NHKの朝ドラで「花子とアン」をやっていたころ、柳原白蓮をめぐる実在の人物について、いろんな発見をしては、友人と盛り上がっていた。
なかでも対話を賑わせてくれたのは、白蓮の腹違いの兄、柳原義光で、わたしたちのあいだでは親しみをこめて「よしみっちゃん」と呼んでいた。ここで、よしみっちゃんのことに触れている余裕がないのが残念だが、先へ進む。
「よしみっちゃん」と、その異母妹である柳原白蓮の、ふたりの父にあたる、柳原前光も、話題豊富な人物だ。(名前は、まえみつ、ではなく、さきみつ、と読む。「さきみっちゃん」と呼ばせてもらっていた)
さきみっちゃんは、実妹が大正天皇の母になった柳原愛子(なるこ)であるとか、孫が昭和天皇付きの入江侍従長だとか、もちろん、あの有名な柳原白蓮の実の父だというのだけでもすごいのだが、ご本人もいろんな武勇伝を残し、歴史に名を刻んでいる。
柳原家のひとびとは、ほんとおもしろいのである。
柳原白蓮関連の人物探索は続いた。
筑紫の炭鉱王・伊藤伝右衛門へ。
「白蓮事件」で駆け落ちして添い遂げた宮崎龍介へ。
白蓮と似たような境遇の歌仲間で同じ薄幸の美人・九条武子へ。
村岡花子から長谷川時雨へと。
へ~そうだったの~!の話題は汲めども尽きず、柳原白蓮関連では、かなり長いこと、好奇心のおもむくままに遊んだ。
さて話を柳原家に戻す。
白蓮の母は、さきみっちゃんの妾である。
その女性は、明治にはいり花柳界に身を沈めていたが、実はもともと幕臣であった武士の娘だったのである。
幕臣といってもいろいろだろうが、白蓮の母の父は新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)といって、幕末の要職にあった人物なのだ。
1858年に締結された日米修好通商条約の批准書を交換するために、1860年に幕府がアメリカに送り出した万延元年遣米使節という77人の使節団があるが、この団長(正使)に任命されたのが新見豊前守なのだから、相当な地位にあった人物だったのである。
ところが、本人は外国奉行にまで昇進したものの、明治維新ののち新見家は没落し、娘三人のうち、ふたりまで、柳橋の芸者となってしまうのだ。
もともと、幕末の海外留学生や、遣外使節について強い関心を持っているので、関係書をいくらかは読んだことがあるが、メインの興味はヨーロッパだったので、この遣米使節にフォーカスするのは、このときがほとんど初めてだった。それが、ものすごくおもしろいのだ!
考えてみれば、この1860年の万延遣米使節は、外国に派遣された幕府使節の嚆矢なのだから、人選にも力がはいっていたに違いない。
その正使の娘が芸者に~~!?
そんで、孫が柳原白蓮だったんなんて~!! 知らなかったよ~!!
じゃありませんか?
妾腹だったということが強調されがちな白蓮であるが、違う光を当ててみれば、バリバリの幕府高官の、孫なのだ。もっと知られていても、いいんじゃない?
そんなこともあり、この万延遣米使節団に、がぜん興味が湧いた。
調べると、この使節団には、知れば知るほどおもしろい話題が満載だった。
3つほど挙げてみよう。
①まず、咸臨丸のこと。
あの有名な咸臨丸は、新見ら、幕府の正使が乗船したアメリカの軍艦ポーハタン号に「護衛」の名目で「随行」した船であったということ。
咸臨丸の、日本人乗員による初の太平洋航海が昔から話題にのぼることが多く、なんのための航海だったのか知らない人もいるのではないかと思うが、咸臨丸は、遣米使節にくっついていった随行船だったのだ。
この船には、軍艦奉行の木村喜毅(のちの芥舟)をはじめとして、勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎、小野友五郎ら、その後にビッグネームになった興味の尽きない面々が乗り合わせている。そのことも、このときの咸臨丸の航海が、ポーハタン号のそれよりも脚光を浴びることの多い一因だろう。
しかし、咸臨丸の航海において実際の操縦を行ったのは、アメリカ人乗員であったことが、近年明らかになっている。
また、護衛船という名目であったが、ポーハタン号と舳を並べて航海したわけではなく、ほとんど別行動であった。出発日や出帆した港も別だ。
咸臨丸の乗船員は、上記のポーハタン号乗船の77名の正使節団には含まれておらず、正使節団がその後ワシントン訪問後、アフリカまわりで帰国するのに対し、咸臨丸乗船員は、正使節団のサンフランシスコ到着を見届けたのち、壊れた船の修繕をしてからUターン航海で帰国している。帰路の航海では、日本人船員ががんばったらしい。
②次に、この正使節団に、ナンバー3の役どころである「監察」という立場で参加し、影の功労者だと言われたのが、幕末の幕臣きっての俊才、小栗忠順だったということも忘れてはならない。
慶応4年の江戸城開城の際、徳川慶喜に、泣いて徹底抗戦を主張して入れられなかった小栗忠順は、その7、8年前の、このときの訪米の経験があってのち、幕末の開明派としての道をばく進した。
たとえば、横須賀製鉄所(造船所)の建設だ。
またフランス人軍人を招聘して幕府陸軍を発足させたのも彼である。(ちなみに、わたしの注目する益田孝は、この陸軍の、騎兵隊隊長並だった。この若き日の孝も、官軍との徹底抗戦を主張していたというから、徳川慶喜、小栗忠順、益田孝が、同じ部屋に居合わせた可能性があるのではないかという考えを、わたしは捨てきれない。後年に茶人・鈍翁となった益田孝が、幕末のことや幕臣時代のことについて、くわしく語っていないことが、とても残念に思われる。)
小栗には、わたしが幕臣のなかでも、その心意気に特に感ずるところのある栗本鋤雲と、ユニットになって活躍していたという印象があり、幕府施策の近代化に貢献したこのふたりのことは以前から気になっている。勝手に「くりくりコンビ」と名付けているが、もっともっと研究顕彰されてよいはずのふたりではないだろうか。
この両人には、早い時期に外国人との接点があったことに注目しなければならない。
③そして、この遣米使節団のなかで、アメリカでの人気者になった、トミー少年、こと、通訳見習いの立石斧次郎のことにも触れておきたい。
アメリカ婦人のアイドル的存在となり「トミー・ポルカ」という歌までできたというほどの人気ぶりだったこの人物、のちに一時期東京で、益田孝の英語の先生にもなる人で、わたしにとっては、マークしておくべき要注意人物なのだ。
この使節団については、宮永孝「万延元年の遣米使節団」(講談社学術文庫)に詳述されているほか、「万延元年遣米使節子孫の会」という親睦団体のウェブサイトがとても充実していておもしろい。http://1860-kenbei-shisetsu.org/history_credit.html
さて、このようにして使節団に深入りしているときに知ったのが、ドナルド・キーン氏が日本人の古今の日記について解説した「百代の過客」という書物だった。ここには、使節団副使だった村垣淡路守の「遣米使日記」と、咸臨丸司令官・木村摂津守の「奉使米利堅紀行」が取り上げられているということだった。
「百代の過客」は、講談社学術文庫で、正・続の分厚い2冊組で出ている。
文庫本なのに、新刊で買うと、あろうことか4千円くらいする。
が、ドナルド・キーンさんの仕事に敬意を表し、いつかこの大著を読むことに期待して、同氏の「明治天皇」(新潮文庫全4冊)とともに買ってあり、すでにうちの本棚に収まっていた!
「花子とアン」見て、「百代の過客」読む。
風が吹けば桶屋が儲かるような話だが、これが、分厚さにおそれをなして積読状態だった「百代の過客」を読むに至った理由なのである。
なかでも対話を賑わせてくれたのは、白蓮の腹違いの兄、柳原義光で、わたしたちのあいだでは親しみをこめて「よしみっちゃん」と呼んでいた。ここで、よしみっちゃんのことに触れている余裕がないのが残念だが、先へ進む。
「よしみっちゃん」と、その異母妹である柳原白蓮の、ふたりの父にあたる、柳原前光も、話題豊富な人物だ。(名前は、まえみつ、ではなく、さきみつ、と読む。「さきみっちゃん」と呼ばせてもらっていた)
さきみっちゃんは、実妹が大正天皇の母になった柳原愛子(なるこ)であるとか、孫が昭和天皇付きの入江侍従長だとか、もちろん、あの有名な柳原白蓮の実の父だというのだけでもすごいのだが、ご本人もいろんな武勇伝を残し、歴史に名を刻んでいる。
柳原家のひとびとは、ほんとおもしろいのである。
柳原白蓮関連の人物探索は続いた。
筑紫の炭鉱王・伊藤伝右衛門へ。
「白蓮事件」で駆け落ちして添い遂げた宮崎龍介へ。
白蓮と似たような境遇の歌仲間で同じ薄幸の美人・九条武子へ。
村岡花子から長谷川時雨へと。
へ~そうだったの~!の話題は汲めども尽きず、柳原白蓮関連では、かなり長いこと、好奇心のおもむくままに遊んだ。
さて話を柳原家に戻す。
白蓮の母は、さきみっちゃんの妾である。
その女性は、明治にはいり花柳界に身を沈めていたが、実はもともと幕臣であった武士の娘だったのである。
幕臣といってもいろいろだろうが、白蓮の母の父は新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)といって、幕末の要職にあった人物なのだ。
1858年に締結された日米修好通商条約の批准書を交換するために、1860年に幕府がアメリカに送り出した万延元年遣米使節という77人の使節団があるが、この団長(正使)に任命されたのが新見豊前守なのだから、相当な地位にあった人物だったのである。
ところが、本人は外国奉行にまで昇進したものの、明治維新ののち新見家は没落し、娘三人のうち、ふたりまで、柳橋の芸者となってしまうのだ。
もともと、幕末の海外留学生や、遣外使節について強い関心を持っているので、関係書をいくらかは読んだことがあるが、メインの興味はヨーロッパだったので、この遣米使節にフォーカスするのは、このときがほとんど初めてだった。それが、ものすごくおもしろいのだ!
考えてみれば、この1860年の万延遣米使節は、外国に派遣された幕府使節の嚆矢なのだから、人選にも力がはいっていたに違いない。
その正使の娘が芸者に~~!?
そんで、孫が柳原白蓮だったんなんて~!! 知らなかったよ~!!
じゃありませんか?
妾腹だったということが強調されがちな白蓮であるが、違う光を当ててみれば、バリバリの幕府高官の、孫なのだ。もっと知られていても、いいんじゃない?
そんなこともあり、この万延遣米使節団に、がぜん興味が湧いた。
調べると、この使節団には、知れば知るほどおもしろい話題が満載だった。
3つほど挙げてみよう。
①まず、咸臨丸のこと。
あの有名な咸臨丸は、新見ら、幕府の正使が乗船したアメリカの軍艦ポーハタン号に「護衛」の名目で「随行」した船であったということ。
咸臨丸の、日本人乗員による初の太平洋航海が昔から話題にのぼることが多く、なんのための航海だったのか知らない人もいるのではないかと思うが、咸臨丸は、遣米使節にくっついていった随行船だったのだ。
この船には、軍艦奉行の木村喜毅(のちの芥舟)をはじめとして、勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎、小野友五郎ら、その後にビッグネームになった興味の尽きない面々が乗り合わせている。そのことも、このときの咸臨丸の航海が、ポーハタン号のそれよりも脚光を浴びることの多い一因だろう。
しかし、咸臨丸の航海において実際の操縦を行ったのは、アメリカ人乗員であったことが、近年明らかになっている。
また、護衛船という名目であったが、ポーハタン号と舳を並べて航海したわけではなく、ほとんど別行動であった。出発日や出帆した港も別だ。
咸臨丸の乗船員は、上記のポーハタン号乗船の77名の正使節団には含まれておらず、正使節団がその後ワシントン訪問後、アフリカまわりで帰国するのに対し、咸臨丸乗船員は、正使節団のサンフランシスコ到着を見届けたのち、壊れた船の修繕をしてからUターン航海で帰国している。帰路の航海では、日本人船員ががんばったらしい。
②次に、この正使節団に、ナンバー3の役どころである「監察」という立場で参加し、影の功労者だと言われたのが、幕末の幕臣きっての俊才、小栗忠順だったということも忘れてはならない。
慶応4年の江戸城開城の際、徳川慶喜に、泣いて徹底抗戦を主張して入れられなかった小栗忠順は、その7、8年前の、このときの訪米の経験があってのち、幕末の開明派としての道をばく進した。
たとえば、横須賀製鉄所(造船所)の建設だ。
またフランス人軍人を招聘して幕府陸軍を発足させたのも彼である。(ちなみに、わたしの注目する益田孝は、この陸軍の、騎兵隊隊長並だった。この若き日の孝も、官軍との徹底抗戦を主張していたというから、徳川慶喜、小栗忠順、益田孝が、同じ部屋に居合わせた可能性があるのではないかという考えを、わたしは捨てきれない。後年に茶人・鈍翁となった益田孝が、幕末のことや幕臣時代のことについて、くわしく語っていないことが、とても残念に思われる。)
小栗には、わたしが幕臣のなかでも、その心意気に特に感ずるところのある栗本鋤雲と、ユニットになって活躍していたという印象があり、幕府施策の近代化に貢献したこのふたりのことは以前から気になっている。勝手に「くりくりコンビ」と名付けているが、もっともっと研究顕彰されてよいはずのふたりではないだろうか。
この両人には、早い時期に外国人との接点があったことに注目しなければならない。
③そして、この遣米使節団のなかで、アメリカでの人気者になった、トミー少年、こと、通訳見習いの立石斧次郎のことにも触れておきたい。
アメリカ婦人のアイドル的存在となり「トミー・ポルカ」という歌までできたというほどの人気ぶりだったこの人物、のちに一時期東京で、益田孝の英語の先生にもなる人で、わたしにとっては、マークしておくべき要注意人物なのだ。
この使節団については、宮永孝「万延元年の遣米使節団」(講談社学術文庫)に詳述されているほか、「万延元年遣米使節子孫の会」という親睦団体のウェブサイトがとても充実していておもしろい。http://1860-kenbei-shisetsu.org/history_credit.html
さて、このようにして使節団に深入りしているときに知ったのが、ドナルド・キーン氏が日本人の古今の日記について解説した「百代の過客」という書物だった。ここには、使節団副使だった村垣淡路守の「遣米使日記」と、咸臨丸司令官・木村摂津守の「奉使米利堅紀行」が取り上げられているということだった。
「百代の過客」は、講談社学術文庫で、正・続の分厚い2冊組で出ている。
文庫本なのに、新刊で買うと、あろうことか4千円くらいする。
が、ドナルド・キーンさんの仕事に敬意を表し、いつかこの大著を読むことに期待して、同氏の「明治天皇」(新潮文庫全4冊)とともに買ってあり、すでにうちの本棚に収まっていた!
「花子とアン」見て、「百代の過客」読む。
上記の、江戸時代の二氏の日記の部分は、《続》巻の冒頭にあるので、私はそこから読み始めたが、キーン氏の解説による日本人の日記の数々は、予想を超えておもしろく、金関寿夫氏翻訳の、抑制のきいた美しい日本語にもすっかり魅せられ、結局《正》巻の最初からの合計1350ページ全部を読み通すことになった。
この2冊、ひとことでは書き尽くせないほどすばらしい内容の連続である。中には有名な日記もあるけれど、知らなかったものも多い。そのどれもが、キーン氏の解説で、一般の日本人の前によみがえった、としかいいようがない。
「日本人なら」、という表現を使いたくないが、この書物を読んで日本人であることをしみじみ嬉しく思う人は少なくないのではないかと思う。
キーンさん、ほんと、グッジョブ!
多くの人に、ちょっとでもいいから手に取ってもらいたい。どの部分でも一度読み始めたら、止まらなくなることは確実だ。
