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注文してあった「外骨戦中日記」(吉野孝雄編著・河出書房新社―2016)が船便で届いたので、買ったままになっていた「震災画報」、「アメリカ様」(ともに、ちくま学芸文庫)とあわせて一読

幕末の慶応3(1897)年から昭和30(1955)年までの88年の長い人生のほとんどが活動期だったといってもよい宮武外骨であるが、昭和17年から21年(外骨・75歳から79歳)は、ほとんど雑誌刊行や寄稿がなく、外骨研究第一人者の吉野孝雄氏にとっても、この時期のことは未知に近い領域であったという。
しかし吉野氏はついに、1970年代にいったん見つけていながら内容を吟味するのを後回しにしてきた、昭和19年9月から21年2月始めまでの外骨自筆日記に、探索のメスをいれることに決心した。そしてできあがったのが本書である。

ただ日記といっても、それは大学ノートに鉛筆で書かれた覚え書きに近いものであり、文字は判読できても、内容はいささか無味乾燥。解読するには、吉野氏の助けが必要になる。
本書では、きりのいい何日かごとに区切られ吉野氏の解説が続くのが、とてもありがたい。

たとえば、日記はこのような感じ。昭和20年のある五日間を抜き出してみる。

二月十七日 土 午後空襲来、午後一時半出ー和田
        和田へ能子と共に来る
  十八日 日 配給来
  十九日 月 能子と芹取り
        黒田方にて鯉三、卵五、十二円五十銭
  二十日 火 松フグリ
  二十一日 水 午後、醤油味噌の配給所へ行く、警報
       飯島氏方にて甘酒、呑帰

このような淡々とした、外出や来客、買い出しなどの日々の動静、食料の価格等の記録のあとに吉野氏の解説が続く。
たとえば、「能子」が最初に登場したときの説明は、

「この当時、外骨は妻の能子と二人で東京市杉並区高円寺町三丁目百九十四番地に居住していた。最初の妻だった八節(やよ)とのあいだにできた天民(てんみん)という男子が夭切、その後親友の娘を養女として育て上げるが大正十三年にその娘も病気で失い、三人の妻とも死別した末の四人目の妻が能子だった。
 能子は明治初期に銀座で奎章閣(けいしょうかく)という書肆を経営した山城屋稲田政吉の長女にあたる。奎章閣は成島柳北の「柳橋新誌」や服部誠一の「東京新繁盛記」などのベストセラーの版元で、政吉は能子の生まれた頃は衆議院議員や東京市議会議員もつとめた名士だったが、やがて政吉の政治的失脚やそれにともなう家庭の事情、また明治三十九年丙午の生まれということもあって婚期の遅れた能子は、昭和十五年に三十五歳で外骨と結婚。この年七十七歳の外骨とは三十八歳違いの三十九歳の若い妻だった。結婚当時は歳の差結婚が評判となり新聞記事にもなるほどだった。」

となっていて、つまらないメモ日記を読み続ける苦痛がないばかりでなく、日記の中の外骨周辺の人物模様が立体的に見えてくるのである。
吉野氏の別の著作の中でも人物説明はきっと同じようになされていたと思うものの、この本を読んでいる間に調べる手間もなく、非常にありがたかった

同じく、この日記にも登場し、当時広告代理店博報堂の二代目社長だった瀬木博信については、その父博尚と外骨の関係、博報堂の創業に外骨がどのようにかかわったか、また、外骨のはじめた「明治新聞雑誌文庫」に瀬木博尚がバックアップを惜しまなかった理由や、なぜ外骨が博尚の息子である瀬木兄弟から生活費の援助を受けるに至ったのかについて、外骨の半狂堂時代から「文庫」にいたるまでの助手をつとめた西田長壽(たけとし)氏の談話や著者自身の憶測もまじえて記されており、その部分だけでも非常に興味深い読み物になっている

この日記が書かれたのは、外骨が「文庫」の管理にあたっていた時期であり、絵葉書の整理、ピンナップが着々と進行していたこともわかる。
いうまでもなく、「絵葉書類別大集成」のアルバム編集である。
完成して現在東大に収蔵されているのは230冊あまりということであり、昭和18年3月発行の「公私月報」(明治新聞雑誌文庫の月刊機関紙)のなかで、「すでに二百余帖ほど完成している」とあるので、日記の時期には、作業はほぼ終盤の段階だったのだろう。
日記でも、19年11月ごろに作業が集中しておこなわれている様子がうかがわれる。

ちょっと脇道にそれるが、この絵葉書コレクションのことを初めて知ったのは、赤瀬川原平の「外骨という人がいた!」のなかの明治新聞雑誌文庫探訪記事の部分でだった。このときの赤瀬川氏の驚きは、万人に共通の驚きであるだろう。「外骨という人がいた!」の文庫本p119からの数ページをもう一度読み返してほしい。また、下の写真を参考までに載せておく。
外骨絵葉書
「これは凄い東京大学コレクション」(新潮社・とんぼの本・1998)から

なお、この集大成の全冊収録タイトルを、ウェブページで見ることができる。
http://www.meiji.j.u-tokyo.ac.jp/application/digital_contents/ehagaki_syusei.pdf



東京への爆撃が激しくなり、外骨夫妻は南多摩に疎開する。(19年12月4日)
「文庫」への通勤が難しくなり、絵葉書作業が減るかわりに、近くの多摩川支流での大すきな魚釣りの記述が始まり、はやくも12月20日には「中河原―一魚」とある。なお、文庫資料の一部も11月ごろに福島へ疎開させている。
自宅はその後、20年5月24日の空襲で全焼してしまう。6月7月8月は、その憂さを払うかのように魚釣りに頻繁に出かけている。もちろん釣れた魚は胃袋の足しにもしていたのであるが。

8月15日の記録は「水(曜日) ツリ」の三文字のみ。

9月下旬には、戦争は終わっても都心に帰る家もなく、「文庫」の一室に能子と移り住み、最晩年に6年住むことになる駒込の自宅の完成までの4年間を、その一室で過ごした。ついでながら、駒込の家を外骨夫妻のために建てたのは瀬木兄弟である。

終戦後の日記には、闇市への買い出しをはじめ、あいかわらず食糧の確保の記述がよく見られる。
日記は昭和21年2月13日「水(曜日) 神田瀬木氏へ行く」で終わる。

日記記述が終わったあとの実生活では、日記に入れ替わるように、昭和21年5月に「アメリカ様」を、12月には「大逆事件顛末」を出版し、言論自由の戦後世間に名乗りをあげている。
なおその両方がアメリカの検閲に引っかかっていることを、本書では詳しく紹介している。
「お上」が誰であろうと、ぜったいに迎合したり変節したりしない外骨の真骨頂を語るエピソードであるともいえようか。

外骨の徳富蘇峰ぎらいは知られているが、時の権力への迎合を何よりも嫌う外骨が、福地桜痴にたいしても同様の嫌悪感もしくは侮蔑感を持っていたかもしれないことを本書で知り、そのことを記しておきたい。

戦前昭和15年3月10日発売の「サンデー毎日」で、「東京日日新聞」主筆の阿部眞之介、「サンデー毎日」学芸部長の久米正雄の司会で、ほかに外骨を含め五人の発言者がいる座談会席上のことだ。
阿部が、福地桜痴が伊藤博文に対して、(東京日日を)政府の機関新聞(御用新聞)にしてくれと頼んだ手紙が、いまでも伊藤公爵家に残っているのを見たことがある、と外骨に水を向けたところ、外骨は次のように応じている。

「その結果官権新聞になったのですが、福地はそれで評判を悪くした。福沢諭吉などから、じつに惜しいことだ、君はそういうことをせぬほうが宜しいという忠告をされたにもかかわらずやった。それで私は政府からお金を貰ったために一生を棒に振った、まことに貴方がおっしゃったことは適切な言であったということを、福沢諭吉の追悼号に、福地自らが書いて公開しておりますよ。」

吉野氏の見立てによれば、戦後気骨ある政治評論家となって活躍する阿部眞之介が、戦前のあやしいムードの中でこの座談会を企画し、立場上自由に発言できない自分のかわりとして外骨からこのような発言を引き出し、権力に迎合する発言をする久米正雄(久米久雄は、この年の10月に文学者の大政翼賛組織である「日本文芸中央会」の事務局長になる)など参加した他の発言者を牽制することで、暗に社会批判をしたのだ、ということだが、そのとおりであろう。ちなみに、福地桜痴は「東京日日新聞」の初代主筆兼社長であり、その東京日日新聞社と大阪毎日新聞社は、明治末に新聞名はそれぞれ残したまま合併するが、「サンデー毎日」は大正11年にそこから創刊された週刊誌である。そのことを十分承知で、阿部の期待どおりの発言をした外骨は、いつもどおりの外骨だっただけかもしれないが、やはり勇気のいることであったにちがいない。あっぱれだ。
だが、じっさい福地のことも嫌いだったに違いない。
権力者への摺り寄りは、外骨のもっとも唾棄すべき生きざまだったのだ。

実をいえば、本書「外骨戦中日記」では、このエピソードがほぼ冒頭に置かれており、外骨の戦争中の公での場での不発言について、無言もまた抵抗の手段であったにちがいないという見方を提示している。
戦争が終わってすぐに公での言論活動を再開していることからも、この仮説にはうなずけるところがある。
しかしながら、戦中戦後と、瀬木家からの生活費の全面的な支援があり、危険をおかしてまで筆で立つ必要もなければ、変節して命をつなぐ必要もなかった、ということは外骨にとっては大きなアドバンテージであったのは確かで、沈黙することにより、自分の信念を曲げずに済んだという意味においても、外骨はまことに幸運であったといえよう。


続いて読んだ「震災画報」と「アメリカ様」は、この日記を読んだ直後だったおかげで、より味わいぶかいものになった。
もっとも心に残る一節を、ふたつずつ抜き出して、外骨をたたえたい。


≪(震災について)虚実家渋沢栄一が天譴説を唱えたのに対し、文士菊池寛が「天譴ならば栄一その人が生存するはずがない」と喝破したのは近来の痛快事であった。≫
(震災画報・第三冊より)

≪前回の誌上にも記した「尋ね人」の貼紙や、新聞紙の広告に出た文句は、いずれも同情すべき事であったが、我輩が最も強く感じたのは、十数日尋ねあぐんだ末とみえる「寺尾新 父と姉子供は一同無事。中山にいるから、生きているなら早く来い。石田欣一」とあった広告。この「生きているなら」の一語には、無限の情緒も含まれ、感情にもろい著者、よそ事ながら涙が出た。
(「震災画報・第二冊」より。なお、この寺尾新氏の無事が、あとから出た第四冊で報告された。読者も一緒に涙し、喜んだにちがいない。)

≪軍閥が悪いと云うても、その軍閥を跋扈せしめたのは国民である。それで、絵葉書類別集成の中に「亡国の基」と題する一帖を製作してある。国民が軍人を崇拝して薩摩の吉之助を大西郷と呼んだり、東郷平八郎を軍神と称したり、さては衒死を遂げた乃木希典などを祭った乃木神社を建てたりしたのがイケナイ。(中略)それで、この帖には、以上の絵葉書を集め、なお南洲神社、東郷神社、二百三高地と称した美人の束髪、シンガポール陥落記念記念ハガキなども入れてある。≫
(「アメリカ様」亡国の基と題する絵葉書帖より)

≪日報社長、「東京日日新聞」主筆として有名であった桜痴居士福地源一郎は、明治十四年三月の同紙上に、軍人政治の弊害を説き、我国の歴史を見ても明らかである、源頼義以来、軍人が政治に関与した時には、国家の不利、人民の不幸が甚だしかったとの事例を挙げ、当時日清のある交渉事件につき、軍人が容喙(注・口出しのこと)したのを咎め、軍人政治は野蛮の遺習であると叫んだ。(中略)日米戦争はいかがであろう。これも軍人たる東条英機が総理大臣になって、途方もない始末をでかし、国家の不利、人民の不幸これより甚だしいのはない我国開闢以来未曾有の国難であった。軍人政治の弊害を説いた福地桜痴も、かほどまでの重大事態になるとは予想もしなかったらしい。この畏るべき軍人政治は、先日アメリカ様の命令で根絶するに到った。≫

アメリカ様の命令に従ったおかげで、70年後の日本は、憲法改正問題、米軍基地問題、原発問題など、多くの「アメリカ様」がらみの問題を抱え込んだまま解決できないでいる。
「アメリカ様」という下卑たような下から目線で新しい統治者を呼ぶことで、おいおい今度はこっちについていくつもりかい? と70年前に日本国民に問いかけた外骨は、泉下でどのように感じていることだろう。
どうか地球のしあわせな未来を、応援してほしい。