 その後ほかの新聞もこれにならって広告取りを熱心にやるようになったが、中上川氏がこれに着眼したということは、氏がのちに実業方面で大きな足跡を残したことの第一歩であったといってもよいであろう。


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