だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

2016年01月




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一年前の今日、2015年1月30日の東京は雪でした。

駒込にある「旧古河庭園」はいつでも自由に見学することができますが、ジョサイア・コンドル設計の邸宅の内部を見学するためには、往復はがきによる事前の申し込みが必要です。

自宅を出るとみぞれまじりの寒い朝で、地面はシャーベット状でぐじゃぐじゃになっており、滑らないように一歩一歩踏みしめて歩かねばなりません。
電車のダイヤも乱れていたので、臨時休園ということもありうるかな、と心配しながらやってきてみると、入り口にはちゃんと職員の方がいて迎えてくださいました。

邸宅見学者は、わたしのほかには、わざわざ遠くから来られた女性の方がおひとりで、ほかの方は見合わせたのか、それとも申し込みがもともとなかったのか、見学者ふたりの贅沢なツアーとなりました。

この邸宅は、大正6(1917)年にジョサイア・コンドルが設計したものです。
この地は、もともと陸奥宗光邸のあった場所で、陸奥の次男が古河財閥に婿入りしたことから
古河家の所有になった後に、洋館と庭園が造営されました。

明治時代のお金持ちは、たとえば湯島の旧岩崎邸、駒場の旧前田邸のように、敷地内に和館と洋館を別々に建て、和館は生活の場所に、洋館は接待の場所にと使い分けをしていることがありましたが、この古河邸は外見は洋館のなかに和洋を同居させ、一階が洋空間、二階が和空間になるように設計されています。

一階部分の天井は4m3cmと非常に高く、暖房をいれてくださっているのですが、雪のせいもあり非常に寒かったです。

やはり興味深いのは二階部分で、階段をあがったところから見渡すと、それぞれの部屋に通じる大きな木のドアがふつうに並んで、一見洋風の作りに見えるものの、なかは畳の部屋になっています。
なかでもびっくりしたのは、ひとつのドアの向こう側に仏間が現れたことでした。

外見は洋館、と書きましたが、じっさいには外観もコンドルなりの和洋折衷の試みだったのではないでしょうか。
重厚堅牢ななかに、ぬくもりを感じるように配慮されたような印象があります。
でもわたしは個人的にはどこかしっくりしないものを感じてしまいます。焦げ茶の外壁と白っぽい窓枠が、どちらも自分を主張しすぎで、なんともいえない野暮ったさを生み出してしまったような気がします。


さて庭園にも和洋が配されています。
建物から見て、下方に傾斜を下っていくと、底辺部分にある日本庭園に降りていく途中にあたるところに、これもコンドルのデザインによるバラ園があります。
一階のダイニング・ルームからは、洋風の景色だけが眺められるようになっているわけです。
(この広いダイニング・ルームでは、見学者がお茶とケーキを注文することができます。わたしも果物が配された美しいレリーフに囲まれたこの部屋で、しあわせな時間を過ごしました。)


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(左がわの幾何学模様の部分が、バラ園)




バラ園の下方に小川治兵衛作庭の日本庭園があり、この日は雪化粧がされ、写真を撮りに来たと思われる人がひとりふたりいるだけで静寂に満ち、幻想的なまでの美しさでした。二階の和室からは、こちらの景色が眺望できるようになっていて、非常に考えられた庭園の配置です。

いまでは数少なくなったコンドルの作品に出会うことができるばかりでなく、小川治兵衛(植治)の手になる日本庭園とのセットで見学できるということは、平成の東京で、夢のようだとしか言えません。

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どちらも見落とさないよう、事前に申し込みをなさることを強くおすすめします。

    申し込み先:

公益財団法人 大谷美術館
〒114-0024 東京都北区西ヶ原1-27-39 旧古河庭園内

まで往復はがきで。時間が定めらているので、よく確認してください。



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「なんでこんなに面白い本が絶版に!?」

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明治時代の文壇というと、尾崎紅葉と硯友社とか、幸田露伴、夏目漱石、自然主義の人々と、なんだか、かたい感じがつきまとうけれど、現代と同じで、ほんとうにおもしろいのは大衆文学。

押川春浪は、日本SFの先駆的作品といわれる「海底軍艦」を明治33年に発表し、冒険物の分野で大ヒットを飛ばし続けた大衆文学作家だ。

押川方義(まさよし)という、謹厳実直なキリスト者の長男。
父親は、東北学院を設立し、政界にも知人の多かった著名人だが、息子のほうは厳父とは正反対の蛮勇型の遊び人になってしまった。

通った学校を次々に放校になるが、父の縁故で東京専門学校に落ち着いたのち、実弟でのちにプロ野球創立の父となる押川清とともに野球部で活躍する。

「海底軍艦」で大衆文壇の地位を確保したのち、アマチュアの運動愛好会「天狗倶楽部」を結成し、野球や相撲で遊び、野球界や文壇で今日も知られる多くの人と交流する。

若いころからの飲酒癖がたたり、大正年間に38歳で没するまで、多彩な人間ネットワークの中心に居続け、人々をおもしろがらせた人生だった。

押川春浪作品の解説の部分もおもしろいが、このころの人間関係についての記述がもっとおもしろい。
当時のネットワークやその雰囲気を伝える記述が豊富で、この一点だけでも、当時の野球界、文壇に関心のある方には読んでいただきたい本である。

わたしにとっては、関心のある小杉未醒と桜井鴎村への言及があったこともうれしいことだった。





数多い翁の著作のなかでも長らく愛されている、柴田宵曲翁との共著随筆「書物」(初版昭和19年)のなかで、これは森翁ではなく宵曲翁の言だったと思うのですが、岩波文庫が最近多数出ているけれども、文庫本を集めて悦に入っているような人は愛書家とはいいがたいのでは云々、というふうに書かれているのを読んだとき、自分がたった今、手に持って読んでいる「書物」じたいが岩波文庫版だったし、別に愛書家ぶっているつもりはないけれど、日ごろ、本は好きだが、できることなら単行本は増やしたくないと思っていることを見透かされてしまったようで、正直冷や汗が噴き出す感じがしたものです。

でも残念ながら事実はそのとおりで、宵曲翁の本も、森翁の本も、狭い我が家のようなところでは文庫本で読むしかないのが現実・・・。銑三・宵曲翁の言葉をゴスペルにするつもりはありませんが、せめて「書物」くらいは、いつか単行本の古書を見つけて所有したいものです。

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岩波文庫版「駿台雑話」の初版、室鳩巣著、森銑三校訂(昭和11年12月15日発行)、宵曲翁に指摘された、本物の本とはいえない「最近の岩波文庫ラインナップ」の一冊である。しかし、わたしはこれを手にして、かなり悦に入ったことを白状しなくてはならない・・・。
黒くて写真にとれなかったが、岩波のなつかしい★★付き、定価40銭。

前回、森銑三翁との「なれそめ」について書こうと思ったのは、おとといの石光真清の四部作の解説が森翁の手になるものだったのを見つけて、なつかしく読み返したからだったのでした。

石光真清の、平凡な人であれば十人分に相当する豪傑一代の大長編のあらましを淡々と概観しながら、石光氏の仁義に厚く清廉な人となりを浮き彫りにした森翁の解説の筆致には、うならずにはおれません。

本編で、それまで著者といっしょに、手に汗握り、泣いたり笑ったりしてきた読者は、結局最後まで世俗的な地位を得なかった石光氏が、九十五歳の母の死をもって筆をおいた時、これでいいのだ、と爽やかな気持ちを持つ一方で、ややとまどい、もっと何かあるのではなかったか、と天を仰ぎたい気持ちに、ほんの少しだけさせられるのです。

そんなとき、森翁の解説をむさぼり読むことで落ち着きを取り戻し、やがて石光氏とともにあたたかい神の掌に包まれるような気分に浸り、やはり石光氏はいい人生を送ったのだ、と感慨に浸ることができるのではないでしょうか。内容の濃い本編のあとに、短くも、何度でも読み返したくなる味わいのある人物評と解説が配置されて、作品の重厚感が損なわれることなく四部作が完成します。

この解説になった文章は、「明治人物閑話」という、昭和40年代から50年代にかけて月刊誌などに書かれた明治時代の人物評を集めた評伝集にも所収されており、そこでも目にすることができるのですが、つい最近森翁の著作が何点もあいついで中公文庫で復刊され喜んだのもつかのま、こちらはすでに絶版になってしまっているようです。

森翁の著作の数々は、これから日本語が存在する限り読み継がれるべき内容と格式を備えており、できれば著作全集を電子書籍版で作っていただき、絶版のないようにしていただきたいと願います。もっとも、古書でなら、いくらでも手にはいるのですから、いっそのこと文庫本ではなく、版の古い単行本を探してみるというのもよいかもしれません。

今日現在、新刊で手にすることのできる森銑三翁の著作は、岩波文庫「明治人物夜話」という別の人物評伝集と、翁の地道詳細な研究から、井原西鶴の真作は好色一代男ただひとつであると断定した問題作「井原西鶴」ほか数点のようです。「明治東京逸聞史」は、平凡社東洋文庫にはいっています。

岩波文庫の「夜話」のほうは、中公文庫の「閑話」とは何篇かの重なりはあるものの、大部分の内容が違いますので、両方持っていても、それぞれに楽しむことができます。 ほかにも、「渡辺崋山」のような長編や、こども向けに書かれた江戸時代の科学者列伝である「おらんだ正月」など、森翁の人物評伝は無数にあり、名前をきいても知らない対象も大勢いるのですけれど、翁のセンサーにひっかかってきたくらいの人物なのですから、なにかふつうとは違う見どころがあった人々にちがいません。後世において忘れられてはならない人も、いまなお再発見されるのを待っているかもしれません。

そうした人を探し出す喜び、しかも、そのような人たちについて、森節の抑制のきいた文章で読むことができるというのは、最上の読書の贅沢ではないでしょうか。


森銑三という聞き慣れぬ名前を、わたしの脳みそのひだに刻みつけることができたのは、「紙つぶて」という、辛口で知られる書評集を読んだときのことだった。

わたしの読んだ「紙つぶて」は、1986年の文春文庫版で、著者の谷沢永一が「銀」という匿名で、昭和44年3月から読売新聞大阪版で週一連載した139篇の書評コラムと、名前を明かしてから別のいくつかの媒体で書き続けられたすべてをまとめた、455篇から成っている。

一篇600字という限られたスペースのなかに、本好きの読者に的確な指針を与える最新情報を盛り込むということで、あいまいな美辞はなし。称賛にせよ、批判にせよ、評は単刀直入で、人の目につかずともよい仕事をした者には簡潔な賛辞を惜しまず、安易な仕事をしたにもかかわらず浮かれている者には、背筋も凍りそうな鉄拳をいとわないスタイルは、痛快無比。書評の基本であるべきなのだろうが、ここまで徹底しているものには、なかなかお目にかかることはできない。

くどくどした説明なしにそこまで断言できるためには、センスのよい判断力や、筆力もさることながら、よほどの読書の蓄積がなければならない。著者の博識が、豊富な読書に裏打ちされていることは、コラムで扱われているのが、一般的な単行本や新聞、雑誌だけでなく、辞典、大学の紀要、官公庁の機関紙、企業のPR雑誌にまで及んでいることからもうかがわれる。また全集、大系と名のつく出版物に関しては、月報にいたるまで、すべて目を通していることは明らかで、良し悪しへの鋭い言及には舌を巻く。

そのときどきの出版情報に目を光らせ、厳選した話題を提供するのみならず、著者の頭の引き出しにぎっしり詰まっている過去の読書情報をさらっと織り交ぜるのも常套手段。話題に厚みが加わって、時評エッセイにもなっていることが、時を経たいまなお、あたらしい読者を喜ばせる理由だろう。

このような辛口でキリリとした批評のなかにあって、繰り返し称賛され、またときに批判もされていたのが、書誌学者としての森銑三の業績の数々だった。

森銑三。これまでに名前を一度もきいたことがない人、なのに舌鋒するどい「紙つぶて」のなかに異例なほど頻出する物知りの人、谷沢氏をつかんで離さないこの人はいったい何者なのだろうか。
そんな疑問を抱いたことが、森銑三翁の書物と出会う幸運につながった。





「明治・父・アメリカ」(星新一)の新潮文庫解説の冒頭に、小島直記氏がこれまで読んだ印象深かった自伝として、下の五つが紹介されていました。なお、解説者は別の誰かだったと思いますが、あいにく友人に借りて読んだ本なので今確かめることができません。

     「福翁自伝」
     「河上肇自叙伝」
     「高橋是清自伝」
     石光真清「城下の人」
     杉山茂丸「百魔」

最後の「百魔」以外は簡単に手にはいることですし、伝記や自伝好きの方にはもちろん、そうでない方にもぜひ読んでもらいたいものだと、わたしも同感しきりです。(「百魔」も、あるブロガーによるウェブでのタイプ公開作業が完結している)

なかでも、「城下の人」、その続編となる「曠野の花」「望郷の歌」「誰のために」は、日清日露戦役のころの、帝国主義の大海に浮かぶ木の葉のようだった日本を、大陸の諜報活動で支えたひとりの男の呟きの記録で、舞台のスケールの大きさといい、何度も訪れる危機において筋を通す潔さといい、胸がすっとして、痛快そのものです。

晩年に著者みずからの手で火中に投じられそうになっていたのを、家族によって守られ、のちに子息の石光真人氏によってまとめられたものだそうです。よくぞ残してくれたものだと思います。

石光真人という名前には憶えのある方もあるかもしれません。

そう、戊辰戦争後の会津藩の辛酸について書かれた名著、柴五郎「ある明治人の記録」の編者の名前です。

真人は、柴五郎の手記だけでなく、自身の父親の遺稿も整理して後世に残してくれた、功労の人だといえましょう。

石光家と柴家の関係が、「城下の人」のなかで明らかにされていて、そういう関係があったのかと納得しました。

すなわち、真清の父である石光真民の、実弟にあたる野田豁通(ひろみち)が、東京の自宅で、柴五郎を書生として住まわせており真清とも親交があったのだそうです。

野田は、熊本藩士石光家に生を受け、同じ藩士の野田家に養子となり、幕末の戊辰、箱館戦争には官軍として参加したのち、陸軍の経理畑で活躍し、男爵にまでなった人物。

出身が官賊かどうかで人を区別をしない大人物だったようで、柴五郎が書生になったというのも、そのあらわれだったのでしょう。野田が弘前県参事になったことが発端だったのか、と思われます。

熊本の実父亡きあと、このような、人間的にも大きく、世間的にも成功している叔父に、若き東京時代、なにかと面倒を見てもらうことになった真清にとって、野田は、超えるにせよ、壊すにせよ、大きな壁として存在し続けたのではないでしょうか。

この「城下の人」にはじまる一連の手記は、一本筋の通った男の人生譚ではあるものの、世間的な脚光を浴びることの少なかった冒険野郎の一代記という見方もでき、本人がそれを火にくべてしまおうと思った気持ちが、その辺にあるのかもしれない、とも思えるのです。

外野から見れば、まして100年後の凹凸のすくない時代の日本から見れば、やりたいことをやって燃焼した「自分さがし」の大成功者の、英雄的で男も惚れるようなイカした人生の軌跡なのですが、本人のなかでは本懐は別のところにあり、忸怩たる思いもあったのかどうか・・・。

どちらにせよ、わたしは爽快な読後感を得ました。

勇気と信念があれば、一回の人生だけで、こんなにたくさんのことができるという、たしかな実例です。

真人氏の監修が行われたにせよ、書かれたこまかい日時がすべて正確であったとは到底信じられず、切れ切れの記憶をつなぐための物語的な部分も含まれているはずですが、そうした「はったり」めいた部分も、この豪傑の人生にはふさわしいと思えます。



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