だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百七十二  吉住小三郎芸談(上)(下巻454頁)

 大正十一(1922)年十二月二十三日夕刻より、わが国の長唄界の双璧である吉住小三郎と稀音家六四郎(注・大正時代は杵屋六四郎)が私の伽藍洞に揃ってやって来られ、晩餐ののち、ふたりともくつろいで芸談に耽られた。小三郎が古今の芸人の逸事について、こんこんと話を進めると、六四郎もまた例の洒落まじりに種々の思い出話を織り込んで、深更まで語り続けたのであった。
 そのなかで小三郎が語った吉住流の起源についての話が非常に興味深かった。昔の名人のおもかげをしのび、後進の者の奮起を促すに足る内容であったので、このような伝説がもしもすっかり消えてしまっては惜しいので、ここにその大要を書き留めておこうと思う。 (注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)
 

「天保時代を中心とし、その前後にわたって、江戸の長唄界に名人の名をとどめた者は少なくないが、吉住流の開祖で綽名を『芋ころ』と言われた、二代小三郎などは、そのもっとも著しい者である。
 この芋ころ小三郎は吉住流二代目であるが、その実は開祖であって、古名人風の奇行に富んだ人であったそうだ。元は芋屋で、青物市場から芋を買い出して市中を売り歩いていたが、生来音曲好きで、長唄師匠の門前に立ってその稽古を立ち聞きするようなことさえあった。 
 ある時、芋の荷をかついで、当時、桜田門外にあった葭簀(注・よしず)張りの掛茶屋に憩んで居る前を通ったのが、そのころ番町に住んでいた旗本(原文「旗下」)で吉村幸次郎という長唄の上手で、頭を奴のように剃り落としていたため、世人呼んで『奴の幸次』といった者であった。
 この人は旗本でありながら猿若町の芝居に出で、その美声を轟かし、当時長唄の名人という評判が高かったから、芋屋の小三郎は、彼があたかもその目前を通り過ぐるのを見て、芋をかついでも一代なり、長唄を唄っても一代なり、俺は今より芋屋をやめて、かの幸次の門弟となり、長唄語りとなって一生を送ろうと、ここに一念発起して、それより番町の吉村方に赴き、ついに彼の弟子となったが、その時の名を五郎次といったので、吉村の門弟になってより、吉村五郎次と称せしにかかわらず、彼が元、芋屋なりしため仲間では芋ころ五郎次と呼んだが、彼はむしろこれを得意としていたそうである。

 芋ころ五郎次は、吉村幸次郎、あだ名奴の幸次』の門下となって一心に長唄を勉強していたが、好きこそ物の上手なれで、暫時の間にめきめきと上達したので、当時、斯界に高名であった杵屋六左衛門の知るところとなり、芸名を吉村伊十郎(注・芳村が正しいか?)と名乗ったところが、この芸名について種々の苦情が持ち上がった。そのとき五郎次は人に向かって、『俺は芸をもって立つのであるから、名などはどうでも構うものか、吉村伊十郎が悪いなら、元の芋ころ五郎次でたくさんであると言い放ったが、六左衛門が、それではあまりに体裁が悪かろうとて、元禄ごろの長唄語りで、吉住小三郎と名乗り、その芸風も伝わらず、ただ一代で中絶した者があった、その跡を相続せしむることとなり、これより、芋ころ五郎次は、二代目吉住小三郎と称したが、その次が、今の小三郎の親、三代目小三郎で、当代は、すなわち四代目である。

 かくて、二代目小三郎は芋屋出身なれば、もとより文字もなかったが、江戸児風の負け嫌いで、思い立ったことは一気にこれを貫かねばやまぬという気性であったから、さまざまの面白い逸話をとどめた、そのなかでもっとも名高いのは、かの長唄の角兵衛が、杵屋六左衛門によって節付けせられ、猿若町の芝居で初めてこれを上演した時、小三郎は、そのころ六左衛門の引き立てで、ようやく三枚目に列することができたばかりなのに、この角兵衛中の山というべき新発田五万石荒さうとままよという一節を語らせてもらいたいと申し出たそうである。
 しかるにここは、すでに他の太夫に語らせてみたが、なにぶん六左衛門の気にかなわないので、はなはだ不快に思っていた折柄なれば、小三郎が自ら唄わんと申し出たのをきいて、六左衛門もその気になり、さらば、いつより試むるかと聞けば、小三郎は明日より語らんと言うにぞ、六左衛門はすこぶるこれを危ぶんだが、かつて小三郎の気性を知って居るので、よしそれならば、勝手に語ってみろと言い渡すや、小三郎は自身大酒家であったから、たちまち一升徳利を提げて、そのころ越後より出てきた米搗き男のいる米屋に赴き、持参の酒を米搗き等に振舞って、しきりに新発田五万石を唄わせたが、彼はこの間において、おおいに自得するところあり、翌日芝居においてこれを唄い出づるや、見物の評判は言うに及ばず、六左衛門も大いに感服したので、吉住流は今日まで、その唄いぶりを伝えて居るそうだ。」次ページへ「下」に続く)
 


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二百七十一  アインシユタイン博士の来庵(下巻450頁)

 大正十一(1922)年十一月二十九日午前十時、アインシュタイン博士が茶の湯の見学(原文「茶式見学」)のため、夫人同道で、わが伽藍洞(注・高橋箒庵の赤坂邸)の一木庵を訪問されたことは、本庵にとってまことに光栄の至りであった。
 博士夫妻は来日以来、能楽を観覧したり邦楽を聴聞したりして、日本の文芸について深い興味を感じられたということで、本邦に固有の茶の湯についても、ぜひ研究したいとのことで、福澤三八君の紹介でこの日来庵されたのである。
 私は博士をひと目見て、まずその相貌に敬服した。博士は、ドイツ人としては大兵というほどでもないが、あまり小さいほうでもなかった。髪が縮れているのが異様であり、色が白く、下膨れである。豊満な顔の道具(注・パーツ)がよく揃っており、丸い目は、切れ長で、微笑するときが現れ、得も言われぬ愛嬌をたたえる。柔和で沈着で、対面したばかりのときから私はその徳風に魅了されてしまった。
 私は、博士に訪問していただくことを幸いに、茶道の本旨をできるだけ説明して参考にしていただこうと考えていたのだが、博士の在邸時間が一時間十五分だけだったのと、茶道用語の翻訳が、なかなか容易でなかったことから、改造社の稲垣守克君が流暢なドイツ語で熱心に通訳されたにもかかわらず、思ったことの十のうちの一をも言い尽くすことができなかったことは非常に残念であった。
 しかし、ちょうど口切茶会(注・毎年11月にその年の五月に摘んで保存した新茶の封を切る茶会)を開催している最中だったので、まず寄付から案内を始め、床に掛けた松花堂(注・松花堂昭乗)の消息は、三代将軍家光が小堀遠州の品川御殿山茶会に臨まれたとき、その光栄を祝した手紙であるということや、寄付の床掛けとは、茶客が他の同席者とそこで待っているときに読んで楽しむものであることを説明した。

 次に、茶客が全員揃った時、庵主が寄付に客を出迎える時のやり方を見せた。客は、寄付から露地に出て、つくばいの清水で嗽ぎ(注・くちすすぎ)を行う。これには、入席前に口内とともに心頭を清浄にするという謂われがあることを説明した。
 つづいて、狭いにじり口から、三畳半の一木庵にはいっていただいた。そして、床に掛けた、三代将軍筆の木兎(注・みみずく)に沢庵和尚の讃がある一軸の由来を説明し終えたのち、すぐに炭手前をお見せしたのである。
 さて炭手前の最中、釜を上げて、すぐさま、長次郎焼の焙烙(注・ほうろく)に盛った湿し灰(注・しめしばい)を炉の中に振り撒くときに、私は、この湿し灰を撒くのは、ひとつには灰燼を鎮めるという目的、もうひとつには、火勢を助ける目的があることを説明した。すると博士は、四百年前の日本の茶人が、すでに物理学の原理に基づいて炭手前の湿し灰を使い始めていたという注意周到さに感心されたようすだった。
 また炭手前の終わりに染付荘子香合から銘九重という練香を取り出して、それを炉中に投じ炭臭を消すという趣向にも、一興を催されたようだった。
 その後、懐石の膳腕器具を順番に並べ、日本の茶席の懐石は、禅僧の応量器(注・禅僧の食器。托鉢)にならったもので、なるべく庵主の手を煩わさずに、はじめから終わりまで客の方で始末を行う次第を述べた。
 懐石が終ると、中立といって、いったん客を腰掛にまで立ち退かせる。そのあいだに室内を清掃し、掛物を花入と取り換え、濃茶の支度がすでに整った合図として、銅鑼七点(注・大小大小中中大と鳴らすやり方)を打ち鳴らすという方式について説明した。実際に中立はしてもらわなかったが、ためしに銅鑼を鳴らし、その風情を示したのである。
 こうして、いよいよ濃茶手前にはいった。青竹の蓋置に柄杓をおろして端座したとき、もともと濃茶手前の身構えは禅僧の結跏趺坐を変形させたもので、両足の親指を重ね合わせ、四十五度の角度に両股を開き、下腹にうんと力を入れて正座するものであること、左右に動くときにも常にこの四十五度の角度を保って、八回動けば身体が一周することになることを説明した。
 ここで、この態勢で手前に取り掛かった。心を丹田に落ちつけて、無念無想の境に入れば、百万の大敵が襲い掛かって来ようとも、百雷が一時に落ちて来ようとも、泰然自若として微動だにしないという男気が全身に満ちているのだと言ったが、それを通訳が説明し終えると、博士も、なるほどと感服したようであった。
 しかし、だんだんと濃茶器を取り出し、茶入、茶碗、茶杓などにそれぞれの名称があるのを説明したときには、博士も夫人も、鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くして、いっこうに合点がいかなかったのは無理もないだろう。ドイツなどで言ったら、食事中にテーブルの上に並んでいる茶碗や皿鉢に、飛鳥川とか、玉柏とか、布引とか、白波などという風雅が名前がついているわけだから、それを不思議に感じるのは、まことに当然のことであろう。日本の名物茶器は、いつもそれを擬人化して、茶器を室内に飾るのはその茶器に縁故ある故人の魂をその場に招くのと同然であるということを理解するのは、不滅衰の相対原理発見の大学者にとっても決して簡単なことではあるまいと思う。
 こうして一応、茶事の説明を終えると、庭前の利休堂に案内し、聞香の形式をお見せし、また、編纂中の名器鑑の材料などを展示したのであるが、なんといっても時間が短かったので、博士が会得されるまでの十分な説明をすることができなかったことは、まことに遺憾の至りであった。
 しかし、世界的な大学者を自庵に迎え、茶式の一端を説明することができたことは、私の一生のなかでも、もっとも愉快な出来事であった。
 


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二百七十  名物形石灯籠供養(下巻447頁)

 私は明治二十六(1893)年、大阪に仮住まい(原文「僑居」)したころから、奈良、京都を中心に、五畿内各地の神社仏閣にある著名な古石灯籠観賞めぐりをしていた。そしてその古色を愛し、また時代によって製作を異にする形式の変化を研究し、おおいに興味を感じるあまり、奈良の石工に命じて各所の名物石灯籠を原形そのままに模造するまでになった。
 大正十一(1922)年に、それが既に二十基に達したので、私はこれを前妻の墓所である音羽護国寺に寄進し、観音堂東南の鐘楼と銅仏のあいだに建て並べることにした。
 同年の五月にその工事が完成したので、六日午後一時から五時まで、同好の人を案内して、ちょっとした石灯籠供養を営んだので、その縁起について今ここで大略を述べることにしよう。
 私は多年、築庭が趣味で、したがって、古い庭石を手に入れるために、おりおり奈良あたりに出かけ、古い石塔、伽藍石、あるいは石灯籠などを多数買い入れた。
 明治三十二(1899)年ごろ、奈良法華寺の書院の前にあった法華寺形という古石灯籠を譲り受けてからは、ことに石灯籠に興味を持ち、その後さかんに探索を続けたが、本歌は容易には手にはいらないので、奈良の石工である石田太次郎に委嘱して、まず最初に、元興寺形、般若寺形、祓戸形などを模作してもらった。現物と寸分の違いもないようにするために、奈良の道具商の柳生彦蔵に依頼して、その工事を監督してもらった。
 最初は四、五本作るつもりであったのが、だんだんに増加して、ついに二十本に達したので、この上は、それらを分散するのも惜しいことだと思い、ある景勝の場所に建て並べて、ひと目に併観できるようにする方法を種々考えたが、熟考の末、前述のように音羽護国寺境内を選定した次第である。
 音羽護国寺は、東京市中において一番の景勝の地を占め、境内は広々とした高台にあり(原文「高敞」)、老樹が多く、名物の石灯籠を設置するには無類の好適地だと思った。執事のち貫主の佐々木教純師に相談したところ、石灯籠は除闇遍明(注・じょあんへんみょう。闇を消しあまねく照らす)の意義にかない、境内の装飾として、まことに恰好のものであるので喜んで受納したいと言われたので、大正十一(1922)年初夏より工事に着手し、秋の中頃にすべての設置を終えたのであった。

 石灯籠というものは本来、年を経るにつれて古色を加えて価格も増すものであるから、杉の苗を植えるのと同じく、知らず知らずのうちに、将来は相当の寺の財産になるだろうと思う。
 そのあたりのことも十分に考えて、地盤も十分に堅固にし、周囲には鉄柵を設けた。また後人がその来歴についてわかるように、かたわらに一基の石碑を建てて、西園寺陶庵公の「除闇」という二字の篆額の下方に自の碑文を彫りつけた。その文句は次のとおりである。

 神齢山護国寺は、皇城の乾位を占めて、新義真言宗の道場たり。予曩(注・さき)に前室の物故に遭ひて墓域を此地に定む、其後護国寺維持財団の設立せらるるや、選ばれて理事長と為る、乃ち宿縁の浅からざるを思ひ、南都付近著名の石灯二十基を模造し、之を観音堂の東南に駢置して、記念を他日に留めんとす。惟ふに石灯は久しきに耐えて色を増し、除闇遍明、能く真言の教理と符号し且その上代名匠の典型は、観音をして自から矜式する所あらしむるに足る。是れ予の敢て此挙ある所以なり。因て碑を建て事由を録して後人に告ぐ。

       国まもる寺のゆくすゑ照さなむ 万代ふべきこれのともし火

     大正十一年歳次壬戌十一月

                        箒庵 高橋義雄


 なお、その背面に列記した二十基灯籠の名称は、次の通りである。

  般若寺形 多武峰形 元興寺形 三月堂形 栄山寺形 蝉丸形 灯明寺形 
  太秦形 当麻形 西之屋形 平等院形 法華寺形、八幡形、柚之木形 
  奥之院形 道明寺形 飛鳥形 祓戸形 蓮華寺形 雲卜形

 さて私はこの石灯籠を護国寺に寄進すると同時に、維持費として金五千円を付け、百年の期限でこれを三井信託会社に預けておいた。それから十二年間に、複利がほとんど三千円にまでなり、これを百年すえおけば約五百万円に達する計算になる今後だんだんと利息が下がるとしても、まだ三、四百万円にはなるはずなので、そのときには、護国寺境内に大仏殿でも建てたらどうだろうというのが、私の道楽なのである。
 今、世間の事柄については、来年のことを言えば鬼が笑うというけれども、寺院の問題に関しては、百年先の話をしてもあまり可笑しく思われないのが不思議である。


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二百六十九  大倉翁の値切じまひ(下巻444頁)

 大倉鶴彦翁(注・大倉喜八郎)は越後(注・現新潟)新発田の出身で、その祖父なる人の碑文は頼山陽が書いたものであるということだから、土地に知られた名家だったのだろう。
 維新前に志を立てて江戸に出て、戊辰戦争の前後に銃砲を幕府軍に売ったことで官軍の詰責に合ったとき、自分は商人である、商人が商品を売るのに、朝幕(注・朝廷と幕府)の区別はつけない、という大気焔を吐き、その豪胆ぶりの発揮したという伝説さえある。
 後年になって日清、日露の戦争などの機運に乗じて、実業のうえでの大発展をとげ、勲功をもって男爵に叙せられたころから次第に人格を高め、光悦流の書を習い、あるいは天才的な狂歌を口ずさんだ。     
 還暦以後、古稀(注・70歳)、喜字(注・喜寿=77歳)、八十(注・傘寿)、米(注・米寿=88歳)の祝寿会ごとに、公共的な記念となるものを残し、福禄寿(注・幸福、俸禄、長寿)を一身に集めた。
 九十二歳の高齢を保たれたが、その大胆率直にして辺幅(注・うわべ)を飾らない様子や、かたわらに人なきがごとき豪快さにいたっては、ほとんど他人の追随を許さないものがある。
 さて大正十一(1922)年は、翁が八十五歳の時だったが、同年の二月、山県有朋公が薨去し、音羽護国寺で国葬があった。そのとき、その墓地に隣接して六十坪ほどの空き地があるのを見るや、翁はそれを買収し、わが墳墓となさんとしたのであった。
 私が音羽護国寺財団維持会の理事長であるのを見込み、二女の時子さん(原文「時子夫人」)を通じて同墓地買収について依頼されたので、私はさっそく当時の護国寺執事のち貫主であった佐々木教純師に諮った。すると相手が知名の大家なので、特に一坪三百円として、一万八千円にて譲渡しようということであった。
 このとき翁は、私の方には回答をせずに、秘書某を直接佐々木執事のもとに差し向けて一万八千円を一万五千円に値切られたので、佐々木執事は非常に驚き、その旨を私の方に通知してきた。 
 私はただ打ち笑って、しばらくそのままにしておいた。するとそのことが、時子さんの耳にはいったので、彼女はさっそく父翁に向かって、墓地というものは最後の別荘ではないか、最後の別荘を買うというときに、それを値切るということがありますか、と正面から突っ込んだところ、翁は一向に平気で、俺は商人だ、商人がものを買うのに値切らないでそのまま買うということはない、なるほど墓地は別荘の買いじまいだから、俺は値切りじまいをしたのである、と一笑して取り合わなかったそうだ。
 このあたりが大倉翁の大倉翁たるところで、三つ子の商魂百まで変わらず、洒々楽々、露骨にそれを表白して少しも取り繕うところがないのが、いかにも翁のおもしろいところである。
 昔聞いた話だが、維新前の吉原に桜川善幸という幇間がいて、いつも「俺は若干の金を遺して死ぬから、死後に改めてみるがよい」と公言していた。臨終のとき病床に仰臥し、無言で天井を指さしたので、さては前々から言っていた通りに遺金を隠し置いてあるに違いないと、やがて天井を改めたところ、はたして手箱のようなものがあったので、家人で寄り合って開いてみた。すると小判形の石を包んだ封の上に「嘘の吐きじまひ」と書いてあったということである。
 大倉翁が、商人として、墓地の値切りじまいと言われたことは、その幇間の、嘘の吐きじまいと似通っていて、いかにもおもしろい逸話であると思う。
 大倉翁の墓地値切り事件は、もともと些細な問題で、翁にしてみても我意を通そうとしたわけではなかったので、その後、墓地は翁の言い分どおり一万五千円としたうえに、別に祠堂金の名目で三千円を寄付することになり、ほどなく問題が解決した。
 翁は、このような経緯があったことなど、ほとんど忘れたかのように洒々楽々として、私に次のような礼状を送ってこられた。

 「此頃御手数被成下候音羽墓地の儀、取引等円満に相済み、護国寺より寄付の礼状も相届候次第に付、不取敢拝謝申述度、此書状したため候うち、腰をれ一首うかみ候まま、備貴覧候、御一笑々々
     儒者捨場近き音羽の墓地なれば世を而して後に往くべし
                        鶴彦
   高橋大人

 この書状の中の狂歌に、儒者捨場とあるのは、旧幕時代に、聖堂(注・湯島聖堂。昌平坂学問所)の老儒官たちが、その住まいを山の手に構え、閑静な音羽護国寺のあたりには特におおぜい住んでいたので、当時の世の人々が姨捨山になぞらえて、これを儒者捨場と呼んだのだそうだ。
 私は明治四十二(1909)年の前妻死去のときから護国寺境内に墓地を営んだばかりでなく、すでに自分の寿碑(注・功績を記した碑)までも建ててある次第なので、さっそく返書をしたため大倉翁に送り、末尾には次の一首を書き添えて翁の一笑に供したのである。

    つひにゆく処はおなじ音羽山 寝ながら娑婆の物語せむ



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二百六十八  伏見大宮御殿の一夕(下)(下巻439頁)(注・(上)にもどる

 伏見大宮殿下は、前項の岐阜震災(注・濃尾地震)の御物語に引き続き、その地震のときも危険であったが、それよりも一層危険だったのに不思議にもそれを免れたことがあった時のことを物語られた。
 「西南戦争の時であった。田原坂の戦いに、敵味方の間隔はなはだ接近し、あるときは塁壁の上より互いに悪口を交換するような場合もあったが、壁上に首を出せば、たちまち鉄砲で撃たれるので、初めは用心して首を出さなかったが、時日を重ねるにしたがって、だんだん危険に慣れ、敵をからかってみようと帽子だけを壁上に出すと、すぐそれを射撃するのをおもしろがったこともあった。
 しかるにその後、敵兵が退却してしまったので、自分らは従来潜んでおった塁壁より現れ出で、もはや居残る者はあるまいと思って、伊藤大尉という者と並んで敵塁の方へ進んで行ったところが、いまだ敵兵が残っておって、自分らの近づくのを見てこれを狙撃したから、伊藤は横腹を打ち貫かれて即死してしまった。
 その他だいぶ当方に負傷があったが、自分は幸いにその弾丸にあたらなかった。敵塁間近で狙いを定めて撃ったのだから、これに当たらぬというのはよほどの幸運と思われた。
 自分は当時、中尉であったが、西南戦争のころは日本の軍事もいたって幼稚で、衛生の組織など皆無であったから、大尉くらいの将校が戦死したのを、獣類を運搬するように縄で手と足をくくって、青竹の棒を突きさして、これをかついで多数の屍体とともに、ひとつ穴にほおりこんで埋めるという悲惨な状況であった。
 また鉄砲などもいたって不完全なもので、あまり遠方に達しなかったので、鹿児島に近づいた時、敵兵は高い山の上にいて、当方の鉄砲の届かぬことを知って、毎日相撲を取ってたわむれていたが、そのころ日本に渡ってきたクルップ砲をもって、これを追い払わんと思ったところが、将校中にこのクルップを射撃しうる者がなかったのでも、当時、軍事の幼稚なことがわかるであろう。
 しかるに両三日かかって、どうやらこれを撃つことを発見し、かの山上に向かって発砲し始めたので、敵兵もさだめて驚いたであろう。その後、相撲など取る者がなくなったのはおかしかった。」

 伏見大宮殿下は、このように西南戦争の際に起きた御身上の危険を語り終えられ、微笑を洩らされた。そのとき私は、殿下のような高貴な御方でも、このような危地に立たれることがあるのかと思い、なるほど皇族方が陸海軍籍に入って御修養あらせられることは、まことにありがたいことだと思った。軍隊にあっては、高貴な身分でも、軍規によって進退せられるからこそ、規律を守り、下情(注・しもじもの様子)を知り、困難に耐えることができるのであって、他の職務にあっては、このような実体験を積まれることは、とうていできないであろうと深く感銘したのである。
 こうして、殿下の御物語をうかがった玉突場から、何部屋かを隔てた日本座敷に通された。ここは、上段が八畳、次の間が十畳で、一間(注・約1.8メートル)の入側(注・いりがわ。座敷と濡れ縁との間の細長い通路)がめぐらされた書院の中央に、大卓が置かれていた。私たちは殿下と相対して、毛皮を張った座布団に座し、御陪食を仰せつけられた。
 その際にも、囲碁、盆栽、乗馬その他数々の御趣味についての御物語があった。
 中でも音曲については、御幼少より御家芸として御修得あらせられたそうで、それに関する御物語は次のようなものであった。
 「自分は音曲が大好きであるが、なんの音曲についても、調子だけは確かに聞き分けることができると思う。そのいわれは、宮家において、有栖川は書道および和歌のことを司どり、伏見は音律を司る家柄で、何事をおいても、その本役を練習するのが、往時、自分らの勤めであった。
 それで自分は、六歳の時より琵琶を習い始めて、十四歳の時まで間断なくこれを継続したが、この琵琶には、いたって無意味でしかも文句の相類似して居る曲が八十八曲もあるのを、ことごとく暗記しなくてはならぬので非常に困難を感じたのである。これが、何か意味でもあれば、それにすがって記憶しやすいのであるが、同じような文句で無意味であるから、これを記憶する困難は非常なものであった。
 それで自分はもっぱら琵琶を習ったが、これと同時に、笙、篳篥(注・ひちりき。縦笛)、琴も習い、特に好んで尺八を習ったのである。それゆえ、他の俗曲などを聞いても、子供の時より習い覚えた音律の耳は確かであるあら、調子を聞き違えることはないのである。」
 大宮殿下はこのように物語られたあと、私に向かって、かねてから茶の湯が好きだと聞いているが、自分の父もまた非常に茶を好み、茶器も相当に集めたようだが、自分は今まで研究する機会がなかったので、持ち合わせの茶器も今は物置の中にしまいこんだままで、虫干しすらもしていない、しかし、今、茶杓を一本取り出してあるので、せっかくの幸いなので、ひとつ鑑定してもらいたい、ということで、侍女に命じて持ってこさせた。
 見ると、桐木地の箱の中を二つに仕切り、一方に利休作の茶杓を入れ、一方に宗旦(注・千利休の孫)がこれに命名した由来書を入れてあった。
 そこで、仔細にこれを点検してみると、筒書付は宗旦で、上に「上京」、下に「利休」とあり、十善具足(注・よいものが揃っている)したものであったので、このような茶杓を御所持せられているからには、御茶入、御茶碗などにも必ずや名品がございましょうと申し上げたところ、そのうちに一度参邸して、とくと検査してもらいたいと仰せられた。
 よって私は、他日に御蔵器拝見させていただきたい、などと言上し、当夕のお召し寄せの光栄を拝謝し、御玄関まで退出した。
 このとき藤田氏(注・藤田彦三郎)が私の袖を引いて、「殿下が御見送りである」と言った声に驚き、振り返ってみると、間近に、にこにこされた殿下が立っていらしたので、破格の御待遇をおそれかしこみ、重ねて御礼を言上して退出したのである。これは私の一代の中で、またと得難き光栄であった。
 


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二百六十七  伏見大宮御殿の一夕(上)(下巻436頁)

 大正十一(1922)年三月三十日午後四時半、私は大阪の藤田彦三郎藤田平太郎男爵の末弟氏とともに、伏見大宮貞愛(注・さだなる)親王殿下の御召を蒙り、紀尾井町御殿に伺候した。
 藤田氏は以前より大宮殿下の御知遇を辱うして(注・はずかしゅうして=ありがたくも得て)、上京するたび必ず宮家に参候するのを常としたが、いつのことにか私のことが殿下のお耳に入った(原文「上聞に達した」)ものらしく、一夕同道して参殿せよとの御沙汰があったそうで、藤田氏からその旨も含めて私に申し越されたので、命刻(注・指定された時刻)に、相伴って参殿した。
 はじめ、西洋館の応接間で御家職の人々に挨拶したあと、日本館と西洋館の間にある撞球場(注・ビリヤード場)を兼ねた大ホールに通された。
 殿下は、籐椅子が数脚の中ほどの、巻たばこなどが置かれたテーブルの前に着座されており、私たちに対して御丁寧なる御会釈をされた。
 当時、御年六十五歳で、御頭には白髪をまじえ、大兵豊満で、御容貌が柔和、かつ上品であるのは言うまでもなく、御微笑を含ませられるごとに、鳳眼(注・切れ長の目。中国の貴相)とも申し上げるべき切れ長の御目に、無限の愛嬌をたたえられていた。尊大な風はどこにもなく、きわめて率直に御談話あらせられるので、いわゆる慈眼藹々(注・あいあい。和やかなさま)春風一座に満つる、の感があった。
 最初は緊張していたのが、いつしか打ちくつろいで、高貴な方の御前であることも忘れ、無遠慮にも、それから一時間ほども四方山の御話相手をさせていただいた。
 そのとき殿下は、和やかに、次のような御話を語られた。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

 「自分が最初、京都より東京に出てきた時は、九段下にあった千坪ばかりの屋敷に住んでいたが、その後、九段上の、現今、山階宮邸になっているところに移り、これもあまり手狭なので、明治二十六、七年ごろ、自分が青森に在勤しておった留守中、当邸を建築したのであるが、時あたかも、岐阜震災(注・明治241028日濃尾地震)のあとで、西洋館は地震に耐えぬであろうというので、庭に向かった屋根の正面に、大きな物置を載せるはずであったのを、ついに中止したのである。
 岐阜の地震といえば、かのとき、自分は、叔母にあたる人の法要で京都に赴く途中、名古屋に一泊して、翌朝ひとり旅館の二階にいると地震が始まったのである。
 ところで、かねて大地震は一度にドンと来るものだということを聞いていたから、程なくやむだろうと思って居ると、それが非常な勢いになってきたので、とにかく二階を降りようと思って、はしご段のところに来ると、はしごが波を打って動揺して居るから、その上を駆けおりて正面の入り口より庭に出ようと思ったところが、その入り口の大きなガラス戸が、震動のために自分の頭の上にドンと倒れてきた。その時、なんのためであったか自分にも心づかなかったが、左の手に頑丈な煙管(注・キセル)を持っていたので、その戸を煙管で受け止めたのが、あたかも(注・ちょうど)その桟(注・さん。戸、障子などのほね)に当たったので、戸は斜めになって自分のかたわらにドンと倒れたのである。

 もしこの煙管を持っていなかったならば、戸が頭の上に倒れて、ガラスのために大けがをしなくてはならぬのであったが、煙管一本で不思議に難をまぬがれたので、その後自分はこの煙管を活人管と名づけて、今でも記念に保存して居る。
 かの時の地震は実に珍しい大地震で、その後一日間、何回となく揺り返したが、また来たのではあるまいかと心配して、庭に天幕を張ってその中に滞留しておったのである。
 そのころの名古屋の師団長は桂太郎であったので、同行して付近の現状を視察したが、市外の田舎道などは、土橋、石橋、ことごとく破壊し、民家は将棋倒れになってしまったので、工兵が繰り出して、その中から罹災者を救助するという惨憺たるありさまであった。
 今もし、かがごとき地震が再来したならば、この西洋館なども到底持ち耐えぬであろう。近頃市中で建築しておる鉄筋家屋などは、はたしてどうであろうか、鉄骨はきりぎりすの籠のごとくに立っておっても、石や煉瓦が振るい落とされてしまいはせぬか、実地に当たってみなくてはわからぬであろう。」

と、最近までは、安政地震以来の最大地震として知られていた岐阜震災の御遭難の状況の御物語をされたのである。
 ところで殿下は、大正十二(1923)年の初めに銚子御別邸にて御薨去あらせられたから、同年九月の大震災は御存じなかったのであるが、岐阜大震災での実際の御体験にもとづき、種々の御思い付きの御設備が、癸亥(注・みずのとい。大正12年)の大震火災のときにしっかりと役目を果たし、当時の大宮御殿に格別な御損害がなかったのも、畢竟(注・ひっきょう=結局のところ)このためであったのだろうと思う。


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    第七期 文芸 大正十一年より昭和七年まで
二百六十六  山県有朋公の薨去(下巻433頁)

 大勲位元帥山県有朋公は、大正十一(1922)年二月一日をもって、その八十五年にわたる国家奉仕の大生涯を終えられた。
 公は天保九(1838)年に生まれ、明治元(1868)年が三十一歳、大正元(1912)年が七十五歳で、幕末、明治大正の両時代にまたがって、開国維新から西南、日清、日露の戦役のような日本未曾有の大事変に際会し、艱難のためにますます玉成されたという大人豪である。
 公は、毛利家の最下級士族の山県三郎有稔(注・ありとし)の長子で、家格がきわめて低かったにもかかわらず、厳父が国学者で気概のある人物であったので、幼い時から経史(注・四書五経など儒教の経典と史書)を授かり、また厳父が好んだ和歌、謡曲なども仕込まれた。また少年のころから撃剣、柔術を習い、ことに槍術は、岡部半蔵について免許皆伝を得られたそうだ。
 幼名を辰之助といい、長じて小助と改め、ついで狂介、あるいは素狂と称した。一時変名して、萩原鹿之助と名乗ったこともあったが、維新の際から有朋と改めた。後年には、さらに含雪と号し、その居所にちなんで、椿山荘主、芽城目白山人、古稀庵主人などの雅号を持っていた。
 二十歳ごろから、国事多端(注・国に関する事件が多発するようす)になったので、同藩の志士、高杉晋作らと計画して、有名な奇兵隊を組織した。それを率いて藩中の俗論党を制圧したり、長州征伐にやってきた幕府軍に対抗したりして武将としての名声をあげたばかりでなく、長州藩の勤王の使命を帯びて、しばしばあちこちに奔走し、当時の同藩の多士済々の間にあって、きわだった頭角をあらわされた。
 維新の皇謨(注・こうぼ。天皇が国家を統治する計画)が決定するや、藩兵を率いて東北に出陣し、越後口においては、頑強な敵兵との難戦苦闘が数か月にわたり、ついには掃蕩(注・敵を完全に除き去ること)の功を全うした。

 明治政府が成立すると、引き続き軍政の局に当たった。大輔、卿となり、徴兵制度を確立し、わが国の陸軍の創設者となったのである。
 明治十八(1985)年に内務大臣に任ぜられると、孜々として(注・ししとして=熱心に)市町村自治制の制定に尽力し、次いで欧米視察を終えて帰朝してすぐに、明治二十二(1889)年末に第一次帝国議会の総理大臣になった。それから間もなく日清戦争となって第一軍司令官になった。その半ばで病気で帰国されされたが、帷幕(注・いばく。司令部)に参画した功は非常に大きく、その後、遣露の使命を帯びてロシアの首都(注・サンクトペテルブルク)に赴いた。
 次いで明治三十一(1898)年、再び山県内閣を組織し、日露戦争が起きると参謀総長として帷幕の大任に当たることになった。
 平和回復後には要職を後進に譲り、みずからは政局には当たらなかったものの、枢密院議長として至尊(注・しそん。天皇のこと)の輔弼の任を果たした。ここでも老来倍々蹇蹇匪躬(注・けんけんひきゅう。自分のことは後回しにして苦労を重ね主人に尽くすこと)の節を通したので、ふだんは謙抑(注・へりくだって控えめにすること)しているにもかかわらず、国家の大事にいたっては公の一断を待つ者は多く、威望隆々としていた。人は時に、それを徳川家康になぞらえ、あるいは大御所などと称するようになったのである。
 文武の両面において非常にすぐれた人物であった。世界にその比類を求めるならば、厳毅誠忠の武人にして文勲もあった、かの蘇轍(注・北宋の文人)に、「入っては即ち周公、召公(注・ともに西周の功臣)、出ては即ち方叔、召虎(注・ともに西周の功臣)」と讃嘆された宋朝の韓魏公(注・韓琦[かんき])、北宋の政治家)、もしくは、ワーテルロー(原文「オートルロー」)でナポレオン一世を打ち破り武勲の名声高く、しかも経綸の才幹も備えて国政の料理に任じたイギリスのウェリントン公などが、ほぼこれに相当する人格であろう。
 私は明治二十三(1890)年に井上世外侯爵の紹介で初めて山県公に謁見したが、その時は丁度二年間の欧米視察を終えて帰国したときだったので、一夕、公と相会して、欧米見聞談を披歴したところ、公はその翌日に井上侯爵に面会のときに、「昨夜、高橋と会見したが、一見、旧のごとくであった」と言われたそうで、私は井上侯爵からそのことを伝聞して身にしみじみと知己の感を抱くことになったのである。
 その後私は、三井家に奉公していたので別段公と交渉するという要務もなかったし、自分からも進んで公を訪問するということはなかったのに、公は、何かの機会があるごとに私を招いて共に語り、また他から招かれたときに私を誘引して同席させることも少なくなかった。
 公は、職務その他に何らの利害関係のない私を常にその身辺から離さず、以来三十年余りのあいだ、台閣と江湖(注・政府と民間)、大官と処士(注・政府高官と民間人)という立場で、出処進退がまったく没交渉である私と公が、なぜともなく始終相接近したのである。公はその都度、胸襟を開いて、なにくれとなくその感想を洩らされたということは、世に言う相性(原文「合性」)というものであろうか。私はこのような公の知遇に対し、心から感謝の念に満ちているので、公の三回忌に当たって「山公遺烈」と題する一書を著述し、私と公との遭遇について叙述した。ここでは紙面を割くことをしないが、そのとき、私は同書のうしろに、七絶一首を題して、いささかの知遇の感を述べたので、ここにそれを掲げることにしよう。

   江海雅懐容我狂 卅年知遇感平生 悲風颯入一枝筆 泣写名公憐士情


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二百六十五  小倉色紙披露会(下巻426頁)

 昔から、名品を獲るは易く、これを使うは難しい、とよく言われるが、私は小倉色紙を手に入れたとき、殊にこの感を深くしたのである。
 私が小倉色紙を手に入れたのは大正七、八(191819)年ごろで、そのときは箱も付属物もなく、全く丸裸のままだったが、上下が浅黄地銀襴、中(注・中廻し)が紫印金、一風(注・いっぷう=表装で一文字と風袋を合わせた略装)が上代紗の表装で、もともと並々ならぬものであることはもちろん、色紙は古筆家の、いわゆる白色紙で、砂子または地紋がないだけ文字がはっきりとして、いかにもみごとなものであった。
 その歌は、

    高砂の尾上のさくら咲きにけり とやまのかすみたたすもあらなむ

というものだった。
 そこで、だんだんと調べてみると、これは久世大和守家の伝来品で、現在は子爵久世広英氏の所蔵だったが、わけあって、中身だけが世間に出て、利休の添文と、畠山牛庵(注・畠山光政、書画鑑定家)その他古筆の外題(注・書籍,掛物,巻物などの外側につける題箋)はいまも久世家に残っているということがわかったので、その後、子爵に懇望して付属物全部をまとめることができたのである。

 さて、この色紙の伝来を見てみよう。一条殿御所持のあと、仙石兵部殿(注・仙石忠政か?)へ行ったのち、細川三斎のもとで表具に趣向が凝らされ、そこから一柳殿へゆき、同家の息女が金保安斎方への嫁入りの際に持参して、その子の道訓に伝わったということである。白河楽翁(注・松平定信の「集古十種」、松平不昧の「古今名物類聚」のどちらにも久世大和守所持とあるので、寛政年間(17891801)にはすでに同家の所蔵になっていたものと思われる。
 小倉色紙は、利休の時代から世でもっとも重んじられ、大大名家になくてはならぬ重宝として、お家騒動の種にすらなったものである。なぜこの色紙が珍重されたのかというと、それより以前には寸松庵色紙、継色紙、升色紙、俊頼大色紙などというものがあったが、それらはいずれも巻物を切ったり、歌帖をばらばらにして色紙形に作り直したもので、本物の色紙として生まれたのは小倉色紙が最初だったからである。
 この色紙がひとたび世に出たあとは、為家の色紙がこれに続き、さらに下って有名な宗祇法師の大倉色紙などが出てきた。そして、色紙の元祖が小倉であることから、自然に世の中でもてはやされるようになったものと思われる。
 またこの色紙は、山荘のふすまに張り付けたので、遠くからでも読めるように特にその字を大きくしたようで、茶人がこれを珍重するのも、その文字が大きく一見して非常にはっきりしているためであるとも思われる。
 前述した久世家の小倉色紙には、利休筆定家卿色紙弥弥秘蔵云々(注・原文では卿が郷となっている、誤植か)の添文掛物が付属していたので、大正十(1921)年四月二十二日から、赤坂一木町の一木庵において、これを披露する茶の湯を催すにあたり、私は待合の壁床にこの利休文を掛け、本席に例の色紙を掛けて連会すること十日にわたり、茶友七十人余りを招待した。

 この時の益田鈍翁の謝状に、次の一節があった。(注・旧字を新字になおしたほかは原文通り)

 「小倉の色紙でお茶を頂戴すると云事は、昔は大々名でなければ及びもない事なるに、今や箒庵子より此光栄を賜はつたのは、誠に老後の仕合である。待合で利休の添文を見たので、扨てこそと思ひつつ本席に入れば、果して小倉色紙が掛つてあつたが、表装は細川三斎好みで、久世大和守家に伝はり、出来も殊更美事にして、一見頭の下がる者であつた。斯くて庵主は此掛物に配するに、青磁桃の香合を以てし、花入は紹鴎所持古銅桃底に白玉椿を活け、茶入は金森大海、茶碗は黒光悦で、何れも名物揃えなれば、何れの茶会でも、無遠慮に勝手の事を言ひ合ふ連中も、今日ばかりは襟を正して、大々名に成り済ました心地がした。併し茶会の終りまで、客を緊張させて置く庵主でないから、濃茶が終ると、伊賀の水指、庸軒(注・藤村庸軒)好み朱棗、無地刷毛目茶碗に薩摩を取合せ、如何にも平民的気分に為したのは、庵主が苦心の存する所で、濃茶の間は、厳粛なる謡曲の如く、薄茶と為りては気の利いた清元とも謂ふべきか云々」

 鈍翁は茶道に於ける千軍万馬往来の老将なので、その品評も急所にあたり、主催者が心の底からうなずくことができるものである。
 思うに、小倉色紙は、もともと百枚あったものだろうが、寛政年間(
1789
1801)の松平不昧の調査では現存が二十八枚とされ、その中で、茶事に使用することができるのは「八重葎」、「ほととぎす」、「いにしへの」、「誰をかも」の四枚のほかは、今回の「高砂の」の一枚を合わせて、わずかに五枚を数えるに過ぎない。であるから、古宗匠がこれを使用するにあたって一世一代の工夫を凝らしたことが美談となって後世に伝えられているものもある。 

 利休が某家の茶客になったとき、その露地に落葉が掃き残してあったのを見て、さては、当家で秘蔵されているという「八重葎」の色紙が掛けられているに違いない、と予言したという逸話も残っている。
 また、ある大家は、暁の茶会を催し、「ほととぎす」の色紙を掛け、室内に灯火をともさず、四更(注・しこう。午前4時ごろまでの早朝)の月光が、突き上げ窓(注・茶室に設けられた天窓)から差し込んで、掛物の上を照らし始めると、「ただ有明の月ぞのこれる」の文字が、ありありと読めるようにしてあったということもあった。
 しかし私の色紙披露会は、前述のように平々凡々で、なんら茶興をそそるほどの趣向もなかったが、来客の方からは、さまざまの論評を寄せていただいた。ある人が、一木庵は奈良興福寺殿堂の古材を柱としているから小倉色紙とは調和しないだろうと言ったのに対し、故団狸庵翁(注・団琢磨)が、小倉色紙は仮名でこそあるが、その文字が大きく、一種独特な墨蹟であると言えるものであるから、古材の太柱席と調和しないはずはないだろうと言われたなどは、確かに傾聴すべき一説であると思う。この披露会も、おかげでお茶を濁すことができたのは、まったく茶友の厚情のおかげで、そのことに深謝せねばなるまい。


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二百六十四  益田紅艶冥土入り(下巻422頁)

 東都名物男の随一であった益田紅艶英作氏は、持病の糖尿、腎臓病に二回の脳溢血を併発し、大正十(1921)年二月二日、享年五十七歳をもって悠然と冥土に出立した。
 氏は、故益田鳳翁の末子(原文「季子」)で、伯兄(注・長兄)に孝男爵、仲兄(注・次兄)に故克徳を持ち、兄弟三人それぞれの特長をもって当世に栄達したが、中でも氏は飄逸な天才肌で、社会の各方面で数々の奇談逸事を残した。
 この名物男についてはすでに何度も記述したことがある(注・
80・千葉勝と紅艶181・脱線党の一人者などを参照のこと)が、今回は永別に臨み、ここに二、三の興味ある行実を叙述してみることにしたい。

 紅艶は慶応元(1865)年生まれで、明治十一(1878)年十五歳の時、遊学(原文「見学」)のためにまずフランスに行き、ついでイギリスに渡り、アメリカにはもっとも長く在留したので英語に堪能であることは言うまでもなく、英文の手紙を書かせては邦人中、彼の右に出る者はほとんどなかったという。
 その後彼は三井物産会社に入り、英、米、シナの各支店に転勤したが、本来が剽軽な性質なものだから、他からの束縛を受けて規則正しく勤務することが好きになれず、三十歳ごろからはやくも気随気ままな生活に入った。
 明治二十六(1893)年、彼がはじめて日本橋区浜町に構えた小宅で初陣茶会を催したときには洋行帰りのほやほやで、一半の西洋趣味を加え、来客を香水風呂に入れ、床には芭蕉の、

    無惨やな兜の下のきりぎりす

という句入文を掛け、余興には河東節の邯鄲の一曲を出すなど、彼がのちのち一流を開くことになる趣向茶の処女的なひらめき見せたのである。これは、彼の茶道における魔法使いの始まりであった。

 紅艶は美術鑑賞において一隻眼を有した。ふだんの金遣いは、いわゆる握り家(注・けち)の方だったが、美術的名品に対しては驚くほどに大胆不敵で、思い切った奮発を辞さないところがあった。
 その所蔵品には新古さまざまなものがあり、中には観音だの阿弥陀だのといった古仏の手足の断片などもまざっていたが、彼の説によると、世界中で手足がいちばん自然に発達しているのは日本人だということで、その日本人において、生まれてからまだ何らの圧迫を受けていない子供の手足はもっとも自然美に近いものである。すなわち、古仏像の足の部分などは、それを手本に作ったものなので、土踏まずのない、むっくりした柔らかい子供の足に近い美形を保っているとのことである。その断片によって四肢顔面を想像すれば、仏像全体の美観がおのずから眼前に現れてくるので、真に古仏像を愛玩しようとする者ならば、手足の断片だけを見てもその美想を満足することができるのだという。この一事からしても、彼一流の見識を知るに足るのである。

 紅艶の逸事は、茶事、美術鑑賞のほか、音曲舞踏方面で一番多いようである。
 彼は、図体が大きな割には、声が細くて甲高く、その節回しのあどけなさがまるで子供のようで、しかも独りよがりの大天狗なので、さまざま奇談を残すことになった。
 彼の音曲の皮切りになったのは河東節で、十一代目山彦秀翁(注・十一代目十寸見【ますみ】河東)に弟子入りをした。例の「夜の編み笠」で、白鷺の一節を得意とし、かねがね長兄の鈍翁に自慢していた。
 さて鈍翁がある日、汽車の中で秀翁に出会ったとき、ついでに、紅艶の河東節はどうですかときいてみると、もともとお世辞っ気のない秀翁は、「英作さんの調子外れときては、いやはや、まことに困りものでげす」とやっつけたので、これを伝え聞いた紅艶は、半時ばかり呆然としたのち、その日のうちに河東節をやめてしまった。
 今度は転じて長唄の門にはいり、吉住小米についておおいに勉強しつつ、例の工夫沢山で、「有喜大尽」の大石(注・大石内蔵助)を、成田屋張りで語るという調子で、いたるところで喝采を受けたのを真に受けていた。ところがある時、小米の稽古場で、師匠が自分の噂をしているのを立ち聞きしてみると、「紅艶さんときたら、いつまでたってもアノ通りで、先の見込みがありませんよ」という始末で、紅艶おおいに悟るところあり、この時から河岸を振り事(注・歌舞伎舞踊)の方面に変え、さらにより多く珍談を残すことになったのである。その顛末については、長くなるので他日に譲ることにしよう。
 紅艶は、その死後、築地本願寺境内に葬られ、円融院釈霊水居士という法名をつけられた。霊水とは、無論、彼の目黒の茶室である霊水庵からきた名称だが、円融とは、本願寺の和尚が勝手につけた法名で、この二字はもっともよく故人の性格をあらわしているだけでなく、あのステテコ踊りで有名だった故三遊亭円遊とその音便が似ているので、ある友人は

    ステテコを地獄で踊れ円融院

と口ずさんだそうだ。紅艶が冥土でこれを聞いたなら、「敵ながらあっぱれでげす」とうなずくことだろう。
 朝吹柴庵という大名物を失って間もなく、この大道具があの世に落札されてしまっては、東都の雅俗両社会は、ともに大いなる寂莫を感じないわけにはいかない。
 この種の人物は、花は咲いても実は結ばぬというのが常なのに、紅艶はまったくこれに反し、生前にはあらん限りの気随気ままを尽くしながら、死後に大資産を残しているから、これこそまさに雅俗両諦に通じた完全な処世と言ってもよさそうだ。
 史記に、滑稽列伝貨殖列伝というのがあるが、大正時代の太史公(注・司馬遷)なら彼をどの列伝中に収めるであろうか。とにかく彼は、明治後期から大正時代にわたって、一種出色の名物男と称するべき者であろう。
 


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二百六十三  玉菊三味線供養(下巻419頁)

 大正十(1921)年七月十日ごろのこと、小泉三申、馬越化生の二老連名の招待状が机上に舞い込んできた。また結婚披露かなと思って開いてみると、珍しいことに古三味線供養と題する次のような案内状であった。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)

 「享保の遊女玉菊が持ちし古三味線一挺、伝えて老友知十子(注・
岡野知十)の許にあり、玉菊が河東節を好みしより、その追善に水調子(注・河東節の楽曲名)一曲あり、今なお伝えられる。『灯籠に亡き玉菊の来る夜かな』盆後十七日を卜し(注・ぼくし=よいと判断し)この古曲をもって、この古三味線の供養を営み、しばらく現代をのがれ、二百余年の昔の夢の世に遊びたく、御来聴被下候わば、施主の本懐不過之候敬白。」


 この案内の末尾に、会席は七月十七日夕六時、赤坂三河家に設けしめ候と書き添えてあった。
 馬越恭平翁は、それまで花柳国における千軍万馬往来の古武者なので怪しむ理由もなかったが、最近は政治界において、当代の蘇秦、張儀(注・ともに中国戦国時代の政治家)と目されつつある三申老が、通人粋士のお株を奪ってこのような会合の主人になったというのは非常に面白い出来事であるといえた。
 そこで、なにはさておき示された時刻に三河家に出かけてみると、大岡硯海(注・大岡育造)、望月圭介、大倉喜七郎、高田釜吉、山本条太郎の諸君と、岡野知十、中内蝶二、久保田米斎、西山吟平などという文芸連が顔を揃えており、取り持ち、兼、感服役として、吉原の元老であるお塩、お〆、あるいは瓢家、蜂龍、弥生の三老女将が居並んでいるその様は、十六羅漢と和尚塚の婆さんが一座に会合したような光景だった。

 そのなかに、両手に剣と縄を持った不動尊のような岡警視総監(注・岡喜七郎警視総監次席か)が泰然として着座しているのが、すこぶる異様な観を呈していたものだから、私は小声で、
    灯籠に総監殿の来る世かな
と、隣りの客に耳打ちしながら一笑したものだ。 

 この晩の趣向を見てみよう。寄付では、岡野知十著「玉菊と其三味線」と題された小冊子と、享保十一(1726)年に、玉菊追善のために竹島竹婦人が作った水調子という一曲の刷り物が配られた。本館二階広間では、正面床に古画の阿弥陀三尊来迎仏を掛け、時代根来(注・漆塗り)机に、知十翁所持の、玉菊遺愛の三味線を横たえて、そのかたわらに古銅水瓶形花入に、百合、桔梗、撫子などの草花を満々と活けてあった。右床脇の唐物箔絵卓上には、古青磁、竹の節香炉と、時代青貝香合とを置き合わせ、左床脇には、玉菊三味線の外箱やら、その三回忌に発行された「袖草紙」という追善句集、そして安政三(1856)年に宇野千万年が富本組太夫のもとめに応じて書き下ろした「其俤(注・おもかげ)伝染(うつ)る玉菊」と題する古版本を陳列してあった。この飾り付け品の大部分は三申翁の出品であったという。

 この晩、高田釜吉君は玉菊の霊に手向けるために、後の白河という伽羅の名香を持参されたが、その心入れには会主もおおいに感服し、すぐさま例の竹の節香合炉に薫じられた。
 玉菊は臨終の三日前、伽羅が欲しいといって、わざわざ知人のもとに使いを出したということだから、これは今日の会合にとって何より結構な供養となるだろう。
 さて顧みて席上を見回すと、座敷の中央天井から、せいろ形白張大灯籠を釣り下げて、その周囲に小形の切子形灯籠を十数個吊るし中に電灯をともし、河東節の紋と蓮の透かし模様をつけた白紙を、尾のように長く垂らしてあった。この紙片が風鈴につるした短冊のようにひらひらと夕風に吹きなびくところは、万斛の(注・ばんこくの=はかりきれないほど多量の)新凉、忽地(注・こっち=急に)に生ず、といった趣があった。
 本場の吉原では、年中行事の玉菊灯籠がすでにその跡を絶った今日このごろなので、赤坂方面にこの灯籠がぶら下がったのを見て、地下の玉菊もさぞかし戸惑っているのではないかと思われた。
 さて一同が座につくと、この座敷の入り口の両側に吉原仲之町の文字入りの長提灯を置き、吉原で享保のころから今日まで繁昌している竹村伊勢という巻煎餅屋の菓子箱を積み重ね、その中から昔ながらの煎餅包みを取り出して一同の前に配ったので、いよいよ一座に吉原気分がみなぎることになったのは、すこぶる振るった趣向であった。
 さて玉菊三味線供養の余興には、最初、赤坂の歌妓である澄江、小鈴の唄、三助三味線の水調子、つづいて当代河東節の家元、山彦秀次郎(注・このころにはすでに山彦秀翁)の唄、小鈴と澄江の三味線で廓八景が出てきた。昔からこの水調子を演じるときは、玉菊の幽霊が出てくるという伝説があるそうだ。
 元来玉菊は酒好きで、きわめて明るいさっぱりした気性の女で、しかもよく河東節を語ったので、その時代の粋士の人気を集めたようで、抱一上人(注・酒井抱一)が「鰹にて一つ飲むべし玉菊忌」と詠じたのは、まったく彼女のすべてを言い表したものであろう。
 最近では、世間があまりにも硬化して、会合というと、諸君よ、諸君よ、という者が多いなか、化生、三申の両翁が江戸趣味たっぷりのこの会を催されたことは、私たちにとってまことに万斛の清涼剤に値する心地がしたのものである。そこで、この夜の所見の大要をすっぱ抜いて、後日の語り草に供する次第である。


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二百六十二  名笛大獅子(下巻416頁)

 私は大正九(1920)年十二月、梅若舞台で井筒の能を勤めた。この能は、九番習い物(注・修得のために特別な伝授が必要なもの)で、きわめて静かな序の舞がある。
 舞はもちろん笛で舞うものであるから、笛方が上手でないと区切れ目がはっきりしなくて、足拍子が非常に踏みにくくなってしまう。私はいつも笛を杉山立枝翁に依頼しており、今回もまた翁にやっていただいた。翁は元福岡藩士で、千石を領した大身なので、旧藩時代には、あるところで隊長となって金子堅太郎なども配下について調練を行ったことがあったそうだ。
 能管(注・能楽などに用いられる横笛)については、もちろん余技として習われたわけだが、体格が頑丈で、息が非常に長く強い人だったので、黒田家の名笛である大獅子を吹きこなすほどの力量があった。明治後半から昭和六(1931)年にいたるまで、東都の能舞台において、翁と肩を並べられる笛師はきわめて少なかっただろうと思う。
 さて翁は十二月三日に拙宅にみえ、例の大獅子で序の舞一段を吹奏し、初段卸しの左右二つ拍子などについてそれぞれ打合せが済んだあと、一場の芸談をされたのである。その大要を述べてみよう。(注・旧字を新字になおした)
「私は福岡藩の士族で、明治二十九(1896)年上京するや、黒田家先代長知侯が、能の太鼓に堪能なので、時々お相手をしましたが、長知侯薨去後、飯田巽氏等の発起で、その追悼能を催したとき、かつて中村三右衛門といえる笛師が持っていた天下の名笛大獅子が黒田家にあることを知り、これを拝借して、古市公威、三井元之助連獅子の、石橋(注・しゃっきょう)を勤めようと思いました。この中村という者の子は三四郎と申し、父にも劣らぬ名人でありましたが、不良性を帯びた人物とみえ、あるとき炬燵にあたりながら、大獅子を吹いていたのを、父が見とがめて小言を言ったところが、彼は怒ってその笛を柱に投げつけて、歌口を二つに打ち折ってしまいました。
 しかるに、その後、折れたところが継ぎ合わされ、黒田家の御所蔵となっていたので、私は今度追善能を勤むるに、これを拝借せんとしましたが、いずれにしまいこんだやら、いかに宝蔵内を捜しても、その笛が見当たらぬというので、私は非常に残念がっておりましたが、しあわせのことには、演能間際にいたって笛が宝庫中より発見されたという報告を聞き、長知侯の御霊のお引き合わせかと思いて、それより非常に勇み立ち、その笛で無事に追善能を勤めました後、一時この笛を私が拝借することとなりました。 

 ところが、ほどなくこの笛が、黒田家の世襲財産に編入されたから返上せよという命令がありましたので、私は我が子に別るるよりも悲しき思いで返上しましたが、私はなんとしてもその笛に別れて居ることができず、あるとき金子子爵にお目にかかって、このことを嘆願すると、黒田家の宝庫にしまっておいても、なんの役にも立つまいから、自分が黒田家に談判して、再びその方に貸し渡さるるようにしようとて、いろいろご尽力の結果、またまたこれを拝借することを得て、大よろこびでありましたが、あるとき舞台で、力強くヒシギ(注・高く鋭く強い音)を吹いたところが、最初折れたところより、またまたポッキと折れてしまったので、にわかに人を楽屋につかわして、同業者の笛を借り受け、かろうじてその場は間に合わせましたが、この笛は自分の体格と相応したものとみえ、普通の笛よりも少しく大きく、同業者などにてこれを吹きこなすものはありませぬが、自分としては、他の笛ではとても大獅子のごとき音色を出すことができないのであります。
 名笛というものは不思議なもので、私にはほとんど生命のごとくに思わるるので、平常懐中して肌身離さず、寝るときは枕元に置いて、何か変事があったら、自身が携帯して立ち退くよう、一夜たりともこれを離したことはありませぬ云々」
 杉山翁は、以上のように語り終え、私に大獅子の笛を見せてくれた。その笛は、普通のものより大型で、一見したところ五百年からたったもののように思われた。寂味十分で、歌口のところで二つに折れたところを、漆で継ぎ合わせた痕跡がある。笛の頭の凹部に、後藤祐乗の作だという金彫の獅子が張り付けてあるので、大獅子の銘があるのだろう。
 すばらしい金蒔絵の筒に納めてあったが、杉山翁が私の家の十二畳半の座敷でこれを吹くと、場所が狭いだけに、笛の音は一段と強く、ふすま越しに聞いていた荊妻(注・けいさい=自分の妻をへりくだった言い方)などは、呂(注・りょう)の音(注・低音域)になんとも言われぬ妙味があると、非常に感服していた。
 杉山翁は昭和七(1932)年に永眠したが、大獅子を一代の間拝借しつづけ、生前にその由来書をしたため、死後、黒田家に返納するつもりであると語っていたから、笛は、今では黒田家に返納されたことだろう。


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二百六十一  高野山霊宝館落慶式(下巻412頁)

 明治四十三(1910)年に発起した高野山霊宝館は、それから十二年をついやして大正十(1921)年五月十五日に、いよいよ落慶式を挙行する運びとなった。そこで最初からこの事業に微力を尽くしてきた私たちは、この日をもってようやく肩の荷をおろすことができたのである。(注・160「高野山霊宝館の発端」を参照のこと)
 そもそもこの霊宝館は、高野鉄道社長の根津嘉一郎氏らが高野繁昌の一策として建設する必要を唱えたものだった。高野山側としても、同山の開山一千百年の記念事業の一部としてその実現をさかんに望み、大師会の発頭人として知られていた益田鈍翁(注・益田孝)や、真言寺と自称して大師崇拝者であった朝吹柴庵(注・朝吹英二)らが発起人に馳せ参じたので、ここにいよいよその計画を立て資金勧募に着手した。
 しかしそれに着手したそのとき、最初からこの事業に熱心だった高野山宝城院住職の佐伯宥純師が突然遷化(注・せんげ=高僧の死去のこと)してしまった。そのためたちまちのうちに大頓挫を生じ、一時は計画を中止しなければならないことになりかけた。しかしこれでは佐伯師の霊に対して申し訳が立たないということで、私と野崎幻庵(注・野崎広太)でその事務所を引き受け、決然として資金募集を始めた。
 その意気に馬越化生翁が共鳴し、それからは三人で、あるときは知己の誰かれを勧誘し、あるときは諸大家道具入札会の札元たちを説いてその冥加金(注・奉納金)を徴収するなど、さまざまな手段を講じて、かろうじて十一万円を募集することができた。しかし物価騰貴のため、当初十三万円であった予算が、ほとんどその倍額に達していたので、発起人中の発起人であった下記の八名が各自、最低七千円、最高一万一千円を分担し、出資総額を十七万円にまとめた。
 一方高野山側では、当初からこの事業の相談役であった文学博士の黒板勝美、荻野仲三郎の両氏が調談の結果、館内の造作備品代金の十万円余りを支弁することになったので、双方の合計の約三十万円で霊宝館第一期計画を完成し、この日めでたくこの落慶式を挙行するにいたったのである。
 霊宝館は、正殿を中心にして左右に両翼を張り、回廊でそれを連接する構造(原文「結構」)である。今回は第一期事業として、正殿すなわち紫雲館と、左翼すなわち放光閣を完成し、右翼は第二期事業として将来の竣工を待つことにしたのである。
 こうして、この日は東京から発起人総代として益田鈍翁、根津青山、馬越化生、野崎幻庵と私の五名のほかに室田義文氏が出席し、九州からは安川敬一郎男爵、京都からは日置藤夫氏などが登山した。

 益田男爵が霊宝館寄進文を読み上げ、金剛峯寺管長の土宜法龍師が受納文を、建築技師長の大江新太郎氏が報告文を、馬越化生翁が祝詞を朗読し、首尾よく落慶式は終わった。
 黒板博士の筆になった霊宝館の寄進文は次の通りであった。

 「寄進し奉る高野山霊宝館一宇の事。
右当山は弘法大師入定の聖跡、三世諸仏集会の浄域なり、上天子より下衆庶に至るまで、一心帰依の懇志を致し、三会得脱の値遇を期す、是を以て蓮峰蘿(=カズラ)窟、徳風吹くこと一千百余年、霊宝秘珍、庫の充ち蔵に溢る、惜い哉、或は祝融の災に罹り、或は蠧魚(=紙魚)の食となり、日に散し月に失ふ者、其数を知らず、而して保存の法未だ立たず、展観の便尚ほ欠く、登山の輩、参詣の衆、多くを以て恨みと為す、是に於て明治庚戌の春、始めて霊宝館造立の発願あり、我等之を隨喜し、奉加四方に勤め、功徳一切に及ぶ、而して十余星霜を経、輪奐(=建築物が広大であること)の美未だ成らざるの間、座主密門大僧正を始め奉り、佐伯権中僧正、朝吹柴庵等、忽ち黄壌(=死後の世界)の長別を告げ、前後恨み極まりなき者なり、切に浮世の夢の如きを感じ、弥よ(=いよいよ)事業の遂げ難きを歎じ、更に多少の志を集め、纔(=わずか)に土木の功を終り、殿紫雲と称し、閣放光と呼ぶ、乃ち虔んで大師の宝前に寄進し奉り、聊か以て小願を果す、庶幾(=こいねがわ)くは、遍照金剛の威光弥よ輝き、普賢行願の梵風益加り、又願くは此微善に依り、故座主以下、聖霊出離生死頓生仏果、同心緇素(注・しそ=出家者と在家者)現当安楽、願望円満、乃至法界平等利益、敬白(原漢文)
 大正十五円五月十五日

      高野山霊宝館建設発起人総代
     益田孝     根津嘉一郎
     馬越恭平    村井吉兵衛   
     原富太郎    朝吹常吉

     野崎広太    高橋義雄

 霊宝館の右翼はまだ出来上がっておらず完全に竣工してはいなかったが、正館と左翼ができあがったので、什宝保存のため、また一般の人々(原文「衆庶」)観覧のために、今後幾久しく無限の功徳と便宜を生じることになるだろう。
 山間僻地の寺院に関する事業というものは、都会での同様の事業のようには華々しく目立つようなことはないが、概して永続的なものになりやすく、少しずつであっても後世に恵沢を及ぼすものが多い。たとえば鎌倉幕府の事業は、なにひとつ見る影もなく荒廃してしまったが、尼将軍政子(注・北条政子)が高野山に寄進した多宝塔は、厳然として今もその雄姿を留めているではないか。
 霊宝館建設の議が起こってから十二年、私たちは、時には托鉢坊主のようになって、勧化(注・寄付集め)に憂き身をやつしたこともあったが、今や本館が落成しその功徳が今後長く継続するのだと思えば、いささか骨折り甲斐があったものだと衷心(注・心の底から。原文「中心」)満足している次第である。

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二百六十  武井守正男懐旧談(下巻408頁)


 武井守正男爵は旧姫路酒井家の家臣で、維新前に勤王論を唱え、反対党のために迫害されて六年間入牢の身となり、非常な困難をしのいで維新の際にはじめて天日を見ることを得たのである。
 私が大正九(1910)年十月下旬に、本郷湯島の武井邸で男爵と四方山(注・よもやま)話の雑談中に、男爵は八十一歳の老齢にもかかわらず、かくしゃくとして、壮健な者をもしのぐように滔々と自身のことや姫路藩に関する懐旧談を物語られた。後人の参考になるべきものも少なくないので、ここに大要を述べよう。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)
 「自分は、維新前、姫路藩で勤王論を唱えたがため、執政より重譴(注・重いけん責)をこうむり、とうとう牢舎を申し付けられたが、その牢というのは、大阪にあった三重牢の模本によって建てられたもので、最後の一重は切り石を積み上げ、その石をはさんで栗の角材を組み合わせたものだから、その中は、ほとんど暗夜のように暗く、しかも三畳敷きに便所その他の設けがあるので、その長さ五尺(注・約150センチ)に足らず、平常精一杯に足を伸ばすあたわざるこの牢内に、仲間が三人同舎するので、背中を抱き合って臥するのほかなく、寝返りをなすときは、三人協議して、同じ方向に身体を転換する始末である。
 食事はひき割り(注・ひきわり麦の飯か?)の上に、たくあんの切れ端などを細く刻んで振りかけたくらいで、粗食きわまったものであるが、その粗食ならざれば、六年間もこの牢内に生存することはできぬのである。
 しかし自分等は、孟子のいわゆる浩然の気が満身に充溢して、文天祥(注・宋末の政治家。征服者の元からの出仕勧誘に従わず処刑される)気取りで、意気揚々としていたので、壮年の時でもあり、まったく気をもって生命を取りとめたものである。
 しかるにかかる悲惨事に遭遇した自分が、兄弟等のあとまで生き残って今年八十一歳の長寿を保っているのは、考えてみれば実に不思議なものではある。
 自分は性来、道具(注・骨董品)が好きなので、姫路酒井家が、いかにしてかがごとく多数の道具を集められたかにつき、しばしば古老の説をきいたが、同家は文化文政時代、かの抱一上人の令兄に、宗雅(注・そうが=忠以ただざね)公という君公あり、松平不昧公などの茶友で名器を愛好せられたためでもあるが、その実は、当時の一家老であった河合隼之介が、一見識をもって名器買収の藩是を立てたがためである。

 彼は学者政治家肌で、姫路藩執政らと意見を異にし、しばらく京都に潜匿していたが、君公が彼を呼び返して一家老となるに及んで、財政上に大手腕を振るい、種々の物産を興して、いまだ数年ならざるに酒井を富裕の大名となした。
 ところで彼は、一策を献じ、いたずらに金銀を後代にのこせば、馬鹿者が出で来たりて、これを浪費するのおそれあり、ためにかえって酒井家の安泰を害するべければ、この金をもって、ことごとく名器を買い置くにしかずとて、ここの名器買収の方針を定め、酒井家においては世間相場の倍額をもって、さかんに名器を買い入るるべしと触れまわったので、現今内務省になって居る、かの酒井家の通用門は、毎日道具屋の市をなし、当時の風説に、雲州家(注・出雲松平家)は金を吝(注・おし)むがため道具屋の方に人気なく、第一流の品物は金放れよき酒井家の方に集まったという。
 かくて、当時もし月並み的に藩庫に金銀を保蔵しておいたならば、とうてい永続するあたわず、元も子もなくなってあろうに、幸い名器を買っておいたので、今なお酒井家の宝庫に残って居るのは、まったく河合の卓識と言わずばなるまい。
 河合については、さまざまの事蹟が残っているその中で、彼は姫路の城下をへだたる一里ばかりなる仁寿山に学校を設け、そのかたわらに水楼と号する文人風の瀟洒なる住居を構造し、なお少しく離れて、風景絶佳なる高所に、六一亭といえる遊覧所をも備え、すべてこれを貴賓接待用に供されたが、この六一亭というのは、一望中に十一箇国を見渡すことができるので、日本六十六州の六分の一を眺望しうるという意味で、かく名づけたのである。
 また水楼には、河合と最も懇親であった頼山陽が長時日寄宿していて、姫路藩書生のために縷々(注・るる)講義をなしたこともあるので、同楼中には頼山陽の間と名づくる一室がある。
 また河合の自宅には竹楼という書斎があって、一切竹をもって構造したものだが、その記文は山陽遺稿に載せられてある。
 河合は右のごとく、学問好きの苦労人であったから、江戸においてもすこぶる高名で、水野出羽守の土方縫殿介ぬいのすけ、二本松丹羽家の丹羽粂之介と、あわせて、天下の三介と呼ばれたということである云々」

 武井男爵は書画骨董を好み、ことに印籠収蔵家として名高かった。酒井家から拝領品中には名品も少なくなく、中でも、銘「夏山」という伊羅保片身替茶碗は、茶人間には非常によく知られている。
 とにかく、維新の前後の国難にあたって鍛錬した気魄は老年にいたるまで衰えず、なんとなくドッシリとして、古武士の風格を備えた人物であった。


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二百五十九  大口御歌所寄人(下巻404頁)

 明治時代から大正時代にかけて、わが国に和歌界の重鎮であった御歌所寄人の大口鯛二氏が、大正九(1910)年八月中旬に、信州山田温泉風景館に避暑中に脳溢血にかかり長野病院に入院し、十月十三日に病勢が急変して享年五十七歳で溘焉(注・こうえん=死が急であること)白玉楼中の人となった(注・文人が死ぬこと)ことは、惜しんでも惜しみきれないものがある。
 氏は名古屋出身で、通称、鯛二の鯛の字を分けて、周魚といい、また旅師、あるいは多比之と称した。また、住居は白檮舎しらかしのやと号した。
 はじめ伊東祐命翁に学び、のちに御歌所にはいり高崎正風翁に親炙した。和歌に堪能で、勅題の「寄山祝」の一首は、当時、入選の光栄にあずかった。
 和歌に堪能な者は、概して歌学にくわしくないものであるが、氏は博覧強記で、歌学の知識がきわめて広汎なうえに、詠歌もまたうまかった。
 さらにその他にも、書道は嶄然として(注・ひときわ目立って)一家をなしていた。ふだんは、行成(注・藤原行成)風の書体を好まれたが、その源流を同じくすることから、近衛予楽院(注・このえよらくいん=近衛家煕いえひろ)の筆跡を愛重した。その書翰(注・書簡)などは、往々にして、本物に迫るほどで、このように書道に堪能であるために、平からあまねく古筆物の研究をして、その鑑識眼は並々ならず(原文「凡を超え」)、歌人として、才、学、識の三長をほとんど兼ね備えていた点、近来稀にみる大家であった。
 氏は名古屋出身であるがため、さまざまな風流趣味を解し、みずから茶会を催したことはないようだが、茶客になると巧妙な辞令で書画器具を品評したもの
だった。その会の趣向を観察しては、それに対する臨機の挨拶をするその客ぶりの殊勝であるところなどは、ほとんど専門家をしのぐものがあった。

 氏はまた、すこぶる勉強家で孜々(注・しし=熱心に、せっせと)として後進を誘掖(注・ゆうえき=導き助ける)したので、全国にわたって和歌の門弟が非常に多く、「ちくさの花」という雑誌を通じて、間接直接に、天下の歌学者を薫陶したその数は、幾万人になるか知れない。
 近年、御歌所を辞して門下の教導に専念しようとしたとき、明治天皇の御歌集編纂委員を命じられ、その編纂が終わるというときに、今度は昭憲皇太后御歌集編纂委員に取り掛かることになった。それでその前に、来年が十回忌に当たる高崎正風男爵の歌集の手写をして、それを今年中に完成しようとして、七月ごろから習字を始め、山田温泉で心静かに歌集の手書きに着手しようとして同地に滞在中に脳溢血にかかり、ついに易簀(注・えきさく=学徳ある人が死ぬこと)するに至ったのである。
 大口氏は、行成流の書道に深く通じ、好んで古筆物を研究していたため、京都西本願寺において、あの有名な三十六人家集(原文「歌集」)を発見した大功績を持つ。
 明治二十九(1896)年八月、大口氏は西本願寺法主、大谷光尊伯爵の依頼を受け、同寺の古文書類の整理のため、約一週間を費やして、くまなく宝庫を捜索したのであるが、古筆物としては、わずかに藍紙万葉の一片を発見しただけだったので、失望のあまり、まだ何かほかに見つけようと根気よく探索している最中に、古ぼけた小箱の中から、思いがけなく天下の名宝、三十六人家集が光明赫燿(注・かくやく=光り輝いて)として出現したので、大口氏は夢ではないかと驚き、早速、光尊伯に見せ、この名宝の発見を祝したのである。そして許可を得てその一部を東京に持ち帰り、同行者を自宅に集めこれを展示せられたが、私はこのときはじめてその古筆帖を一覧したのであった。
 その三十六人家集が、いかにして本願寺に伝来したかを取り調べたところ、これは後奈良天皇御即位のとき、当時の王室は式微の極み(注・非常に衰えていること)で、その費用を用立てることができなかったため、本願寺が見るに見兼ねて、献金を申し出たので、その御会釈(注・天皇のあいさつ)として、当時の門主である証如上人に天皇から下賜されたものである。
 女房奉書ならびに付属の目録があり、さらに証如上人の日記、天文十八(1549)年正月の条にこの歌集拝領の文言があり、古筆物として天下第一と称せられたにもかかわらず、久しく本願寺の倉庫中に埋没して誰もこれに気づかずに、大口氏が発見しなかったならばどうなっていたのかもわからなかったのであるから、この歌集が存在する限り、大口氏の発見の功績は決して没却してはならないのである。
 大口氏は能書であるうえに筆まめで、私などが作歌の添削を頼むと、長文の手紙で諄々としてお返事くださるということを常とした。また詠歌は多作なほうだったので、その一代の和歌は、おそらく幾万首かに達していたであろう。
 その歌風は人物、気質ともに、温雅流暢であった。その一例を挙げる。

      春朝
    窓の戸をあけはなちても寒からぬ あしたとおもへば鶯のなく
      春雨
    庭見れば松のかげまでぬれたれど いまだ音せぬ春の雨かな
      松間の月
    山松のかけふむみちのつづらをり をりをり月にそむきけるかな
      魚
    いくそたびおしながされて山川の はやせを魚ののぼりゆくらむ

 大口氏は、詠歌と書道に堪能であったほかに、歌学の講義もまた決して人後に落ちず、大正初年に私の一番町邸で源氏講義を開かれたときには、山県老公、同人らも参聴され、永眠の際には、公爵も非常にその歌才能を痛惜された。氏が比較的短命で逝去されたことは、歌道のために、まことに惜しむべきことであった。

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二百五十八  鴻池家名器(下巻401頁)

 私は大正元(1912)年に大正名器鑑の編集を思い立ってから、その下準備には数年間を要したが、その後いよいよ目算も立ったので大正六(1917)年から実物の検覧や撮影などに着手し、日本全国いたるところの諸名家を歴訪した。
 大阪の鴻池善右衛門家は、二百年来の自家の道具を他人に見せたことがなく、ことに、維新後には、お出入り道具商といえども、ほとんどこれを見た者がないという噂を耳にしていた。だから、今回これを拝見しようとするなら、頭を使った臨機応変な調整(原文「大いに手加減」)が必要だろうと、百方考慮の末に、鴻池家の大番頭であった蘆田順三郎氏に頼み、まず大正名器鑑の目的を説明してもらうことにし、もしも鴻池家の名器を収録することができないようなことがあると、名器鑑の編纂そのものが、ほとんど無意味になってしまうので、本事業のために、是非とも男爵の援助を乞いたい旨を申し出た。
 すると善右衛門男爵は乗り気になり、「さらば、これが名器の国勢調査であるな」と戯れ(注・ざれ)つつ、快く承諾された。そこで大正九(1910)年五月四日午前九時から、大阪市瓦屋橋鴻池別荘において同家の名器を拝見する段取りとなり、私は、名器鑑編集員および写真班一行の四人を帯同して同別荘に出かけた。
 男爵はいたって綿密な人で、前日にはみずから出向いて展観する名器はもちろんのこと、接待方面にまで万端の指揮をされていた。当日の接待は蘆田氏に命じ、内事係の草間繁三と、お出入り茶器商の砂元吉老を接伴役にして、私たちをまず唐子の間に案内された。
 この唐子の間というのは、六畳敷きの広間で、これに続いて四畳に三尺四方床付(注・一尺は約30センチ)の茶室がある。その間のふすまの腰張りが、足利末期の名家によって描かれた極彩色唐子遊びの図なので、当家ではこのように呼んでいるのだそうだ。(注・唐子とは、唐風の服装と髪型のこども)
 さて案内にしたがい、この四畳茶席にはいり、その三尺四方床を見ると、珍しいことに寸松庵色紙がかかっていた。
 その歌は、

   色も香もおなじ昔にさくらめと 年ふる人そあらたまりける

というもので、私は今日はじめて当家にこの色紙があることを発見した。
 そして、その下に置かれた花入は、高さ尺二寸ほど(注・約36センチ)、底の方がやや張っており、轆轤(注・ろくろ)のあとがキリキリとねじ上がり口縁のあたりにまで達している。その口縁の一端から一端まで、反橋(注・そりはし=太鼓橋)のような取っ手がついているという極めて珍しい(原文「異常なる」)伊賀焼である。そこに、純白の大山蓮花(注・オオヤマレンゲ)を活け、根〆(注・生け花で挿した花や枝の根本を整える花材)に、都忘れという紫色の花を添えてある。その風情は、なんとも筆舌に尽くしがたいものであった。
 こうして、御道具拝見の前に、炭手前から始まり、正式の懐石ならびに濃茶の御馳走があり、そのあとにいよいよ展観席に入り名物の拝見となった。

 その日拝見したものは三十点を数えたので、そのひとつひとつについて今述べることができない。よって、その中で、もっとも高名な古田高麗茶碗に関する挿話だけを紹介することにしよう。

 鴻池家所蔵の古田高麗茶碗は、昔から最も有名なものであるが、この茶碗が当家に伝来した逸話についてきくことになった。
 それは、天明年間(注・1782-1788年)のことで、この茶碗を買い入れた主人は、当男爵の曽祖父で、炉雪と号した数寄者であった。そのころ大阪の加島屋(原文「鹿島屋」)広岡家に、紅葉呉須と称する茶碗昭和三年、広岡家蔵器入札売却の節、十八万九千九百円で落札、維新後に売買された茶碗の最高額であるがあって、関西第一という評判であったが、炉雪翁はあるとき、お出入り道具商の加賀屋作左衛門に、「方今(注・ほうこん=現在)、世間に、広岡の紅葉呉須に勝る茶碗があるか」と問うたところ、加賀作は一議に及ばず(注・議論するまでもなく)「古田織部所持の古田高麗茶碗は、只今江戸吉原、扇屋宇右衛門が所持しておりますが、かの茶碗ならば、たしかに紅葉呉須に勝っております」と答えたので、炉雪翁の喜びは並ではなく、「さらば、代価にかかわらず、その茶碗を買い取り来たれ」と、加賀作に申し付けた。
 さてその茶碗は、天明のころ、古筆了泉の所蔵だったが、了泉が廓通いの金に窮して、当時、吉原の見番、大黒屋に質入れし、ほどなく扇屋宇右衛門の手に渡ったのである。
 加賀作は、上方の物持ち主人のような扮装で扇屋に乗り込み、花扇という傾城(注・おいらん)を揚げ詰めにして、一か月ほど流連(注・いつづけ)する間に、持参の茶箱を開いて主人を招き、次第に接近して、ある日、扇屋の田中の茶寮で、古田高麗を実見する機会を得た。
 その時は、あたかも年末で、扇屋に金の入用があったので、折よくだんだんと相談を進め、古田高麗を千二百両、ノンコウ(注・楽家三代目道入)の初雪茶碗を八百両、あわせて二千両で譲り受けるという相談をまとめた。これが決定するやいなや、加賀作は、あらかじめ用意してあった小判二箱を扇屋に運び込み、その二茶碗を受け取るとすぐ、炉雪翁が首を長くして江戸の吉左右(注・きっそう=知らせ)を待ち受けているに違いないと、東海道五十三次を早駕籠で突きぬけ、身請けの茶碗を恋焦がれている炉雪翁の見参に供え、首尾よく、手活けの花(注・身請けして自分のものにした遊女のこと)としたのである。その後、この一部始終を聞き込んだ江戸の金持ち十人衆は、鳶に油揚げをさらわれたような気分になり、おおいに残念がったということだ。
 炉雪翁がこれほどまでに執心したこの茶碗は、白地御所丸手に属し、小堀遠州筆の箱書きに、古田高麗とあり、関西ではこの茶碗の上をいくものがないので、この一点を加えた鴻池家の宝蔵は、このこのときからさらに一段の権威を持つようになったということである。


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二百五十七   山県公の大西郷評(下巻397頁)

 大正九(1910)年の末、私は小田原の古稀庵に山県含雪公(注・山県有朋)を訪問し長時間の対談を行ったことがあった。そのときたまたま大西郷(注・西郷隆盛)のことに話が及び、公爵は「自分はしばしば大西郷に接触しては居るが、いたって寡言な人物であるから、取り立ててこれという談柄(注・話題)もない。しかし今、自分が直感した一斑を述べてみよう」と言って、次のようなことを語られたので、ここに大略を示してみよう。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)

 「自分と大西郷との初対面は、維新前数年元治元年か上国の形勢を視察するがため、毛利公の内命を受けて、京都に上ったときであった。(注・元治元年は1864年。上国とは都に近い国々。幕末の長州藩主は毛利敬親たかちか)
 このときのことを、自分は葉桜日記という記行文に書き綴っておいたが、西郷とは京都の薩摩邸で会見して、薩長連合、王政復古の意見を交換したのである。
 当時、徳川慶喜公は京都に滞留せられたが、その輔佐に、原市之進とて、なかなか有力な人物がいて、八方に眼を配っていたから、容易に事を挙ぐるを得ず、このうえ京都に滞在しても無益なりと思い、自分は近々帰国せんとして、そのことを西郷に通ずるや、西郷は毛利家に対する会釈として、自分を島津薩摩守(注・島津茂久)に謁見せしめようと言うので、とうとう同君公に謁見することとなったが、これはもちろん儀式上の挨拶だけで、胸襟を開いて意見を陳述するようなわけではなかった。
 そのとき薩摩公は自分に向かって、万事西郷吉之助(注・西郷隆盛)と小松帯刀とに委任してあるから、委細両人と協議を遂げらよと言い渡された。ところで自分は、右両人その他、当時薩摩有力家と時事について種々協議したが、そのとき西郷は、なにごとも、人事を尽くして天命を待つのほかありますまい、と言われたから、自分はさらに、その人事を尽くして成らざる時はいかにせらるる考えなりや、と問うたところが、西郷は、ただ死をもってその道に殉ずるべきのみ、と言い放って、口をつぐまれた。
  察するところ、西郷はよく人言を聞き、またよくこれを採用し、しかも一旦承認した以上は、義を泰山の重きに比して、断じてこの決心を動かさぬという流儀なれば、彼を取り巻く者に智恵分別があれば格別、不幸にして時勢を知らず、機宜を解せざる者に乗せらるれば、あるいはその方針を過(注・あやま)つことなきやと懸念されたが、他年、彼が部下に引きずられて、その終わりを全うするあたわなかったのは、まことに遺憾千万である。
 さて維新後になって、自分が西郷に接触したのは、明治三年、彼が東京を引き払って鹿児島に帰っていたときである。しかして当時の廟議は、彼を起こして陸軍大輔となし、自分を少輔となさんとするにあって、岩倉公より自分にその旨を伝えられたから、自分は非才その任にあらずとて、しきりにこれを辞退したれども、公らの容るるところとならなかったから、さらば、まず西郷に談じて、彼が就職するにおいては自分も微力をいたすこととしようとて、あたかも島津家先君(注・島津斉彬)の祭事に、朝廷より勅使を立てらるる都合であったから、自分は表面上、勅使となって鹿児島に赴き、さて西郷に面会するや、自分は劈頭第一(注・まずはじめ)に、君らは、天子の御輿を、武蔵野原中に担ぎ出したまま、これを置き去りにして、鹿児島に帰って居るということは実に不都合千万ではないかと一本突っ込んだところが、これには西郷もすこぶる参ったようで、結局彼は上京して陸軍方面の重寄(注・ちょうき。重い責任の委託)に当たることとなったのである。
 その前後、自分は彼に面接して、たびたび談話したことがあるが、彼は最も藤田東湖の為人(注・人となり)に感服せしばかりでく、ほとんど心酔というほどの崇拝者で、談東湖に及ぶ時は、彼は容を改めて、必ず先生と呼び、東湖は人に対してきわめて磊落に応答するが、切先三寸をあらわさぬ人であったと評していた。その意味は、胸中に秘略を蔵して、容易におのれの奥底を看破せられざる、底の含蓄ありということであろう。長州人でも吉田松陰をはじめ、その他水戸に遊んで帰ってきた者はおおいにその感化を受けて、藩中の子弟などより見識が一格高くなるように思われたが、薩摩においても、西郷が東湖に対してかがごとく感服していたから、水戸の学風勢力が、当時各藩に影響したところは、すこぶる多大で、王政維新は水戸がその原因をなしたといっても決して過言であるまいと思う。

 西郷は平常、大局を支配する人で、計数に当たったり、もしくは些事に立ち入ったりすることをなさず、いったん決心すれば善悪ともにこれを決行して、その責任をむなしうせず、という風の人物で、その輪郭が非常に大きく、ムックリとして要領を得ざる間に、毅然として動かすべからざる大丈夫の魂を蔵した者というべきであろう云々。」
 以上、山県公爵の大西郷に対する観察談は、もちろんその一端に過ぎないが、今日、大西郷に対する生きた証言を聞くことができるのは、山県、松方、大隈諸公のほかには、もはや幾人もいない。私はあのとき、山県公からこの談片を聞くことができたことを、非常な欣幸だと思っているのである。


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