だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

2017年04月

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 三十

福澤先生の喜怒(上巻97頁)

  福澤先生は、思ったことをすぐに行動に移す直情径行の人である。もちろん高い理性があるうえに学問の力で自分を節制することができる人だったから軽率な行動に走るようなことは決してなかったけれども、うれしいときには顔をくしゃくしゃにして喜び怒る時には大声をあげて叱責するということが少なくない。いわゆる天空快闊の気質で、感情を押さえて無理に喜怒哀楽を隠すようなことはなかった。
  明治十七(1884)年ごろ慶應義塾の東側の崖にあった長屋に住み塾内の管理の仕事を行っていた中津出身者の東條軍平という人がいた。この人が、前々から先生が不当であると主張していた塾内家屋への課税を、なんともなしにうかうか承諾してしまったものだから先生の立腹ははなはだしかった。先生は東條の長屋の前に立ちふさがり、俺があれほど言いつけておいたのに自分で勝手に承知してしまうとはとんでもないことだと、火の出るような勢いで叱りつけていたのは、私が先生の激昂ぶりを目撃したただ一度の機会だった。
  しかしあるとき先生は私に向かい、自分は若いころからどんなに腹が立っても手を出して人を殴りつけたことはないと話されたこともあり、にあげた例の場合は、相手が相手だったので遠慮なくその怒りをぶちまけたのであろう。そのようなときにも、雷のあとにすぐ晴天がやってくるような感があったのは、先生に邪気がなく胸中にはなんのわだかまりもないことを示しているのだろうと思う。


福澤先生の雅量(上巻98頁)

  明治十八、九(18856)年のころだったろうか。井上伯爵のち侯爵が外務大臣で条約改正という仕事があり、政略上、外国人に日本の文化を知ってもらうために鹿鳴館を作り高官たちを集めて仮装パーティを開いたことがあった。山県有朋伯爵のち公爵】などはそのとき、陣羽織を着て、騎兵隊長、山県狂介のいでたちで出席した。

 このとき、誰の悪ふざけかは知らないが、伊藤博文伯爵のち公爵ある伯爵夫人に対して失礼な振る舞いをし、その夫人が夜更けの鹿鳴館から自宅まで逃げ帰ったなどという噂を流したのである。時事新報は、そのころイギリスの人気政治家であったチャールズ・ディルク(注・原文チャーレス・ヂルク)が姦通問題にかかわり大攻撃を受けロンドンの新聞にその一部始終が報道されていたものを、その肖像写真と一緒にそれとなく転載した。すると末松謙澄のち子爵氏が大きなステッキを手に南鍋町の交詢社の二階に突然福澤先生に面会に訪れ、やってくるなり真っ赤な顔をして次のようなことを言った。時事新報は先生のやっている新聞だから先生は記事に関する全責任を負っているのだろう、伊藤伯爵に対して嘘のスキャンダルを流そうというやつがいるというときに、まるでこれを裏書きするようにディルク事件を掲載したということは、先生もこのスキャンダルを事実と認められたということなのか、その返事のよっては、わたしのほうにもいささかの決心があります。


 その形相がふつうではないことに先生も驚き、時事新報の記事については自分がもちろん責任を負うが、あの記事は編集者がたまたま掲載したのであり、現在世間で噂されている伊藤伯爵のはなしに引き比べようとしたわけではない、だから明日の新聞紙上で弁明するすることにしよう、と言って、この一件はおだやかに落着し、翌日の時事新報でディルク事件と鹿鳴館パーティでの噂にはなんら関係がないことを弁明した。同時に次のような論説も掲載した。日本の高官たちは、維新当時、生きるか死ぬかの瀬戸際にいることが少なくなかったので、品行のよしあしなどにかまっている場合ではなかったが、それが習慣になり今日でも続いて、ややもすると、大きなことをするときは小さな間違いは問題にしなくてもよいなどと豪語する傾向があることは、おおいに改めるべきことである。

 しかしながら先生は、末松氏が帰ったあと、私たちに向かい、末松は実に感心な男だ、知人のために自分が動いて真剣に弁護するというその心意気には見上げたものがある、と語られた。今にもステッキを振り上げてかかってきそうな権幕だった末松氏に対して、先生がこうした感嘆の言葉を惜しまず寛容な態度を見せたことに、私をおおいに感激したものである。
 


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二十九  相馬事件初回の顛末

  明治十六(1883)年から二十七(1894)年までの十年間にわたり、おおいに世間を賑わせた相馬事件というものがある。前後の二期にわかれており、はじめは明治十六年からで、二回目は二十五年から再発したのだが、このはじめのほうの一部始終について私が後年後藤新平伯爵からくわしくいたことがあるので、その談話をここに記すことにする。
      ※
  相馬事件は実に小説よりも奇なるできごとだった。余【後藤伯爵が、名古屋病院長であったとき、お雇いドイツ人(注・当時官費で外国から招聘された大学教授を「お雇い」といった)がときどき医学の講義をすることがあったが、あるとき彼が裁判医学の講義中にこの病院の職員だったある男が講義をきいて、「そんなことがあるなら、かつての私の主人の命を救うことができるだろうに」と言って、ワーッと声をあげて泣き出した。私は非常に不思議に思い、あとでその男を呼んでたずねてみた。すると彼はもと相馬家の家来で、当主である相馬誠胤(注・ともたね)子爵が、志賀、青田などという家職(注・旧華族の家で事務をとりしきる執事)によって顛狂人(注・てんきょうにん。精神異常をきたした人。癲狂人)として格子の窓のついた部屋に監禁されるという悲劇的境遇にあることについて語った。このことについては現在東京に住んでいる元藩臣の錦織剛清にしごりごうせいという者がくわしく知っているので、機会があればきいてほしい、とのことだった。
  明治十六(1883)年のことだったが、私がそのあとすぐに衛生第一局部長となって東京に転勤すると、錦織はそのことを知ったらしく、ある日私に会いにやってきた。そして、相馬家の悪者たちが主人のことを狂人扱いし、それだけでなく、もともと体の不自由だった女性を配偶者として選んだことは言語道断であると語った。
 その話のなかに、宮内省の侍医である岩佐純が診察もせずに相馬誠胤を狂人患者であると診断したということや、戸塚文海が相馬家の依頼で誠胤夫人を診察したということがあったので、私はある日戸塚文海に会いに行きその真偽をたしかめた。
 すると彼は非常に驚き、実際に幽閉状態になっているという不具合があるのは本当だが、わけあって今は極秘にしているのだという。それで私はこのことを白日のもとにさらす必要があると思った。
 そのころ警視庁の探偵方の役職にあり子分が百人もいたという任侠の親分だった長谷川という男が錦織剛清の悲憤談をきいて心を動かし、まずはその子分の一人を、そのとき相馬誠胤が監禁されていた巣鴨癲狂院に狂人患者としてもぐりこませ、誠胤の監禁部屋のそばに近づかせ様子を探らせた。
 すると、看護のために相馬家から派遣されて付き添っている二人の人間は、ふだんは賭け碁などで遊んでいるが、誠胤が退屈して自分にも碁をやらせてほしいというと、その横っ面をなぐるなど、その横暴はすさまじいという報告が来た。もう猶予している場合ではないと準備を進め、相馬家の看護人が賭け碁にふけっている最中に三十人ほどの手勢を連れて誠胤の監禁室に押し入り、本人を人力車に乗せ、途中で二回乗り換えて、まず九段坂にある写真師の鈴木真一の家に連れていった。そこでさらに馬車に乗り換えさせて、麻布にある私の家まで誰にも気づかれずに連れてきたのである。
 いっぽう相馬家では誠胤が癲狂院を脱出したというので大騒ぎになり、警視庁では非常線を張って捜索を開始した。
 さて誠胤のようすを見ると、癇癖(注・神経過敏)のために話の途中で目をしばたたかせる癖はあるが、言っていることはふつうの人と変わらなかった。そして夫人について、ほんとうに体が不自由(原文「不具」)なのかと質問すると、それを公言するのは危険なので絶対に話すことはできないということだった。
 私は、今の世の中になんという不思議なことがあるものだと思い、誠胤を警視総監に面会させて、自らの口から自由の身になりたいという意思を話させようとしたのだが、総監がちょうど熱海に出張で不在であるときき、総監の次席だった今村秀栄に会いに行った。そして、警視庁では相馬誠胤の行方を捜査中だそうだが、誠胤は実は私の家にいる、もしこの誠胤が自分の意思に反して自由を束縛されていると私に証言したら、警視庁としては監禁を許すのかどうか、と質問した。今村は困り果てた顔で、それはほとんど無理だろうと言ったが、彼も一見識を持った人であったとみえて、その後二日間ほど私の家に警察を差し向けなかったので、私はその間に誠胤を熱海にいる警視総監のところに送って面会させようとしたのであるが、不運にも小田原で行違ってしまった。
 そこで今度は、そのとき京都にいた伊藤博文公爵のところに駆け込ませて保護を求めようとしたのだが、伊豆の山越えをして静岡まで行ったところで警察に追いつかれてしまったのは残念なことだった。
 しかし誠胤はその後医師の診断をへて監禁をとかれ、妾腹に庶子が誕生して、まずは初回の相馬事件はおさまった。この初回の事件のときに私にはなんの災難もなく、警察に拘引されることさえなかったのは、われながら不思議なことだったと思う。

(注・箒のあと62に、のちの相馬事件の項がある。)


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二十八  板垣伯の遭難(下)(上巻90頁)
板垣伯の遭難(上)からのつづき)

  板垣伯爵が岐阜で相原に胸部を刺されたという電報が東京に届くと、生死もはっきりしないなかで事件は事実よりもより大げさに言いふらされた。伯爵の友人たちが激しくいきり立ち、中でも後藤象二郎(原文「象次郎」)伯爵は政府に対して強硬な詰問をしたので、政府としても見過ごすわけにいかなくなり、ついに勅使を派遣することになった。後藤伯爵(注・話し手は後藤新平伯爵)によるとそのときの状況は次のようであった。
     ※
  このとき東京では、後藤象二郎伯爵が、文部大臣福岡孝悌子爵のところに押しかけ、政府は刺客を岐阜に送って板垣を暗殺しようとしたのか、とつめよった。政府としてはこれをそのままにしておくわけにもいかず、ついには勅使を派遣するという電報が届いた。誰であったかこの電報を板垣伯爵の枕元に持っていったとき、自由党員が四、五人立ちふさがり、政府のやり方は非常にきたないので、こんなものは断ってしまったほうがよいと騒ぎ立てた。それを静かに目をつぶってきいていた伯爵が、急にむくむくと起き上がり、「勅使が来るということは天皇のご決定であろう、『皇恩及臣退助之身』」と言われてぽろぽろと涙をこぼしたので、今まで騒いでいた連中は居場所を失い、ひとり去り、ふたり去りして私だけがその場に残った。それはまるで芝居でも見ているような光景だったが、これなどを見ても、当時の人がどのように思っていたかを察することができるだろう。
  こうして、勅使が来るという噂が広まってくると、いままでは冷淡きわまりなかった県知事や県庁の役人たちが急に浮足だち、岐阜病院長を付き添いにさせましょうなどと申し出てきた。そのやり方が、あまりに手のひらを返したような現金なものだったので、伯爵はそのとき、そのようなことは無用であると激しい調子で叱責されたという。
  さて私はそれまで名古屋の知事の許可を得ずに断で岐阜まで飛び出してきていたのだから、助手を残してその日の晩に二人挽きの人力車で名古屋に帰った。そしてすぐに知事の官舎に駆けつけた。すると、勅使が出るという知らせを受けて急に考えが変わったものとみえ、しきりに板垣伯爵の容態などについて質問し、よくぞ行ってくれたと言わんばかりの非常なる上機嫌だった。このときの衛生課長が、そのような状況を知らずに部屋に入ってきた。私に対して注意を与えるつもりでやってきたのに、知事があまりに機嫌がよいので一瞬とまどい、うやむやのままに引き上げてしまった。これなども、当時の人の態度を知ることができる喜劇の一幕であろう。
  世のひとびとは、板垣伯爵が相原に刺されたときに「板垣死すとも自由は死せず」と言われたのを永遠の名言のように思っているが、「皇恩及臣退助之身」のひとことについては伝えようとする者がいない。しかし当時の板垣伯爵を誤解していた自由党員たちが伯爵のこのひとことに驚き、おおいに態度を改めたということからもわかるように、伯爵は一方では自由を唱えながらも、国体については尽忠報国(注・真心を尽くして国恩に報いること)の人であったことは、この一瞬の言動からもはっきりとわかるのである。これは私がごく間近に見たことであり、単に板垣伯爵のためだけではなく、日本臣民の心得として長く世に伝えたいと思うことである。
 その後私は、このことを直接板垣伯爵に話したことがあったが、伯爵はすっかり忘れていて、私の話でそれを思い出し、なるほどそんなことがありましたね、と昔を思い出して感慨にふける表情をされた。
 とかく大人物の人格は、大事があったときはじめて顕れるものだ。伯爵の災難のときの言動に、若かった私は脳の芯まで大きな感動を味わったので、伯爵に対して私はいつも大きな敬意を払っているのである。
     ※
 以上、後藤新平伯爵の板垣伯爵遭難の談話は、大正七(1918)年十二月十三日に、内田信也氏が水戸高等学校設立のために百万円を寄付された美徳を称賛し、またこの寄付を勧誘して実現させた後藤伯爵の尽力に感謝するために、徳川圀順(注・くにゆき)公爵が、旧水戸藩主としてふたりを向島の徳川邸に招待された席上において話されたものである。板垣伯爵遭難史としては、もっとも正確で、かつ興味深いものである。伯爵が自分でこれを記録したか、あるいはほかの場所で発表されたかどうかについて私は知らないが、万一この事実談が埋もれかえりみられなくなっては惜しいので、ここに記録し伝えておく。
 


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 二十七 板垣伯の遭難(上)

  私が時事新報の記者となった年、すなわち明治十五(1882)年の四月六日、岐阜で板垣退助伯爵が相原尚けい(注・耿の下に衣)に刺されるという大事件があった。これは当時、全国的なセンセーションを巻き起こし、例の「板垣死すとも自由は死せず」の一言は、わが国の憲政史上に特筆されることになった。この事件についてはなんら関係を持たないが、当時の名古屋病院で二十五歳の青年医師だった後藤新平氏のちに伯爵その負傷の治療にあたったようすをを後年後藤氏から直接きき、おおいに興味を持った。そのときの談話をここに掲載しよう。
     ※ 
 
 後藤伯爵が名古屋病院長だった二十五歳のとき、つまり明治十五年、板垣伯爵が関西遊説の途中に相原という刺客により胸部を刺されたので至急来診してほしいと、名古屋の県会議長で自由党員だった内藤魯一から電報があった。とりあえず愛知県衛生課長を通じて知事の意向を問い合わせたところ、当時は板垣といえば共和主義を主張して日本帝国に毒をまき散らしている国賊であるとみなされていたので、知事として中央政府の機嫌を損ねては困ると思ったのか、そのような場所には出張しなくてよい、と言い渡された。それで私はしかたなくそれに従っていたが、その後内藤から三回も催促の電報が届き、医師の務めとして後日どのような罰を受けたとしてもこれを放置しておくわけないはいかないと思い、そのころドイツからはいってきたばかりの消毒装置を携えて助手とともに名古屋から二人挽きの人力車でかけつけたのは、板垣伯爵が負傷してからすでに一夜を経過した翌朝の午前九時ごろだった。
  そのころの岐阜県知事は小崎利準(注・こさきとしなり、おざきりじゅん)だったが、やはりこの人も中央政府の思惑を考えて板垣伯爵に好意的ではなく、岐阜病院から医師を出張させて応急手当をさせただけで、洋服も脱がせないまま籐椅子に横にならせていたが、それは剣による傷が肺に達しているかもしれないからという観測によるものだったらしい。

  私は少しでも早く診察しようと思うのに、いつまでたっても患者のいる場所に案内してもらえないので、内藤魯一に、わざわざ人を呼びつけておきながらなぜこんなに長時間待たせるのかと詰問した。すると、私はそのとき二十五歳で、岐阜病院長は四十歳くらいだったので、板垣伯爵のまわりに集まっていた自由党員が私を見て、あんな若い医者に診察させても無駄だと言ったからだということがわかった。
  しかし私は医師の本分として一刻も無駄にはできないと激しく催促したので、とうとう伯爵の病室に通され、さっそく診断にとりかかった。さて洋服を着たままで手当てをしてあったので、傷口はすでに縫ってあったものの消毒も不十分で、血のかたまりがまだ付着したままで、そのうち化膿してしまうおそれがある。私はまず板垣伯爵にむかって「ご負傷なさって定めてご本望でありましょう」と言ったところ、伯爵はただ微笑をもらされた。それにしても不思議なやつが飛び込んできたものだと思われたことだろう。
  私はすぐに洋服を脱がせるべきだと言った。だが、まわりの人たちが非常にこわごわとしながらやろうとするので、ではこうしようとカバンの中から大きなはさみを取り出し、伯爵の着ていた洋服の胸部をバリバリ切って、こうすれば痛くないだろう言ったので、全員が驚いた顔つきで私のやることを見守っていた。
 負傷箇所を診察してみると、相原が伯爵を刺したとき、背中から突き通せば絶命したはずなのに、うしろから身体を抱えて前から胸部を刺したので、伯爵はその短刀を押しのけようとして左右にもみ合いになったので、短刀をつかんだ右の指の股にかなり深い傷ができていた。だが胸部は七か所の傷があるにもかかわらず、短刀の先端が横むきにはいり、どの傷も肺部に達していなかった。私は伯爵に「この傷は肺部に達していないから一週間以内には大阪に向かってご出立ができます」と言ったところ、伯爵はうなずきながら微笑を洩らし、内心喜ばれたようだった。
  
次に私は、ドイツから日本にはいってきたばかりの新式消毒法を施した。これが、日本でこの消毒を行った最初の例になる。このおかげで、指の股の傷も胸部の傷も一切化膿せずに全治したことは、板垣伯爵にとっての幸運だった。もちろん化膿したから命にかかわるというわけではないが、治るまでの時間が長引けばそれだけ、伯爵にとってはありがたくないことだっただろう。



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 二十六  粗忽者の隊長(上巻84頁)

  朝吹英二の粗忽(注・おっちょこちょい)ぶりは、私が初めて出会った明治十五(1882)年にもすでに見えていたが、のちのちまでやわらぐことはなく、いつも逸話の種をまきちらしていた。なかでも横浜の貿易商会時代に道楽者の両雄だった馬越恭平氏を日本橋茅場町の三井物産会社に訪問した時の話がおもしろい。二階の座敷でしばらく座っているとき、なんとなく尻のあたりが痛いと言い出して振り返ってみると、それがなんと下駄をはいたまま座っていたという。いくら懇意の仲とはいえ、これには朝吹氏も赤面して言葉が出なかったそうだ。
  また貿易商会にいたころのことだったが、眼鏡をなくしたといって給仕(注・雑用係)に探させ、いつまでたっても見つからないので激しく叱りつけたとたん、給仕が「お眼鏡は貴方のお手に持っていらっしゃいます」と気づいて言ったので、「それならなぜ早くそれを知らせぬか」と叱りつけたというおかしな話もある。
 またあるときは、東京帝大の舎監(注・寄宿舎の監督者)をしていた清水彦五郎氏を小石川の私邸に訪問したとき、取次の女中にきくと、主人はただいま留守だがもうすぐ帰宅するはずだというので、ではごめん、と座敷に上がり、真夏だったので丸裸になり、うちわや氷水を持ってこいと横柄に注文するので、女中は主人とはさぞかし親しい仲に違いないと思い、煙に巻かれたような気持ちで言われるままにもてなしていたのだそうだ。ところが朝吹氏が裸のままで大の字になっているところへこの家の夫人が出てきてばかにていねいに挨拶をする。その様子がどうもおかしいと思い、朝吹氏が、こちらは清水さんのお宅ですね、と尋ねると、夫人は微笑しながら「いや清水さんならばここから五軒目のお宅です」と言われたので、氏は脱ぎ捨てた着物をかかえて一目散に表に飛び出したという曾我廼家(注・曾我廼家五郎などの喜劇役者)はだしの珍談もあるらしい。
  またもっともふるっているのは次の話だ。朝吹氏の留守中に、氏のある友人がその転居先を知らせにきて、牛込の何番地と書いた名刺を置いていった。その後二、三日して、朝吹氏がその友人を訪ねようと朝早く人力車に乗り、牛込だぞ、と言い渡した。車夫は牛込に着くと、大きな門構えの屋敷にはいり玄関前で梶棒をおろした。朝吹氏は取次の女中に名刺を渡し、かねてからの親しいあいだがらなので遠慮もせずに応接室に上がり込んでいた。そこへ、寝ているところを起こされたその家の主人が、顔も洗っていないままの様子で出てきて、片手に持った名刺と朝吹氏の顔を交互に眺めながら、「やあ君は朝吹君じゃないか、いつのまにこんな名前になったのか」と尋ねる。氏はなんのことかわからず「いや僕は改名した覚えはない、なぜ君はそんなことを言うか」と聞き返す。「でも君の名刺はこれだよ」と差し出された名刺を見ると、今朝訪問しようとしていた友人が自分の留守中に置いていった名刺だ。さすがの朝吹氏も非常に困り、照れ隠しに「ところで奥さんは、ちかごろ、ごきげんいかがですか」とその場を取り繕ったところ、主人は微苦笑して「先日、愚妻の葬式に、君はわざわざ会葬してくれたではないか」と言われたので、重ね重ねの失敗に、あいさつもそこそこに玄関へ飛んでいき、人力車に乗るなり車夫に向かって「ばかものめ、行先を間違えるやつがあるか」と怒鳴りつけた。ところがまだ半町もいかないうちに「こら待て、忘れ物をしたから後戻りせよ」と命じ、再びもとの玄関に引き返す。女中たちがさっきのそそっかしい珍客の話でまだ盛り上がっているのに見向きもせず、いきなり玄関に飛び上がって置き忘れた帽子をかぶるなり、さっさっと人力車に飛び乗りながら「おい、今度は間違わぬようにせよ」と号令をかけたそうだ。これが「朝吹さんの門違い」といって、当時大評判になった珍談である。
 このように朝吹氏は、当時ダントツの粗忽隊長だったが、その後たちと三井に勤めていたころにも、またその後隠退して茶事の風流に親しんでいたころにも、さまざまな奇談珍談を残した。そのことについては、またのちに述べることにしよう。




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二十五 道楽者の親玉(上巻81頁)

 
  私は時事新報記者となった明治十五(1882)年の十一月、同社の先輩記者で、福澤先生の秘書と交詢社の幹事を兼務していた岡本貞烋氏に連れられて初めて横浜に出かけ、貿易商会」の朝吹英二氏を訪問した。
  そのころより以前の日本の生糸輸出貿易は横浜居留の外国人に独占され、日本人には取り扱いの機関がないため、外国商人は日本人を見下し、取引のうえでも非常に横暴をきわめていた。そのことを憤慨するひとびとが、ここに商権回復運動という運動を始め、大隈大蔵卿を説きふせ、まず国庫から二十万円を借り受けた。そして岩崎弥太郎氏も八万円を出資し、朝吹氏を会長とする貿易商会が成立することになった。
  しかしながら外国商人らは連合して商会の取引をできる限り妨害しようとしたし、商会のほうも全員経験のない者(原文「無経験の書生」)ばかりだったうえ、当時ドル相場の変動が激しく、営業するのには非常な困難がともなった。またそうしたことに加えて明治十四(1881)年に大隈大蔵卿が辞任したため、商会の営業はほとんど完全に行き詰まってしまった。

  商会では、そのときまでに政府からの借金がすでに数十万円にのぼっていたが、当時はまだ商法発布以前で商会にも、有限会社とかそうした区分もなかった時代でもあり、その経営を朝吹氏が一身に引き受けることになった。

  そのため氏は当時首も回らぬ借金の時代だったのだが、私たちを横浜にある千歳楼に招待し、おおぜいの芸者を呼んでの大尽遊びの一幕を展開した。
  このとき氏はまだ三十四歳の血気盛りで、おおいに粋人ぶりを発揮し、だみ声を張り上げ、お得意の新内節「蘭蝶」の蘭蝶物狂いの、「ソリャ誰ゆゑぞへこなさんゆゑ」の一節を唸るのだった。もともとこうしたことに不慣れだった私は、なんと不思議な光景だろうと目をみはったものだが、今思えばこれが朝吹氏生涯中いちばん貧乏でいちばん豪快な時代だったのではないだろうか。
  横浜の貿易商会時代に借金王、兼、道楽王とうたわれた朝吹英二氏であったが、氏はまた一方で「お萩」と呼ばれていた。それは氏の顔面があばたでおおわれており、花がるたの萩の絵に似ているからということでついたあだ名だろう。それで、本人もまた俳名を「萩の本の阿仁丸」と名乗ったのは、その花札の萩の絵の下のほうに猪がいるのを「柿の本の人丸(注・原文通り)」にかけてつくった呼び名だった。
  当時は花札が大流行していて、花を引かなくては紳商(注・流の商人)のあいだの交際ができない時代だった。器用で根気強い朝吹氏は、たちまち花札の腕前も上達した。それまでの花札は二組とも裏が黒かったのを、片方を黒に、もう片方を赤にして、ふたつがまじってしまうのを防ぐことにしたのは、実は阿仁丸先生の大発明なのである。
  このようなありさまだったので、当時の朝吹氏の道楽ぶりは新聞の三面記事をにぎわした。なかでもいちばんふるっているのは、中上川彦次郎氏の令妹である澄子夫人と男女ふたりの子供を自宅に放りっぱなしにして茶屋待合(注・芸妓をよんで遊行する座敷)にいりびたっていたので、ときには三、四か月も帰宅しないことがあり、令嬢の福子さんが父親の顔を忘れて、たまに帰宅したときに顔を見て泣き出した、というものだった。
  またあるとき、玄関から、奥さんはうちにいるかと大声で呼びながら座敷にはいってきた朝吹氏を見た女中がびっくりして、「奥様奥様たいへんですよ、変な男が案内もなしにあがってきましたよ」と叫んだので、なにごとかと夫人が駆けつけると、ほかでもない、久しぶりに帰宅した主人だったので、夫人は怒るかわりに笑い出してしまったというエピソードもある。
  またそのころ、浅草観音の裏手に、釣堀という待合があり、吉原通いの朝吹氏がときどき泊まることがあった。ある晩、吉原の芸妓でおちゃらという名の、これまた朝吹氏と同様のあばた面だった人と朝吹氏が釣堀に同宿したときのことだ。当時「警八風(けいはちかぜ)」といって、待合茶屋を吹き荒らしていた風俗とりしまりの係がいたのだが、それが襲来したという警報があった。そのとき朝吹氏は、窮余の一策でとうとう風呂場に飛び込み真っ裸になって雑巾がけをしているところに警官が現れた。貴様は何者だ、と警官に尋ねられ、「私はこの家の権助(注・下働きの下男のこと)であります」と答えた氏の顔をつくづくと見た警官は、なるほどと納得して、氏はピンチをきりぬけたそうである。これは、わがあばた面のおかげなり、という朝吹氏ご自慢のひとつばなし(注・何度も同じ話を人にきかせること)だった。
 朝吹氏がかつて三菱会社に奉公していたころ、岩崎弥之助氏のちに男爵いちばんの懇意だったので、弥之助氏は、朝吹氏のあまりの道楽ぶりを耳にし、親切にも、すこし差し控えたほうがいいだろうと忠告した。朝吹氏も、以後かならず慎みます、と返事をしたのだが、その同じ日の晩に、弥之助氏がある料理屋に出かけると、廊下でばったり出会ったのがほかならぬ朝吹氏だったものだから、忠告したほうもきまりが悪く、忠告されたほうも恐縮して、やあやあ、と言い合っただけで黙りこくってしまったという一幕もあったそうだ。これなどは、当時の廊下鳶(注・ろうかとんび。妓楼などで廊下をうろうろする客のこと)のあいだでは有名な話であった。
  朝吹氏の道楽については、ほかにもたくさんおもしろい逸話があるが、私はこの天真爛漫、愛嬌たっぷりの道楽ぶりを見て、もしこの人にありあまる金を持たせたら、さぞおもしろいことをするだろうと思ったものだ。だが後年朝吹氏が相当の資産家となってみれば、それが思ったほどでもなかったので、人間というものは、年が若くて貧乏でそれで道楽するときがいちばんおもしろいものだと知ったのであった。


 


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 二十四 

福澤先生の思想(上77頁)

  福沢先生は少年時代に漢学を修め、その後長崎に出て蘭学を学び、ついで大阪の緒方塾に行って緒方洪庵先生の指導を受けた。二十五歳のときにはすでに江戸に出て幕府の翻訳方に出仕した。また、渡米、渡欧の外国旅行もしているので、若いころに腰をおちつけて勉学する時間が少なかったのではないかと思うのだが、それにもかかわらず、誰もが言い出したこともなかったような新しい考えを発表されることが多かったのは、生まれながらにして学問的な思考力にすぐれていたからだろう。どんなことについても、いいかげんに見過ごすことをせず、根本的に疑問の眼をむけて研究していくという態度を持っておられた。
  伊東茂右衛門(原文「伊藤」)氏の話である。「先生が明治三年に中津に帰られたとき、父親の墓参りをしてつくづく考えこみ、父は死んでこの土の下にはただ物質的な遺骨がうまっているだけだ、その墓にお詣りするというのは、どうかんがえても意味がないのではないかと自問自答されていたが、その後この問題についての先生の結論をきくにはいたらなかった」とのことである。
  また、井上角五郎氏の話はこうだ。「わたしは福澤先生からの依頼で、お子様がたの家庭教師をしていたが、あるとき三八さんがまだ三歳くらいのいたずら盛りのときに、先生が食事をなさっているそばで、ごはんのはいったおひつからシャモジを取り出しておもちゃにしているのを見て先生はこう言った。『人間に長幼の序(注・年長者と年少者のあいだには守るべき秩序がある、の意)があるというのは、こういうことを言うのだ。三八が成長しても、子供のときにこんなことがあったとあなたが話してくれれば、そういうことに関してあなたには自然と頭があがらないようになるのが人間の常というものだ。どんな豪傑であっても、年少の者は、年長者にたいして敬意を表さなくてはならない。これが人間の世の約束である。』 このように、先生は、なにごとにおいても軽々しくものごとを見逃すことをしない思想家である」と言われたのだった。
  また明治十七、八(18845)年ころのことだったか、先生は正月そうそうの理学博士の安永義章という人との談話の中でこのようなことを言われた。日本の和歌や俳句は、かな四十七文字の数学的な順列組み合わせによってすべて割り出しうるものだ、その組み合わせは膨大な数になることは言うまでもないけれども、和歌の三十一文字、俳句の十七文字に、占いの八卦のように、かなをすべて順番に載せていくことで、とにかく、どのような名歌や名句も、この組み合わせの中には含まれていることになるはずではないか、安永さんは数学者だから、この説をよく数学的に研究してみてほしい」。
 
その結果を見るにはいたらなかったが、この考えだけは論説として時事新報に発表なさったのだった。このほかのことでも、先生はなにごとにおいても思案にすぐれており、私たちがなにかの新説を考えて先生に話すと、先生はさらにこれを引きのばしたり改造したりして、かえって先生のほうからその考えをきかされることが少なくなかった。


先師の家庭(上巻79頁)

 福澤先生が、わが国の学者にとって従来禁物とされた音曲(注・音楽)と舞踏を家庭内にもちこみ一家だんらんの手本として示されたことは、非常にすぐれた見識であったと思う。私は、音曲や舞踏といったものには絶対に没交渉をつらぬく水戸士族の家に生まれたので、三味線の音をきくと、習慣的になんとなく悪魔の声でもきくような恥ずかしいような罪を犯しているような気持ちになったものだった。だが、福澤先生が長女のお里さんに清元や長唄を習わせ、おしゅんさんや、おみつさんにもそれぞれ皆に音曲を習わせて、おりにふれて自宅でおさらい会を開いたりされた。
  明治三十(1897)年前後に、イギリスの詩人でライト・オブ・アジア【亜細亜の光】」の著者であるエドウィン・アーノルド(原文ではウヰドウヰン・アルノルド。慶應義塾の客員講師になる)氏が福澤家の客となられたとき、令嬢たち楽器を弾かせ踊りを踊らせ、一晩の饗応とされたこともあった。
  また亡くなった堀越角次郎氏が、令嬢ふたりに踊りをしこんだこと自慢だったときに、そういうことならといって慶應義塾の講堂広間を貸してその舞踏披露会を開かせたことがあった。当時堀越の娘さんは長女のほうが十二、三歳で道成寺を踊られたが、私たち観客は、夜がふけるにつれこそこそと逃げ出そうとするので、先生が広間の入り口に立ちはだかり、見物人の退席を監視しておられた姿が目に浮かんでくる。
  ともあれ、日本の家庭に音楽がないことは、一家団らんに楽しみが欠けていることを意味する。家庭の悲劇の多くがこのような欠陥から生まれてくることをするどく見越し、音楽というものを家庭の中に誰に恥じることなく大胆に導入した先生は、私たちをおおいに感化したのである。私などが音楽に興味を持つようになったのは、まったくのところ先生からの影響なのである。



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 二十三 福澤先生の雑話

  私は、明治十五(1882)年から二十(1887)年まで時事新報の記者としての仕事がら、毎日のように福澤先生のそばにおり、またはじめてお目にかかってからの二十年間には、いろいろな機会先生からおききしたことも多い。印象に残ることも数え切れないのであるが、そのうちの二、三を書いておきたい。

  「大村益次郎のこと」
緒方
(注・緒方洪庵)の塾生のなかにはのちの世に名をあげた人物は少なくないが、長州の大村益次郎などは、その中でも一風かわった男だった。ちょっとしたことにも意地悪で陰湿で、塾生たちがときどき生意気な女中をこらしめる(原文「征伐」)という名目で、ふとんでぐるぐる巻きにしていじめるようなときにも、自分で言い出しておきながら知らん顔をするような、蔭にまわって、殴らずにひねるというような男だった。そんな具合だから
人に憎まれたのだろうか、京都で暗殺されてしまい、とうとう非業の最後をとげてしまった。

  「緒方洪庵のこと」
緒方先生は学者風で、俗世間のことには無
頓着で、塾生の世話は一切を夫人に任せ、もっぱら講義や翻訳にかかりきっておられた。先生の翻訳はじつに大胆というのか不敵というのか、はじめに原文の意味をかみくだいて十分に消化したところで、その言わんとするところをはっきりさせるために流暢な表現に置き換えるので、原文と比べてみると言葉がまったく違っているようだが、その元の意味をわからせるという点では
いたれりつくせりで、私などもその翻訳法にはとても感心して、のちのちまでこの方法をまねることが多かったのである。

  「高野長英のこと」
福澤先生は、蘭学者の先輩諸氏が体験した苦労と
自分自身の境遇を比べ、先輩に非常に深く同情されていた。あるとき三田演説館で蘭学の先輩諸氏の伝記の連続公演をされたことがあった。そのなかで高野長英のことを述べられたときには、感無量でほとんど涙を流さんばかりの表情で、「長英が脱獄後、先輩名前は忘れたの家を訪れたとき、主人はそれを察し、取次の者に、高野長英などという者がこのあたりにいるはずはない、さっさと立ち去れ、と大声で叱りつけさせたあと、台所のほうにまわらせて、カミソリ一挺(注・一本)となにがしかの金を与えられたそうだ。私などはおそく生まれ、緒方の塾を出たころには蘭学に対する禁制もゆるんでいたから長英のような苦労もしなかったが、もしも私が長英の時代に生まれていたら、もしかしたら脱獄や人殺しもしたかもしれないと思うので、先輩が学問の道のために苦心したことを思うとまったく同情を禁じ得ない」と述べられた。この講話は二、三回にわたったもので、原稿もあったはずなのに、その後どうしたものか
新聞などにも発表されなかったようである。

  「尺振八のこと」
福澤先生が二度目に幕府使節に従って渡米したときのことである。(注・これは、慶應三(
1867)年の幕府の軍艦引き取り交渉のときに渡米したときのこと。福澤の一度目の渡米は、1860年、万延遣米使節の従者として。またそれら二回の渡米のあいだに、文久元(1863)年遣欧使節の通訳としてヨーロッパにも行っている)。そのときの話として先生は、「この航海中、ひどく激しい暴風に遭い、長い航海にはもともと慣れない日本人のなかには、いまにも船が転覆するのではないかとうろたえる者もあった。そのなかに尺振八(注・原本にはしゃく」とルビがふってあるが、「せきしんぱち」が正しいようだ)という男がいた。その男がなにを思ったか、急に身の周りの品をまとめて今にも駆け出すようなそぶりを見せたので、私は酒を飲みながら『尺さん、あなたはそんなようすをして、どこへ逃げていくつもりですか』と言うと、尺もそのときはじめて船の中にいることに気がついて、なるほどと観念して、あとで大笑いしたことがあった」と語られた。尺振八は帰国後に英語塾を開き(注・明治三年に設立された共立学舎)、明治初期の洋学者として知られた人物である。

 


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二十二 論説の執筆(上巻71頁)

  私は明治十五(1882)年四月に渡邊治とともに慶應義塾を卒業し、五月にすぐさま時事新報社に入社した。時事新報はその年の三月一日に初号を発行したばかりの創立から日の浅い新聞だった。私たちはここで最終的には論説記者になる予定だったが、当分は見習いの身分で、なにか適当な題材があったときに執筆したものを福澤先生に見てもらうということになった。私は時事新報に自分の書いた記事が掲載される栄光を夢みて、またしても渡邊との競争が始まった。
  ところがそのころは新聞が論説だけで売れる時代で、とくに時事新報は福澤先生の論説で名高いのだから、学校を出たばかりの駆け出しの書いた論説が堂々と紙面を飾るということは簡単なことではなかった。だがその十月に私の執筆した「米国の義声天下に振」という一文が福澤先生からとてもほめられ、渡邊よりひと足先に時事の社説欄に私の記事が載った(原文「我が文旗を翻へす事を得た」)ので、鬼の首でも取ったようにうれしかったものだ。
  この論説は、当時、中国が朝鮮を属国のように扱っているのを日本をはじめとする諸外国がただ指をくわえて見ていたときに、アメリカがフード将軍(注・Lucius Harwood Foote、フートが正しい発音かを駐剳使節(注・ちゅうさつ、駐在の任官のこと)として朝鮮に送りその独立を認めるという、あざやかな措置をとったことを称賛する記事だった。先生はこの記事を読んでとてもほめてくださり、その晩には夕飯をごちそうしてくださった。日本のお膳のうえに西洋料理を並べ、そばでおしゃくをしてくださっていた奥さんに「今日は高橋さんが名文を書いたので、明日は新聞の社説に載るのだが、実によくできたよ」といかにもうれしそうに話されたので、私はおおいに面目をほどこし、人生でこれほどうれしかったことはない。
  この時から先生は、私を社説記者とみなし、しばしば呼ばれて論説の代筆を命じられた。私は一心不乱に先生の言うことを書き取り、それを筆記して提出した。ときによってははじめから黒々と墨で訂正され、先生が自分で書かれるよりもよっぽど手間がかかって申し訳なかったこともあるが、ときによっては少しばかりの加筆ですむこともあった。そういうときの先生の喜び方はふつうではなく、とくにその文中になにかおもしろいところがあるときなどは、読み返してそれをほめられるので、私たちにとってはそれが大きな励みになるのだった。
  さて十五年も暮れて十六(1883)年だっただろうか、私は、西洋諸国が、当時東洋において勢力を増してきた中国に媚びるような視線(原文「秋波」)を送り、一方、ややもすると委縮がちだった日本には愛想をつかすような形勢があることについて警告を発する記事を書いた。そのなかに、「秋風起って扇寵を失ひ、春心動いて美人恩を蒙る(注・男がひとりの女から別の女に心を移していくたとえ。紈扇=がんせんとは、白い絹の扇。)」という一句があるのを見て先生は激賞され、そのときにも晩餐のごほうびをいただいた。だが、時事新報に対してしきりに神経をとがらせていた政府は、なにをうろたえたのか、この記事が掲載された新聞に一週間の発行停止を命じたので、私としては一方ではとても申し訳ない気持ちではあったものの、もう一方では非常に誇らしくもあったのである。

 その後私は、「わが日本は北海に国することを忘るべからず」という論説を書いた。これは、日本は国際競争が激しい欧州諸国からかけ離れた極東に位置しているために悠々安閑として日々を送ることができるが、日本がイギリスやドイツに近接する北海の島国であると仮定したならば、はたして今のようにのんびりしていられるだろうか、という論旨だった。末尾に「古語にいわく、志士は常にその元こうべ】(注・首のこと)を失うことを忘れずと、わが日本国もまた常に北海に国することを忘るべからずなり」とうたい上げ、これも先生のおほめにあずかった。
 そのころ内務省衛生局長で、先生と緒方塾(注・適塾のこと)で同窓の長与専斎氏が福澤先生に話されたところによると、井上毅がある人に向かって、「近頃時事新報の社説は論旨といい文章といい、その傑作にいたっては決して韓柳欧蘇(注・唐代の韓愈・柳宗元、宋代の欧陽脩・蘇軾。一流の名文家のこと)の下にあらず」と評価されていたとのことで、福澤先生は井上がこんなことを言っていたそうだと満足気だったのだが、この時先生は五十二、三歳でもっとも文章に脂がのっていたときではあったが、これをきいた波多野承五郎氏が、近頃の時事新報に活気があるのは、先生の論説だけではない、高橋、渡邊のような若者パワー(原文「若手の血気」)がまじっているからだと言ってくれたので、私たちもいささか「驥尾(注・きび)について千里を走る(注・ハエが駿馬の尾について千里はなれたところにいく。すぐれた人のあとについてそのおかげをこうむること)」ことができたという感じがしたものだ。
 このようにして私は、明治十五(1882)年から、二十年に時事新報を去るまでの六年間、渡邊治とともに福澤先生のそばにつかえてほとんど毎日手取り足取り論説の書き方を教えてもらい、力及ばずといえども少しばかりは先生の文章を書き方を身につけることができたことは望外のしあわせだった。門下生は多いが、私たちのように先生から直接の指導を受けた者の数はかなり少ないだろうと、いまさらながらにその幸運を喜んでいる次第である。

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   二十一
福澤先生の使者(上巻68頁)

  明治十八(1885)年の秋、明治天皇陛下が横浜から日本郵船の横浜丸に乗船せられ、まず長州(注・現在の山口県)の三田尻に上陸、そこをふりだしに山陽道を通って京都まで巡行されたとき、私は時事日報の通信記者として出張を命じられた。
  その出発の前、福澤先生は私が帰りに大阪に立ち寄ることになるため私に緒方洪庵先生の未亡人に手紙と金一封をお渡しすることを命じられた。先生はつねひごろから緒方未亡人のことを、「大阪に居る神様と呼ぶほど実母同様に敬愛され、おりおりの文通はもちろんのこと、小遣い用の金を贈ることもあった。
  私はそのことを前々から知っていたため、この機会を利用し先生の適塾在学中のエピソードをききだそうと思い、明治天皇が神戸に無事到着されるとすぐに大阪をめざし、今橋の緒方未亡人宅を訪問し、先生から預かった品々を未亡人に手渡した。
  未亡人は、年のころ六十歳を超えていると見受けられたが、小づくりで丸顔で、目がことに大きく、元気な声で弁舌さわやかにまず福澤先生の近況をたずねられたあと、私の質問に対して先生在塾当時の様子を語ってくださった。
  未亡人は先生が適塾出身であることをこのうえない誇りとされているようで、また先生が未亡人を母のように大切にしてくれることに大きな喜びを感じているようだった。そして以下のように語られた。
  「福澤さんは私を大阪にいる生神だと申しておらるるそうで、昔を忘れず親切に種々気をつけてくれます。福澤さんが塾におられたころはずいぶん豪傑ぞろいで、大村益次郎、大鳥圭介、佐野常民、長与専斎など後年出世した人がたくさんいましたが、故人(注・緒方洪庵のこと)は塾生の世話を一切私にまかせていましたから、私がまかない(注・食事の支度)から洗濯物まで引き受けて、塾生は家族のようなありさまでした。
  福澤さんは酒が好きであったが、挙動はいたっておとなしく、一度も私たちに世話を焼かせたことはありません」
  そして最後には政治の話にまでなり、非常に弁が立つので、かねてより福澤先生からきいていたとおり、この婦人は非常に行動力のある人(原文「遣り手」)だったに違いないと感服した。
  ここで昼食をごちそうになり、未亡人から福澤先生への返書をもらい、そのころようやく大津まで通じたばかりの鉄道に乗り、大津で三井寺や唐崎の松などを見て回り、さらに京都で一泊してから神戸からの汽船で東京に戻った。
  帰京後すぐに福澤先生に報告したところ、夫人がお元気そうだったことを、ことこまかにお聞ききになってとても満足されたようであった

 

演劇改良の発端(上巻70頁)

  明治十八(1885)年ころだったと思う。どういうきっかけだったか、私は盛んに演劇改良論(注・歌舞伎の近代化論)を唱え時事新報にも論述したことがあった。紙上で英語で書かれた時代物、世話物などの脚本をいくつか紹介し外国の演劇とはこのようなものだという例をしめし、その後「梨園の曙」という題名で出版した。
  そのころちょうど、のちに子爵になった末松謙澄がイギリスから帰国し、この人もまた演劇改良を主張していた。依田百川(注・依田学海)もそうした文章を書き、これまた多少の西洋思想を知っていた川尻宝岑という漢学の先生が、それらの主張に共鳴して「弁内侍」という戯曲を書いた。
  その披露をかねて、誰の主催だったか知らぬが、築地河岸の大椿楼という茶屋で脚本の読み会が開かれた。そこには伊藤博文伯爵(のちに公爵)、市川團十郎丈も出席し、脚本家(注・川尻)が脚本を読んだ。
  その後これに対して出席者が意見を述べ、依田氏がみごとなひげを撫でながら、さかんに熱弁していたことが今でも思い出される。
  そのとき伊藤伯爵は一同を見まわし、演劇改良ももちろん必要なのだが、これまでに見られたほかの改良運動はあまりに行き過ぎて、なにもかもが西洋化してしまった。振り返ってみると、古くから日本にあった大切なことや良いことも忘れられてしまい、ややもすると改良が改悪になってしまっていることもなきにしもあらずだ。このようなことはよくよく研究して、運動が盲動におちいらないように注意したほうがよいだろうという、いかにも老練な政治家らしい注意を与えてこの会をしめくくった。

  このとき末松氏はイギリスから帰国したばかりの若者で、伊藤伯爵の長女生子(原文では「幾子」)と婚約していた。かつて東京日々新聞で西南戦争の記者として名を上げ、あの「鉄壁集」という詩集を出して好評を博した人が、その後イギリスで数年の学問修行をして帰国したのだから、当時の人気には目をみはるものがあった。


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 二十
弁士の概評(上巻64頁)

  私が初めて上京した明治十四(1881)年の東京では、慶應義塾演説館、明治会堂、両国中村楼、井生村楼などで盛んに政談演説が行われていた。私塾に通っていた学生たちは、それらを聴きにいくことが日曜日の学課のようになっていた。
 さて明治十四年からの数年間に演説壇上に立った弁士たちの顔ぶれをざっと見てみよう。 
 三田演説館では
、福澤先生が大本尊で、その演説ぶりは前述したように座談風で演説調ではなかったが、これはまったくの例外といってもよかった。

  明治会堂の一群のなかでは矢野文雄(注・矢野龍渓)氏が代表者の立場にあった。色黒でやせていて、口ひげが立派で上品な風采であったが、弁舌もなかなかのもので、あるときなどは奉書の紙をくるくる巻いて、講釈師が荒木又右衛門の御前試合を語るときのようにそれを振り回して演説されたこともあった。
 犬養毅氏は周知のように精悍であり、ときにからかいぎみな口調でシンプルさの裏側に力強い威圧を感じさせていた。
 藤田茂吉氏は小柄で色白で、鼻の下に黒々としたひげをはやしていた。いかにもきびきびしたようすだったが、この人の弁舌もなかなかのものだった。
 波多野承五郎氏はわずかにかすれ声で、弁舌というほどではなかったが、ときおり警句を吐いて聴衆を喜ばせた。
 三田以外の弁士では、福地源一郎氏が群を抜いていた。氏は東京日々新聞の主筆で、当時政府に買収されたという噂があり、御用記者として新聞の記事を書き政府擁護の独演会を催していたので、あるときには会場でやじが飛ぶこともあったものの、ふだんは少しどもるくせがあるのに演説はすらすらと力強く、大物の貫録を示していたものだった。
 嚶鳴社の一群においては、沼間守一氏が旧幕府出身でてきぱきした江戸弁でもって聴衆を魅了していた。上背はあまりなく色白で目がぎょろりとしていた。嚶鳴社の演説聴講料は十銭だったが、あるとき沼間氏が入場料を徴収する受付に座っていたことがあり、なんとなく寄席の番人のように見えたこともあった。
 島田三郎氏は、よく知られているように達弁で、討論会などでは一番目立っていた。
 草間時復、波多野伝三郎などという人たちもいた。

 田口卯吉という博士で、自由貿易論を唱えた経済学者いたが、この人は色白でおおがらで、演説はうちとけた態度で聴衆に親しみやすいものだった。
 そして、末広重恭、大石正巳、馬場辰猪、小野梓といった一騎当千の弁士もいた。なかでも馬場辰猪氏は土佐弁で非常に歯切れがよく、聴衆の人気が非常に高かった。


金玉均庇護(上巻66頁)

  明治十八(1885)年ごろと記憶しているが、日本政府は朝鮮問題について、当時李鴻章が全盛だった中国と衝突することを恐れていた。中国が、金玉均(注・朝鮮独立をめざし、前年閔妃暗殺クーデタに失敗)が日本に亡命し、閔妃政府打倒を画策していることに不快感を持っているので、日本政府としては、これなんら日本政府の意図とは関係ないことを中国に示すため、金を小笠原の島に配流する決定をした。
 このとき福澤先生は、朝鮮問題についての政府の弱腰に激怒したばかりでなく、それまで何年も先生に信頼を寄せていた金玉均が島流しになることをあわれんだ。熟慮熟考の末、この配流をのがれることのできる唯一の手段は、フランス公使館に金みずからが保護を訴え出ることだという結論にいたったようで、金の真意を訴えるフランス公使宛ての長い英文の書簡をしたためた。そしてある晩ひそかに私を自宅に呼びよせ、この英文を鉛筆でなるべくきれいに写してほしい、秘密の書類なのでなるべく人目につかないほうがいいので、うちの玄関先の座敷がいいだろうといって、丸いテーブルと椅子を貸してくださったので、私はその英文をまずていねいに西洋紙に写しとった。
 つまり、この英文は先生が書かれたものではないにしても、万が一筆者の取り調べがあったときには面倒になるということで私に複写させたのだろう。しかも鉛筆書きだったことも、よくよく考えてのことだったに違いない。
 そこで私は夜おそくまでかかってこれを写したが、それが終わるとすぐに先生はこれを白い紙袋にしまい、宛名も書かずに、ご苦労だが明日横浜に行きグランドホテルに滞在中の金玉均に目立たないように渡してもらいたい、ということだったので、翌日私は先生に命じられた通り正午前にグランドホテルに赴き、金に面会した。
 金は喜んで私を迎え、その書簡を受け取って二度ばかりありがたそうに読んだあと、私と昼食をともにするために食堂に案内してくれた。
 さらに玉突場にも誘ってくれて、私と一ゲームをしたが、彼は器用な男で、碁もうまければ日本の花がるた(注・花札のこと)もとても強かったそうで、ビリヤードの腕も150くらいだったとみえ、当時の私ははじめから敵ではなかった。
 彼は中肉中背、朝鮮風のすこし平べったい青白い顔で、朴永孝ほど家柄がよくないから品格にはとぼしいけれど、小さな目と薄い唇から機敏な性格が読み取れ、いかにも頭の回転がよさそうな才子肌だった。
 福澤先生は、金玉均らが朝鮮問題で見せる画策はいつも過激で非常識のように思えるけれど、彼らははじめから命を投げ出しているので自然に極端に走るのだろう、と言われたことがあったが、彼らの、国のために死生を顧みないその勇気は、同情と同時に畏敬にあたいする。金玉均の死が日清戦争の一端となったことも偶然ではあるまい。


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 十九
演説の稽古(上巻60頁)

  私が明治十四年に初めて上京したのは、あの西南戦争のあとに興ってきた国会開設請願という政治的な運動が頂点に達していたころで、福澤先生は、大隈、伊藤、井上らの政権中枢の指導者と協議して立憲政体の樹立のための準備にとりかかっているときだった。京橋区木挽町に明治会堂という政治演説場を作り、矢野文雄(注・矢野龍渓)、犬養毅、尾崎行雄、波多野承五郎、藤田茂吉、箕浦勝人、須田辰次郎、渡邊修、高島小金治などの弁士に政府攻撃の演説をさせた。
 彼らの言い分はだいたい福澤先生の受け売りで、当時世間で問題となっていて藩閥政府の違法行為とされた、北海道の官有施設を薩摩の息のかかった商人に払い下げるという事件を扱うことが多かった。
 このころの演説会は、三田の一派のほかでは、沼間守一、島田三郎らが率いていた嚶鳴社の一派があった。彼らが浅草の井生村楼や江東中華楼などで十銭くらいの入場料を取って演説会や討論会を開催していたので、私なども休日を利用して聴いてまわっては、その人のうまい、へたを評価したり、特徴のものまねをしては、一日もはやく演説がうまくなりたいと念願していた。
 そこで私は慶應義塾に在学中、さかんに演説の練習をして、まずは水戸訛りを矯正することに励み、演説の草稿を作って机を前にして低い声で演説してみることもあった。
 そのころの慶應義塾には
正科のほかに、最初から順を踏まずに講義に飛び入りして聴講することができる予科というものがあった。

 この予科の学生に黒岩周六(注・のちの黒岩涙香)という人がいて、この人はのちに万朝報を主宰して名声をあげたが、西洋小説の翻訳者としてもきわめて有名になった人である。この黒岩も、やはり演説の練習をしたいと思っていたひとりだったので、仲間同士、夜中にこっそり宿舎の台所の横から廊下伝いに演説館の中にはいりこみ、ろうそく一本をテーブルの上に立て、ひとりが弁士となって滔々と演説するあいだはもうひとりが聴き手となり、交代で演説をやっては互いの演説を批評し合うというようなことまでして、熱心に練習をしたのだった。
  今ふりかえると、かなり子供じみておかしい話である。でもあのころは世の中の人がみな政治論議に夢中になり、そのためには演説が貴重な武器だったのだから私たちはまじめに練習をしたのであって、黒岩氏がのちに雄弁家のひとりになったのも、この練習がおおいに役に立ったにちがいないと思う。
 今日の学校ではスポーツばかりに熱中し、演説の練習を奨励するという話をきかないが、私は、学生はどのような方面に進むにしても学生時代に演説の練習をしておくことはとても大切なことだと思っていて、そのような風習がなくなってしまったことを非常に残念に思っている。

  

先師の体訓(上巻62頁)

 福澤先生が学生にたいし、率先実行(原文「躬行実践」)の教訓を与えてくださったおかげで、それが生涯身についたことは貴重だった。このような実践で示す教育は、昨今ではあまり見られないことだ。
 明治十七年ごろのことだと思う。世の中は、非常にはげしい不景気に見舞われていた。これは、西南戦争のために増発された不換紙幣を整理する政策の影響のためだった。松方大蔵卿が明治天皇の御前会議で、どんな困難があっても最初の目的を達成するまでは方針を変えないように、という勅命を受けて断行したものだったから、銀座通りには軒並み貸家の札が下がるという状況で、これは昭和五、六年の不景気よりももっと深刻だったと思う。

  そのころ埼玉の熊谷に竹井澹如という福澤先生を崇拝する有志家がおり、ある時先生を熊谷に招き演説会を開催したことがあった。これに時事新報社から私と津田興二氏が随行することになり、その他誰だかは忘れたが二、三人の前座演説者とともにおもむいた。なんとかいう名前の寺を演説会場として、仏壇の前に演台を設け、津田氏がまず前座をつとめた。当時世間の関心事だった政府の言論弾圧について、これを攻撃し、社会の安全弁を閉じてしまうと、いつか必ず大きな破裂がやってくることは間違いないと、語気も荒く次第に熱気を帯びてきたので、先生は控室ではらはらしながら聴いていたが、とうとう制止してみずからが演台にあがり、そのころ唱え始めたばかりの実業論について演説された。その論旨は、地方の産業開発についてであった。
  そのようなことをへて全員の演説も終わり上野に戻ってきたときには午後七時ごろになっていた。空腹でもあったし、これから三田までどうやって帰るのだろうと、一同は先生のようすをうかがいながら黙ってあとからついていった。先生はそのころ着流しの和服に羽織を着ておられたが、尻はしょりをされたので、絹のパッチ(注・ステテコのこと)をはいておられるのが見えた。そして、ここから人力車に乗るのは金の無駄になるので、自分の脚で歩こうではないかと一同を見まわして言われるや、先頭に立ってさっさと歩きだされた。
 新橋あたりにさしかかったころ手招きしてすし屋ののれんをくぐり、「さあ、空腹しのぎにひとつお上がりなされ」と、率先して海苔巻やまぐろ寿司をぱくつかれたので、私たちは初めての経験だったのではじめは手を出せずにいたが、あまりにおなかがすいていたものだから、しばし立ち食いの宴となった。そして先生は懐から財布を取り出し勘定を払うと、また先頭に立って三田台まで帰られ、私たちも当時宿泊していた慶應義塾の塾舎に帰りついた。
 先生が人力車にも乗らずに塾生を引率し、時節をわきまえて倹約の模範を示されたその教訓に、われわれは感服するよりなかった。このとき先生は五十一歳だった。

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十八   福澤先生の演説(上巻58頁)

  福澤先生は日本で初めて西洋流のスピーチ、つまり演説というものを始めた開祖にあたる。明治六年ごろ、当時西洋の学問の大家だった西周、中村敬宇、箕作秋坪、神田孝平などの面々により明六社という学会が組織されたとき、日本語で西洋流の演説ができるのかどうか、という問題が起こった。そのとき福澤先生は、日本語で演説できないわけがないという理由をよどみなく述べまくったあと、一同を見まわして、これが演説のできるなによりの証拠ではないか、と言われたそうだ。
 その後明治八年に、三田台上に今も残るあの演説館が完成し、当時の慶應義塾の先輩たちが、先生を本命の演者として毎週一回、傍聴無料で演説会を開催した。これが三田の名物になり、東京中の学生はもちろん各地から聴きに来る人でいつも大入り満員の盛況となった。
 明治十四年、私たちも上京するやいなや、これを聴きに行くのがなによりもの関心事で、毎回ほとんど聴き逃さなかった。
   福澤先生の演説ぶりは、壇上のテーブルの前に立ち、顔見知りの仲間に話しかけるような親しげな態度で、言葉使いもふだんの会話とかわらなかった。談話中に
聴衆にも考えてもらうように、自分もまた考えているというふうにまずうつむいて腕組みをし、ワンポーズおいてからまたよどみなくその問題の説明を続ける。その間のとり方のうまさに聴衆はいやおうなく魅了され、親しみを感じたものだった。

  しかし先生が一番強調したい主張の部分にくると、表情も険しく真剣みを帯び、それがまた聴衆を感激させるのである。
  明治十五年の秋だったと思うが、ある日先生が演説館で宗教論を演説した。その当時の仏教の僧侶の堕落ぶりを激しく批判し、「僧は俗より出でて俗よりも俗なり(注・俗界をはなれて模範的であるべき僧の行いが、一般大衆よりも卑俗だ)」という警句を吐いておおいに熱弁された。そのとき聴衆のひとりに僧侶がおり、怒りが高ぶり卒倒してしまうというハプニングもあった。
   その後
この議論は「時事新報」にも掲載され、その文章や論旨がしびれるようにうまく、私たちに影響を与えた。先生の演説は、時々ウイットとユーモアで聴衆を笑わせ、きいていて飽きるということがなかった。

 三田演説館はもともと学校付属の施設なので、演説では政治論議は避け、社会問題や学説についての内容を取り上げた。福澤先生が登壇する前の前座として義塾出身の先輩が四、五人演説を行うことになっていたので、私などもたびたび壇に上がった。のちに山下亀三郎氏が語るところによると、氏は明治十七年に上京したその当日に三田演説館に駆けつけたが、そのときの福澤先生の演説は養子論というもので、学生が都会にあこがれて中央に集まることばかりを考えるのはよくない、故郷に戻り適当な養子先でも見つかれば、さっさと応じて養家の資力をもとにして養家を盛り立てるのが出世の早道であると論じられ、また私の演題「ハンス先生伝」というものだったが、その論旨がなんだったかは覚えていないとのことだった。
 そのころの学生は演説というものを重視し、学校でもこれが奨励された。それは今日でいうところの野球、ラグビーなどのスポーツと同じである。ともかくも、明治の初めから中期にかけて慶應義塾の演説館が社会教育においてしるした大きな功績は、いまさら力説するまでもないことであろう。


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十七  初謁の福澤先生(下)(上巻55頁)

 
 田舎から出てきた学生である私と渡邊治は、松木直巳氏に伴われ福澤先生に初にお目にかかったが、そのとき先生はさも楽しそうな様子であぐら座りをなさり、遠くからってきた子供を歓迎する老父のようにいろいろなことを話してくれた。その態度は無邪気そのもので私たちは深く感じ入った。談話はほとんど一時間半にも及んだが、そのなかで今もなお記憶に残っていることを記しておこう。
 先生は座につかれるなり、「ああ、これはこれはよく来られた、委細は松木さんからきいています。これからは、なかなか面白い世の中になってくるから、若い者は大いに勉強するがよい。きくところによるととても文章が上手だそうだが、水戸は光圀公以来、文学を奨励して学者が多く出たところだから、藩士のなかにその遺伝があって自然に文学に優れた者が出てくることは当然だ。慶應義塾を出た者にも、なかなか文章を上手に書く者がいる。いま報知新聞にいる藤田茂吉とか箕浦勝人などはなかなかよく筆が立つ。藤田は書くのは達者だが気が短いので、これは三日分の論説にするんだよといってひとつひとつ分けて話してやっても、それを一日分に書いてしまってせっかくのネタを無駄遣いするような癖がある。箕浦は私の言ったとおりに筋を立ててよく書くので、私の代筆をさせて箕浦に勝てるものはありません。どんな文章でも、第一にわかりやすく書かなくてはなりません。議論を文章にするのはそれほどでもないが、見たところを文字になおしてわかりやすく書くことはまことに難しい。例えば今、南洋諸島かどこかの人力車というものをまだ見たことがない人に、人力車がどんなものであるかということを細かく書いたとしよう。梶棒が前に二本出て、大きな車がふたつあり、幌がうしろについていて、車夫が梶棒を握ってひきまわすものである、というその様子がはっきりわかるように書くのはなかなか難しいことなので、それをよく練習しなくてはならない。私は最近「時事小言」という著書を書き、ようやく完成したところだが、貍蕎麦の別宅(注・現在の幼稚舎がある場所にあった福澤の別宅、近くに狸蕎麦という名前の蕎麦屋があった)にひきこもり、なるべく人に会わないようにして執筆したが、書き物をするには夜が一番いい。昼でも室内を閉め切ってろうそくの灯で書き物をすれば気が散らないので一番だ。精神を集中して十分に書き物をするには、心広く体ゆたかに、ということが肝心で、着物がごそごそ体に触れるようだとそれがなんとなく気になっ静思熟考を妨げるので、私はそういうときには絹かなにかのすべすべしたものを裏につけて、からだを動かしても肌触りのよい着物をじかに着て書き物をするようにしました。」
などなどと、私たちを未来の新聞記者とみなし、その心得になるようなことを多く語られた。私たちはお会いした初日に先生の作文指導を受け、非常にありがたい教訓を得た思いがしたものである。
 先生は、新著「時事小言」の一節で国権論の見地からの仏教擁護を説を唱えておられた。仏教は外国の宗教であるが、はるか昔に日本に伝わりそれが日本化し、仏教の言葉が民間の俗語にも多く使われるようになっている。いわば日本の宗教のようになっているのだから、キリスト教とはずいぶん違っていて、対外関係の事柄について人心を導くためにはおおいに仏教に力を発揮してもらわなければならないという説を滔々と述べられた。
 その後
私の見たところによると、先生は何かの新を考えついたときは、自分を訪問してきた人にその説をよどみなく述べたあと、反対意見を述べてもらうようにしむけるのが常で、反対意見があればできるかぎりは反論するものの、もしその反対意見に採用すべきよいところがある場合にはおおいにそれを参考にされるのだ。つまり、自分の説を世間に発表したときに各方面から起きる攻撃に備えて、自説を公表するときは事前に十分に反対意見をきき集めておき、このように攻撃されたらこのように応じるというふうに
十分研究をされていたのである。
 「時事小言」もこのときまだ刊行される前だったから、先生はいつものように
私たちに対して、さかんにその論説を述べられたに違いない。まだそのときは明治十四年の政変前だったから、先生はまるで政治家をあやつる傀儡師のように立ち回り、大隈、伊藤、井上らと相談して明治十六年に立憲政治を実現しようという勢いの時期だったのだ。松木氏に対しては特に当時の政治状況について話されたが、私たち田舎の学生は急に天下の大先生の前に出てきたので、ただ胸が躍るだけで思うように返事もできず、ひたすらに先生の話を傾聴するにとどまった。そして、とにかく、明日から慶應義塾の塾舎にはいって修学しなさい、ということになり、首尾よく先生との初めての会見を終えたのである。


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  第三期 青年 明治十四年より二十年まで

 十六
上京の端緒(上巻51頁)

  明治十四(1881)年、私は数え年で二十一歳、満年齢で二十歳で成人した。加えてこの年は、実際の身の上にも大きな変化の起きた年だった。足かけ四年在学し、あと三、四か月で卒業するはずだった中学校を退学して上京し、慶應義塾に入学することになったからだ。 

 この上京のきっかけを作ってくれたのは松木直巳氏だった。当時福澤先生は、政府の大隈重信、伊藤博文、井上馨の各参議と協議し、立憲政党の樹立の前に民間における政治思想の高まりを開発するために、先生を主筆とする新聞を発行することを計画されていた。
  先生は、そのために新聞記者にふさわしい文章の書ける人材を養成する必要があると思っていたのだが、松木氏が水戸の中学に文章の書ける若者が四、五人いると申し出たのをきき、それもそうだろう、水戸は徳川光圀公の時代から大日本史の編纂のために文筆を奨励したから今でもそのなごりがあるだろう、遺伝というのはこわいもので、先祖代々伝えられた体質はその血族に伝わるもので、体の大きい両親からはおおがらな子が生まれて顔つきも似るものだし、目には見えない知能も遺伝し文学者の子孫には文学者がいるのは当然だ、もちろん例外もあろうが、だいたいにおいてそういうものだから、水戸の学生に文章がうまい者が多いのは当然だろう、と述べられたそうだ。

  そのころ先生は西洋から伝わったばかりだった英国人ガルトン(注・フランシス・ゴルトン、遺伝学者)の遺伝論を読んで大いに啓発され、執筆中の「時事小言」の中でもそのことに触れられたほどだったから、いっそうその思いを強くされたのであろう。
  先生は松木氏に対し、水戸の学生のなかにそれほどの文章家がいるなら慶應義塾に入学させ、卒業後に新聞の仕事に携わってもらうのはどうだろう、その間の学費は自分もちでもよいと言われたので、松木氏は大喜びで水戸に帰り、まず私と渡邊にこのことを伝えてくれたので、私と渡邊は二つ返事で承諾した。そのときには石川幹明、井坂直幹のふたりにも同様に話がいき、私たちからすこし遅れてこのふたりも上京し、福澤先生の庇護のもとに慶應義塾に入学することになったのである。 


初謁の福澤先生(上)(上巻52頁)

  私渡邊治は思いがけない松木氏の紹介により福澤先生の慶應義塾に入学することになったので、明治十四年の六月ごろ、東京、水戸間を運行していた乗り合い馬車で上京した。松木氏はその二、三日前に東京に出ていたので、翌日の午前十時ごろに松木氏に連れられて三田台上の福澤先生のお宅にうかがった。先生のお宅は、現在は令息である一太郎君が住まわれているが、先生のご存命中にも模様替えをしたりその後も増改築が行われているので、当時のようすからはだいぶ変わっているようであるが、玄関はやはり今と同じところで、むかって左側に洋間の応接室があり、その奥に三間つづきの大広間があった。そこで先生にはじめてお目にかかったのである。 

  先生は左手に丁字型の手のついた煙草盆を持ち、上手のほうに無造作に座られた。当時私は二十一歳、渡邊は十九歳、福澤先生は四十八歳で、はじめて私の目に映った先生の印象は次のようなものだった。まず大きな顔の輪郭がはっきりしていて顔のすべてのパーツがよく整っており、ひたいが広く、眉毛は濃く太く、目が大きかった。眼光は人を射るというほど鋭くはないが、喜怒哀楽の変化に富んでいるように感じられた。形のよい鼻は高く、口は一文字に大きく決断力が強そうだった。左の頬にやや大きなほくろがあり、髪はまんなかよりすこし左に分け目があり、ひげは濃そうだが、すべてそり落としてあり痕跡をとどめなかった。 
 居合術を好み、また運動のために米つきをされたような先生であるから筋骨たくましく、写真で見たことがある西郷隆盛と似ている点があるように思った。そして、先生がうれしくて顔を崩して笑われるときと談話中にちょっとまじめになってつんとすまされたようにされるときの違いはとても大きく、顔がこれほど変化するとはいっても、先生ほど変化の多い人もめずらしいだろう。
 のちに大熊氏廣氏が福澤先生の銅像を作られたときのことである。私はヨーロッパから帰国したときに同船した縁で大熊氏と親しく、先生の銅像製作の世話係のはしくれとして大熊氏からしじゅう苦労話をきかされたのだが、非常に喜んでいるときの先生となにか深い考えに沈んでおられるときの先生の顔つきには非常に大きな違いがあるため、先生のまじめでごく落ち着いた顔を像にすると、しょっちゅうじかに先生に会っている人から、先生とは違うという不満が出るのだそうだ。木彫りの人形のように変化の少ないお顔でないだけに像を作るのは非常に難しく、誰から見てもこれは福澤先生に似ているという顔かたちを作りあげるのはとてもたいへんだとのことであった。 

  松木氏にきいていた話からは、先生はぐずぐずしているとすぐに叱るりつけるような方のように思っていたのに、だんだん話をしているあいだに脚をくずしてあぐらになるような具合で、初めて会ったのに、長年なじんだ伯父さんに対するような親しみを感じたのには、つくづく感心してしまった。


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十五  未見の福澤先生(上巻45頁)


  前述したように私は、多賀郡相田村の福田屋の若主人が東京から持ち返る土産話によって初めて福澤諭吉の名前を知った。それは明治七年、私が十四歳のときのことだった。その後、明治十年、十七歳で漢学塾の自強舎に通学しているときに、塾にあった唯一の新刊出版物であった「文明論之概略」を読んだときは、好奇心と反抗心が半々で、福澤とはいったい何者だ、尻尾をつかんでやる、くらいの気持ちであったから、もちろん心服していたわけではなかった。
 だからその翌年に松木直巳氏が茨城師範学校長と中学予備校教授を兼任し私たちにさかんに福澤崇拝論を吹き込んだときにも、私たちは、ああまた例の大騒ぎが始まった、くらいに思って上の空できいていたものだが、それが度重なるに従い、ついに福澤びいきのひとりになっていったのである。
 当時の松木氏の福澤先生に関する話のなかにこんなものがあった。先生は慶應義塾の講義や演説や著書や、たえまない接客などなどで目の回りそうなくらいに忙しい方だ、たまたま先生にお目にかかることができてもゆっくり話している時間はない、だから質問することがあるときには前もって順序よく整理しておき廊下の立ち話のような機会でもすばやく話しかけて要領よく答えをききださなくてはならない。また先生は、自身でも新しい英語の本を読まれるが、英書を読むのは浜野定四郎氏が一番得意にしていることなので、まずは浜野氏に読ませてその要点をききとり、それを自身で消化して日本の国情にあてはめ、たちまち堂々たる議論に仕立てあげてしまう。また先生は、直情径行(注・感情のままに行動するタイプで、うれしいときには顔をくしゃくしゃにして喜び、怒るときには大声を上げて怒鳴るので、教師や弟子のなかにはとても怖がっている人もあるが、小幡先生は温厚な人柄で、非常に静かで親切なので、福澤先生と教授のあいだに意見の食い違いがあるときなどには小幡先生があいだに立ち双方の意見をとりもつのだそうだ。福澤先生を孔子とすれば小幡先生は顔淵にたとえることができ、福澤先生も小幡先生にはいつも遠慮し話に耳を傾けられるようだ、などと語られた。
 このように松木氏があまりにも福澤先生のことを持ち上げるので、同僚からも反感を買うようなこともあったものの、その熱心さはしまいには水戸人の心を動かして、まるで水戸に「福澤宗」の信仰グループができたかのようになった。
 このようなときに佐々木籌先生など数名の漢学者が上京のついでに福澤先生に面会したいというのでそれを松木氏が取り次ぎ、佐々木氏らは、あるとき福澤先生に会いに行くことになった。面会後、佐々木氏らは鬼の首でも取ったようにたいそう得意になっていたが、その後松木先生のところに届いた福澤先生の手紙にあった評を内々に見せてもらったところ、「釣り鐘も提灯でたたいたのでは大きな音が出るわけにはいか」というようなことが書いてあり、私はこれはいかにも名句だ、福澤先生はさすがにうまいことを言われるものだと、かえすがえすもおかしかった。このようなことが、私の上京以前に福澤先生に関して知ることのできたことの一端だ。

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十四  地方中学の三年間(上巻43頁)


  私が明治十一年から十四年まで茨城中学に在学したときの体験を話せば当時の地方の学校の一般的なようすを想像してもらえると思うので、ここにその概略を記してることにしよう。
  のときの中学校では、のちの盲唖学校長として名高い町田則文氏が校長で英学と化学を担当していた。また、かなの研究で学士院賞を受けいで文学博士となった大矢透史が図画科を受け持ち、漢学は佐々木籌氏、理科は越後出身の上遠野富之助氏が担当していた。
 学生としては私のほかに、渡邊治、石河幹徳、村田彬、越智直など、
一クラス、二十四、五人だった。私は下市三ノ町の実家から学校までの二十五、六町(注・約2.8キロ)の距離を毎日徒歩で通学した。

  渡邊治は私よりも三つ年下ながら才気あふれていつも首席を占めていたので、私もいつか一度は首席を奪ってみたいと、渡邊を競争の目標にして火の出るような猛勉強を続けた。

  あるときなど、風土病の瘧(注・ぎゃく。おこりのこと)にかかり発熱する時間になると四十度の高い熱が出るのに、試験の直前に学校を休むのがいやで高熱をおして出席したところ、悪寒がひどくついに講堂で倒れて先生をひどく驚かせたこともあった。しかし私は小さいころからいたって体が丈夫だったので、このようないいかげんな不摂生をしてもなんとかなり、渡邊との競争が勉学を進めるのに非常に大きな助けとなった。
 私と渡邊の交際についてはいろいろな思い出話がある。たとえばこんなことがあった。
 明治十三年、文部卿の河野敏鎌氏は、世間の一般感情が国会開設請願だとか藩閥政治打倒だとかとかく反政府の方向で燃え上がっているので、これを鎮めるために学校の教育内容を監督するという方針を打ち出した(注・明治十三年の教育干渉令発令)。文部省の権大書記官であった島田三郎氏を諸県に派遣しこの干渉教育についての大々的な説明をはじめた。
 さて島田氏は水戸の県会議事堂で二時間にわたって干渉教育論を論じた。そのとき私と渡邊は学校から書記役を命じられ、ここぞとばかりに必死に筆記をしたのであるが、のちに「シャベ郎」とあだ名された島田氏の弁舌であるから、筆記するのがこの上なく困難で、渡邊と私の筆記したものをあとからつきあわせて、ようやく長い演説の筆記録を作ったのだった。
 この筆記録がその後どうなったのか、そのときは全く知らなかったが、大正十四年十月十日に東京九段の偕行社で開催された町田則文氏の古稀の祝い、ならびに大矢透氏への博士号授与の祝いの席上で町田氏が話されたところによると、例の筆記録をその後島田氏に直接送ったところ島田氏自身がこれを読み、自分で書いてもこれほどうまくは書けないだろうと非常に褒められ、いろいろな県に出張して演説をしたが、このような筆記録ができたのは水戸だけだと感心されていたそうである。
 当時の私たちは若く知識欲も旺盛で、どんなことでも新しいものには耳を傾けたものだった。あるときなんの用があったのか、水戸に福地源一郎氏が来られたことがあった。最初は誰も福地氏であることを知らず、風呂敷のはしに福地源一郎という紙の札がついていたのをある人が見つけてからが大騒ぎになった。学務課長で、この人も知識人とされていた志賀などという人たちが福地氏の泊まっている宿におしかけ、そのころ藩閥政治擁護論を大いに唱えていた福地氏に議論をいどもうとしたのであるが、志賀らは福地氏から子供扱いされて相手にもされなかったということであった。東京の大家と地方の知識人のあいだには大いなる差があるものだとひそかに笑ったものである。こんなふうにして過ぎた正味三年間の中学校生活は、私たちにとり希望に満ち非常に愉快な時代であった。


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 十三 
少年の願望(上巻40ページ)

 
むかしから身分の低い者が世の中に出ようとするとき、どんな豪傑とて最初からとてつもなく大きな望みを持っているわけではないことは、豊臣秀吉が丹羽、柴田の出世をうらやみ姓を羽柴と名乗ったということからもよくわかる

 私が亡くなった安田善兵衛翁にその出世物語をうかがったところ、翁の望みは、郷里の越中富山では千両の金持ち千両分限と呼ばれて尊敬を受けていたので、自分の代で千両分限になってみたいということだったそうだ。安田翁は一代で一億円前後の大分限者になった人であるから、この点においてはわが国で随一であるのに、幼いころの望みはただの千両だったのである
 ならばわたしのよう貧乏士族に生まれて金に縁の薄い者の望みなどいたって小さくて当然だった。地道な働きぶりで丁稚奉公から引き戻してくれたその恩に報いたく、十八歳ではじめて中学校に入学したときは、この学校を卒業し少しでもはやく就職し老父母の生計上の心配をなくしてやりたいというのが精一杯の望みだった。

 私は生家の裏手に祀ってあった笠間の紋三郎稲荷の小さな祠に毎朝おまいりして、この願望成就を祈念したものだ。当時の師範学校の校長の月給は五十円ほどだったので、せめてはその半分くらいの収入のある教師にでもなりたい、というのが望みのすべてだった。
 今日振り返ってみると、その小心ぶりに驚くほどだが、少年時代にあのような苦境に立ち、勉強にも真剣さが増したことはとても貴重な経験で、ぬくぬくと育ち(原文「温飽(おんぽう)に狎(な)れて」)人生の窮苦を体験する機会がなかった人たちに比べると、いってみれば「苦は楽の種」でむしろ幸福だったのではないかと思う。


新人の感化(上巻41頁)

 明治十一年、水戸上市の師範学校構内に中学予備校が設立された。その翌年度からの中学校を開設するための準備であり、そのときの師範学校校長は慶應義塾の塾員である松木直巳で予備校の英学教授も兼任していた。松木氏は中津の出身で浜野定四郎氏に一番ちかいところにいて、慶應義塾には入学しなかったようだが、福澤、小幡の両先生とも同郷という関係があったために、東京にいるころはもちろん水戸に赴任してからもつねに音信が続いていた。浜野氏の薫陶によって英学もそうとうにできていたが、人となりも機敏で話すのがうまく、福澤先生直伝という漢学排斥論や、民権論、国権論などをさかんにふりかざして私たちを煙に巻こうとするので、私たちもいつも難問を出して議論を戦わせようとしたが、まったく子ども扱いされて切り込むすきがなかった。
 この間に、ミルの代議政体、ギゾーの文明論、アダム・スミスの経済論などというきいたこともないような新論を、私たちは断片的ながらも吹き込まれおおいに啓発された。このように、当時の水戸において、松木氏はただひとりの新知識の持ち主で、そのひとことひとことに私たちは耳をそばだてたものだった。
 こうして私たちは明治十一年から十四年までの足かけ四年のあいだ中学校に在学し、校長の町田則史、教授の大矢透そして松木氏の指導を受けたわけだが、明治十四年、あと三、四か月で中学卒業という間際の時期に、私たちは松木氏から、天使の知らせかと思われるようなことをきかされた。その朗報を耳にするや、私たちは中学の卒業証書などは無駄な反故紙以下だといってすぐに退学してしまったのであるが、それはほかでもない、次のような知らせだったからだ。松木氏からきかされたのは、私たちが、福澤先生の庇護のもとで慶應義塾に入学しないかという誘いを受けているということだったのである。
 こうして私と渡邊治は、明治十四年の六月に、そのころ水戸と東京の間を往復していたガタクリ馬車に乗り、松木氏に伴われて上京することになった。松木氏は当時水戸における新しい知識人として水戸人を啓発しただけでなく、私たちにとってはまさに上京という出世の道を開いてくれた大恩人なのである。


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 十二
自強舎の学友(上巻36頁)

 水戸の共同学塾である自強舎は、上市の田見小路にあった。塾長は誰とは決まっていなかったが幹部制で、その部長だと見られていたのは
剣道の達人で士族の有力者でもあった大関俊徳だった。
 
学課は読書作文が主で名の知られた漢学の先生がえて指導にあたり、また有志者の希望に応じて剣の練習が行われる道場もあった。
 生徒はおよそ五、六十人で、水戸人として後年に名をなした人は
たいていこの自強舎の出身である。井坂直幹、石河幹明、渡邊治、村田彬、越智直、亀井善述、小池友徳、真木謙、石河幹徳、戸田忠正らは、みな当時の通学者である。

 私は自強舎に明治十年から十一年の三月まで通学したが、この間に西南戦争があった。水戸はおおむね西郷びいきであったので、なんとなく当時の政府をこころよく思わず思想は儒教にこりかたまっていた。

 こういうなかで私は井坂直幹、渡邊治というふたりの親友と相談し渋井にある井坂の家で毎月三、四回の講義会を開いたのであるが、あの浅見絅斎(注あさみけいさい。17世紀末の儒学者)の編述した「靖献遺言(注せいけんいげん。中国の儒学者八名の評伝)」を最初の読書会の指定図書に選んだことをみるだけでも当時の水戸学生の思想がどのようなものだったかがわかるというものだろう。
 前述のように自強舎の教授法は漢書の輪読(注・複数の人が順番に読む)が一番重要で、それに作詩作文が続く。ときどき先生から出る課題は、楠木正成、その息子の正儀、新田義貞を論じた南北朝関係の人物のものが多かった。また紀行文には下那珂川記、袋田観瀑記といったものが題目になり、それに次いで、「送某之於東京序などというのが一番の人気課題だった。添削は小原、佐々木の両先生が当たられ、井坂直幹氏の楠木正儀論が、小原先生にとてもほめられたことがあった。
 またそのころ水戸の梅巷ばいこうに住み、「戸田藤田」と呼ばれ、有名な水戸藩の家老戸田氏の孫であった忠正氏に、石河幹明氏は次のような七言絶句を贈った。

       東風吹雨々斜々 思到城西處士家
       梅巷梅花柳堤柳 晴餘春色定如何

これは面白いと思い、今でも記憶している。
 私は詩も好きで時々字句(原文「詩語碎金」)をひねって詩作を試みてもいたが、むしろ作文のほうが得意であるのでよく昔の人の文章を愛読していた

 そのようなものを真似することも多かったとみえ、あるとき井坂氏が、朱竹その友人に送ったという作文時の心得を書きぬいて「これをよく読んでごらんなさい」と親切にも渡してくれた。その主眼は、自分の真の気持ちから出たものでなくては真の文章ではない、ということで、ややもすると古文の真似に陥っていた私に忠告してくれたわけだ。これ私は非常に心を動かされ、その後の文章作りの痛切な教訓となった。これが、私の一年間の自強舎在学中の思い出である。

 

思想の変遷(上巻38頁)

 西南戦争の結果は日本の思想界に大きな変化を起こしたようだが、水戸は旧来の思想がもっとも濃厚な地域でもあったので、よけいにその動揺は大きかった。
 水戸は尊王攘夷論をもって明治維新を先導したわけだが、漢学が盛んで旧思想が深くしみ込んでいたのでそれを払いのけるのは簡単なことではなく、明治維新後の文明思潮にはもっとも遅れがちであった。新政府関係の打ち出すことがらにはことごとく不快感をもち、当時反政府だった西郷に対してはむやみやたらに同情心を示していた。しかし西南戦争でその大黒柱が破壊されたのであるから、あっという夢のまどろみから起こされたようなものだった。
 そのような中明治十一年五月に大久保内務卿の暗殺のニュースが自強舎に届いたとき、その辺にたむろしていた学生たちが一斉に立ち上がり激しく拍手した。そのときちょうど茨城県学務課長の志賀という人が来ており、今の拍手はなんのためだったのかと質問され、その事情を知ると、けしからん学生たちと厳しく叱責されたので、学生一同はすこしばかり時勢の移りかわりというものを理解したのである。

 一般的な風潮もだが、教育に関してはなおのこと、漢学が主流であり続けた水戸地方にも、この暗殺事件のころからようやく変化が見えてきた。翌年の明治十二年から水戸にも中学校を開設するため、師範学校の構内に、その予備校を設立することになった。私たちも今までのような不規則な漢学教授で満足していては、将来、世の中に出て成功することはできないと思いいたり、ならばこれからは学(注・西洋の学問)の勉強もし、日進月歩の学問の道を歩みだそうと決心し、渡邊治、石河幹徳、村田彬、越智直らとこの予備校に入学することにした。

  しかし、そのことが自強舎の人たちに知られてしまうと、きっとなんらかの脅しに合うだろうからというので秘密中の秘密にしてその時が来るのを待っていた。ところがその間、井坂直幹氏なども少し時勢の変わっていくのに目覚めたのだろう、自強舎に、なぜか一部だけ伝来していた福澤先生の「文明論之概略」を読み始め、これはなかなか馬鹿にできないものだから君も一度読んでみたまえと、私にこっそり言ってきたものだった。

 やがて、慶應義塾出身の松木直巳が、師範学校の校長として水戸に来て、福澤先生の文明論を大いに喧伝したため、自強舎の学生諸君もようやく師範学校や中学校の教授たちに親しみを覚える(原文「欵(かん)を通じる」)ようになった。そして、福澤先生の著作である「西洋事情」「学問のすすめ」や、小幡篤次郎訳述の「ウェーランド経済(原文「エイランド経済」)、西周訳「心理学」などという英書の訳文を読みその疑問点を質問するなど、純粋な漢学塾の学生だった者もようやく英学の先生の教えを乞うようになったのである。

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 十一
共同の学塾(上巻33頁)

 水戸には、上市と下市のどちらにも個人で学塾を開いていた先生がいて、士族の子弟はそれぞれその塾に通っていたが、明治七年ころから上市に自強舎という共同学塾ができ高名な先生が数人みえることになった。それからというもの、上下両市の士族の子弟ほとんどが、ここに通学することになった。その当時、小原俊光、佐々木籌【ちゅう】、渡辺正順などという先生方がいらした。
 通学者は塾が所有する書物を借り出すことができるほか、時々先生の講義を聴き、また詩文の添削をお願いすることができるというような、非常に自由で不規則な教授法だった。そのうえ弘道館記にあったような文武不岐(注学問と武道は分かれずの意)の主義で剣の稽古をする塾生もいたり、ときには他藩の人が来塾するというようなこともあった。
 そのようなひとりの薩摩出身の学生がおり、彼が持っていた大西郷(注西郷隆盛)の書幅に

     吾心如秤 不為人軽重

というものがあった。並外れた傑作であったが、これが私が大西郷の筆跡を見た最初のものだった。
 そのころ西郷はいわゆる征韓論の衝突で鹿児島に引っ込み、その後板垣退助が民選議院設立の建白を出していたころで、政治的な便りが水戸にも次々に伝わってくるので、私たちはこうしたことに非常に興味を持ち他の場所から水戸にやってくる学生に中央政界の事情をきいたりすることを楽しみとしていた。水戸は維新の前、尊王攘夷論の中心になっていたころから、諸藩から志士がやってくることが多く、あの高山彦九郎が水戸に来た時、藤田東湖の父である幽谷はまだ十三歳の少年でありながら、

       聞君高節一心雄 奔走求賢西復東
       遊学元懐奇偉策 正知蹈海魯連風

という七言絶句を彼に贈ったという美談も伝わっている。こうしたことに、私もあこがれていたし、他藩の学問修行者を歓迎するということに、水戸学生伝統的興味を持っていた。


水戸の学者(上巻35頁)

 私の少年時代に水戸の学者として知られていたのは漢学では寺門【てらかど】謹(原文では「勤」になっているが間違いだろう。会沢正志斎の甥か)、小原俊光、佐々木籌などで国学では栗田寛だった。栗田は大日本史」を完成に尽力した実力ある歴史学者だったそのほか横山喜右衛門、齋藤某は漢学で、潤野某は書家として高名だった。以上の漢学者の中では寺門が一番の大家で、のちに私ときわめて親しくなる渡邊は、彼の門下生のひとりだった。

 私ははじめ横山喜右衛門の塾に出入りしていたが時々栗田寛先生を訪ねて講話を聴講したこともある。ただ私はまだ子供だったので、先生の学識を引き出すような質問をすることができなかったことが残念だ。先生は小柄であったが声は凛々として朗らかで、いかにも流暢な弁舌で歴史についての所見を手に取るように語られた。また潤野先生は私の長兄の純の師匠で、当時水戸一番の能書家でその書は欧陽詢(注唐の書家)風だった。水戸では文公(注・水戸藩6代藩主徳川治保はるもり)の時代、すなわち寛政(注・17891801年)のころ、大日本史の版下に欧陽詢の書体を採用したのでその版下づくりのために士族がわざわざ欧陽詢の書体を習ったのであろう。
 このころ私と一緒に勉強していた新家毅【にいのみき】という人がいて、非常蔵書家だったので私たちはいつも彼から漢書を借りていたが、彼は私よりひとつ年上で、当時漢学の秀才だった。また樫村という私たちより三、四歳年上の人は読書するときの声が非常に美しく、横山塾に水戸藩庁の試験官が出張してきたときに、「日本政記(注頼山陽著の史書)の中大兄皇子と藤原鎌足の遭遇の一章を読み上げたその美声には、一同感嘆したものだ。それが、われわれの憧れと目標の的になり、今でいったら謡曲の練習をするように自宅で読み方を練習したものだ。これが私の少年時代の水戸の学者と学塾の様子である。



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   十
慈母の奮闘(上巻30頁)

 私の母はとても謙遜な人で、誰に対しても自慢がましい言動をとったことがない。ただただ非常に辛抱強く、思い立ったことは必ずやりとげる性格だった。私を丁稚奉公に出しておくのがとても心苦しかったとみえ、私の奉公三年の間、身を粉にして立ち働き、事実爪に灯をともすように倹約したその苦労は筆舌につくしがたいものだった。夜おそくまで針仕事の内職をするのはもちろん、一家の家事全般をただひとりで受け持ち、薪を倹約するために自宅から十二、三町(注一町は約109メートル)離れた旧城下にある杉山という杉林に分け入り枯れた杉の枝を拾い、これを背負って帰り、炊事用にはたいていこれで間に合わせたという具合。一が万事で非常に倹約をしたので、三年のうちには家計にも多少の余裕が出てきた。このとき長兄の純は水戸から二里はなれた磯浜町の小学校教師となっていたので、もう一刻も待たなくともよいとなり、私の丁稚奉公をやめさせ兄の自炊を手伝わせながら自分で勉強させようというところにこぎつけた。そこで父が私の奉公をやめさせてもらおうと福田屋に来て主人に申し入れてくれたのだが、そのときは天にも昇る心地だったし、慈母の奮闘が私を深淵の底から引き揚げてくれたのだというありがたさで感涙を流さざるをえなかった。
 けれどもこの三年の丁稚奉公は私の一生において非常に思い出深いばかりでなく、他人の飯を食って人情の機微を知り子供ごころに深く刻みつけられたいろいろな印象は、のちに折にふれて有効な参考となった。また、この田舎の雑貨店で得た経験がやがて三越呉服店の改革に当たった時に少なからず役立ったことは、われながら不思議な因縁だと思うのである。
 この福田屋主人の近藤忠兵衛は八十歳くらいまで長生きしたそうだが、長男の秀次郎は五十歳前後で死去し、男子がいないのでそのひとり娘に姉の子をめとらせて相続させあいかわらず営業を続けていたので、私は明治四十年ごろに約三十年ぶりでお礼かたがた一度相田村を訪問し、当時生き残っていた古い知り合いを集めて一夕宴を催し、浦島が故郷に帰った思いにふけり非常に感慨深かったこともあった。


自炊の生活(上巻33頁)

 私は慈母の捨て身の努力で、十三歳から十六歳までの足かけ四年、正味三年の丁稚奉公の苦境から救い出され、その後すぐに、当時磯浜小学校教員になっていた長兄のところに同居し自炊生活をすることになった。
 小学校教員の身であるから住まいは九尺二間の棟割長屋の一軒を借り、私が朝早く起きて飯を炊き、汁を作り、弁当をこしらえて出勤する兄に持たせる。午前九時に炊事の仕事を全部終えると、それから和漢の歴史や、文章規範、唐宋八家文章などもっぱら漢籍を読みふけり、夕方になるとまた晩飯の用意をし、ひまがあれば夜ふけまで夜学という勉強ぶりであった。
 壁一枚むこうの隣りに、兄の同僚の中山さんという教師が住んでいて、その奥さんがあねご肌のおもしろい性格だったので夜になるといつものように同僚の教師がやってきては談話にふけっていた。そのころはまだ師範学校の卒業者もおらず教師の多くは士族のなれのはてであって、多少の文学のたしなみがあったので、神谷さんという五十過ぎの漢学者が詩を作り、藤井さんという元気のいい和学者が和歌を詠んだりするのを私もその末席につらなって傾聴したものだ。
 神谷が作った下那珂川の七言絶句に、

  布帆高掛孕西風 十里長江秋不空
  両岸霜楓紅映水 舟行錦浪繍波中

そして藤井の和歌に、

  わが宿に吹きくる風の香もしるし誰が垣根とも白菊の花

というのがあり、できがよいと一同が褒めたので今でも覚えている。
 このときの生活で一番困ったことは、もう一方の隣家に磯浜から水戸あたりまで生魚の行商をしている夫婦者が住んでいたのだが、毎晩のように痴話喧嘩が始まることだった。それがいわゆる残虐変態的なもので、ときには大暴れの立ち回りになるかと思えば、夜更けまで小声で楽しそうにしていることもあり私の勉強の邪魔になるのであった。
 考えてみれば苦労の多い生活だったが、少年時代にはその苦労も苦労とは思わず、ただ気ままに勉強することができることがうれしくてたまらなかった。 
 こうして一年が過ぎ私が十七歳になったその五月ころから、また水戸の実家に戻ることになり、それからはいよいよ本式の勉学に取り掛かることになった。

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 九
福澤の風評(上巻27頁)

 私が福田屋に奉公していたしていたころは、五、六月の田植えの季節になると、近村の農家が忙しいので店は非常にひまになるのであるが、この福田屋自身がもちろんのこと、村に田畑を所有し作男に耕作させていたから、田植え前になると一里ほど離れた内野山【うつのやま】という山から芝草を刈り取り馬の背に載せ水田まで運び肥料にするという仕事があった。これは「刈敷【かつしき】」と呼ばれ、農繁期になると猫の手も借りたいほど忙しいので、小僧の私なども手伝いに出かけ、刈敷を背負った馬をひいて水田までを往復したこともあった。この季節ちょうど馬に盛りがついていて、ほかの刈敷馬と道ですれ違うときにヒンヒンないて暴れ出すので、十三、四歳の私の細腕ではこれを止めるのが難しく、遠くからほかの馬がいななく声がきこえてくるだけで身震いするほど怖かったものだ。

 ところであるとき私は馬をひいて内野山にのぼり、磯原から桜井にかけての遠くの海岸の松原を見渡しているときに、自分が丁稚、そして牧童となりこのような草深い田舎で年をとっていくのはまったく無念であると思った。少しでもはやく水戸に戻り、やがては東京にも出ていきたいという希望が、潮のごとくに沸き立ってきた。人間というものは高いところにのぼって目の前に広大な景色が展開するのを見ると自然にこのような気持ちになるものなのかもしれない。
 この気持ちが起こってからというもの、水戸や東京からのニュースに関心を持ち、福田屋の若主人である秀次郎が春と秋の二回呉服ものの仕入れのために東京に出かけ小網町あたりの宿で四、五日滞在して戻ってくるときなどは、そのつど根掘り葉掘り東京の土産話を聞くのを楽しみにしていた。
 あるとき秀次郎の話で、福澤諭吉という人が最近東京で評判であるときいた。この人は西洋の学問ができて口もたつので、誰が議論に行ってもしゃべり負かされてしまう。それで、世間では彼に猪口才(注・ちょこざい)諭吉というあだ名をつけているのだそうだ。

 最近では、彼は楠公権助論というのを世間に公にして、楠公(注・楠木正成)が湊川で討ち死にしたのはくだらぬ犬死で、権助(注下男のこと)が主人の使いに出て金を落としてしまったのを苦に首をくくったのと同じだと言い出したので、勤王の志士の激しい怒りを買いたびたび暗殺が企てられているという。その話をきいて私はこの上なく好奇心が湧くのを感じた。なぜ楠公が権助と同じなのか、その議論のつながりがわからないので、どういうことだろうとしきりに考えたがついに理由がわからなかったので、なんとかしてこの福澤の書いた書物を見てみたいと思いながらも、片田舎の悲しさでついにその目的を達することはできなかった。私が福澤先生の名前を耳にしたのはこれが初めてで、それは明治七年、十四歳の時であった。


白石の前鑑(上巻29頁)

 私は相田村の福田屋に十三歳から十六歳までの足掛け四年、正味三年の丁稚奉公をしていたが、いっしょに働いていた田舎小僧よりもすこしはましなところがあったらしく、しきりに近隣の評判小僧となった。そして、相田村から一里半(注・約6キロ)の桜井村で、元松岡藩士で家禄奉還後にも所領の田地があるのを幸いに土着して裕福に暮らしていた郡司という士族が、私を婿養子にほしいと申し込んできた。福田屋は旧藩時代から郡司家のひいきを受けていたものだから、この時を逃すものかと私にこの話をすすめる。私も一時は迷ったのだが、聞き知っていた話からことに教訓を得てこの話は断ることにした。それは、女性としては物知りで太平記や太閤記などの中から私にいろいろ話聞かせてくれていた母からきいた話のひとつであったのだが、私はそのような話をよく記憶して、十一、二歳のころには口づてに周囲に話してきかせたりしたので、近所の知り合いから講談を頼まれることもあったのである。

 それは、新井白石のおりたく柴の記の中に出てくる、彼の書生時代の話である。ある富豪の町人から養子になってほしいと頼まれたとき、蛇がまだ小さいときに小さな傷をつけられたが、それがやがて大蛇になったときにとても大きな傷になったという例があるので、今町人の養子になって、のちに出世した場合に、その傷が大きくなるのはまっぴらごめんだと言って断ったという。私も、今郡司家の養子になったら、このように草深い田舎で一生を過ごさなくてはならないと気がつき、両親に相談するまでもなく、きっぱりとこの話を断ったのである。もしあのときに養子になっていたら、今の姿がいかに貧弱なものであるとはいえ、今日ある姿とは相当違っていただろうと思い、われながらよくぞ運命の虎口を逃れたものだと思う。新井白石の物語がこの運命から私を救ってくれたのだと感じることである。

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 八
武士の訓言(上巻24頁)

 私の父は前にも言ったように非常に正直で竹を割ったような気性であり、学問にはあまり熱心ではなくひごろ読書をする姿を見たこともなかったが、刀剣鑑定に関しては素人としては一級で、のちに東京で今村長賀(注・刀剣鑑定家ーhttps://ja.wikipedia.org/wiki/今村長賀氏などと交際していたことからもわかるように、なかなかの眼力ではあったらしい。

 さて家禄奉還となったのち父にはほかに職業がないので、そのころはまだ士族が刀剣を大切にする習慣が残っていたので、刀研ぎの内職をしていた。
 私がいよいよ丁稚奉公に出るという当日、父は私を自分の前に座らせ非常に厳格な態度でこう言った。「おまえも知るような事情で、今回はやむを得ず福田屋に奉公させることになったが、奉公した以上は、その主人のために忠実に働くことは言うまでもない。しかし同じところで働く小僧や番頭などと喧嘩するなどして居づらくなるようなことがあったら、主人に断って帰ってこい。しかしおまえも武士の子なのだから、金銭上の過失によって暇を出されるようなことがあったら、それこそ家の面目にかかわるのでこの家の敷居はまたがせないぞ。そのことをしっかり肝に銘じて忘れることがあってはならぬぞ。」と。
 このひとことは、場合が場合であったが私の頭脳に沁み込んで、今日まで、金銭の上で心にやましいことをせずに来られたのは、この訓戒の賜物であったろうと思うのである。私はいつも金銭上のことでは、人に貸しはあっても借りは一切ない。我が家の出納帳には一切借りの項目がないことを誇っているが、これはこれまでも述べた通りの水戸藩の武士気質であり、自分では日ごろ余裕のある生活を送っていると感じるとはいえ大金持ちにはなれなかったのも、つまりこうした考え方のなせるわざだったのであろう。


異様の丁稚(上巻25頁)

 私は前記のとおり十三歳で茨城県多賀郡相田村にある福田屋という呉服荒物店の丁稚奉公で住み込み生活を始めた。この福田屋は、三代前の主人が水戸上市にある福田屋の番頭だったのが、事情によりこの村に土着して本店ののれん分けをしてもらい営業を継続したものだった。今では多賀郡の中で資産家になっているが、そのころの主人は近藤忠兵衛といって五十いくつかのでっぷり太った風采の立派な人物だった。私が貧乏士族の成れの果てで丁稚になりさがったことを気の毒に思い、私の幼名を幸四郎といったので、ほかの小僧とは区別して「さん」づけで幸さんと呼んで非常に優遇してくれた。
 けれども私は折にふれて元の身分を思い出し、袴をはいて小刀を差してみたくなり、この村から二里(注約8キロ)離れたところにある旧松岡藩の城下の手綱というところに住んでいた次兄の桑名喜徳のところへ行き、預けてあった袴と小刀を持ち出してその日一日城下を歩き回って有頂天になっていた。ところがそれを近藤の長男の秀次郎に見つけられてしまい「幸さんは徳利姿でご城下を歩いていたよ」と大いに笑われてしまったことあった。このあたりで徳利姿というのは、袴をはいた姿が徳利に似ていることから袴姿をそういうのであろう。
 私は十歳ころから詩を作るのが好きで十三歳のときに雪を詠じた七言絶句を作ったことを覚えている。福田屋で丁稚になったあとも店頭の洋灯の下で言葉(原文「詩語碎金(さいきん)」)をひねくっては詩作にふけっていたので、一緒に働いていた小僧たちはいったい何をしているのかと思っていたようである。
 また店で来客のとだえたときに、私がいらなくなった反故紙で習字のけいこをしているのをみた人が、田舎の純朴さであろう、なにか書いてくれないかと白紙を持ってきた。それに大きな文字を書いて渡したところ、それがだんだん評判になり、得意先のほうぼうから、しきりに揮毫を頼まれるようになってしまったので「清風」の二字をもっとも得意として書き続けたものだ。それで、福田屋の小僧さんは、まだ一年にもならないのに、この近所の大書家だというすごい評判になってしまったのである。



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 第二期 少年 明治四年より一三年まで

 七
麗人の栄枯(上巻21頁)

 私の生家である水戸下市市三ノ町の筋向いに大内源右衛門という二百石取りのさむらいが住んでいた。那珂港で船主をやっていて水戸藩に献金した功をみとめられ士族に成り上がった人物で欅づくりの大門は町内一の壮観をほこっていた。

 この家のひとり娘の芳子は、わたしが十一歳のとき十三で、うまれながらの美しさはまだつぼみが開く前から人を魅了するほどだった。
 あるとき私は、大内家の庭先の芝生でこの令嬢と遊びながら相撲を取っていて、自分よりもずっと背の高かった芳子嬢を振り回して投げ出したところ、なんの手ごたえもなく、彼女が芝生の上にころころ転がってしまったことがあった。まるで半開きの牡丹の花の一枝を地面に投げつけたような感じがして、子供ながらどうしていいかわからなくなってしまったものだ。
 この令嬢はもともと色白で目鼻立ちが整い利発であったから、十七、八歳のころには藩で並ぶ者のいない麗人となっていた。
 ところがその父の源五右衛門酒飲みがたたりほどなく死んでしまったために、令嬢は石岡あたりの資産家の次男を養子にもらったのであるが、もともと財産のための結婚であったから、美しい馬がいやらしい男を乗せて走っているような感じはいなめず、家禄を返還したあと、出身地である那珂港にひっこんで家政を切りまわしたその苦労はたいへんなものだったのではなかったろうか。その後私は芳子夫人に会う機会がなかったが、幼いころを思い出すたびに令嬢の美貌を思い出したものだった。
 ところが不思議な縁で、私の伯父の三女が芳子夫人のひとり息子の大内義比氏と結婚することになったためにその披露宴で芳子夫人とひさかたぶりに会ったところ、むかしのおもかげはどこへやら、目の前に現れたのは年老いて白髪頭になった老女で、これがあのみめうるわしかった芳子嬢であるとは、どうやっても信じられないほどだった。
 このことがあって私は、漢代に、李夫人が病気のあとに武帝に会うことを拒み、「病気の前の姿を覚えていてください」と言ったことや、茶事において、入席の際に一度見た花は二度と見返ってはいけないとされていることには相応の理由があるものだと実感し、年取った旧知の美人などにはなるべく会わない方が良いものだと深く悟ったものだった。


家禄の奉還(上巻22頁)

 明治二年に版籍奉還が、四年に廃藩置県が行われ、旧藩士族は家禄を奉還するかわりに朝廷から秩禄公債を頂戴することになった。
 当時の水戸藩では、その当事者たちが新朝廷に対してあまりに遠慮しすぎた結果藩につかえる中士の家禄を基準に、一律で一家につき玄米四十七俵を給付するということになっていたので、これを秩禄公債に置き換えた金額では、とうてい一家を養うには不足で、とくに我が家のように両親と六人の子供のいるような大家族では困窮の度が激しかった。
 長男は家に残して学問修行をさせなければならないが、そのほかは外に出して、まず人減らしをしなくてはならない。そこで次男の喜徳を旧松岡藩士である桑名氏の養子に、三男の秀夫を久慈郡小中の佐藤氏の養子に出し、さて私は、桑名氏の仲介で茨城県下多賀郡相田村の福田屋という呉服荒物を扱う小売店の丁稚小僧住み込ませることが決まった。

 これが明治六年、私が十三歳のときのことであったが、水戸士族の子弟は、十三参りといって、十三歳になると城下から四里(注:一里は約4キロメートル)ほどはなれた海岸にある村松村虚空蔵菩薩に参詣するという習慣があったので、この年の五月に父に連れられて村松に出かけ、はじめて海というものを見て帰宅したところ、士族の子である自分が町人になるという一身上の大きな変化があることを知らされ、子供ながらに大きなショックを受けた。
 そのころ町人と言えば、恥や道徳の観念もなくただ金儲けのために生きている一段低い階級の人間だと思っていたので、武士の誇りを捨ててこのような階級に身を落とすことは道徳上の一巻の終わりのように感じられたからだ。商家の丁稚になってしまえば奉公第一となって学問修行もやめなくてはならない。それはそれで悲しいことだったが、それよりもなお悲しいのは、木刀とはいえ腰に一刀をさしていた身分であった自分が刀を捨てて丸腰にならねばならぬことだった。それは身を切られるよりも情けないことだった。そのことを思い出しては涙にくれていることに母が非常に同情して、「決して長いことではない、自分が働いてそのうちに引き戻して学問修行をさせてやるから」というそのひとことを心の頼りに、私はとうとう丁稚奉公に出かけたのである。


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 六
元喜按摩(上巻16頁)

 私は父母が健康で、ともに八十九歳の高齢を保ったし、母方の祖母も九十六まで生きたほどで、生まれてからほとんど病気らしい病気をしたことがない。そして非常な腕白小僧であったらしい。
 その腕白ぶりが手に負えないので、それを止めるために、あまりいたずらをすると元喜按摩のところにやってしまうぞ、というのが私の怖がらせるたったひとつの方法だったそうだ。
 元喜按摩というのは水戸の士族町を流しでまわっていた指圧師で、そのころ三十歳くらいだったと思う。顔じゅうがあばただらけで目玉が飛び出ていて見るからにグロテスクな恐ろしい怪物のようだったために、私がとても怖がるのをいいことに、その人のところにやってしまう、というのを脅し文句にしたものとみえる。私はこれが何よりもおそろしく、元喜按摩の笛が遠くでピーッと鳴るのをきくだけでたちまち身震いして小さくなるのだった。

 子供のときの習慣というのはこわいもので、この恐怖心を終生消すことができず、今でも按摩の笛をきくと襟から水でもかけられたような感じになってしまう。世間で子供に雷やおばけを怖がらせるというのは、おそらく同じような大人の理屈から生まれるのだろうが、わたしの体験からいえば、少々のいたずらは押さえつけることなくのびのびと自然に教育するほうがよいのではないだろうか。


水戸の家塾(上巻17頁)

 水戸には烈公(注・水戸藩9代藩主徳川斉昭)の建てられた弘道館という文武練習所があり、ここで水戸藩士の子弟は明治維新のはじめまで文武両道の稽古をしたそのほかに水戸上市、下市にも家塾があり、年少者はたいていそれらの家塾に通学した。

 私の住んでいた下市三ノ町には横山先生が私塾を開いていた。先生は通称を喜右衛門、諱を高堅といい、いかにも漢学の先生らしい厳格な風采であり、太平記がお好きで、書斎でときどきそれを朗読されていた声はいまでも私の耳に残っている。
 家塾の授業は朝昼晩の三回に分かれていた。朝げいこでは先生が塾の広間に出てこられ、そのまわりを生徒が取り囲んで座り、順番に漢文の読み方を教わった。質問があるときには指の先でその場所を示すと、先生は細い竹の棒でその字句を押さえながら読み方を教えてくれるのである。
 書き方の稽古は
もっぱら習字だった。生徒のレベルに合わせてあらかじめ先生が用意されたお手本の稽古をした。

 夜学には先生は出ていらっしゃらず、塾頭かその他の先輩が代理をつとめた。ときに詩作をこころみる生徒がいた場合などは、紙に書いて先生にあとで添削してもらう。
 もっとも夜学のときに先生が突然みえる場合もあって、そういうときには塾頭らを相手に教訓めいたお話をされることもあった。塾の人数がすくないこともあり、子弟のあいだがらは親子のように和気あいあいとしていた。 

 ところで、私たち少年がおおいに得意がっていたのは、塾の夜学からの帰り道に、高下駄をからからと踏み鳴らしながら「月落鳥啼霜満天」だとか、「鞭粛々夜通河」などと声高らかに吟じながら歩くことだった。月の明るい夜などは帰路があまりに短いことを物足りなく思うのだった。

 このような家塾の様子は今日の学校からみると想像もできないことだろう。当時の師弟間の濃密なかかわり合いを思い出すと、こうした教育法にはなんともいえない独特の味があったことを思い返さずにはいられない。

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    五
党争の余毒(上巻14頁)

 水戸の党争といえば有名だが、最初は学問上の党派争いだった。それがやがて政治問題に移り、さらには感情問題に発展して、長いこと歩み寄ることができないでいるあいだに、次第に残虐性を帯びるようになり、何度かの殺戮行為を繰り返すようになったという、深刻な負の副産物を生じてしまった。
 私が記憶している維新後の水戸の様子を述べてみよう。水戸は、佐竹時代(注・豊臣政権時代に水戸城は佐竹氏の居城だった)にあった古い城域を拡大して、四方に新しい城郭を築いたもので、士族屋敷と市街とが城郭をはさみ、南には仙波湖があり、北には那珂川が流れている。城の東側は一段さがった低地で下市といい、西側は高く水はけのよいテーブルランドで、上市といった。
 この上市と下市の士族のあいだには、例の党派的反目があった。それが子供ごころにも浸透して、上市では下市の者を「あひる」と呼び、下市では上市の者を「いなご」と呼んだ。一方は高いところで、つんつん威張り、一方は低いところで、泥水を飲んでいるという、嘲笑的な呼び名である。
 両市の士族のこどもたちは、いつもグループを作って石合戦をしたり、道で会えば殴り合いをしたりと、とにかく喧嘩は土地の名物くらいに思われるありさまだったので、私などはひとりで上市のほうに行くこともできず、上市のこどもたちもまた、気軽に下市に来ることができなかった。
 もともと水戸の士族の家庭は儒教主義で固まっていたので、夫婦のあいだで笑ったりすることもなく、こどもも、ひっそりと籠り、喪中のように陰鬱な空気の中にいつも閉ざされたようになっていたが、明治初年の恐怖時代には、それがさらにひどくなり、天狗だの、諸生だの、という噂は、ぜったいに口にしてはならず、そんな名前を耳にするのは、身の毛がよだつようで、大声で快活に話す者さえもいない状態だった。
 このような情勢であったので、いつも人を疑うようなことになり、ほんの偶然に起こってしまったあやまちでも、なにかの下心があったに違いないと思われるようになってしまった。
 あるとき、うちの町内であったことだが、士族の子供が弓で遊んでいるときに、誤って隣りの家の台所に矢が飛び込んでしまった。そのとき隣家の主人は、うちになんの恨みがあるのだと言って非常に怒り、その矢を取りに来たこどもを、大人気もなく追い返したという。これひとつをとっても、その当時の士族の気分が、いかにぴりぴりしておかしくなり、内心疑いに満ちていたかということがわかるだろう。 

 水戸には歴史学者が多かったが、その他のことを趣味にする人は、非常に少なかった。とくに、音楽を趣味とする人はほとんどおらず、水戸藩主の屋敷を除いては、市中どこをさがしても、一台の琴さえもなかっただろう。
 明治三年ころにわたしが住んでいた三ノ町に、飯島という士族がいて、病気の娘の気晴らしのために、町人の師匠を呼んで常磐津の稽古をさせていた。それが私などにはとても興味深く、毎日稽古の始まる時間になると、その家の門のところに立ってきいていたので「継信殿の胸板へ、ハッシと立って真逆さま」などという歌詞を全部覚えてしまったくらいだ。
 その当時は、士族の屋敷で三味線の音をさせるなどは、悪魔の声をきくのと同じだという扱いだったので、後年、東京に出てきて、宴会の席で三味線をきいたときは、座っているのがなにやら恥ずかしいように思えたものだった。だがその後、福澤諭吉先生のお宅で、令嬢たちに三味線をひかせて、踊りを踊らせているのを見てから、ようやく、そういう感じを忘れることができるようになった。このことだけを見ても、水戸士族の家庭の雰囲気が、いかに味気なく、暗いものだったかがわかるだろう。


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 四
水戸の士族(上巻11頁)

 
明治維新直後の水戸の士族はどのような状況に置かれていたのであろうか。

 幕府の壊滅とともに水戸では天狗党が全権をにぎったので、その前に逃げ出していた佐幕派の諸生党の士族は家名断絶の処分を受けたが、党に属しているかどうか曖昧なままに藩の領地に残った者たちも、閉門を命じられたリ禄高を減らされたりしてまったくみじめなありさまだった。

 私の家は四代前から水戸徳川家に仕え、祖父の彦左衛門は拙翁という号を持った、なかなかの人物だったらしい。父は常彦と言い正直な武士気質な人間だったために、とくべつ出世もしない代わりに党派対立の影響もさほど受けずに、維新の前に水戸藩主が京都守護を命じられた時には随行して京都にしばらく滞在したことがあり、その時の話は私もよくきかされたものだった

 父はさっぱりした性格で、背が高く見た目も悪くなかった。刀剣好きで、矢倉奉行という水戸藩の武器倉庫係を勤めたこもあったので、維新後に家計が窮乏したときには刀研ぎをしていたこともある。子供が六人で長女と末娘のあいだに男の子が四人おり、私はその四男である。

 母は水戸藩士、野々山正健の妹で、がっしりとした体格の持ち主だった。骨身を惜しまず貧乏家計をきりもりし、家事を気にかけない父への内助の功も大きかった。子供の教育などは母が一手にひきうけていたようなものだ。もっとも父も、私たち子供を刀磨場に呼んで、刀を研ぎながら「大学」「三字教」などを教えてくれたこともある。

 とにかく家族の人数が多かったので非常に倹約をしなければたちまち食べるにも困ることになる。三度の食事もたいていは味噌汁と漬物で、一番安いいわしの魚にありつけるのも月に二、三度くらいであったから、私はそういう意味で貧乏体験を百パーセントして卒業した者であるといえよう。


儒教の余弊(上巻12頁)

 水戸では昔から儒教を重んじ、仏教を脇に追いやる傾向があった。とはいえ義公(注:水戸藩二代藩主徳川光圀。16281701))は度量が大きく、「佛老を排して佛老を崇ぶ(注:仏教の僧侶を排除しながらも重んじる)」と言われたほどで、当時、戒めを破ったかどで大勢の僧侶を懲罰した一方、生母の谷夫人のために久昌寺を建てたり、明から禅僧の心越禅師を招いて祇園寺を開設されたりしたこともあったにはあった。

 けれども天保時代(注:183145)の烈公(注:九代藩主斉昭。18001860)の廃仏の勢いは非常に強かった。烈公は藩内にある寺院の釣り鐘を鋳つぶして大砲を作り、
   今よりは心のどかに花を見む夕暮つぐる鐘のなければ
と詠んだほどだ。
 そういうわけで、仏教の特色でもある柔和忍辱【にゅうわにんにく】(注:恨まずおだやかに)の精神が藩のひとびとに浸透する機会がなく、やがて仁でなければ不仁だというような、両極端で狭量な儒教主義で党派争いをするようになり、ついにはあの恐怖時代につながっていくのである。
 長く朝鮮に滞在し朝鮮事情を研究された目賀田種太郎氏は、朝鮮李朝では、その政策で僧侶を寺院に閉じ込めて人民教化の任に当たらせないようにする一方で儒教主義だけを奨励したため、人の心が残忍性を帯びるようになり、党派の優位のためには人命さえ犠牲にするような風習が生まれてしまったそうで、それは、社会の潤滑油となるべき仏教の教えの影響が見られなかったからであると、談話で話されていたことがある。

 水戸でもまったく同様で、儒教が偏重されたためその弊害として人の心に寛大さが欠けるようになり、藤田東湖でさえもが「常陸之俗、慷慨勇於義、然固陋寡聞(注:水戸の人間は義のためだといってよく考えずに突っ走る)」と告白したように、頑固で片意地で喧嘩っ早い、いわゆる水戸坊【みとっぽう】の気風がはぐくまれていったのだ。
 明治維新の精神的な原動力として貢献した土地であるにもかかわらず、維新後の政治的な舞台で活躍することがなかったのは、この儒教中毒が原因であったのだろう。


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 三
閉門の家庭(上巻8頁)

 明治二年から三年にかけての水戸は恐怖の時代だった。藩政に秩序はなく、壮年の血気あふれる天狗党は、諸生党に対しすさまじい復讐行為におよんだ。

 私の父はもともとが竹を割ったような正直でさっぱりした性格だったので党派色はすくなかったが、諸生党の全盛期に矢倉奉行という水戸藩武器倉庫の主任を勤めたことがあるので、このころにはすでに閉門を申し渡された身の上で、いつ天狗党の襲撃を受けてもおかしくない状況に置かれていた。

 同僚の中には復讐を恐れて脱藩する者も次々にあらわれた。だが、脱藩すればその日から家名断絶となり家族は路頭に迷うほかはないよほど危険でない限りは運を天に任せて踏みとどまり家名を存続させようとしたのはもっともなことだった。

 とくにうちには六人の子供があったので、脱藩は死活問題だった。

 私の長兄はすでに十七歳になっていたから、さいみの羽織(注・2を参照のこと)の襲撃を受けたら父ともども惨殺されることは確実だったので、なにもせずにやりすごすよりはやはり脱藩して危険を避けるほうがよいのではないかと一時は途方に暮れた。母が柴山の不動尊と笠間の紋三郎稲荷に寒中水垢離の祈願をして一家の無難を祈るなか、父と兄は脱藩の準備を整え何晩かは草履をはいたまま寝たこともあった。


斬首の実見 (上巻9頁)

 しかしそうするうちに天誅事件も下火になり、おそろしい襲撃もなくなってきたので、ようやく我が家でも悪夢から目覚めることができた。でもあのころの針のむしろのような不安な日々のことは今でもはっきりと記憶している。

 明治二年、私が九歳のときのことだ。このころの藩政はまだ藩主が行っていたので、刑罰の執行は旧幕時代と同様で、泥棒の場合、盗んだ金が高額であれば斬首の刑となり、殺人の場合は当然のごとく死刑となっていた。

 当時の水戸藩の牢獄は下市赤沼というところにありときどき斬首刑が行われていた刑場になっている場所は空堀の上に板塀がめぐらされているだけの非常に無造作なものだったので、空堀をわたって板塀の節穴から覗けば中の様子を見ることができた。

 塀から刑場まではわずかに二、三間(注:いっけんは約180センチ)で、こわいもの見たさのためにこっそりやってきて、すぐ眼前で刑を執行を見たものだ。

 ある日、私の漢学の師で藩の裁判官を勤めていた横山高堅先生が門人に、明日は秦彌一という者の斬首があると告げた。この人物は友人と言い争いをしてその友人を殺してしまったもので、先生が死刑を宣告したのだという。そこで私はその当日に例により刑場に出かけて見物をした。

 地面の平らなところに深さ二尺(注:一尺は約30センチ)、直径三尺ほどの穴を掘り、そのへりに敷かれた荒菰の上に白布で目隠しをされて牢屋から連れてこられた囚人たちを座らせる。番太郎と呼ばれるひとりの××(注・原文伏字)が、囚人の首を穴のほうに突き出すと、執刀者が狙いをさだめて掛け声もろとも首を斬り落とす。首を斬ってわずかに喉の皮だけを残すのが熟練の技なのだそうだ。 
  ところでその秦彌一は、その日三番目に引き出されたが、落ち着いて名を名乗り声高らかに、

   啼かざれば とらはれまじを鶯の なく音あだなる春の初聲

と、辞世の詩を二度までくりかえし、すこしも悪びれた様子を見せなかったのはなかなか度胸のすわった男であったのだろう。

 それから次の囚人も、名前は知らないが荒菰に座るなり、

   春風に 高くあがりしあの鳶凧 どこの加減で切れたやら

と声高に都都逸を唄ったそのほかの者たちはただ黙々として斬られてしまった。

 このように私は何回も斬首刑を見たことがあるその様子はというと、首は斬られると前の穴に落ち、血が徳利を横にしたようにしばらく勢いよくこんこんと流れる。やがて出血が止まると首の切り口がむくむくと動いて、ものを包むかのように内側に収れんする。このとき番太郎が首と胴を運び去り、以後同様に次の人へと刑が執行されるのである。

 さてこの死者たちの衣服はもちろん番太郎が役の報酬として処分するので、やがて古着屋の店頭に売り出されることになる。だから当時古着を買っていた人々は、よくよくその出どころには注意をはらっていたらしい。

 以上が私が幼いころに実際に見たできごとである。今日の人には想像さえできないことだと思うので、猟奇的な一資料としてここに書き残しておくことにする。
     
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  二
戊辰の戦争(上巻5頁)

 明治元(1868)年、明治維新で江戸城が官軍の手にわたってから、それまで水戸城にこもっていた諸生党、つまり佐幕派の朝比奈彌太郎、市川三左衛門らは、もはや幕府からの支持がなくなったので水戸城から脱出し会津軍に身を投じた。しかしその会津もまもなく落城したので、窮鼠の一軍となって再び水戸城を奪還しようとして突然水戸に押し寄せてきた。
 まず大手門の弘道館を乗っ取ったものだから城兵はたいそう驚き、藩士を集めて応戦することになったが、清水六一というつわものが夜陰に乗じて城に攻め入って暴れまわり一時はほとんど落城しそうになった。そのときには私の父なども召集を受け、同じく登城しようとしていた私の姉婿の中西重蔵が中西の父とともに父を迎えにきたが、そのとき身につけていたものはといえば、たっつけ脚絆に草履履き、腰には大小二本の刀を差していた。重蔵の父が腕試しだと言って、さっと太刀を抜いて庭のしだれ梅の枝を五、六本切り払ったその勇ましさは、今なお私の幼時の記憶として鮮明に残っている。


さいみの羽織(上巻6頁)

 水戸は藩始まって以来、党派騒ぎで有名な土地柄であるが、明治維新の直前の、いわゆる天狗党と諸生党の摩擦はひどかった。諸生党が藩政を握れば天狗党を追いやり、天狗党が勢力を占めれば諸生党を虐待するという復讐的な行動が続き、いわば恐怖時代がやってきていた。
 
 であるから、明治元年に天狗党が諸生党の朝比奈、市川らを追い払ってからの、諸生党に対する残虐行為には目も当てられないものがあった。虐殺隊は、さいみの羽織というキツネ色の麻布で作ったユニホームを着て連れだって城下を歩き回り、今日はこの家を襲っただの、あいつに天誅を加えただのという話が伝わってくる。それは、諸生党の全権時代から城下に住んでいた藩士を戦慄におとしいれる悪魔の声であった。
 私も八歳から九歳にかけてこの恐怖時代を経験し、子供ごごろにも大きな恐怖を感じたものだ。私が住んでいた水戸下市三の町は、お城から見て一の町、二の町、三の町と士族屋敷が並ぶ地域であったので、天誅執行官のやり玉に挙げられる家が多かった。昨日は何々家の門前に生首がひとつ落ちていただの、今、何々家にさいみの羽織が踏み込んで家族を惨殺中であるだのという、まがまがしいニュースが次々に飛び込んでくるものだから、士族の家庭では生きた心地もしなかった。
 このころ、うちの筋向かいに、佐野甚次郎という五十歳くらいの藩士が住んでいた。この人物は、有名な「桜田義士」のひとり佐野竹之助の一族の者で、本人も自分を曲げない硬骨なところがあったものだから、きっと天狗党ににらまれたのだろう、ある朝病気で寝ていたところに天誅組数人に押し入られてしまった。彼らは甚次郎をふとんにくるんだまま、二、三町(注・一町は約109メートル)はなれた石垣というところに連れ去り、橋の上から吊るし斬りにしたという噂が伝わってきた。
 そんなことがあるので、私の家にも、あのさいみの羽織が舞い込んで来やしまいかとびくびくして大声で話すこともできず、泣く子も黙るとはこのことかと思われた。今思い返してみても、このようなことが日本で起きたとは信じられないという隔世の感がある。


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 一、
幼時の記憶(上巻3頁)

 幼いころの最初の記憶は、人により、また経験したことにより早かったり遅かったりするだろうが、だいたい数え年で四歳ころのもののようだ。私はあるとき山県有朋公とそんな話をしたことがあったが、公爵は四歳のとき、母に抱っこされて水車小屋のあるところに行き、水車の輪がくるくる回るのを見て、なんとおもしろいのだろうと思ったことを覚えていると話しておられた。私も公爵と同じく、四歳のときに水戸で起こった戦争のことを記憶している。

 この戦争は、元治元(1864)年に、水戸藩主の中納言慶篤【よしあつ】の目付であった松平大炊頭頼徳【おおいのかみよりのり】が、当時水戸の政権を実質握っていた朝比奈彌太郎、市川三左衛門など、いわゆる諸生党【佐幕派】を、水戸城から追い出そうとしたところ、朝比奈たちは、たとえ藩主の命令であっても、その背後に武田耕雲斎、田丸稲之衛門、藤田小四郎など天狗党【尊王攘夷派】が控えている以上は、ぜったいに応じるわけにはいかないとして両軍が軍事対決するにいたり、頼徳軍は八月下旬に那珂湊方面から城下にせまり、水戸下市のいくつかの地点で諸生党の城兵と交戦することになってしまった。

 その戦場が、私の生家のあった下市三ノ町のそばだったので、銃の弾が、うちの屋敷内の竹やぶに飛んできて、かちりかちりと音を立て、居ても立ってもいられない。そのとき父は水戸城にでも出かけていたか、とにかく留守だったので、私は母に背負われ、ほかの兄弟と一緒に上市の親戚の家に避難した。
 その途中、昔の軍記物の絵巻から抜け出したような甲冑を着た武士が、槍をたずさえ走っていくのを見かけたが、これが日本で実戦において甲冑を着た最後ではなかろうか。そのとき、そのうちの一人が、右手に持った槍を杖のようについて、大息をはきながら道端で仁王立ちしていた姿が、いまでもありありと目の中に残っている。


腕白小僧(上巻4頁)

 元治元年に水戸城下で起こった戦争中に私が母に連れられて避難したのは、上市の長尾家だった。本来なら母の実家である野々山家に行くところであろうが、野々山家主人である母の兄と、私の父の党派が違ったのだ。
 事件が決着を見るまでの二か月ほどを、縁故の薄い長尾家に頼らなければならなかった母の心労は、どんなに大きかったことだろう。夫妻や家族の機嫌をそこなわないように小さくなっているときに、こんなことがあった。
 長尾家の主人は背中におできが出来ていて戦争にも行けず、秘蔵の盆栽の、きんかんの実が色づくのを眺めていた。まだ四歳の腕白ざかりだった私は、おじさんを驚かそうとしたのか、背後からおできの上をぴしゃりとたたいたので、そうでなくても痛いのをこらえていたご主人は、アッと飛び上がって悲鳴を上げた。その声をききつけて母は平謝りしなければならず、どんなに肩身の狭かったことだろう。そのうえ私が、ご主人秘蔵のきんかんの実を、いつのまにか取って逃げてしまったものだから、母の忍耐もこれまでで、私は罰のためにお灸をすえられてようやくお詫びがすんだことを、子どもごころにもありありと記憶している。
 このときの戦争のことを水戸では「子年のお騒ぎ」と称し、多くのおそろしいエピソードが残っている。

                   
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