だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

前回、森銑三翁との「なれそめ」について書こうと思ったのは、おとといの石光真清の四部作の解説が森翁の手になるものだったのを見つけて、なつかしく読み返したからだったのでした。

石光真清の、平凡な人であれば十人分に相当する豪傑一代の大長編のあらましを淡々と概観しながら、石光氏の仁義に厚く清廉な人となりを浮き彫りにした森翁の解説の筆致には、うならずにはおれません。

本編で、それまで著者といっしょに、手に汗握り、泣いたり笑ったりしてきた読者は、結局最後まで世俗的な地位を得なかった石光氏が、九十五歳の母の死をもって筆をおいた時、これでいいのだ、と爽やかな気持ちを持つ一方で、ややとまどい、もっと何かあるのではなかったか、と天を仰ぎたい気持ちに、ほんの少しだけさせられるのです。

そんなとき、森翁の解説をむさぼり読むことで落ち着きを取り戻し、やがて石光氏とともにあたたかい神の掌に包まれるような気分に浸り、やはり石光氏はいい人生を送ったのだ、と感慨に浸ることができるのではないでしょうか。内容の濃い本編のあとに、短くも、何度でも読み返したくなる味わいのある人物評と解説が配置されて、作品の重厚感が損なわれることなく四部作が完成します。

この解説になった文章は、「明治人物閑話」という、昭和40年代から50年代にかけて月刊誌などに書かれた明治時代の人物評を集めた評伝集にも所収されており、そこでも目にすることができるのですが、つい最近森翁の著作が何点もあいついで中公文庫で復刊され喜んだのもつかのま、こちらはすでに絶版になってしまっているようです。

森翁の著作の数々は、これから日本語が存在する限り読み継がれるべき内容と格式を備えており、できれば著作全集を電子書籍版で作っていただき、絶版のないようにしていただきたいと願います。もっとも、古書でなら、いくらでも手にはいるのですから、いっそのこと文庫本ではなく、版の古い単行本を探してみるというのもよいかもしれません。

今日現在、新刊で手にすることのできる森銑三翁の著作は、岩波文庫「明治人物夜話」という別の人物評伝集と、翁の地道詳細な研究から、井原西鶴の真作は好色一代男ただひとつであると断定した問題作「井原西鶴」ほか数点のようです。「明治東京逸聞史」は、平凡社東洋文庫にはいっています。

岩波文庫の「夜話」のほうは、中公文庫の「閑話」とは何篇かの重なりはあるものの、大部分の内容が違いますので、両方持っていても、それぞれに楽しむことができます。 ほかにも、「渡辺崋山」のような長編や、こども向けに書かれた江戸時代の科学者列伝である「おらんだ正月」など、森翁の人物評伝は無数にあり、名前をきいても知らない対象も大勢いるのですけれど、翁のセンサーにひっかかってきたくらいの人物なのですから、なにかふつうとは違う見どころがあった人々にちがいません。後世において忘れられてはならない人も、いまなお再発見されるのを待っているかもしれません。

そうした人を探し出す喜び、しかも、そのような人たちについて、森節の抑制のきいた文章で読むことができるというのは、最上の読書の贅沢ではないでしょうか。


森銑三という聞き慣れぬ名前を、わたしの脳みそのひだに刻みつけることができたのは、「紙つぶて」という、辛口で知られる書評集を読んだときのことだった。

わたしの読んだ「紙つぶて」は、1986年の文春文庫版で、著者の谷沢永一が「銀」という匿名で、昭和44年3月から読売新聞大阪版で週一連載した139篇の書評コラムと、名前を明かしてから別のいくつかの媒体で書き続けられたすべてをまとめた、455篇から成っている。

一篇600字という限られたスペースのなかに、本好きの読者に的確な指針を与える最新情報を盛り込むということで、あいまいな美辞はなし。称賛にせよ、批判にせよ、評は単刀直入で、人の目につかずともよい仕事をした者には簡潔な賛辞を惜しまず、安易な仕事をしたにもかかわらず浮かれている者には、背筋も凍りそうな鉄拳をいとわないスタイルは、痛快無比。書評の基本であるべきなのだろうが、ここまで徹底しているものには、なかなかお目にかかることはできない。

くどくどした説明なしにそこまで断言できるためには、センスのよい判断力や、筆力もさることながら、よほどの読書の蓄積がなければならない。著者の博識が、豊富な読書に裏打ちされていることは、コラムで扱われているのが、一般的な単行本や新聞、雑誌だけでなく、辞典、大学の紀要、官公庁の機関紙、企業のPR雑誌にまで及んでいることからもうかがわれる。また全集、大系と名のつく出版物に関しては、月報にいたるまで、すべて目を通していることは明らかで、良し悪しへの鋭い言及には舌を巻く。

そのときどきの出版情報に目を光らせ、厳選した話題を提供するのみならず、著者の頭の引き出しにぎっしり詰まっている過去の読書情報をさらっと織り交ぜるのも常套手段。話題に厚みが加わって、時評エッセイにもなっていることが、時を経たいまなお、あたらしい読者を喜ばせる理由だろう。

このような辛口でキリリとした批評のなかにあって、繰り返し称賛され、またときに批判もされていたのが、書誌学者としての森銑三の業績の数々だった。

森銑三。これまでに名前を一度もきいたことがない人、なのに舌鋒するどい「紙つぶて」のなかに異例なほど頻出する物知りの人、谷沢氏をつかんで離さないこの人はいったい何者なのだろうか。
そんな疑問を抱いたことが、森銑三翁の書物と出会う幸運につながった。





「明治・父・アメリカ」(星新一)の新潮文庫解説の冒頭に、小島直記氏がこれまで読んだ印象深かった自伝として、下の五つが紹介されていました。なお、解説者は別の誰かだったと思いますが、あいにく友人に借りて読んだ本なので今確かめることができません。

     「福翁自伝」
     「河上肇自叙伝」
     「高橋是清自伝」
     石光真清「城下の人」
     杉山茂丸「百魔」

最後の「百魔」以外は簡単に手にはいることですし、伝記や自伝好きの方にはもちろん、そうでない方にもぜひ読んでもらいたいものだと、わたしも同感しきりです。(「百魔」も、あるブロガーによるウェブでのタイプ公開作業が完結している)

なかでも、「城下の人」、その続編となる「曠野の花」「望郷の歌」「誰のために」は、日清日露戦役のころの、帝国主義の大海に浮かぶ木の葉のようだった日本を、大陸の諜報活動で支えたひとりの男の呟きの記録で、舞台のスケールの大きさといい、何度も訪れる危機において筋を通す潔さといい、胸がすっとして、痛快そのものです。

晩年に著者みずからの手で火中に投じられそうになっていたのを、家族によって守られ、のちに子息の石光真人氏によってまとめられたものだそうです。よくぞ残してくれたものだと思います。

石光真人という名前には憶えのある方もあるかもしれません。

そう、戊辰戦争後の会津藩の辛酸について書かれた名著、柴五郎「ある明治人の記録」の編者の名前です。

真人は、柴五郎の手記だけでなく、自身の父親の遺稿も整理して後世に残してくれた、功労の人だといえましょう。

石光家と柴家の関係が、「城下の人」のなかで明らかにされていて、そういう関係があったのかと納得しました。

すなわち、真清の父である石光真民の、実弟にあたる野田豁通(ひろみち)が、東京の自宅で、柴五郎を書生として住まわせており真清とも親交があったのだそうです。

野田は、熊本藩士石光家に生を受け、同じ藩士の野田家に養子となり、幕末の戊辰、箱館戦争には官軍として参加したのち、陸軍の経理畑で活躍し、男爵にまでなった人物。

出身が官賊かどうかで人を区別をしない大人物だったようで、柴五郎が書生になったというのも、そのあらわれだったのでしょう。野田が弘前県参事になったことが発端だったのか、と思われます。

熊本の実父亡きあと、このような、人間的にも大きく、世間的にも成功している叔父に、若き東京時代、なにかと面倒を見てもらうことになった真清にとって、野田は、超えるにせよ、壊すにせよ、大きな壁として存在し続けたのではないでしょうか。

この「城下の人」にはじまる一連の手記は、一本筋の通った男の人生譚ではあるものの、世間的な脚光を浴びることの少なかった冒険野郎の一代記という見方もでき、本人がそれを火にくべてしまおうと思った気持ちが、その辺にあるのかもしれない、とも思えるのです。

外野から見れば、まして100年後の凹凸のすくない時代の日本から見れば、やりたいことをやって燃焼した「自分さがし」の大成功者の、英雄的で男も惚れるようなイカした人生の軌跡なのですが、本人のなかでは本懐は別のところにあり、忸怩たる思いもあったのかどうか・・・。

どちらにせよ、わたしは爽快な読後感を得ました。

勇気と信念があれば、一回の人生だけで、こんなにたくさんのことができるという、たしかな実例です。

真人氏の監修が行われたにせよ、書かれたこまかい日時がすべて正確であったとは到底信じられず、切れ切れの記憶をつなぐための物語的な部分も含まれているはずですが、そうした「はったり」めいた部分も、この豪傑の人生にはふさわしいと思えます。



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