だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

2016年05月

NHKの朝ドラで「花子とアン」をやっていたころ、柳原白蓮をめぐる実在の人物について、いろんな発見をしては、友人と盛り上がっていた。
なかでも対話を賑わせてくれたのは、白蓮の腹違いの兄、柳原義光で、わたしたちのあいだでは親しみをこめて「よしみっちゃん」と呼んでいた。ここで、よしみっちゃんのことに触れている余裕がないのが残念だが、先へ進む。

「よしみっちゃん」と、その異母妹である柳原白蓮の、ふたりの父にあたる、柳原前光も、話題豊富な人物だ。(名前は、まえみつ、ではなく、さきみつ、と読む。「さきみっちゃん」と呼ばせてもらっていた)

さきみっちゃんは、実妹が大正天皇の母になった柳原愛子(なるこ)であるとか、孫が昭和天皇付きの入江侍従長だとか、もちろん、あの有名な柳原白蓮の実の父だというのだけでもすごいのだが、ご本人もいろんな武勇伝を残し、歴史に名を刻んでいる。
柳原家のひとびとは、ほんとおもしろいのである。

柳原白蓮関連の人物探索は続いた。

筑紫の炭鉱王・伊藤伝右衛門へ。
「白蓮事件」で駆け落ちして添い遂げた宮崎龍介へ。
白蓮と似たような境遇の歌仲間で同じ薄幸の美人・九条武子へ。
村岡花子から長谷川時雨へと。
へ~そうだったの~!の話題は汲めども尽きず、柳原白蓮関連では、かなり長いこと、好奇心のおもむくままに遊んだ。

さて話を柳原家に戻す。

白蓮の母は、さきみっちゃんの妾である。
その女性は、明治にはいり花柳界に身を沈めていたが、実はもともと幕臣であった武士の娘だったのである。
幕臣といってもいろいろだろうが、白蓮の母の父は新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)といって、幕末の要職にあった人物なのだ。

1858年に締結された日米修好通商条約の批准書を交換するために、1860年に幕府がアメリカに送り出した万延元年遣米使節という77人の使節団があるが、この団長(正使)に任命されたのが新見豊前守なのだから、相当な地位にあった人物だったのである。
ところが、本人は外国奉行にまで昇進したものの、明治維新ののち新見家は没落し、娘三人のうち、ふたりまで、柳橋の芸者となってしまうのだ。

もともと、幕末の海外留学生や、遣外使節について強い関心を持っているので、関係書をいくらかは読んだことがあるが、メインの興味はヨーロッパだったので、この遣米使節にフォーカスするのは、このときがほとんど初めてだった。それが、ものすごくおもしろいのだ!

考えてみれば、この1860年の万延遣米使節は、外国に派遣された幕府使節の嚆矢なのだから、人選にも力がはいっていたに違いない。

その正使の娘が芸者に~~!? 
そんで、孫が柳原白蓮だったんなんて~!! 知らなかったよ~!!
じゃありませんか?

妾腹だったということが強調されがちな白蓮であるが、違う光を当ててみれば、バリバリの幕府高官の、孫なのだ。もっと知られていても、いいんじゃない?

そんなこともあり、この万延遣米使節団に、がぜん興味が湧いた。
調べると、この使節団には、知れば知るほどおもしろい話題が満載だった。
3つほど挙げてみよう。

①まず、咸臨丸のこと。
あの有名な咸臨丸は、新見ら、幕府の正使が乗船したアメリカの軍艦ポーハタン号に「護衛」の名目で「随行」した船であったということ。
咸臨丸の、日本人乗員による初の太平洋航海が昔から話題にのぼることが多く、なんのための航海だったのか知らない人もいるのではないかと思うが、咸臨丸は、遣米使節にくっついていった随行船だったのだ。

この船には、軍艦奉行の木村喜毅(のちの芥舟)をはじめとして、勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎、小野友五郎ら、その後にビッグネームになった興味の尽きない面々が乗り合わせている。そのことも、このときの咸臨丸の航海が、ポーハタン号のそれよりも脚光を浴びることの多い一因だろう。

しかし、咸臨丸の航海において実際の操縦を行ったのは、アメリカ人乗員であったことが、近年明らかになっている。

また、護衛船という名目であったが、ポーハタン号と舳を並べて航海したわけではなく、ほとんど別行動であった。出発日や出帆した港も別だ。

咸臨丸の乗船員は、上記のポーハタン号乗船の77名の正使節団には含まれておらず、正使節団がその後ワシントン訪問後、アフリカまわりで帰国するのに対し、咸臨丸乗船員は、正使節団のサンフランシスコ到着を見届けたのち、壊れた船の修繕をしてからUターン航海で帰国している。帰路の航海では、日本人船員ががんばったらしい。

②次に、この正使節団に、ナンバー3の役どころである「監察」という立場で参加し、影の功労者だと言われたのが、幕末の幕臣きっての俊才、小栗忠順だったということも忘れてはならない。

慶応4年の江戸城開城の際、徳川慶喜に、泣いて徹底抗戦を主張して入れられなかった小栗忠順は、その7、8年前の、このときの訪米の経験があってのち、幕末の開明派としての道をばく進した。
たとえば、横須賀製鉄所(造船所)の建設だ。

またフランス人軍人を招聘して幕府陸軍を発足させたのも彼である。(ちなみに、わたしの注目する益田孝は、この陸軍の、騎兵隊隊長並だった。この若き日の孝も、官軍との徹底抗戦を主張していたというから、徳川慶喜、小栗忠順、益田孝が、同じ部屋に居合わせた可能性があるのではないかという考えを、わたしは捨てきれない。後年に茶人・鈍翁となった益田孝が、幕末のことや幕臣時代のことについて、くわしく語っていないことが、とても残念に思われる。)

小栗には、わたしが幕臣のなかでも、その心意気に特に感ずるところのある栗本鋤雲と、ユニットになって活躍していたという印象があり、幕府施策の近代化に貢献したこのふたりのことは以前から気になっている。勝手に「くりくりコンビ」と名付けているが、もっともっと研究顕彰されてよいはずのふたりではないだろうか。
この両人には、早い時期に外国人との接点があったことに注目しなければならない。

③そして、この遣米使節団のなかで、アメリカでの人気者になった、トミー少年、こと、通訳見習いの立石斧次郎のことにも触れておきたい。
アメリカ婦人のアイドル的存在となり「トミー・ポルカ」という歌までできたというほどの人気ぶりだったこの人物、のちに一時期東京で、益田孝の英語の先生にもなる人で、わたしにとっては、マークしておくべき要注意人物なのだ。


この使節団については、宮永孝「万延元年の遣米使節団」(講談社学術文庫)に詳述されているほか、「万延元年遣米使節子孫の会」という親睦団体のウェブサイトがとても充実していておもしろい。http://1860-kenbei-shisetsu.org/history_credit.html

さて、このようにして使節団に深入りしているときに知ったのが、ドナルド・キーン氏が日本人の古今の日記について解説した「百代の過客」という書物だった。ここには、使節団副使だった村垣淡路守の「遣米使日記」と、咸臨丸司令官・木村摂津守の「奉使米利堅紀行」が取り上げられているということだった。

「百代の過客」は、講談社学術文庫で、正・続の分厚い2冊組で出ている。
文庫本なのに、新刊で買うと、あろうことか4千円くらいする。
が、ドナルド・キーンさんの仕事に敬意を表し、いつかこの大著を読むことに期待して、同氏の「明治天皇」(新潮文庫全4冊)とともに買ってあり、すでにうちの本棚に収まっていた!

「花子とアン」見て、「百代の過客」読む。

風が吹けば桶屋が儲かるような話だが、これが、分厚さにおそれをなして積読状態だった「百代の過客」を読むに至った理由なのである。



上記の、江戸時代の二氏の日記の部分は、《続》巻の冒頭にあるので、私はそこから読み始めたが、キーン氏の解説による日本人の日記の数々は、予想を超えておもしろく、金関寿夫氏翻訳の、抑制のきいた美しい日本語にもすっかり魅せられ、結局《正》巻の最初からの合計1350ページ全部を読み通すことになった。

この2冊、ひとことでは書き尽くせないほどすばらしい内容の連続である。中には有名な日記もあるけれど、知らなかったものも多い。そのどれもが、キーン氏の解説で、一般の日本人の前によみがえった、としかいいようがない。
「日本人なら」、という表現を使いたくないが、この書物を読んで日本人であることをしみじみ嬉しく思う人は少なくないのではないかと思う。
キーンさん、ほんと、グッジョブ!

多くの人に、ちょっとでもいいから手に取ってもらいたい。どの部分でも一度読み始めたら、止まらなくなることは確実だ。







佐竹本三十六歌仙絵巻の「絵巻切断」①にもどる

佐竹本三十六歌仙絵巻の「絵巻切断」②にもどる



1984年に単行本で発売された「絵巻切断」の文庫版が2001年に新潮文庫から発売され、最後に「流転その後」というページが加わった。この部分が、単行本発売以降に起きたことをカバーしている。

この17年間のあいだに、何枚かの歌仙絵の主人が没した。
 

「マゴシノ ナリヒラカセン デキタ」
「五〇ヨウイネガヒタシ」

という電報が古美術商から届いて、料亭「吉兆」主人の湯木貞一は、馬越恭平が大正8年(1919年)に一万円で買った「在原業平」を、昭和25年に50万円で入手していたが、その湯木も1997年95歳で鬼籍にはいった。業平断簡は、湯木美術館(1987年設立)に移されている。

「源公忠(きんただ)」。
大正8年に、藤田伝三郎三男の藤田彦三郎が購入し、昭和のはじめに、倉敷紡績社長で大茶人の大原孫三郎に移っていたこの歌仙図が、昭和45年ごろ、萬野汽船オーナー萬野裕昭氏に2200万円で再移動していたことは、1984年発行の単行本に書いてあったとおりである。
萬野氏は熱心な仏教徒で、仏像だけは信仰の対象なのでお金を出して買わない、という主義ながら、他の美術品の収集には熱心で、別荘の地下に宝庫を設け、旧鈍翁の茶器なども集めた大コレクターだった。その萬野氏は、1999年に92歳で没する。
NHKの番組をきっかけに美術館をつくることを決心したとおりに、1988年「萬野美術館」を、自身の経営していたマンモス・キャバレー「美人座」の跡地に建てたビル内に設立し、コレクションを保存展示していたことが、文庫本最後の「流転その後」には記されていた。

さいごに、佐竹本三十六歌仙中の一番の大物「斎宮女御」にも変化があったようだ。
益田鈍翁の長男から、昭和16年に絵を購入していた日野原節三氏も、平成3年(1991年)に没する。
日野原氏の大コレクションは、文化庁が買い上げる方向で検討中とのことだが、「斎宮女御」については、10億円レベルで取引され、すでに別のオーナーのもとにおさまっている可能性もある、とのこと。
「福本某」という画商が、美術品売買で政界の裏金調達に奔走しているということがほのめかされているので、不確実ながら、なんらかの情報をつかんでいたのかもしれない。
「斎宮女御」は、いまだ重要文化財に指定されていないため、文化庁への届け出義務もなく、持ち主も誰であるか、わかっていない。


以上が、文庫本で報告された2001年時点での様子だった。
だがさらに調べてみると、二番目の「源公忠」には、さらなる変化が起きていた。
「萬野美術館」は、2004年に資金難のために閉館し、そのコレクションは、創建600年記念事業の一環として1984年に設立された、臨済宗相国寺の「承天閣美術館」が引き継いでいるとのことである。


また、1984年発行の単行本「絵巻切断」のおわりのほうで、「佐竹本を持っていたある財界人が最近亡くなり、相続税の必要から、売りに出された可能性があることが、古美術商のあいだで噂になっている」ということが書いてあったので、これが単なる噂だったのかどうか知りたく、すこしだけ調べてみることにした。
この財界人とはおそらく、「壬生忠岑」を所蔵し1982年に亡くなった、日本化薬株式会社元会長の原安三郎氏ではなかろうか。
原氏は、浮世絵のコレクターでもあったようで、そのコレクションは、サントリー美術館に移動している。
(目下まさに、原安三郎コレクション「広重ビビッド展」が、2016年4月29日から6月12日までの日程で行われている。)
壬生忠岑の歌仙図は、サントリーではなく、現在は東京国立博物館が保有している。

佐竹本三十六歌仙の「絵巻切断」①からのつづき

「絵巻切断」の本を読んでうれしかったことのひとつに、切り離された歌仙図すべてが、震災や空襲などで焼失したり海外に流出することなく、1984年時点で国内に現存しているらしいということを知ったことがある。

ちょこっとウェブを調べてみると、2009年時点での、各歌仙図の落ち着き先や、その年に歌仙図が出品される展覧会情報 を知らせてくれている労作のページを見つけたので、ここに掲載させていただこう。

http://members3.jcom.home.ne.jp/tobisima/private/36kasen.htm

わたしも、この4月から3期にわたって開かれている出光美術館開館50周年の特別展で、所蔵の「柿本人麻呂」と「僧正遍照」を見ることができた。
この展覧会の目玉は、10年ぶりに出てくる国宝「伴大納言絵巻」だったので、そちらのほうには人だかりができていたけれど、この歌仙図の前はすいていて、心ゆくまで眺めることができた。

展覧会の図録などでは、こうした作品の表装部分を撮影に含まないことが圧倒的に多いが、これでは作品を紹介したことになっていない場合も多いだろう。とても残念なことだと常々思っている。

この三十六歌仙絵巻の場合も、持ち主になったそれぞれが凝った表装をほどこし、掛け物にしているので、その部分も大きな見どころのひとつのはずだ。

益田鈍翁も、37枚中の最高値の4万円で手に入れた「斎宮女御」に、さらに一万五千円をかけて表装を施したという。歌仙図がすばらしいことに加え、表装を含めた作品全体は、どんなに見事なものだろう。

1984年現在の所蔵者であった日野原節三氏は、この掛け物を銀行地下金庫に預け、戦前に手に入れてから40年のあいだに5、6回しか見たことがないという。ほかの歌仙図も似たり寄ったりで、それくらいに普段は目にすることができないもののようだが、うえのウェブサイトの情報によると、アンテナさえ張っていれば、年に10枚くらいは目にする機会もあるようだ。これから注意してみたい。

出光で見た二点は、胸の高さのガラスケースの中に、二点並べて、ほぼ水平に置かれていた。
表装部分を入れると、意外なほど大きかったことが印象的だった。
これを掛けて映えるのは、かなり大きな床の間ということになりそうだ。なんともいえぬ存在感だ。

以前、京都南禅寺界隈にある別荘群を取材したNHKの「京都、天下無双の別荘群」というの番組のなかで、野村徳七の建てた「碧雲荘」内の床の間に一枚の歌仙図が掛かっていた。紀友則だ。これくらいの舞台が、歌仙図には似合うと思った。

美術館に所蔵されている品は、一般に公開してもらえるので、われわれにとってはありがたいことだが、ガラスケースに入れられて、大勢からジロジロ眺められるのは、歌仙図にとってちょっとした迷惑なことなのかもしれない。まあ、もともと絵巻だったものを、勝手に切り離されてしまったのが災難の始まりで、今ではすっかりあきらめの境地になっているのかもしれないが。

「絵巻切断」次回③につづく





商品の詳細



「絵巻切断」(単行本)
―佐竹本三十六歌仙の流転― 
NHK取材班 美術公論社刊 1984年



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1985年に刊行された「三人で本を読む」という、丸谷才一、木村尚三郎、山崎正和の書評鼎談集がある。
そのなかで取り上げられたことが、この本「絵巻切断」を知るきっかけとなった。

もともとは、NHKで1983年に放映された同名番組を、そのまま描写するかたちで文章に起こした本である。

時系列で話が展開し、その様子が映像として目に浮かぶようなドキュメンタリータッチの文章が、読者を立ち止まらせることを許さないスピードで進んでいく。
次がどうなるのかと一秒でもはやく知りたくなる筆致で、文章に深みはまったくないのだが、かえってその拙速さが、この本をおもしろくしていると思った。
今では目新しくもない手法だと思うが、30年前にはまだ珍しかったのだろうか、評者きっての毒舌である丸谷才一氏は、文章の稚拙さ、テレビ番組を文章になおす際の構成の杜撰さをこきおろしている。巻末につけられた、馬場あき子による歌の解説についても、同意しかねる、気に入らないと、にべもない。
しかしながら、山崎氏は、テレビ番組としての着眼点がよい、ということで、取材内容を大いに面白がっていた。

その着眼点とは。

「佐竹本三十六歌仙絵巻」という鎌倉時代に成立したと考えられている絵巻二巻の、大正期以降の数奇な流転を追ったところにある。

この絵巻は、肖像画の名手、藤原信実の手になると考えられるもので、現存する歌仙図最古のものであるとともに、出来栄えのうえでも優れた逸品であるが、おそらく江戸時代ごろに秋田藩佐竹家の蔵するところとなって以降、門外不出の家宝となっていた。

大正5年(1916年)は、そうした家宝の数々にとっての節目の年となる。
旧大名は、家蔵の宝を売り立て(オークション)に出して大っぴらにすることを体面を汚すものとして好まず、それまでは、売る必要があるときには陰でひっそりと行われていたのだが、この年、「伊達家大売り立て」が大々的に行われ、骨董界の話題をさらった。
そのあと、没落傾向の旧大名による売り立ては堰を切ったように続き、大正6年(1917年)には「佐竹家売り立て」において、問題の「三十六歌仙絵巻」が出品され、戦前には破られることのなかった非常な高値で取引された。

この名宝は、紆余曲折ののち、海運業で財を成した、山本唯三郎という、いわゆる船成金の所有に帰すものの、第一次大戦後の事業の行き詰まりから、絵巻は所有期間2年足らずで再び手放されることになる。

このときには、この絵巻二巻を、独力で買い取るだけの財力を持つ人物がいなかったため、とうとうそれぞれの歌仙ごとに切断して、くじ引きで所有者を決め、大正8年の12月に分割販売されることが決まった。

このくじ引きに居合わせた生き証人の関戸氏が、番組放送の年にインタビューに応じ、その当日の人間模様を語っている部分は、この本(番組)でのハイライトのひとつである。

そこでは、絵巻切断の中心人物であった鈍翁益田孝が、望みの歌仙のくじをひけず、傍目にも不機嫌きわまりなくなってしまったのを、別の人が自分にあたった「斎宮女御」の歌仙絵と交換することでようやくなだめ、事なきを得たという話が、すこしばかり悪意を感じさせる口調で語られている。鈍翁をヒーローとしてあがめるわたしのような者は、自分が公衆の面前で罵倒されたように身が縮こまる気持ちがしてしまったが、これが鈍翁の真実の一面であるに違いない。非常に興味深かった。
この証言者が、この逸話を披露するのはこのときが初めてではないし、うちわではよく知られた話だったかもしれないが、くじの日から64年もたってから、こういう形でテレビや本で大々的に出てしまったのは、鈍翁にしてみれば、ちと痛かったかもしれない。

ともあれこの日、もし元のままであれば、現在国宝に指定されていることは間違いないとされる絵巻は、37人(三十六歌仙に加え、下巻の巻頭の住吉大明神の図があった)の所有者の元に、切断された姿で旅立つことになったのである。

大正8年にばらばらにされた絵巻の、その後の所有者の変転をさぐることで、そこから見えてくる美術品のパトロン像、さらに、世相の変転までもが見えてこないだろうか、というのが、この本(番組)の着眼点なのである。

ところが、現在の所有者を探し当てるのは、われわれ素人が考えるほど簡単なことではなかったようだ。
それを、一枚一枚探り当てていこうという過程が、本の中で刻々と描かれていて、このうえなくおもしろい。
上記のインタビューに応じた関戸氏の獲得した「藤原敏行」のように、所有者(家というべきだろう)が一度も変わっていないものもあれば、その後の重なる転売を経て、現在の所有者が明らかにされていないものまで、実にさまざまなストーリーがある。

なかでも心に残ったのは、一度はこの絵巻二巻を独占した山本唯三郎が、切断の際に無償譲渡された「源宗于」の変転の段である。
取材陣が山本の子孫を必死に探し、やっとつきとめた孫たちは、山本のことをを、たいそうな羽振りだったときいたことがあるという程度にしか知らず、歌仙図のことなど知る由もなかった。
出版(放送)時点では徳川美術館が所有するというその歌仙図も、いつ山本家から離れたのか、一切の事情はわからないままである。
歌仙図のほうは所有者を変えながら、無事に健在であることで、高価な美術品の、盤石な不動の姿が際立って見えるのがおもしろい。

鈍翁が駄々をこねんばかりにしてまで手にした「斎宮女御」の、取材時の所有者である日野原節三氏へのインタビューがあり、これまた迫力のある内容になっている。
なお日野原氏は、戦後まもなく起きた、GHQや政界を巻き込み大勢の失脚者を出した昭和疑獄事件の贈賄の張本人である。

日野原氏は、鈍翁の没後、鈍翁長男の太郎から歌仙図を譲り受けた経緯を、なまなましく語っている。
驚くことに、それは、戦争の始まるすこし前の昭和16年のことで、太郎の側から、骨董店を通して話があったというのだ。ほかにも現重要文化財となっているものを含む、数々の名品の名前があげられている。

鈍翁が生涯をかけて集めた宝の数々はなぜ散逸してしまったのか、ということについては、戦後の財産税課税時の物納がとかく問題視され、鈍翁の孫、益田義信氏でさえも、同番組のインタビューに答え、コレクションが散逸したのは、財産税がきっかけであり、歌仙図の行方も知らない、としていた。
だが真実は、翁の没後三年足らずのうちに、コレクションのなかでも最高段を占めていた一角が、太郎によって故意に崩され、大がかりに売却され始めていたということらしい。
これが事実とすれば、財産税とはまったくの別問題で、鈍翁の遺志にまっこうから背くかたちで、遺族によってコレクションの販売が強行されたわけである。
鈍翁という大茶人の手により、ひとつの完成されたコレクションになっていたもので、本人も一か所にまとめて長く保存したい意向を、生前示していたといわれている。
これはまことに嘆かわしい横暴だったと言わざるを得ない。
鈍翁ファンの嘆きをいっそう高らしめることになってしまったわけだが、これも、まことに貴重な証言記録であるといえよう。

そして最後を締めくくるのが、「猿丸太夫」の段。
空襲による火災から危機一髪で救い出されたこと、しかしそのときの守護神も、所有者としては歌仙図を守り抜けずに人手に渡すことになってしまったことが記されている。

さて、この番組、そして本の編者の着眼した、絵巻の所蔵者から世相を観ずる試みは達成されたのだろうか。
わたしは、されたと思う。
佐竹本絵巻は、誰かの手元に所蔵されているときよりも、転売されるときに、世相をもっともよくあらわすのだという。
なぜ、売られることになったのか、そして、あたらしい買い手は誰なのか。
それを調べると、ほんとうに、おもしろいように、誰が時代のボスなのか、ということがわかってしまう。

至宝に与えられた価値は、盤石だ。
その価値が、あたかも自分に与えられる称号であるかのように、宝物を所有することで価値を身につけようと獲得をもくろむ人々がいる。
それはいつも、その時代の金銭の「勝者」、リッチマンだ。
その「勝ち」の意味を、所蔵者がじゅうぶんに自覚してほしいと願うが、願わくば、天下の至宝は、至宝の価値に見合う、高貴な目論見から時代の勝者となった人々の手によって守り続けられていってほしい。

(「絵巻切断」のはなし・次回へつづく)





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